2016年01月24日

【本】北浜駅勝手連 編「北浜の駅から」

「オホーツク海のほとり 北浜の駅から 旅情へのメッセージ」 北浜駅勝手連 編/1984年

 北海道・釧網本線の北浜駅に設置されていた「落書きノート」に、旅人たちが残していった書き込みを、一冊の本にまとめたもの。

 網走市のはずれ、オホーツク海のほとりにある北浜駅は、駅の間近まで流氷が押し寄せることで有名であり、昔から多くの旅人が訪れている。そうした旅人たちが、駅に置かれた「落書きノート」に書き残していった思い出を、一つの本に編集したのが本書である。傑作ノンフィクションとして名高い「北の無人駅から」(渡辺一史著/北海道新聞社)の中で言及されていたのを見て、興味があって入手してみた。

 本書刊行当時、北浜駅には既に23冊分の「落書きノート」が残されていたそうだが、本書には、主に昭和58年1月〜59年2月ごろの書き込みが抜粋・収録されている。同駅は59年2月29日に無人化されているので、その直前期の記録ということになる。最後の駅長となった田中勝美氏の、「なんとか旅の思い出を冊子に」という願いを受けて、有志たちが編集・刊行したのが本書なのだそうだ。出版社が書かれていないので、あるいは自費出版なのかもしれない。

 本の内容は、旅人たちが駅のノートに記していった旅の感動や思い出が、ただひたすら綴られているだけのものである。ストーリーも何もない、見方によっては平板な本だけれど、1980年代中頃の若者たちの、旅空の下での思いや悩みが率直に書き残されていて、意外に興味深い一冊になっている。この北辺の駅に、文字通り全国から旅人が集まってきていたことや、駅員たちとの交流など、当時の旅事情も間接的に窺い知ることができる。この時代の若者たちの感性や旅の雰囲気を、巧まずして捉えてみせた、思いのほか貴重な一書なのではないかと思う。

2016年01月16日

個人的な御礼

 このブログを開設してから、いつのまにか7年が経ちました。いつもご覧になって下さっている皆様には、本当に心から御礼申し上げます。更新頻度の低い、やる気の薄いブログですが、これからもほどほどのペースで続けていきたいと思います。

 どこで読んだ話か忘れましたが、ブログというものは、開設から1年〜1年半くらい経った頃に、書くネタが尽きて閉鎖したくなる潮目が来るのだそうです。このブログも例外ではなく、2010年ごろに、更新に飽きて休止宣言を出したことがありました(※当該記事は既に削除しています)。

 管理人の算段としては、更新休止を宣言してそのままブログを放ったらかし、アクセスがほとんどなくなった頃に、完全にブログを閉鎖するつもりでした。ところが、全く更新されないブログに、ほぼ連日のようにアクセスして下さる方がいらっしゃいました。3か月経っても、4か月経っても、アクセスが途切れることはありません。とうとう半年が経ち、それでもアクセスが続くのを見て、さすがに申し訳ない気分になり、ブログの更新を再開することにしたのでした。

 と、いうわけで。初期の頃から現在に至るまで、ドコモの非常に古いガラケー(905くらい?)で、ずっとここをご覧下さっている、あなた。このブログが今ここに存在しているのは、はっきり言えばあなたのお陰です。何らかの形で一言御礼を申し上げたくて、今回の記事を書かせていただきました。こんな拙文のどこを気に入って下さったのかは分かりませんが、ずっと気にかけて下さって、本当にありがとうございます。あなたの人生にも、どうか良いことがありますように。

posted by A at 16:42| メモ | 更新情報をチェックする

2015年12月27日

【本】奥村明「セレベス戦記」

「セレベス戦記」 奥村明/図書出版社/1974年

 太平洋戦争当時、セレベス島(現・スラウェシ島)の守備についていた陸軍少尉の従軍記録。

 元々西部ニューギニアの海上機動第2旅団に配属される予定だったが、戦況悪化のため赴任できず、蘭印のセレベス島守備隊に回されて終戦を迎えた著者による戦記である。セレベス島には終戦まで連合軍の上陸はなく、著者も敵兵と戦闘を交える機会はなかった。ただ、戦況の変化に伴う守備位置の変更のため、著者はセレベス島の北から南まで移動させられ、実に3,000km以上の距離を歩かされることになった。そうした苦難の行軍の中で、著者が自分の小隊から死者を出さなかったのは、彼自身の臨機応変な部隊指揮が当を得たためでもあるのだろう。

 著者が命の危険にさらされたのは、むしろ戦争終了後のことかもしれない。「死の草原」と呼ばれた灼熱のマリンプン草原を横断し、ようやく辿り着いたマリンプン俘虜収容所では、同じ日本人の食糧管理隊や炊事班のピンハネのせいで将兵には十分な食事が行き渡らず、栄養失調による死者・病人が続出した。さらに、捕虜の監視に当たったアンボン兵(セラム諸島・アンボン島出身の黒人兵)の、敵意に満ちた虐待にも苦しめられた。とあるアンボン兵が日本人を激しく恨むに至った経緯を、著者は以下のように記している。

「「軍曹にとっては、日本軍は恨み骨髄に徹しているんだ」と、原大尉は私をなだめて、つぎのように軍曹の来歴を語った。
 アンボン軍曹は、かつてオランダ軍の俘虜として、日本へ送還され、三年半服役したのち、セレベス収容所へもどった組である。日本内地での軍曹は、日本鋼管川崎工場、新潟鉄工所などの軍需工場で、強制労働をさせられた。囚人として鞭打たれ、徹夜作業を強制されながら、小芋二個しか与えられなかった。直立不動の姿勢でビンタを食い、「目ん玉をキョロキョロ動かすな」とどなられ、たたきのめされた。あまりの辛さに、かれは何度自殺を考えたか知れなかった。日本語の「目ん玉……」云々は胸にやきついて離れなかった。同僚のアンボン下士官十名のうち、三名が死亡した。
「終戦で解放された軍曹は、日本軍に復讐せずにはいられないのだ。怨念の悪魔と化している。ま、因果はめぐるだね」」

 太平洋戦争後、東南アジア諸国が独立を果たすことができたのは、確かに日本軍の進攻が一つの契機になったのだろう。ただ、さまざまな戦記を読んでいると、捕虜や現地住民を残酷に取り扱った日本軍民の姿が、どうしても少なからず目に付く。そのような、ある種の勘違いをした人々の醜悪な振る舞いが、著者のような、虐待とは無縁な人物に跳ね返ってくる有様は、戦争の不条理さの一端を示すものであろう。


(補記)セレベス島守備隊について
 連合軍の攻勢正面となり、決戦地域になると考えられていた濠北地域には、昭和18年頃以降、次々と陸軍兵力が投入された。主なものとしては、西部ニューギニアのサルミ・ビアクで死闘を繰り広げた第36師団をはじめ、ソロンの第35師団・海上機動第2旅団、ハルマヘラ島の第32師団、スンバワ島の第46師団などがある。その中で、濠北作戦を統括する第2方面軍の司令部が置かれたセレベス島は、「昭和19年8月の時点では、(中略)北東部に二万、南部に一万余の兵力をもって防備していた。海軍は南北にそれぞれ約五千の兵力を配備しているだけで、陸軍が主力になっていた」(奥村書)という守備態勢であった。

 ただ、セレベス島の旅団単位以上の陸上部隊としては、昭和19年6月に新編された独立混成第57旅団(長:遠藤新一少将)があるのみであった。この旅団も、歩兵4個大隊がマニラからセレベスへ輸送される途中で海没、2個大隊が同じく輸送途上で船舶が故障してホロ島に漂着した上、10月にボルネオ島東岸のタラカンへ転用。さらに、海没の欠を補うため1個大隊が追派されたものの、途中セブ島に滞在していたときに米軍がレイテ島に上陸し、急きょレイテ島の戦いに投入された(いわゆる天兵大隊)。結局同旅団は、収容できた海没将兵やその他の人員からなる歩兵4個大隊を基幹として編成されたのだという(戦史叢書「捷号陸軍作戦1 レイテ決戦」による)。

 このため、セレベスに約4万の兵力があったと言っても、その過半は後方部隊や、臨時編成の歩兵部隊、航空軍の残置部隊などだったのではないかと思われる。上級司令部が置かれていた割には、守備兵力は雑多な混成部隊であり、戦力としては手薄だったのではないか。ただ、連合軍が上陸したモロタイミンダナオボルネオのいずれからも後方にあったセレベスは、結果的に敵の来攻を受けることのないまま、終戦を迎えることができた。

(後日追記)
 この戦記の末尾に、独立混成第57旅団の簡単な行動経過が記載されていたので、合わせて紹介しておく。
 また、「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」に収録された「西部ニューギニアの全般作戦」という手記(著者は了戒次男・元第2軍高級参謀)に、昭和20年7月にセレベス島シンカンで撮影された第2軍首脳部の写真が掲載されており、ここに「特設旅団長・山本大佐」という人物が写っている。現地駐在部隊を基に、特設旅団が編成されていたのだろうか。


posted by A at 07:55| 本(戦記) | 更新情報をチェックする

2015年11月21日

【本】スピッツ「旅の途中」

「旅の途中」 スピッツ/幻冬舎/2007年

 ロックバンド・スピッツのメンバー4人が、生い立ちからバンド結成、売れない時代、90年代中盤の大ヒットを経て、安定期に入るまでの経緯を振り返った本。

 スピッツのメンバーたちが、自らの来し方を綴った本である。彼らの著書としては、既に「スピッツ」(2001年、ロッキングオン)があり、この本には過去の音楽雑誌の記事やインタビューなどが収録されていて、その当時のバンドの雰囲気が感じられる内容になっている。これに対して、本書「旅の途中」は、2007年時点でのメンバーの記憶を辿りながら、彼らの歴史を振り返った本であり、バンドの足跡をやや俯瞰的に眺めるような構成に仕上がっている。

 本書に盛り込まれたエピソードの数々は、ファンにとっては新鮮な驚きとなるものも少なくないが、個人的に印象に残ったのは、1995年の「ロビンソン」(動画)のヒットにまつわる逸話だ。デビュー以来、スピッツはオリコンの100位チャートにさえ載らない低空飛行が続いたものの、ようやく5枚目のアルバム「空の飛び方」が14位に入った。そして、ボーカルの草野マサムネ自身が「これがスピッツのアルバムが最高に売れた状態だ」と満足し、「そこそこは売れても、ベストテンをにぎわせるようなヒット曲は出ないだろう。それがスピッツらしいポジションだ」と自らの立場をわきまえていたころ、シングル「ロビンソン」が162万枚の大ヒットを記録したのだった。

 このヒットが出たときのエピソードを、草野は次のように綴っている。

「「ロビンソン」が売れているかどうか、渦中にいる俺らにはいまいちピンときていなかった。「ロビンソン」が売れたことを実感したのは、夏の野外イベントのときだ。大阪の万博公園の<FM802 “MEET THE WORLD BEAT’95”>と、福島の<COMING POP’95 “WIND PARK−NARAHA”>に出演したとき、俺たちが「ロビンソン」を演奏したら、数万人のお客さんたちの大合唱になった。あのときは鳥肌が立った。
 ――ほんとにヒットしたんだ」

 「いつものスピッツの、地味な曲だなあ」(草野)という「ロビンソン」でヒットを掴んだことは、彼らにとって、極めて大きな意味を持ったのではないかと思う。自分たちのスタンスを枉げて、無理に売れ線を狙った曲作りをすれば、一時的なヒットを獲得することはできるかもしれないが、魅力的な曲を長く作り続けることはきっと難しかっただろう。途中で色々な試行錯誤はあったものの、結局、自分たちの基本的な姿勢を変えずにヒットに辿り着いたことが、このバンドの息の長い活躍につながったのではないだろうか。

posted by A at 21:15| 本(その他) | 更新情報をチェックする

2015年10月04日

【本】栗原裕一郎「〈盗作〉の文学史」

「〈盗作〉の文学史」 栗原裕一郎/新曜社/2008年

 明治以降の日本文学における盗作事件を幅広く収録し、分析・検証した本。日本推理作家協会賞受賞。

 著者自ら国会図書館に通うなどして拾い上げた古今の盗作事件を、詳しく紹介するとともに、その経緯や背景などを解析した本である。ハードカバー500ページ弱の大変な労作であるが、著者の解説が分かりやすく、かつ面白くて、スムーズに読むことができた。それにしても、これだけの資料を捜索・集積するには、相当な手間と時間がかかったのではないかと思う。「日本文学盗作史」としての本書の資料的価値も、大いに評価すべき点であろう。

 紹介された様々な盗作事件について読んでいくと、創作の苦しみから無意識のうちに他書を引き写してしまったのだろうかと思えるものから、他の作品をほぼそのまま丸写しし、間違って文学賞を受賞してしまった挙句、「受賞の言葉」まで他人のものを丸パクリした大胆な事例まで(賞は当然取り消し)、色々なケースがあって興味深い。その中から、盗作と評価すべきかどうか微妙な事案として、庄司薫の例について考えてみたい。

 本書でも触れられているように、庄司の代表作「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の模倣ではないかという認識が広く浸透している。その根拠としては、1969年9月2日付の東京新聞の特集で三浦清宏・明大助教授(当時)が指摘しているような、「文体」「数字を具体的に挙げる技法」「「電話に出てくるママ」のようなディテール」「「狂気と童心」の対置」「プロット・人物造形」などといったポイントに関する類似性が挙げられるのだろう。

 そして、これらの相似傾向に鑑みれば、そうした技術的な手法を、庄司がサリンジャー(及びその野崎訳)から借用した側面が全くなかったとは言いづらいのかもしれない。ただ、著者や高田里惠子(「グロテスクな教養」ちくま新書、2005)が「薫くん」のエリート性について言及しているように、この「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、「(エリートの)男の子いかに生くべきか」という、ある特殊な階層の若者の人生論といった色彩を濃厚に持つ作品である。この点、成績不良で学校をドロップアウトした少年の彷徨を描く「ライ麦畑でつかまえて」とは、その主題や射程を異にする作品と見るのが自然ではないかと思う。

 そうした事情を踏まえて考えてみれば、庄司の「ただぼくの作品を読んでいただきたい」という反論は、作品の技法論などというテクニカルな(つまり、非本質的な)部分ではなく、両作のテーマ性の大きな違いに着目するよう訴えたいものであったのかもしれない。一方で、彼の反論が妙に抽象的かつ感情的であったのは、批判に対する有効な抗弁材料を持ち合わせていないことを、彼自身が自覚していたためではないかな、というような気もした。

 いずれにせよ、刊行から40年以上を経てなお批評が絶えないという事実は、この「赤頭巾ちゃん気をつけて」という作品が持つ影響力の強さを雄弁に物語るものであろうと思う。そして、本書「〈盗作〉の文学史」は、この作品に関する論評を精力的に採録・分析しており、その充実した論考は一読に値するものである。

posted by A at 16:35| 本(評論) | 更新情報をチェックする