2019年01月03日

ニューギニア戦線のインド兵について

 昭和17年2月にシンガポールを占領した日本軍は、約10万名の捕虜を得た。その中にはインド兵が多く含まれており、一説には、約5万名に上ったとも言われている(戦史叢書「マレー進攻作戦」p626〜627)。

 これらのインド兵の中には、インド国民軍に参加し、インパール作戦に協力した者もいる一方で、ニューギニアやラバウルなど南太平洋戦線に送られ、日本軍への協力を求められた者も少なからず存在する。後者については、これまであまり注目されることもなかったように思われるので、今回は、特にニューギニア戦線に送られたインド兵について、様々な証言などを基にまとめてみたい。

1 ニューギニア戦線のインド兵の数
 まず、ニューギニア戦線に送られたインド兵の数については、「約3,000名」だったとする記録が複数見られる。
 その一つに、第20師団歩兵第79連隊の尾川正二(1970年に第1回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞)の証言がある。尾川は、自著「東部ニューギニア戦線」(光人社NF文庫。以下「尾川書」)の中で、以下のように述べている。

「かつて、英印軍の兵士として、マレー作戦に加わり、日本軍の捕虜となった人々である。その約十万が、話し合いにより、捕虜の身分から宣誓釈放となり、軍務を解かれ、一度は民間人の位置にかえされた。そのうち、半数が志願し、インド国民軍に編入され、スバス・チャンドラ・ボースの指揮下にはいり、インパール作戦などに参加、インド独立のために戦うこととなった。志願の形で、特設勤務隊として、南東方面に向かったものもいる。ニューギニアに来ていたのも、その一隊で、約三千といわれる」(尾川書p141)

 また、オーストラリア政府の運営するウェブサイト「The Anzac Portal」にも、「約3,000名がニューギニアのウエワクに送られた(six companies (approximately 3000 men) were sent to Wewak in New Guinea.)」との記述がある。
 このほか、林博史・関東学院大学教授の論文でも、John Baptist Crasta氏(1933年に英印軍に入隊、戦後はインド軍でも勤務)の著書からの引用として、「ニューギニアに送られたインド人たちはもっと悲惨な運命にあった。3000人中生き残ったのはたった200人にすぎず、ほとんどは飢えや強制労働、病気で死亡した」と述べられている。


2 戦中のインド兵の様子
 いくつかの戦記に、ニューギニア戦線で目撃されたインド兵の様子が描写されている。以下に引用する。

「嗚呼担送に任ずる我が将兵、殊には遙々マレーより大東亜戦に共鳴し、我が軍に協力を誓って渡来した、印度兵や、ネパール人迄が、連続二ヵ月の担送の労苦、思うだに胸迫るの思い、真に感謝感激に堪えなかった」(昭和19年7月頃、アイタペ作戦中に。吉原矩「南十字星」東部ニューギニア会、p236)

「このハンサに、静かな集団を見た。インド兵だという。どうして、こんなところに? という疑問があった。われわれ自身、どうしようもないところまで追いつめられている。戦うべき装備すらない。彼らを養うことすらできぬのではないか。通りすがりにことばをかけてみたが全く通じない。というより、反応しようとする意欲さえ感じられぬ」(昭和19年5月頃、アイタペ作戦の途上で。尾川書p139〜140)

「一六・三〇出発。ラム河渡河点に向かう。はじめてインド人部隊(シンガポール戦の捕虜)に出会う」(昭和19年4月、セピック河湿地帯横断中に。渡辺哲夫「海軍陸戦隊ジャングルに消ゆ」戦誌刊行会、p102)

 また、西部ニューギニア戦線でも、「イドレ死の行軍」に参加した植松仁作大尉(電信第24連隊副官)が、「ニューギニア大密林に死す」(光人社NF文庫)の中で、転進途中の一場面として以下を記録している。

「集落は一棟で、原住民はもちろん一人もいない。その空家を占領して石岡大尉のインド部隊がすし詰めになっている。この部隊は、マレー作戦の時の英軍インド兵で編成したもので、もともと精悍な彼らの顔も、今は青黒く、そのうえ髭はのび放題だから、人相の悪いことこの上ない。(中略)
 七月三十一日、今日も快晴。早々に谷へ洗濯に下りた。もう炊事の人たちが来ているので、遠慮して谷間をもう少し下った。すると、プーンと屍臭がしてきた。
『死体だな』
 下を見ると、二人のインド兵が倒れている。水を飲みにきて倒れたままだろう。
 彼らも、民族独立の情熱を傾け、インド独立を叫びながら、インド国民軍をつくり日本軍と統一作戦をしている。その一部が、どういうわけか、このニューギニアに回ったのだが、この転進では我々同様に次々に倒れていった」(p89,91)

 西部ニューギニアのマノクワリはウエワクから約750kmの距離があるため、これらのインド兵は、ウエワクに送られた約3,000名とは別のグループではないかと思われる。


3 インド兵の写真
 1で掲げたウェブサイト「The Anzac Portal」に、ニューギニアで豪軍に保護されたインド兵の写真が複数掲載されている。
 また、森山康平編著「米軍が記録したニューギニアの戦い」(草思社)にも、ロスネグロス島で保護されたインド人部隊の写真が収録されており(p129)、ターバンを巻いた多数のインド兵たちが写っている。「The Anzac Portal」に、ロスネグロスで69名のシク教徒の捕虜を救出・解放した(When the US 1st Cavalry Division seized the Admiralty Islands they rescued and liberated 69 Sikh prisoners who had been used as labourers at Los Negros.)との記述があり、これらの人々を指すものと思われる。


4 終戦時のインド兵の様子
 昭和20年8月に日本が降伏した直後に、インド兵と接触した際の証言が残されている。第18軍軍医部の鈴木正己軍医少佐は、終戦後の出来事として、以下のような記録を綴っている。

「その日、武装解除が終わってから、私たちは自動小銃を構えたMPの前に一列に並ばされた。そして私たちの列から少し離れたところに、インド兵の一団が立っていて、私たちのほうを注視していた。見るとそこには、昨日私がアンゴラムでみかけたインド兵の姿もあった。
 私たちは一列になってインド兵の前を行進させられ、彼らに敬礼させられたのである。敬礼動作が悪いと、その場で鞭でなぐられた。MPの立ち合いのもとに、インド兵に仕返しをさせたわけである。気の毒だったのは、インド兵を使役した水上勤務隊の将兵であった。彼らはインド兵に目の仇にされ、なぐられたり、薪集めやら荷物運びやらでインド兵にこき使われたのである」(鈴木正己「ニューギニア軍医戦記」光人社NF文庫、p282、284〜285)

 また、飛行第68戦隊の整備兵だった菅野茂上等兵は、以下のように書き残している。

「ほっと、安堵したのも束の間、今度は豪軍憲兵に連れられた五、六名のインド兵が現われた。インド兵は、緒戦の頃シンガポール陥落当時、日本軍の捕虜になり、ニューギニアに送られて強制労働に服していた。食糧が切迫したため、日本軍は彼らを解放した。今度は立場が逆転して勝者になった彼らは、捕虜当時に虐待を加えた者の首実検に現われたものだった。
 私は、インド兵とは接触がなく、虐待したことも殺したこともない。しかし他人の空似という諺もある。私たちがインド兵を見ると、みんな容姿が似ていてみな同じように見えると同様、彼らの目からすれば日本兵も同じように映るのではなかろうか、と思うと不安になった。もし『この男だ』と自分が指されたら最後、この戦場においては、たとえそれが誤りであっても、言い逃れはできない。と、思うと心も凍る。
 ギョロ、ギョロと黒い怨みの眼差しを向けられたときは、全く生きた心地がなかった。氷の刷毛で背筋を撫でられる思いだった。インド兵たちは、代わる代わる私たちの顔を覗き込みながら通り過ぎた。彼らの後ろ姿を見て、ほっと溜息が出て、同時に私は、全身の力が抜けてしまって、崩れるように地べたに座り込んでしまった」(菅野茂「7%の運命」光人社NF文庫、p215)


5 ラバウル戦犯裁判
 戦後、ラバウル・ニューギニア・ブーゲンビル方面の将兵の戦犯裁判がラバウルで行われており、ここで多数の日本軍将兵が、インド兵虐待の罪によりBC級戦犯とされ、絞首刑を含む重刑に処せられている。しかし、これらの裁判には、あまりにも量刑が過重であったり、そもそも不当な裁判と呼ぶほかないものが少なからず含まれている。

 ラバウル戦犯裁判の特異性をよく表す具体例として、角田房子「責任 ラバウルの将軍今村均」(ちくま文庫。以下「角田書」)に記された以下の事例を紹介する。ラバウルの野戦自動車廠に勤務していた3名の下士官が、全くの無実の罪により絞首刑となった事案である。

「刑死した三人と長野(注:野戦自動車廠でインド兵の監督を務めていた曹長)とは共にラバウルの第二十六野戦自動車廠に所属していた。戦後間もなく、長野の管理下にあった百数十人のインド人は、笑顔で彼に挨拶して帰国船に乗った。それを見送った長野は、戦中インド人を好遇したことでよい人間関係を保ち得たと、ひそかに満足したのだが――1945年(昭和20)12月、中隊の三人が戦犯容疑者として逮捕され、それがインド人の告訴によるものと知って、愕然とした。
 長谷川と沼道は『印度外人部隊ガンガー・シタラム殺害事件』で、岸は『印度外人部隊ビンズー殺害事件』で裁かれることになった。だが『殴打による致死』とされているインド人たちが、実際はマラリアと脚気のため休養室に収容され、そこで死んだことを長野はよく知っていた。彼は被告の長谷川、山谷衛生曹長と共にシタラムの臨終にたち会い、『山谷曹長より、当時の状況下では過分の手当を受けての平常死であった』と書いている。ビンズーについても、ほぼ同じ記述がある。“殴打による致死”などとは全くの捏造だ――と血の逆流する思いの中で長野は、とにかく裁判に勝って、三人を救い出さねばならぬ――と心を決した。
 長野は前後八回証人として出廷したが一回ごとに彼の絶望は深まるばかりであった。弁護側がインド人の告訴状についてどれほど多くの疑点を指摘しても、告訴人は法廷にいないのだ。インド人は豪軍の手に告訴状を残して、みな帰国したあとである。従って、反対尋問によって彼らの主張の矛盾をつくことが出来ない。
 『日本兵は殴った、インド人は倒れた、出血した死亡した、何の治療も受けなかった、私はそこにいた』などと書かれた複数の告訴状が、多人数の“目撃者”による事実事項として、そのまま採用されてゆく。インド衛生兵の記録した患者名簿さえあれば、“殴打による致死”が実は病死であったことを完全に立証できるのだが――と長野は歯がみする思いであったが、唯一の物証であるその名簿は終戦時の軍の指令で焼却されていた」(角田書p87〜88)

 このほか、第8方面軍司令官だった今村均大将の「今村均回顧録」(芙蓉書房出版)にも、戦中のラバウルで、怠け者のインド兵の頬を打って無理やり潰瘍の治療をしたり、マラリヤの予防薬である苦いキニーネを飲ませたりしたために、患者を虐待したと告発されて絞首刑となった衛生伍長の話や、同性愛傾向のあるインド人将校に薬を飲まされて強姦されそうになったため、相手を木っ端微塵にぶん殴ったところ、激しい虐待を行ったとして絞首刑判決を受けた伍長(のち有期20年に減刑)のケースなどが紹介されている(p449〜457)。

 そして、ニューギニア戦線の戦犯事案については、ラバウル裁判で弁護人を務めた松浦義教中佐(第38師団参謀)が、その著書「ラバウル戦犯弁護人」(光人社NF文庫。以下「松浦書」)の中で、弁護を担当した特設水上勤務第16中隊の某伍長(のち刑務所内で自決)の証言として、以下を書き残している。

「確かにそういう名のインド人が死んだことは事実です。しかし、絶対に殴ったから死んだのではなく、当時食糧が乏しく、マラリアに犯されてもいましたので、結局、栄養失調で死んだのです。当時のニューギニアの事情ではどうにも…」(p59)

 極限の状況に陥ったニューギニアで、多くのインド兵の死者(そして、日本兵の死者)を出した本質的な理由は、結局のところ、これであろう。インド兵に多数の死者が出たことは大変悼ましく、ただその冥福を切に祈るほかない。4に述べたような終戦後のインド兵の反応の厳しさも、彼らを見舞った過酷な運命を考えれば、忍受するよりほかないものであろうと思われる。

 しかし、その報復として、日本人下級将兵の命を奪うことが正当化されるかどうかは、また別の議論であろう。松浦書には、ニューギニア関係を含む様々な裁判の模様と、処刑された将兵の最期の言葉が多数収められており、読む者の胸に迫る内容となっている。
 こうしたラバウル戦犯裁判について、松浦中佐は以下のような所感を残している。

「ラバウルにおける戦犯裁判は、インド人・中国人労務者に関するものが圧倒的に多い。
(ラバウルで結審した戦犯裁判二百三件のうち、この労務隊関係が百八十三件、そのうちインド人関係が百四件であった)
 この事実は、むろん長期にわたる日本軍支配下の思わざる長期の労務に服した怨みが、その基底に在るのであろう。
 ことに難局のニューギニア戦線では、いろいろ問題もあったと思われるが、ラバウルではそのような酷烈な場面はなく、それでいて何故、かくも大量の戦犯者を出したのか。
 労務隊員たちが、いよいよ本国に帰れると決まった時、彼らの不安は、中国人労務隊は、汪政権下で志願したという問題があり、インド人の場合は、インドはまだ英国領だ。自分たちがインド独立国民軍だったとか、日本軍の宣誓労務隊員となって協力したことなどが、帰国後反逆者として責められるのではないか、ということではなかったか。
 インド独立国民軍は、インド独立の志士チャンドラ・ボースの主宰で、一時インドに進攻したインパール作戦にも参加したことさえあった。
 そういう深刻な不安と憂慮から、今は独立国民軍や宣誓労務隊に入っていたことは一切秘匿して、ただただ日本軍の俘虜になって、強制労働に服したという立場だけを強調したく、したがって連合軍側の立場に身を置いてそれに協力する姿勢。つまり豪軍に迎合するため、その告訴奨励に応じたのではないか。
 いったんそういう姿勢にあったら、わが身を救うためには、針小棒大も、まったくの作りごとも意に介するところではなかっただろう。
 大掛かりな告訴の続出。しかも捏造された告訴の多さは、まったくわれわれの常識と想像を遙かに越えたものだったが、時の形勢と自らの利益に順応したい人心の動き、自己保全の本能とはそうしたものであろう」(松浦書p199〜200)


6 まとめ
 マレー戦で捕虜になったインド兵は、近年、「インド国民軍として日本軍とともに戦った」といったような、「美しい物語」の文脈の中で捉えられがちである。しかし、本記事で述べたように、当時の日本軍はインド兵をニューギニアなど幅広い戦線に送り出し、日印双方にとって不幸な結果をもたらしている。こうした歴史があったことも、同様に認識しておくべきことであろう。
 特に、処刑された日本人BC級戦犯のうち一定数の者が、無実であったことを証明したいと考える者にとっては、こういった事実に触れていくことは、必要不可欠の手続ではないかと思われる。


(2019.2.14追記)
 戦史について精力的に調査を行われている有村悠さんが、「昭和19年5月、東部ニューギニア・ボイキンでインド兵捕虜約400名が『処分』された」とする証言を発見され、ツイートされている。
 このような事案が実際に発生していたのであれば、その関係者が重刑に処されることは当然であろう。本件は、これまで戦記類で取り上げられることのなかった、新たな事実の発見と思われるので、合わせて紹介させていただく。

(2019.4.21追記)
 ニューギニア戦線のインド兵に関しては、以下の各書にも関連記述があったので追記しておく。

・白水清治「激戦ニューギニア」(光人社NF文庫)
 昭和19年3月、第20師団所属の著者がマダンからウエワクへ移動する途中に、ハンサの揚陸場で多数の「インド兵捕虜」が使役されているのを目撃する場面がある(p186)。著者がその中の一人と会話を交わしたところ、彼はシンガポールで野菜屋を営んでいたこと、日英開戦と同時に召集されたこと、シンガポール陥落で捕虜になったこと、妻と子供二人が彼の帰りを待っていることなどを話している。

・田中俊男「陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦」(戦誌刊行会)
 昭和19年後半頃(アイタペ戦後)、著者が山南地区でインド兵捕虜のグループと出会い、困窮している彼らに食糧(サクサク二俵(約二斗強)、タロ芋一網、トウガラシ一籠)を恵与し、非常に感謝される場面がある(p164〜165)。
 同書の記述によれば、彼らは自らを「捕虜となって日本軍の管理下にある」と認識していたこと、貨物廠の管轄下にあったこと、食糧を求めて無断で移動を重ね、所属部隊と連絡が取れなくなっていたこと(つまり、管理があまり厳重でなかったこと)が窺われる。

・中谷孝雄「のどかな戦場」(東都書房)
 西部ニューギニア・マノクワリ支隊に配属されていた著者が、道路建設工事に従事する「インド人の捕虜(志願した兵補という説もあり)」について描写した場面がある(p95〜98)。彼らが作業に対してあまり積極的ではなく、隙あらば怠ける様子が詳しく描かれている。


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2018年12月23日

ニューギニア戦線・第22飛行場大隊の苦難の転進

 ニューギニア戦線の日本軍は、米軍の「蛙跳び作戦」により、たびたび後方の拠点を攻略された。このため第一線部隊は、サラワケット越えに代表される厳しい転進を余儀なくされ、その過程で多数の将兵が戦没している。

 そうした苦難の行軍を強いられた部隊の一つに、第6飛行師団隷下の第22飛行場大隊(以下「22飛大」)という部隊がある。22飛大は、昭和18年1月に東部ニューギニアのラエに上陸し、過酷な転進を続けたのち、西部ニューギニアのサルミ(一部はバボ)で終戦を迎えている。今回は、東西ニューギニア戦線で数奇な運命に翻弄され続けた、22飛大の足跡についてまとめてみたい。
 なお、ニューギニアの地図としては、こちらこちらを参照されたい。

1 ラエ〜マダン
 22飛大のニューギニア・ラエ上陸から、サラワケット越えを経てマダンまでの行程については、同大隊の一等兵だった高橋秀治氏の「ニューギニア航空戦記」(光人社NF文庫。以下「高橋書」)という本に詳しく記述されている。同書によれば、22飛大は元々ハルピンに駐留していた関東軍の部隊であり、太平洋戦争開戦後、飛行第1戦隊(戦闘)と第11戦隊(同左)からなる第12飛行団を支えてマレー、ビルマを転戦。ついで南東方面に進出し、昭和17年12月25日にラバウルに到着していた。大隊長は天口伊兵衛大尉(少候13期)であった。

 昭和18年1月5日、ラバウルからラエへの輸送作戦である十八号作戦(輸送船5隻、護衛駆逐艦5隻(浦風、磯風、浜風、谷風、舞風))により、22飛大はニューギニアへ進出することとなった。大隊本体に、通信、情報、気象など第6飛行師団関係の各一部隊を追加し、合計約400名の部隊だったという。途中、輸送船5隻のうち1隻(日龍丸)の撃沈により45名の戦死者を出すも、残りの将兵は1月8日にラエに上陸している。

 その後、22飛大は激しい空襲にさらされつつも飛行場整備に努め、第12飛行団を支え続けるが、9月の連合軍上陸により、ラエの日本軍部隊は敵中に取り残されてしまう。こうした状況下で、ラエの第51師団(基(もと)兵団)の中野英光師団長は、サラワケット山系を越えてキアリへの脱出を決心する。ラバウル出発時に約400名だった22飛大を中心とする部隊は、このとき、283名まで減っていたとのことである。

 そして22飛大は、天口大尉指揮の下で敵のラエ侵入を遅滞させた後、9月14日にラエを出発。飢餓と厳しい寒さ、険峻な行路に苦しみつつ、10月中旬頃にキアリに到着。到着できた者の数は207名であり、76名がサラワケット越えで死亡した計算になる。なお、9月に第4航空軍司令官・寺本熊市中将から天口大尉に対して、11月には同中将から22飛大に対して、猛烈な空襲下でラエ飛行場の維持に奮闘努力してきたことについて感謝電報や賞詞が与えられている(戦史叢書「東部ニューギニア方面陸軍航空作戦」(以下「叢書7巻」)のp422,431)。

 その後、22飛大は直ちにマダンへの転進を続けたため、いわゆる「ガリ転進」(注:昭和19年1〜2月にかけて、フィニステル山系で行われた転進。第20師団・第51師団等の将兵約13,000名のうち、約5,500名が戦没)を経験することはなく、11月までにマダンに到着している。なお、高橋氏はマダンで主計下士官候補者要員となり、第十三次ウエワク輸送船団の帰途に便乗してニューギニアを離れたため、高橋書はマダンまでで記述を終えている。


2 マダン〜ホーランジア
 昭和18年11月以降、22飛大がいつ、どうやってマダンからホーランジアへ移動したかについては、残念ながら記録が見当たらない。叢書7巻p620の部隊配置図を見る限りでは、昭和19年2月には既に22飛大がホーランジアに配置されており、この時期までにホーランジアに移動していたことがうかがわれる。少なくとも、4月22日の米軍上陸時点で、22飛大がホーランジアに駐屯していたことは確実である。


3 ホーランジア以西へ
(1)稲田正純少将のホーランジア脱出
 昭和19年4月22日、日本軍の予想を裏切る形で、突如米軍がホーランジアに上陸した。この当時、ホーランジアには第18軍関係約6,600名、第4航空軍関係約7,000名、海軍関係約1,000名、合計約14,600名の兵力があったが(戦史叢書「南太平洋陸軍作戦<5> アイタペ・プリアカ・ラバウル」(以下「叢書84巻」)のp21〜22)、その多くは後方部隊や航空関係部隊であり、陸上戦力として計算しうる兵力はほとんどなかった。久山忍「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」(潮書房光人社。以下「久山書」)所収の、松浦豊少尉(電信第16連隊第3中隊第3小隊長。昭和18年8月にホーランジア上陸)の手記によれば、ホーランジアには「銃の総数は1,000挺、弾薬は小銃1挺につき10発しかなかった」(久山書p124)。結局、米軍はほぼ無抵抗でホーランジアに上陸し、日本軍は約400km西方のサルミへ向けて、過酷な転進を強いられることになった。

 第6飛行師団長心得としてホーランジアに着任したばかりだった稲田正純少将は、ホーランジアの陸軍部隊の総指揮を執ることとなり、4月30日にホーランジア南西のゲニムまで後退。掌握した約7,300名の将兵を10個梯団に分け、自らは22飛大など771名からなる第5梯団を率いて、5月3日にサルミに向けて出発した。しかし、十分食料を携行しないままホーランジアを追われ、道なきジャングルを進むこの転進は、悲惨を極めたものになった。その模様を、第18軍の派遣参謀だった中本太郎少佐は以下のように描写している。

「ホーランジア戦闘に引続き実施されたる四〇〇キロの転進は、未開、瘴癘、ジャングルの連続、進むに道無く、幾多横たわる大小無数の山嶽、湿地、河川を越えざるを得ない。其の間、飢餓、空腹、栄養失調、これに加えるにマラリアの猖獗は機動を益々困難ならしめ、遂に白骨をしてホーランジア、サルミ間の道標たるの感あらしむるに至れり」(叢書84巻p46)

 しかし、こうした戦況の中で、22飛大は稲田少将から高い評価を受けていた。佐藤清彦「土壇場における人間の研究」(芙蓉書房出版。以下「佐藤書」)p250〜251に引用されている、稲田少将の日記の記述を孫引きすると、

「梯団長たらしめし第二十二飛大の天口伊兵衛大尉以下、ラエより山越えの経験者にて行軍力段違いなり。糧食の収集また期待すべし。今夕もバナナ、パパイヤを見付けてくれる。何か採れば必ずまず予に届ける。心懸けのいい男なり」

と激賞している。気をよくした稲田少将は、5月9日、師団司令部(50名)と22飛大将兵(110名)、軍参謀らを合わせた総勢165名のみを率い、サルミへ先行することを決心する(「濠北を征く」(濠北方面遺骨引揚促進会編、以下「濠北書」)所収、稲田正純「第六飛行師団始末記」p238)。

 そして5月31日、稲田少将はサルミの第36師団(雪兵団)司令部に到着し、師団長の田上八郎中将と面会。夜は今田新太郎参謀長(陸大同期、稲田が作戦課長当時の部下)とコップ酒を酌み交わし、そのまましばらく第36師団司令部に逗留。6月12日に、約50名(空中勤務者13名、護衛として22飛大の天口大尉以下20数名含む)を率いてサルミを出発、徒歩と大発で26日にマノクワリ着。28日に双軽二機でマノクワリを出発、ソロン経由でメナド着、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将に面会。29日にダバオ経由でマニラ着、30日に南方軍総司令官の寺内寿一元帥に申告。8月15日、戦場離脱の責任を問われ、停職2か月の処分を受けている。
 このような稲田の行動を、電信第16連隊の松浦少尉は以下のように評している。

「この頃稲田師団長は、第三十六師団長と会合し航空部隊の悪口のみを述べ、自らは司令部高級部員と一部の空中勤務者を伴い、部下七千名の擁護を要請せずして、師団再建の美名のもとにマノクワリ経由フィリピンへ逃亡したのである」(佐藤書p263〜264)

 こうした見方に立てば、部下将兵の大半をサルミ以東に置き去りにして、自らはマノクワリへ脱出した天口大尉も、やはりその行動への批判は避けられないだろう。もっとも、マノクワリに移動した22飛大将兵は、稲田のニューギニア脱出には同行せず、マノクワリ南方のバボ(こちらの赤色着色部分)付近で終戦を迎えたようである(叢書22巻p675)。

(2)サルミ残留部隊の悲劇
 ホーランジアからの撤退部隊は、飢餓と病に苦しみながら、5月末頃以降、ようやくサルミ手前のトル河付近に到着し始めていた。ところが、サルミを守る第36師団は、転進部隊がトル河を渡ることを許さなかった。既にサルミにも米軍が上陸し、激戦中だった第36師団は、飢えきった転進部隊が陣地内に乱入し、収拾がつかなくなることを極度に警戒忌避していたのである(叢書22巻p554)。

 そして、サルミでの給養を期待して、どうにかトル河まで辿り着いた転進部隊は、飢餓と衰えの極みにある中で渡河を禁止され、文字通り地獄の様相を呈した。当時の転進部隊の様子について、関連戦記からいくつかの記録を抜粋する。

「このころ、流言飛語が飛び、転進各部隊の動揺がはなはだしかった。その流言飛語とは、
『トル河を渡河すれば第三六師団は作戦の邪魔になるので、たとえ友軍でも射殺する』
 というものである。
 我々ホーランジアの転進部隊はここで完全に行きづまった。トル河を渡河して友軍である第三六師団と戦うか、現地にとどまって餓死するかの岐路に立たされたのである。(中略)
 行く先々でドンア集落で見たのと同じ情景を見た。佐官級の将校の死体もあった。行動する体力も気力も尽き果て、ただ横たわっている光景が至るところにあった。みな疲労困憊し、飢餓のためやせおとろえている。目はくぼみ、被服も汗と泥で変色し、力なくたむろしている。その情景はまさに幽鬼の群れそのものであった」(久山書p143)

「某准尉は、ほとんどだめと思える部下の一人を木陰に寝かせ、翌朝様子を見に行くと、もうほとんど骨だけの姿になって銀バエが群がっていた。野豚のいたずらか、鳥の群の仕業か、それとも日本兵による解体か、いずれとも断定はしかねた。数日後、野草を飯盒で煮ていると、見知らぬ兵士が近づいてきて、『野豚をたべないか。ここで炊いてよろしいか』と火のそばに腰を下ろした。見ると、彼がかついでいる天幕の包みから人間の足が出ている。准尉はつねづね、『人間が人間の肉を食ってはいかん。自家中毒になる』と部下に言っていたので、背筋が寒くなるのを覚えた。さらに数日後、今度は部下の一人が『野豚、たべませんか』と、飯盒の肉を見せた。准尉は、その黒ずんだ固い肉に岩塩をまぶすようにして食べた。その後、准尉は、戦病死した兵を、一人だけでなく三人の肉を軍刀で切って食べた。『あの時、私は正常な人間でなく、鬼畜と化していたのだろう』、戦後、そう語っている」(佐藤書p269)

「少年飛行兵出身者が一人、トル河で飯盒を洗っていると、いきなり三人組の兵に連れ去られたという話を聞いた者もいる。半ば常習犯と化していたらしいその三人組も、『生きた戦友の肉を奪うものは射殺』の命令によって、やがて上官に射殺された、という。これとは別に『きのうの肉は少年飛行兵で若いからうまかった』という会話を耳にした兵もいる」(佐藤書p269〜270)

「道筋に将校の倒れている姿も少なくない。五キロも歩いたころ、ラワンの木に背をもたせかけ、両手で軍刀を持ったままうずくまっている中佐がいた。ふと見ると、転進のとき松浦隊のすぐ前にいた第十梯団の梯団長、第百十三病院長の陣内中佐である。松浦少尉は『病院長殿、陣内中佐殿』とゆすったが、心臓は動いているものの、瞳孔は開いたままであった。衛生兵が中佐の図嚢を調べたが、注射器が二本入っているだけだった。中佐だというのに、当番兵もついていない。たった一人で、トル河右岸の惨状を訴え、薬物の供与を求めるつもりだったのだろうかと松浦は想像した。すでにミイラのような形相であった」(佐藤書p272)

「トル河右岸からそうであったが、軍隊としての規律は完全になくなっていた。死んだ将校の肩章を盗み、軍刀、拳銃をもち、勝手に将校になりすまし、少しでも食糧をもっている者がくると射殺し、わずかな食糧をうばうという5、6人の強盗団のようなグループがあった。
 岡本参謀(注:第6飛行師団作戦主任参謀の岡本貞雄中佐。稲田少将に同行せず転進部隊に残留し、各隊から感謝されていた)は部隊長で合同会議を行ない、各隊から射撃の名手を二名ずつ選抜し、討伐隊を組織し、ついに11人を射殺した。強盗団のなかには少佐の階級章をつけた者もいた」(久山書p153)

 こうした状況の中で、稲田少将から精鋭と見なされていた22飛大は、第五航空通信連隊、第十三野戦飛行場設定隊とともに、稲田少将から第36師団に「いますぐ役立つ」と推薦され、例外的にトル河を渡ることを許可されていた(佐藤書p266)。そして、第36師団の直接指揮下で戦闘任務につき、終戦まで無難に任務を果たしたとされている(叢書22巻p459,671)。

 一方で、トル河渡河を許されなかった部隊は、一部の第36師団将兵から厳しい仕打ちを受けながらも、辛うじて約2,000名が6月下旬まで生き残った。米軍との交戦で兵力を減らしていた第36師団は、この頃になると、これらの部隊がサルミ北西6kmのシハラ(シアラ)地区に集結し、現地自活を行うことを許可していた。転進部隊はようやくトル河を渡ることができたが、既に「病人と負傷兵ばかりで、被服は破れ、靴をはいている者もまれであった。ホーランジアから転進をはじめた53の部隊のうち、全員が死亡した部隊が4、生存者が5人以下に減少した部隊が25」(久山書p153)という状態だった。

 そして、辿り着いたシハラも平和な地ではなかった。海岸に近いシハラ地区は、連日の爆撃とともに艦砲射撃にもさらされ、主要な将校でさえ次々と戦没した。5月17日に北川季人中佐(第四航空情報連隊長)、6月8日に泊重愛少佐(飛行第78戦隊長)、6月10日に恩田謙蔵大佐(第14飛行団長)、7月5日に齋藤武夫大佐(第18航空地区司令官、初代シハラ地区司令官)、7月15日に森玉徳光少将(第30飛行団長)、7月25日に船山正夫大佐(第14野戦航空修理廠長、第2代シハラ地区司令官)、8月5日に原孫治少佐(飛行第63戦隊長)、10月20日に岡巖少佐(第14野戦航空補給廠長、第3代シハラ地区司令官)などである(濠北書所収、折茂一郎「ホルランジャ、サルミ附近陸軍航空部隊の最後」p353〜354)。こうした状況から、当時トル河は「命とる河」、シハラは「死原」などと呼ばれていたそうである。

 その後、第209分廠長の折茂一郎少佐が第4代シハラ地区司令官となり、苦労して開墾を続けながら、翌年8月の終戦を迎えている。濠北書p355〜356には、以下のような折茂部隊の編成表が掲載されている。

@本部 白城子陸軍飛行学校材料廠第209分隊、第20、22(一部)、209(一部)飛行場大隊、第4航空情報連隊、第6航空移動修理班
A本隊 第4航空軍司令部(残留員)の一部、第6飛行師団司令部、第14飛行団司令部、飛行第10、28、33、34、61、63、68、75、77、78、248戦隊、独立飛行第83中隊、第7輸送飛行隊、第38飛行場大隊、独立工兵第36連隊
B駒野隊 第4航空軍司令部(残留員)の一部、白城子陸軍飛行学校教導飛行団司令部、第86飛行場中隊、第2航空移動修理班、第14野戦航空補給廠、第12野戦気象隊、陸上勤務第81中隊、建築勤務第31、52中隊
C立川隊 野戦高射砲第66大隊、独立野戦高射砲第39中隊、野戦機関砲第39中隊、独立野戦照空第3中隊、第2、第5航空通信連隊、第4航空情報連隊
D菊岡隊 飛行第208戦隊、第209飛行場大隊、白城子陸軍飛行学校材料廠第209分廠の一部、第11航空移動修理班、第6航測隊、第1航空路部、第13野戦気象隊、陸上勤務第73中隊の一部
E久田隊 第14野戦航空修理廠、陸上勤務第73中隊
F大島隊 第22飛行場大隊

 以上を見ると、「@本部」と「F大島隊」に、22飛大の名前が見える。22飛大がどういう経緯でシハラにいたのか、例外的にトル河渡河を許可されていた将兵もその後シハラに回されたのか、詳細はよく分からない。ただ、ホーランジアに駐屯していた約14,600名のうち、シハラで終戦を迎え、日本に生還できた者がわずか500名足らず(濠北書p362)であったことを考えると、いずれにせよ22飛大の生還者も少なかったのではないかと思われる。

 なお、シハラから生きて還った人々は、戦後「白梅会」という戦友会をつくった。ちょっと戦友会らしくない、優美な会名の由来は、「雪(第36師団)にどんなに痛めつけられ、迫害を受けても、それに耐え、やがて春には白い花を咲かせて見せる」という意味だったという(久山書p154)。佐藤書が刊行された2003年当時、22飛大の曹長だった花輪久夫氏が、「白梅会」の会長を務めている。

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2018年09月29日

日本陸軍の軍司令官・参謀長人事に関する雑感

 前回の記事を書くに当たり、広中一成氏の著書「牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか」(星海社新書)を読んだ。同書の中では、河辺正三・ビルマ方面軍司令官と牟田口廉也・第15軍司令官の関係などについて考察が行われているが、太平洋戦争当時の日本陸軍の軍司令官・参謀長人事について、個人的に気になったことを書き留めておきたい。

1 軍司令官人事について
 陸軍の軍司令官人事では、「一度組んだコンビをもう一度組ませる」という例は時々見られる。例えば、

・今村均と加藤鑰平(第23軍司令官と参謀長、のち第8方面軍司令官と参謀長)
・山下奉文と鈴木宗作(第25軍司令官と参謀長、のち第14方面軍司令官と第35軍司令官)
・阿南惟幾と豊嶋房太郎(第11軍司令官と第3師団長、のち第2方面軍司令官と第2軍司令官)
・河辺正三と牟田口廉也(支那駐屯歩兵旅団長と連隊長、のちビルマ方面軍司令官と第15軍司令官)

などが挙げられるだろう。

 このうち、今村と加藤の例は、両者の仲も良好で、見事な実績(終戦までラバウル防衛)を残している。また、山下と鈴木の例は、1回目は大勝、2回目は大敗に終わったが、2回目に関しては、誰がやってもこの結果は避けられなかったものと思われ、人事としての評価は難しい面がある。

 これらに対して、阿南と豊嶋の例は、そもそも1回目からして大失敗(第二次長沙作戦)であり、なぜもう一度、しかも濠北という重要方面でコンビを組ませたのか、かなり理解に苦しむ人事である。案の定、2回目の西部ニューギニア戦線でも、阿南の行き過ぎた積極性に引きずられる形で、松山支隊のホーランジア派遣(注:約4万の米軍が上陸したホーランジア奪回のため、サルミから、歩兵2個大隊基幹の松山支隊を派遣しようとした事例。サルミ−ホーランジア間は約400km)という誤判断が行われている。

 この松山支隊の派遣については、現場の第36師団が反対していたこと、参謀本部(次長)や南方軍(総参謀長)も反対していたこと、にもかかわらず阿南が強硬に実施を主張したこと、阿南の主張を尊重する形で寺内寿一・南方軍総司令官が作戦を承認したことなど、インパール作戦と類似した構図が見られる。こうした意思決定過程の詳細は、戦史叢書「豪北方面陸軍作戦」に記録されているが、阿南が参謀総長指示や南方軍命令に従わない意向を示す電報を発し、大本営から叱責電を受けるなど、インパール作戦の承認過程よりも問題のある点さえ見受けられる。

 松山支隊の事例が、後世において目立った批判の対象になっていないのは、インパール作戦よりも小規模で目立たないこと、作戦開始直後にサルミにも米軍が上陸したため問題が顕在化しなかったこと(松山支隊が袋の鼠になり、かつ、兵力の手薄なサルミを失陥するような最悪の事態に至らなかったこと)、そして、阿南本人の人格のためであろう。あくまで個人的な心情論として言うならば、終戦時の阿南の身の処し方のことなどを考えると、(牟田口と異なり)阿南の責任を追及する気にはなれない部分がある。
 ただ、河辺と牟田口という人事の失敗例について、学問的な視点から研究するのであれば、阿南と豊嶋の組合せについても掘り下げ、その共通点を抽出することは、一つのアプローチになるのではないかと思われる。


2 軍参謀長人事について
 また、陸軍の人事に関しては、担当する戦域で不足している要素を、軍参謀長人事で補おうとする「癖」があるように見受けられる(こうした傾向の存在については、過去にも何かの本で触れられていた記憶がある)。
 私見として挙げるならば、以下の例が該当し得るだろう。

・上陸作戦を行うマレー(第25軍)では、運輸畑(参謀本部第3部長)の経験がある鈴木宗作
・地形複雑で移動困難な東部ニューギニア(第18軍)では、工兵出身の吉原矩
・航空主体の防衛戦が想定される西部ニューギニア(第2軍)では、航空兵出身(転科)の藤塚止戈夫
・兵站が不安視される北ビルマ(第15軍)では、輜重兵出身の小畑信良
・逆上陸作戦が想定される千島(第27軍。海上機動旅団2個が配属)では、参本船舶課長などを務めた鈴木敬司
・フランス植民地政府との軍事・経済協力が求められるインドシナ(第38軍)では、フランス駐在と陸軍派遣学生(東京帝大法学部政治学科)の経験がある河村参郎

 これらのうち、失敗だったと評価せざるを得ないのは、そもそも軍司令官と参謀長個人の能力に疑問符が付く第2軍(一例として、イドレ死の行軍)と、軍司令官と参謀長の相性が最悪だった第15軍であろう。参謀長の専門分野に着目して人事を行っても、その他の要因により上手くいかない場合があることを示す例であり、人事の難しさを物語るものと言えるだろう。

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2018年09月17日

広中一成氏らの見解への疑問(高木俊朗の作品について)

 前回、牟田口廉也の宴会エピソードに関する記事を書いたが、その後、再びジセダイ総研に、「昭和陸軍と牟田口廉也 その「組織」と「愚将」像を再検討する」という座談会レポート(以下、単に「レポート」と呼ぶ)が掲載された。
 このレポートの内容にも疑問点が多々あるので、改めて検証してみたい。

1 「抗命」と「戦死」の記述の重複説について(1)
 レポートの中では、以下のようなやり取りが行われている。

「広中:たとえばですが、高木俊朗の『抗命』の中に、牟田口が第十五軍司令部に作らせた遥拝場の前で、撤退してきた幹部の前で長々と精神訓話を垂れて、栄養失調の幹部たちがバタバタと倒れた......という有名な逸話があります。
辻田:ああ、誰でも知っているようなやつですね。
広中:ところが、おなじ高木の『戦死』にはこれに極めて類似した逸話が、桜井徳太郎のものとして出てくるんですよ。こうなると、実証史学的にはどちらも採用できない。証言者についてもぼかされている。」

 これらは、高木俊朗「抗命」(文春文庫版)のp243〜245、「戦死」(同)のp319の記述のことを指すものと思われるが、「抗命」のp243では、
「情報班の中井悟四郎中尉は『歩兵第六十七連隊文集』第二巻に、次のように記述している。」
と、この逸話の出典は明確に示されている。「証言者についてもぼかされている」との発言は、事実に合致したものではない。

 また、「戦死」の記述については、同書のp319〜322で、桜井徳太郎歩兵団長の「訓示」(こちらには出典の記載がない)が紹介されている。その中で、牟田口の逸話と類似するのは、

「一地固守の任務を有する部隊が、弾丸のある限り、力の続く限り、手を切られたら足で戦い、手足を切られたら、口で噛みつき、息が絶えたら怨霊となって敵を悩ます」

の、下線を引いた1行に満たない部分だけであり、「戦死」に掲載されている全56行の長文の桜井訓示を読むと、牟田口逸話とは全く異なる内容であることがよく分かる。
 そして、この牟田口と桜井の類似発言の元となったのは、「葉隠」の聞書第七の、

「刀を打折れば手にて仕合ひ、手を切落さるれば肩節にてほぐり倒し、肩切り離さるれば、口にて、首の十や十五は、喰切り申すべく候。」

という部分であろう(詳細は、こちらの「八七〇」を参照)。つまり、牟田口と桜井の発言は、両者が「葉隠」から同じ表現を引用し、それがたまたま被っただけと見るのが自然であり、これをもって「逸話の重複」とするのは、かなり無理のある主張ではないか。

 なお、wikipediaの「牟田口廉也」のページでは、このような無理筋の話を掲載したり、「参考文献」の項目の高木俊朗の著作に、わざわざ「以下は小説である」という断り書きを付けたりと、以前から、高木作品の信憑性の低さを印象付けようとする試みが見受けられる。旧軍の問題点を厳しく批判する著作であるだけに、高木作品は、一部の層にとっては目障りな存在なのだろうか。


2 「抗命」と「戦死」の記述の重複説について(2)
 また、1でレポートを引用した箇所の、広中氏の発言の中に、「こうなると、実証史学的にはどちらも採用できない」との言及がある。

 しかし、同じような逸話が両書に記載されているからといって、「どちらも採用できない」と即断することはできず、まずは両者の出典の内容を確認すべきなのではないか。中井中尉の手記をチェックした上で、「『抗命』の記述には明確な出典があるが、『戦死』の方は出典が確認できず、『戦死』の記述に関しては事実関係が疑わしい」という見解が示されるのであれば分かるし、「中井手記を調べたが、このような理由によって、『抗命』の記述も信憑性がないものと判断した」との説明がなされるのであれば、それもひとまず傾聴すべき主張であろう。
 一般的に、「実証史学」では、このような面倒な確認作業は行わないものなのだろうか。

(2018.12.23追記:桜井訓示についても、「戦死」のあとがき(p364)に、出典が桜井の日記であることが明示されていたので補足しておく。高木は桜井本人に対し、日記を「戦死」に引用することについて承諾を求め、快諾を受けているとのことである。)


3 牟田口と藤原の「腹切り問答」について
 また、レポートの中では以下のやり取りがある。

「辻田:切腹の逸話はどうですか?
平林:参謀だった藤原岩市の証言ですね。腹を切ろうかと思うと言った牟田口に対して、古来より腹を切ると言って切ったものはいない、切腹するなら誰にも言わずにしろ......というような応答があったという。
広中:この証言も取り扱いが難しくて、藤原ってインパール作戦推進派だったんですよ。なので、このような会話があったとしても、ニュアンスまで正確かどうかはわからない。だいたい、この藤原証言のなかで、本人はインパール作戦の実施に積極的であったことを隠していますから。」

 まず、この腹切り問答が「藤原岩市の証言」という点が間違っており、これは第15軍司令部情報班で藤原の部下だった、上述の中井悟四郎中尉の証言である(「抗命」p277に明記されている)。中井中尉は、上司として仕えた藤原の働きぶりを高く評価していた人物であり、この場面を描写するに当たって、作戦推進派だった藤原の無責任な言動を、あえて追及する動機は持っていないものと考えられる。
 つまり、レポートのこの箇所は、そもそも議論の前提を誤った上で、高木作品の信憑性を疑おうとしている。登壇者全員が単純に事実誤認を犯していたのか、故意なのかは知らない。


4 回想録の取扱いについて
 実証史学における回想録の取扱いについて、広中氏は、レポートの中で、「やはり、実証史学ではできるだけ回想録は使用すべきでないんです」との発言をされている。

 一方で、広中氏の著書「牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか」(星海社新書)の参考文献には、深沢卓男「祭兵団インパール戦記」、斎藤政治「『烈兵団』インパール戦記」、前田正雄「菊兵団ビルマ死闘記」のような、第一線で戦った将兵の回想録が複数含まれている。この中でも、特に深沢の「祭兵団インパール戦記」は、どこまで本当か分からないような個人的な自慢話を書き連ねた、かなり読むに堪えない一書である(あの光人社が、何故こんな本をNF文庫に加えたのか、以前から疑問に思っている)。実証を旨とするのであれば、このような本は真っ先に除外されるべきではないか。

 あくまで個人的な感想だが、回想録の取扱いについては、実際に様々な回想録に触れた上で、不正確な記述は他の根拠をもって否定すればよいのであって、入口で回想録の類をシャットアウトしようとするやり方は、あまり望ましいものではないように思われる。前回の記事でも触れたが、公的史料や高級軍人の記録のみに依拠して議論を展開しようとすれば、公的サイドに都合の悪い情報は必然的に捨象されることとなり、導き出される結論に偏りが出てくることは、どうしても避けられないのではないか。
 私自身は歴史学の専門的な教育を受けていないので、単なる素人の印象でしかないが、実証史学が売れないとすれば、それは「面白くないから」ではなく、アプローチの潔癖性にこだわるあまり、議論の着地点が正鵠を射ていない場合があるためではないか(前回の広中記事を見た限りの感想だが)。


5 終わりに
 ここまで厳しいスタンスで書いてきたので、念のため追記するが、これまでの広中氏の研究業績は、高く評価すべきものと思う。特に、太平洋戦争開戦までの日中関係の研究については、学術的にも手薄と思われる分野であり、今後、20年、30年と長く研究され、発言を続けていただきたいと思っている(同年代の方のようなので、個人的にも応援している)。

 だからこそ、先月以来の高木俊朗をめぐる広中氏の主張は、氏にしてはあまりにも杜撰であり、非常に残念なものと言うほかない。失礼を承知で申し上げれば、氏自身が設定した「牟田口は過剰に貶められているのではないか」というテーマを立証しようとするあまり、内容を十分に精査せず、拙速に発言され過ぎているのではないか。こんな無名のブログで何を言おうが、ご本人が御覧になることもないと思うが、一歴史ファンとして触れずにはいられなかったので、今回の記事を書いた。


<余談>
 広中氏の「牟田口廉也」を読んでいて気付いたのだが、盧溝橋事件の際に牟田口の部下だった歩兵砲隊長の「久保田尚平大尉」は、後にルソン島で久保田支隊(詳細はこちら参照)を率いた、捜索第23連隊長の久保田尚平中佐と同一人物なのだろうか(一木清直が少佐の頃なので、階級は大体符合しているように思われる)。
 もしそうだとすれば、盧溝橋事件に部隊長として関わった人物は、河辺正三(旅団長)と牟田口(連隊長)がインパール作戦、一木清直(大隊長)がガダルカナル戦、久保田尚平(歩兵砲隊長)がルソン戦、小岩井光夫(中隊長)がポートモレスビー・ギルワ戦と、後の太平洋戦争で軒並み厳しい戦場に送られたことになる。偶然の結果に過ぎないのだろうが、無情な運命である。


<インパール作戦についての備考>
 インパール作戦の概要については、防衛省(防衛研究所)のサイトに掲載されている、元一等陸佐・防衛大学校教授の荒川憲一氏の論文が、よくまとまった内容になっている(こちら参照)。本作戦にご関心のある方には、この論文の参照を薦めたい。


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2018年09月01日

広中一成氏の「牟田口廉也の宴会エピソード」否定論について

 星海社新書から「牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか」を刊行された広中一成氏が、ジセダイ総研というサイトで、「牟田口廉也「愚将」逸話の検証 伝単と前線将兵」という記事を発表されている(以下、「広中記事」と呼ぶ)。その中で広中氏は、「牟田口中将がインパール作戦中に連日宴会を開いていた」とのエピソードに関して、「宴会逸話の初出は高木俊朗の著作か」などとして、その信憑性に疑問を呈されている。
 この広中氏の見解が妥当なものかどうか、検証してみたい。

 なお、「軍人が宴会に興じていた」などという事実は、公文書に記録されるような性質の話ではないし、当事者が日記などに記録したがる事柄でもない。公的史料や当事者の記録だけに頼って立論しようとすれば、「そのような事実は発見できなかった」という結論に至ることは極めて当然であり、事実関係を明らかにするためには、当事者の周囲にいた人々の証言に当たることが必須であることを、前提条件として述べておきたい。


1 メイミョウの第15軍幹部について
(1)成田記者の手記
 広中記事にもあるとおり、「牟田口宴会逸話」は、高木俊朗の「憤死」という作品の中で紹介されているものである。広中記事から引用すると、

「同書には、牟田口が夜ごと開いた宴会の様子が次のように記されている。
『牟田口軍司令官は豪壮な洋館を官邸にしていた。その庭に小道があり、衛兵が二十四時間、立哨していた。その小道をくだると、晴明荘という料亭に通じていた。牟田口軍司令官は夜ごと、ゆかたを着て晴明荘にかよった。酒と女に対する欲望に飽きることのない人であった(引用者中略)一風呂浴びると夜は宴会、高級車で料亭へ横づけだ。ここの料亭も御多分にもれず大阪付近の遊郭からはるばるやって来た慰安婦たちの一行である』(『憤死』261〜262ページ)。
 高木のインパール五部作は、いずれも牟田口に対する評価が厳しい。その厳しさは、ときには感情的とも受け取れる。この牟田口の宴会での様子は、彼の愚かさを表すにはもってこいのエピソードである。しかし、この記述は出典が不明確で、当時の牟田口がつけていた日記などもないため、史料的裏づけがとれない。」

 こちらを御覧いただければお分かりになるが、広中氏が引用した「憤死」の記述の、「(引用者中略)」以降の部分は、「朝日新聞社の成田利一記者」の記録を出典としているものである。
 太平洋戦争中、朝日新聞社の報道班員として第15軍に同行していた成田記者は、戦後、「運命の会戦」という手記(以下、「成田手記」と呼ぶ)を著しており、これが「秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ篇」(富士書苑、1954年)という本に収録されている。この手記によれば、昭和19年3月のインパール作戦発起に際して、報道各社の担当方面は、第33師団(弓兵団)が毎日、第15師団(祭兵団)が読売、第31師団(烈兵団)が同盟、フーコン戦線が朝日と決められたが、作戦の準備段階からメイミョウに駐在していた成田記者は、第15軍司令部で戦局全般を担当することとなり、そのままメイミョウに残留。翌月、軍司令部がインタンギーに進出する際にも同行しており、牟田口中将を間近で観察し続ける立場にあった人物である。

 なお、余談ながら成田記者は、インパール作戦開始前、牟田口中将本人から、「今のうちに暇でもあったら読んで見給え、なかなかいいことが書いてある」として、尾崎士郎の小説「成吉思汗」を借り受けたという逸話の持ち主である。同書の各ページには、牟田口中将により赤鉛筆でアンダーラインが引かれており、特に山羊を伴って長駆遠征に上るくだりには、「全々同感、断じて行えば成らざるなし」との書き込みがあったそうである(推測でしかないが、牟田口の「ジンギスカン作戦」の着想は、案外このあたりから来ているのではないか)。

 そして戦後、無事に日本に帰還した成田記者は、ビルマでの体験を元に成田手記を残しており、その冒頭に以下の記述がある。高木俊朗が「憤死」に引用した内容の、元となったのはこの部分であろう(ただし、高木は一部省略して引用しているようである)。

「昭和18年9月、雲南で僅かに戦局が動いた後の第15軍は、半歳以上もビルマ随一の避暑地メイミョウに腰をすえて、全インドを席捲したかのような甘い夢を見続けていた。
 メイミョウというところは、マンダレーを小田原に譬えると、ちょうど箱根の強羅か仙石原あたりに相当する。マンダレーから東北に九十九折の山道を上りきると、亭々とした木蔭に茶店もあって、ビルマにもこんな涼しいところがあるのかと驚く。ここから坦々たる舗装道路が並木の中を北に走り、自動車で三十分も飛ばすとメイミョウの街に入る。蚊も蠅も少ない清潔な町で、英国人の高官や富商の別荘が緑濃い森の中に点々と散在し、幅広い自動車道路が森の中を縦横に走っている。市場や印度人、中国人の商店街も物静かだ。
 こんな住みよい土地に、軍司令官はじめ全幕僚達は、広々した別荘を一軒ずつ私邸として構え、副官や当番兵にかしずかれて貴族のような生活を続けていた。
 西洋館のガッチリした建物に入ると、大工出の兵隊達が腕をふるって、内部はすっかり日本座敷に造作変えされ、床が上げられ、床の間や違い棚、丸窓まであるといった数寄屋造りである。司令部から我家に帰り、長靴を脱いで、座布団にドッカと大あぐらをかけば、まずまず天下泰平の図だ。当番の汲んで出す茶を飲み、一風呂浴びると夜は宴会、高級車で料亭へ横づけだ。ここの料亭も御多分に洩れず大阪付近の遊郭からはるばるやって来た慰安婦たちの一行である。
 牟田口軍司令官から「清明荘」という名前を頂戴して、大きな別荘を貰い、そこを沢山の小座敷に作り上げて、将校専門に酒色のサービスをしたのである。兵隊さん達は勿論オフリミット、高級車の運転台で、お座敷の放歌高吟を遠くに聞きながら主人のお帰りを待つだけである。酔った将校達はよく「上野駅から九段まで……」の歌を三味線に合わせて唄っていた。
 新聞記者係りの藤原岩市参謀などはこの歌が十八番で、手拭を姉さんかぶりにして、哀れな軍国の老婆の振りつけよろしく、なかなか見事に踊った。この踊りだけは今だに感心している。兵隊さん達の酒保では、調子の悪いピアノを叩きながら「誰か故郷を思わざる」が大流行で、やりきれない戦争の悲哀感がこもっていた。
 内地では婦人たちがモンペに火叩き装束で女らしい生活をかなぐり捨てている時に、メイミョウの清明荘ではパーマの女たちが美しく化粧し、絹物の派手な着物に白足袋姿で「お一つどうぞ」と酌に出て来る。鳥肉や乙な吸物、口取り、酒は原地製だが日本酒、ウィスキー、ブランデー、板前の腕は大したこともないが、盛りつけの器類は皆内地から運んだ立派な皿小鉢だ。弾丸を運ぶべき船で、自動車で、よくもこんな皿小鉢をここまで運んだものだとびっくりする。こうした環境の中で第十五軍の首脳者たちは大作戦の構想を練っていた。」(p412〜413)

 以上を読んだ限りでは、この描写は、「昭和18年9月」の第15軍司令部の様子を描いたもののようであり、インパール作戦期間中のものではない。ただ、この時期(10月以降)、第15軍隷下の第18師団(菊兵団)が、悪疫瘴癘のフーコン戦線で苦戦を続けていたことを考えれば、これだけでも第15軍幹部の資質を疑わせる内容と言うべきだろう。

 その他に、成田手記の中で、第15軍幹部が放逸な暮らしを続けていたことを窺わせる記述としては、「決戦の年、昭和19年を梅も桜も桃も一度に咲くメイミョウで迎えた。2月になると軍司令部も次第に活況を呈して来た。清明荘も追込み作戦でますます繁昌している」(p415)、「15軍司令部が極楽の地、メイミョウを降りて、インパール前線、インタンギーに指揮所を移動させ始めたのは、四月も半ばを過ぎたころであった」(p417)というものがある。これらを踏まえれば、昭和18年9月以降も、清明荘をめぐる状況はあまり変わらなかったのではないかと推測されるが、以下の(2)で、インパール作戦中の第15軍司令部の様子について触れたい。

 なお、補足として、成田手記の中では、抗命撤退を行った佐藤幸徳中将についても厳しい批判が行われており、この手記は牟田口を貶める目的で書かれたものとは言いがたいことを付言しておく(ちなみに、ビルマ戦線末期を戦った弓の田中信男中将、烈の河田槌太郎中将などは好意的に描かれている)。


(2)齋藤少尉の証言
 インパール作戦当時に第15軍司令部で勤務していた、齋藤博圀・元少尉の証言が、「戦慄の記録 インパール」(岩波書店、2018年)に収録されている。軍幹部の宴会に関わる部分を以下に引用する。

「厳しい戦況を知らせる前線からの報告を、この料亭(注:清明荘)で伝えることもあったという。齋藤元少尉は悔しさを押し殺しながら、こうインタビューに答えている。
『私は、あそこで、あの人たちにいろんな情報を報告しました。そのときに、彼らは、日本から来た芸者を相手に飲みながら。だから、一将校の命がけの連絡も、芸者のところで聞いていたわけです。誠実に報告してもだめです。命をかけた戦の大事な情報を、女と酒を飲みながら、聞いていた』」(p116)

 実際に第15軍司令部で勤務していた将校の証言であり、成田手記の内容との矛盾も見られない。齋藤証言を否定するに足る根拠は、特に見当たらないのではないかと思われる。
(なお、この齋藤証言の存在は、個人的に、kkさんという方のツイートで初めて承知した。感謝とともに付記しておきたい。)


(3)その他の証言
 石田新作・元軍医大尉が著した「悪魔の日本軍医」(山手書房、1982年)に、昭和18年6月当時、石田大尉が実際に清明荘で遊んだ時の体験談が記されている。その中では、「夜になるといつも、料亭の前には赤い旗(佐官旗)、黄色い旗(将官旗)をつけた乗用車がずらりと並んでいた」、「牟田口中将がナンバーワンの芸者を落籍し、軍司令官の宿舎で同居していると噂されていた」ことが触れられている(p139〜141)。

 また、「悲運の京都兵団証言録 防人の詩 インパール編」(京都新聞社、1979年)には、「牟田口中将が同居し寵愛する芸者は、化粧を控えめにした清楚な雰囲気の女性だったことから、『麗人』と呼ばれていた」、「この女性のことは、軍司令部内でも一部の高級将校しか知らない秘事とされていたが、事実は軍司令部に勤務する三百余人の将校たちの間で公然の秘密となっていた」、「インパール作戦開始後も牟田口中将がメイミョウを離れないのは、『麗人との別離がつらいのだろう』との風評がささやかれていた」ことが述べられている(p79〜80)。ただし、同書は、巻末に紹介されている参考文献の量が膨大であり、上記の記述がどの文献を根拠としているかまでは突き止めきれなかった。

 また、辻政信の「十五対一」(原書房、1979年ほか)には、新設の第33軍の参謀を拝命した辻が、昭和19年7月にメイミョウに着任した時の印象として、「軽井沢に優るとも劣らぬ快適の地にいて、あの苛烈極まる作戦を想像し得る道理がない。『こんな所にいては碌な戦争が出来る筈はない』というのが到着の第一印象であった」、「翠明荘(原文ママ)という将校専用の慰安所も、その界隈の下士官兵の慰安所も昼間から大入満員の盛況である」ことが記されている(p50〜51、53)。


(4)まとめ
 以上の各記録、特に成田手記と齋藤証言を踏まえれば、インパール作戦前、そして作戦期間中に、第15軍の幹部たちが芸者とともに宴会に興じていたことは、事実と見るべきではないかと考えられる。厳密に言うならば、その幹部たちの中に「牟田口」本人が確実に含まれることを示す決定的な文献は、この一週間程度で調べた限りでは、残念ながら見つけることができなかった(彼一人が、他の幹部たちと異なり清潔だったとする根拠も見当たらないが)。しかし、少なくとも、第15軍幹部たちの乱脈ぶりは、牟田口の軍司令官としての統率の至らなさを示すものであり、その責任は司令官たる牟田口も負うべきものであろう。
 いずれにせよ、高木俊朗が「憤死」で紹介した「牟田口宴会逸話」を、「牟田口を貶めるためのエピソード」と位置づけることは、高木が無から有を創作したような誤解を与えかねない、不適当な表現ではないかと思われる。


2 ラングーンのビルマ方面軍幹部について
 広中記事では、ラングーンの料亭「翠紅園」(文献により、「粋香園」「粹香園」など複数の表記あり)についても言及がある。この翠紅園については、読売新聞社からビルマに従軍記者として来ていた若林政夫が、「秘録大東亜戦史 ビルマ篇」(富士書苑、1953年。先ほどの成田手記の掲載本とは別の本)に寄せた「ラングーンに傲るもの」という手記の中に、以下のような記述がある。

「びっくりしたことは陸海競って専用料亭を持ち、日とともに日本の女の子が殖え、いやな言葉だがいわゆる慰安所という、お女郎屋が雨後の筍のようにニョキニョキ出来てゆくことだった。
 そのお職は、なんといっても陸軍の星の旦那方が御専用の粋香園に止めをさす。
 こいつがラングーンに進出したことについてはこんなことが、まことしやかにいわれていた。
 粋香園というのはかっての軍都久留米の料理屋で、例の割腹自殺をした杉山元帥が久留米の師団長時代にごひいきにしていた家だとかで、大の客筋の師団はなくなる。統制統制でにっちもさっちもゆかなくなって、廃業の御挨拶におやじが元帥邸に伺候したところまあもう少し待て、俺が、いい口をさがしてやるということになった。それから間もなく戦争がはじまる、直ぐ上京せよということで、お前ラングーンに行けということになったのだと。ありそうなことだ。
 それはともかくとして、ラングーンの一流のクラブをいただいて、そこに陣取ったこの一隊は総勢百五十名になんなんとする大部隊で、芸妓、雛妓はもとより女中、下働き、料理番。これまではわかるがあとが凄い。髪結いさんに三味線屋、鳴物屋、仕立屋に洗張屋にお医者さんまで、これが婦人科兼泌尿科医であることはもちろんのことだ。それに青畳、座蒲団、屏風、障子、会席膳一式まで海路はるばる監視哨つきの御用船で、つつがなくラングーンに御着到になったのだ。
 湿気の多いビルマでは三味線も太鼓も鼓も、こわれやすいし、御相手がお相手で、相当の破損を覚悟してのことと、暑いビルマではおべべも、汗まみれになるというので仕立屋さんや、洗張屋さんも配属となったもの。それでも輜重行李から、衛生隊まで引つれての進撃ぶりは大したものだ。それだけに、お値段も滅法おたかく相手にもしてくれなかったが、何もかも留守宅送金の僕ら軍属どもには無用の長物、高嶺の花だった。
 灯ともしごろともなれば、青、赤、黄の小旗のついたトヨダさんが門前に並んで、椰子の樹蔭から粋な音じめがもれて来るという始末で、チークの床に青畳を敷きつめた宴会場では明石か絽縮緬の単衣かなにかをお召しになった久留米芸妓のお座付からはじまってあとは、例によって例の放歌乱舞が日毎夜毎の盛宴に明け暮れていた。」(p117〜118)

 この記述内容を裏書きするものとして、ビルマ方面軍後方参謀の後勝少佐が、自著「ビルマ戦記」(光人社、2010年)に記した、以下の証言がある。

「また偕行社とは別に、九州の熊本(原文ママ)から来たという粋香園という料亭があった。
 ビルマのように厳しい戦局下で、こんな荷物はない方がよいと思ったが、方面軍ではどうしたことか、作戦課長直轄の聖域であった。その門前にはいつも数十台の車が並び、苛烈な戦局をよそに繁昌をきわめ、前線将兵の怨嗟の的でもあった。(中略)
 戦後ある会合で、『戦時中に私は、部付将校を連れて偕行社に行き、月に一度か二度すき焼きを食べたら、月給は空っぽに使い果たしたのに、値段の高い粋香園が、連日繁昌していたのは理解できなかった』と言ったところ、『ガソリンやその他の軍需品を、少し横流しすれば悠々と一ヵ月遊べたのに、方面軍の後方主任がそんなことを知らないようでは、戦さに負けるのも無理はない』と笑われて、まったく二の句がつげなかった。私たちが身を切るような思いをして、補給をつづけた裏では、そのような浪費がつづけられていたのであった」(p175〜176)

 これもまた、高木俊朗「抗命」の、広中記事で引用されている部分が、事実に即していることを傍証する内容であろう。

 それにしても、以上に見たように、ビルマの軍上層部の堕落ぶりは目を覆うばかりである。太平洋戦争で壮絶な飢餓に苦しめられた戦場、例えばガダルカナル(第17軍司令官・百武晴吉中将)、東部ニューギニア(第18軍司令官・安達二十三中将)、レイテ(第35軍司令官・鈴木宗作中将)、ルソン(第14方面軍司令官・山下奉文大将)において、軍司令官や参謀を中傷する宣伝工作が行われ、目立った効果を上げたとする記録が特段見当たらないのに対し、ひとりビルマにおいてのみ工作が顕著な成功を示しているのは、ビルマでは伝単や宣伝の内容が信用される下地が元々あった、つまり、牟田口中将を始めとしたビルマの軍上層部の乱行ぶりが目に余り、それが周知の事実であったためと捉えるのが自然ではないかと思われる。

(追記)
 この記事の続きを、こちらに書きました。


posted by A at 21:07| 戦史探訪(日本軍) | 更新情報をチェックする