2015年03月08日

【本】高木俊朗「憤死 −インパールW−」

「憤死 −インパールW−」 高木俊朗/文春文庫/1988年
(単行本は、1969年に文藝春秋から刊行)

 インパール作戦に参加した3個師団の一つ、第15師団(祭兵団)の戦いを、主に師団参謀長・岡田菊三郎少将の視点から描いた作品。

 元々充実した戦力を持ちながら、砲兵連隊、工兵連隊、輜重兵連隊などを転用され、わずか歩兵5個大隊(しかも、各大隊とも定数を大幅に割り込む兵数)でインパール作戦を戦わなければならなかった、祭兵団の過酷な戦闘経過を追った一書である。岡田少将の証言を基に、第15軍だけでなく、山内正文師団長の作戦指導や人材運用もしばしば批判的に描いている点が特徴的である。ただ、軍上層部の無謀な作戦が山内中将の命を削り、ついには「憤死」を招いた事実を踏まえれば、あまり山内中将を責める気にはなれない部分もある。

 インパール作戦に参加した他兵団と同様、祭兵団も、第15軍の無茶苦茶な命令に苦しめられた。軍の指導が支離滅裂なものとなった原因の一つとしては、軍司令部が、前線の実態をおよそ正確に把握していなかったことが挙げられる。長くなるが、作戦当時の軍司令部の様子について、本書から以下のとおり引用する。


「第十五軍司令部がメイミョーにいることは、第一線部隊に非難され、悪評になっていた。牟田口軍司令官は連日、第一線の師団に電報で叱咤激励し、また、実情を無視した、不可能な要求をした。このため、第一線部隊に“軍は何をいうか。戦線から四百キロ以上離れたメイミョーにいては、実情はわからない”という不満をもたせた。その不満は次第に高まって、感情の対立にまで発展した。
 インパールの戦況が悪化すると、さすがに第十五軍もメイミョーにいられなくなった。インパール占領を公約した四月二十九日の天長節(天皇誕生日)は目前に迫ってきた。第十五軍はチンドウィン河を越えて、インダンジーに出ることになった。牟田口軍司令官、久野村参謀長などの首脳部が、メイミョーを出発したのは四月二十日であった。これは弓師団の作戦発起以来、四十四日目であった。
 この四十四日の間、第一線では惨戦惨敗がくり返されたが、メイミョーでは戦場とかけ離れた日課がつづいた。第十五軍司令部の勤務は、夕方五時の定時に終った。そのあと、幹部将校は酒と女の遊びにふけった。その、同じ時刻に、第一線では夜襲死闘をつづけていた。
 牟田口軍司令官は豪壮な洋館を官邸にしていた。その庭に小道があり、衛兵が二十四時間、立哨していた。その小道をくだると、晴明荘という料亭に通じていた。牟田口軍司令官は夜ごと、ゆかたを着て晴明荘にかよった。酒と女に対する欲望に飽きることのない人であった。
 晴明荘について、報道班員としてきていた、朝日新聞社の成田利一記者は、次のように書いた。

≪メイミョーというところは、マンダレーを小田原にたとえると、ちょうど箱根の強羅か仙石原あたりに相当する。蚊も蠅も少ない清潔な町で、英国人の高官や富商の別荘が緑濃い森の中に点々と散在し、幅広い自動車道路が森の中を縦横に走っている。市場や印度人、中国人の商店街も物静かだ。
 こんな住みよい土地に、軍司令官はじめ全幕僚達は、広々した別荘を一軒ずつ私邸として構え、副官や当番兵にかしずかれて貴族のような生活を続けていた。
 西洋館のガッチリした建物に入ると、大工出の兵隊達が腕をふるって、内部はすっかり日本座敷に造作変えされ、床が上げられ、床の間や違い棚、丸窓まであるといった数寄屋造りである。司令部から我家に帰り、長靴を脱いで、座布団にドッカと大あぐらをかけば、まずまず天下泰平の図だ。当番の汲んで出す茶を飲み、一風呂浴びると夜は宴会、高級車で料亭へ横づけだ。ここの料亭も御多分にもれず大阪付近の遊郭からはるばるやって来た慰安婦たちの一行である。
 牟田口軍司令官から晴明荘という名前を頂戴して、大きな別荘をもらい、そこをたくさんの小座敷に作り上げて、将校専門に酒色のサービスをしたのである。
 兵隊さんはもちろんオフリミット、高級車の運転台で、お座敷の放歌高吟を遠くに聞きながら主人のお帰りを待つだけである。酔った将校たちはよく「上野駅から九段まで……」の歌を三味線に合わせてうたっていた。
 情報の藤原岩市参謀などはこの歌が十八番で、手ぬぐいを姉さんかぶりにして、哀れな軍国の老婆の振りつけよろしく、なかなか見事に踊った。
 内地では婦人たちがモンペに火たたき装束で女らしい生活をかなぐり捨てている時に、メイミョーの晴明荘ではパーマの女たちが美しく化粧し、絹物の派手な着物に白たび姿で「おひとつどうぞ」と酌に出て来る。板前の腕は大したこともないが、盛りつけの器類は皆内地から運んだ立派な皿小鉢だ。弾丸を運ぶべき船で、自動車で、よくもこんな皿小鉢をここまで運んだものだとびっくりする。こうした環境の中で第十五軍の首脳者たちは大作戦の構想を練っていた。(後略)≫」


 これに対して、インパール戦線崩壊後、ジャングルの中で豪雨に晒され、飢餓と病に苦しみながら退却をつづけた、第一線部隊の様子を以下に引用する。第二野戦病院、高橋新吾少佐の手記。

「七月二十六日。きょうも朝から救出に出かけた。前日収容できず、粥だけ与え、明日収容にくるからといいおいた患者たちのなかには、粥を半分食べたまま息絶えている者もいた。あるいはまた、泥んこ道に車輪をめりこませたトラックの姿を認めて、近よって見れば、その中には屍体が折り重なって横たわり、車から下りて水を飲もうとしたのか、車の傍の水溜りに顔をつっこんだまま死んでいる兵隊もいた。これらの腐敗しかけた屍体が雨に濡れて、あたりに異様な臭いを漂よわせていた。この痛ましい姿もさる事ながら、もっと痛々しい光景を私は見た。本部から二キロほど離れた密林の中に二十数名の兵隊達が円陣をつくって死んでいた光景である。その中には最近手榴弾で自爆したと思われる生々しい屍体がいくつもあって、首、手、足が散乱していた。円陣のなかほどに三十センチぐらいの高さの切株があって、一人の兵隊が腰かけている。彼はロダンの考える男に似た格好を取り、じっと動かない。私はこの兵に近づき、収容に来た旨を告げ、周囲の屍体について尋ねた。この骸骨のように痩せ衰えた兵隊がかすれた声で答えたことを総合すると、みんな同じ中隊の兵で、九州出身(烈兵団)の者だが、二十日余りここにいる。病気と空腹で歩こうにも歩けなかったのだ。日がたつにつれて一人死に二人死に、きのうまでで五名に減った。けさ五名の中の四名が自爆したので、自分独りになってしまったと云うことである。

「お前だけがどうして自爆を思い止まったのか」
「班長殿が自分を下士官に推薦してくれましたので、下士官になるまで死んではならないと思って頑張っていました」
「そうか、そうか、よく頑張って生きていてくれたな。もう心配するな。わしたちが助けてやるぞ。今、粥を持って来るからそれまで待っておれよ」

 吾々の班は一人当たり八個の飯盒に粥を一ぱい入れて持ってまわったのであるが、途中途中の患者に分配してきて、全部が空になっていた。私が急いで本部に引帰して粥を持ってもどってきた時、それは僅か一時間余り経過したに過ぎなかったのに、その最後の兵隊も息絶えていた。鬼哭啾々とは正にこの全滅した九州男子にむかって捧げる言葉であろう」


 さまざまな高級軍人たちの経歴を見ていると、下級将校や下士官の子息、あるいは農家や商人の次男坊、三男坊以下の者たちが結構多い。たとえ貧しい出自の者であっても、努力次第で軍人として大いに出世できる、そうした軍組織の階層流動性は高く評価すべき点だろうと思う。ただ、刻苦勉励して佐官、将官に昇進したはずの者たちが、第一線の苦労も顧みず享楽に耽る有様には、一体どういうことなのかという思いを禁じ得ない。扱い慣れない権力を手にして、なお自制することの困難さを示す一例と言うべきだろうか。

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2015年02月15日

【本】高木俊朗「全滅 −インパールV−」

「全滅 −インパールV−」 高木俊朗/文春文庫/1987年
(単行本は、1968年に文藝春秋から刊行)

 インパール作戦後期に前線に投入され、軍上層部や参謀の体面維持のために無謀な攻撃を強いられた部隊の、苦闘と壊滅の模様を描いた作品。高木俊朗のインパール四部作の第三作。

 既にインパール作戦の失敗も明白になりつつあった、昭和19年5月。第33師団(弓兵団)が担当していたニンソウコン(ニントウコン)方面の戦線を強化するため、戦車第14連隊(長:井瀬清助大佐)、歩兵第67連隊第1大隊(長:瀬古三郎大尉)、歩兵第154連隊第2大隊(長:岩崎勝治大尉)などの部隊が相次いで増援された。戦車連隊長の井瀬大佐がこれらの部隊の指揮を執ったため、この混成部隊は「井瀬支隊」と総称された。

 ところが、膠着した戦線の打開を焦っていた弓兵団参謀は、逐次前線に到着してくる井瀬支隊の各部隊を、敵情を視察する暇すら与えないまま、無理やり敵陣地に突っ込ませ続けた。その結果、昼夜兼行でようやくニンソウコンに辿り着いた将兵たちは、少人数のまとまらない部隊のまま無茶な突撃に駆り立てられ、圧倒的に強大な英印軍の前で、次々に死傷者の山を築いていくのだった。

 こうした参謀の無謀な攻撃命令の真意を、戦車連隊本部付の中村達夫大尉は、以下のように推測している。

「『師団はずるいと思います。井瀬支隊が一マイルでも二マイルでもインパールに近づけば、師団がそれだけ前進したことにして、十五軍に報告したいのです。だから、せっかくポッサンバン(注:ニンソウコンの北の集落)まで行ったのを撤収するのはおしいという腹なんです』
 中村大尉は師団の堀場参謀の支離滅裂な要求を、そのように読みとった。
『連隊長殿、この南道上には、師団の直属の部隊は一兵もおらんのですよ。井瀬支隊といえば、ていさいはよいが、配属部隊の寄せ集めです。師団の直属部隊は全部山岳地帯にあがっています。こんな泥沼みたいなところに、戦車をだしても、どうにもならないことは、堀場参謀は知っていますよ。戦車出身の参謀ですから。戦車はインパール突入の時以外は、もう、役に立ちません。それでも戦車をだしておけば、泥にうまって動けなくなっても、師団としては「戦車連隊は本道上をインパールに向い突進中なり」と、軍に報告ができます。結局、配属部隊を犠牲にして、功名手柄だけは自分のものにするやり方です』」

 度重なる強引な攻撃で死傷者続出した井瀬支隊は、結局、7月中旬までニンソウコンの死守を命じられ、弓兵団撤退の捨て石にされて、ほとんど全滅状態に追い込まれた。著者の作品としては、昭和24年に刊行され、インパール作戦の悲惨さを世に知らしめた「インパール」や、第31師団(烈兵団)の佐藤師団長の抗命撤退を取り上げた「抗命 −インパールU−」が有名だが、インパール戦線で最後まで戦った井瀬支隊の、惨憺たる戦闘経過と最期を緻密に描いた本書も、強い印象を残す一作である。

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2015年01月12日

【本】尾上太一「島を愛す 桃岩荘/わが青春のユースホステル」

「島を愛す 桃岩荘/わが青春のユースホステル」 尾上太一/響文社/2011年

 北海道礼文島のユースホステル、桃岩荘をテーマにした写真集。1999年から2010年にかけての写真71点を収録。全編モノクロ。

 旅人たちの間で広く知られた宿、桃岩荘を取り上げた写真集である。この桃岩荘は、かつての「ユースホステル文化」を色濃く残している宿で、昔ながらのミーティングや、スタッフ・宿泊者一体になっての歌と踊り、港での盛大な出迎え・見送りなどを今も続けているのだそうだ。その有り余るエネルギーから、「北海道三大きちがいユース」の一つに数えられた時代もあったようで、youtubeに多数投稿されている見送り動画(たとえばこれ)を見ても、その個性的な様子は十分に伝わってくる。

 こうした桃岩荘のバイタリティとは対照的に、本書は、極めて静かな雰囲気をたたえた写真集である。礼文島の海と空、静寂に包まれた浜、オフシーズンの建物群などを、そっと穏やかに切り取ったような写真の数々が、丁寧に収められている。本来賑やかであるはずのミーティングや見送りの場面も、まるで遠い日の大切な思い出であるかのような、懐かしい佇まいを見せた写真に仕上がっている。旅の最も美しい瞬間、永続しないものだけが放つことのできる輝きを、著者はその鋭敏な感性で見事に捉えている。

2015年01月11日

【本】是枝裕和「雲は答えなかった 高級官僚 その生と死」

「雲は答えなかった 高級官僚 その生と死」 是枝裕和/PHP文庫/2014年
(「しかし…」(あけび書房/1992年)、「官僚はなぜ死を選んだのか」(日本経済新聞社/2001年)を改題・加筆修正したもの)

 水俣病訴訟をめぐって、患者側の要求を拒否し続けなければならない役割を負わされた官僚が、良心との板挟みに苦しみ、ついに自殺するまでを追ったノンフィクション。

 1990年に自殺した環境庁企画調整局長、山内豊徳の生涯を描いた作品である。私が初めて彼のことを知ったのは、20歳前後の学生の頃だった。将来の進路にずいぶん迷っていた時期に、彼について書かれた本を読んで、こんな良心的な官僚がいたのかという驚きと、霞ヶ関という非情な世界への不信感を強く感じたことを覚えている。

 その後、彼と同じ大学・学部を卒業し、結局彼と同じ界隈に奉職して、十数年が経った。いま改めて本書を読んでも、山内氏が遂に失うことのなかった純粋さ、自らの仕事に対する誠実さに深く感銘を受けるし、それに比べて自分はどうか、と考えると忸怩たる思いに駆られる。ただ、その一方で、彼の行動にはところどころ極端な部分が見え隠れするようにも思えた。

 例えば、てんかんについて何ら福祉対策がとられていないことに疑問を持った山内氏は、厚生省障害福祉課長時代に、所管外であるにもかかわらず、課の部屋全体にてんかん協会のキャンペーンポスターを貼り巡らせたという。これは確かに素晴らしい心意気だと思うけれど、本来この課が手を差し伸べなければならない団体はたくさんあるはずだし、そうした団体への支援は慢性的に十分ではないはずである。そんな団体の人々がこの図を見たら、ちょっと違和感を覚えるんじゃないかな、という点は気に掛かった。

 また、水俣病訴訟に際して、担当局長の彼が原告団に和解勧告拒否の説明を行った後、原告の代表者に駆け寄って「分かってください」と頭を下げる場面がある。これも、山内氏の良心の表れとしてしばしば引用されるエピソードだけれど、あえて厳しい言い方をするならば、原告団の要求に全く応じられない以上は、その批判は黙って引き受けなければならなかったのではないか。頭を下げずにはいられない彼の気持ちは非常によく分かるし、個人的にはひどく共感するのだけれど、世の中には、そうした態度で簡単に救われようとしてはいけない種類の責任もあるのではないかと思う。

 思うに、こうした彼の姿勢は、その生い立ちに由来する側面があるのではないだろうか。幼いころに父親が戦病死し、母親は家から追い出され、彼は非常に厳格な祖父の下で育ったのだという。親から十分な愛情を受けることもなく、厳しい祖父の要求に応えなければ安定した生活が保障されなかったであろう少年期の家庭環境が、彼に対して、相手の要求にやや過剰に応えようとする人間性と、そうしなければ自分の生存基盤が脅かされるという漠然とした恐怖感を植え付けたのではないか。推測でしかないけれど、なんとなくそんなことを感じながらこの本を読んだ。

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2014年12月23日

【本】岩川隆「人間の旗 甦った血と涙の連隊旗」

「人間の旗 甦った血と涙の連隊旗」 岩川隆/光文社文庫/1985年
(初版は、1983年にカッパ・ノベルスから刊行)

 太平洋戦争時にレイテ島、セブ島で戦った歩兵第57連隊の将兵が、終戦直後に連隊旗をひそかに細断して日本へ持ち帰り、戦後三十余年を経て旗を復元するまでの経緯を描いたノンフィクション。

 日本陸軍の精鋭師団として名高い第1師団(玉兵団)は、昭和19年、1万3千名の兵力でフィリピン・レイテ島に上陸した。そして、機械化された強大な米軍を相手に、実に50数日にわたりリモン峠の激戦を繰り広げたが、遂に矢尽き刀折れてセブ島へ撤退。戦後日本へ生還することができた師団将兵は、わずか500名に満たなかったという。

 この第1師団は、歩兵第1連隊(東京)、第49連隊(甲府)、第57連隊(佐倉)の歩兵3個連隊ほかの部隊から構成されていたが、各歩兵連隊にはそれぞれ、天皇の分身とされる軍旗(連隊旗)が与えられていた。敗戦後、各地の陸軍部隊は、連合軍に投降する前に軍旗を焼却処分したが、伝統ある軍旗の奉焼を潔しとしなかった第1師団では、3本の連隊旗(長年の歳月を経て、旗の生地の部分は失われ、房の部分だけになっていた)を細かく裁断し、連隊本部の将校・下士官などに託して、ひそかに日本へ持ち帰らせたのだった。

 そして一部の将兵は、連隊旗の切れ端を無事に故国へ持ち帰ることができた。これらの細片を、第1連隊は自衛隊練馬駐屯地に展示し、第49連隊は山梨の護国神社に奉納したが、千葉県全域を補充担任地とし、郷土部隊の気風が強い第57連隊では、旗を復元すべしとの声が湧き起こった。本書は、旗の復元運動に携わった元将兵たちの、戦中・戦後の足跡を丁寧に追い掛けたノンフィクションである。

 本書の中では、連隊旗の復元にかける戦友会の情熱や、採算度外視で旗の修復に挑む職人たちの奮闘が鮮やかに描き出されていて、読む者の心を打つ。と同時に、あの戦争への嫌悪から、旗の復元に強く反対する元将校の意見にも目配りがされている。どの人物も一様に平和を希求しながらも、それぞれの戦争体験や人生観の違いから、旗をめぐる姿勢や旧軍への評価に乖離が生じていく様子には、いろいろと考えさせられるものがあった。

posted by A at 19:51| 本(戦記) | 更新情報をチェックする