2017年07月15日

藤原岩市参謀と、インパール作戦の「統制前進説」について

 太平洋戦争中、ビルマ戦線の第15軍で情報主任参謀を務めた、藤原岩市少佐(のち中佐)という人物がいる。インド独立支援の文脈で高く評価される傾向のある軍人だが、インパール作戦に関する彼の身の処し方には少なからず疑問の点があり、個人的には彼への評価は非常に辛い。彼のこういった部分に触れた話はあまり取り上げられていない気がするので、人物評価のバランスを取るために、今回は彼の疑問点についてまとめてみる。

 第15軍司令官・牟田口廉也中将に関する有名な逸話として、インパール作戦失敗の責任を負い自決すべきかどうか、部下の藤原に相談したところ、かえって藤原から本気で自決を勧められた、というものがある(詳細はこちらを参照)。意外に知られていないが、藤原は牟田口と同様、インパール作戦の推進に積極的だった人物である。作戦開始前、第15軍の参謀たちの多くが無謀な作戦に否定的だった中で、牟田口と藤原の両名は作戦の実施を強く主張し、作戦実現に向けて奔走している(高木俊朗「抗命」などに、その模様が描かれている)。

 牟田口が、「自決問答」の茶番劇の相手として藤原を選んだのは、あるいは藤原が牟田口とともに作戦失敗の責任を負うべき立場にあり、牟田口を批判する資格のない参謀だったためかもしれない(作戦中に、一緒に芸者遊びをしていた仲でもある)。ところが藤原は、牟田口から自決の相談を持ちかけられた際、自分自身の責任には全く触れず、一方的に牟田口を追及している。晴気誠の例に倣えと言うと極端に過ぎるが、牟田口とともに作戦を推進してきた参謀の姿勢として、藤原の言動はあまりにも割り切ったものではないかと思う。

 また、藤原は戦後、「第33師団(弓兵団)が意図的に前進を遅らせたため、インパールへの進出に失敗した」という偽説(いわゆる「統制前進説」)を流し、作戦の失敗を第一線で戦った弓兵団のせいにして、責任転嫁を図ろうとしている(藤原自身の著述として、「大東亜戦争全史」(服部卓四郎編、1953年)及び「別冊知性・太平洋戦争の全貌」(1956年)の同作戦関係部分)。

 しかし、第33師団長・柳田元三中将は作戦に否定的ではあったが、師団の前進を故意に抑止した事実はない。伊藤正徳「帝国陸軍の最後」(1960年)や児島襄「太平洋戦争」(1966年)、山岡荘八「小説太平洋戦争」(1967年)が、藤原の流したデマを誤って採用したため、戦史に詳しくない層にこの誤説が広まったが、結局、1968年刊行の公刊戦史が、この「統制前進説」を否定している(詳細は、戦史叢書「インパール作戦」p399〜415参照)。

 また、「インパール作戦蹉跌に対するいわれなき批難を、長い間苦々しく思っていた」という磯部卓男(元陸軍中尉。第33師団歩兵第215連隊(笹原連隊)の連隊旗手)は、戦後の自著「インパール作戦 その体験と研究」の中で、藤原が拡散させた嘘の実態を詳しく検証し、「言葉が過ぎると思われるが、『一犬虚に吠え、万犬之に和す』の感を禁じ得ない」と述懐している。

 なお、「統制前進説」が浸透した背景について、高木俊朗「インパール」には以下の記述がある。

「私は非常な興味を感じた。それは、その資料提供者(注:伊藤正徳氏に資料を提供した者)のことである。それが誰であるにしても、あのインパール作戦を弁護し、正しかったと信じている人がいるということだ。あるいは、正しいものにしようとしている、というべきだろうか。そのために、いわば、謀略の資料を提供したのだ。
 その目的は、第十五軍と牟田口中将の体面を傷つけないようにするためばかりでなく、旧陸軍の名誉を保持しようとする意図ではなかろうかそうしたことが必要になるほど、インパール作戦間には、醜悪で不名誉な事件が続発した。世界戦史にも例のないことである。インパール作戦は、まれに見る非道な戦争であった」(注:下線部は引用者)

 この、インパール作戦を「正しいものにしようとしている」動きは、現在でもネット上などで散見されるように思う。しかし、祖国に父母や妻子を残して戦争に参加した若い将兵を、杜撰な作戦計画で大量に戦没させておいて、それを「正しい」作戦と呼ぶことは、常識的な感覚では到底できるものではない。「インド独立」などという美辞麗句は、現実離れしたデタラメな軍命令が乱発され、そのために膨大な死者を生み出したこの作戦の実態を、正当化するものでは絶対にない。他民族を助けるという美名があれば、牟田口や第15軍幹部のような横暴や無能や堕落が許容されるという考えを持つ者は、つまるところ、我々日本人自身を殺すことを何とも思っていない者であろう。
 まともな日本人であれば、飢餓と病の中で倒れ、ジャングルに白骨を晒した、死ななくとも良かった多数の日本人将兵の怒りや無念を、自分の痛みとして感じる部分があるのではないかと思う。そうした共感や同情心の感情を、絶望的に欠いた人間でなければ、このインパール作戦を肯定することなどできないのではないか。


(補記)
 なお、ビルマ戦線で評価すべき参謀としては、インパール作戦の現実を冷静に把握したビルマ方面軍後方参謀の後勝や、戦争末期ごろの花谷正をよく抑えた第55師団参謀長の小尾哲三などが挙げられるのではないかと思う。
 本稿で扱った藤原岩市は非常に問題の多い人物であり、その責任逃れの言動は厳しく批判されて然るべきだが、陸軍軍人にも評価に値する人物がきちんといることは、あえて明記しておきたい。



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2017年02月05日

ニューギニア戦の「イドレ死の行軍」について

 太平洋戦争中の昭和19年7月から10月頃にかけて、「絶対国防圏」の最前線である西部ニューギニアで、「イドレ死の行軍」と呼ばれる悲惨な転進が行われた。この転進では、敵軍と銃火を交える機会がほとんどなかったにもかかわらず、10,000名以上とも言われる日本軍将兵や軍属などが死亡している。今回は、多くの人命が失われた出来事でありながら、現代ではほとんど知られていないこの行軍について、関係する戦記の記述を踏まえ、実態をまとめてみたい。

 なお、西部ニューギニアの地図としてはこちらを参照されたい。イドレは、マノクワリの南、「Modan」に近い地点である。


1 転進の概要
 まずは、関連書籍の内容を基に、この転進の全体像を整理してみたい。

 昭和19年6月下旬、ビアク島の戦いがいよいよ終末に近づき、マノクワリへの連合軍上陸も目前と考えられた。これを受けて、西部ニューギニア戦線を担当する第2軍司令部は、マノクワリに駐屯していた20,000名余の将兵らのうち、戦闘部隊を中心とした8,000名の兵力をもって、マノクワリの防備を固めることにした。そして、後方部隊など12,000名を、マノクワリ南方170キロにある、イドレに移動させることとしたのである(田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録」(ゆまに書房)による)。

 後方部隊の転進先としてイドレが選ばれたのは、「イドレにはサゴ椰子が無尽蔵にあり、10万人が食っていける」という噂があり、自活に適当な土地だと考えられたためである。しかし、マノクワリからイドレまでの移動経路については、ほとんど調査が行われておらず、満足な地図すらない状態であった。このような状況の中で、第2軍が推し進めた転進計画は、関連戦記によれば以下のようなものであった。

「そんなわけだから、転進の計画はメチャクチャだった。地図の上に線を引いて、その直線距離を、指先でチョイチョイと測っただけである。
『うん、三日か四日の行程だな。そんなら、食糧の携帯は一週間ぶんで十分だ』」(加東大介「南の島に雪が降る」)

「イドレ転進命令が下ったのは19年7月1日である。十日もあれば目的に着ける、途中に大した障碍などないという楽観的雰囲気の中で移動が開始された」(上掲の田中書)

 ところが、実際のイドレまでの経路は、悪疫の蔓延する過酷な密林地帯だった。兵士たちはジャングルの中で、同じ場所をぐるぐる彷徨して道を見失ったり、高山や大河に行く手を阻まれたりして、栄養失調やマラリア、赤痢、チフスなどの病で次々に倒れていった。そのうえ、軍命令により、多くの将兵が途中のヤカチという地点で足止めされ、進退窮まった各部隊は、ここで一気に餓死者・病死者を増やしていった。

 そして、3か月以上の苦難の移動を経て、一握りの者がようやく辿り着いたイドレにも、食料の貯えなどは全くなかった。転進部隊がヤカチで停止を命じられ、イドレへの進入を許されなかったのは、彼らを養うだけの食物が、イドレにはなかったためであった(植松仁作「ニューギニア大密林に死す」)。結果的に第2軍は、「イドレにはサゴ椰子が無尽蔵にある」という根拠のないデマを信じ、その実情をまともに調べないまま大移動を命令して、大量の死者を生み出したのだった。
 この転進の結末について、再び関係書籍の記述を引用する。

「航空地上勤務部隊の大部はマノクワリ方面第二軍後方部隊と共に7月〜8月、イドレに向かって無計画な行軍を行ない、その大半が死没するという惨事を引き起こした」(戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」)

「途中、行ったり来たりを繰り返したために、無事に着いた将兵は、地図上行程の三倍にあたる五百キロ以上も歩いたのではないかと推測されている。死線を越えて辿りついたイドレも極楽ではなかった。移動計画がこのような杜撰極まりないものであったくらいだから、イドレにおける開墾や農耕もしっかりした計画性をもっているはずもなかった。(中略)
 マノクワリを発った一万二千名は、イドレに辿り着くまでに九十%近い餓死、病死者を出し、さらにイドレでも数%の死者を出し、結局、故国に帰還できたのはわずか六%強の運命のいたずらに助けられた者だけであった」(田中書)

 なお、第2軍司令部が「死の行軍」の悲惨な実態に気づいたのは、8月後半になってからのことだったようである(「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」)。


2 関係者の記録
 「イドレ死の行軍」に参加した将兵の手記が、複数刊行されている。その一部を紹介し、転進の実相を追ってみたい。

(1)久山忍「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」(潮書房光人社)
 転進を体験した蓬生孝氏(第2軍司令部所属、陸軍一等兵。戦後日商岩井に入社し、イタリア・西ドイツ等で勤務)の記録が、この久山書に収録されている。少し長くなるが、行軍の悲惨な実情を表す部分を抜粋する。

「・・・川をわたると周囲は一変した。鬱蒼とした大密林であった。密林のなかは、大木と灌木が陰湿な地面を隙間なく埋め、無数の倒木が巨体を折りかさね、光は閉ざされて昼なお暗く、侵入者をかたく拒否していた。
 頭上からは数知れない木の蔓が垂れさがる。歩けばおびただしい山蛭が降る。地面には万年筆の形をした黒光りの毒虫がうごめく。苔などの隠花植物やさまざまなシダ類が地面にはびこっている。(中略)
 赤道直下の高温多湿な密林や湿地帯を、憔悴していく体力でただ歩く。この転進では誰もが病気につきまとわれていた。どの病気も悪化の一途をたどり治癒することがない。そしてついに歩けなくなる。この転進で歩けなくなったら最後である。
 よどんだ生水、くさった食物は大腸炎に直結した。不消化のまま流れ出る大便や血便がやむことなしにつづいた。下痢をするとたちまち衰弱し、貧血になって歩けなくなった。
 多湿な密林のなかの蚊は人間の存在に敏感に気づいて来襲し、小便をするとその臭いを好んで棒のようになってむらがった。マラリアにかかると、高熱、悪寒、下痢、食欲不振となり、歩けなくなった。
 皮膚は抵抗力がなくなっているので、ばい菌は小さな傷口からたちまち蔓延し、南方潰瘍や得体のしれない皮膚病になった。最初は小さかったのが、わずかな期間で脛、腿、股、人によっては全身にひろまってこれまた歩けなくなった。
 毎日、泥水や水たまりを行軍するため、水虫は誰もがやられた。これもズボンがぬげなくなるほど下腹部がふくらむと歩けなくなった。
 大腸炎、マラリア、潰瘍、水虫、日射病の合併症に飢えが加わって苦しみ斃れた転進者の実情は、とうてい文字にできない。
 力尽きて歩けなくなり、泥土にすわって通りすぎてゆく我々をじっと見ていた者、朽ちた大木の穴に独りではいって寝ていた瀕死の者、飯盒のふたを差し出して水を求めていた者、今死んだばかりの者、水にうっ伏して腐乱した者、二、三日前に亡くなって白骨化した者、無数のウジが全身に喰いついていた者たち。死んだ者の肉はすぐに腐り、頻繁なスコールが腐肉を流して骨だけにした。
 木の洞や倒木の陰に遺った白骨、二人、三人並んで水辺や灌木の繁みに遺った白骨、天幕の下に遺った数人の白骨など、数多くの転進者の悲惨な姿についてはなんと申しあげてよいかわからない」

 蓬生氏は昭和19年7月7日にマノクワリを出発、10月3日に奇跡的にイドレ到着。死者続出したイドレでも生き残り、昭和21年6月に復員している。

(2)植松仁作「ニューギニア大密林に死す」(光人社NF文庫)
 著者は電信第24連隊副官で、終戦時陸軍大尉。この転進に参加した記録を、全編にわたって詳しく綴っている。「イドレ死の行軍」について書かれた本の中では、現在最も入手しやすい一書ではないかと思う。
 なお、同著者には「魔の地ニューギニアで戦えり」(光人社NF文庫)という著作もあるが、こちらにはニューギニア以外の地での勤務記録も広く収録されており、「イドレ死の行軍」に関する記録はその一部にとどまる。

(3)「丸別冊 秘めたる戦記 陸海空/戦域総集編U」
 この本に掲載されている鈴木勝氏(第五揚陸隊所属、陸軍一等兵)の手記の中に、軍司令部の移動に関する記述がある。第2軍司令官・豊嶋房太郎中将と高級幕僚は、マノクワリからイドレまで軽爆機・大発を利用して移動したが、彼らを乗せた大発の乗組員は、「大発の中で米軍魚雷艇にいちばん怯えていたのは軍司令官であった」という、容赦のない証言を残している。

(4)その他
 この行軍については、「インドネシア文化宮」さんというサイトが、極めて精力的に記録を収集されている。
 このサイトによれば、飛田忠廣「ニューギニア玉砕記」(昭和24年)、佐々木實「人喰密林戦記」(昭和30年)、西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌「辺裸飢」(昭和52〜62年)、第2軍司令部参謀部某曹長「野垂れヤカチ」などの手記にも、この転進に関する記録が綴られているようである。


3 公刊戦史
 2に掲げたように、「イドレ死の行軍」の参加者による戦記には複数のものがある。これらに対して、この行軍に関する公刊戦史の記録は、極めて貧弱である。戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」に若干の記述があるが、本来この転進について詳しい記録を残すべきと思われる「豪北方面陸軍作戦」には、

「軍司令部は後方部隊人員と共に扇の要的地点であるイドレに移り自活しつつ持久戦を指導する方針」

という簡単な記述があるのみであり、転進により犠牲者が出た事実すら書かれていない。ほぼ同数の戦没者を出したビアク島の戦いに、67ページもの分量を割いていることと比べれば、かなり強い違和感を受ける。

 また、第2軍の高級参謀であった了戒次男・元中佐が、「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」に、「西部ニューギニアの全般作戦」という手記を寄せている。しかし、この著述の内容は、全体的に作戦面の記述に終始しており、後方部隊をイドレに移動させた顛末にさえ言及していない。軍の側としては、自らの命令の錯誤により膨大な餓死者・病死者を出した事実を、後世に残したくなかったのだろうか。


4 最後に
 この「イドレ死の行軍」に代表される部隊移動の失敗や、各地の守備隊でおびただしい餓死者を出した事実などを踏まえると、西部ニューギニアの第2軍は、本来生きて還るべきであった将兵や軍属を、自らの判断の誤りによって、大量に戦没させたと評されてもやむを得ないのではないかと思われる。この戦域では、ビアク・サルミの戦いで守備隊が壮絶な敢闘を見せているが、これらも、軍上層部の作戦指導が優れていたと言うより、現場で戦った東北編成の精鋭師団、第36師団の頑強さを賞賛すべきものではないかと思う。

 そして、いくつかの戦記でも指摘されている軍司令官の柔弱な性格や、軍参謀長の粗雑な判断、そもそも参謀長の交代が頻繁で空席の時期が長く続いたこと、果ては、参謀長としての発令を受けた将官が、あろうことか赴任をサボタージュする乱脈ぶりを見せたことなど、総じて第2軍では、首脳陣の統帥が、正常に機能していたようには見受けられない。極限とも言うべき凄惨な戦況の中で、最後まで統率を崩壊させなかった東部ニューギニアの第18軍と比べると、対照的と言わざるを得ないのではないか。イドレ転進の悲劇は、上層部に適切な人材を得られなければ、組織に無用かつ甚大な被害が生じるということを示す、一つの重い教訓ではないかと思われる。


(補記1)「イドレ死の行軍」の参加者数などについて
 マノクワリ守備隊の兵数や、「イドレ死の行軍」の参加者・戦没者数には、書籍によってばらつきが見られる。以下、一通り列挙してみることにする。

<マノクワリ守備隊の人員数>
・戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」・・・30,000名余。その他、ムミ地区(マノクワリ南方)に約7,000名の兵員あり
・田中書・・・20,000名を超える数
・久山書・・・軍人と軍属をあわせて約20,000名。そのうち9,000名は飛行場設定隊に編入された土木労務者や台湾人(高砂族)で、残りの11,000名は第2軍司令部関係の後方部隊
・植松書・・・20,000名余

<「イドレ死の行軍」の参加者数>
・田中書・・・12,000名。マノクワリ残置者数は8,000名
・久山書・・・9,800名、10,000名、12,000名など諸説ある
・植松書・・・12,000名
・鈴木手記・・・10,000名有余。マノクワリ残置者数は約12,000名
・「インドネシア文化宮」・・・約12,000又は15,000名

<「イドレ死の行軍」参加者のうち、戦没者数>
・田中書・・・生還者6%強(=戦没者約11,300名)
・久山書・・・一説には、イドレまでの行程の戦没者数が10,200名
・植松書・・・生還者800名以下(=戦没者11,200名以上)
・「インドネシア文化宮」・・・1万数千名

 また、この転進について詳しくまとめているこちらのサイトには、「参加者15,000名、イドレ到着6,000〜7,000名、生還者3,000名未満」という数字が掲載されている。


(補記2)「イドレ死の行軍」の参加部隊について
 「イドレ死の行軍」に参加した部隊についても、その全体像をまとめた資料は見当たらず、実態は明らかでない。見つけられた限りの部隊を全て挙げると、以下のとおりである。

・第2軍司令部、兵器廠、貨物廠、船舶部隊などの後方部隊(田中書)
・第14、第15、第101野戦飛行場設定隊(「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」)
・第3、第14飛行団(同上)
・第107、第108飛行場大隊、第36飛行場中隊、第9航空通信連隊の各一部(同上)
・第8航空情報隊の一部(同上)
・第13野戦気象隊の一部(同上)
・第21野戦航空修理廠の一部(同上)
・第107、第108飛行場大隊(同上。マノクワリ南方のムミ駐屯)
・第34、第46飛行中隊(同上。マノクワリ南方のムミ駐屯)
・電信第24連隊(植松書)
・陸上勤務第37中隊(約300名でマノクワリ出発、生還者ゼロ。久山書)
・兵站病院(「南の島に雪が降る」)
・海軍部隊、高砂勤労隊、インドネシア兵補隊(久山書)
・マレー作戦時の英軍インド兵で編成したインド人部隊(植松書)

 以上の各部隊の全員が転進に参加したわけではなく、マノクワリに残留したり、他の拠点の守備に回されたりしていた者もいたようである。


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2016年09月22日

西部ニューギニア戦線・歩兵第221連隊第3大隊の壊滅

 以前のサンドイッチ部隊の話に続き、またニューギニア戦の話題を取り上げてみたい。

 昭和19年5月に西部ニューギニア・マノクワリに上陸した歩兵第221連隊第3大隊は、ほとんど敵軍と戦う機会を持たなかったにもかかわらず、実に9割以上もの戦没者を出して壊滅した。戦史作家・久山忍氏が著した「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」(潮書房光人社/2012年)に詳しい証言が収録されているが、今回はこの本を基に、同大隊が辿った悲惨な運命を追うことにする。

1 西部ニューギニアへの進出
 太平洋戦争中の昭和18年9月。大本営はいわゆる「絶対国防圏」を設定し、西部ニューギニアはその最前線となった。同年11月、満州から西部ニューギニアに進出した第2軍司令部は、米軍の来攻時期を昭和19年後半から20年頃と予測し、それまでに西部ニューギニア各地に合計25個の飛行場を造成する目標を立てた。そして、11個の野戦飛行場設定隊を始めとする、大量の後方部隊が西部ニューギニアに投入されたのだった。

 こうした状況の中で、第2軍司令部が置かれたマノクワリには、約2万名の軍人・軍属が派遣されていた。ただ、そのほとんどは飛行場建設にかかわる土木労務者や軍司令部の後方部隊であり、戦闘部隊は皆無に等しい状態だった。ところが、米軍は早くも昭和19年4月に、同様に後方部隊が駐屯していたニューギニア中部のホーランジア(現ジャヤプラ)に、また5月には、第36師団が守備するサルミとビアク島にも上陸し、マノクワリへの来攻も旦夕に迫ったものと考えられた。

 このように情勢が急迫していた昭和19年5月、ようやくマノクワリに戦闘部隊が進出した。北支戦線からニューギニアに転用された、第35師団歩兵第221連隊の第2大隊と第3大隊である。このうち第2大隊はすぐにビアク島に投入され、後に玉砕に至るが、連隊本部と第3大隊を中心とする約1,000名の兵力は、そのままマノクワリの守備に就いた。後方部隊ばかりのマノクワリで、軍旗を頂く戦闘兵種の存在は大いに頼もしがられたという。


2 過酷な使役
 歩兵第221連隊第3大隊は、マノクワリ上陸時にわずか1週間分の食料しか持っていなかったが、十分な給養も与えられぬまま、ただちに敵上陸に備えた陣地構築に駆り出された。ニューギニアの厳しい自然環境の下、硬い珊瑚礁を相手にした手作業の塹壕掘りは、兵士たちを大いに苦しめた。次いで7月以降、陣地間をつなぐ自動車道路建設工事にも使役され、既に栄養失調とマラリアで衰弱していた兵士たちは、過重労働の中でばたばたと死んでいった。

 そして、ついに米軍の上陸を迎えないまま、マノクワリがすっかり戦線の後方に取り残されていた昭和19年10月。マノクワリ支隊長だった深堀游亀少将は、各部隊に完全自活を命令し、一切の食料配給を停止した。軍の補給廠にはまだ物資の集積はあったが、後方からの補給が期待できなくなった戦況にかんがみ、それぞれの部隊に自ら食料の調達を求めたのである。早くからマノクワリに進出していた各部隊は、既に自前の農園を拓き、一定の食料の備蓄もあったが、最後にマノクワリに到着し、その後も土木作業に使役され続けてきた歩兵第221連隊第3大隊は、農地も食料もほとんど保有していなかった。飢餓と病と過酷な工事に苦しんできた兵士たちは、その日の食料にも事欠く有様となり、いよいよ破滅の瀬戸際に立たされた。


3 壊滅
 昭和19年11月。第3大隊の一部の兵士たちが、他部隊の倉庫から食料を盗み出す事件が発生した。元はと言えば、この大隊が窮地に陥った原因は、マノクワリ支隊による苛烈な使役と、公平性を著しく欠いた食料配給停止措置にある。ただ生き延びるために食料を奪った兵士たちを責めるのは、あまりにも酷であろう。しかし支隊司令部は、大隊に対する懲罰として、事件を起こした第3大隊の第10中隊、第11中隊、第12中隊を、「ワルパミ峡谷」へ移駐させる命令を下した。

 ワルパミ峡谷は、加東大介の名著「南の島に雪が降る」にも、「ワルバミ」という地名で登場している。日光が入らない狭隘な湿地帯であり、農耕に適する土地もなく、到底人間の住める環境ではなかったという。この移駐命令の結果、それぞれ200名程度の人員を有していた各中隊のうち、戦後日本に生還できた者の数は、以下のとおりとなった。

 第10中隊 0名
 第11中隊 1名
 第12中隊 2名

 これらの中隊は精強を誇った現役兵部隊だったが、まともに敵と戦わないまま、とうとう全滅状態に追い込まれた。久山書にもさまざまなエピソードが紹介されているが、率直に言って、マノクワリの軍上層部は、およそ正常な神経で統率を行っていたとは思われない。第3大隊のその他の各部隊(第9中隊、機関銃中隊、歩兵砲中隊、通信隊)でも餓死者・病死者が続出し、存続困難となった大隊は、結局、昭和20年6月1日付けで解隊されている。


4 最後に
 冒頭に掲げた戦史作家・久山忍氏は、西部ニューギニア戦線について、以下のように総括している。

「西部ニューギニアでは、無用な行軍、無意味な作戦、無慈悲な命令によって死んだ兵たちがおびただしかった。私の私見であるが、もし、仮に、西部ニューギニアのすべての各指揮官が適切な指揮能力を発揮していれば、七万以上といわれる西部ニューギニアの死者は半分以下におさえられたのではないか」

 久山氏による「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」は、こうした悲惨な西部ニューギニア戦線を生き抜いた兵士たちの証言を、丁寧に掬い上げた労作である。上記に掲げた歩兵第221連隊第3大隊の苦難の過程は、ほんの概要だけを簡単にまとめたものに過ぎない。西部ニューギニア戦史に御関心のある方は、ぜひ同書を手にとっていただければと思う。久山氏が言うように、まずは「知る、ということが、死者に対するもっとも良い供養になる」のではないかと思われる。



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2016年06月04日

ガダルカナル戦のしんがり、一木支隊

 ガダルカナル島の戦いの「一木支隊」といえば、この戦いの先陣を切った部隊としてその名を知られている。昭和17年8月20〜21日に、一木支隊の第一梯団916名がガダルカナル戦の第一次攻撃を敢行、奮戦したものの衆寡敵せず、ほぼ全滅に近い損害を蒙っている。その後、一木支隊の第二梯団(約1,000名)もガ島に送られ、川口支隊による第二次攻撃に参加している。

 これらの戦闘と、その後の飢餓を経て生き残った一木支隊の残存将兵は、ガダルカナル戦の最終盤まで島に残って敵を食い止め、最後の撤退でガ島から撤収している。今回は、戦史叢書(「南太平洋陸軍作戦1」及び同「2」)と、亀井宏「ガダルカナル戦記」、そして「丸別冊 最悪の戦場 ガダルカナル戦記」に所収された「ガ島への先陣「一木支隊」の戦歴」(著者:山本一・元中尉、当時一木支隊本部付)を基に、一木支隊のガダルカナル島への上陸過程と、その後の戦闘経過についてまとめてみた。

 まず、山本元中尉の手記によれば、一木支隊の編成は以下のとおりだった。

〔一木支隊第一梯団〕
○支隊本部
 支隊長  一木清直大佐(歩兵第28連隊長)
 連隊旗手 伊藤少尉
 副官   富樫大尉
 通信隊長 渋谷大尉
 本部附  田坂軍医大尉
  〃   篠原主計中尉
  〃   榊原中尉
 大島通訳

○大隊本部
 大隊長  蔵本少佐
 副官   近藤中尉
 本部附  羽原少尉

○四コ中隊編成(各隊105名限り)
 中隊長  沢田大尉 105名
  〃   樋口中尉 105名
  〃   丸山中尉 105名
  〃   千葉中尉 105名
 大隊砲小隊(砲二門) 50名
  小隊長 花海少尉

○支隊直轄
 機関銃中隊(重機八挺)110名
  中隊長 小松中尉
 配属工兵中隊(火炎放射器携行)150名
  中隊長 後藤中尉

合計 916名


〔一木支隊第二梯団〕
○大隊本部 水野少佐
 副官兼兵器係 山本少尉(手記著者)
 軍医   坂本中尉
 〃    織田中尉
 薬剤官  小林少尉
 憲兵   矢野中尉

○一般中隊(将校全欠)
 各中隊で駆逐艦乗員制限のため、残留した下士官兵総員約200名および弾薬班、行李班員340名

○速射砲中隊(四門)  大久保中尉
 連隊砲中隊(四門)  和田中尉
 独立速射砲中隊(八門)中岡大尉
 工兵中隊残員     星野中尉

合計 約1,300名
(※ただし、このうち弾薬班、行李班員340名の一部と、独立速射砲中隊の一コ小隊(四門)はガ島に上陸せず、後方に残置された模様)


 これらの部隊は、以下のような行動経過を辿っている。

・昭和17年8月18日 一木支隊第一梯団が、ガダルカナル島タイボ岬に上陸成功
・8月20〜21日 第一梯団のイル川渡河攻撃失敗。戦死777名、戦傷約30名。山本手記によれば、一木支隊長は拳銃で自決。軍旗は連隊旗手・伊藤致計少尉が奉焼し、伊藤少尉は手榴弾で自決
・8月26日 輸送船「ぼすとん丸」及び「大福丸」に分乗して、トラック島からガダルカナル島を目指していた第二梯団(約1,000名)は、輸送作戦失敗によりショートランド泊地に退避
・8月29日 第二梯団の一部(300名、速射砲四門を含む)は、駆逐艦「海風」「江風」に分乗し、タイボ岬に上陸成功
・8月30日 第二梯団の一部(約260名)は、駆逐艦「夕立」及び哨戒艇4隻に分乗し、タイボ岬に上陸成功
・9月1日 川口支隊長(川口清健少将)は、一木支隊第一梯団の残部及び第二梯団をもって、歩兵2中隊、連隊砲1中隊(4門)、速射砲2中隊(各中隊4門)及び工兵小隊等からなる混成大隊を編成させ、これを「熊大隊」と呼称することとした。大隊長には、一木支隊副官だった水野鋭士少佐が任命された(注:「熊」は、歩兵第28連隊が所属する第7師団の兵団文字符
・9月4日 第二梯団残部と青葉支隊の一部(歩兵第4連隊第2大隊)、合計約1,000名は、駆逐艦「浦波」「敷波」「有明」「夕立」「初雪」「叢雲」に分乗し、タイボ岬に上陸成功
・9月12〜14日 川口支隊総攻撃に当たって、熊大隊は大隊本部と第1中隊第1小隊が夜襲を決行するも不成功、水野少佐以下約100名戦死。大隊のその他の部隊は、地形不明のため攻撃準備位置に進出できず
・その後、熊大隊残存将兵は岡部隊(歩兵第124連隊)への合流を目指して撤退するも、食糧皆無のため絶食状態の行軍を強いられる。過度の疲労と栄養失調、マラリア、アメーバ赤痢などのため死者続出
・この頃、北尾淳二郎少佐(歩兵第28連隊長代理、陸士45期)が水野少佐の後任として着任。岡部隊との合流後、熊大隊の残存将兵で1個中隊を編成し、糧秣の陸路輸送任務に従事
・10月20日 第2師団の総攻撃に際して、北尾少佐が指揮する一木支隊の残部100名が輜重隊に配属。総攻撃は失敗し、26日中止
・11月2日 米軍の反撃に際して、北尾部隊約70名が歩兵第4連隊に増援される
・その後、北尾部隊は海岸警備隊としてタサファロング付近に駐屯
・昭和18年1月21日 歩兵第28連隊長一木大佐の後任として、松田教寛大佐(陸士28期、陸大専科卒)がガダルカナル島に着任。一木支隊残存将兵の指揮を北尾少佐から引き継ぐ。このとき一木支隊の残存兵力は約300名で、その大部分は傷病兵。保有する残存兵器は、小銃56、擲弾筒2
・2月1日 ケ号作戦(撤退作戦)開始。第1次撤退成功
・2月4日 第2次撤退成功。第17軍司令部も撤退し、残留部隊約2,000名の総指揮を松田大佐が執ることになる。一木支隊残存将兵も、撤退支援のためガ島に送り込まれた矢野集成大隊(長:矢野桂二少佐)などとともに島に残り、敵を拒止
・2月7日 第3次撤退成功。松田大佐以下、一木支隊残存将兵も撤退
「噫思へば我歩兵第二十八聯隊は一木大佐に依り陸軍部隊として第一次に上陸し、今亦後任の予が最後の軍を収容し以て我聯隊歴史を飾れり」(松田大佐の手記より)
・一木支隊生還者は本土に帰還。第17軍参謀長・宮崎周一少将の記録によれば、一木支隊のガダルカナル島上陸人員は2,108名、島からの撤収人員は264名とされている


 なお、第3次撤退作戦実施の見通しが立たず、後衛部隊生還の可能性は低いと見られていた状況下で、一木支隊が最後までガ島に残された理由に関して、亀井宏「ガダルカナル戦記」には以下のような記述がある。

「(山本)中尉はさらに自説を敷衍して、「俺たち旧一木支隊は、軍旗を喪失しているから、こうやって見殺しにされるんだな」という感触をこの時点で持ったという。(中略)
 軍旗を喪失したために殿部隊として残されたのだとする先の山本中尉の指摘であるが、そういわれてみれば、後に述べるように、総後衛部隊の中核は、第二十八聯隊(松田部隊)以下第二十九聯隊、百二十四聯隊の生存者で構成されている。二十九聯隊の場合は、昭和十七年十月の総攻撃の章で詳述したように、聯隊長古宮大佐と共に軍旗を喪なってしまったし、百二十四聯隊の軍旗は、この時点ではまだ存在が危ぶまれていた」
(注:歩兵第124連隊の軍旗については、敵の包囲下で一度アウステン山の地中に埋められ、その後掘り出されて持ち帰られたことになっているが、状況には不明な点が多い)

 歩兵第28連隊(旭川)、第29連隊(会津若松)、第124連隊(福岡)は、いずれ劣らぬ精鋭部隊であり、ガ島でも、戦機に恵まれなかった面はあるにせよ勇戦敢闘している。彼らが、半ば見捨てられるような形で島に残留させられた事実からは、軍旗にまつわる旧軍の、行き過ぎと言うほかない峻厳さ・冷酷さを垣間見る思いがする。


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2016年02月11日

ニューギニア戦の「サンドイッチ部隊」について

 今回は、太平洋戦争のニューギニアの戦いでほぼ全滅の悲運に遭った、「サンドイッチ部隊」について概要をまとめてみたい。なお、ニューギニアの地図としてはこちらや、こちらを参照されたい。

 過去の記事でも簡単に触れたことがあるが、東部ニューギニア戦線で苦難の撤退戦を続けていた日本陸軍の第18軍は、昭和19年4月当時、西部ニューギニアで防備を固めつつあった第2軍との合流を目指して、西方への過酷な転進を行っている最中だった。そんな中で飛び石作戦を採用した米軍は、4月22日、第18軍が集結しつつあったウエワクの、さらに西方約200kmに位置するアイタペと、同じく西方約350kmのホーランジア(ホーランディア、ホルランジャなどとも表記される。現在の地名はジャヤプラ)に同時上陸した。これにより第18軍は敵中に孤立し、終戦を迎えるまで困難な現地自活を強いられることになった。

 この米軍上陸当時、たまたまアイタペとホーランジアの間を、西方に向けて転進中の部隊があった。戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5 アイタペ・プリアカ・ラバウル」によれば、以下の各隊がそれであり、総人員は約2,500名程度だったという。

・第18軍司令部の一部(軍獣医部長石坂九郎治中佐指揮)
・第41師団の一部
・野戦高射砲第61大隊主力
・独立工兵第36連隊主力
・第1揚陸隊主力
・第36野戦道路隊主力
・軍補給諸廠の一部
・第23野戦防疫給水部
・建築勤務第51中隊の一部

(注:このほか、少なくとも島田覚夫氏が所属した第209飛行場大隊の一部が存在する。同大隊が上記の戦史叢書に記載されていないのは、この部隊が第18軍ではなく、第4航空軍(第6飛行師団)の所属だったためか。
 また、海軍にも西方移動中の部隊があったほか、バニモ(アイタペとホーランジアの間にある港町)やアイタペに駐屯していた部隊があった)

 東西を米軍に挟まれ、脱出の術を失ってしまったこれらの部隊は、当時「サンドイッチ部隊」と呼称された。この「サンドイッチ部隊」と、アイタペから西を目指して撤退してきた一部の部隊、合計約4,000〜5,000名は、ホーランジアのはるか南を迂回し、第36師団が駐屯する西部ニューギニアのサルミ(ホーランジアの西約400km)への転進を図った。
 そして、戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」と「豪北方面陸軍作戦」によれば、これら諸隊の辿った末路は以下のようなものであった。

・各部隊は、バニモからアルソー(注:現インドネシア・パプアニューギニア国境付近の山中にあった、日本軍の兵站基地)へ転進
・この地域は山地峻険であったため、アルソーへの到着には半月〜1月程度を要した
・アルソーで陸稲その他の現地物資を入手
・6月上旬ごろアルソーを出発。梯団を組み、ゲニムに向かう(注:ゲニムはホーランジア南西の地点であり、この頃既に米軍が占領していた。なお、この地図ではセンタニ湖沿いに「Genyem」の表記があるが、戦記を読む限り、日本軍が目指したのはもっと山中の地点だったように思われる)
・ゲニムへの移動途中、地形錯雑のため方向を誤る。やむを得ず各部隊は、ばらばらに分かれてゲニムに前進
・6月中旬〜下旬ごろ、ようやくゲニム付近に到達
・ところが、ゲニムで敵の潜伏攻撃を受け、各隊の大半は散乱
・生き残った者のみが数名〜小部隊ごとの一団となりサルミを目指すが、サルミまで辿り着けた者はほぼ皆無
・結果的に、ホーランジア南方の錯雑地を西移する間に、部隊のほとんど全部は死亡。死亡率は99.9%に達したものと判断される
(注:戦史叢書に書かれた「99.9%」という数字の根拠は不明だが、後述の奥崎謙三氏のように、捕虜になって生還した者の存在は考慮していない数字であるように思われる)

 こうして、「サンドイッチ部隊」を含む約4,000〜5,000名の部隊は、ほぼ全滅に追い込まれた。個々の兵士たちがどこを流転し、どこで戦没したのか、詳細は現在でも明らかでない。確認できた範囲では、以下の書物に、これらの部隊に関する記述がある。

・島田覚夫「私は魔境に生きた」(光人社NF文庫ほか)
 著者は「サンドイッチ部隊」の奇跡的な生還者であり、部隊の雰囲気を克明に書き残している。同書によれば、著者一行は米軍上陸の前日にアイタペを出発し、そのままホーランジアを目指して西進。5月30日になってようやくホーランジア陥落の事実を知り、6月12日に、出会った日本兵から以下の情報を聞く。

「ホルランヂアの南方を迂回する友軍の撤退路は完全に敵に遮断せられ、夜は探照燈まで使用しての警戒でとうてい突破は不可能である。付近は股を没する一面の湿地で、この路を避けることができず、強引に突破を試みた友軍の大多数はその地で全滅した。折柄タミ川付近に在った独立工兵連隊は集団行動の不可能を思い、部隊はついに解散、各自の自由行動をとることになった。再びアルソーに引き返す者もあり、大部は友軍再挙の日を待ち密林に入って待機するなどの手段をとった」

 この情報を受けて、著者一行もジャングル籠城を決意した。そして昭和30年、生き残った4名が日本の土を踏んだのである。
 なお、同書初版の刊行は1986年であるため、戦史叢書執筆者は、彼らの存在を認識していなかったのではないかと思われる。

・「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」所収 高橋孫三郎「第九艦隊が壊滅した日」
 本記事によれば、昭和19年4月にバニモを発ち、20年2月にサルミに到着した高砂義勇隊員が、3名いたそうである。彼らがそのまま終戦を迎えられたとすれば、彼らこそが、4,000〜5,000名のうち0.1%の生還者に含まれるのだろう。

奥崎謙三「ヤマザキ、天皇を撃て!」(三一書房ほか)
 著者は独立工兵第36連隊所属であり、捕虜になり生還した人物である。本書にジャングル彷徨時期についての記述があるとのことだが、個人的に未読のため言及は避ける。

・佐藤清彦「土壇場における人間の研究」(芙蓉書房出版)
 戦前の流行歌手、上原敏(第1揚陸隊第2中隊所属)に関する記述がある。彼は昭和19年3月末か4月初旬ごろ、ウエワク・アイタペ間で道路補修・架橋作業に従事していた独立工兵第33連隊第3中隊の将兵60名の前で、乞われて「妻恋道中」「流転」の2曲を歌っている。その後、彼の所属する第1揚陸隊主力は、アイタペ・ホーランジア間を西進中に4月22日の米軍上陸を迎えており、以後の彼の消息は明らかでない。

 ニューギニア戦線では、ホーランジアの戦いの参加者(約13,500名戦没)、「イドレ死の行軍」の参加者(約10,000〜12,000名戦没)のように、戦闘以外の過程で膨大な将兵・軍属が死亡した事例がある。そうしたいくつかのケースの中でも、この「サンドイッチ部隊」は、極端に生還率が低い部隊である。多くの戦没者が内陸で死亡していることもあり、遺骨収集は、今でも十分に果たされていないのではないかと思われる。南溟の地に果てた人々の冥福を、ただ祈るほかない。


(補記)アイタペ、ホーランジアの守備隊について
 合わせて、アイタペ、ホーランジアの守備隊についても簡単に整理しておく。

<アイタペ守備隊>
 戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」によれば、米軍の上陸を受けた際、アイタペには以下の兵力があった。

・アイタペ警備隊(安部龍三大尉の指揮する第20師団補充員2個中隊、約450名)
・第54兵站地区隊アイタペ支部(竹井作市中佐以下100名)
・第31碇泊場司令部の一部
・第3揚陸隊主力(隊長 淺尾時正大佐)
・軍補給諸廠の一部
・前田奉公隊(前田主計大尉の指揮する現地人部隊)
・飛行場部隊および防空部隊
以上合計 約2,000名
(注:このほか、海軍第27根拠地隊の約200名がいた。また、第18軍憲兵隊が当時アイタペに向かっていたが、米軍上陸時にアイタペに到着していたかどうかは不明とのこと)

 これらのうち、安部大尉の指揮する部隊は東方の第18軍に向けて撤退し、5月10日、約200名が第20師団への合流に成功している。一方、兵站支部その他の部隊はホーランジア方面への転進を図ったものの、「サンドイッチ部隊」と同様の運命を辿っている。


<ホーランジア守備隊>
 米軍上陸時、ホーランジアには約14,600名の兵力があったが、そのほとんどは後方部隊などであり、戦闘能力は皆無に等しかった。これらの部隊は西方のサルミに向けて撤退したが、大半の将兵が戦没している。生還が確認できるのは、サルミ周辺地区で終戦を迎えられた約400名、ホーランジアで捕虜になった600名強であり、このほか稲田正純第6飛行師団長以下の若干名が、昭和19年時点でニューギニアを脱出している。
 この部隊の悲惨な撤退行と現地自活については、以下の各書に詳述されているので、ここでは記述を割愛する。

・戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5 アイタペ・プリアカ・ラバウル」「豪北方面陸軍作戦」「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」の各書
・田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録」(ゆまに書房)
・佐藤清彦「土壇場における人間の研究」(芙蓉書房出版)
・「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」所収
  坂本経雄「ホーランジア→サルミ「死の行進」」
  高橋孫三郎「第九艦隊が壊滅した日」

 また、個人的には未読だが、ラバウル・ニューギニア陸軍航空部隊会編「幻 ニューギニア航空戦の実相」にも、ホーランジア撤退部隊に関する詳しい記述があるようである。


posted by A at 21:06| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする