2016年02月11日

ニューギニア戦線の「サンドイッチ部隊」について

 今回は、太平洋戦争のニューギニアの戦いでほぼ全滅の悲運に遭った、「サンドイッチ部隊」について概要をまとめてみたい。なお、ニューギニアの地図としてはこちらや、こちらを参照されたい。

 過去の記事でも簡単に触れたことがあるが、東部ニューギニア戦線で苦難の撤退戦を続けていた日本陸軍の第18軍は、昭和19年4月当時、優勢な米軍に押され、西方への過酷な転進を行っている最中だった。そんな中で飛び石作戦を採用した米軍は、4月22日、第18軍が集結しつつあったウエワクの、さらに西方約200kmに位置するアイタペと、同じく西方約350kmのホーランジア(ホーランディア、ホルランジャなどとも表記される。現在の地名はジャヤプラ)に同時上陸した。これにより第18軍は敵中に孤立し、終戦を迎えるまで困難な現地自活を強いられることになった。

 この米軍上陸当時、たまたまアイタペとホーランジアの間を、西方に向けて転進中の部隊があった。戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5 アイタペ・プリアカ・ラバウル」によれば、以下の各隊がそれであり、総人員は約2,500名程度だったという。

・第18軍司令部の一部(軍獣医部長石坂九郎治中佐指揮)
・第41師団の一部
・野戦高射砲第61大隊主力
・独立工兵第36連隊主力
・第1揚陸隊主力
・第36野戦道路隊主力
・軍補給諸廠の一部
・第23野戦防疫給水部
・建築勤務第51中隊の一部

(注:このほか、少なくとも島田覚夫氏が所属した第209飛行場大隊の一部が存在する。同大隊が上記の戦史叢書に記載されていないのは、この部隊が第18軍ではなく、第4航空軍(第6飛行師団)の所属だったためか。
 また、海軍にも西方移動中の部隊があったほか、バニモ(アイタペとホーランジアの間にある港町)やアイタペに駐屯していた部隊があった)

 東西を米軍に挟まれ、脱出の術を失ってしまったこれらの部隊は、当時「サンドイッチ部隊」と呼称された。この「サンドイッチ部隊」と、アイタペから西を目指して撤退してきた一部の部隊、合計約4,000〜5,000名は、ホーランジアのはるか南を迂回し、第36師団が駐屯する西部ニューギニアのサルミ(ホーランジアの西約400km)への転進を図った。
 そして、戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」と「豪北方面陸軍作戦」によれば、これら諸隊の辿った末路は以下のようなものであった。

・各部隊は、バニモからアルソー(注:現インドネシア・パプアニューギニア国境付近の山中にあった、日本軍の兵站基地)へ転進
・この地域は山地峻険であったため、アルソーへの到着には半月〜1月程度を要した
・アルソーで陸稲その他の現地物資を入手
・6月上旬ごろアルソーを出発。梯団を組み、ゲニムに向かう(注:ゲニムはホーランジア南西の地点であり、この頃既に米軍が占領していた。なお、この地図ではセンタニ湖沿いに「Genyem」の表記があるが、戦記を読む限り、日本軍が目指したのはもっと山中の地点だったように思われる)
・ゲニムへの移動途中、地形錯雑のため方向を誤る。やむを得ず各部隊は、ばらばらに分かれてゲニムに前進
・6月中旬〜下旬ごろ、ようやくゲニム付近に到達
・ところが、ゲニムで敵の潜伏攻撃を受け、各隊の大半は散乱
・生き残った者のみが数名〜小部隊ごとの一団となりサルミを目指すが、サルミまで辿り着けた者はほぼ皆無
・結果的に、ホーランジア南方の錯雑地を西移する間に、部隊のほとんど全部は死亡。死亡率は99.9%に達したものと判断される
(注:戦史叢書に書かれた「99.9%」という数字の根拠は不明だが、後述の奥崎謙三氏のように、捕虜になって生還した者の存在は考慮していない数字であるように思われる)

 こうして、「サンドイッチ部隊」を含む約4,000〜5,000名の部隊は、ほぼ全滅に追い込まれた。個々の兵士たちがどこを流転し、どこで戦没したのか、詳細は現在でも明らかでない。確認できた範囲では、以下の書物に、これらの部隊に関する記述がある。

・島田覚夫「私は魔境に生きた」(光人社NF文庫ほか)
 著者は「サンドイッチ部隊」の奇跡的な生還者であり、部隊の雰囲気を克明に書き残している。同書によれば、著者一行は米軍上陸の前日にアイタペを出発し、そのままホーランジアを目指して西進。5月30日になってようやくホーランジア陥落の事実を知り、6月12日に、出会った日本兵から以下の情報を聞く。

「ホルランヂアの南方を迂回する友軍の撤退路は完全に敵に遮断せられ、夜は探照燈まで使用しての警戒でとうてい突破は不可能である。付近は股を没する一面の湿地で、この路を避けることができず、強引に突破を試みた友軍の大多数はその地で全滅した。折柄タミ川付近に在った独立工兵連隊は集団行動の不可能を思い、部隊はついに解散、各自の自由行動をとることになった。再びアルソーに引き返す者もあり、大部は友軍再挙の日を待ち密林に入って待機するなどの手段をとった」

 この情報を受けて、著者一行もジャングル籠城を決意した。そして昭和30年、生き残った4名が日本の土を踏んだのである。
 なお、同書初版の刊行は1986年であるため、戦史叢書執筆者は、彼らの存在を認識していなかったのではないかと思われる。

・「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」所収 高橋孫三郎「第九艦隊が壊滅した日」
 本記事によれば、昭和19年4月にバニモを発ち、20年2月にサルミに到着した高砂義勇隊員が、3名いたそうである。彼らがそのまま終戦を迎えられたとすれば、彼らこそが、4,000〜5,000名のうち0.1%の生還者に含まれるのだろう。

奥崎謙三「ヤマザキ、天皇を撃て!」(三一書房ほか)
 著者は独立工兵第36連隊所属であり、捕虜になり生還した人物である。本書にジャングル彷徨時期についての記述があるとのことだが、個人的に未読のため言及は避ける。

・佐藤清彦「土壇場における人間の研究」(芙蓉書房出版)
 戦前の流行歌手、上原敏(第1揚陸隊第2中隊所属)に関する記述がある。彼は昭和19年3月末か4月初旬ごろ、ウエワク・アイタペ間で道路補修・架橋作業に従事していた独立工兵第33連隊第3中隊の将兵60名の前で、乞われて「妻恋道中」「流転」の2曲を歌っている。その後、彼の所属する第1揚陸隊主力は、アイタペ・ホーランジア間を西進中に4月22日の米軍上陸を迎えており、以後の彼の消息は明らかでない。

 ニューギニア戦線では、ホーランジアの戦いの参加者(約13,500名戦没)、「イドレ死の行軍」の参加者(約10,000〜12,000名戦没)のように、戦闘以外の過程で膨大な将兵・軍属が死亡した事例がある。そうしたいくつかのケースの中でも、この「サンドイッチ部隊」は、極端に生還率が低い部隊である。多くの戦没者が内陸で死亡していることもあり、遺骨収集は、今でも十分に果たされていないのではないかと思われる。南溟の地に果てた人々の冥福を、ただ祈るほかない。


(補記)アイタペ、ホーランジアの守備隊について
 合わせて、アイタペ、ホーランジアの守備隊についても簡単に整理しておく。

<アイタペ守備隊>
 戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」によれば、米軍の上陸を受けた際、アイタペには以下の兵力があった。

・アイタペ警備隊(安部龍三大尉の指揮する第20師団補充員2個中隊、約450名)
・第54兵站地区隊アイタペ支部(竹井作市中佐以下100名)
・第31碇泊場司令部の一部
・第3揚陸隊主力(隊長 淺尾時正大佐)
・軍補給諸廠の一部
・前田奉公隊(前田主計大尉の指揮する現地人部隊)
・飛行場部隊および防空部隊
以上合計 約2,000名
(注:このほか、海軍第27根拠地隊の約200名がいた。また、第18軍憲兵隊が当時アイタペに向かっていたが、米軍上陸時にアイタペに到着していたかどうかは不明とのこと)

 これらのうち、安部大尉の指揮する部隊は東方の第18軍に向けて撤退し、5月10日、約200名が第20師団への合流に成功している。一方、兵站支部その他の部隊はホーランジア方面への転進を図ったものの、「サンドイッチ部隊」と同様の運命を辿っている。


<ホーランジア守備隊>
 米軍上陸時、ホーランジアには約14,600名の兵力があったが、そのほとんどは後方部隊などであり、戦闘能力は皆無に等しかった。これらの部隊は西方のサルミに向けて撤退したが、大半の将兵が戦没している。生還が確認できるのは、サルミ周辺地区で終戦を迎えられた約400名、ホーランジアで捕虜になった600名強であり、このほか稲田正純第6飛行師団長以下の若干名が、昭和19年時点でニューギニアを脱出している。
 この部隊の悲惨な撤退行と現地自活については、以下の各書に詳述されているので、ここでは記述を割愛する。

・戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5 アイタペ・プリアカ・ラバウル」「豪北方面陸軍作戦」「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」の各書
・田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録」(ゆまに書房)
・佐藤清彦「土壇場における人間の研究」(芙蓉書房出版)
・「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」所収
  坂本経雄「ホーランジア→サルミ「死の行進」」
  高橋孫三郎「第九艦隊が壊滅した日」

 また、個人的には未読だが、ラバウル・ニューギニア陸軍航空部隊会編「幻 ニューギニア航空戦の実相」にも、ホーランジア撤退部隊に関する詳しい記述があるようである。


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2015年08月22日

旧制中学卒の陸軍軍人

 戦前の日本陸軍の将校養成機関であった陸軍士官学校は、主として陸軍幼年学校の卒業者と、旧制中学校の卒業者(又は四年修了者)から生徒を採用した。このうち、陸軍の主流派を占めたのは幼年学校の卒業者だった。「早くから軍人精神を叩き込まれた幼年学校出身者こそが、志操堅固であり、天皇への忠誠心も篤く、軍人として優等な存在である」というような意識が、彼らにはあったようだ。三根生久大「陸軍参謀」(文春文庫、1992年)には、以下のような記述がある。

「…もともとこの幼年学校の制度は、ドイツの伝統的な兵制と貴族の特殊学校の影響を受け、将校として、また国家のエリートとしての意識を幼少の頃から植えつけられてきているので、中学校から士官学校に入校してくる者との間には、少なからぬ格差があった。
 そうしたことから、中学校出と幼年学校出が士官学校内で激しく対立していたことがあり、大正二年には第二十七期の双方が市ケ谷台上で大乱闘に及び、多くの負傷者を出すという事件さえ起こったのだった。戦後、極東国際軍事裁判の検察側証人として出廷し、内外の注目を浴びた田中隆吉は、このことについて次のように回想している。

<…陸軍には幼年学校出身者と中学出身者との二大潮流があった。…幼年学校出身者は中学出身者を“デーコロ”と呼んでこれを蔑視し、中学校出身者は幼年学校出身者を“ピーコロ”と呼んでこれを憎悪する。この対立は世間の想像を超えた深刻なものであった。しかも先輩は後輩に対し、この対立思想を植え付けて叱咤激励する。…これはまた昇進後いかなる階級同士の間にあっても、大小の差こそあれ“デーコロ”“ピーコロ”の抗争は存続した。(『日本軍閥暗闘史』)>

 …中学出と幼年学校出の軋轢は時には人事にまで影響したといわれたが、事実、陸軍大学校の学生は圧倒的に幼年学校出身者が多く、昭和の初期ごろまでは陸軍大学校在籍の学生中、中学出はわずかその一割にすぎないこともあった。
 陸軍人事に強大な権限を持っていた陸軍省人事局補任課員は全員が幼年学校出身者であったし、中学出で大将にまで昇進した者は数えるほどしかいなかった。
 これは能力上の問題ではなくて、陸軍の人事上の基本的姿勢であったといわれている。」

 ちなみに、「デーコロ」「ピーコロ」の意味は、
「予科士官学校においては、幼年学校出身者と、一般の中学出身者とは反目が激しく、幼年学校出身者は自分たちを、cadet・カデット(士官候補生の意)から「Cさん」と称し、中学出身者を、Cより劣るDという意味で「デーコロ」と侮称した。ころは、犬ころ のころである。逆に中学出身者は、幼年学校出身者を「ピーコロ」と軽蔑した。「cadetとはおこがましい、ただのpupilではないか。」という意味で考案された侮称である」(Wikipedia「陸軍幼年学校」の項より)
なのだそうだ。

 このように、軍の主流派にはなれず、軍中央の要職に就く機会も少なかった中学卒の将校たちだったが、いざ太平洋戦争が始まると、むしろ彼らの中から、目覚ましい武勲を挙げたり、柔軟・合理的な判断を示したりする軍人が現れているように思う。例えば、以下のような人々が挙げられよう。

・今村均(新発田中卒、陸士19期。南寧作戦蘭印作戦・軍政を成功。終戦までラバウルを保持)
・田中静壱(龍野中卒、陸士19期。東部軍管区司令官として宮城事件を鎮圧)
・水上源蔵(日川中卒、陸士23期。ビルマ・ミートキーナを死守、自決)
・栗林忠道(長野中卒、陸士26期。硫黄島の戦いを指揮)
・宮崎繁三郎(岐阜中卒、陸士26期。ビルマ戦線で活躍)
・中川州男(玉名中卒、陸士30期。ペリリューの戦いを指揮)
・今井武夫(長野中卒、陸士30期。日中和平工作・終戦処理に従事。第2次バターン戦の際、辻政信が出した偽の処刑命令を見破り捕虜を逃がす)
・鈴木敬司(浜松中卒、陸士30期。「南機関」機関長)
・小畑信良(茨木中卒、陸士30期。第15軍参謀長としてインパール作戦に反対、更迭)
・八原博通(米子中卒、陸士35期。第32軍高級参謀として、米軍に評価された沖縄防衛作戦を立案)

 もっとも、中学卒の軍人の中には、以下のような人々もいることも付記しておかなければならない。

・河辺正三(陸士19期。インパール作戦時のビルマ方面軍司令官)
・豊嶋房太郎(陸士22期。第2軍司令官、「イドレ死の行軍」の責任者)
・福栄真平(陸士23期。第102師団長当時、レイテ島の戦いで無断撤退)
・立花芳夫(陸士25期。第109師団長当時、小笠原事件を起こす)


 これに対して、対支戦線拡大、ノモンハン事件、日独伊三国同盟締結、対米開戦などの局面において、軍の中枢にあって判断を誤り、視野の狭さを見せた軍人たち(東条英機、武藤章、田中新一、冨永恭次、服部卓四郎、辻政信など)を想起すると、そのほとんどは幼年学校出身者である。中学卒で目立つのは、佐藤賢了くらいではないだろうか。

 以上のような事実から考えてみると、10代半ばの多感な時期に幼年学校で偏頗な教育を受けるよりも、一般中学で、文学や芸術や音楽に触れたり、いろいろ道草を食ったりする時間を与えられた方が、ずっと柔軟で理性的な思考の持ち主の育成につながったのではないかと思われる。陸軍よりも海軍の方に、比較的視野の広い軍人が多かったとも言われるが、その要因の一つに、海軍兵学校の生徒を中学卒業者から採用していたことが挙げられるのではないか。
 そうした意味では、現代の防衛大学校が高校卒業者に受験資格を与えていることは、少なくとも過去の陸軍と比較すれば、適切な選抜制度を採っていると言えるのではないかと思う。

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2012年02月25日

レイテ島・カンギポット残留部隊のその後

 フィリピン中部のレイテ島は、太平洋戦争の「天王山」とうたわれた激戦地だった。米軍との決戦のために、この島には84,006名もの日本軍将兵が派遣されたが、このうち、島内で捕虜になるなどして生還した者の数は、僅かに2,500名だった(大岡昇平「レイテ戦記」による)。このほか、セブ島への転進に成功し、終戦まで生き延びた第1師団将兵(500名以下)なども含め、レイテ島派遣部隊全体の生還者数をひとまず3,000名と仮定して計算すると、レイテ戦における将兵の死亡率は、実に約96%となる。この異常な数字は、悲惨な戦場として知られるガダルカナル島の戦い、インパール作戦、東部ニューギニアの戦いをも上回るものである。

 レイテ島の日本軍の死亡率が、このような凄絶な数字になった理由の一つは、レイテ島の戦いの大勢が決した後、敗軍が島から退却できなかったためだろう。昭和19年12月26日、マッカーサー大将がレイテ戦の終結を宣言した時点でも、レイテ島には2万近い日本軍が残存しており、昭和20年3月時点でも1万人前後の敗兵が生き残っていたと言われる(「レイテ戦記」)。これらの将兵は、米軍による制空権・制海権の下で島から脱出する術も持たないまま、レイテ島北西部のカンギポット山付近に立て籠もり、米軍やフィリピンのゲリラ部隊を相手に絶望的な抵抗を続けた。そして、飢えと病の中で次々に倒れていき、終戦後、生きて山から下りてきた日本軍将兵はほぼ皆無だったという。

 こうした戦闘経過を辿ったことから、カンギポット山方面で抗戦した日本軍各部隊の最期は、現在でも明らかになっていない部分が多い。昭和20年3月に、第35軍司令官・鈴木宗作中将が伝馬船でレイテ島から辛うじて脱出した後、第16師団長の牧野四郎中将が残留部隊の総指揮を執ったと言われているが、このような将官クラスや、連隊長・参謀など佐官クラスの高級将校でさえ、その後の動静は十分明らかでない。「レイテ戦記」では、第26師団(泉兵団)独立歩兵第12連隊長の今堀銕作大佐が、その最期の模様が伝わっている唯一の部隊長とされており、このほか、第26師団参謀長の加藤芳寿大佐の最期の様子も判明しているが、その他の軍人については確定的な情報はないままである。今回は、レイテ島残留部隊を指揮したであろう高級将校のその後の消息について、情報の確度を問わず、関連書籍から幅広く集めてまとめてみたい。

○牧野四郎中将(第16師団長)
 御子息の牧野弘道氏(元・産経新聞編集委員)が執筆された、「戦跡に祈る」(産経新聞社。以下、便宜上「牧野書」と呼ぶ)という本に、中将の命日に関する記述がある。同書によれば、

「公刊の『戦史叢書・レイテ決戦』では「牧野中将は八月十日ころ自決した」となっているが、これは確認された事実に基づく記述ではない。戦死公報での父の命日は七月十五日で、これについては母から、戦後鹿児島県の世話課に勤務していた元陸軍中佐が、「閣下のご命日はどうしても特定できないので、諸情報を総合して七月十五日とさせていただきます」と挨拶にきたと聞いている。」

とのことである。なお、少なくとも7月頃まで牧野中将が生存していたことを窺わせる証言は存在する(次の加藤参謀長の項を参照)。

○加藤芳寿大佐(第26師団参謀長)
 加藤大佐については、大佐と行動を共にした茶園貞夫曹長が生還したため、比較的詳しい消息が明らかになっている。再び牧野書から引用する。

「七月頃まで父(注:牧野中将)が生きていたという説はほかにもある。七月四日、泉の独立歩兵第十二連隊長今堀銕作大佐の自決に立ち会い、その後捕虜になって生還した東嶋登大尉の証言もその一つ。今堀大佐自決のあとカルブゴス山にいた泉の生き残り将兵は十九人で、参謀長の加藤芳寿大佐は栗栖師団長代理に意見具申し、最後の任務として部隊の最期を報告するため三群に分かれ、栗栖少将以下三人は残留部隊指揮官の父がいたという南部カルブゴス山へ、加藤大佐以下七人はセブの軍司令部(すでにミンダナオへ移っていた)へ、東嶋大尉以下九人はサマール島経由でルソン島の方面軍司令部へ向けて出発した。
 父が生きていたとすれば、栗栖少将とはすぐ近くにいたことになるが、二人が会えたかどうかは不明のままである。加藤大佐は七月二十四日、ゲリラに襲われ戦死した。それが分かったのは大佐の護衛役、T曹長が捕虜になって生還したからである。数年前私は、T曹長が復員後に大佐の未亡人にあてた手紙を、ご遺族に見せていただいたことがある。曹長はバレンシアに降下した高千穂部隊の隊員で、生きがよかったため他の隊員とともにもっぱら高級将校の護衛役に任命された一人だった。曹長は手紙で、ゲリラの襲撃を受けた際、脱出するのがやっとで、大佐の遺体を埋葬することもできず、ただ木の枝で覆い隠したまま逃げたことを悔い未亡人に詫びていた。一行のうち生還できたのは東嶋大尉とT曹長の二人だけである。」

○沖静夫少将(歩兵第126連隊長、第68旅団長)
 第26師団長の山縣栗花生中将戦死後、その後任には第68旅団長の栗栖猛夫少将が補され、栗栖少将の後任に歩兵第126連隊長の沖少将が任命されたというのが一般的な説である。しかし、どういう訳か、山縣中将の後任として、沖少将が第26師団長に任命されたという記述が、いくつかの戦記に散見される。その一例として、「七月八日、沖は、参謀長に戦況報告のためルソンへの脱出を命じ、自分は一人の手兵もなく、わずかに二名の高砂族に担がれて、牧野中将の第十六師団司令部へ身を寄せた」というものがある(甲斐克彦「陸大物語」光人社NF文庫)。
 レイテ戦末期に関しては、その模様を知る生還者もほとんど存在せず、数少ない生還者も飢餓や病のため記憶がはっきりしないケースがあるようである。証言に混乱が出るのは、やむを得ないことなのかもしれない。

○炭谷鷹義大佐(歩兵第41連隊長)
 ミンダナオ島の第30師団からレイテ島に投入された歩兵第41連隊については、連隊砲中隊長の佐々木寛平大尉が生還しており、昭和20年7月5日までの連隊の行動は明らかになっている(同日、佐々木大尉は敵弾に倒れ、人事不省になっているところを米軍に救出された)。御田重宝「人間の記録 レイテ・ミンダナオ戦」(徳間文庫)から、佐々木大尉の証言を引用する。

「食糧不足は極度にひどく、カンギポットに着いてから栄養失調、マラリア、下痢それに精神病患者が多くなりました。気が狂ってくるんですね。弾丸もありませんから、砲撃があると逃げ回るだけです。米軍は高いところから砲撃して来ますから、こっちの姿はまる見えです。木の陰、岩の下などに隠れるだけ。それしかない。
 人間は不思議なもので、負けいくさの兵隊は自然に固まるものだと知りました。お互いに肩と肩をすり合わせるようにして群がり、谷間のあちこち固まっているのです。そのころになるともう上官も部下もありません。人間と人間の交際になります。」

「弾薬、食糧がなくなって、日本兵がフラフラしながら谷から谷をさ迷うようになったのは、前にもいったように、二十年三月になってからです。
 私は連隊本部とだいたい行動を共にしていましたから炭谷連隊長の司令部の事情については語れる一人です。
 五月、六月と日時がたつにつれて、人員の減少は目に見えてひどくなり、六月になると完全に組織力を失ってしまった、といってよいと思います。(中略)
 七月に入ると、四一連隊の隊員は何十人いたか、何人だったのか、全くつかめません。命令してどうする、というような状況ではありませんでした。上官も部下もなくなっていましたからね。
 私が米軍の迫撃砲にやられたのは七月五日のことですが、そのときまで、炭谷連隊長や中村大尉(通信中隊長)が生存していたのは確実です。米軍の迫撃砲に撃たれて、近くで爆発したところまでが、カンギポット山付近での私の記憶の最期です。気がついてみると、私はカンギポット山の南側にあった米軍の野戦病院にいました。(中略)
 終戦後、レイテの捕虜収容所で、多くの――といっても十人前後だったと思いますが――レイテ島に投入された四一連隊の生き残りに会うことができました。当然、その後の連隊の様子が話題になりました。
 だれがいってくれたのか全く記憶していないんですが、終戦になる一カ月前といいましたから七月十五日ですね。その日、ついに炭谷連隊長は軍旗を焼き、自決された、ということでした。(中略)捕虜収容所での伝聞ですから、どこまで正確か、そこは不明です。私に語ってくれた兵隊も、だれかから聞いたのかもわかりません。可能性としていえば、米軍の砲弾に当たって戦死したことも考えられますが、私の聞いたところでは、七月の中旬に、軍旗を焼いて、連隊長は自決、というのが四一連隊の終末ということになります。」

 「人間の記録 レイテ・ミンダナオ戦」によれば、レイテ島に投入された歩兵第41連隊主力の将兵の中で、生存が確認されている将校は佐々木大尉ただ一人であり、その他の生還者は下士官・兵が十人あまり、というのが実情のようである。

○勝田太郎少佐(第1師団後方参謀)
 遺族の元には、「フィリピン・レイテ島カンギポット山で、死亡日も不確認のまま、師団の最高責任者として、三十八年の生涯を閉じたようです」との情報が伝わっていたようである(高木俊朗「戦死」文春文庫)。片岡師団長脱出後、第1師団のレイテ島残留部隊の指揮を執ったのは、野砲兵第1連隊長の熊川致長大佐とされているが、あるいは熊川大佐が戦没し、勝田少佐が第1師団を率いるような状況があったのだろうか。
 なお、大岡「レイテ戦記」には、今堀大佐自決(7月4日)の頃、「十六師団長牧野中将、二十六師団後任師団長栗栖少将、六十八旅団長沖少将、参謀長加藤大佐、百二十六聯隊長(六十八旅団)金田大佐(沖少将後任)、第五聯隊長高階大佐、四十一聯隊長炭谷大佐、中村軍高級参謀、勝田第一師団後方参謀らは生きていたといわれる」との伝聞が掲載されている。

○中村貢大佐(第35軍高級参謀)
 牧野書に驚くべき記載がある。中村大佐の当番兵、山口喜蔵氏が生還しており、フィリピンの戦友・遺族の親睦団体「曙光会」第36号(昭和61年5月1日発行)に証言を寄せているのだが、それによれば、中村大佐一行は終戦も知らずに昭和20年8月末か9月ごろ、現地民のバンカーでレイテ島からセブ島に脱出し、その後、別の島でゲリラに襲撃されて戦死したというのだ(詳細は牧野書を参照されたい)。
 将官クラスの消息さえ明らかでない最末期のレイテ島で、中村大佐が十人ほどの兵を養いつつ、日本軍に激しい恨みを持つ現地民からバンカーを入手することに成功し、無事セブ島に渡航するというのは、やや非現実的な部分もある話ではないかと思える。しかし、脱出の途中で負傷した山口氏が、セブ島で捕まり生還していることも、また厳然たる事実である。


 このほか、レイテ戦に関する戦記は、これだけ膨大なものが存在するようである。これらを丹念に調べていけば、レイテ島残留部隊について、もう少し詳しい事実関係が明らかになるかもしれない。

 以上のように、レイテ戦末期の事情を調べて気がつくのは、幹部クラスの主要な将校は、少なくとも昭和20年7月ごろまでは生存していたのではないか、ということである。東部ニューギニアの第18軍は、玉砕を目前にして、辛うじて終戦を迎えることができたが、レイテ島の残留部隊は、不幸にも、あと僅かのところで終戦に間に合わなかったのではないか。
 そして後世の我々は、こうした膨大な犠牲を生んだ戦いがあったこと、国や家族を守るためにたくさんの人々が死んでいった事実を、決して忘れてはならないと思う。


(追記)レイテ戦に参加した将兵の戦没日について
 「第六十八旅団奮戦記」という本によれば、同旅団の主要将校の公報上の戦没日は、以下のとおりである。

・栗栖猛夫少将(第68旅団長→第26師団長代行) 昭和20年7月17日
・沖静夫少将(歩兵第126連隊長→第68旅団長) 昭和20年7月3日
・米沢克行少佐(旅団次席副官→旅団砲兵隊第2大隊長) 昭和20年7月17日

 このように、レイテ戦関連の記録を読んでいると、将兵の戦没日を「7月17日」としている例が少なくない。どの本で読んだ記述か忘れてしまったのだが、レイテ戦末期については、将兵の戦没日を確定することができないため、便宜上、特定の日付をまとめて戦没日として認定しており、そうした日付の一つが「7月17日」ということのようである。

 昭和20年4月以降にレイテ島に残留していた将兵は、そのほとんど全員が生還していない。つまり、誰がいつ、どこで戦没したかを証言できる者が、ほとんど誰も還ってきていないということになる。レイテ戦に参加した将兵の、特に20年4月以降で認定されている戦没日は、同じ部隊に生還者が存在するような極めて希有な例を除けば、その多くが推測の日付ではないかと思われる。

 なお、第68旅団(星兵団)については、別記事に詳しくまとめた。


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2011年11月26日

消えた久保田支隊

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1075765500

 こんなところからリンクが張られていた。大昔に見たドラえもんの映画で、ドラえもんが「昔、中国で、3千人の軍隊が行方不明になった」みたいな台詞を言っていたシーンがあった気がするけれど、あれは日本軍の話ではなかったように思う。(調べてみたら、「のび太の日本誕生」で、中国兵士集団失踪事件の話に触れられているようだ。)

 とはいえ、「日本軍が集団で行方不明になった」事例は実際に存在する。今回は、太平洋戦争末期にルソン島の守備に就いたものの、現在に至るまでその後の消息が知れない部隊、「久保田支隊」について小文を書いてみたい。

 昭和19年末のこと。満州からルソン島に転用されてきた第23師団(旭兵団)は、米軍の上陸に備えて、リンガエン湾沿岸の防備強化に大わらわとなっていた。そんな中、ルソン島守備軍の最高司令部である第14方面軍の西村敏雄参謀副長は、12月28日、第23師団に対して唐突に命令を下す。それは、師団本体から遠く離れた、リンガエン湾の南西端のラブラドールに、兵力の派遣を求めるものだった。

 これを受けて第23師団では、捜索第23連隊(長:久保田尚平中佐)、歩兵第72連隊第1大隊(長:野田敏夫大尉)、工兵第23連隊の工兵分隊(長:前田明義軍曹)、その他の小部隊からなる約2500名の部隊を編成し、ラブラドールを中心とした地域に展開させた。部隊の指揮を執ったのが久保田中佐であったことから、この部隊は「久保田支隊」と呼ばれた。九州出身の現役兵を主体とした、精鋭部隊だったという。

 西村参謀副長の意図は、久保田支隊をリンガエン湾南西に置くことにより、ラブラドールの西北3キロのスアル港に配備されていた海上特攻隊を援護すること。合わせて、リンガエン湾よりさらに南方のクラーク飛行場群を守る建武集団(長:塚田理喜智中将、約3万名)との連絡を確保することだった。これは、陸大出の秀才参謀が描く机上の作戦計画としては見栄えの良いものだったが、結局のところ、およそ現実にはそぐわない図上作戦であった。明けて昭和20年1月9日、リンガエン湾にアメリカの大軍が上陸し、激しい戦闘が開始されると、第23師団と久保田支隊の通信は完全に途絶えてしまう。憂慮した第23師団は、久保田支隊に向けて将校斥候を3度派遣したが、そのいずれも帰還することはなかった。

 その後の久保田支隊の運命は、一般に以下のように伝えられている。

「ラブラドールに行った久保田支隊については、何もわかっていない。戦争が終わってからも、久保田支隊については、なんの痕跡も手掛かりも出てこなかった。二千五百名の大部隊は、一兵も生還することなく、全く消滅したまま、今日に至っている。」(「ルソン戦記 ベンゲット道」高木俊朗/文春文庫)

 この久保田支隊の消息について、比較的詳しく調査した記事がある。「丸別冊 日米戦の天王山 フィリピン決戦記」に掲載された、「消滅した久保田支隊の謎」(著者:鈴木昌夫、元歩兵第72連隊通信中隊長・陸軍大尉)がそれである。鈴木元大尉がかき集めた資料・証言によれば、米軍上陸後の久保田支隊の行動経過は、以下のようなものだったらしい。

昭和20年
・1/5 支隊本体がラブラドールに到着
・1/6以降 米軍がスアル、ラブラドールに猛烈な艦砲射撃、銃爆撃を加える
・1/9 米軍上陸
・1/10朝以降 久保田支隊は米軍歩兵第185連隊の猛攻を受ける。支隊将兵は急造陣地で、航空・戦車・砲兵の支援が皆無の中で健闘するも、連日の敵砲爆で次々に斃れ、食糧も尽きる
・1月下旬〜2月上旬 ラブラドールの陣地を撤収。中隊級の小グループに分かれて敵の包囲網を脱出し、自戦自活しながら建武集団に向かう。この頃、野田大隊の兵力は半減していたという
・2月以降 支隊は、ラブラドールの南に広がるザンパレス山脈に進入。人跡未踏の山脈で食糧調達に困難をきたし、またマラリアやアメーバ赤痢などの病気が蔓延。さらにゲリラの襲撃に見舞われ、支隊の人員は急減
・3月頃 サンタクルス東方地区に到達
・4月頃 マシンロク東方地区に到達。その後、ハイピーク山方面に向かう
・6月上旬 ピナツボ山の北、オドンネル〜イバ道の中間で、野田大隊と称する少数の陸軍部隊に遭遇したという証言あり
・その後、久保田支隊の消息に関する手掛かりは皆無

 久保田支隊の野田大隊の中には、生還者は存在するようである。(鈴木元大尉が詳しく触れていないということは、あるいは途中で部隊から脱落して捕虜になった者か。)とはいえ、数千人規模の部隊が丸ごと行方不明となり、その最期すら明らかでないという事態は、太平洋戦域各地で苦杯を喫した日本軍部隊の中でも、極めて異例である。ルソン島守備部隊が辿った運命は、悲惨の一語に尽きるものが多いが、久保田支隊はその中でも最右翼に挙げられる悲運の部隊であったと言えるだろう。

posted by A at 19:43| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする