2016年12月23日

【本】pha「持たない幸福論」

「持たない幸福論 働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない」pha/幻冬舎/2015年

 定職に縛られず、毎日を自由に暮らす著者が、「働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない」という自らの人生観を解説した本。

 本書の著者は、京都大学卒業後、数年間勤めた大学法人を辞め、その後は特定の就職先を持たずに日々を過ごしている方である。「できるだけ働かずに生きていきたい」という考えの下に、マイペースに暮らす自分自身を、著者は「ニート」と呼んでいる。しかし、インターネット経由で(最低限ではあるが)収入を得ていて、ブロガーとしても広い支持を集め、さらには数冊の本も出版されている事実を見ると、著者は、一般的なイメージの「ニート」とは少し異なる人であるようにも思える。適当な表現が見つからないが、才能ある高等遊民、とでも言うべきだろうか。

 また、著者は、IT関係の技能を持った無職の人々が共同生活を送る「ギークハウスプロジェクト」を提唱し、これが発端となって、全国各地にギークハウス開設の動きが広がっている。個人的に、しばらく前からこちらのギークハウスのブログを拝見しているのだけれど、地方都市特有のゆるやかな空気感が感じられて、ここでの暮らしをちょっと羨ましく思っている(もちろん、このブログに書かれざる不便などもあるのだろうけれど)。こうしたギークハウスは、人生の次の展開に向けて自分を再整理する人たちにとっての、一種のセーフティネットとしても有意義なシステムではないかと思う。著者自身が自覚されているかどうか分からないけれど、著者はプランナー、あるいはオルガナイザーとしても、非凡な能力の持ち主であるように見える。

 とはいえ、著者の「できるだけ働きたくない、家族は不要、稼ぎは最小限で構わない」という独特な哲学は、やはり普遍的なものではないのだろう。こうした価値観に違和感を持つ人は、決して少なくないのではないか。私自身は、著者の考え方には結構共感する方だけれど、定職や家庭を持つ選択肢をすっかり放棄してしまうのは、さすがにちょっとハードルが高いなと思う。

 ただ、本書に示される著者の人生観に同感しないとしても、自らと異なるユニークな考えに触れることは、その反射的効果として、現在の自分の価値観を見つめ直させるものである。また、この本には、「人間は一人でいるとときどき偏ったり狂ったりしてしまうから、友人という自分の意見をチェックしてくれる機構が必要だ」とか、「擬似的な『小さな死』をときどき死ぬことでガス抜きをして、本当に死んでしまうことをできるだけ避ける」などといった、日々の生活を送る上での有益な気付きも多く含まれている。著者の主張そのものには賛否両論あるのかもしれないけれど、それを踏まえても、本書は一読に値する一冊ではないかと思う。


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2016年11月23日

【本】金邦夫「すぐそこにある遭難事故」

「すぐそこにある遭難事故 奥多摩山岳救助隊員からの警鐘」 金(こん)邦夫/東京新聞/2015年

 東京・奥多摩で長年山岳救助に携わってきた著者が、個別の遭難事例を詳しく紹介し、安易な登山に警鐘を鳴らした本。著者が山岳雑誌「岳人」に連載した記事や、新たに書き下ろしたコラムなどを、一冊の本にまとめたもの。

 2007年に刊行された、「金副隊長の山岳救助隊日誌」の続編ともいえる一書である。比較的、自由闊達にエッセイが綴られていた感のある前著に比べ、今回は一つ一つの遭難事故の概要説明や、その原因の検証に重点が置かれており、少し重い読後感がある。ただ、自分自身が山で遭難しないためには、こうしたアクシデントから十分教訓を汲みとることが、おそらく重要な教程となるのだろう。

 本書を読むと、一口に遭難事故といっても、かなり色々なバリエーションがあることが分かる。よくある道迷いや滑落事故を始め、愛好者が急増しているトレラン(トレイルランニング)での死亡事故、名クライマー・山野井泰史氏が熊に襲われた事故、前著でも言及されていた山小屋での連続強盗事件、果ては奥多摩の山奥で脱法ドラッグパーティーを開き、幻覚作用のせいで参加者たちが山中を数日間さまよい歩いて、ついには死者も出た案件まで、様々な具体例が詳細に述べられている。こうした事案に対処する山岳救助隊員の苦労もありのままに記されていて、そりゃ隊員たちが怒るのも当然だよな、と思わせられるケースも決して少なくなかった。

 そのような事例の中で、困難な対応を強いられる救助隊員たちが見せる、自らの仕事に対する意識の高さは見逃せない。例えば、まだ3年目の若い隊員が、行方不明者のことがどうしても気にかかり、休日に一人で自発的に山に入っていく姿には、少なからず感銘を覚えた。何かと苦労も多いのだろうけれど、こんなふうに純粋に打ち込める仕事を持てることは、とても幸せなことなのではないかと思った。


2016年10月29日

【本】「文藝別冊 総特集ゆうきまさみ 異端のまま王道を往く」

「文藝別冊 総特集ゆうきまさみ 異端のまま王道を往く」 河出書房新社/2015年

 漫画家ゆうきまさみのデビュー35周年を記念した特集ムック。内容は、本人の3万字インタビュー、有名作家らの特別寄稿、鼎談2本(羽海野チカ・荒川弘・ゆうきまさみ、とまとあき・川村万梨阿・ゆうきまさみ)、脇役キャラ名鑑、主要作品解説、作品年表など。

 かなり充実したコンテンツの、ゆうきまさみ特集本である。自らの漫画家人生を振り返ったロングインタビューを始め、読み応えのある記事が多く、長年の読者の方にとってはたまらない内容なのではないかと思う。私自身は、十代の頃に「究極超人あ〜る」を猛烈に愛好したものの、その他の作品は「パトレイバー」と「じゃじゃ馬」を通読したことがある程度なので、熱心なゆうきまさみファンを名乗ることはとてもできない。そんなライトなファンにとっても、なかなか興味深い一冊だった。

 個人的に面白かった記事は、ゆうきまさみ・とまとあき・川村万梨阿によるスペシャル鼎談だ。1970年代後半に、東京・江古田にあった喫茶店「まんが画廊」で、同好の士たちがアニメについて語り合ったり、アニパロ(今で言う「二次創作」みたいなものか)に精を出したりする様子が赤裸々に語られていて、漫画家ゆうきまさみの原点を見たような気がした。この「まんが画廊」は、小さな喫茶店だったにもかかわらず、他にも有名漫画家になった人などが出入りしていたのだそうだ。同じベクトルを持った人たちは、集まるべき場所に集まるものなのだな、と思った。


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2016年09月22日

西部ニューギニア戦線・歩兵第221連隊第3大隊の壊滅

 以前のサンドイッチ部隊の話に続き、またニューギニア戦の話題を取り上げてみたい。

 昭和19年5月に西部ニューギニア・マノクワリに上陸した歩兵第221連隊第3大隊は、ほとんど敵軍と戦う機会を持たなかったにもかかわらず、実に9割以上もの戦没者を出して壊滅した。戦史作家・久山忍氏が著した「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」(潮書房光人社/2012年)に詳しい証言が収録されているが、今回はこの本を基に、同大隊が辿った悲惨な運命を追うことにする。

1 西部ニューギニアへの進出
 太平洋戦争中の昭和18年9月。大本営はいわゆる「絶対国防圏」を設定し、西部ニューギニアはその最前線となった。同年11月、満州から西部ニューギニアに進出した第2軍司令部は、米軍の来攻時期を昭和19年後半から20年頃と予測し、それまでに西部ニューギニア各地に合計25個の飛行場を造成する目標を立てた。そして、11個の野戦飛行場設定隊を始めとする、大量の後方部隊が西部ニューギニアに投入されたのだった。

 こうした状況の中で、第2軍司令部が置かれたマノクワリには、約2万名の軍人・軍属が派遣されていた。ただ、そのほとんどは飛行場建設にかかわる土木労務者や軍司令部の後方部隊であり、戦闘部隊は皆無に等しい状態だった。ところが、米軍は早くも昭和19年4月に、同様に後方部隊が駐屯していたニューギニア中部のホーランジア(現ジャヤプラ)に、また5月には、第36師団が守備するサルミとビアク島にも上陸し、マノクワリへの来攻も旦夕に迫ったものと考えられた。

 このように情勢が急迫していた昭和19年5月、ようやくマノクワリに戦闘部隊が進出した。北支戦線からニューギニアに転用された、第35師団歩兵第221連隊の第2大隊と第3大隊である。このうち第2大隊はすぐにビアク島に投入され、後に玉砕に至るが、連隊本部と第3大隊を中心とする約1,000名の兵力は、そのままマノクワリの守備に就いた。後方部隊ばかりのマノクワリで、軍旗を頂く戦闘兵種の存在は大いに頼もしがられたという。


2 過酷な使役
 歩兵第221連隊第3大隊は、マノクワリ上陸時にわずか1週間分の食料しか持っていなかったが、十分な給養も与えられぬまま、ただちに敵上陸に備えた陣地構築に駆り出された。ニューギニアの厳しい自然環境の下、硬い珊瑚礁を相手にした手作業の塹壕掘りは、兵士たちを大いに苦しめた。次いで7月以降、陣地間をつなぐ自動車道路建設工事にも使役され、既に栄養失調とマラリアで衰弱していた兵士たちは、過重労働の中でばたばたと死んでいった。

 そして、ついに米軍の上陸を迎えないまま、マノクワリがすっかり戦線の後方に取り残されていた昭和19年10月。マノクワリ支隊長だった深堀游亀少将は、各部隊に完全自活を命令し、一切の食料配給を停止した。軍の補給廠にはまだ物資の集積はあったが、後方からの補給が期待できなくなった戦況にかんがみ、それぞれの部隊に自ら食料の調達を求めたのである。早くからマノクワリに進出していた各部隊は、既に自前の農園を拓き、一定の食料の備蓄もあったが、最後にマノクワリに到着し、その後も土木作業に使役され続けてきた歩兵第221連隊第3大隊は、農地も食料もほとんど保有していなかった。飢餓と病と過酷な工事に苦しんできた兵士たちは、その日の食料にも事欠く有様となり、いよいよ破滅の瀬戸際に立たされた。


3 壊滅
 昭和19年11月。第3大隊の一部の兵士たちが、他部隊の倉庫から食料を盗み出す事件が発生した。元はと言えば、この大隊が窮地に陥った原因は、マノクワリ支隊による苛烈な使役と、公平性を著しく欠いた食料配給停止措置にある。ただ生き延びるために食料を奪った兵士たちを責めるのは、あまりにも酷であろう。しかし支隊司令部は、大隊に対する懲罰として、事件を起こした第3大隊の第10中隊、第11中隊、第12中隊を、「ワルパミ峡谷」へ移駐させる命令を下した。

 ワルパミ峡谷は、加東大介の名著「南の島に雪が降る」にも、「ワルバミ」という地名で登場している。日光が入らない狭隘な湿地帯であり、農耕に適する土地もなく、到底人間の住める環境ではなかったという。この移駐命令の結果、それぞれ200名程度の人員を有していた各中隊のうち、戦後日本に生還できた者の数は、以下のとおりとなった。

 第10中隊 0名
 第11中隊 1名
 第12中隊 2名

 これらの中隊は精強を誇った現役兵部隊だったが、まともに敵と戦わないまま、とうとう全滅状態に追い込まれた。久山書にもさまざまなエピソードが紹介されているが、率直に言って、マノクワリの軍上層部は、およそ正常な神経で統率を行っていたとは思われない。第3大隊のその他の各部隊(第9中隊、機関銃中隊、歩兵砲中隊、通信隊)でも餓死者・病死者が続出し、存続困難となった大隊は、結局、昭和20年6月1日付けで解隊されている。


4 最後に
 冒頭に掲げた戦史作家・久山忍氏は、西部ニューギニア戦線について、以下のように総括している。

「西部ニューギニアでは、無用な行軍、無意味な作戦、無慈悲な命令によって死んだ兵たちがおびただしかった。私の私見であるが、もし、仮に、西部ニューギニアのすべての各指揮官が適切な指揮能力を発揮していれば、七万以上といわれる西部ニューギニアの死者は半分以下におさえられたのではないか」

 久山氏による「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」は、こうした悲惨な西部ニューギニア戦線を生き抜いた兵士たちの証言を、丁寧に掬い上げた労作である。上記に掲げた歩兵第221連隊第3大隊の苦難の過程は、ほんの概要だけを簡単にまとめたものに過ぎない。西部ニューギニア戦史に御関心のある方は、ぜひ同書を手にとっていただければと思う。久山氏が言うように、まずは「知る、ということが、死者に対するもっとも良い供養になる」のではないかと思われる。


posted by A at 14:30| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする

2016年08月27日

【本】衣笠周司「戦時下の記者たち −セレベス新聞を読む−」

「戦時下の記者たち −セレベス新聞を読む−」 衣笠周司/向陽書房/1997年

 昭和17年から20年にかけて、日本軍政下のセレベス島(現・スラウェシ島)で発行された、「セレベス新聞」の製作経緯を追ったノンフィクション。

 太平洋戦争が始まり、日本軍が南方地域を占領すると、軍は占領地で新聞の発行を志向するようになった。現地日本人の戦意高揚と土着住民への宣伝工作のために、新聞が有効なツールだと考えたのである。そして陸海軍は、それぞれの担当軍政地域での新聞刊行業務を、有力新聞社に委託することとした。その結果、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、同盟通信ほかの各社が、各地に記者や編集機材を送り込み、現地での新聞発行を担うことになった。ちなみに、陸軍が新聞発行を委嘱した地域はジャワ(朝日)、フィリピン(毎日)、ビルマ(読売)、マレー・シンガポール・スマトラ・北ボルネオ(同盟ほか)。海軍は、南ボルネオ(朝日)、セレベス(毎日)、セラム(読売)であった。

 このうち、海軍の委託によりセレベス島で発行された「セレベス新聞」は、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)から派遣された日本人記者や業務・工務関係社員、のべ100人以上によって製作された。「セレベス新聞」の本社は南セレベスのマカッサルに置かれたが、北セレベスのメナドにも支社が設けられ、「セレベス新聞・メナド版」を発行していた。また、現地住民や華僑のスタッフも使って、現地語の新聞「プワルタ・セレベス」も刊行していたのだという。発行部数としては、「セレベス新聞」は、最盛期にはマカッサルだけで8,000部。「プワルタ・セレベス」は、マカッサルで3万部、メナドでも28,000部に及んでいる。

 昭和17年12月8日に創刊号が刊行された「セレベス新聞」は、わずか2ページの構成ながら、日刊(毎週月曜休刊)で発行され、価格は1部7銭(のち8銭)。一面には、東京本社から電話で送稿された、国内の新聞と同じ記事(大本営発表の戦況報道など)が主に掲載されており、二面には記者が現地で取材した記事も多く載せられた。終戦後の20年9月頃まで発行が続けられ、最終号は800号を越していたとも言われている。終戦とともに、現地に残されていた新聞が焼却されたため、戦中に内地に回送された分を除き、少なくない紙面は現存していないとのことである。

 本書は、この「セレベス新聞」の発行に携わった毎日新聞記者たちの回想を踏まえつつ、新聞の編集作業の実態や、戦時のセレベス島の様子などを描いた著作である。比較的平和なセレベス島で、記者たちが住民の文化を取材して記事にする様子や、戦後の捕虜収容所や日本への復員船の中でさえガリ版刷りの新聞を発行し続けたことなど、当時の新聞関係者の活動状況がありのままに描かれていて興味深い。あまり広く知られた本ではないけれど、南方軍政地域でのメディア関係者の姿を分かりやすく伝えた、好著と言ってよいのではないかと思う。


posted by A at 20:13| 本(戦記) | 更新情報をチェックする