2017年03月12日

【本】鬼窪善一郎 語り「新編 黒部の山人 山賊鬼サとケモノたち」

「新編 黒部の山人 山賊鬼サとケモノたち」 鬼窪善一郎 語り・白日社編集部 編/山と渓谷社/2016年

 戦前から平成初期にかけて、北アルプスの黒部源流地域を舞台に、猟師やボッカ、ガイドなどの山仕事で生計を立てた人物のオーラルヒストリー。

 登山黎明期の北アルプスを描いた名著「黒部の山賊」にも、「山賊」の一人として登場している、鬼窪善一郎氏の赤裸々な口述記録である。長野県北安曇郡に生まれた鬼窪氏が、貧しい暮らしの中で職を転々とした後、山に関わりながら生きていく人生行路が、非合法な密猟行為のことなども含めて率直に語られている。かなり濃厚な方言で綴られているので、少し読みづらい部分はあるが、そのぶん臨場感にも満ちあふれた本である。

 本書の冒頭部分では、まず鬼窪氏の前半生や、昭和10〜20年代に彼が携わった数々の遭難救助の模様が描写されている。ヘリコプターもない時代に、どのように疲労した登山者を救出し、また、どのように山で遺体を処理したのか、彼の証言はかなり生々しく、ややショッキングでもある。そうした証言の中には、礼節を欠いた被救助者に対する非難の口吻も含まれているが、北鎌尾根のような危険な場所での救助活動にも骨身を惜しまなかった彼の言葉は、耳を傾けずにはいられない重みを持つものであろう。

 そして、本書の後半では、北アルプスでのクマやカモシカなどの猟の実態が、極めて細密に語られている。極寒と豪雪の中での狩猟記録を読むと、山の達人であるはずの鬼窪氏でさえ、すんでのところで何度も命を拾っていることが分かる。鬼窪氏の名前も出てくる山本茂実の著作「喜作新道」(角川文庫)では、彼以上の名猟師とも言える小林喜作の遭難死の模様が詳しく描かれているが、彼らのような熟練の猟師ですら、その生死は運に左右される面があったのだろう。猟とはこんなに危険な営みなのか、ということを改めて印象付けられた一書だった。


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2017年02月05日

西部ニューギニア戦線の「イドレ死の行軍」について

 太平洋戦争中の昭和19年7月から10月頃にかけて、「絶対国防圏」の最前線である西部ニューギニアで、「イドレ死の行軍」と呼ばれる悲惨な転進が行われた。この転進では、敵軍と銃火を交える機会がほとんどなかったにもかかわらず、10,000名以上とも言われる日本軍将兵や軍属などが死亡している。今回は、多くの人命が失われた出来事でありながら、現代ではほとんど知られていないこの行軍について、関係する戦記の記述を踏まえ、実態をまとめてみたい。

 なお、西部ニューギニアの地図としてはこちらを参照されたい。イドレは、マノクワリの南、「Modan」に近い地点である。


1 転進の概要
 まずは、関連書籍の内容を基に、この転進の全体像を整理してみたい。

 昭和19年6月下旬、ビアク島の戦いがいよいよ終末に近づき、マノクワリへの連合軍上陸も目前と考えられた。これを受けて、西部ニューギニア戦線を担当する第2軍司令部は、マノクワリに駐屯していた20,000名余の将兵らのうち、戦闘部隊を中心とした8,000名の兵力をもって、マノクワリの防備を固めることにした。そして、後方部隊など12,000名を、マノクワリ南方170キロにある、イドレに移動させることとしたのである(田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録」(ゆまに書房)による)。

 後方部隊の転進先としてイドレが選ばれたのは、「イドレにはサゴ椰子が無尽蔵にあり、10万人が食っていける」という噂があり、自活に適当な土地だと考えられたためである。しかし、マノクワリからイドレまでの移動経路については、ほとんど調査が行われておらず、満足な地図すらない状態であった。このような状況の中で、第2軍が推し進めた転進計画は、関連戦記によれば以下のようなものであった。

「そんなわけだから、転進の計画はメチャクチャだった。地図の上に線を引いて、その直線距離を、指先でチョイチョイと測っただけである。
『うん、三日か四日の行程だな。そんなら、食糧の携帯は一週間ぶんで十分だ』」(加東大介「南の島に雪が降る」)

「イドレ転進命令が下ったのは19年7月1日である。十日もあれば目的に着ける、途中に大した障碍などないという楽観的雰囲気の中で移動が開始された」(上掲の田中書)

 ところが、実際のイドレまでの経路は、悪疫の蔓延する過酷な密林地帯だった。兵士たちはジャングルの中で、同じ場所をぐるぐる彷徨して道を見失ったり、高山や大河に行く手を阻まれたりして、栄養失調やマラリア、赤痢、チフスなどの病で次々に倒れていった。そのうえ、軍命令により、多くの将兵が途中のヤカチという地点で足止めされ、進退窮まった各部隊は、ここで一気に餓死者・病死者を増やしていった。

 そして、3か月以上の苦難の移動を経て、一握りの者がようやく辿り着いたイドレにも、食料の貯えなどは全くなかった。転進部隊がヤカチで停止を命じられ、イドレへの進入を許されなかったのは、彼らを養うだけの食物が、イドレにはなかったためであった(植松仁作「ニューギニア大密林に死す」)。結果的に第2軍は、「イドレにはサゴ椰子が無尽蔵にある」という根拠のないデマを信じ、その実情をまともに調べないまま大移動を命令して、大量の死者を生み出したのだった。
 この転進の結末について、再び関係書籍の記述を引用する。

「航空地上勤務部隊の大部はマノクワリ方面第二軍後方部隊と共に7月〜8月、イドレに向かって無計画な行軍を行ない、その大半が死没するという惨事を引き起こした」(戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」)

「途中、行ったり来たりを繰り返したために、無事に着いた将兵は、地図上行程の三倍にあたる五百キロ以上も歩いたのではないかと推測されている。死線を越えて辿りついたイドレも極楽ではなかった。移動計画がこのような杜撰極まりないものであったくらいだから、イドレにおける開墾や農耕もしっかりした計画性をもっているはずもなかった。(中略)
 マノクワリを発った一万二千名は、イドレに辿り着くまでに九十%近い餓死、病死者を出し、さらにイドレでも数%の死者を出し、結局、故国に帰還できたのはわずか六%強の運命のいたずらに助けられた者だけであった」(田中書)

 なお、第2軍司令部が「死の行軍」の悲惨な実態に気づいたのは、8月後半になってからのことだったようである(「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」)。


2 関係者の記録
 「イドレ死の行軍」に参加した将兵の手記が、複数刊行されている。その一部を紹介し、転進の実相を追ってみたい。

(1)久山忍「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」(潮書房光人社)
 転進を体験した蓬生孝氏(第2軍司令部所属、陸軍一等兵。戦後日商岩井に入社し、イタリア・西ドイツ等で勤務)の記録が、この久山書に収録されている。少し長くなるが、行軍の悲惨な実情を表す部分を抜粋する。

「・・・川をわたると周囲は一変した。鬱蒼とした大密林であった。密林のなかは、大木と灌木が陰湿な地面を隙間なく埋め、無数の倒木が巨体を折りかさね、光は閉ざされて昼なお暗く、侵入者をかたく拒否していた。
 頭上からは数知れない木の蔓が垂れさがる。歩けばおびただしい山蛭が降る。地面には万年筆の形をした黒光りの毒虫がうごめく。苔などの隠花植物やさまざまなシダ類が地面にはびこっている。(中略)
 赤道直下の高温多湿な密林や湿地帯を、憔悴していく体力でただ歩く。この転進では誰もが病気につきまとわれていた。どの病気も悪化の一途をたどり治癒することがない。そしてついに歩けなくなる。この転進で歩けなくなったら最後である。
 よどんだ生水、くさった食物は大腸炎に直結した。不消化のまま流れ出る大便や血便がやむことなしにつづいた。下痢をするとたちまち衰弱し、貧血になって歩けなくなった。
 多湿な密林のなかの蚊は人間の存在に敏感に気づいて来襲し、小便をするとその臭いを好んで棒のようになってむらがった。マラリアにかかると、高熱、悪寒、下痢、食欲不振となり、歩けなくなった。
 皮膚は抵抗力がなくなっているので、ばい菌は小さな傷口からたちまち蔓延し、南方潰瘍や得体のしれない皮膚病になった。最初は小さかったのが、わずかな期間で脛、腿、股、人によっては全身にひろまってこれまた歩けなくなった。
 毎日、泥水や水たまりを行軍するため、水虫は誰もがやられた。これもズボンがぬげなくなるほど下腹部がふくらむと歩けなくなった。
 大腸炎、マラリア、潰瘍、水虫、日射病の合併症に飢えが加わって苦しみ斃れた転進者の実情は、とうてい文字にできない。
 力尽きて歩けなくなり、泥土にすわって通りすぎてゆく我々をじっと見ていた者、朽ちた大木の穴に独りではいって寝ていた瀕死の者、飯盒のふたを差し出して水を求めていた者、今死んだばかりの者、水にうっ伏して腐乱した者、二、三日前に亡くなって白骨化した者、無数のウジが全身に喰いついていた者たち。死んだ者の肉はすぐに腐り、頻繁なスコールが腐肉を流して骨だけにした。
 木の洞や倒木の陰に遺った白骨、二人、三人並んで水辺や灌木の繁みに遺った白骨、天幕の下に遺った数人の白骨など、数多くの転進者の悲惨な姿についてはなんと申しあげてよいかわからない」

 蓬生氏は昭和19年7月7日にマノクワリを出発、10月3日に奇跡的にイドレ到着。死者続出したイドレでも生き残り、昭和21年6月に復員している。

(2)植松仁作「ニューギニア大密林に死す」(光人社NF文庫)
 著者は電信第24連隊副官で、終戦時陸軍大尉。この転進に参加した記録を、全編にわたって詳しく綴っている。「イドレ死の行軍」について書かれた本の中では、現在最も入手しやすい一書ではないかと思う。
 なお、同著者には「魔の地ニューギニアで戦えり」(光人社NF文庫)という著作もあるが、こちらにはニューギニア以外の地での勤務記録も広く収録されており、「イドレ死の行軍」に関する記録はその一部にとどまる。

(3)「丸別冊 秘めたる戦記 陸海空/戦域総集編U」
 この本に掲載されている鈴木勝氏(第五揚陸隊所属、陸軍一等兵)の手記の中に、軍司令部の移動に関する記述がある。第2軍司令官・豊嶋房太郎中将と高級幕僚は、マノクワリからイドレまで軽爆機・大発を利用して移動したが、彼らを乗せた大発の乗組員は、「大発の中で米軍魚雷艇にいちばん怯えていたのは軍司令官であった」という、容赦のない証言を残している。

(4)その他
 この行軍については、「インドネシア文化宮」さんというサイトが、極めて精力的に記録を収集されている。
 このサイトによれば、飛田忠廣「ニューギニア玉砕記」(昭和24年)、佐々木實「人喰密林戦記」(昭和30年)、西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌「辺裸飢」(昭和52〜62年)、第2軍司令部参謀部某曹長「野垂れヤカチ」などの手記にも、この転進に関する記録が綴られているようである。


3 公刊戦史
 2に掲げたように、「イドレ死の行軍」の参加者による戦記には複数のものがある。これらに対して、この行軍に関する公刊戦史の記録は、極めて貧弱である。戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」に若干の記述があるが、本来この転進について詳しい記録を残すべきと思われる「豪北方面陸軍作戦」には、

「軍司令部は後方部隊人員と共に扇の要的地点であるイドレに移り自活しつつ持久戦を指導する方針」

という簡単な記述があるのみであり、転進により犠牲者が出た事実すら書かれていない。ほぼ同数の戦没者を出したビアク島の戦いに、67ページもの分量を割いていることと比べれば、かなり強い違和感を受ける。

 また、第2軍の高級参謀であった了戒次男・元中佐が、「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」に、「西部ニューギニアの全般作戦」という手記を寄せている。しかし、この著述の内容は、全体的に作戦面の記述に終始しており、後方部隊をイドレに移動させた顛末にさえ言及していない。軍の側としては、自らの命令の錯誤により膨大な餓死者・病死者を出した事実を、後世に残したくなかったのだろうか。


4 最後に
 この「イドレ死の行軍」に代表される部隊移動の失敗や、各地の守備隊でおびただしい餓死者を出した事実などを踏まえると、西部ニューギニアの第2軍は、本来生きて還るべきであった将兵や軍属を、自らの判断の誤りによって、大量に戦没させたと評されてもやむを得ないのではないかと思われる。この戦域では、ビアク・サルミの戦いで守備隊が壮絶な敢闘を見せているが、これらも、軍上層部の作戦指導が優れていたと言うより、現場で戦った東北編成の精鋭師団、第36師団の頑強さを賞賛すべきものではないかと思う。

 そして、いくつかの戦記でも指摘されている軍司令官の柔弱な性格や、軍参謀長の粗雑な判断、そもそも参謀長の交代が頻繁で空席の時期が長く続いたこと、果ては、参謀長としての発令を受けた将官が、あろうことか赴任をサボタージュする乱脈ぶりを見せたことなど、総じて第2軍では、首脳陣の統帥が、正常に機能していたようには見受けられない。極限とも言うべき凄惨な戦況の中で、最後まで統率を崩壊させなかった東部ニューギニアの第18軍と比べると、対照的と言わざるを得ないのではないか。イドレ転進の悲劇は、上層部に適切な人材を得られなければ、組織に無用かつ甚大な被害が生じるということを示す、一つの重い教訓ではないかと思われる。


(補記1)「イドレ死の行軍」の参加者数などについて
 マノクワリ守備隊の兵数や、「イドレ死の行軍」の参加者・戦没者数には、書籍によってばらつきが見られる。以下、一通り列挙してみることにする。

<マノクワリ守備隊の人員数>
・戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」・・・30,000名余。その他、ムミ地区(マノクワリ南方)に約7,000名の兵員あり
・田中書・・・20,000名を超える数
・久山書・・・軍人と軍属をあわせて約20,000名。そのうち9,000名は飛行場設定隊に編入された土木労務者や台湾人(高砂族)で、残りの11,000名は第2軍司令部関係の後方部隊
・植松書・・・20,000名余

<「イドレ死の行軍」の参加者数>
・田中書・・・12,000名。マノクワリ残置者数は8,000名
・久山書・・・9,800名、10,000名、12,000名など諸説ある
・植松書・・・12,000名
・鈴木手記・・・10,000名有余。マノクワリ残置者数は約12,000名
・「インドネシア文化宮」・・・約12,000又は15,000名

<「イドレ死の行軍」参加者のうち、戦没者数>
・田中書・・・生還者6%強(=戦没者約11,300名)
・久山書・・・一説には、イドレまでの行程の戦没者数が10,200名
・植松書・・・生還者800名以下(=戦没者11,200名以上)
・「インドネシア文化宮」・・・1万数千名

 また、この転進について詳しくまとめているこちらのサイトには、「参加者15,000名、イドレ到着6,000〜7,000名、生還者3,000名未満」という数字が掲載されている。


(補記2)「イドレ死の行軍」の参加部隊について
 「イドレ死の行軍」に参加した部隊についても、その全体像をまとめた資料は見当たらず、実態は明らかでない。見つけられた限りの部隊を全て挙げると、以下のとおりである。

・第2軍司令部、兵器廠、貨物廠、船舶部隊などの後方部隊(田中書)
・第14、第15、第101野戦飛行場設定隊(「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」)
・第3、第14飛行団(同上)
・第107、第108飛行場大隊、第36飛行場中隊、第9航空通信連隊の各一部(同上)
・第8航空情報隊の一部(同上)
・第13野戦気象隊の一部(同上)
・第21野戦航空修理廠の一部(同上)
・第107、第108飛行場大隊(同上。マノクワリ南方のムミ駐屯)
・第34、第46飛行中隊(同上。マノクワリ南方のムミ駐屯)
・電信第24連隊(植松書)
・陸上勤務第37中隊(約300名でマノクワリ出発、生還者ゼロ。久山書)
・兵站病院(「南の島に雪が降る」)
・海軍部隊、高砂勤労隊、インドネシア兵補隊(久山書)
・マレー作戦時の英軍インド兵で編成したインド人部隊(植松書)

 以上の各部隊の全員が転進に参加したわけではなく、マノクワリに残留したり、他の拠点の守備に回されたりしていた者もいたようである。


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2017年01月15日

【本】村瀬秀信「4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史」

「4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史」 村瀬秀信/双葉文庫/2016年
(初版は、2013年に双葉社から刊行)

 大洋ホエールズ・横浜ベイスターズの球団史を、多くの関係者の証言を元に描き出したノンフィクション。

 著者の熱い大洋・横浜愛をひしひしと感じる、出色のノンフィクションである。古今の関係者たちへの濃密なインタビューを積み重ね、それに著者自身の記憶や思い入れも付け足して、球団への愛情にあふれたクロニクルが綴り上げられている。横浜ファンでなくとも、プロ野球ファンであれば十二分に楽しめる作品である。

 本書によれば、大洋ホエールズという球団のおおらかで大ざっぱな気風は、親会社が大洋漁業(マルハ)だったことに由来する面があったようである。「遠洋漁業は命懸けで漁に出るわけです。だから、一艘の船に乗った人間は、みんな命を預かった家族。だからみんな仲良く、一致団結しようということですよ」(土井淳)、「まあ、当時は選手獲得も、『クジラ一頭獲れればいい』って感覚ですからね」(平松政次)、「昨日まで船に乗って魚獲っていた人が、次の日に選手を獲ってんだからね(笑)」(近藤昭仁)、「大洋漁業って船乗りの集まりじゃないですか。チームがひとつの船というんですかね。大洋ホエールズという船に、監督という船長がいて、船員である選手みんなが乗っている。そんな雰囲気が色濃かった気がしますね」(遠藤一彦)などという証言は、良くいえば鷹揚、悪くいえばルーズで甘い大洋球団の体質と、確かに重なり合うものであるように思えた。

 その後、大洋ホエールズは、横浜ベイスターズへの球団名変更、1998年の日本一、TBSによる買収などを経て、2000年代の壮絶な暗黒時代を迎える。この時期の球団について、著者は、球団を食い物にしていた人間や、澱んだ空気の発生源になっていたスタッフの存在を仄めかす書き方をしているが、その詳細については突っ込んだ記述をしていない。球団がどうして支離滅裂な状態に至ったのか、その要因を知りたいと思う読者にとっては、このあたりの展開はやや消化不良の感が否めないかもしれない。ただ、こうした原因追及や犯人の糾弾を詳しく進めていくと、おそらく本書はかなり雰囲気の違う、重苦しい一書になっていたのではないかと思う。この辺の闇にあえて深入りせず、軽妙な筆致を貫いた著者の判断は、作品の完成度を高める意味では、おそらく正解だったのだろう。

 現在、球団のオーナーはDeNAとなり、球団の体質や運営方針は、見違えるほど改善されてきているように見える。著者に代表されるような、どんなに弱くても決して大洋・横浜を見捨てなかったファンたちも、きっと大きく勇気づけられているのではないか。彼らの熱い球団愛が、いつか報われることを祈らずにはいられない、そんな思いにさせられた一冊だった。

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2016年12月23日

【本】pha「持たない幸福論」

「持たない幸福論 働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない」pha/幻冬舎/2015年

 定職に縛られず、毎日を自由に暮らす著者が、「働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない」という自らの人生観を解説した本。

 本書の著者は、京都大学卒業後、数年間勤めた大学法人を辞め、その後は特定の就職先を持たずに日々を過ごしている方である。「できるだけ働かずに生きていきたい」という考えの下に、マイペースに暮らす自分自身を、著者は「ニート」と呼んでいる。しかし、インターネット経由で(最低限ではあるが)収入を得ていて、ブロガーとしても広い支持を集め、さらには数冊の本も出版されている事実を見ると、著者は、一般的なイメージの「ニート」とは少し異なる人であるようにも思える。適当な表現が見つからないが、才能ある高等遊民、とでも言うべきだろうか。

 また、著者は、IT関係の技能を持った無職の人々が共同生活を送る「ギークハウスプロジェクト」を提唱し、これが発端となって、全国各地にギークハウス開設の動きが広がっている。個人的に、しばらく前からこちらのギークハウスのブログを拝見しているのだけれど、地方都市特有のゆるやかな空気感が感じられて、ここでの暮らしをちょっと羨ましく思っている(もちろん、このブログに書かれざる不便などもあるのだろうけれど)。こうしたギークハウスは、人生の次の展開に向けて自分を再整理する人たちにとっての、一種のセーフティネットとしても有意義なシステムではないかと思う。著者自身が自覚されているかどうか分からないけれど、著者はプランナー、あるいはオルガナイザーとしても、非凡な能力の持ち主であるように見える。

 とはいえ、著者の「できるだけ働きたくない、家族は不要、稼ぎは最小限で構わない」という独特な哲学は、やはり普遍的なものではないのだろう。こうした価値観に違和感を持つ人は、決して少なくないのではないか。私自身は、著者の考え方には結構共感する方だけれど、定職や家庭を持つ選択肢をすっかり放棄してしまうのは、さすがにちょっとハードルが高いなと思う。

 ただ、本書に示される著者の人生観に同感しないとしても、自らと異なるユニークな考えに触れることは、その反射的効果として、現在の自分の価値観を見つめ直させるものである。また、この本には、「人間は一人でいるとときどき偏ったり狂ったりしてしまうから、友人という自分の意見をチェックしてくれる機構が必要だ」とか、「擬似的な『小さな死』をときどき死ぬことでガス抜きをして、本当に死んでしまうことをできるだけ避ける」などといった、日々の生活を送る上での有益な気付きも多く含まれている。著者の主張そのものには賛否両論あるのかもしれないけれど、それを踏まえても、本書は一読に値する一冊ではないかと思う。


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2016年11月23日

【本】金邦夫「すぐそこにある遭難事故」

「すぐそこにある遭難事故 奥多摩山岳救助隊員からの警鐘」 金(こん)邦夫/東京新聞/2015年

 東京・奥多摩で長年山岳救助に携わってきた著者が、個別の遭難事例を詳しく紹介し、安易な登山に警鐘を鳴らした本。著者が山岳雑誌「岳人」に連載した記事や、新たに書き下ろしたコラムなどを、一冊の本にまとめたもの。

 2007年に刊行された、「金副隊長の山岳救助隊日誌」の続編ともいえる一書である。比較的、自由闊達にエッセイが綴られていた感のある前著に比べ、今回は一つ一つの遭難事故の概要説明や、その原因の検証に重点が置かれており、少し重い読後感がある。ただ、自分自身が山で遭難しないためには、こうしたアクシデントから十分教訓を汲みとることが、おそらく重要な教程となるのだろう。

 本書を読むと、一口に遭難事故といっても、かなり色々なバリエーションがあることが分かる。よくある道迷いや滑落事故を始め、愛好者が急増しているトレラン(トレイルランニング)での死亡事故、名クライマー・山野井泰史氏が熊に襲われた事故、前著でも言及されていた山小屋での連続強盗事件、果ては奥多摩の山奥で脱法ドラッグパーティーを開き、幻覚作用のせいで参加者たちが山中を数日間さまよい歩いて、ついには死者も出た案件まで、様々な具体例が詳細に述べられている。こうした事案に対処する山岳救助隊員の苦労もありのままに記されていて、そりゃ隊員たちが怒るのも当然だよな、と思わせられるケースも決して少なくなかった。

 そのような事例の中で、困難な対応を強いられる救助隊員たちが見せる、自らの仕事に対する意識の高さは見逃せない。例えば、まだ3年目の若い隊員が、行方不明者のことがどうしても気にかかり、休日に一人で自発的に山に入っていく姿には、少なからず感銘を覚えた。何かと苦労も多いのだろうけれど、こんなふうに純粋に打ち込める仕事を持てることは、とても幸せなことなのではないかと思った。


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