2015年09月12日

【本】込山富秀「「青春18きっぷ」ポスター紀行」

「「青春18きっぷ」ポスター紀行」 込山富秀/講談社/2015年

「学校を卒業すると、春は黙って行ってしまうようになる。」

 春、夏、冬の一時期、JRの駅に、ローカル線の美しい風景を捉えたポスターが貼り出される。JRの普通列車を乗り放題で利用できる切符、「青春18きっぷ」の広報ポスターである。1990年夏から2015年春までの期間に使われた、この秀麗なポスターの数々を、一冊の写真集としてまとめたのが本書である。

 本書に掲載されたポスター群を眺めると、そこに収録された日本各地の明媚な風景や、森や川や海の情景の美しさが、見る者に鮮やかな印象を残す。また、鄙びた駅のホームや、風吹く海岸の線路脇などに配置された旅人の姿を見ると、自分自身もそこを訪ねてみたいという強い衝動に駆られてしまう。毎日利用する味気ない駅で、このような旅情に溢れたポスターを見せつけられるのは、正直、ちょっとした目の毒である。

 また、そうした風景の美しさとともに、これらのポスターを名作品たらしめているのが、写真に添えられた珠玉のコピーであろう。冒頭に掲げたのは、1999年春のポスターで使われた、個人的に最も好きなコピーである。旅の世界への憧憬、まだ知らない風景への期待を、あの頃の自分は確かに持っていたはずだった。そうした瑞々しい感情も、社会人として働く中で、もうすっかり失くしてしまって久しい。

2015年08月22日

旧制中学卒の陸軍軍人

 戦前の日本陸軍の将校養成機関であった陸軍士官学校は、主として陸軍幼年学校の卒業者と、旧制中学校の卒業者から生徒を採用した。このうち、陸軍の主流派を占めたのは幼年学校の卒業者だった。「早くから軍人精神を叩き込まれた幼年学校出身者こそが、志操堅固であり、天皇への忠誠心も篤く、軍人として優等な存在である」というような意識が、彼らにはあったようだ。三根生久大「陸軍参謀」(文春文庫、1992年)には、以下のような記述がある。

「…もともとこの幼年学校の制度は、ドイツの伝統的な兵制と貴族の特殊学校の影響を受け、将校として、また国家のエリートとしての意識を幼少の頃から植えつけられてきているので、中学校から士官学校に入校してくる者との間には、少なからぬ格差があった。
 そうしたことから、中学校出と幼年学校出が士官学校内で激しく対立していたことがあり、大正二年には第二十七期の双方が市ケ谷台上で大乱闘に及び、多くの負傷者を出すという事件さえ起こったのだった。戦後、極東国際軍事裁判の検察側証人として出廷し、内外の注目を浴びた田中隆吉は、このことについて次のように回想している。

<…陸軍には幼年学校出身者と中学出身者との二大潮流があった。…幼年学校出身者は中学出身者を“デーコロ”と呼んでこれを蔑視し、中学校出身者は幼年学校出身者を“ピーコロ”と呼んでこれを憎悪する。この対立は世間の想像を超えた深刻なものであった。しかも先輩は後輩に対し、この対立思想を植え付けて叱咤激励する。…これはまた昇進後いかなる階級同士の間にあっても、大小の差こそあれ“デーコロ”“ピーコロ”の抗争は存続した。(『日本軍閥暗闘史』)>

 …中学出と幼年学校出の軋轢は時には人事にまで影響したといわれたが、事実、陸軍大学校の学生は圧倒的に幼年学校出身者が多く、昭和の初期ごろまでは陸軍大学校在籍の学生中、中学出はわずかその一割にすぎないこともあった。
 陸軍人事に強大な権限を持っていた陸軍省人事局補任課員は全員が幼年学校出身者であったし、中学出で大将にまで昇進した者は数えるほどしかいなかった。
 これは能力上の問題ではなくて、陸軍の人事上の基本的姿勢であったといわれている。」

 ちなみに、「デーコロ」「ピーコロ」の意味は、
「予科士官学校においては、幼年学校出身者と、一般の中学出身者とは反目が激しく、幼年学校出身者は自分たちを、cadet・カデット(士官候補生の意)から「Cさん」と称し、中学出身者を、Cより劣るDという意味で「デーコロ」と侮称した。ころは、犬ころ のころである。逆に中学出身者は、幼年学校出身者を「ピーコロ」と軽蔑した。「cadetとはおこがましい、ただのpupilではないか。」という意味で考案された侮称である」(Wikipedia「陸軍幼年学校」の項より)
なのだそうだ。

 このように、軍の主流派にはなれず、軍中央の要職に就く機会も少なかった中学卒の将校たちだったが、いざ太平洋戦争が始まると、むしろ彼らの中から、目覚ましい武勲を挙げたり、柔軟・合理的な判断を示したりする軍人が現れているように思う。例えば、以下のような人々が挙げられよう。

・今村均(新発田中卒、陸士19期。南寧作戦蘭印作戦・軍政を成功。終戦までラバウルを保持)
・田中静壱(龍野中卒、陸士19期。東部軍管区司令官として宮城事件を鎮圧)
・水上源蔵(日川中卒、陸士23期。ビルマ・ミートキーナを死守、自決)
・栗林忠道(長野中卒、陸士26期。硫黄島の戦いを指揮)
・宮崎繁三郎(岐阜中卒、陸士26期。ビルマ戦線で活躍)
・中川州男(玉名中卒、陸士30期。ペリリューの戦いを指揮)
・今井武夫(長野中卒、陸士30期。日中和平工作・終戦処理に従事。第2次バターン戦の際、辻政信が出した偽の処刑命令を見破り捕虜を逃がす)
・鈴木敬司(浜松中卒、陸士30期。「南機関」機関長)
・小畑信良(茨木中卒、陸士30期。第15軍参謀長としてインパール作戦に反対、更迭)
・八原博通(米子中卒、陸士35期。第32軍高級参謀として、米軍に評価された沖縄防衛作戦を立案)

 もっとも、中学卒の軍人の中には、以下のような人々もいることも付記しておかなければならない。

・河辺正三(陸士19期。インパール作戦時のビルマ方面軍司令官)
・豊嶋房太郎(陸士22期。第2軍司令官、「イドレ死の行軍」の責任者)
・福栄真平(陸士23期。第102師団長当時、レイテ島の戦いで無断撤退)
・立花芳夫(陸士25期。第109師団長当時、小笠原事件を起こす)


 これに対して、対支戦線拡大、ノモンハン事件、日独伊三国同盟締結、対米開戦などの局面において、軍の中枢にあって判断を誤り、視野の狭さを見せた軍人たち(東条英機、武藤章、田中新一、冨永恭次、服部卓四郎、辻政信など)を想起すると、そのほとんどは幼年学校出身者である。中学卒で目立つのは、佐藤賢了くらいではないだろうか。

 以上のような事実から考えてみると、10代半ばの多感な時期に幼年学校で偏頗な教育を受けるよりも、一般中学で、文学や芸術や音楽に触れたり、いろいろ道草を食ったりする時間を与えられた方が、ずっと柔軟で理性的な思考の持ち主の育成につながったのではないかと思われる。陸軍よりも海軍の方に、比較的視野の広い軍人が多かったとも言われるが、その要因の一つに、海軍兵学校の生徒を中学卒業者から採用していたことが挙げられるのではないか。
 そうした意味では、現代の防衛大学校が高校卒業者に受験資格を与えていることは、少なくとも過去の陸軍と比較すれば、適切な選抜制度を採っていると言えるのではないかと思う。

posted by A at 23:56| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする

2015年08月16日

【本】新井信太郎「雲取山に生きる」

「雲取山に生きる ランプとともに30年余の山暮し」 新井信太郎/実業之日本社/1988年

 東京都最高峰・雲取山(2017m)の山頂に位置する山小屋、雲取山荘の主人によるエッセイ集。

 1960年から2013年まで、実に50年以上にわたって雲取山荘の管理人を務めた著者による、雲取山にまつわる随想録である。戦前の山小屋設置の経緯から、自分が山荘の主人を引き継ぐことになった成り行き、山小屋での暮らし、山の動植物、雲取山に縁のある人々など、多岐にわたる記録や所感が綴られていて、山歩きを趣味とする人にとっては大いに興味を惹かれる一冊になっている。

 中でも、富田治三郎氏をめぐる記述は注目に値する。雲取山荘の初代管理人にして、鎌を持って山を歩いたことから「鎌仙人」の愛称でも知られた富田氏の人となりや、山小屋管理の様子、富田新道開拓のエピソードなどが収録されており、奥秩父山岳史の観点からも貴重な記録ではないかと思われる。ところで、この富田氏に関しては、以前「山と高原地図 奥多摩」(昭文社)の付録冊子に、秋山平三氏の手による「山小屋の番人 鎌仙人――富田治三郎のこと」という秀逸なエッセイが掲載されていた。近年の版には載らなくなってしまったようだけれど、この小品も、山で生きる人間の厳しさと優しさを見事に描いた名作であり、どこかで再録されないものかと思う。

 都心から比較的アプローチしやすい雲取山荘は、なんとなくいつも混んでいそうな印象があり、私自身は雲取山には日帰りでしか登ったことがない(荷物が軽かったので、鴨沢バス停から往復6時間半で行けた)。同じく新井氏が山暮らしの日々を描いた随筆、「雲取山のてっぺんから」(けやき出版、1994年)や、「雲取山よもやま話」(さきたま出版会、1996年)を読む限りでは、平日であれば山荘への宿泊者は少なく、冬になると、何日も登山者が訪れないこともあるのだという。現在では新井氏の御子息が山荘の管理人を引き継がれているようだけれど、一度、山小屋泊を目当てに雲取山に登ってもいいかなと思えた。

2015年07月19日

【本】森茂暁「闇の歴史、後南朝」

「闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉」 森茂暁/角川ソフィア文庫/2013年
(単行本は、角川書店から1997年に刊行)

 1392年の南北朝合一後の南朝勢力の動静と、彼らによる北朝側への抵抗運動などについて著した本。

 室町三代将軍足利義満が主導した明徳の和約により、南北朝時代に長く続いた持明院統と大覚寺統による皇位の両立は、ひとまず解消されることになった。ところが、このときの両統迭立の約束は反故にされ、以後の天皇位は、北朝系の持明院統が独占していくこととなった。このような事態を前にして、南朝側の皇位継承者や遺臣たち(いわゆる後南朝)がどう抵抗し、そしてどのように歴史の闇に消えていったのかを、史料に即しながら丹念に解説したのが本書である。

 南北朝合一が実現した後、応仁の乱の頃まで、後南朝勢力の反抗は散発的に発生した。例えば、南朝最後の天皇となった後亀山上皇の吉野出奔(1410年)、伊勢国司北畠満雅の挙兵(1414年及び1428年)、南朝遺臣が内裏に乱入して三種の神器の一部を奪った禁闕の変(1443年)、応仁の乱の際に山名宗全が南朝の末裔(いわゆる西陣南帝)を担いだ事案(1471年ごろ)などが挙げられる。これらの事件の背景を見ていくと、後南朝の抵抗の動機は、皇位が継承されなかったことへの反発というだけでなく、経済的な困窮状態に置かれたことへの抗議や、室町政権下での勢力争いの中で一方の旗印に担ぎ上げられたことなど、様々な要素が絡み合った結果であることが見て取れる。

 ちなみに、この本を初めて読んだのは単行本刊行当時だったのだが、こういうマニアックなテーマの本が、16年も経って文庫本になっていようとは思わなかった。史料が極めて少なく、登場人物や勢力の末路が明らかでないケースも多い後南朝は、案外、読者のロマンを駆り立てやすいモチーフなのだろうか。東北方面での脇屋義則新田貞方らの抵抗や、河内・大和付近での楠木正勝一族の活動、あるいは、史学的な信憑性は低いが、美作後南朝(植月御所)や三河・遠江方面の後南朝伝説なども、個人的には掘り下げてみたいテーマである。

posted by A at 15:02| 本(歴史) | 更新情報をチェックする

2015年06月28日

【本】浅生鴨「中の人などいない」

「中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?」 浅生鴨/新潮文庫/2015年
(単行本は、新潮社から2012年に刊行)

 ゆるい企業広報ツイッターとして絶大な人気を誇ったNHK広報局(@NHK_PR)の初代担当者が、アカウント運営の舞台裏を明らかにした本。

 親しみやすいツイートで膨大なフォロワーを集めたNHK広報ツイッターの、開設経緯や管理の内情を著した本である。それにしても、ツイートのゆるさとは裏腹に、著者は相当肝の据わった人物なのではないかと思わせられる。あれだけの大組織の顔とも言える広報アカウントを、著者は、お堅い組織イメージにとらわれることなく、自由自在に運営してみせている。アカウントへの批判が容易に会社への批判に転化し、上司や所属部署にも累が及ぶ事態になりかねない環境の中で、これだけ大胆にツイッターの運用を行うことは、生半可な度胸ではできなかったのではないかと思う。このアカウントの成功は、やはり著者個人の柔軟な発想や胆力に負うところが大きく、組織としてこの水準のものを継続していくことは、正直なかなか難しいのではないか。

 本書の最後で、著者は「もう一度、ちゃんと外の人になろうと思った」と述べてNHKを辞職している。組織に勤める人々の中には、さしたる迷いもなく組織の価値観を自分の価値観とし、組織と一体化して振る舞うような人が少なくない(例えば、有名企業に勤めているというだけで大きな顔をするような類の人々)。これに対して、組織に精神的に依存せず、組織の価値観にも容易に同化しない傾向の人も、数としては少ないながら存在するように思う。おそらくは後者のタイプであろう著者が、NHKの看板を掲げ、会社を代表するような立場で活動し続ければ、NHKという組織に所属すること自体に、ある種の倦怠感を覚えることはあり得るのかもしれない。転職という著者の判断は、個人的には自然なものであるように思えた。

posted by A at 12:40| 本(その他) | 更新情報をチェックする