2018年05月03日

レイテ戦の第68旅団について

 今回は、太平洋戦争のレイテ島の戦いに投入され、ほぼ全滅した第68旅団(星兵団)の概要について、「第六十八旅団奮戦記」(山内一正著/共栄書房/1992年。以下「本書」と呼ぶ)という本をベースにまとめてみたい。

 生還者が極めて少ない第68旅団は、そもそも部隊の活動経緯を証言できる者がおらず、旅団について詳しく触れた書籍も少ない。本書は、こうした第68旅団に焦点を当てた、かなり稀少な戦記である。著者の山内氏(本書中では「K」という仮名を使っているが、これは著者自身のことと思われる)は、旅団砲兵隊第1中隊長、旅団付将校を経て旅団参謀を拝命するも、旅団長の栗栖猛夫少将と折り合いが悪く、昭和19年8月に第10方面軍司令部に転出。そのまま台湾に留め置かれ、結果的に生還した人物である。

 著者自身がこうした経歴を辿ったことから、本書には、旅団の台湾進出までの経緯についてはかなり詳しく綴られている。その一方で、フィリピン上陸以後の記録は少なく、特にレイテ戦末期に関する記述には、あまり参考となる内容は見当たらない。旅団の最期の模様は現在も不明のままであるが、このあたりの事実関係を明らかにする新資料や証言が出てくることは、残念ながらもはやないのだろう。

 以下、本書や他の関連書籍を参考にしながら、いくつかの点について整理してみたい。

○旅団の南方進出とレイテ戦
 本書を踏まえれば、旅団の行動概要は以下のとおりである。

昭和19年
・6/19 満州の陸軍公主嶺学校に動員令が下達され、教導隊を第68旅団として編成替え。所属部隊は、歩兵第126連隊、旅団砲兵隊、旅団工兵隊などで、動員当初の兵員総数は4,377名。この当時、旅団はサイパン島への増援部隊となることが予定されていた
・6月末 旅団は釜山に集結
・7/5頃 旅団の派遣先がフィリピンに変更され、当面、台湾での待機を命ぜられる。夜、旅団は3隻の輸送船で釜山港を出発。門司港に立ち寄り、そのまま一週間ほど滞在
・7/11 栗栖旅団長と幕僚3名(著者含む)は、飛行機で博多から台北に到着。
 また、同日付で、旅団参謀の市川治平中佐(陸士37期、陸大49期)が、第10方面軍の作戦主任参謀に転出。後任に、旅団付将校として市川参謀の補助業務を行っていた著者(陸士52期)が任命
・7/12夜 旅団本体は、歩兵第126連隊長の沖静夫大佐を輸送指揮官とし、門司港を出発
・7/27未明 旅団は台湾・基隆港に到着。その後、新竹に移動
・8/8 用兵思想から旅団長と対立していた著者は、旅団参謀を解任され、第10方面軍司令部に転出。後任に、歩兵第126連隊副官の三角正治少佐(陸士48期)が任命される
・8月頃以降 捷一号作戦の下で、旅団は決戦方面に投入されることとなり、新竹で上陸・戦闘の猛訓練に励む
・10月頃 旅団の編制改正。歩兵連隊は3個大隊に、旅団砲兵隊は2個大隊に、それぞれ1個大隊ずつを増加。内地で徴集された者や、台湾での現地応召者、他部隊からの転属者など、700名近い将兵が旅団に増員。旅団から他部隊への転属者も何十名かあり、結果的に、旅団の総員は約5,000名となる
・11/1〜13頃 旅団各部隊は台湾を逐次出港
・11/7〜23頃 旅団各部隊はマニラに到着。途中、歩兵連隊本部、歩兵砲中隊、速射砲中隊等が乗った輸送艇が撃沈されるなど、輸送中の損害は合計約1,000名。
 また、マニラで660名の「特別輜重隊」が増員(著者は、在留邦人等を臨時召集したものではないかと推測。単純計算すれば、この時点の旅団総員は約4,700名)。さらに、旅団参謀として、士官学校教官を務めていた瀬戸口武夫少佐が着任。三角少佐と合わせ、参謀は2名となる
・12/5 旅団はマニラを出発、レイテ島に向かう(第八次多号作戦)
・12/7 輸送船団はレイテ島サンイシドロに擱座上陸
・12/8 昼頃までに、栗栖旅団長が陸上で掌握した兵員は約4,000名。歩兵の重火器は5分の1程度を揚陸。十榴3門も揚陸したが、砲弾は1発もなし。
 同日、旅団長は瀬戸口参謀を、第1師団への連絡のため派遣
・12/9 旅団長は、旅団主力とともにリモン峠方面へ出発。率いた部隊は歩兵2個大隊程度(ただし重火器装備は極めて貧弱)と推定される。火砲を持たない旅団砲兵隊はサンイシドロに残留
・数日後 ルソン島方面から、少ないながらも小銃が届く。旅団砲兵隊第1大隊長川勝隆充少佐以下3個中隊約300名、第2大隊長米沢克行少佐(元・旅団次級副官。著者と陸幼以来の同期)以下3個中隊約300名、合計約600名の部隊は、これを装備し、旅団主力を追って出発。旅団砲兵隊長の守永晃中佐は、後方基地司令としてサンイシドロに残留
・12/13 戦史叢書「レイテ決戦」によれば、この日、瀬戸口参謀はリモン峠南方の第1師団司令部に到着。兵団の状況と地形の錯雑、ゲリラの跳梁を報告。同日夜、瀬戸口参謀は砲撃により重傷を負う
・12/25 旅団主力は、ペニア(サンイシドロの南約30キロ)で第1師団に遭遇。片岡第1師団長から、第35軍司令部がカンギポット山(ペニアの南約5キロ)に所在することを教えられ、栗栖旅団長は三角参謀を軍司令部に派遣
・12/27 米軍がサンイシドロに上陸、所在の日本兵約1,000名が全滅。
 なお、上述の川勝大隊は、その後の記録に全く登場しないことから、著者はサンイシドロ付近で全滅したのではないかと推測。また、米沢大隊については、旅団主力を追わず、レイテ島西岸沿いに南下し、ビリヤバ北方約7キロの地点で昭和20年元旦を迎えたとする資料もあり、記録に混乱が見られる模様
・12/27頃 三角参謀が旅団に帰来。「第68旅団は第1師団主力の西進を掩護しながら歓喜峰(カンギポット山)方向へ転進し、歓喜峰付近に複廓陣地を占領せよ」との軍命令を伝える

 昭和20年に入ってからの旅団の動向については、残念ながら、本書には具体的な記述がない。戦史叢書「レイテ決戦」から関連記述を引用してまとめると、以下のとおりである。

・1/2 同日時点で鈴木第35軍司令官が掌握した兵力10,718名のうち、第68旅団は約4,000名(一部サンイシドロ所在)とされている。(注:レイテ島上陸後の損害を反映していない可能性があるが、詳細は不明)
・1月中旬 地号作戦(第1師団のセブ島脱出)に合わせて、旅団はビリヤバを攻撃するも不成功。逆に、下旬から米軍の掃蕩を受ける
・2/5 山縣第26師団長戦死。その後、栗栖少将が同師団を指揮し、歩兵第126連隊長の沖静夫少将が第68旅団を指揮することになる。第126連隊長には、3月23日付けで、軍司令部付(事前補充の連隊長要員)の金田長雄大佐が発令
・2月上旬〜中旬頃 このころ、米軍の攻撃は不活発
・2月中旬以降 第35軍は、カンギポット付近の残存部隊を北、中、南の3つの自活地区隊に編成。旅団は中自活隊に編入
・2月下旬以降 米軍は本格的な掃蕩を開始。北自活隊(第26師団)と南自活隊(歩兵第77連隊、海軍)は2月下旬〜3月上旬頃に、中自活隊も4月上旬に自活の基本配置を維持できなくなり、カルブゴス山方向に逐次移動。比較的戦力のある第68旅団が移動を支援
・4/24 旅団も遂に戦力が尽きる。金田連隊長は、4/24に陣地の撤収と転進開始を命じるが、翌25日に第2大隊が全滅、第1大隊長永野進少佐も戦死
・6月中旬 歩兵第126連隊の残存兵力は金田連隊長以下18名
・その後の旅団の消息は不明


○第68旅団の編成について
 戦史叢書「レイテ決戦」によれば、第68旅団の編成は以下のとおりである。

・旅団司令部(152名)
  旅団長 栗栖猛夫少将
  参謀 瀬戸口武夫少佐、三角正治少佐
・歩兵第126連隊(3,624名)
  連隊長 沖静夫大佐(のち少将)
  第1大隊長 永野進少佐
  第2大隊長 和田俊郎少佐
  第3大隊長 和田繁二少佐
・旅団砲兵隊(1,350名)
  長 守永晃中佐
  第1大隊長 川勝隆充少佐
  第2大隊長 米沢克行少佐
・旅団工兵隊(250名)
  長 後藤健一少佐
・旅団通信隊(203名)
  長 窪田十三芳少佐
・旅団衛生隊(239名)
  長 佐藤正大尉

 これらの人員を機械的に足し合わせると、5,818名となる。この数字と、山内氏が推定するルソン島滞在時の旅団人員(約4,700名)、厚生省の記録に残る旅団人員(6,392名)はいずれも異なり、どれが正しい数字なのか、にわかに判別しがたい。
 強いて言えば、山内氏の数字(約4,700名)に、台湾からルソン島までの輸送途上での海没人員(約1,000名)を加えれば、戦史叢書の数字(5,818名)に比較的近い数字になる。この5,818名と、厚生省の数字(6,392名)が乖離している理由は、全く不明である。


○第68旅団の生還者について
 厚生省の記録によれば、旅団の総人員は6,392名、戦死者は6,302名とされている。本書によれば、生還者90名の大部分は、台湾及びマニラで罹病入院して後送された者であり、レイテ島に上陸して生還した者は10名に満たないとのことである。

 なお、その奇跡的な生還者の一人である後藤薫氏(歩兵第126連隊第3大隊第7中隊第1小隊第1分隊長、軍曹)の証言が、「昭和史の天皇 レイテ決戦(下)」(読売新聞社編/角川文庫)に収録されている。後藤氏は、3/1〜6頃に、カンギポット山近くの510高地(レイテ富士)付近で行われた戦闘で、全身に銃弾7発を受け重傷を負うも、辛うじて部隊に生還。その後の連隊の様子を、以下のように証言している。

「・・・四、五日かかってやっと中隊本部にめぐり会えたのです。このときの中隊は中隊長格の有光中尉のほか十七人しかいませんでした。そしてみんな食べ物のありそうなところを捜して何日か居すわり、なくなるとまた次へ移動するというような生活をしていました。その間にも『もう歩けません』といって栄養失調やマラリアのためバタバタ落伍するものが出ました。
 連隊本部と合流したのはその途中のことでしたが、連隊といっても金田連隊長以下全部で二十人もいなかったですね。もう戦意というようなものは全くありません。わたしも負傷いらい戦争に対する恐怖心が急につのり、恥ずかしいことですが、一キロも二キロも先で銃声がすると、もう何もかもほうり出して一目散に逃げ出すというありさまでした。
 このわずかばかり残った連隊も六月の中旬、わたしが食糧の徴発に行っている間に敵に襲撃され、十四、五人が戦死していました。わたしが捕虜になったのは二十年の暮れか、二十一年の正月でしたが、投降したとき与えられたチョコレートの味は今でも忘れられません」

 カンギポット残留部隊については、しばしば、「終戦後に山から下りてきた者は一人もいなかった」という言い方をされることがある。しかし、「二十年の暮れか、二十一年の正月」に投降したとされる後藤氏は、その例外ということになるだろう。

 また、大岡昇平「レイテ戦記」には、第8師団歩兵第5連隊(高階支隊)17名、第68旅団2名(下士官1名、兵1名)、その他2名の合計21名がレイテ島を脱出し、20年1月31日にネグロス島に漂着したとの記録がある。神子清「われレイテに死せず」にも、レイテ島からメデリン島に脱出した、「星兵団の川村少尉」の一行が登場する。
 これらの者が生きて終戦を迎えられたかどうかは不明であるが、いずれにせよ、レイテ島から小舟で脱出した遊兵が一定数いたことは確かであろう。


○第68旅団の戦力について
 レイテ戦関連の各種戦記で、第68旅団は有力な精鋭部隊として言及されることがある。これに関して、著者は以下の証言を残している。

「戦後刊行された『大東亜戦史』(服部卓四郎著)その他によれば、第六十八旅団は“精強な機動兵団”だったとされているが、これは、この旅団の各級指揮官の階級が、一般の兵団と比較して一段か二段高かったことで、兵団の戦力が「買い被られ」たものらしい。昭和十九年ごろは、大隊長が大尉、中隊長が中尉で当りまえとされていたが、第六十八旅団では砲兵大隊長が中佐、砲兵中隊長がK大尉以外の二人は少佐で、Kの部下の指揮小隊長は、よその砲兵部隊に行けば大隊長になれるような(士官学校第五十三期生の)大尉だったのだ。驚いたことにこの旅団の歩兵連隊の連隊長は、既に支那大陸の戦線で連隊長として二年余りも実戦を経験し、その後、師団参謀長まで勤めた大ベテランである。
 この事は、公主嶺学校で教官を勤めていた将校を、この旅団の各隊指揮官に「転用」した結果生じたのであるが、実は、これが此の旅団の大きな欠点になっていた。普通の部隊なら上級指揮官の命令は「絶対に」遵奉するが、この旅団の各級幹部は、学校教官のクセが抜け切らず、何かといえば(上級者と雖も)すぐ批判の対象にしてしまうからだ。つまり、作戦部隊の実戦行動と学校での研究演習とを混淆する者が沢山いるのである。
 もう一つの問題は、この旅団の戦場内機動力だ。Kの中隊のように、重輓馬六頭で牽引していた十榴(口径十センチの榴弾砲)を、人力だけで引っ張るのでは、とても機敏に動きまわることは出来ない。そして、牽引車やトラック等が此の旅団には殆んど全く無いのだから、歩兵の重火器や工兵の諸資材なども総べて兵員の「肩」で搬送しなければならない。
 まあ、あれこれ考え合わせると、大本営が第六十八旅団に期待した「精強度」とか「機動性」とかは、マボロシ以外の何ものでもなかった、と言うべきであろう」

 機動力に関して言えば、編成当時、この旅団には馬さえ1頭も存在しなかったとのことである。その後、台湾やルソンで輸送能力を増強したとの記録も見当たらない。もし機動力を欠いたままだったのであれば、仮に火砲などを無事にレイテまで運べたとしても、まともに前線に進出させることもできず、十分な活躍は期待できなかったのではないかと思われる。
 また、必ずしも練度が高くないと思われる将兵が、台湾とマニラで比較的多人数(旅団の1/3〜1/4程度)追加されている点にも留意すべきであろう。

 レイテ戦の第68旅団が、期待されたほどの戦果を挙げられなかったのは、戦況の圧倒的な不利や海上輸送の不成功のほか、以上のような事情も影響したためではないかと考えられる。


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2017年07月15日

藤原岩市参謀と、インパール作戦の「統制前進説」について

 太平洋戦争中、ビルマ戦線の第15軍で情報主任参謀を務めた、藤原岩市少佐(のち中佐)という人物がいる。インド独立支援の文脈で高く評価される傾向のある軍人だが、インパール作戦に関する彼の身の処し方には少なからず疑問の点があり、個人的には彼への評価は非常に辛い。彼のこういった部分に触れた話はあまり取り上げられていない気がするので、人物評価のバランスを取るために、今回は彼の疑問点についてまとめてみる。

 第15軍司令官・牟田口廉也中将に関する有名な逸話として、インパール作戦失敗の責任を負い自決すべきかどうか、部下の藤原に相談したところ、かえって藤原から本気で自決を勧められた、というものがある(詳細はこちらを参照)。意外に知られていないが、藤原は牟田口と同様、インパール作戦の推進に積極的だった人物である。作戦開始前、第15軍の多くの参謀たちが無謀な作戦に否定的だった中で、牟田口と藤原の両名は作戦の実施を強く主張し、作戦実現に向けて奔走している(高木俊朗「抗命」などに、その模様が描かれている)。

 牟田口が、「自決問答」の茶番劇の相手として藤原を選んだのは、あるいは藤原が牟田口とともに作戦失敗の責任を負うべき立場にあり、牟田口を批判する資格のない参謀だったためかもしれない(作戦中に、一緒に芸者遊びをしていた仲でもある)。ところが藤原は、牟田口から自決の相談を持ちかけられた際、自分自身の責任には全く触れず、一方的に牟田口を追及している。晴気誠の例に倣えと言うと極端に過ぎるが、牟田口とともに作戦を推進してきた参謀の姿勢として、藤原の言動はあまりにも割り切ったものではないかと思う。

 また、藤原は戦後、「第33師団(弓兵団)が積極的に前進しなかったため、インパールへの進出に失敗した」という偽説(「統制前進説」あるいは「統制前進論」と呼ばれる)を流し、作戦の失敗を第一線で戦った弓兵団のせいにして、責任転嫁を図ろうとしている(藤原自身の著述として、「大東亜戦争全史」(服部卓四郎編、1953年)及び「別冊知性・太平洋戦争の全貌」(1956年)の同作戦関係部分)。

 しかし、第33師団長・柳田元三中将は作戦に否定的ではあったが、師団の前進を故意に抑止した事実はない。伊藤正徳「帝国陸軍の最後」(1960年)や児島襄「太平洋戦争」(1966年)、山岡荘八「小説太平洋戦争」(1967年)が、藤原の流したデマを誤って採用したため、戦史に詳しくない層にこの誤説が広まったが、結局、1968年刊行の公刊戦史が、この「統制前進説」を否定している(詳細は、戦史叢書「インパール作戦」p399〜415参照)。

 また、「インパール作戦蹉跌に対するいわれなき批難を、長い間苦々しく思っていた」という磯部卓男(元陸軍中尉。第33師団歩兵第215連隊(笹原連隊)の連隊旗手)は、戦後の自著「インパール作戦 その体験と研究」の中で、藤原が拡散させた嘘の実態を詳しく検証し、「言葉が過ぎると思われるが、『一犬虚に吠え、万犬之に和す』の感を禁じ得ない」と述懐している。

 なお、「統制前進説」が浸透した背景について、高木俊朗「インパール」には以下の記述がある。

「私は非常な興味を感じた。それは、その資料提供者(注:伊藤正徳氏に資料を提供した者)のことである。それが誰であるにしても、あのインパール作戦を弁護し、正しかったと信じている人がいるということだ。あるいは、正しいものにしようとしている、というべきだろうか。そのために、いわば、謀略の資料を提供したのだ。
 その目的は、第十五軍と牟田口中将の体面を傷つけないようにするためばかりでなく、旧陸軍の名誉を保持しようとする意図ではなかろうかそうしたことが必要になるほど、インパール作戦間には、醜悪で不名誉な事件が続発した。世界戦史にも例のないことである。インパール作戦は、まれに見る非道な戦争であった」(注:下線部は引用者)

 この、インパール作戦を「正しいものにしようとしている」動きは、形を変えながら、現在もネット上などで散見されるように思う。しかし、祖国に父母や妻子を残して戦争に参加した若い将兵を、杜撰な作戦計画で大量に戦没させておいて、それを「正しい」作戦と呼ぶことは、常識的な感覚では到底できるものではない。「インド独立」などという美辞麗句は、現実離れしたデタラメな軍命令が乱発され、そのために膨大な死者を生み出したこの作戦の実態を、正当化するものでは絶対にない。他民族を助けるという美名があれば、牟田口や第15軍幹部のような横暴や無能や堕落が許容されるという考えを持つ者は、つまるところ、我々日本人自身を殺すことを何とも思っていない者であろう。
 まともな日本人であれば、飢餓と病の中で倒れ、ジャングルに白骨を晒した、死ななくとも良かった多数の日本人将兵の怒りや無念を、自分の痛みとして感じる部分があるのではないかと思う。そうした共感や同情心の感情を、絶望的に欠いた人間でなければ、このインパール作戦を肯定することなどできないのではないか。


(補記)
 なお、ビルマ戦線で評価すべき参謀としては、インパール作戦の現実を冷静に把握したビルマ方面軍後方参謀の後勝や、戦争末期ごろの花谷正をよく抑えた第55師団参謀長の小尾哲三などが挙げられるのではないかと思われる。
 本稿で扱った藤原岩市は非常に問題の多い人物であり、その責任逃れの言動は厳しく批判されて然るべきだが、陸軍軍人にも評価に値する人物がきちんといることは、あえて明記しておきたい。


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2017年02月05日

ニューギニア戦線の「イドレ死の行軍」について

 太平洋戦争中の昭和19年7月から10月頃にかけて、「絶対国防圏」の最前線である西部ニューギニアで、「イドレ死の行軍」と呼ばれる悲惨な転進が行われた。この転進では、敵軍と銃火を交える機会がほとんどなかったにもかかわらず、10,000名以上とも言われる日本軍将兵や軍属などが死亡している。今回は、多くの人命が失われた出来事でありながら、現代ではほとんど知られていないこの行軍について、関係する戦記の記述を踏まえ、実態をまとめてみたい。

 なお、西部ニューギニアの地図としてはこちらを参照されたい。イドレは、マノクワリの南、「Modan」に近い地点である。


1 転進の概要
 まずは、関連書籍の内容を基に、この転進の全体像を整理してみたい。

 昭和19年6月下旬、ビアク島の戦いがいよいよ終末に近づき、マノクワリへの連合軍上陸も目前と考えられた。これを受けて、西部ニューギニア戦線を担当する第2軍司令部は、マノクワリに駐屯していた20,000名余の将兵らのうち、戦闘部隊を中心とした8,000名の兵力をもって、マノクワリの防備を固めることにした。そして、後方部隊など12,000名を、マノクワリ南方170キロにある、イドレに移動させることとしたのである(田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録」(ゆまに書房)による)。

 後方部隊の転進先としてイドレが選ばれたのは、「イドレにはサゴ椰子が無尽蔵にあり、10万人が食っていける」という噂があり、自活に適当な土地だと考えられたためである。しかし、マノクワリからイドレまでの移動経路については、ほとんど調査が行われておらず、満足な地図すらない状態であった。このような状況の中で、第2軍が推し進めた転進計画は、関連戦記によれば以下のようなものであった。

「そんなわけだから、転進の計画はメチャクチャだった。地図の上に線を引いて、その直線距離を、指先でチョイチョイと測っただけである。
『うん、三日か四日の行程だな。そんなら、食糧の携帯は一週間ぶんで十分だ』」(加東大介「南の島に雪が降る」)

「イドレ転進命令が下ったのは19年7月1日である。十日もあれば目的に着ける、途中に大した障碍などないという楽観的雰囲気の中で移動が開始された」(上掲の田中書)

 ところが、実際のイドレまでの経路は、悪疫の蔓延する過酷な密林地帯だった。兵士たちはジャングルの中で、同じ場所をぐるぐる彷徨して道を見失ったり、高山や大河に行く手を阻まれたりして、栄養失調やマラリア、赤痢、チフスなどの病で次々に倒れていった。そのうえ、軍命令により、多くの将兵が途中のヤカチという地点で足止めされ、進退窮まった各部隊は、ここで一気に餓死者・病死者を増やしていった。

 そして、3か月以上の苦難の移動を経て、一握りの者がようやく辿り着いたイドレにも、食料の貯えなどは全くなかった。転進部隊がヤカチで停止を命じられ、イドレへの進入を許されなかったのは、彼らを養うだけの食物が、イドレにはなかったためであった(植松仁作「ニューギニア大密林に死す」)。結果的に第2軍は、「イドレにはサゴ椰子が無尽蔵にある」という根拠のないデマを信じ、その実情をまともに調べないまま大移動を命令して、大量の死者を生み出したのだった。
 この転進の結末について、再び関係書籍の記述を引用する。

「航空地上勤務部隊の大部はマノクワリ方面第二軍後方部隊と共に7月〜8月、イドレに向かって無計画な行軍を行ない、その大半が死没するという惨事を引き起こした」(戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」)

「途中、行ったり来たりを繰り返したために、無事に着いた将兵は、地図上行程の三倍にあたる五百キロ以上も歩いたのではないかと推測されている。死線を越えて辿りついたイドレも極楽ではなかった。移動計画がこのような杜撰極まりないものであったくらいだから、イドレにおける開墾や農耕もしっかりした計画性をもっているはずもなかった。(中略)
 マノクワリを発った一万二千名は、イドレに辿り着くまでに九十%近い餓死、病死者を出し、さらにイドレでも数%の死者を出し、結局、故国に帰還できたのはわずか六%強の運命のいたずらに助けられた者だけであった」(田中書)

 なお、第2軍司令部が「死の行軍」の悲惨な実態に気づいたのは、8月後半になってからのことだったようである(「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」)。


2 関係者の記録
 「イドレ死の行軍」に参加した将兵の手記が、複数刊行されている。その一部を紹介し、転進の実相を追ってみたい。

(1)久山忍「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」(潮書房光人社)
 転進を体験した蓬生孝氏(第2軍司令部所属、陸軍一等兵。戦後日商岩井に入社し、イタリア・西ドイツ等で勤務)の記録が、この久山書に収録されている。少し長くなるが、行軍の悲惨な実情を表す部分を抜粋する。

「・・・川をわたると周囲は一変した。鬱蒼とした大密林であった。密林のなかは、大木と灌木が陰湿な地面を隙間なく埋め、無数の倒木が巨体を折りかさね、光は閉ざされて昼なお暗く、侵入者をかたく拒否していた。
 頭上からは数知れない木の蔓が垂れさがる。歩けばおびただしい山蛭が降る。地面には万年筆の形をした黒光りの毒虫がうごめく。苔などの隠花植物やさまざまなシダ類が地面にはびこっている。(中略)
 赤道直下の高温多湿な密林や湿地帯を、憔悴していく体力でただ歩く。この転進では誰もが病気につきまとわれていた。どの病気も悪化の一途をたどり治癒することがない。そしてついに歩けなくなる。この転進で歩けなくなったら最後である。
 よどんだ生水、くさった食物は大腸炎に直結した。不消化のまま流れ出る大便や血便がやむことなしにつづいた。下痢をするとたちまち衰弱し、貧血になって歩けなくなった。
 多湿な密林のなかの蚊は人間の存在に敏感に気づいて来襲し、小便をするとその臭いを好んで棒のようになってむらがった。マラリアにかかると、高熱、悪寒、下痢、食欲不振となり、歩けなくなった。
 皮膚は抵抗力がなくなっているので、ばい菌は小さな傷口からたちまち蔓延し、南方潰瘍や得体のしれない皮膚病になった。最初は小さかったのが、わずかな期間で脛、腿、股、人によっては全身にひろまってこれまた歩けなくなった。
 毎日、泥水や水たまりを行軍するため、水虫は誰もがやられた。これもズボンがぬげなくなるほど下腹部がふくらむと歩けなくなった。
 大腸炎、マラリア、潰瘍、水虫、日射病の合併症に飢えが加わって苦しみ斃れた転進者の実情は、とうてい文字にできない。
 力尽きて歩けなくなり、泥土にすわって通りすぎてゆく我々をじっと見ていた者、朽ちた大木の穴に独りではいって寝ていた瀕死の者、飯盒のふたを差し出して水を求めていた者、今死んだばかりの者、水にうっ伏して腐乱した者、二、三日前に亡くなって白骨化した者、無数のウジが全身に喰いついていた者たち。死んだ者の肉はすぐに腐り、頻繁なスコールが腐肉を流して骨だけにした。
 木の洞や倒木の陰に遺った白骨、二人、三人並んで水辺や灌木の繁みに遺った白骨、天幕の下に遺った数人の白骨など、数多くの転進者の悲惨な姿についてはなんと申しあげてよいかわからない」

 蓬生氏は昭和19年7月7日にマノクワリを出発、10月3日に奇跡的にイドレ到着。死者続出したイドレでも生き残り、昭和21年6月に復員している。

(2)植松仁作「ニューギニア大密林に死す」(光人社NF文庫)
 著者は電信第24連隊副官で、終戦時陸軍大尉。この転進に参加した記録を、全編にわたって詳しく綴っている。「イドレ死の行軍」について書かれた本の中では、現在最も入手しやすい一書ではないかと思う。
 なお、同著者には「魔の地ニューギニアで戦えり」(光人社NF文庫)という著作もあるが、こちらにはニューギニア以外の地での勤務記録も広く収録されており、「イドレ死の行軍」に関する記録はその一部にとどまる。

(3)「丸別冊 秘めたる戦記 陸海空/戦域総集編U」
 この本に掲載されている鈴木勝氏(第五揚陸隊所属、陸軍一等兵)の手記の中に、軍司令部の移動に関する記述がある。第2軍司令官・豊嶋房太郎中将と高級幕僚は、マノクワリからイドレまで軽爆機・大発を利用して移動したが、彼らを乗せた大発の乗組員は、「大発の中で米軍魚雷艇にいちばん怯えていたのは軍司令官であった」という、容赦のない証言を残している。

(4)その他
 この行軍については、「インドネシア文化宮」さんというサイトが、極めて精力的に記録を収集されている。
 このサイトによれば、飛田忠廣「ニューギニア玉砕記」(昭和24年)、佐々木實「人喰密林戦記」(昭和30年)、西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌「辺裸飢」(昭和52〜62年)、第2軍司令部参謀部某曹長「野垂れヤカチ」などの手記にも、この転進に関する記録が綴られているようである。


3 公刊戦史
 2に掲げたように、「イドレ死の行軍」の参加者による戦記には複数のものがある。これらに対して、この行軍に関する公刊戦史の記録は、極めて貧弱である。戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」に若干の記述があるが、本来この転進について詳しい記録を残すべきと思われる「豪北方面陸軍作戦」には、

「軍司令部は後方部隊人員と共に扇の要的地点であるイドレに移り自活しつつ持久戦を指導する方針」

という簡単な記述があるのみであり、転進により犠牲者が出た事実すら書かれていない。ほぼ同数の戦没者を出したビアク島の戦いに、67ページもの分量を割いていることと比べれば、かなり強い違和感を受ける。

 また、第2軍の高級参謀であった了戒次男・元中佐が、「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」に、「西部ニューギニアの全般作戦」という手記を寄せている。しかし、この著述の内容は、全体的に作戦面の記述に終始しており、後方部隊をイドレに移動させた顛末にさえ言及していない。軍の側としては、自らの命令の錯誤により膨大な餓死者・病死者を出した事実を、後世に残したくなかったのだろうか。


4 最後に
 この「イドレ死の行軍」に代表される部隊移動の失敗や、各地の守備隊でおびただしい餓死者を出した事実などを踏まえると、西部ニューギニアの第2軍は、本来生きて還るべきであった将兵や軍属を、自らの判断の誤りによって、大量に戦没させたと評されてもやむを得ないのではないかと思われる。この戦域では、ビアク・サルミの戦いで守備隊が壮絶な敢闘を見せているが、これらも、軍上層部の作戦指導が優れていたと言うより、現場で戦った東北編成の精鋭師団、第36師団の頑強さを賞賛すべきものではないかと思う。

 そして、いくつかの戦記でも指摘されている軍司令官の柔弱な性格や、軍参謀長の粗雑な判断、そもそも参謀長の交代が頻繁で空席の時期が長く続いたこと、果ては、参謀長としての発令を受けた将官が、あろうことか赴任をサボタージュする乱脈ぶりを見せたことなど、総じて第2軍では、首脳陣の統帥が、正常に機能していたようには見受けられない。極限とも言うべき凄惨な戦況の中で、最後まで統率を崩壊させなかった東部ニューギニアの第18軍と比べると、対照的と言わざるを得ないのではないか。イドレ転進の悲劇は、上層部に適切な人材を得られなければ、組織に無用かつ甚大な被害が生じるということを示す、一つの重い教訓ではないかと思われる。


(補記1)「イドレ死の行軍」の参加者数などについて
 マノクワリ守備隊の兵数や、「イドレ死の行軍」の参加者・戦没者数には、書籍によってばらつきが見られる。以下、一通り列挙してみることにする。

<マノクワリ守備隊の人員数>
・戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」・・・30,000名余。その他、ムミ地区(マノクワリ南方)に約7,000名の兵員あり
・田中書・・・20,000名を超える数
・久山書・・・軍人と軍属をあわせて約20,000名。そのうち9,000名は飛行場設定隊に編入された土木労務者や台湾人(高砂族)で、残りの11,000名は第2軍司令部関係の後方部隊
・植松書・・・20,000名余

<「イドレ死の行軍」の参加者数>
・田中書・・・12,000名。マノクワリ残置者数は8,000名
・久山書・・・9,800名、10,000名、12,000名など諸説ある
・植松書・・・12,000名
・鈴木手記・・・10,000名有余。マノクワリ残置者数は約12,000名
・「インドネシア文化宮」・・・約12,000又は15,000名

<「イドレ死の行軍」参加者のうち、戦没者数>
・田中書・・・生還者6%強(=戦没者約11,300名)
・久山書・・・一説には、イドレまでの行程の戦没者数が10,200名
・植松書・・・生還者800名以下(=戦没者11,200名以上)
・「インドネシア文化宮」・・・1万数千名

 また、この転進について詳しくまとめているこちらのサイトには、「参加者15,000名、イドレ到着6,000〜7,000名、生還者3,000名未満」という数字が掲載されている。


(補記2)「イドレ死の行軍」の参加部隊について
 「イドレ死の行軍」に参加した部隊についても、その全体像をまとめた資料は見当たらず、実態は明らかでない。見つけられた限りの部隊を全て挙げると、以下のとおりである。

・第2軍司令部、兵器廠、貨物廠、船舶部隊などの後方部隊(田中書)
・第14、第15、第101野戦飛行場設定隊(「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」)
・第3、第14飛行団(同上)
・第107、第108飛行場大隊、第36飛行場中隊、第9航空通信連隊の各一部(同上)
・第8航空情報隊の一部(同上)
・第13野戦気象隊の一部(同上)
・第21野戦航空修理廠の一部(同上)
・第107、第108飛行場大隊(同上、再掲。マノクワリ南方のムミ駐屯)
・第34、第46飛行中隊(同上。マノクワリ南方のムミ駐屯)
・電信第24連隊(植松書)
・陸上勤務第37中隊(約300名でマノクワリ出発、生還者ゼロ。久山書)
・兵站病院(「南の島に雪が降る」)
・海軍部隊、高砂勤労隊、インドネシア兵補隊(久山書)
・マレー作戦時の英軍インド兵で編成したインド人部隊(植松書)

 以上の各部隊の全員が転進に参加したわけではなく、マノクワリに残留したり、他の拠点の守備に回されたりしていた者もいたようである。


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2016年09月22日

西部ニューギニア戦線・歩兵第221連隊第3大隊の壊滅

 以前のサンドイッチ部隊の話に続き、またニューギニア戦の話題を取り上げてみたい。

 昭和19年5月に西部ニューギニア・マノクワリに上陸した歩兵第221連隊第3大隊は、ほとんど敵軍と戦う機会を持たなかったにもかかわらず、実に9割以上もの戦没者を出して壊滅した。戦史作家・久山忍氏が著した「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」(潮書房光人社/2012年)に詳しい証言が収録されているが、今回はこの本を基に、同大隊が辿った悲惨な運命を追うことにする。

1 西部ニューギニアへの進出
 太平洋戦争中の昭和18年9月。大本営はいわゆる「絶対国防圏」を設定し、西部ニューギニアはその最前線となった。同年11月、満州から西部ニューギニアに進出した第2軍司令部は、米軍の来攻時期を昭和19年後半から20年頃と予測し、それまでに西部ニューギニア各地に合計25個の飛行場を造成する目標を立てた。そして、11個の野戦飛行場設定隊を始めとする、大量の後方部隊が西部ニューギニアに投入されたのだった。

 こうした状況の中で、第2軍司令部が置かれたマノクワリには、約2万名の軍人・軍属が派遣されていた。ただ、そのほとんどは飛行場建設にかかわる土木労務者や軍司令部の後方部隊であり、戦闘部隊は皆無に等しい状態だった。ところが、米軍は早くも昭和19年4月に、同様に後方部隊が駐屯していたニューギニア中部のホーランジア(現ジャヤプラ)に、また5月には、第36師団が守備するサルミとビアク島にも上陸し、マノクワリへの来攻も旦夕に迫ったものと考えられた。

 このように情勢が急迫していた昭和19年5月、ようやくマノクワリに戦闘部隊が進出した。北支戦線からニューギニアに転用された、第35師団歩兵第221連隊の第2大隊と第3大隊である。このうち第2大隊はすぐにビアク島に投入され、後に玉砕に至るが、連隊本部と第3大隊を中心とする約1,000名の兵力は、そのままマノクワリの守備に就いた。後方部隊ばかりのマノクワリで、軍旗を頂く戦闘兵種の存在は大いに頼もしがられたという。


2 過酷な使役
 歩兵第221連隊第3大隊は、マノクワリ上陸時にわずか1週間分の食料しか持っていなかったが、十分な給養も与えられぬまま、ただちに敵上陸に備えた陣地構築に駆り出された。ニューギニアの厳しい自然環境の下、硬い珊瑚礁を相手にした手作業の塹壕掘りは、兵士たちを大いに苦しめた。次いで7月以降、陣地間をつなぐ自動車道路建設工事にも使役され、既に栄養失調とマラリアで衰弱していた兵士たちは、過重労働の中でばたばたと死んでいった。

 そして、ついに米軍の上陸を迎えないまま、マノクワリがすっかり戦線の後方に取り残されていた昭和19年10月。マノクワリ支隊長だった深堀游亀少将は、各部隊に完全自活を命令し、一切の食料配給を停止した。軍の補給廠にはまだ物資の集積はあったが、後方からの補給が期待できなくなった戦況にかんがみ、それぞれの部隊に自ら食料の調達を求めたのである。早くからマノクワリに進出していた各部隊は、既に自前の農園を拓き、一定の食料の備蓄もあったが、最後にマノクワリに到着し、その後も土木作業に使役され続けてきた歩兵第221連隊第3大隊は、農地も食料もほとんど保有していなかった。飢餓と病と過酷な工事に苦しんできた兵士たちは、その日の食料にも事欠く有様となり、いよいよ破滅の瀬戸際に立たされた。


3 壊滅
 昭和19年11月。第3大隊の一部の兵士たちが、他部隊の倉庫から食料を盗み出す事件が発生した。元はと言えば、この大隊が窮地に陥った原因は、マノクワリ支隊による苛烈な使役と、公平性を著しく欠いた食料配給停止措置にある。ただ生き延びるために食料を奪った兵士たちを責めるのは、あまりにも酷であろう。しかし支隊司令部は、大隊に対する懲罰として、事件を起こした第3大隊の第10中隊、第11中隊、第12中隊を、「ワルパミ峡谷」へ移駐させる命令を下した。

 ワルパミ峡谷は、加東大介の名著「南の島に雪が降る」にも、「ワルバミ」という地名で登場している。日光が入らない狭隘な湿地帯であり、農耕に適する土地もなく、到底人間の住める環境ではなかったという。この移駐命令の結果、それぞれ200名程度の人員を有していた各中隊のうち、戦後日本に生還できた者の数は、以下のとおりとなった。

 第10中隊 0名
 第11中隊 1名
 第12中隊 2名

 これらの中隊は精強を誇った現役兵部隊だったが、まともに敵と戦わないまま、とうとう全滅状態に追い込まれた。久山書にもさまざまなエピソードが紹介されているが、率直に言って、マノクワリの軍上層部は、およそ正常な神経で統率を行っていたとは思われない。第3大隊のその他の各部隊(第9中隊、機関銃中隊、歩兵砲中隊、通信隊)でも餓死者・病死者が続出し、存続困難となった大隊は、結局、昭和20年6月1日付けで解隊されている。


4 最後に
 冒頭に掲げた戦史作家・久山忍氏は、西部ニューギニア戦線について、以下のように総括している。

「西部ニューギニアでは、無用な行軍、無意味な作戦、無慈悲な命令によって死んだ兵たちがおびただしかった。私の私見であるが、もし、仮に、西部ニューギニアのすべての各指揮官が適切な指揮能力を発揮していれば、七万以上といわれる西部ニューギニアの死者は半分以下におさえられたのではないか」

 久山氏による「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」は、こうした悲惨な西部ニューギニア戦線を生き抜いた兵士たちの証言を、丁寧に掬い上げた労作である。上記に掲げた歩兵第221連隊第3大隊の苦難の過程は、ほんの概要だけを簡単にまとめたものに過ぎない。西部ニューギニア戦史に御関心のある方は、ぜひ同書を手にとっていただければと思う。久山氏が言うように、まずは「知る、ということが、死者に対するもっとも良い供養になる」のではないかと思われる。

(追記)
 西部ニューギニア戦関係では、「イドレ死の行軍」についても別記事に詳しくまとめました。


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2016年06月04日

ガダルカナル戦のしんがり、一木支隊

 ガダルカナル島の戦いの「一木支隊」といえば、この戦いの先陣を切った部隊としてその名を知られている。昭和17年8月20〜21日に、一木支隊の第一梯団916名がガダルカナル戦の第一次攻撃を敢行、奮戦したものの衆寡敵せず、ほぼ全滅に近い損害を蒙っている。その後、一木支隊の第二梯団(約1,000名)もガ島に送られ、川口支隊による第二次攻撃に参加している。

 これらの戦闘と、その後の飢餓を経て生き残った一木支隊の残存将兵は、ガダルカナル戦の最終盤まで島に残って敵を食い止め、最後の撤退でガ島から撤収している。今回は、戦史叢書(「南太平洋陸軍作戦1」及び同「2」)と、亀井宏「ガダルカナル戦記」、そして「丸別冊 最悪の戦場 ガダルカナル戦記」に所収された「ガ島への先陣「一木支隊」の戦歴」(著者:山本一・元中尉、当時一木支隊本部付)を基に、一木支隊のガダルカナル島への上陸過程と、その後の戦闘経過についてまとめてみた。

 まず、山本元中尉の手記によれば、一木支隊の編成は以下のとおりだった。

〔一木支隊第一梯団〕
○支隊本部
 支隊長  一木清直大佐(歩兵第28連隊長)
 連隊旗手 伊藤少尉
 副官   富樫大尉
 通信隊長 渋谷大尉
 本部附  田坂軍医大尉
  〃   篠原主計中尉
  〃   榊原中尉
 大島通訳

○大隊本部
 大隊長  蔵本少佐
 副官   近藤中尉
 本部附  羽原少尉

○四コ中隊編成(各隊105名限り)
 中隊長  沢田大尉 105名
  〃   樋口中尉 105名
  〃   丸山中尉 105名
  〃   千葉中尉 105名
 大隊砲小隊(砲二門) 50名
  小隊長 花海少尉

○支隊直轄
 機関銃中隊(重機八挺)110名
  中隊長 小松中尉
 配属工兵中隊(火炎放射器携行)150名
  中隊長 後藤中尉

合計 916名


〔一木支隊第二梯団〕
○大隊本部 水野少佐
 副官兼兵器係 山本少尉(手記著者)
 軍医   坂本中尉
 〃    織田中尉
 薬剤官  小林少尉
 憲兵   矢野中尉

○一般中隊(将校全欠)
 各中隊で駆逐艦乗員制限のため、残留した下士官兵総員約200名および弾薬班、行李班員340名

○速射砲中隊(四門)  大久保中尉
 連隊砲中隊(四門)  和田中尉
 独立速射砲中隊(八門)中岡大尉
 工兵中隊残員     星野中尉

合計 約1,300名
(※ただし、このうち弾薬班、行李班員340名の一部と、独立速射砲中隊の一コ小隊(四門)はガ島に上陸せず、後方に残置された模様)


 これらの部隊は、以下のような行動経過を辿っている。

・昭和17年8月18日 一木支隊第一梯団が、ガダルカナル島タイボ岬に上陸成功
・8月20〜21日 第一梯団のイル川渡河攻撃失敗。戦死777名、戦傷約30名。山本手記によれば、一木支隊長は拳銃で自決。軍旗は連隊旗手・伊藤致計少尉が奉焼し、伊藤少尉は手榴弾で自決
・8月26日 輸送船「ぼすとん丸」及び「大福丸」に分乗して、トラック島からガダルカナル島を目指していた第二梯団(約1,000名)は、輸送作戦失敗によりショートランド泊地に退避
・8月29日 第二梯団の一部(300名、速射砲四門を含む)は、駆逐艦「海風」「江風」に分乗し、タイボ岬に上陸成功
・8月30日 第二梯団の一部(約260名)は、駆逐艦「夕立」及び哨戒艇4隻に分乗し、タイボ岬に上陸成功
・9月1日 川口支隊長(川口清健少将)は、一木支隊第一梯団の残部及び第二梯団をもって、歩兵2中隊、連隊砲1中隊(4門)、速射砲2中隊(各中隊4門)及び工兵小隊等からなる混成大隊を編成させ、これを「熊大隊」と呼称することとした。大隊長には、一木支隊副官だった水野鋭士少佐が任命された(注:「熊」は、歩兵第28連隊が所属する第7師団の兵団文字符
・9月4日 第二梯団残部と青葉支隊の一部(歩兵第4連隊第2大隊)、合計約1,000名は、駆逐艦「浦波」「敷波」「有明」「夕立」「初雪」「叢雲」に分乗し、タイボ岬に上陸成功
・9月12〜14日 川口支隊総攻撃に当たって、熊大隊は大隊本部と第1中隊第1小隊が夜襲を決行するも不成功、水野少佐以下約100名戦死。大隊のその他の部隊は、地形不明のため攻撃準備位置に進出できず
・その後、熊大隊残存将兵は岡部隊(歩兵第124連隊)への合流を目指して撤退するも、食糧皆無のため絶食状態の行軍を強いられる。過度の疲労と栄養失調、マラリア、アメーバ赤痢などのため死者続出
・この頃、北尾淳二郎少佐(歩兵第28連隊長代理、陸士45期)が水野少佐の後任として着任。岡部隊との合流後、熊大隊の残存将兵で1個中隊を編成し、糧秣の陸路輸送任務に従事
・10月20日 第2師団の総攻撃に際して、北尾少佐が指揮する一木支隊の残部100名が輜重隊に配属。総攻撃は失敗し、26日中止
・11月2日 米軍の反撃に際して、北尾部隊約70名が歩兵第4連隊に増援される
・その後、北尾部隊は海岸警備隊としてタサファロング付近に駐屯
・昭和18年1月21日 歩兵第28連隊長一木大佐の後任として、松田教寛大佐(陸士28期、陸大専科卒)がガダルカナル島に着任。一木支隊残存将兵の指揮を北尾少佐から引き継ぐ。このとき一木支隊の残存兵力は約300名で、その大部分は傷病兵。保有する残存兵器は、小銃56、擲弾筒2
・2月1日 ケ号作戦(撤退作戦)開始。第1次撤退成功
・2月4日 第2次撤退成功。第17軍司令部も撤退し、残留部隊約2,000名の総指揮を松田大佐が執ることになる。一木支隊残存将兵も、撤退支援のためガ島に送り込まれた矢野集成大隊(長:矢野桂二少佐)などとともに島に残り、敵を拒止
・2月7日 第3次撤退成功。松田大佐以下、一木支隊残存将兵も撤退
「噫思へば我歩兵第二十八聯隊は一木大佐に依り陸軍部隊として第一次に上陸し、今亦後任の予が最後の軍を収容し以て我聯隊歴史を飾れり」(松田大佐の手記より)
・一木支隊生還者は本土に帰還。第17軍参謀長・宮崎周一少将の記録によれば、一木支隊のガダルカナル島上陸人員は2,108名、島からの撤収人員は264名とされている


 なお、第3次撤退作戦実施の見通しが立たず、後衛部隊生還の可能性は低いと見られていた状況下で、一木支隊が最後までガ島に残された理由に関して、亀井宏「ガダルカナル戦記」には以下のような記述がある。

「(山本)中尉はさらに自説を敷衍して、「俺たち旧一木支隊は、軍旗を喪失しているから、こうやって見殺しにされるんだな」という感触をこの時点で持ったという。(中略)
 軍旗を喪失したために殿部隊として残されたのだとする先の山本中尉の指摘であるが、そういわれてみれば、後に述べるように、総後衛部隊の中核は、第二十八聯隊(松田部隊)以下第二十九聯隊、百二十四聯隊の生存者で構成されている。二十九聯隊の場合は、昭和十七年十月の総攻撃の章で詳述したように、聯隊長古宮大佐と共に軍旗を喪なってしまったし、百二十四聯隊の軍旗は、この時点ではまだ存在が危ぶまれていた」
(注:歩兵第124連隊の軍旗については、敵の包囲下で一度アウステン山の地中に埋められ、その後掘り出されて持ち帰られたことになっているが、状況には不明な点が多い)

 歩兵第28連隊(旭川)、第29連隊(会津若松)、第124連隊(福岡)は、いずれ劣らぬ精鋭部隊であり、ガ島でも、戦機に恵まれなかった面はあるにせよ勇戦敢闘している。彼らが、半ば見捨てられるような形で島に残留させられた事実からは、軍旗にまつわる旧軍の、行き過ぎと言うほかない峻厳さ・冷酷さを垣間見る思いがする。


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