2015年12月27日

【本】奥村明「セレベス戦記」

「セレベス戦記」 奥村明/図書出版社/1974年

 太平洋戦争当時、セレベス島(現・スラウェシ島)の守備についていた陸軍少尉の従軍記録。

 元々西部ニューギニアの海上機動第2旅団に配属される予定だったが、戦況悪化のため赴任できず、蘭印のセレベス島守備隊に回されて終戦を迎えた著者による戦記である。セレベス島には終戦まで連合軍の上陸はなく、著者も敵兵と戦闘を交える機会はなかった。ただ、戦況の変化に伴う守備位置の変更のため、著者はセレベス島の北から南まで移動させられ、実に3,000km以上の距離を歩かされることになった。そうした苦難の行軍の中で、著者が自分の小隊から死者を出さなかったのは、彼自身の臨機応変な部隊指揮が当を得たためでもあるのだろう。

 著者が命の危険にさらされたのは、むしろ戦争終了後のことかもしれない。「死の草原」と呼ばれた灼熱のマリンプン草原を横断し、ようやく辿り着いたマリンプン俘虜収容所では、同じ日本人の食糧管理隊や炊事班のピンハネのせいで将兵には十分な食事が行き渡らず、栄養失調による死者・病人が続出した。さらに、捕虜の監視に当たったアンボン兵(セラム諸島・アンボン島出身の黒人兵)の、敵意に満ちた虐待にも苦しめられた。とあるアンボン兵が日本人を激しく恨むに至った経緯を、著者は以下のように記している。

「「軍曹にとっては、日本軍は恨み骨髄に徹しているんだ」と、原大尉は私をなだめて、つぎのように軍曹の来歴を語った。
 アンボン軍曹は、かつてオランダ軍の俘虜として、日本へ送還され、三年半服役したのち、セレベス収容所へもどった組である。日本内地での軍曹は、日本鋼管川崎工場、新潟鉄工所などの軍需工場で、強制労働をさせられた。囚人として鞭打たれ、徹夜作業を強制されながら、小芋二個しか与えられなかった。直立不動の姿勢でビンタを食い、「目ん玉をキョロキョロ動かすな」とどなられ、たたきのめされた。あまりの辛さに、かれは何度自殺を考えたか知れなかった。日本語の「目ん玉……」云々は胸にやきついて離れなかった。同僚のアンボン下士官十名のうち、三名が死亡した。
「終戦で解放された軍曹は、日本軍に復讐せずにはいられないのだ。怨念の悪魔と化している。ま、因果はめぐるだね」」

 太平洋戦争後、東南アジア諸国が独立を果たすことができたのは、確かに日本軍の進攻が一つの契機になったのだろう。ただ、さまざまな戦記を読んでいると、捕虜や現地住民を残酷に取り扱った日本軍民の姿が、どうしても少なからず目に付く。そのような、ある種の勘違いをした人々の醜悪な振る舞いが、著者のような、虐待とは無縁な人物に跳ね返ってくる有様は、戦争の不条理さの一端を示すものであろう。


(補記)セレベス島守備隊について
 連合軍の攻勢正面となり、決戦地域になると考えられていた濠北地域には、昭和18年頃以降、次々と陸軍兵力が投入された。主なものとしては、西部ニューギニアのサルミ・ビアクで死闘を繰り広げた第36師団をはじめ、ソロンの第35師団・海上機動第2旅団、ハルマヘラ島の第32師団、スンバワ島の第46師団などがある。その中で、濠北作戦を統括する第2方面軍の司令部が置かれたセレベス島は、「昭和19年8月の時点では、(中略)北東部に二万、南部に一万余の兵力をもって防備していた。海軍は南北にそれぞれ約五千の兵力を配備しているだけで、陸軍が主力になっていた」(奥村書)という守備態勢であった。

 ただ、セレベス島の旅団単位以上の陸上部隊としては、昭和19年6月に新編された独立混成第57旅団(長:遠藤新一少将)があるのみであった。この旅団も、歩兵4個大隊がマニラからセレベスへ輸送される途中で海没、2個大隊が同じく輸送途上で船舶が故障してホロ島に漂着した上、10月にボルネオ島東岸のタラカンへ転用。さらに、海没の欠を補うため1個大隊が追派されたものの、途中セブ島に滞在していたときに米軍がレイテ島に上陸し、急きょレイテ島の戦いに投入された(いわゆる天兵大隊)。結局同旅団は、収容できた海没将兵やその他の人員からなる歩兵4個大隊を基幹として編成されたのだという(戦史叢書「捷号陸軍作戦1 レイテ決戦」による)。

 このため、セレベスに約4万の兵力があったと言っても、その過半は後方部隊や、臨時編成の歩兵部隊、航空軍の残置部隊などだったのではないかと思われる。上級司令部が置かれていた割には、守備兵力は雑多な混成部隊であり、戦力としては手薄だったのではないか。ただ、連合軍が上陸したモロタイミンダナオボルネオのいずれからも後方にあったセレベスは、結果的に敵の来攻を受けることのないまま、終戦を迎えることができた。

(後日追記)
 この戦記の末尾に、独立混成第57旅団の簡単な行動経過が記載されていたので、合わせて紹介しておく。
 また、「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」に収録された「西部ニューギニアの全般作戦」という手記(著者は了戒次男・元第2軍高級参謀)に、昭和20年7月にセレベス島シンカンで撮影された第2軍首脳部の写真が掲載されており、ここに「特設旅団長・山本大佐」という人物が写っている。現地駐在部隊を基に、特設旅団が編成されていたのだろうか。


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2015年11月21日

【本】スピッツ「旅の途中」

「旅の途中」 スピッツ/幻冬舎/2007年

 ロックバンド・スピッツのメンバー4人が、生い立ちからバンド結成、売れない時代、90年代中盤の大ヒットを経て、安定期に入るまでの経緯を振り返った本。

 スピッツのメンバーたちが、自らの来し方を綴った本である。彼らの著書としては、既に「スピッツ」(2001年、ロッキングオン)があり、この本には過去の音楽雑誌の記事やインタビューなどが収録されていて、その当時のバンドの雰囲気が感じられる内容になっている。これに対して、本書「旅の途中」は、2007年時点でのメンバーの記憶を辿りながら、彼らの歴史を振り返った本であり、バンドの足跡をやや俯瞰的に眺めるような構成に仕上がっている。

 本書に盛り込まれたエピソードの数々は、ファンにとっては新鮮な驚きとなるものも少なくないが、個人的に印象に残ったのは、1995年の「ロビンソン」(動画)のヒットにまつわる逸話だ。デビュー以来、スピッツはオリコンの100位チャートにさえ載らない低空飛行が続いたものの、ようやく5枚目のアルバム「空の飛び方」が14位に入った。そして、ボーカルの草野マサムネ自身が「これがスピッツのアルバムが最高に売れた状態だ」と満足し、「そこそこは売れても、ベストテンをにぎわせるようなヒット曲は出ないだろう。それがスピッツらしいポジションだ」と自らの立場をわきまえていたころ、シングル「ロビンソン」が162万枚の大ヒットを記録したのだった。

 このヒットが出たときのエピソードを、草野は次のように綴っている。

「「ロビンソン」が売れているかどうか、渦中にいる俺らにはいまいちピンときていなかった。「ロビンソン」が売れたことを実感したのは、夏の野外イベントのときだ。大阪の万博公園の<FM802 “MEET THE WORLD BEAT’95”>と、福島の<COMING POP’95 “WIND PARK−NARAHA”>に出演したとき、俺たちが「ロビンソン」を演奏したら、数万人のお客さんたちの大合唱になった。あのときは鳥肌が立った。
 ――ほんとにヒットしたんだ」

 「いつものスピッツの、地味な曲だなあ」(草野)という「ロビンソン」でヒットを掴んだことは、彼らにとって、極めて大きな意味を持ったのではないかと思う。自分たちのスタンスを枉げて、無理に売れ線を狙った曲作りをすれば、一時的なヒットを獲得することはできるかもしれないが、魅力的な曲を長く作り続けることはきっと難しかっただろう。途中で色々な試行錯誤はあったものの、結局、自分たちの基本的な姿勢を変えずにヒットに辿り着いたことが、このバンドの息の長い活躍につながったのではないだろうか。

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2015年10月04日

【本】栗原裕一郎「〈盗作〉の文学史」

「〈盗作〉の文学史」 栗原裕一郎/新曜社/2008年

 明治以降の日本文学における盗作事件を幅広く収録し、分析・検証した本。日本推理作家協会賞受賞。

 著者自ら国会図書館に通うなどして拾い上げた古今の盗作事件を、詳しく紹介するとともに、その経緯や背景などを解析した本である。ハードカバー500ページ弱の大変な労作であるが、著者の解説が分かりやすく、かつ面白くて、スムーズに読むことができた。それにしても、これだけの資料を捜索・集積するには、相当な手間と時間がかかったのではないかと思う。「日本文学盗作史」としての本書の資料的価値も、大いに評価すべき点であろう。

 紹介された様々な盗作事件について読んでいくと、創作の苦しみから無意識のうちに他書を引き写してしまったのだろうかと思えるものから、他の作品をほぼそのまま丸写しし、間違って文学賞を受賞してしまった挙句、「受賞の言葉」まで他人のものを丸パクリした大胆な事例まで(賞は当然取り消し)、色々なケースがあって興味深い。その中から、盗作と評価すべきかどうか微妙な事案として、庄司薫の例について考えてみたい。

 本書でも触れられているように、庄司の代表作「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の模倣ではないかという認識が広く浸透している。その根拠としては、1969年9月2日付の東京新聞の特集で三浦清宏・明大助教授(当時)が指摘しているような、「文体」「数字を具体的に挙げる技法」「「電話に出てくるママ」のようなディテール」「「狂気と童心」の対置」「プロット・人物造形」などといったポイントに関する類似性が挙げられるのだろう。

 そして、これらの相似傾向に鑑みれば、そうした技術的な手法を、庄司がサリンジャー(及びその野崎訳)から借用した側面が全くなかったとは言いづらいのかもしれない。ただ、著者や高田里惠子(「グロテスクな教養」ちくま新書、2005)が「薫くん」のエリート性について言及しているように、この「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、「(エリートの)男の子いかに生くべきか」という、ある特殊な階層の若者の人生論といった色彩を濃厚に持つ作品である。この点、成績不良で学校をドロップアウトした少年の彷徨を描く「ライ麦畑でつかまえて」とは、その主題や射程を異にする作品と見るのが自然ではないかと思う。

 そうした事情を踏まえて考えてみれば、庄司の「ただぼくの作品を読んでいただきたい」という反論は、作品の技法論などというテクニカルな(つまり、非本質的な)部分ではなく、両作のテーマ性の大きな違いに着目するよう訴えたいものであったのかもしれない。一方で、彼の反論が妙に抽象的かつ感情的であったのは、批判に対する有効な抗弁材料を持ち合わせていないことを、彼自身が自覚していたためではないかな、というような気もした。

 いずれにせよ、刊行から40年以上を経てなお批評が絶えないという事実は、この「赤頭巾ちゃん気をつけて」という作品が持つ影響力の強さを雄弁に物語るものであろうと思う。そして、本書「〈盗作〉の文学史」は、この作品に関する論評を精力的に採録・分析しており、その充実した論考は一読に値するものである。

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2015年09月12日

【本】込山富秀「「青春18きっぷ」ポスター紀行」

「「青春18きっぷ」ポスター紀行」 込山富秀/講談社/2015年

「学校を卒業すると、春は黙って行ってしまうようになる。」

 春、夏、冬の一時期、JRの駅に、ローカル線の美しい風景を捉えたポスターが貼り出される。JRの普通列車を乗り放題で利用できる切符、「青春18きっぷ」の広報ポスターである。1990年夏から2015年春までの期間に使われた、この秀麗なポスターの数々を、一冊の写真集としてまとめたのが本書である。

 本書に掲載されたポスター群を眺めると、そこに収録された日本各地の明媚な風景や、森や川や海の情景の美しさが、見る者に鮮やかな印象を残す。また、鄙びた駅のホームや、風吹く海岸の線路脇などに配置された旅人の姿を見ると、自分自身もそこを訪ねてみたいという強い衝動に駆られてしまう。毎日利用する味気ない駅で、このような旅情に溢れたポスターを見せつけられるのは、正直、ちょっとした目の毒である。

 また、そうした風景の美しさとともに、これらのポスターを名作品たらしめているのが、写真に添えられた珠玉のコピーであろう。冒頭に掲げたのは、1999年春のポスターで使われた、個人的に最も好きなコピーである。旅の世界への憧憬、まだ知らない風景への期待を、あの頃の自分は確かに持っていたはずだった。そうした瑞々しい感情も、社会人として働く中で、もうすっかり失くしてしまって久しい。

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2015年08月22日

旧制中学卒の陸軍軍人

 戦前の日本陸軍の将校養成機関であった陸軍士官学校は、主として陸軍幼年学校の卒業者と、旧制中学校の卒業者から生徒を採用した。このうち、陸軍の主流派を占めたのは幼年学校の卒業者だった。「早くから軍人精神を叩き込まれた幼年学校出身者こそが、志操堅固であり、天皇への忠誠心も篤く、軍人として優等な存在である」というような意識が、彼らにはあったようだ。三根生久大「陸軍参謀」(文春文庫、1992年)には、以下のような記述がある。

「…もともとこの幼年学校の制度は、ドイツの伝統的な兵制と貴族の特殊学校の影響を受け、将校として、また国家のエリートとしての意識を幼少の頃から植えつけられてきているので、中学校から士官学校に入校してくる者との間には、少なからぬ格差があった。
 そうしたことから、中学校出と幼年学校出が士官学校内で激しく対立していたことがあり、大正二年には第二十七期の双方が市ケ谷台上で大乱闘に及び、多くの負傷者を出すという事件さえ起こったのだった。戦後、極東国際軍事裁判の検察側証人として出廷し、内外の注目を浴びた田中隆吉は、このことについて次のように回想している。

<…陸軍には幼年学校出身者と中学出身者との二大潮流があった。…幼年学校出身者は中学出身者を“デーコロ”と呼んでこれを蔑視し、中学校出身者は幼年学校出身者を“ピーコロ”と呼んでこれを憎悪する。この対立は世間の想像を超えた深刻なものであった。しかも先輩は後輩に対し、この対立思想を植え付けて叱咤激励する。…これはまた昇進後いかなる階級同士の間にあっても、大小の差こそあれ“デーコロ”“ピーコロ”の抗争は存続した。(『日本軍閥暗闘史』)>

 …中学出と幼年学校出の軋轢は時には人事にまで影響したといわれたが、事実、陸軍大学校の学生は圧倒的に幼年学校出身者が多く、昭和の初期ごろまでは陸軍大学校在籍の学生中、中学出はわずかその一割にすぎないこともあった。
 陸軍人事に強大な権限を持っていた陸軍省人事局補任課員は全員が幼年学校出身者であったし、中学出で大将にまで昇進した者は数えるほどしかいなかった。
 これは能力上の問題ではなくて、陸軍の人事上の基本的姿勢であったといわれている。」

 ちなみに、「デーコロ」「ピーコロ」の意味は、
「予科士官学校においては、幼年学校出身者と、一般の中学出身者とは反目が激しく、幼年学校出身者は自分たちを、cadet・カデット(士官候補生の意)から「Cさん」と称し、中学出身者を、Cより劣るDという意味で「デーコロ」と侮称した。ころは、犬ころ のころである。逆に中学出身者は、幼年学校出身者を「ピーコロ」と軽蔑した。「cadetとはおこがましい、ただのpupilではないか。」という意味で考案された侮称である」(Wikipedia「陸軍幼年学校」の項より)
なのだそうだ。

 このように、軍の主流派にはなれず、軍中央の要職に就く機会も少なかった中学卒の将校たちだったが、いざ太平洋戦争が始まると、むしろ彼らの中から、目覚ましい武勲を挙げたり、柔軟・合理的な判断を示したりする軍人が現れているように思う。例えば、以下のような人々が挙げられよう。

・今村均(新発田中卒、陸士19期。南寧作戦蘭印作戦・軍政を成功。終戦までラバウルを保持)
・田中静壱(龍野中卒、陸士19期。東部軍管区司令官として宮城事件を鎮圧)
・水上源蔵(日川中卒、陸士23期。ビルマ・ミートキーナを死守、自決)
・栗林忠道(長野中卒、陸士26期。硫黄島の戦いを指揮)
・宮崎繁三郎(岐阜中卒、陸士26期。ビルマ戦線で活躍)
・中川州男(玉名中卒、陸士30期。ペリリューの戦いを指揮)
・今井武夫(長野中卒、陸士30期。日中和平工作・終戦処理に従事。第2次バターン戦の際、辻政信が出した偽の処刑命令を見破り捕虜を逃がす)
・鈴木敬司(浜松中卒、陸士30期。「南機関」機関長)
・小畑信良(茨木中卒、陸士30期。第15軍参謀長としてインパール作戦に反対、更迭)
・八原博通(米子中卒、陸士35期。第32軍高級参謀として、米軍に評価された沖縄防衛作戦を立案)

 もっとも、中学卒の軍人の中には、以下のような人々もいることも付記しておかなければならない。

・河辺正三(陸士19期。インパール作戦時のビルマ方面軍司令官)
・豊嶋房太郎(陸士22期。第2軍司令官、「イドレ死の行軍」の責任者)
・福栄真平(陸士23期。第102師団長当時、レイテ島の戦いで無断撤退)
・立花芳夫(陸士25期。第109師団長当時、小笠原事件を起こす)


 これに対して、対支戦線拡大、ノモンハン事件、日独伊三国同盟締結、対米開戦などの局面において、軍の中枢にあって判断を誤り、視野の狭さを見せた軍人たち(東条英機、武藤章、田中新一、冨永恭次、服部卓四郎、辻政信など)を想起すると、そのほとんどは幼年学校出身者である。中学卒で目立つのは、佐藤賢了くらいではないだろうか。

 以上のような事実から考えてみると、10代半ばの多感な時期に幼年学校で偏頗な教育を受けるよりも、一般中学で、文学や芸術や音楽に触れたり、いろいろ道草を食ったりする時間を与えられた方が、ずっと柔軟で理性的な思考の持ち主の育成につながったのではないかと思われる。陸軍よりも海軍の方に、比較的視野の広い軍人が多かったとも言われるが、その要因の一つに、海軍兵学校の生徒を中学卒業者から採用していたことが挙げられるのではないか。
 そうした意味では、現代の防衛大学校が高校卒業者に受験資格を与えていることは、少なくとも過去の陸軍と比較すれば、適切な選抜制度を採っていると言えるのではないかと思う。

posted by A at 23:56| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする