2019年06月09日

ニューギニア戦線・ウエワクの第18軍への空路連絡について

 太平洋戦争のニューギニア戦線では、昭和19年4月22日の米軍のアイタペ・ホーランジア(現ジャヤプラ)上陸により、西進中の日本陸軍の第18軍は退路を断たれ、東部ニューギニアのウエワク付近(地図はこちらを参照)に孤立することとなった。そして、食糧や武器弾薬の補給が途絶した状況の下で、終戦まで多数の餓死者を出しつつ、劣悪な装備で連合軍への抵抗を続けたのだった。

 こうした中で、昭和19年5月以降、ウエワクに対する連絡飛行(緊急物資の空輸)が計4回試みられ、その全てが成功している。今回は、敵の制空権下におけるこれらの空路連絡について、概要をまとめてみたい。

1 昭和19年5月(第1回、第2回)
 米軍の飛び石作戦によりウエワクから西へ進むことができなくなった第18軍は、昭和19年5月7日、メナド所在の第4航空軍に対して、ウエワクに対する連絡飛行と、まもなく進攻することになるアイタペ付近の空中写真偵察を要望した。このうち空中写真の撮影は、司偵戦力の枯渇や制空権の状況から不可能だったが、空中勤務者が取り残されていたウエワクへの飛行については、第4航空軍としても積極的に対応することとした。

 そして第4航空軍は、この連絡飛行を、重爆が使用できる最前線の飛行場であるヌンホル島(地図はこちら)のカメリーから行うことに決定した。カメリーからウエワクへの直線距離は約1,100kmだが、ホーランジアのはるか北を迂回して飛行するため、実質的な飛行距離は約1,400kmと見込まれた。

@5月14日(第1回)
 第1回飛行は、飛行第61戦隊の鈴木正典大尉(陸士52期)を機長とする百式重爆1機により行われた。この飛行は大きな問題もなく、軍需品(特に乾電池)、衛生材料(特にマラリア剤)をウエワクに輸送することに成功し、ウエワクからは操縦者8名(将校4名、下士官4名)を連れ帰った。

A5月15日(第2回)
 第2回飛行は、飛行第61戦隊の宮澤敏男大尉(陸士50期)を機長とし、第1回とほぼ同様のやり方で、ウエワクへの軍需品の輸送を成功させた。しかし、肝を冷やす事件が発生したのは帰路だった。第18軍参謀の小幡一喜中佐(陸士35期・陸大47期、工兵)と、空中勤務者6名(将校2名、下士官4名)を乗せた宮澤機はウエワクを出発するが、ホーランジアの北方300km付近を飛行しているところを連合軍の戦闘機に触接されてしまう。いよいよとなれば海中に突っ込み、玉砕することなどを機中で話していると、敵機が翼灯を点滅したので、こちらもそれに合わせて翼灯を点滅。すると敵機は旋回して去り、宮澤機は九死に一生を得る結果となった。

 その後、メナドに到着した小幡参謀は、阿南大将以下の第2方面軍幹部と第4航空軍幹部に対して、第18軍の現状、特にアイタペ攻勢計画について詳しく説明し、以後の支援の約束を得た。ところが5月17日、連合軍がサルミとワクデに、また27日はビアクにも上陸し、ヘルヴィング湾方面からのウエワク連絡飛行は中止に追い込まれることになった。カメリー飛行場のあるヌンホル島にも7月2日に米軍が上陸し、歩兵第219連隊長の清水季貞大佐以下の守備隊が抗戦するも衆寡敵せず、8月中〜下旬頃に軍旗を埋没、清水大佐が自決して遊撃戦に移行している(終戦時の生存者11名)。

 それでも小幡参謀は第18軍への復帰を熱望し、パラオに移動してウエワク行きの潜水艦を待ったが、6月中旬の連合軍のマリアナ来攻により、5月27日にウエワクに入港した呂115号を最後に東部ニューギニアへの潜水艦輸送は途絶した。その後、小幡参謀は第35軍に転属となり、レイテ島の戦いからも生還。第16軍司令部附で終戦を迎えたようである。


2 昭和19年9月(第3回)
 アイタペ攻勢の敢闘を目の当たりにした南方軍は、7月27日、第18軍に対して、ウエワクへの空中連絡の可否を照会した。これに対して第18軍は、ウエワクの飛行場補修には2,000人/日の労力を要するとし、アイタペ作戦中であることも踏まえて空輸を辞退した。その代わりに第18軍は潜水艦輸送を要望したが、これは実現しなかった。

 そしてアイタペ作戦が中止となった後、南方軍は第4航空軍に対してウエワクへの連絡飛行を指導し、結局、第7飛行団(ボルネオ島アピ所在)の飛行第62戦隊がこれを実行することになった。百式重爆の第62戦隊は、この連絡飛行に当たり、発動機に信頼性の高い九七式重爆の使用を希望したため、第12戦隊から九七重U型1機の機材が62戦隊に貸与され、作戦に使用された。また、ウエワクへの経路は、当時使用可能だったニューギニア島西南方のカイ諸島(この周辺の諸島は、マレー作戦で活躍した第5師団が移駐・守備していた)の飛行場を出発し、ヘルヴィング湾上に出て、脊梁山系の北麓沿いに飛行し、ウエワクまで約1,500kmの航路を取ることが予定された。

 9月7日午後11時頃、62戦隊の児玉邦芳中尉(陸士55期)が機長を務める九七式重爆は、衛生材料、通信消耗品、現地自活用の種子、激励慰問の手紙などを搭載し、カイ諸島ラングールの飛行場を出発した。敵の制空権下で、灯りを全て消してウエワクへ飛行し、翌8日午前4時50分頃、隠密に補修を完了していたウエワク飛行場に無事着陸。迅速に物資を積み下ろしたが、着陸20分後に来襲した敵機の対地攻撃で機体は大破し、児玉機乗員の6名は帰還のすべを失ってしまう。結局、彼らは第18軍司令部付となってそのままニューギニアに残留し、原住民と自活しつつ終戦を迎えている。

 この児玉機の飛来については、迎えた側の第18軍将兵の手記にもいくつかの記述が散見される。例えば、第41師団参謀部付だった星野一雄大尉は、以下のような記録を書き残している。

「その頃、米軍機の活動がとみに活発になり、それも戦闘機の編隊がしばしば見られた。(中略)これは後日判明したことだが、薬品や無線用電池などといった緊要なものを、友軍機が単機でチモールの方から緊急輸送してきたことによるものであった。この機は着陸と同時に米軍機の攻撃を受けて機体は大破してしまったが、目的物は無事着いた由であった。しかしその搭乗員の方は、気の毒にもニューギニアに閉じこめられて、私たちと運命をともにすることになった」

 また、児玉機の操縦士だった高木茂氏が、この飛行に関する詳しい手記を残している(こちら参照。日付等の記録については、戦史叢書と若干の相違あり)。本手記によれば、連絡飛行という危険な任務に就き、ニューギニアに取り残される羽目になった児玉機乗員は生きて終戦を迎えられたものの、安全だったはずの第7飛行団本隊に残った者は、その後のレイテ戦などで大部分が戦死したとのことである。数奇な運命と言うほかない。


3 昭和20年1〜2月(第4回)
 昭和19年11月下旬、第18軍は兵器、真空管、雷管、薬品などの潜水艦輸送を要請し、南方軍や大本営は海軍側に交渉したが、レイテ決戦中のためその余裕はなかった。しかし、第18軍の窮状を察した南方軍は、せめて緊急軍需品だけでも空路輸送することを意図し、第4航空軍にこれを指示した。そして、飛行第14戦隊の武市茂二中尉(陸士55期)に、この困難な任務が命ぜられたのだった。

 今回の飛行も、前年9月の児玉機の飛行と同じく九七式重爆を用い、アル諸島(戦史叢書には「カイ諸島」とあるが、誤記か)のドボからウエワクを目指すことになった。ただし、ウエワクは既に連合軍機の厳重な監視下にあり、また第18軍にも滑走路整備の余力がなかったため、武市機は初めからウエワク近郊のオーム岬に胴体着陸を行うことを予定していた。昭和20年1月上旬、数回の飛行を天候に妨げられた武市機は、月齢の関係もあって一度ジャワに引き揚げた後、1月末に作戦を再開。2月1日未明、オーム岬への胴体着陸に成功している。

 なお、この武市機をウエワクで迎えた第51師団歩兵第66連隊の飯塚栄地軍曹は、その感激を以下のように記している。

「昭和20年の2月爆撃機一機がマラリアの特効薬であるキニーネと、無線機に必要な乾電池、自活に必要なトーモロコシの種をつみ、遠いボルネオから運んできた。しかもこの飛行機はウエワクに胴体着陸をしたのであった。私たちはその前日と当日の夜、飛行場の爆弾穴を埋める使役に駆りだされた。日本の飛行機がくるのだという。果してうまく撃墜を免れて無事に到着するであろうか。かたずを呑んで待っていると、午前一時ごろ爆音が響いてきた。日本機がきたのだ。日本機だ。われわれは胸が抉られるような喜びと、形容し難い感激で、ぼうぜんとし、声もでなかった。飛行機が着陸して、ホッとわれにかえった兵士たちはバラバラとかけ寄り、敢て死地に飛込んできた飛行士に対し、感激のことばをいくどもいくどもあびせるのだった」

 長く東部ニューギニアに孤立した状態に置かれていた第18軍の将兵が、日本軍機の飛来をどのような感情で受け止めたかを、ありありと示した文章であろう。その後、武市中尉らも、終戦までニューギニアで地上戦闘任務に就いている。


4 まとめ
 以上1〜3のウエワクへの連絡飛行は、いずれも敵の制空権下で、重爆撃機単機により行われたものである。特に、2〜3は夜間飛行、3は胴体着陸によりウエワクに無事到着しており、日本軍操縦士の技量の高さを示す見事な成功例だったと言うべきだろう。
 これらの空輸により補給を受けた第18軍は、玉砕寸前の状態に追い込まれながらも、終戦まで上級司令部との連絡を維持することができた。そして、約1万名強の将兵が生きて終戦を迎えたのだった。


<参考文献>
・戦史叢書「東部ニューギニア方面陸軍航空作戦」pp662〜663
・戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」pp527、568〜569、658
・高木茂「ニューギニアへの緊急空輸と現地生活」(平和祈念展示資料館ウェブサイト)
・ラバウル・ニューギニア陸軍航空部隊会「幻 ニューギニア航空戦の実相」pp438〜439
・星野一雄「激闘ニューギニア戦記」(光人社NF文庫)p117
・飯塚栄地「パプアの亡魂」(日本週報社)p217
・田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍」(ゆまに書房)pp498〜499
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」所収、藤井清「ヌンホル支隊の作戦」pp130〜132


(2019.8.18追記)
 昭和20年1〜2月の武市機の飛行については、秦郁彦「第二次大戦航空史話 上」(中公文庫)の第8章「三十四年目の感状授与式」でも詳しい経緯が述べられているので、合わせて紹介しておく。

posted by A at 13:39| 戦史雑記(日本軍) | 更新情報をチェックする

2019年04月29日

独立混成第57旅団のセレベス島派遣について

 昭和19年6月、セレベス島(現スラウェシ島)の防衛のために、独立混成第57旅団(桂兵団)の編成が発令された。しかし、同旅団への配属が予定されていた各歩兵大隊は、その後の困難な海上輸送事情に翻弄され、セレベス、ボルネオ、セブ、レイテの各島に分散して辿り着き、その一部は米豪軍と激戦を繰り広げることになった。今回は、さまざまな運命を辿った独立混成第57旅団の各部隊について、個別にまとめてみたい。

1 セレベス島
(1)旅団主力のメナド上陸
 西部ニューギニア方面の戦局悪化を受けた大本営は、昭和19年6月、小三角地帯(ソロン、ハルマヘラ、セラムを結ぶ三角地帯)の戦備を強化するとともに、比島−ボルネオの線までの縦深戦備を整備することとした。そして、セレベス海域方面(地図はこちら参照)に、以下の4個旅団を編成配置することを決定した。

・独立混成第54旅団(ミンダナオ島ザンボアンガ方面)
 編制:司令部1、独立歩兵大隊3個、旅団砲兵、工兵、通信隊
・独立混成第55旅団(スールー列島方面)
 編制:54旅団に同じ
・独立混成第56旅団(ボルネオ北東部方面)
 編制:司令部1、独立歩兵大隊6個、旅団砲兵、工兵、通信隊
・独立混成第57旅団(セレベス島メナド(現マナド)方面)
 編制:56旅団に同じ

 これらの旅団の編成方針は、まず旅団長・大隊長を中央が任命して単独赴任させ、同時に、内地から仮編成した部隊を輸送する。そして、部隊長要員と部隊が到着次第、現地の軍司令官が軍令通り編成完結する、というものだった。この仮編部隊を乗せた輸送船団は7月3日に門司を出港し、一部海没の被害を出しながらも、15日にマニラに到着した。しかし、ルソン防衛を重視する第14軍司令官・黒田重徳中将は、これらの部隊を前送したくない考えを持ち、南方軍総司令官・寺内寿一元帥も同意見だった。その結果、メナド方面配備予定の部隊は、仮編部隊のまましばらくマニラに留め置かれることになった。

 そして、米軍のハルマヘラ来攻が本格的に予想されるようになった8月15日、セレベスの兵力増強の必要性が理解され、ようやくメナド派遣部隊はマニラを出港した。しかし、この時期には既にハルマヘラ方面への空襲が激化しており、メナド行きの船団が無事到着できるかは疑問視される状況となっていた。57旅団の仮編部隊は、はあぶる丸(歩兵2個大隊乗船)、めきしこ丸(歩兵4個大隊乗船)の2隻の輸送船に分乗して南下したが、輸送途中、はあぶる丸はセレベス海でクランクシャフトの故障により航行不能となってしまう。そして、危険な状況下でマニラまで戻るのは到底無理との判断により、掃海艇に曳航されてホロ島へ引き返し、上陸して別の輸送船を待つこととなった。

 また、歩兵4個大隊を乗せためきしこ丸も、メナド近くまで辿り着いた8月29日未明、敵潜水艦の魚雷攻撃により撃沈され、多数の戦死者を出してしまう。メナド港で、空襲にさらされながら輸送船の到着を待ち受けていた海上機動第2旅団輸送隊の奥村明少尉は、この当時の模様を以下のように述べている。

「朝の太陽がまぶしく海面に照り映えるころ、駆逐艦二隻が、沖合に勇姿をあらわした。日本の軍艦旗である。そのあとに大型輸送船がつづいているにちがいなかった。港内、投錨の位置はわかっていた。私たちは作業員を満載した大型発動機艇に、空のボート数隻を繋留し、日の丸をうちふって埠頭を出た。大発は小気味よく、おだやかな金波銀波のうねりを切りさいて進んでゆく。
 駆逐艦は舳をそろえて停止したが、なぜか、輸送船のつづいてくる気配はなかった。上甲板には、裸同然の兵士たちがひしめいていた。舷側で手を振っているものもあった。軍装も完全な凜々しい歩兵部隊の入港を期待していた私たちは、衝撃をうけた。駆逐艦から、最初に私たちの大発へ下船してきた海軍士官は、輸送船二隻(引用者注:1隻の誤りか)が敵潜水艦の集中攻撃をうけ、近海で轟沈されたことを告げた。歩兵部隊の大部分は、兵器・弾薬・貨物とともに、セレベス島影を目にとめる位置で、海の藻屑と化していたのである」

 結局、在メナドの第2方面軍は、海没した輸送船からの収容者やその他の人員をもって、独立混成第57旅団の各部隊を編成した。旅団長は遠藤新一少将(陸士28期、陸大40期)。アジア歴史資料センターの史料によれば、旅団の編制は以下のとおりだった。

・旅団司令部 133名(ほか軍属61名)
・旅団通信隊(長:田村一男大尉) 180名
・独立守備歩兵第22大隊(長:田邊百一大尉) 488名
・独立歩兵第372大隊(長:相良廣遠少佐) 755名
・独立歩兵第373大隊(長:中村武次少佐) 955名
・独立歩兵第375大隊(長:岩木貢少佐) 697名
・独立歩兵第377大隊(長:高延隆雄少佐) 1,413名
・旅団工兵隊(長:金田保美大尉、11月13日編成完了) 軍人1名、台湾勤労団699名

 これらの各部隊のうち、独立守備歩兵第22大隊は、当初は第10派遣隊(マニラからハルマヘラ島へ派遣)の所属だったが、この大隊のみサンギヘ諸島に送られることになり、6月15日にマニラを出発するも海没。ダバオで再建ののち、7月下旬にメナド、次いでサンギヘ諸島に到着していたものである(なお、史料によっては、同大隊を57旅団に含めていないものも見られる)。
 また、旅団工兵隊は、輸送途上で要員が海没したため、海南島から隊長要員として着任していた金田大尉の下、台湾勤労団を主体として11月に編成されている。
 なお、旅団砲兵隊については記録がないが、同時期に編成された独立混成第55旅団砲兵隊の装備が、四一式山砲わずか3門(うち1門故障)という惨憺たる状態であり、57旅団についても、保有するわずかな砲及び砲兵隊要員が撃沈され、その後も補充がなく、結局砲兵隊が編成されなかった可能性があるのではないかと考えられる。

(2)その後のセレベス島の防衛体制
 昭和19年8月時点のセレベス島の守備兵力は、陸軍は北東部に2万、南部に1万余であり、海軍は南北にそれぞれ約5千、合計約4万という態勢だった。そうした中で独立混成第57旅団は、別途編成された集成3個大隊とともにメナドに置かれ、同地付近を防衛した。9月24日に、戦局の推移に伴って第2方面軍司令部がメナドから西南部セレベス内陸のシンカン(地図はこちら)に移転した後も、同旅団はメナド地区(司令部はメナド近郊のトモホン)に駐屯し続けている。なお、9月23日及び10月23日の「南方要域防衛ニ関スル陸海軍中央協定」改定により、セレベスや南ボルネオの陸上直接防衛の主担当は海軍から陸軍に変更されている。

 その後、米軍の北上に伴い、濠北方面の戦略価値は著しく低下し、第2方面軍の主たる任務は南西方面への兵力転用という状況となった。このため、第2方面軍は昭和20年5月29日に廃止され、元々西部ニューギニア方面を専担していた第2軍がその作戦区域を引き継いだ。そして、5月以降の連合軍のボルネオ上陸を受けて、第2軍はセレベス南部マカッサル方面への連合軍上陸を予想し、メナドに配置していた57旅団主力を急いで西南部セレベスへ転進させるとともに、7月中旬からセレベス島の在留邦人約4,000名を現地臨時召集し、速成教育を実施した。さらに、西南部セレベスの各部隊を編合して特設旅団1個を編成し、その旅団長に、西部ニューギニア所在の山本勝大佐(第2野戦飛行場設定司令官)を任命している。そして、シンカンを中心とした永久抗戦陣地の造成に躍起となる中で、8月15日の終戦を迎えたのだった。

 こうした中で、独立混成第57旅団主力は7月10日にメナドから西南部セレベスへの転進を開始し、その途中で終戦を迎え、再びメナドへ戻っている(同旅団の行動経緯の詳細については、こちらの資料のp75〜78に記述あり)。なお、旅団長の遠藤少将は、終戦時に麾下部隊長を集め、「連合軍の上陸に際して一戦を交え、日本軍の真価を見せてやりたい」との訓示を行ったが、作戦打合せのためシンカンに先行していた旅団参謀の甲村武雄中佐(陸士38期。開戦当初、挺進第2連隊長としてパレンバンに降下)が旅団に帰任し、この訓示を撤回させるという一幕もあったようである。

 その後、セレベス島所在の各部隊は、気候が悪く「死の草原」と呼ばれたマリンプンの俘虜収容所で困難な生活を送り、昭和21年6月に復員している。


2 ボルネオ島(現カリマンタン島)
(1)タラカン島の戦い
 1(1)で触れたように、独立混成第57旅団の仮編部隊のうち2個大隊(独立歩兵第374,376大隊として予定されていた部隊)は、セレベス島への輸送途上に船舶が故障し、8月24日にホロ島に上陸した。この両大隊をセレベス島へ前送すべく、9月26日に輸送船立石丸がホロ島に到着したが、これもホロ島で撃沈された。なお、独立混成第55旅団砲兵隊の藤岡明義軍曹の手記によれば、同年10月、ホロ港外に沈んでいたセレベス行きの船から野砲1門、砲弾30発を引き揚げ、これを55旅団砲兵隊が装備しているが、この沈船が立石丸で、セレベスに輸送する野砲を積んでいた可能性があるものと思われる。

 そして、台湾沖航空戦(により米機動部隊が壊滅したとの誤判断)により、米軍がボルネオ北東部に基地航空の足場を求めることが想定されたことから、ボルネオの戦備強化のため、10月13日、ホロ島所在の独立混成第57旅団の2個大隊は第37軍の指揮下に入ることになった。しばらく便船を待ったのち、12月9日、まず両大隊の本部及び各1個中隊が、日本軍の重要な石油基地だったタラカン島(地図はこちら)に移動。同18日、友軍戦闘機1個中隊の直協を得て、後発本隊も輸送船満洋丸によりタラカン島に上陸した。同22日、両大隊は指揮外の小部隊も編合し、歩兵4個中隊、銃砲隊1個中隊を有する独立歩兵第454大隊(長:山田光秋少佐)、独立歩兵第455大隊(長:常井忠雄少佐)として編成された。

 その後、この2個大隊はタラカン島を守備していたが、昭和20年3月4日、454大隊はバリクパパン(地図はこちら)に転用される。結局、タラカン島守備隊は、455大隊約860名、海軍第2警備隊(司令:香春博中佐)約500名、その他燃料廠関係者や後方部隊などを含め合計約2,000名の陣容となった。そして、5月1日に上陸した連合軍を迎え撃って健闘するも、次第に圧迫され、6月中旬に密林内に分散して遊撃戦に移行、そのまま終戦を迎えている。香春司令は7月3日、常井大隊長は8月10日に戦死。守備隊の生還者は、455大隊の副官代理だった宮地喬中尉の手記によれば2,173名中576名、このうち455大隊の生還者は796名中169名。また、第37軍作戦参謀の岩橋学中佐の記録によれば、455大隊の生還者は913名中176名とされている。

 なお、タラカン島の戦いの経過については、上述の宮地中尉の手記の中で詳しく述べられている。あまり広く知られた戦闘ではないが、後方部隊や在留邦人も含めて頑強に抵抗し、善戦敢闘した戦いと評価されるべきではないかと思われる。また、タラカン島は全島至るところから石油を産出するような土地で、密林内の小川にも石油が混じった薄茶色の水が流れており、そのおかげでマラリア蚊が生息しなかったという。宮地中尉は、タラカンでマラリアにかかった者はいなかったと証言しており、南方戦線では珍しい事例と言えるだろう。

(2)バリクパパンの戦い
 バリクパパンの防衛兵力は、海軍第22特別根拠地隊(司令官・鎌田道章中将以下約3,000名)、タラカン島から転用された454大隊の主力、燃料廠や現地召集の邦人なども含めて、合計約1万名だった。また、バリクパパン北方のサマリンダに、454大隊の1個中隊、海軍部隊、現地召集邦人3,000名、合計約5,000名が駐屯していた。

 昭和20年7月1日、約3万の連合軍がバリクパパンに上陸した。454大隊主力はバリクパパン近郊のマンガル飛行場を守備していたが、7月6日に陥落。以後サマリンダを経て奥地に後退し、終戦を迎えている。海軍第22特別根拠地隊の先任参謀だった辻橋文吉大佐によれば、バリクパパンから撤退して以降、連合軍の追撃は甚だ緩慢になったという。上掲の岩橋中佐の記録では、454大隊の兵力は846名、うち生還者635名とされている。


3 レイテ島
 1(1)で述べたとおり、セレベス島に派遣された仮編4個大隊は8月29日に海没し、大きな損害を出した。その欠を埋めるため、9月17日、独立混成第57旅団の新たな仮編大隊(長:紙岡稔少佐。記録によっては大尉との表記もあり)がマニラを出港した。この大隊は21日から艦載機の攻撃にさらされ、逐次その機帆船・漁船を失いつつ、26日にマスバテ島に辿り着いた。その後、紙岡仮編大隊はセブ島に渡り、931名の兵力でメナドヘの渡航を待っていた。

 ところが10月20日、米軍が大挙レイテ島(地図はこちら)のタクロバン方面に上陸した。第35軍は、取り急ぎレイテに送る増援部隊として、独断で紙岡大隊から512名を抽出。大隊長補充要員として軍に配属されていた藤原義雄少佐を大隊長に任命し、レイテに派遣することとした。この部隊は天与の兵力、たまたまこの部隊がセブ島にいたのは天の恵みであるという意味で、「天兵大隊」と命名された。兵は九州出身、大隊長も精鋭の人物と評価されていたようである。

 そして天兵大隊は、10月24日夜に機帆船3隻でセブ島を出発。うち2隻(神風、大國丸)が25日朝にオルモック到着し、大隊は2個中隊編成とされた。26日朝にオルモックに揚陸された歩兵第41連隊(歩兵2個大隊基幹、2,550名)とともに、天兵大隊は第16師団に配属されることになり、同連隊の指揮下でカリガラ平野方面へ進出した。

 その後、10月28日にカリガラの町に到着した天兵大隊は、さらに東方のサンミゲルへの進出を準備していた時、東方から来攻してきた米第1騎兵師団の1個中隊による攻撃(戦車を伴う威力偵察)を受ける。天兵大隊が機関銃で応戦すると、米軍はこれを装備補給の完備した増援部隊と誤断して退却した。この天兵大隊の交戦と、ハロ方面での歩兵第41連隊、独立歩兵第169大隊による抵抗の結果、米軍は第1騎兵師団と第24師団の到着を待ってカリガラを攻撃することとし、ほとんど空に近いカリガラへの進攻を1日遅らせた。

 そしてこの1日が、レイテ戦の戦局全般に極めて大きな意味を持つことになった。11月2日、米軍は重砲により砲撃を行った後、2個師団によりカリガラへ突入したが、町は既にもぬけの殻だった。第102師団参謀・金子中二少佐が、兵力の弱小を危惧して、天兵大隊をカリガラ西南方高地へ下げていたためだった。大岡昇平は、もし11月1日にカリガラが突破されていれば、後に日本軍第1師団と米軍が激戦を繰り広げたリモン峠まで、米軍を妨げるものはほとんどなく、峠の頂上を占領するのは米軍の方が先だっただろうと述べている。天兵大隊は、偶発的な小戦闘から、結果的に想定外の戦功を残したのだった。

 その後、天兵大隊はカリガラの西南、リモン峠の東南の517高地付近に後退。金子参謀の指導の下、歩兵第41連隊、第102師団の2個大隊(独立歩兵第169,171大隊)とともに、ピナ山方面に防衛線を構築する。そして、これまでの戦闘で人員減耗していた天兵大隊はここで解隊されることになるが、この「解隊」については謎が多い。戦史叢書では、「第三十五軍は天兵大隊を解隊し大隊長以外を各隊の補充に充て」とされているが、「この解隊を実施したところ、天兵大隊の兵力は150名で田邊大隊(引用者注:独立歩兵第171大隊)とともに517高地に位置していた」との記述もあり、171大隊以外への配属については何ら言及がない。歩兵第41連隊の事績について詳細に調査した大田祐介氏の「永遠の四一」でも、天兵大隊は11月17日に171大隊に合流したとされており、大隊の残存兵力は、その全てが171大隊と行動を共にした可能性があるものと考えられる。

 また、戦史叢書によれば、天兵大隊長の藤原少佐は11月6日付で第30師団参謀に発令されている。ところが、やはり歩兵第41連隊を取り上げた御田重宝氏の著作には、藤原少佐は第30師団参謀発令後も天兵大隊を率いていたらしい、との記述がある。御田氏は、「中央でどんな命令を出そうと、戦況に影響のないような問題は、現地で無視したか、あるいは既に部隊間の連絡がとれなかった、と解すべきであろうか」と述べているが、実態がどうであったのか、もはや解明する手段はない。

 その後の天兵大隊の動向については、残念ながら文献等で確認することはできない。第102師団は、リモン峠方面の戦況が破断界に達した12月23日にピナ山から撤退し、29日にカンギポット山地区に到達。昭和20年1月5日、師団長・福栄真平中将がセブ島に無断渡航した際には、169大隊の将兵約60名を同行させているが、171大隊はそのままレイテに残留している。天兵大隊員もレイテに残り、171大隊と同様にカンギポット山付近で抗戦したものと思われるが、この地区からの生還者は極端に少なく、具体的な状況は一切不明である。隊員の戦没日は、昭和20年3月17日で一括認定されているようである。


4 セブ島
 天兵大隊のレイテ島派遣後、独立混成第57旅団の仮編大隊の残部(戦記では「紙岡大隊」と呼ばれることがあるため、以後そのように表記)は、そのままセブ島(地図はこちら)に逗留した。そして昭和20年1月、第1師団が地号作戦によりレイテ島から撤退してくると、セブ島北部のダアンタボゴン(タボゴンの南方約4km)に駐屯していた紙岡大隊約500名は、第1師団に配属されることになった。

 その後の紙岡大隊は、
・1月22日以降、歩兵第49連隊、歩兵第57連隊とともにボゴ付近のゲリラを掃蕩
・1月28日以降、57連隊の指揮下でボゴ以北を掃蕩。同時に、ゲリラの跳梁に備え、補給輸送を円滑にするため、イリハン、サガイ、ルゴに大隊の一部を配備し、交通路を確保
・2月21日、歩兵第1連隊の一部とともに、サガイ警備隊を襲撃したゲリラを攻撃
・2月23日、1連隊の指揮下でルゴ−タブレン道を討伐(〜3月2日まで)
・3月13日、1連隊、49連隊とともに西海岸地区を掃蕩
・4月中旬以降、49連隊とともにソゴドに配置され、北上してくる米軍を迎撃
・5月中旬以降、ルゴ西方地区を拠点として随時ルゴ方面に出撃し、遊撃戦を実施
・5月24〜25日、ソゴド西方地区で第1師団の須山参謀、49連隊の小浦連隊長が戦死し、49連隊将兵も大きな被害を受けたため、急きょ紙岡大隊が派遣。同連隊の軍旗及び残兵を収容して師団に復帰するよう指示される
・7月21日、49連隊将兵を守りつつ第1師団司令部に復帰

と、まさに東奔西走といった形で酷使されている。配属部隊の宿命と言えるだろうが、第1師団将兵が激減・疲弊した中で、まとまった兵力を持つ紙岡大隊の存在が貴重だったということでもあるのだろう。

 なお、紙岡大隊が5月に49連隊収容のため出動する際に、セブ島南部の海軍部隊へ合流するため南下する第33特別根拠地隊司令官・原田覚少将ほか2名が同行しており、その時の模様が、同根拠地隊副官の岡田貞寛海軍少佐の手記に描かれている。それによれば、この南下の際に紙岡大尉が率いた兵力は約80名(これが当時の紙岡大隊の全兵力かどうかは不明)。幾度か米軍に発見されつつも、紙岡大隊長の指示でこれを巧みにかわしていく様子が記されており、「剛胆な紙岡大尉」「戦上手の紙岡大尉」と高く評価されている。

 そして8月15日に終戦を迎えると、第1師団の各歩兵連隊は、連隊旗の房と竿頭の菊の紋章を密かに細断し、各将校・下士官に託して日本へ持ち帰ることとし、旗竿の部分を各連隊ごとの軍旗奉焼式で焼却した。終戦を迎えた紙岡大尉も、49連隊の奉焼式に立ち会っている。


5 おわりに
 独立混成第57旅団は、連合軍の上陸がなかったセレベス島に主力が駐屯していたため、あまり振り返られることのない旅団である。しかし、旅団主力に合流できず、ボルネオ・レイテ・セブに分散した各部隊は、いずれも強大な米豪軍を相手に敢闘している。戦史において必ずしも注目される存在ではないが、忘れてはならない部隊であろう。


<参考文献>
1 セレベス島関連
・戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」p58〜59、64、94、124〜125、134、162
・戦史叢書「南西方面陸軍作戦」p291〜292、327
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ3 静かなる戦場」所収、宮地喬「ボルネオ東端タラカン島戦記」p279
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ11 大いなる戦場」所収、藤岡明義「玉砕地ホロ島敗残記」p452
・奥村明「セレベス戦記」(図書出版社)p59、83
・「太平洋戦争ドキュメンタリー第22巻 栄光マラソン部隊」(今日の話題社)所収、了戒次男「謎のセレベス作戦」p114〜115、124、126
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」所収、大竹三吾「セレベス島の思い出」p467

2 ボルネオ島関連
・戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」p196
・戦史叢書「南西方面陸軍作戦」p302、397、399
・戦史叢書「南西方面海軍作戦 第二段作戦以降」p306
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ3 静かなる戦場」所収、宮地喬「ボルネオ東端タラカン島戦記」p279〜280
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ11 大いなる戦場」所収、藤岡明義「玉砕地ホロ島敗残記」p452
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」所収、岩橋学「北ボルネオの作戦」p216
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」所収、辻橋文吉「南ボルネオの作戦」p224

3 レイテ島関連
・戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」p196、277〜278、297、310〜311、348〜349、386、584
・大岡昇平「レイテ戦記」(中公文庫)上巻p109、348〜354
・御田重宝「人間の記録 レイテ・ミンダナオ戦 前篇」(徳間文庫)p252
・大田祐介「永遠の四一」(福山健康舎)p459

4 セブ島関連
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ11 大いなる戦場」所収、岡田貞寛「セブ海軍部隊の戦闘」p306
・冨田清之助「第1師団レイテ決戦の真相」(朝雲新聞社)p246、296、ほか紙岡大隊関連部分
・第1師団レイテ会「第1師団レイテ戦記」の紙岡大隊関連部分

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2019年01月03日

ニューギニア戦線のインド兵について

 昭和17年2月にシンガポールを占領した日本軍は、約10万名の捕虜を得た。その中にはインド兵が多く含まれており、一説には、約5万名に上ったとも言われている(戦史叢書「マレー進攻作戦」p626〜627)。

 これらのインド兵の中には、インド国民軍に参加し、インパール作戦に協力した者もいる一方で、ニューギニアやラバウルなど南太平洋戦線に送られ、日本軍への協力を求められた者も少なからず存在する。後者については、これまであまり注目されることもなかったように思われるので、今回は、特にニューギニア戦線に送られたインド兵について、様々な証言などを基にまとめてみたい。

1 ニューギニア戦線のインド兵の数
 まず、ニューギニア戦線に送られたインド兵の数については、「約3,000名」だったとする記録が複数見られる。
 その一つに、第20師団歩兵第79連隊の尾川正二(1970年に第1回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞)の証言がある。尾川は、自著「東部ニューギニア戦線」(光人社NF文庫。以下「尾川書」)の中で、以下のように述べている。

「かつて、英印軍の兵士として、マレー作戦に加わり、日本軍の捕虜となった人々である。その約十万が、話し合いにより、捕虜の身分から宣誓釈放となり、軍務を解かれ、一度は民間人の位置にかえされた。そのうち、半数が志願し、インド国民軍に編入され、スバス・チャンドラ・ボースの指揮下にはいり、インパール作戦などに参加、インド独立のために戦うこととなった。志願の形で、特設勤務隊として、南東方面に向かったものもいる。ニューギニアに来ていたのも、その一隊で、約三千といわれる」(尾川書p141)

 また、オーストラリア政府の運営するウェブサイト「The Anzac Portal」にも、「約3,000名がニューギニアのウエワクに送られた(six companies (approximately 3000 men) were sent to Wewak in New Guinea.)」との記述がある。
 このほか、林博史・関東学院大学教授の論文でも、John Baptist Crasta氏(1933年に英印軍に入隊、戦後はインド軍でも勤務)の著書からの引用として、「ニューギニアに送られたインド人たちはもっと悲惨な運命にあった。3000人中生き残ったのはたった200人にすぎず、ほとんどは飢えや強制労働、病気で死亡した」と述べられている。


2 戦中のインド兵の様子
 いくつかの戦記に、ニューギニア戦線で目撃されたインド兵の様子が描写されている。以下に引用する。

「嗚呼担送に任ずる我が将兵、殊には遙々マレーより大東亜戦に共鳴し、我が軍に協力を誓って渡来した、印度兵や、ネパール人迄が、連続二ヵ月の担送の労苦、思うだに胸迫るの思い、真に感謝感激に堪えなかった」(昭和19年7月頃、アイタペ作戦中に。吉原矩「南十字星」東部ニューギニア会、p236)

「このハンサに、静かな集団を見た。インド兵だという。どうして、こんなところに? という疑問があった。われわれ自身、どうしようもないところまで追いつめられている。戦うべき装備すらない。彼らを養うことすらできぬのではないか。通りすがりにことばをかけてみたが全く通じない。というより、反応しようとする意欲さえ感じられぬ」(昭和19年5月頃、アイタペ作戦の途上で。尾川書p139〜140)

「一六・三〇出発。ラム河渡河点に向かう。はじめてインド人部隊(シンガポール戦の捕虜)に出会う」(昭和19年4月、セピック河湿地帯横断中に。渡辺哲夫「海軍陸戦隊ジャングルに消ゆ」戦誌刊行会、p102)

 また、西部ニューギニア戦線でも、「イドレ死の行軍」に参加した植松仁作大尉(電信第24連隊副官)が、「ニューギニア大密林に死す」(光人社NF文庫)の中で、転進途中の一場面として以下を記録している。

「集落は一棟で、原住民はもちろん一人もいない。その空家を占領して石岡大尉のインド部隊がすし詰めになっている。この部隊は、マレー作戦の時の英軍インド兵で編成したもので、もともと精悍な彼らの顔も、今は青黒く、そのうえ髭はのび放題だから、人相の悪いことこの上ない。(中略)
 七月三十一日、今日も快晴。早々に谷へ洗濯に下りた。もう炊事の人たちが来ているので、遠慮して谷間をもう少し下った。すると、プーンと屍臭がしてきた。
『死体だな』
 下を見ると、二人のインド兵が倒れている。水を飲みにきて倒れたままだろう。
 彼らも、民族独立の情熱を傾け、インド独立を叫びながら、インド国民軍をつくり日本軍と統一作戦をしている。その一部が、どういうわけか、このニューギニアに回ったのだが、この転進では我々同様に次々に倒れていった」(p89,91)

 西部ニューギニアのマノクワリはウエワクから約750kmの距離があるため、これらのインド兵は、ウエワクに送られた約3,000名とは別のグループではないかと思われる。


3 インド兵の写真
 1で掲げたウェブサイト「The Anzac Portal」に、ニューギニアで豪軍に保護されたインド兵の写真が複数掲載されている。
 また、森山康平編著「米軍が記録したニューギニアの戦い」(草思社)にも、ロスネグロス島で保護されたインド人部隊の写真が収録されており(p129)、ターバンを巻いた多数のインド兵たちが写っている。「The Anzac Portal」に、ロスネグロスで69名のシク教徒の捕虜を救出・解放した(When the US 1st Cavalry Division seized the Admiralty Islands they rescued and liberated 69 Sikh prisoners who had been used as labourers at Los Negros.)との記述があり、これらの人々を指すものと思われる。


4 終戦時のインド兵の様子
 昭和20年8月に日本が降伏した直後に、インド兵と接触した際の証言が残されている。第18軍軍医部の鈴木正己軍医少佐は、終戦後の出来事として、以下のような記録を綴っている。

「その日、武装解除が終わってから、私たちは自動小銃を構えたMPの前に一列に並ばされた。そして私たちの列から少し離れたところに、インド兵の一団が立っていて、私たちのほうを注視していた。見るとそこには、昨日私がアンゴラムでみかけたインド兵の姿もあった。
 私たちは一列になってインド兵の前を行進させられ、彼らに敬礼させられたのである。敬礼動作が悪いと、その場で鞭でなぐられた。MPの立ち合いのもとに、インド兵に仕返しをさせたわけである。気の毒だったのは、インド兵を使役した水上勤務隊の将兵であった。彼らはインド兵に目の仇にされ、なぐられたり、薪集めやら荷物運びやらでインド兵にこき使われたのである」(鈴木正己「ニューギニア軍医戦記」光人社NF文庫、p282、284〜285)

 また、飛行第68戦隊の整備兵だった菅野茂上等兵は、以下のように書き残している。

「ほっと、安堵したのも束の間、今度は豪軍憲兵に連れられた五、六名のインド兵が現われた。インド兵は、緒戦の頃シンガポール陥落当時、日本軍の捕虜になり、ニューギニアに送られて強制労働に服していた。食糧が切迫したため、日本軍は彼らを解放した。今度は立場が逆転して勝者になった彼らは、捕虜当時に虐待を加えた者の首実検に現われたものだった。
 私は、インド兵とは接触がなく、虐待したことも殺したこともない。しかし他人の空似という諺もある。私たちがインド兵を見ると、みんな容姿が似ていてみな同じように見えると同様、彼らの目からすれば日本兵も同じように映るのではなかろうか、と思うと不安になった。もし『この男だ』と自分が指されたら最後、この戦場においては、たとえそれが誤りであっても、言い逃れはできない。と、思うと心も凍る。
 ギョロ、ギョロと黒い怨みの眼差しを向けられたときは、全く生きた心地がなかった。氷の刷毛で背筋を撫でられる思いだった。インド兵たちは、代わる代わる私たちの顔を覗き込みながら通り過ぎた。彼らの後ろ姿を見て、ほっと溜息が出て、同時に私は、全身の力が抜けてしまって、崩れるように地べたに座り込んでしまった」(菅野茂「7%の運命」光人社NF文庫、p215)


5 ラバウル戦犯裁判
 戦後、ラバウル・ニューギニア・ブーゲンビル方面の将兵の戦犯裁判がラバウルで行われており、ここで多数の日本軍将兵が、インド兵虐待の罪によりBC級戦犯とされ、絞首刑を含む重刑に処せられている。しかし、これらの裁判には、あまりにも量刑が過重であったり、そもそも不当な裁判と呼ぶほかないものが少なからず含まれている。

 ラバウル戦犯裁判の特異性をよく表す具体例として、角田房子「責任 ラバウルの将軍今村均」(ちくま文庫。以下「角田書」)に記された以下の事例を紹介する。ラバウルの野戦自動車廠に勤務していた3名の下士官が、全くの無実の罪により絞首刑となった事案である。

「刑死した三人と長野(注:野戦自動車廠でインド兵の監督を務めていた曹長)とは共にラバウルの第二十六野戦自動車廠に所属していた。戦後間もなく、長野の管理下にあった百数十人のインド人は、笑顔で彼に挨拶して帰国船に乗った。それを見送った長野は、戦中インド人を好遇したことでよい人間関係を保ち得たと、ひそかに満足したのだが――1945年(昭和20)12月、中隊の三人が戦犯容疑者として逮捕され、それがインド人の告訴によるものと知って、愕然とした。
 長谷川と沼道は『印度外人部隊ガンガー・シタラム殺害事件』で、岸は『印度外人部隊ビンズー殺害事件』で裁かれることになった。だが『殴打による致死』とされているインド人たちが、実際はマラリアと脚気のため休養室に収容され、そこで死んだことを長野はよく知っていた。彼は被告の長谷川、山谷衛生曹長と共にシタラムの臨終にたち会い、『山谷曹長より、当時の状況下では過分の手当を受けての平常死であった』と書いている。ビンズーについても、ほぼ同じ記述がある。“殴打による致死”などとは全くの捏造だ――と血の逆流する思いの中で長野は、とにかく裁判に勝って、三人を救い出さねばならぬ――と心を決した。
 長野は前後八回証人として出廷したが一回ごとに彼の絶望は深まるばかりであった。弁護側がインド人の告訴状についてどれほど多くの疑点を指摘しても、告訴人は法廷にいないのだ。インド人は豪軍の手に告訴状を残して、みな帰国したあとである。従って、反対尋問によって彼らの主張の矛盾をつくことが出来ない。
 『日本兵は殴った、インド人は倒れた、出血した死亡した、何の治療も受けなかった、私はそこにいた』などと書かれた複数の告訴状が、多人数の“目撃者”による事実事項として、そのまま採用されてゆく。インド衛生兵の記録した患者名簿さえあれば、“殴打による致死”が実は病死であったことを完全に立証できるのだが――と長野は歯がみする思いであったが、唯一の物証であるその名簿は終戦時の軍の指令で焼却されていた」(角田書p87〜88)

 このほか、第8方面軍司令官だった今村均大将の「今村均回顧録」(芙蓉書房出版)にも、戦中のラバウルで、怠け者のインド兵の頬を打って無理やり潰瘍の治療をしたり、マラリヤの予防薬である苦いキニーネを飲ませたりしたために、患者を虐待したと告発されて絞首刑となった衛生伍長の話や、同性愛傾向のあるインド人将校に薬を飲まされて強姦されそうになったため、相手を木っ端微塵にぶん殴ったところ、激しい虐待を行ったとして絞首刑判決を受けた伍長(のち有期20年に減刑)のケースなどが紹介されている(p449〜457)。

 そして、ニューギニア戦線の戦犯事案については、ラバウル裁判で弁護人を務めた松浦義教中佐(第38師団参謀)が、その著書「ラバウル戦犯弁護人」(光人社NF文庫。以下「松浦書」)の中で、弁護を担当した特設水上勤務第16中隊の某伍長(のち刑務所内で自決)の証言として、以下を書き残している。

「確かにそういう名のインド人が死んだことは事実です。しかし、絶対に殴ったから死んだのではなく、当時食糧が乏しく、マラリアに犯されてもいましたので、結局、栄養失調で死んだのです。当時のニューギニアの事情ではどうにも…」(p59)

 極限の状況に陥ったニューギニアで、多くのインド兵の死者(そして、日本兵の死者)を出した本質的な理由は、結局のところ、これであろう。インド兵に多数の死者が出たことは大変悼ましく、ただその冥福を切に祈るほかない。4に述べたような終戦後のインド兵の反応の厳しさも、彼らを見舞った過酷な運命を考えれば、忍受するよりほかないものであろうと思われる。

 しかし、その報復として、日本人下級将兵の命を奪うことが正当化されるかどうかは、また別の議論であろう。松浦書には、ニューギニア関係を含む様々な裁判の模様と、処刑された将兵の最期の言葉が多数収められており、読む者の胸に迫る内容となっている。
 こうしたラバウル戦犯裁判について、松浦中佐は以下のような所感を残している。

「ラバウルにおける戦犯裁判は、インド人・中国人労務者に関するものが圧倒的に多い。
(ラバウルで結審した戦犯裁判二百三件のうち、この労務隊関係が百八十三件、そのうちインド人関係が百四件であった)
 この事実は、むろん長期にわたる日本軍支配下の思わざる長期の労務に服した怨みが、その基底に在るのであろう。
 ことに難局のニューギニア戦線では、いろいろ問題もあったと思われるが、ラバウルではそのような酷烈な場面はなく、それでいて何故、かくも大量の戦犯者を出したのか。
 労務隊員たちが、いよいよ本国に帰れると決まった時、彼らの不安は、中国人労務隊は、汪政権下で志願したという問題があり、インド人の場合は、インドはまだ英国領だ。自分たちがインド独立国民軍だったとか、日本軍の宣誓労務隊員となって協力したことなどが、帰国後反逆者として責められるのではないか、ということではなかったか。
 インド独立国民軍は、インド独立の志士チャンドラ・ボースの主宰で、一時インドに進攻したインパール作戦にも参加したことさえあった。
 そういう深刻な不安と憂慮から、今は独立国民軍や宣誓労務隊に入っていたことは一切秘匿して、ただただ日本軍の俘虜になって、強制労働に服したという立場だけを強調したく、したがって連合軍側の立場に身を置いてそれに協力する姿勢。つまり豪軍に迎合するため、その告訴奨励に応じたのではないか。
 いったんそういう姿勢にあったら、わが身を救うためには、針小棒大も、まったくの作りごとも意に介するところではなかっただろう。
 大掛かりな告訴の続出。しかも捏造された告訴の多さは、まったくわれわれの常識と想像を遙かに越えたものだったが、時の形勢と自らの利益に順応したい人心の動き、自己保全の本能とはそうしたものであろう」(松浦書p199〜200)


6 まとめ
 マレー戦で捕虜になったインド兵は、近年、「インド国民軍として日本軍とともに戦った」といったような、「美しい物語」の文脈の中で捉えられがちである。しかし、本記事で述べたように、当時の日本軍はインド兵をニューギニアなど幅広い戦線に送り出し、日印双方にとって不幸な結果をもたらしている。こうした歴史があったことも、同様に認識しておくべきことであろう。
 特に、処刑された日本人BC級戦犯のうち一定数の者が、無実であったことを証明したいと考える者にとっては、こういった事実に触れていくことは、必要不可欠の手続ではないかと思われる。


(2019.2.14追記)
 戦史について精力的に調査を行われている有村悠さんが、「昭和19年5月、東部ニューギニア・ボイキンでインド兵捕虜約400名が『処分』された」とする証言を発見され、ツイートされている。
 このような事案が実際に発生していたのであれば、その関係者が重刑に処されることは当然であろう。本件は、これまで戦記類で取り上げられることのなかった、新たな事実の発見と思われるので、合わせて紹介させていただく。

(2019.4.21追記)
 ニューギニア戦線のインド兵に関しては、以下の各書にも関連記述があったので追記しておく。

・白水清治「激戦ニューギニア」(光人社NF文庫)
 昭和19年3月、第20師団所属の著者がマダンからウエワクへ移動する途中に、ハンサの揚陸場で多数の「インド兵捕虜」が使役されているのを目撃する場面がある(p186)。著者がその中の一人と会話を交わしたところ、彼はシンガポールで野菜屋を営んでいたこと、日英開戦と同時に召集されたこと、シンガポール陥落で捕虜になったこと、妻と子供二人が彼の帰りを待っていることなどを話している。

・田中俊男「陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦」(戦誌刊行会)
 昭和19年後半頃(アイタペ戦後)、著者が山南地区でインド兵捕虜のグループと出会い、困窮している彼らに食糧(サクサク二俵(約二斗強)、タロ芋一網、トウガラシ一籠)を恵与し、非常に感謝される場面がある(p164〜165)。
 同書の記述によれば、彼らは自らを「捕虜となって日本軍の管理下にある」と認識していたこと、貨物廠の管轄下にあったこと、食糧を求めて無断で移動を重ね、所属部隊と連絡が取れなくなっていたこと(つまり、管理があまり厳重でなかったこと)が窺われる。

・中谷孝雄「のどかな戦場」(東都書房)
 西部ニューギニア・マノクワリ支隊に配属されていた著者が、道路建設工事に従事する「インド人の捕虜(志願した兵補という説もあり)」について描写した場面がある(p95〜98)。彼らが作業に対してあまり積極的ではなく、隙あらば怠ける様子が詳しく描かれている。


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2018年12月23日

ニューギニア戦線・第22飛行場大隊の苦難の転進

 ニューギニア戦線の日本軍は、米軍の「蛙跳び作戦」により、たびたび後方の拠点を攻略された。このため第一線部隊は、サラワケット越えに代表される厳しい転進を余儀なくされ、その過程で多数の将兵が戦没している。

 そうした苦難の行軍を強いられた部隊の一つに、第6飛行師団隷下の第22飛行場大隊(以下「22飛大」)という部隊がある。22飛大は、昭和18年1月に東部ニューギニアのラエに上陸し、過酷な転進を続けたのち、西部ニューギニアのサルミ(一部はバボ)で終戦を迎えている。今回は、東西ニューギニア戦線で数奇な運命に翻弄され続けた、22飛大の足跡についてまとめてみたい。
 なお、ニューギニアの地図としては、こちらこちらを参照されたい。

1 ラエ〜マダン
 22飛大のニューギニア・ラエ上陸から、サラワケット越えを経てマダンまでの行程については、同大隊の一等兵だった高橋秀治氏の「ニューギニア航空戦記」(光人社NF文庫。以下「高橋書」)という本に詳しく記述されている。同書によれば、22飛大は元々ハルピンに駐留していた関東軍の部隊であり、太平洋戦争開戦後、飛行第1戦隊(戦闘)と第11戦隊(同左)からなる第12飛行団を支えてマレー、ビルマを転戦。ついで南東方面に進出し、昭和17年12月25日にラバウルに到着していた。大隊長は天口伊兵衛大尉(少候13期)であった。

 昭和18年1月5日、ラバウルからラエへの輸送作戦である十八号作戦(輸送船5隻、護衛駆逐艦5隻(浦風、磯風、浜風、谷風、舞風))により、22飛大はニューギニアへ進出することとなった。大隊本体に、通信、情報、気象など第6飛行師団関係の各一部隊を追加し、合計約400名の部隊だったという。途中、輸送船5隻のうち1隻(日龍丸)の撃沈により45名の戦死者を出すも、残りの将兵は1月8日にラエに上陸している。

 その後、22飛大は激しい空襲にさらされつつも飛行場整備に努め、第12飛行団を支え続けるが、9月の連合軍上陸により、ラエの日本軍部隊は敵中に取り残されてしまう。こうした状況下で、ラエの第51師団(基(もと)兵団)の中野英光師団長は、サラワケット山系を越えてキアリへの脱出を決心する。ラバウル出発時に約400名だった22飛大を中心とする部隊は、このとき、283名まで減っていたとのことである。

 そして22飛大は、天口大尉指揮の下で敵のラエ侵入を遅滞させた後、9月14日にラエを出発。飢餓と厳しい寒さ、険峻な行路に苦しみつつ、10月中旬頃にキアリに到着。到着できた者の数は207名であり、76名がサラワケット越えで死亡した計算になる。なお、9月に第4航空軍司令官・寺本熊市中将から天口大尉に対して、11月には同中将から22飛大に対して、猛烈な空襲下でラエ飛行場の維持に奮闘努力してきたことについて感謝電報や賞詞が与えられている(戦史叢書「東部ニューギニア方面陸軍航空作戦」(以下「叢書7巻」)のp422,431)。

 その後、22飛大は直ちにマダンへの転進を続けたため、いわゆる「ガリ転進」(注:昭和19年1〜2月にかけて、フィニステル山系で行われた転進。第20師団・第51師団等の将兵約13,000名のうち、約5,500名が戦没)を経験することはなく、11月までにマダンに到着している。なお、高橋氏はマダンで主計下士官候補者要員となり、第十三次ウエワク輸送船団の帰途に便乗してニューギニアを離れたため、高橋書はマダンまでで記述を終えている。


2 マダン〜ホーランジア
 昭和18年11月以降、22飛大がいつ、どうやってマダンからホーランジアへ移動したかについては、残念ながら記録が見当たらない。叢書7巻p620の部隊配置図を見る限りでは、昭和19年2月には既に22飛大がホーランジアに配置されており、この時期までにホーランジアに移動していたことがうかがわれる。少なくとも、4月22日の米軍上陸時点で、22飛大がホーランジアに駐屯していたことは確実である。


3 ホーランジア以西へ
(1)稲田正純少将のホーランジア脱出
 昭和19年4月22日、日本軍の予想を裏切る形で、突如米軍がホーランジアに上陸した。この当時、ホーランジアには第18軍関係約6,600名、第4航空軍関係約7,000名、海軍関係約1,000名、合計約14,600名の兵力があったが(戦史叢書「南太平洋陸軍作戦<5> アイタペ・プリアカ・ラバウル」(以下「叢書84巻」)のp21〜22)、その多くは後方部隊や航空関係部隊であり、陸上戦力として計算しうる兵力はほとんどなかった。久山忍「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」(潮書房光人社。以下「久山書」)所収の、松浦豊少尉(電信第16連隊第3中隊第3小隊長。昭和18年8月にホーランジア上陸)の手記によれば、ホーランジアには「銃の総数は1,000挺、弾薬は小銃1挺につき10発しかなかった」(久山書p124)。結局、米軍はほぼ無抵抗でホーランジアに上陸し、日本軍は約400km西方のサルミへ向けて、過酷な転進を強いられることになった。

 第6飛行師団長心得としてホーランジアに着任したばかりだった稲田正純少将は、ホーランジアの陸軍部隊の総指揮を執ることとなり、4月30日にホーランジア南西のゲニムまで後退。掌握した約7,300名の将兵を10個梯団に分け、自らは22飛大など771名からなる第5梯団を率いて、5月3日にサルミに向けて出発した。しかし、十分食料を携行しないままホーランジアを追われ、道なきジャングルを進むこの転進は、悲惨を極めたものになった。その模様を、第18軍の派遣参謀だった中本太郎少佐は以下のように描写している。

「ホーランジア戦闘に引続き実施されたる四〇〇キロの転進は、未開、瘴癘、ジャングルの連続、進むに道無く、幾多横たわる大小無数の山嶽、湿地、河川を越えざるを得ない。其の間、飢餓、空腹、栄養失調、これに加えるにマラリアの猖獗は機動を益々困難ならしめ、遂に白骨をしてホーランジア、サルミ間の道標たるの感あらしむるに至れり」(叢書84巻p46)

 しかし、こうした戦況の中で、22飛大は稲田少将から高い評価を受けていた。佐藤清彦「土壇場における人間の研究」(芙蓉書房出版。以下「佐藤書」)p250〜251に引用されている、稲田少将の日記の記述を孫引きすると、

「梯団長たらしめし第二十二飛大の天口伊兵衛大尉以下、ラエより山越えの経験者にて行軍力段違いなり。糧食の収集また期待すべし。今夕もバナナ、パパイヤを見付けてくれる。何か採れば必ずまず予に届ける。心懸けのいい男なり」

と激賞している。気をよくした稲田少将は、5月9日、師団司令部(50名)と22飛大将兵(110名)、軍参謀らを合わせた総勢165名のみを率い、サルミへ先行することを決心する(「濠北を征く」(濠北方面遺骨引揚促進会編、以下「濠北書」)所収、稲田正純「第六飛行師団始末記」p238)。

 そして5月31日、稲田少将はサルミの第36師団(雪兵団)司令部に到着し、師団長の田上八郎中将と面会。夜は今田新太郎参謀長(陸大同期、稲田が作戦課長当時の部下)とコップ酒を酌み交わし、そのまましばらく第36師団司令部に逗留。6月12日に、約50名(空中勤務者13名、護衛として22飛大の天口大尉以下20数名含む)を率いてサルミを出発、徒歩と大発で26日にマノクワリ着。28日に双軽二機でマノクワリを出発、ソロン経由でメナド着、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将に面会。29日にダバオ経由でマニラ着、30日に南方軍総司令官の寺内寿一元帥に申告。8月15日、戦場離脱の責任を問われ、停職2か月の処分を受けている。
 このような稲田の行動を、電信第16連隊の松浦少尉は以下のように評している。

「この頃稲田師団長は、第三十六師団長と会合し航空部隊の悪口のみを述べ、自らは司令部高級部員と一部の空中勤務者を伴い、部下七千名の擁護を要請せずして、師団再建の美名のもとにマノクワリ経由フィリピンへ逃亡したのである」(佐藤書p263〜264)

 こうした見方に立てば、部下将兵の大半をサルミ以東に置き去りにして、自らはマノクワリへ脱出した天口大尉も、やはりその行動への批判は避けられないだろう。もっとも、マノクワリに移動した22飛大将兵は、稲田のニューギニア脱出には同行せず、マノクワリ南方のバボ(こちらの赤色着色部分)付近で終戦を迎えたようである(叢書22巻p675)。

(2)サルミ残留部隊の悲劇
 ホーランジアからの撤退部隊は、飢餓と病に苦しみながら、5月末頃以降、ようやくサルミ手前のトル河付近に到着し始めていた。ところが、サルミを守る第36師団は、転進部隊がトル河を渡ることを許さなかった。既にサルミにも米軍が上陸し、激戦中だった第36師団は、飢えきった転進部隊が陣地内に乱入し、収拾がつかなくなることを極度に警戒忌避していたのである(叢書22巻p554)。

 そして、サルミでの給養を期待して、どうにかトル河まで辿り着いた転進部隊は、飢餓と衰えの極みにある中で渡河を禁止され、文字通り地獄の様相を呈した。当時の転進部隊の様子について、関連戦記からいくつかの記録を抜粋する。

「このころ、流言飛語が飛び、転進各部隊の動揺がはなはだしかった。その流言飛語とは、
『トル河を渡河すれば第三六師団は作戦の邪魔になるので、たとえ友軍でも射殺する』
 というものである。
 我々ホーランジアの転進部隊はここで完全に行きづまった。トル河を渡河して友軍である第三六師団と戦うか、現地にとどまって餓死するかの岐路に立たされたのである。(中略)
 行く先々でドンア集落で見たのと同じ情景を見た。佐官級の将校の死体もあった。行動する体力も気力も尽き果て、ただ横たわっている光景が至るところにあった。みな疲労困憊し、飢餓のためやせおとろえている。目はくぼみ、被服も汗と泥で変色し、力なくたむろしている。その情景はまさに幽鬼の群れそのものであった」(久山書p143)

「某准尉は、ほとんどだめと思える部下の一人を木陰に寝かせ、翌朝様子を見に行くと、もうほとんど骨だけの姿になって銀バエが群がっていた。野豚のいたずらか、鳥の群の仕業か、それとも日本兵による解体か、いずれとも断定はしかねた。数日後、野草を飯盒で煮ていると、見知らぬ兵士が近づいてきて、『野豚をたべないか。ここで炊いてよろしいか』と火のそばに腰を下ろした。見ると、彼がかついでいる天幕の包みから人間の足が出ている。准尉はつねづね、『人間が人間の肉を食ってはいかん。自家中毒になる』と部下に言っていたので、背筋が寒くなるのを覚えた。さらに数日後、今度は部下の一人が『野豚、たべませんか』と、飯盒の肉を見せた。准尉は、その黒ずんだ固い肉に岩塩をまぶすようにして食べた。その後、准尉は、戦病死した兵を、一人だけでなく三人の肉を軍刀で切って食べた。『あの時、私は正常な人間でなく、鬼畜と化していたのだろう』、戦後、そう語っている」(佐藤書p269)

「少年飛行兵出身者が一人、トル河で飯盒を洗っていると、いきなり三人組の兵に連れ去られたという話を聞いた者もいる。半ば常習犯と化していたらしいその三人組も、『生きた戦友の肉を奪うものは射殺』の命令によって、やがて上官に射殺された、という。これとは別に『きのうの肉は少年飛行兵で若いからうまかった』という会話を耳にした兵もいる」(佐藤書p269〜270)

「道筋に将校の倒れている姿も少なくない。五キロも歩いたころ、ラワンの木に背をもたせかけ、両手で軍刀を持ったままうずくまっている中佐がいた。ふと見ると、転進のとき松浦隊のすぐ前にいた第十梯団の梯団長、第百十三病院長の陣内中佐である。松浦少尉は『病院長殿、陣内中佐殿』とゆすったが、心臓は動いているものの、瞳孔は開いたままであった。衛生兵が中佐の図嚢を調べたが、注射器が二本入っているだけだった。中佐だというのに、当番兵もついていない。たった一人で、トル河右岸の惨状を訴え、薬物の供与を求めるつもりだったのだろうかと松浦は想像した。すでにミイラのような形相であった」(佐藤書p272)

「トル河右岸からそうであったが、軍隊としての規律は完全になくなっていた。死んだ将校の肩章を盗み、軍刀、拳銃をもち、勝手に将校になりすまし、少しでも食糧をもっている者がくると射殺し、わずかな食糧をうばうという5、6人の強盗団のようなグループがあった。
 岡本参謀(注:第6飛行師団作戦主任参謀の岡本貞雄中佐。稲田少将に同行せず転進部隊に残留し、各隊から感謝されていた)は部隊長で合同会議を行ない、各隊から射撃の名手を二名ずつ選抜し、討伐隊を組織し、ついに11人を射殺した。強盗団のなかには少佐の階級章をつけた者もいた」(久山書p153)

 こうした状況の中で、稲田少将から精鋭と見なされていた22飛大は、第五航空通信連隊、第十三野戦飛行場設定隊とともに、稲田少将から第36師団に「いますぐ役立つ」と推薦され、例外的にトル河を渡ることを許可されていた(佐藤書p266)。そして、第36師団の直接指揮下で戦闘任務につき、終戦まで無難に任務を果たしたとされている(叢書22巻p459,671)。

 一方で、トル河渡河を許されなかった部隊は、一部の第36師団将兵から厳しい仕打ちを受けながらも、辛うじて約2,000名が6月下旬まで生き残った。米軍との交戦で兵力を減らしていた第36師団は、この頃になると、これらの部隊がサルミ北西6kmのシハラ(シアラ)地区に集結し、現地自活を行うことを許可していた。転進部隊はようやくトル河を渡ることができたが、既に「病人と負傷兵ばかりで、被服は破れ、靴をはいている者もまれであった。ホーランジアから転進をはじめた53の部隊のうち、全員が死亡した部隊が4、生存者が5人以下に減少した部隊が25」(久山書p153)という状態だった。

 そして、辿り着いたシハラも平和な地ではなかった。海岸に近いシハラ地区は、連日の爆撃とともに艦砲射撃にもさらされ、主要な将校でさえ次々と戦没した。5月17日に北川季人中佐(第四航空情報連隊長)、6月8日に泊重愛少佐(飛行第78戦隊長)、6月10日に恩田謙蔵大佐(第14飛行団長)、7月5日に齋藤武夫大佐(第18航空地区司令官、初代シハラ地区司令官)、7月15日に森玉徳光少将(第30飛行団長)、7月25日に船山正夫大佐(第14野戦航空修理廠長、第2代シハラ地区司令官)、8月5日に原孫治少佐(飛行第63戦隊長)、10月20日に岡巖少佐(第14野戦航空補給廠長、第3代シハラ地区司令官)などである(濠北書所収、折茂一郎「ホルランジャ、サルミ附近陸軍航空部隊の最後」p353〜354)。こうした状況から、当時トル河は「命とる河」、シハラは「死原」などと呼ばれていたそうである。

 その後、第209分廠長の折茂一郎少佐が第4代シハラ地区司令官となり、苦労して開墾を続けながら、翌年8月の終戦を迎えている。濠北書p355〜356には、以下のような折茂部隊の編成表が掲載されている。

@本部 白城子陸軍飛行学校材料廠第209分隊、第20、22(一部)、209(一部)飛行場大隊、第4航空情報連隊、第6航空移動修理班
A本隊 第4航空軍司令部(残留員)の一部、第6飛行師団司令部、第14飛行団司令部、飛行第10、28、33、34、61、63、68、75、77、78、248戦隊、独立飛行第83中隊、第7輸送飛行隊、第38飛行場大隊、独立工兵第36連隊
B駒野隊 第4航空軍司令部(残留員)の一部、白城子陸軍飛行学校教導飛行団司令部、第86飛行場中隊、第2航空移動修理班、第14野戦航空補給廠、第12野戦気象隊、陸上勤務第81中隊、建築勤務第31、52中隊
C立川隊 野戦高射砲第66大隊、独立野戦高射砲第39中隊、野戦機関砲第39中隊、独立野戦照空第3中隊、第2、第5航空通信連隊、第4航空情報連隊
D菊岡隊 飛行第208戦隊、第209飛行場大隊、白城子陸軍飛行学校材料廠第209分廠の一部、第11航空移動修理班、第6航測隊、第1航空路部、第13野戦気象隊、陸上勤務第73中隊の一部
E久田隊 第14野戦航空修理廠、陸上勤務第73中隊
F大島隊 第22飛行場大隊

 以上を見ると、「@本部」と「F大島隊」に、22飛大の名前が見える。22飛大がどういう経緯でシハラにいたのか、例外的にトル河渡河を許可されていた将兵もその後シハラに回されたのか、詳細はよく分からない。ただ、ホーランジアに駐屯していた約14,600名のうち、シハラで終戦を迎え、日本に生還できた者がわずか500名足らず(濠北書p362)であったことを考えると、いずれにせよ22飛大の生還者も少なかったのではないかと思われる。

 なお、シハラから生きて還った人々は、戦後「白梅会」という戦友会をつくった。ちょっと戦友会らしくない、優美な会名の由来は、「雪(第36師団)にどんなに痛めつけられ、迫害を受けても、それに耐え、やがて春には白い花を咲かせて見せる」という意味だったという(久山書p154)。佐藤書が刊行された2003年当時、22飛大の曹長だった花輪久夫氏が、「白梅会」の会長を務めている。

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2018年09月29日

日本陸軍の軍司令官・参謀長人事に関する雑感

 前回の記事を書くに当たり、広中一成氏の著書「牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか」(星海社新書)を読んだ。同書の中では、河辺正三・ビルマ方面軍司令官と牟田口廉也・第15軍司令官の関係などについて考察が行われているが、太平洋戦争当時の日本陸軍の軍司令官・参謀長人事について、個人的に気になったことを書き留めておきたい。

1 軍司令官人事について
 陸軍の軍司令官人事では、「一度組んだコンビをもう一度組ませる」という例は時々見られる。例えば、

・今村均と加藤鑰平(第23軍司令官と参謀長、のち第8方面軍司令官と参謀長)
・山下奉文と鈴木宗作(第25軍司令官と参謀長、のち第14方面軍司令官と第35軍司令官)
・阿南惟幾と豊嶋房太郎(第11軍司令官と第3師団長、のち第2方面軍司令官と第2軍司令官)
・河辺正三と牟田口廉也(支那駐屯歩兵旅団長と連隊長、のちビルマ方面軍司令官と第15軍司令官)

などが挙げられるだろう。

 このうち、今村と加藤の例は、両者の仲も良好で、見事な実績(終戦までラバウル防衛)を残している。また、山下と鈴木の例は、1回目は大勝、2回目は大敗に終わったが、2回目に関しては、誰がやってもこの結果は避けられなかったものと思われ、人事としての評価は難しい面がある。

 これらに対して、阿南と豊嶋の例は、そもそも1回目からして大失敗(第二次長沙作戦)であり、なぜもう一度、しかも濠北という重要方面でコンビを組ませたのか、かなり理解に苦しむ人事である。案の定、2回目の西部ニューギニア戦線でも、阿南の行き過ぎた積極性に引きずられる形で、松山支隊のホーランジア派遣(注:約4万の米軍が上陸したホーランジア奪回のため、サルミから、歩兵2個大隊基幹の松山支隊を派遣しようとした事例。サルミ−ホーランジア間は約400km)という誤判断が行われている。

 この松山支隊の派遣については、現場の第36師団が反対していたこと、参謀本部(次長)や南方軍(総参謀長)も反対していたこと、にもかかわらず阿南が強硬に実施を主張したこと、阿南の主張を尊重する形で寺内寿一・南方軍総司令官が作戦を承認したことなど、インパール作戦と類似した構図が見られる。こうした意思決定過程の詳細は、戦史叢書「豪北方面陸軍作戦」に記録されているが、阿南が参謀総長指示や南方軍命令に従わない意向を示す電報を発し、大本営から叱責電を受けるなど、インパール作戦の承認過程よりも問題のある点さえ見受けられる。

 松山支隊の事例が、後世において目立った批判の対象になっていないのは、インパール作戦よりも小規模で目立たないこと、作戦開始直後にサルミにも米軍が上陸したため問題が顕在化しなかったこと(松山支隊が袋の鼠になり、かつ、兵力の手薄なサルミを失陥するような最悪の事態に至らなかったこと)、そして、阿南本人の人格のためであろう。あくまで個人的な心情論として言うならば、終戦時の阿南の身の処し方のことなどを考えると、(牟田口と異なり)阿南の責任を追及する気にはなれない部分がある。
 ただ、河辺と牟田口という人事の失敗例について、学問的な視点から研究するのであれば、阿南と豊嶋の組合せについても掘り下げ、その共通点を抽出することは、一つのアプローチになるのではないかと思われる。


2 軍参謀長人事について
 また、陸軍の人事に関しては、担当する戦域で不足している要素を、軍参謀長人事で補おうとする「癖」があるように見受けられる(こうした傾向の存在については、過去にも何かの本で触れられていた記憶がある)。
 私見として挙げるならば、以下の例が該当し得るだろう。

・上陸作戦を行うマレー(第25軍)では、運輸畑(参謀本部第3部長)の経験がある鈴木宗作
・地形複雑で移動困難な東部ニューギニア(第18軍)では、工兵出身の吉原矩
・航空主体の防衛戦が想定される西部ニューギニア(第2軍)では、航空兵出身(転科)の藤塚止戈夫
・兵站が不安視される北ビルマ(第15軍)では、輜重兵出身の小畑信良
・逆上陸作戦が想定される千島(第27軍。海上機動旅団2個が配属)では、参本船舶課長などを務めた鈴木敬司
・フランス植民地政府との軍事・経済協力が求められるインドシナ(第38軍)では、フランス駐在と陸軍派遣学生(東京帝大法学部政治学科)の経験がある河村参郎

 これらのうち、失敗だったと評価せざるを得ないのは、そもそも軍司令官と参謀長個人の能力に疑問符が付く第2軍(一例として、イドレ死の行軍)と、軍司令官と参謀長の相性が最悪だった第15軍であろう。参謀長の専門分野に着目して人事を行っても、その他の要因により上手くいかない場合があることを示す例であり、人事の難しさを物語るものと言えるだろう。

posted by A at 10:30| 戦史雑記(日本軍) | 更新情報をチェックする