2020年03月21日

ヌンホル島の戦いについて

 南太平洋に位置するニューギニア島の西北部に、太平洋戦争の激戦地として広く知られたビアク島という島がある。第36師団歩兵第222連隊(長:葛目直幸大佐)を基幹とする約1万名の日本軍ビアク島守備隊は、昭和19年5月27日に上陸してきた米軍を迎え撃ち、1か月以上にわたって善戦敢闘した。のちに葛目連隊長が軍旗を奉焼して自決した後も、生き残った将兵は島内で遊撃戦を展開し、終戦後に86名の残存将兵が救出されている。

 このビアク島と、西部ニューギニアの主要都市・マノクワリとの間に、ヌンホル島という小さな島がある。直径20km程度の、円型に近いこの島には、第35師団歩兵第219連隊第3大隊を中心に約3,000名の守備隊・軍属が派遣された。そして、ビアク島で葛目大佐が自決した7月2日に米軍上陸を迎え、やはり1か月以上にわたって戦闘を続けた後、8月18日に連隊長が軍旗を埋没して自決。残った将兵は少人数のグループに分かれて島内に展開し、終戦後に11名が救出されており、ビアク島守備隊とよく似た運命を辿っている。今回は、ビアク島の戦いの陰に隠れてほとんど知られていない、このヌンホル島の戦いに光を当ててみたい。

 なお、文中に掲載した地図は、濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」(1956年刊、著作権切れ。以下「濠北書」)から転載したものである。

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(ヌンホル島の位置。クリックで拡大)


1 西部ニューギニア「航空要塞」構想(昭和18年8月〜)
 昭和18年8月、日本軍は中部ソロモン諸島と東部ニューギニアのサラモア方面で制空権を失い、戦局は次第に劣勢に傾き始めていた。こうした状況を受けて大本営は、後方に新戦線を形成して、戦争遂行のために絶対に必要な圏域を確保する方針を固めつつあった。そしてその後方要線は、マリアナ、カロリン諸島、西部ニューギニアを結ぶ線とすることが考えられた(のち、9月30日の御前会議で「絶対国防圏」として決定)。

 そうした中で、日本本土と蘭印の資源地帯を結ぶシーレーンを守るための前線となる西部ニューギニアでは、ヘルビング湾方面を有力な防衛線とすることが構想された。8月中旬、濠北方面の防衛を担当する日本陸軍の第19軍は、軍参謀部附の柳恵治少佐に軍偵機で飛行場適地を偵察させ、さらに地上からの偵察も行った上で、ヘルビング湾に浮かぶ小島、ヌンホル島のカメリーに飛行場を造成することを決定した。軍としては当初、離島に飛行場を設定することは極力避ける考えだったが、ヘルビング湾方面に重層的に飛行場を整備し、この地区を強力な「航空要塞」とするためには、ニューギニア本島内だけでは飛行場が足りず、ヌンホル島やビアク島など飛行場適地に恵まれた湾内の離島を活用するほかないものと判断された。

 そして第19軍は、第5師団から抽出し、西部ニューギニアのベラウ湾南岸のサガで飛行場造成に従事していた鯉第1臨時飛行場設定隊(長:小田二三夫中尉。のち、第117野戦飛行場設定隊に改編)と、鯉第3臨時飛行場設定隊(長:三隅道夫中尉。のち、第119野戦飛行場設定隊に改編)、いずれも約50名の隊をヌンホル島に転用し、9月12日から飛行場の造成を開始した。11月中旬には、本土から派遣された第102野戦飛行場設定隊(長:森甚六少佐)も加わり、12月末には長さ1,200m、幅80mの滑走路が完成。翌19年1月2日に重爆機(第3飛行団長・塚田理喜智少将同乗)の試験着陸が行われた後、同月13日、飛行第5戦隊長高田勝重少佐が複戦5機を率いてカメリー飛行場に進出し、船団援護の基地として使用を開始した。

 さらに、西部ニューギニア全体で合計25個の飛行場を設定するとの方針の下で、ヌンホル島では1月下旬以降、カメリー飛行場の拡充工事を行うとともに、新たにルンボイ(ナンベル)飛行場の造成を開始。2月中旬にはエンブロー飛行場の整備にも着手し、さらにコロナリレンへの飛行場設定も構想された。設営隊員は、1台のブルドーザーもないまま、ジャングルの巨木を手斧で切り開き、リーフを鶴嘴で打ち砕く苦難の作業を続け、輸送量の不足により食事の定量も半減、マラリアも流行し、全員が体力を消耗し尽くしたという。そうした辛苦を経て、4月始めにカメリー飛行場の拡充工事が終了し、6月末にはルンボイ、エンブローの両飛行場も概成。さらに、エンブローからルンボイに至る自動車道路も完成するに至った。

 一方、1月2日に東部ニューギニアのグンビ岬に上陸し、第18軍の第20師団・第51師団を敵中に孤立させた米軍は、いわゆる飛び石作戦を採用し、ニューギニア島北岸を一気に西へ進もうとしていた。


2 米軍のホーランジア・ビアク来攻(昭和19年4〜5月)
 昭和19年4月22日、米軍は東部ニューギニアのマダン、ハンサ、ウエワク、ブーツを飛び越え、ニューギニア中部のホーランジアとアイタペに大挙上陸した。これに先立つ同月18〜20日にかけて、マノクワリとヌンホル島カメリー飛行場にもB24による空襲が行われた。こうした戦況の急変を受けて、第4航空軍司令部は、ハルマヘラ所在の飛行第13戦隊(一式戦)にヌンホル島への進出を命じ、4月23日、町田久雄戦隊長以下26機がカメリー飛行場に到着した。同日、早速B24が11機カメリーに来襲し、第13戦隊は14機で邀撃して2機撃墜を報じた。

 この頃、カメリー飛行場は、日本軍にとって重爆を使える最前線の飛行場となっていた。このためヌンホル島は、米軍のホーランジア上陸により孤立した東部ニューギニア方面への重爆による中継連絡(詳細はこちら参照)や、船団援護、ホーランジア方面への偵察等の基地として大いに活用された。しかし、米軍との交戦が続いて被害も甚大となり、6月上旬時点の第13戦隊の実働機は、わずか2〜3機まで落ち込む状態となった。

 また、大本営は5月2日、情勢の激変を踏まえ、西部ニューギニアにおいて確保すべき要域からサルミ・ビアクを除外し(大陸指第千九百七十三号)、さらに9日、マノクワリをも除外して、確保第一線をソロン、ハルマヘラの線まで後退させた(大陸指第千九百八十八号)。現地軍である第2方面軍、第4航空軍はこの方針にはなはだ不満だったが、17日、米軍がホーランジア西方のサルミに来攻しても、大本営は同地を前進陣地と見なし、既定の方針を変えることはなかった。

 しかし同月27日、米軍がビアク島に上陸すると、元々ヘルビング湾決戦論者だった堀場一雄大佐が高級参謀を務める南方軍は、ミンダナオ島ザンボアンガに待機中の海上機動第2旅団を、海軍艦艇によりビアク島に突入させる案を大本営に意見具申した。大本営陸軍部は、ビアクに兵力を投入しても同島の保持は時間の問題であり、「あ」号作戦にも悪影響を及ぼすおそれがあるとの判断により、この案に乗り気ではなかったが、海軍部は、なるべく長く同島を保持することにより、連合軍機動部隊を奥深く誘致する契機となるとの考えにより、突入案にむしろ積極的だった。こうした海軍の意向を踏まえて、いわゆる「渾作戦」の実施が決定された(のち中止)。また、積極主義をもって知られる第2方面軍司令官の阿南惟幾大将も、マノクワリの第2軍に対してビアク島への兵力増援を命じている。


3 歩兵第219連隊主力のヌンホル島進出(昭和19年6月)
 昭和18年9月に決定された絶対国防圏構想に沿って、西部ニューギニア方面には、北支から第35師団、第36師団の投入が予定された。このうち、同年11月に中支呉淞を出港した第36師団は、12月末に無事にサルミ・ビアクに到着できたが、翌19年4月に上海を出発した第35師団主力は、輸送途上で米潜の攻撃を受け、壊滅的な被害をこうむることとなった(いわゆる竹一船団)。

 これに対し、第35師団歩兵第219連隊(長:清水季貞大佐)は、師団主力に先んじる形で、3月27日に三池丸(11,738総トン)により青島を出港。横浜で東松5号船団に加わり、4月24日、第14師団将兵とともに無事パラオに到着した。その後、第1大隊をセントアンデレウ諸島守備隊として送り出した後、輸送船がないためしばらくパラオにて待機し、5月19日、重巡洋艦青葉、軽巡洋艦大井などに分乗してパラオを出発、翌20日にニューギニア島の西端ソロンに到着した。そして、大発に分乗してニューギニア北岸を夜間に東進し、一部被害を受けつつも、おおむね27日(米軍のビアク島上陸日)までにヌンホル島に到着した。

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(ヌンホル島の地図。クリックで拡大)

 冒頭に記したとおり、ヌンホル島は直径約20kmの円型に近い島で、外周は珊瑚礁に覆われていた。島の中央には約200mの高台があり、将兵はこれを「203高地」と呼んでいた。清水連隊長は島内の地形を偵察した上で、第2大隊(長:西原登一大尉)を島北部のカメリー飛行場に、第3大隊(長:西川隆興大尉)を島南西部のルンボイ地区に配置し、陣地構築を命じた。守備隊の本部は、両大隊の間に位置するカンサイに置かれた。

 一方この頃、ヌンホル島に隣接するビアク島では激戦が続いており、元々ヌンホル島に駐屯していた歩兵第222連隊第5中隊(長:引地一男大尉)や、マノクワリに所在していた歩兵第221連隊第2大隊(長:小澤久平大尉)などがビアク島に投入された。カメリー飛行場に布陣したばかりの歩兵第219連隊第2大隊にも、さらなる増援兵力として白羽の矢が立ち、6月14日夜、大発に分乗してビアク島へ送られていった。これによりヌンホル島の守備隊(ヌンホル支隊)は、以下の兵力で米軍の上陸を迎えることになった。

<ヌンホル支隊編成表(昭和19年6月30日)>
・支隊本部(歩兵第219連隊) 清水大佐 30名
・第3大隊本部  西川大尉  20名
   第9中隊   篠中尉 150名
   第10中隊 山後中尉 150名
   第12中隊 大塚中尉 150名
   第3機関銃中隊 児玉中尉 150名
  歩兵砲中隊  遠藤大尉 100名
  通信中隊   伊藤大尉  70名
  独立山砲兵第4連隊第6中隊 吉永中尉 100名
  野戦機関砲第41中隊 中山中尉 100名
  飛行場警備第36中隊  150名
・ビアク島転進予定の部隊(ヌンホル島待機中だったもの)
  第2大隊第6中隊(1小隊欠) 高橋中尉 100名
  西原大隊残員 20名
  小澤大隊残員ほか 10名
  引地隊残員 鎌田少尉 100名
(以上、戦闘部隊1,400名)

・師団通信無線1分隊 5名
・電信第24連隊の有線1小隊・無線1分隊 15名
・独立自動車第227中隊の1小隊 30名
・師団野戦病院 吉村軍医 20名
・建築勤務隊 30名
(以上、後方部隊100名)

・第102、117、119野戦飛行場設定隊
・第9台湾特設勤労団(注:台湾特設勤労団は、通例、内地人7名、台湾人1,000名により編成。第9勤労団は18年11月2日ヌンホル島着、飛行場造成に従事)
(以上、飛行場設定隊1,400名)

・船舶部隊(海軍第18警備隊) 約30名

以上合計 約3,000名
(注:以上は、歩兵第219連隊の部隊史である「目でみる聯隊」からの引用。ただし、戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」p503によれば、第47飛行場大隊の一部、第36飛行場中隊、第8航空情報隊及び第13野戦気象隊の一部もヌンホル島に所在しており、第102、117、119野戦飛行場設定隊と合わせて約600名だったとの記述がある)


 6月下旬に入ると、ヌンホル島に対する米軍の空爆が激化し、築城資材も届かない中で、陣地の構築はなかなか進捗しなかった。第2大隊の抽出により空白となったカメリー飛行場には、元々在島していた第102野戦飛行場設定隊がひとまず配置された。そして、7月2日に米軍が上陸したのは、まさにこの手薄なカメリー飛行場付近だった。


4 ヌンホル支隊の死闘(昭和19年7月)
 米軍は元々、ヌンホル島への上陸を予定していなかったが、昭和19年5月中旬、この方針は米軍の第5空軍の主張により変更された。すなわち、ヘルビング湾地区には十分な飛行部隊を展開させるための飛行場が不足していたが、ヌンホル島にはその適地が豊富にある、というのが第5空軍の見解だった。6月5日、マッカーサー将軍は、歩兵1個連隊で同島を攻略することを決定した。米軍は、日本軍の守備兵力を2,850名、そのうち戦闘員は1,600名と、ほぼ正確に推定していた。

 6月20日以降、米軍はカメリー飛行場に対して総計約810トンの爆弾を投下した。ヌンホル支隊では、野戦機関砲第41中隊が連日孤軍奮闘し、感状を三度授与される活躍を見せたが、戦況を覆すには至らなかった。そして、サルミ東方40kmのトエムで上陸訓練を積んでいた、エドウィン・D・パトリック准将率いる7,414名の米軍上陸部隊(第158連隊戦闘団基幹)は、6月29日に同地を出発し、7月2日午前6時半にカメリー沖に到着、艦砲射撃ののち上陸を開始した。ヌンホル支隊は、カメリー飛行場に配置されていた第102野戦飛行場設定隊が迎撃したが、水陸両用戦車を伴う優勢な米軍を拒止することはできなかった。

 2日午後、米軍の上陸はカメリー地区のみと判断した清水支隊長は、ルンボイ地区守備の西川大隊(吉永山砲中隊含む)をカメリーに招致するとともに、各地に分散している兵についても、日本人と名の付くものは全てカンサイの支隊本部に集結するよう命令を下した。元々清水支隊長は、敵を上陸させた後、橋頭堡が完成されないその日の夜襲戦で一挙に敵を粉砕する作戦計画を持っていたが、ルンボイからカンサイに至る一本の道路は敵機と艦砲射撃により執拗に攻撃され、西川大隊の将兵が損害を出しつつカンサイに到着したのは、翌日の明け方だった。

 7月3日になると、ようやく清水支隊長の下に続々と兵が集まってきた。一方、初日に得た日本軍捕虜から「ヌンホル島の日本軍は3,500〜5,000名」と聞かされていた米軍は、予備兵力としていた第503空挺連隊の将兵1,424名を、3日と4日に分けてカメリー飛行場に降下させた(捕虜の言葉が意図的な虚言なのか、単純に本人が混乱していたためなのかは不明の模様。なお、米軍は6日にルンボイにも上陸)。飛行場守備に当たっていた第36飛行場中隊は必死に防戦したが、兵力と装備の差は如何ともしがたく、3日午後に各施設やガソリンに火を放ち、炎の中で最後の一兵まで戦い続けて玉砕した。4日午前0時以降、日本軍は3時間に渡り夜襲を繰り返したが、遂に成功に至らず攻撃は中止された。

 7月4日も、米軍の砲爆撃は相変わらず激しく続いた。ヌンホル支隊では、その後も支隊長の下に集まってきていた兵を加え、今夜こそ敵の橋頭堡を覆さんと夜襲の準備を進めていた。ところが19時半頃、敵砲弾の飛来により、第3大隊長西川大尉、第10中隊長山後中尉らの将校が一瞬で戦死する悲劇的な事態が発生した。これを受けて、当時たまたまヌンホル島に来訪していた第2軍司令部情報班の小森正夫少佐が、夜襲部隊を率いることを申し出た。夜襲に出た小森部隊は突撃に突撃を繰り返し、ようやく第一線を突破したが、やがて天明を迎え、再び敵の猛砲火を受けて後退せざるを得なくなった。なお、第12中隊は第一線を突破した後、連隊一の鬼隊長と呼ばれた大塚中隊長を先頭に、中隊一丸となって万歳突撃を敢行し、敵の心胆を寒からしめたという。

 7月5日になり、戦闘部隊の大半を失った清水支隊長は、ついに最後の段階が来たことを悟った。この日は支隊の総力を挙げて夜襲を行い、後方部隊も銃を執れる者は第一線要員とし、支隊長自ら指揮して敵陣に突入、玉砕する覚悟を固めた。午後9時、マノクワリの第35師団司令部に最後の訣別電報を発したところ、すぐに以下の返電があった。

「連日ノ奮斗ニ対シ深甚ノ敬意ヲ表ス。ヌンホル支隊ハ決戦ヲ避ケ、ヌンホル島ニ持久健在シ、遊撃戦ニヨリ敵戦力ノ消滅ヲ企図スベシ」

 この命令を受けて清水支隊長は最後の突撃を中止し、残存将兵に対して、島内部の203高地に集結するよう命令した。


5 軍旗埋没・連隊長自決(昭和19年8月)
 7月7日、203高地に集結した支隊残存将兵は、敵の攻撃を受けて島西南の密林地帯に移動を開始した。この頃、清水支隊長が掌握した部下は、後方要員を中心に約500名だったという。その後、支隊は食糧確保のため、農園があると言われた島東南のイナシ方面に移動したが、敵の攻撃を繰り返し受け続けた。極端な栄養失調に苦しみつつ、8月18日にイナシの入江近くの湿地帯に辿り着いた時には、残存将兵は支隊長以下100名足らずに減少していた。

 そしてこの8月18日、清水大佐は、もはや支隊としてのまとまった行動は不可能であることを見定め、軍旗の奉焼を決意した。しかし、支隊には既に一本のマッチすらない状態となっており、やむを得ず将兵は湿地帯に深く穴を掘り、軍旗を埋没処理した。ヌンホル支隊の奇跡的な生還者の一人である藤井清氏(歩兵第219連隊通信隊員)は、濠北書所収の手記の中で、この時の模様を以下のように綴っている(なお、原文を現代仮名遣いに改めた)。

「…やがて軍旗は清水大佐の手により厳に埋葬された。終わって清水大佐は部下全員を身近に集め、静かに諭した。

『もはや時が来た。最後まで軍旗を守り抜いた事がせめてもの慰めである。軍旗をこの地に埋葬し、余は死して鬼神となり、軍旗のお供をする。皆はこの苦しい戦に、良く最後まで奮闘してくれた。何も悔を残すところは無い。自分が自決しても、決して自分の跡を追う事は許さない。必ず生き延びて、もう一度陛下のお役に立つよう心から願うものである』

と諄々とさとす言葉は神の声の如く、慈愛に満ちた父の如く、我々の胸を抉った。語り終わった清水大佐の面差の上には今までの苦悩の色もいつしか消え、部下将兵に会釈を送りつつ、只一人静かに灌木の林の中に消えて行った。やがて朝靄をやぶるピストルの銃声一発、従容として南国の鬼と化した。後に残された者は連隊長の冥福を祈り、いつまでも深くうなだれていた。やがて遠藤大尉(注:大隊長代理)は、

『我々は連隊長の命を守って生きぬくべきである。これからは全員一緒に行動する事は、敵の目にもつき危険であるから、これにて一応部隊の編成を解く。二人でも三人でも気の合った者同志で行動し、各自自重して、決して生命を無駄にする事のないように』

 聞き終っても誰一人として立上る者とてない。二度、三度と促され、やっと二組、三組が立ち上った。『隊長殿お元気で…』『お前にも随分世話になったな、元気で暮してくれよ』手を取り合って泣いた。共に何度も死線を越えた仲である。声はつまり、いつしか烈しい嗚咽となった。誰しもこの時ばかりは共に自決したかった。おそらく連隊長の制止がなければ全員が跡を追って自決して行った事であろう。

 別れ別れになってからは敵に発見されぬようジャングルに潜み、すきを見ては農園に出て食糧をあさった。しかしこれも永続きはせず、敵弾に、あるいは病に、栄養失調にと倒れ、又は敵軍に捕えられる者、毎日のように二人、三人と消えて行った。かくして終戦当時生き残っていた者は僅か11人であった」

 なお、支隊将兵の戦没日は、夜襲の行われた7月4日か、この8月18日で認定されている例が多いようである。


6 支隊解散後(昭和19年8月〜)
 8月18日にヌンホル支隊が解散した後も、ヌンホル島に関わる動きはいくつかあった。簡単な概要のみ、以下に列挙する。

(1)ヌンホル島からの脱出
 7月22日、ヌンホル島の清水支隊長は、戦況をマノクワリの上級司令部に報告するため、挺進連絡班として下士官以下9名に脱出を命じた。彼らのうち3名は、敵の警戒網をくぐり抜けて海岸に到達し、筏を作り島を脱出。その中の1名である加藤兵長のみが、出発後約40日の9月2日に、マノクワリ南方10kmの海岸に奇跡的に漂着した。加藤兵長はマノクワリ司令部に、「軍旗を奉持するヌンホル支隊長以下約500名はカメリー東南方高地附近にありて健闘しあり」と報告したが、この時点で既に、支隊は解散していた。

 また、マノクワリ〜ヌンホル島〜ビアク島間の舟艇輸送に携わり、米軍のヌンホル島上陸時に島に滞在していた第5揚陸隊の将兵の一部が、敵機の厳しい哨戒を突破し、マノクワリへの帰還に成功している(7/12に大発にて13名、7/25に折畳舟にて5名が帰還)。


(2)上級司令部の動き
 7月2日の米軍ヌンホル島上陸を受けて、ヌンホル島から目と鼻の先にあるマノクワリの第2軍司令官は、同月4日に空路で南方ムミへ脱出、次いで舟艇でイドレへ移動した。取り残された第2軍後方部隊は、陸路にてマノクワリからイドレを目指し、いわゆる「イドレ死の行軍」を引き起こした。

 また、マノクワリには、第2方面軍附の深堀游亀少将がマノクワリ支隊長として残留し、歩兵第221連隊主力、独立山砲兵第4連隊主力、独立工兵第15連隊主力などの多様な部隊を統括した。その中から、「南の島に雪が降る」で知られるマノクワリ歌舞伎座が生まれることとなった。


(3)挺進連絡隊の派遣
 米軍上陸5日後にヌンホル島との通信が途絶え、支隊の現況が不明となったため、8月上旬頃、第2軍司令官はマノクワリ支隊長に対して、ヌンホル島への決死挺進連絡隊の派遣を命令した。これを受けてマノクワリ支隊では、ヌンホル島周辺の海路を熟知していた第14師団海上輸送隊の鈴木雄二中尉を隊長とし、第5揚陸隊の大発乗組員4名、歩兵第219連隊所属の歩兵11名、通信兵4名、衛生兵1名、第36師団海上輸送隊兵1名、第14師団海上輸送隊兵2名、合計24名(大発1隻)からなる挺進連絡隊を編成した。

 この挺進連絡隊は、8月29日に夜陰に乗じてマノクワリを出発、付近のミオスヌム島に仮泊し、偵察機や魚雷艇に細心の警戒を行いつつ好機を待った。そして10月11日、出発以来初めての雨天を利用してミオスヌム島を出発(通信隊は残置)、翌日未明にヌンホル島のバウエ湾入口で大発艇長以下7名を帰し、鈴木隊長以下12名は大発に搭載していた折畳舟でイナシ北方に上陸。密林内を進み、203高地やカメリー飛行場南部を捜索した結果、上陸3日目に兵8名と遭遇し、支隊長が軍旗に殉じたことを聴取。19日にヌンホル島を折畳舟で出発、ミオスヌム島で通信兵ら5名を回収し、出発から丸2か月を経た11月2日にマノクワリに帰還、第2軍司令官から賞詞を受けた。敵の制海権・制空権下で、敵が占領する島への潜入に成功し、連絡任務を果たして生還したことは、ほとんど奇跡に近い出来事と言ってよいであろう。なお、同時期にビアク島にも同様の挺進連絡隊が派遣されたが、こちらは未帰還となっている。


(4)日本軍機の攻撃
 7月8日、米軍は早くもカメリー飛行場の使用を開始した。同日夜、飛行第75戦隊はカメリー付近の海岸に停泊中の艦船群を2機で爆撃し、輸送船1隻に命中弾を、別の艦艇1隻に至近弾を与えた。しかし、その後のヌンホル支隊の状況が不明であったため、第7飛行師団はひとまずヌンホル島への攻撃を中止した。

 8月に入り、第7飛行師団は、ヘルビング湾に蝟集する敵軍機を再び攻撃することとした。8月4日夜、飛行第75戦隊は双軽延べ6機をもってビアク・ヌンホルを攻撃し、ヌンホル島カメリー飛行場ではP38を10機以上撃破した旨報じた。また8日、飛行第61戦隊の百式重爆1機がヌンホル島のナンベル飛行場を爆撃し、夜間戦闘機1機の撃墜を報じた。

 さらに9月、第7飛行師団は、重爆9機からなる「雁部隊」の編成を命じた。これは、ヘルビング湾に対する夜間の遠距離攻撃を行い、米軍の比島進攻準備を妨害する目的で臨時編成した部隊であり、飛行機は飛行第12戦隊から九七重爆9機を、要員は第12戦隊から4機分、第62戦隊から5機分を抽出し、部隊長には第62戦隊第2中隊長の伊藤忠吾大尉が選ばれた。部隊要員は10月1日にセレベス島ビンランに進出して第7飛行師団長の指揮下に入り、同月9日、同師団の吉満作戦主任参謀を乗せてカイ諸島ラングールに進出。同日24時にラングールを出発、攻撃目標のヌンホル島近くで編隊を解き、単機ごとに緩降下して飛行場を爆撃。奇襲は成功し、2か所炎上を報じた後、全機カイ諸島経由でティモール島のラウテンに退避し、のちビンランに帰還した。

 そして数日後、今度はビアク島に対して第二回攻撃を行う予定だったが、ニューギニア山系付近の天候が悪く、攻撃隊は反転帰還した。奇襲を旨とするこの攻撃は以後慎重に検討され、結局、雁部隊の攻撃はヌンホル島への1回だけで終わることとなった。


(5)終戦後
 終戦後の昭和20年9月、マノクワリ支隊はヌンホル島とビアク島に捜索隊を派遣し、生存将兵の捜索に努めた。その結果、ヌンホル島では軍曹以下11名の生存将兵を発見した。「目でみる聯隊」と「轍 歩兵第二百十九聯隊外史」、そして濠北書の3冊に、これら11名のうち3名の生存将兵の手記が掲載されており、救出までの飢餓生活などについて綴られている。また、米軍側の記録によれば、ヌンホル島ではこの他に186名の日本軍捕虜と、550名以上の台湾人労務者が収容されたという。


7 おわりに
 隣接するビアク島の戦いが有名なためか、ヌンホル島の戦いは、これまで振り返られる機会がほとんどなかったように思われる。守備兵力も少なく、陣地構築の余裕もない戦いだったため、ヌンホル支隊が米軍に与えた打撃は必ずしも大きくはなかったが、本稿に示したとおり支隊は清水大佐以下よく団結し、優勢な敵を相手に立派に敢闘している。この島で戦没した多数の将兵のためにも、こうした戦いがあったことは、歴史の中に明記されて然るべきであろう。


<参考文献>
・斎藤貞二編「目でみる聯隊」(非売品、1981年)
・「轍」編集委員会編「轍 歩兵第二百十九聯隊外史」(非売品、1987年)
・第五揚陸隊戦史編集委員会編「暁 濠北派遣(西部ニューギニア)第五揚陸隊戦史」(非売品、1984年)
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」(非売品、1956年)
・田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍」(ゆまに書房、2009年)
・戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」(朝雲新聞社、1969年)
・戦史叢書「豪北方面陸軍作戦」(朝雲新聞社、1969年)
・Smith, Robert Ross (1953) "Operations on Noemfoor Island"


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2019年11月10日

牧野四郎中将(第16師団長)はカンギポット山へ辿り着いたか

 昭和19年10月の米軍上陸から翌20年8月の終戦まで、フィリピン戦線のレイテ島で、太平洋戦争の天王山と呼ばれた激戦が行われた。この戦いには日本軍将兵84,006名が投入されたものの、敗軍の多くは島から撤退することができず、ほとんど玉砕に近い結末を迎えている。

 このレイテ島の戦いに参加した師団の一つに、京都編成の第16師団がある。昭和19年10月20日に米軍がレイテ島に上陸した際、第16師団は島の東岸のタクロバン付近でこれを迎え撃ったものの、2名の歩兵連隊長が戦死するなど甚大な損害を受けている。その後、師団は島の内陸へ後退し、12月には和号作戦(ブラウエン飛行場への攻撃作戦)に参加。20年1月以降は飢餓に苦しみつつ島中央部の脊梁山脈を転進し、島の西端のカンギポット山を目指したと言われているが、生還者が極端に少ないため、終末期の師団の模様についてはよく分かっていない。

 そして、第16師団を率いた牧野四郎中将についても、その最期の状況は不明のままである。戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」には、牧野中将は昭和20年3月下旬にカンギポット山に到着し、8月10日頃自決したとする記述があり、また、中将の遺族の元には7月15日付の戦死公報が届けられている。しかし、牧野中将のご子息である牧野弘道氏(元・産経新聞編集委員)によれば、前者は「確認された事実に基づく記述ではない」、後者は「命日がどうしても特定できないので、諸情報を総合して7月15日とされたもの」として、いずれも信用に足らない情報と見なしている。捕虜になって生還した第16師団の将兵の中にも、「牧野中将がカンギポット山に辿り着いたとは思えない」と主張する人もおり、もはや正確な事実関係を掴み得ないのが実情である。

 今回は、第16師団の数少ない生還者の証言を踏まえつつ、昭和20年の牧野中将の動向に関する手掛かりを、できる限り追いかけてみたい。


1 中嶋建之助上等兵(歩兵第9連隊通信中隊)の証言
 中嶋氏は、第16師団のカンギポット山への転進途中に落伍し、昭和20年2月23日にイピル南方で捕虜となった人物である。戦後は戦友会関係の活動を積極的に行い、様々な書籍に多くの証言を残している。和号作戦以降の第16師団の行動経過について、中嶋氏は以下のように記録している。

・昭和19年12月11日 和号作戦中止後、第16師団はブラウエン西北方のマフナグ山(1,349m)に後退。第35軍司令部からカンギポット山への集結命令が伝わらなかったため、師団はその後1か月に渡り、マフナグ山付近で露営生活を送る。この頃、師団の総兵力は約600名。飢餓や悪疫のため、衰弱死する者が続出
・12月28日 第35軍参謀の高橋公平少佐の証言によれば、この日、高橋参謀がマフナグ山南方の287高地で牧野中将に会ったとされているが、中嶋上等兵は「牧野師団長が287高地に赴いた事実はない」としてこれを否定
・昭和20年1月 牧野中将は独断でオルモックへの転進を決意
・1月初旬 第1梯団(師団情報参謀の宮田中佐を長とする、歩兵第33連隊第7中隊長出口大尉以下の約30名)がマフナグ山を出発
・1月10日 第2梯団(牧野師団長以下約300名)がマフナグ山を出発
・1月15日 第3梯団(歩兵第9連隊長神谷保孝大佐以下117名。中嶋上等兵含む)がマフナグ山を出発。なお、戦史叢書では、神谷連隊長は「12月8日ブラウエン飛行場で戦死」と認定されているが、この1月時点で神谷連隊長が生存していたことは、複数の生還者の証言から確実と見られる
・1月中旬 第1梯団はオルモックの東のダナオ湖南方に到着
・1月中〜下旬頃? 第2梯団はダナオ湖を迂回して北上。「師団司令部はほとんどばらばらになっていた」「牧野中将は、オルモック高地付近で手製のカゴに乗っていた」という生還者の証言がある模様
・1月下旬 第3梯団はダナオ湖南方に到着。転進路はいわゆる「白骨街道」の様相を呈しており、梯団の残存将兵は約80名に減少。神谷連隊長も衰弱が目立つ。
 この頃中嶋上等兵は、50日も前にオルモックが米軍に占領され、軍司令官以下多くの部隊が島の北部に退却を終えている事実を初めて知り驚愕。今後の転進に耐える自信を失い、部隊から落伍
・2月中旬 各所で米軍の攻撃を受けつつ北上していた第2梯団は、この頃、バレンシアとカナンガの中間でオルモック街道の突破を図った模様
・2月23日 中嶋上等兵は、イピル南方カオントグ付近でゲリラに捕えられる

 中嶋氏は、生還した関係者の話などを総合した結論として、3個梯団はいずれもカンギポット山に辿り着く前に全滅し、牧野師団長はバレンシア付近で、神谷連隊長はダナオ湖東方で戦死したものと推定している。なお、転進中に行き倒れ、米軍に収容されて生還した将兵が、第1梯団に1名、第2梯団に7名、第3梯団に5名いたとのことである。


2 櫟(いちい)賢哲少尉(第16師団司令部参謀部付)の証言
 櫟少尉は滋賀県の寺の僧侶で旧制大阪外国語学校の出身であり、英語ができたため参謀部付になった人物である。米軍のレイテ上陸後、相次ぐ前線指揮官の戦死により牧野中将の歴代副官がその後任に補充されたことから、第16師団がマフナグ山付近に到着した後、櫟少尉が牧野中将の副官に登用されている。

 戦後、櫟少尉が残した記録によれば、転進命令が伝わらないままマフナグ山付近にとどまっていた第16師団は、牧野中将の決断で昭和20年1月15日に転進を開始。2月上旬頃、第2梯団と第3梯団は合流しており、歩兵第9連隊の連隊旗手がこの頃戦死したため、師団司令部から代わりの将校を出したという。その後、体力が尽きて落伍した櫟少尉は、2月17日、意識朦朧となってオルモック街道付近をさまよううちに米軍の捕虜となっている。


3 加瀬弥五郎伍長(第16師団経理部)の証言
 牧野中将の子息である牧野弘道氏は、自著の中で、「私にとって間違いなく父が生きていたというあかしは、父の副官だった櫟少尉が落後してオルモック街道で捕虜になった日を手記に記録した二十年二月十七日までで、それ以降は信頼するに足る情報はほとんどない」と述べている。

 しかし、昭和20年7月頃にカンギポット山付近で牧野中将を目撃したとする証言が、平成7年になって明らかにされている。その証言を残した加瀬弥五郎伍長は、第16師団経理部所属で教育隊の班長を務めていた人物であり、米軍上陸前は、タクロバン市内で各部隊から派遣された幹部候補生十余名と起居を共にしていた。昭和19年10月20日の米軍上陸時には、北川支隊(師団後方参謀の北川少佐を長とする、師団軍医部、経理部、病馬廠など後方勤務の将兵により臨時編成された混成部隊)の分隊長として米軍を迎撃。激戦の結果、支隊将兵は20〜21日の2日間で200名から50名以下に激減している。

 その後、加瀬伍長は米軍とゲリラを相手に悲惨な戦闘を続け、昭和20年7月頃にカンギポット山に到着。牧野師団長ら本部将校と行動を共にしていたという、経理部の同僚の川田伍長を同地で見かけるが、伍長は声をかけても返事ができないほど衰弱していた。そしてその近くでは、牧野師団長が数人の兵隊に支えられていた、との証言を残している。加瀬伍長はそのままカンギポット山で終戦を迎え、生還している。

 余談ながら、第16師団の兵士がカンギポット山付近で終戦を迎えた事例は他にもある。歩兵第33連隊第1大隊の屋敷伍美氏は、昭和20年6月頃にカンギポット山に到着。3〜5名のグループで食糧を探して海岸のビリヤバ方面へ移動するうちに終戦を知り、米軍に投降している。なお、屋敷氏は、第1大隊長の鎌田義信大尉(戦死公報は昭和19年10月21日付、パロ付近)をカンギポット山で目撃しており、鎌田大尉と屋敷氏の班長が交わした会話の内容も記憶している。先の神谷連隊長もそうだが、レイテ戦で早い時期に戦死認定が出されている人物が、実際はその後も生きていた、というケースは少なからずあるようである。


4 東嶋登大尉(第26師団独立歩兵第12連隊副官)の証言
 直接の目撃証言ではないが、第26師団から生還した東嶋登大尉が、昭和20年7月頃に牧野中将がカンギポット山付近に所在していたことを窺わせる証言を残している。

 東嶋大尉によれば、昭和20年7月6日、第26師団の生き残り19名は、師団の最後を報告するため、栗栖猛夫師団長以下3名はレイテの軍司令部(南部カルブゴス山の牧野中将)へ、加藤芳寿参謀長以下7名はセブの軍司令部(第35軍)へ、東嶋大尉以下9名はルソン島の方面軍司令部へ向かうこととした。これを踏まえれば、この時点の第26師団の生存者は、当時牧野中将が南部カルブゴス山に存在していることを認識していたことになる。栗栖師団長が牧野中将の元へ辿り着けたかどうかは不明である。


5 まとめ
 昭和20年の牧野中将、特に2月から6月頃にかけての中将の動向に関する証言はほとんど欠落しており、もはや解明することは困難と考えざるを得ない。しかし、以上の3と4の証言を合わせて考慮すれば、昭和20年7月頃に牧野中将がカンギポット山付近で生存していたことを推測させる証言は複数存在しており、生存の蓋然性は一定程度あると見て良いのではないかと思われる。
 いずれにせよ、第16師団も、レイテ島の戦いに参加した他の部隊と同様、その最後の模様は明らかでない。1個師団の終末すら不明という事実に、この戦場の悲惨さが如実に表れていると言えるだろう。


<参考文献>
・中島建之助「レイテの挽歌」(ビサヤ会)
・牧野弘道「戦跡に祈る」(産経新聞社)
・筒井忠勝「レイテ生き残り記」(同時代社)
・小橋博史「レイテ涙雨」(中日新聞社)
・田中賢一「レイテ作戦の記録」(原書房)
・大岡昇平「レイテ戦記」(中公文庫)
・戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」(朝雲新聞社)


(2020.1.19追記)
 「陸軍公主嶺学校と星兵団」(星兵団戦友会編)という本に、
「カンギポット周辺の軍主力(中自活隊)は、三月下旬頃から逐次カルブゴス方向に移動を始め、牧野中将も10名内外の将兵とともに同方面に移動した」
との記述があった。この記述の根拠となった証言が何であるかは不明だが、他の文献等に出てこない情報であるため追記しておく。


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2019年06月09日

ニューギニア戦線・ウエワクの第18軍への空中輸送について

 太平洋戦争のニューギニア戦線では、昭和19年4月22日の米軍のアイタペ・ホーランジア(現ジャヤプラ)上陸により、西進中の日本陸軍の第18軍は退路を断たれ、東部ニューギニアのウエワク付近(地図はこちらを参照)に孤立することとなった。そして、食糧や武器弾薬の補給が途絶した状況の下で、終戦まで多数の餓死者を出しつつ、劣悪な装備で連合軍への抵抗を続けたのだった。

 こうした中で、昭和19年5月以降、ウエワクに対する連絡飛行(緊急物資の空輸)が計4回試みられ、その全てが成功している。今回は、敵の制空権下におけるこれらの空中輸送について、概要をまとめてみたい。

1 昭和19年5月(第1回、第2回)
 米軍の飛び石作戦によりウエワクから西へ進むことができなくなった第18軍は、昭和19年5月7日、メナド所在の第4航空軍に対して、ウエワクに対する連絡飛行と、まもなく進攻することになるアイタペ付近の空中写真偵察を要望した。このうち空中写真の撮影は、司偵戦力の枯渇や制空権の状況から不可能だったが、空中勤務者が取り残されていたウエワクへの飛行については、第4航空軍としても積極的に対応することとした。

 そして第4航空軍は、この連絡飛行を、重爆が使用できる最前線の飛行場であるヌンホル島(地図はこちら)のカメリーから行うことに決定した。カメリーからウエワクへの直線距離は約1,100kmだが、ホーランジアのはるか北を迂回して飛行するため、実質的な飛行距離は約1,400kmと見込まれた。

@5月14日(第1回)
 第1回飛行は、飛行第61戦隊の鈴木正典大尉(陸士52期)を機長とする百式重爆1機により行われた。この飛行は大きな問題もなく、軍需品(特に乾電池)、衛生材料(特にマラリア剤)をウエワクに輸送することに成功し、ウエワクからは操縦者8名(将校4名、下士官4名)を連れ帰った。

A5月15日(第2回)
 第2回飛行は、飛行第61戦隊の宮澤敏男大尉(陸士50期)を機長とし、第1回とほぼ同様のやり方で、ウエワクへの軍需品の輸送を成功させた。しかし、肝を冷やす事件が発生したのは帰路だった。第18軍参謀の小幡一喜中佐(陸士35期・陸大47期、工兵)と、空中勤務者6名(将校2名、下士官4名)を乗せた宮澤機はウエワクを出発するが、ホーランジアの北方300km付近を飛行しているところを連合軍の戦闘機に触接されてしまう。いよいよとなれば海中に突っ込み、玉砕することなどを機中で話していると、敵機が翼灯を点滅したので、こちらもそれに合わせて翼灯を点滅。すると敵機は旋回して去り、宮澤機は九死に一生を得る結果となった。

 その後、メナドに到着した小幡参謀は、阿南大将以下の第2方面軍幹部と第4航空軍幹部に対して、第18軍の現状、特にアイタペ攻勢計画について詳しく説明し、以後の支援の約束を得た。ところが5月17日、連合軍がサルミとワクデに、また27日はビアクにも上陸し、ヘルヴィング湾方面からのウエワク連絡飛行は中止に追い込まれることになった。カメリー飛行場のあるヌンホル島にも7月2日に米軍が上陸し、歩兵第219連隊長の清水季貞大佐以下の守備隊が抗戦するも衆寡敵せず、8月中〜下旬頃に軍旗を埋没、清水大佐が自決して遊撃戦に移行している(終戦時の生存者11名)。

 それでも小幡参謀は第18軍への復帰を熱望し、パラオに移動してウエワク行きの潜水艦を待ったが、6月中旬の連合軍のマリアナ来攻により、5月27日にウエワクに入港した呂115号を最後に東部ニューギニアへの潜水艦輸送は途絶した。その後、小幡参謀は第35軍に転属となり、レイテ島の戦いからも生還。第16軍司令部附で終戦を迎えたようである。


2 昭和19年9月(第3回)
 アイタペ攻勢の敢闘を目の当たりにした南方軍は、7月27日、第18軍に対して、ウエワクへの空中連絡の可否を照会した。これに対して第18軍は、ウエワクの飛行場補修には2,000人/日の労力を要するとし、アイタペ作戦中であることも踏まえて空輸を辞退した。その代わりに第18軍は潜水艦輸送を要望したが、これは実現しなかった。

 そしてアイタペ作戦が中止となった後、南方軍は第4航空軍に対してウエワクへの連絡飛行を指導し、結局、第7飛行団(ボルネオ島アピ所在)の飛行第62戦隊がこれを実行することになった。百式重爆の第62戦隊は、この連絡飛行に当たり、発動機に信頼性の高い九七式重爆の使用を希望したため、第12戦隊から九七重U型1機の機材が62戦隊に貸与され、作戦に使用された。また、ウエワクへの経路は、当時使用可能だったニューギニア島西南方のカイ諸島(この周辺の諸島は、マレー作戦で活躍した第5師団が移駐・守備していた)の飛行場を出発し、ヘルヴィング湾上に出て、脊梁山系の北麓沿いに飛行し、ウエワクまで約1,500kmの航路を取ることが予定された。

 9月7日午後11時頃、62戦隊の児玉邦芳中尉(陸士55期)が機長を務める九七式重爆は、衛生材料、通信消耗品、現地自活用の種子、激励慰問の手紙などを搭載し、カイ諸島ラングールの飛行場を出発した。敵の制空権下で、灯りを全て消してウエワクへ飛行し、翌8日午前4時50分頃、隠密に補修を完了していたウエワク飛行場に無事着陸。迅速に物資を積み下ろしたが、着陸20分後に来襲した敵機の対地攻撃で機体は大破し、児玉機乗員の6名は帰還のすべを失ってしまう。結局、彼らは第18軍司令部付となってそのままニューギニアに残留し、原住民と自活しつつ終戦を迎えている。

 この児玉機の飛来については、迎えた側の第18軍将兵の手記にもいくつかの記述が散見される。例えば、第41師団参謀部付だった星野一雄大尉は、以下のような記録を書き残している。

「その頃、米軍機の活動がとみに活発になり、それも戦闘機の編隊がしばしば見られた。(中略)これは後日判明したことだが、薬品や無線用電池などといった緊要なものを、友軍機が単機でチモールの方から緊急輸送してきたことによるものであった。この機は着陸と同時に米軍機の攻撃を受けて機体は大破してしまったが、目的物は無事着いた由であった。しかしその搭乗員の方は、気の毒にもニューギニアに閉じこめられて、私たちと運命をともにすることになった」

 また、児玉機の操縦士だった高木茂氏が、この飛行に関する詳しい手記を残している(こちら参照。日付等の記録については、戦史叢書と若干の相違あり)。本手記によれば、連絡飛行という危険な任務に就き、ニューギニアに取り残される羽目になった児玉機乗員は生きて終戦を迎えられたものの、安全だったはずの第7飛行団本隊に残った者は、その後のレイテ戦などで大部分が戦死したとのことである。数奇な運命と言うほかない。


3 昭和20年1〜2月(第4回)
 昭和19年11月下旬、第18軍は兵器、真空管、雷管、薬品などの潜水艦輸送を要請し、南方軍や大本営は海軍側に交渉したが、レイテ決戦中のためその余裕はなかった。しかし、第18軍の窮状を察した南方軍は、せめて緊急軍需品だけでも空路輸送することを意図し、第4航空軍にこれを指示した。そして、飛行第14戦隊の武市茂二中尉(陸士55期)に、この困難な任務が命ぜられたのだった。

 今回の飛行も、前年9月の児玉機の飛行と同じく九七式重爆を用い、アル諸島(戦史叢書には「カイ諸島」とあるが、誤記か)のドボからウエワクを目指すことになった。ただし、ウエワクは既に連合軍機の厳重な監視下にあり、また第18軍にも滑走路整備の余力がなかったため、武市機は初めからウエワク近郊のオーム岬に胴体着陸を行うことを予定していた。昭和20年1月上旬、数回の飛行を天候に妨げられた武市機は、月齢の関係もあって一度ジャワに引き揚げた後、1月末に作戦を再開。2月1日未明、オーム岬への胴体着陸に成功している。

 なお、この武市機をウエワクで迎えた第51師団歩兵第66連隊の飯塚栄地軍曹は、その感激を以下のように記している。

「昭和20年の2月爆撃機一機がマラリアの特効薬であるキニーネと、無線機に必要な乾電池、自活に必要なトーモロコシの種をつみ、遠いボルネオから運んできた。しかもこの飛行機はウエワクに胴体着陸をしたのであった。私たちはその前日と当日の夜、飛行場の爆弾穴を埋める使役に駆りだされた。日本の飛行機がくるのだという。果してうまく撃墜を免れて無事に到着するであろうか。かたずを呑んで待っていると、午前一時ごろ爆音が響いてきた。日本機がきたのだ。日本機だ。われわれは胸が抉られるような喜びと、形容し難い感激で、ぼうぜんとし、声もでなかった。飛行機が着陸して、ホッとわれにかえった兵士たちはバラバラとかけ寄り、敢て死地に飛込んできた飛行士に対し、感激のことばをいくどもいくどもあびせるのだった」

 長く東部ニューギニアに孤立した状態に置かれていた第18軍の将兵が、日本軍機の飛来をどのような感情で受け止めたかを、ありありと示した文章であろう。その後、武市中尉らも、終戦までニューギニアで地上戦闘任務に就いている。


4 まとめ
 以上1〜3のウエワクへの連絡飛行は、いずれも敵の制空権下で、重爆撃機単機により行われたものである。特に、2〜3は夜間飛行、3は胴体着陸によりウエワクに無事到着しており、日本軍操縦士の技量の高さを示す見事な成功例だったと言うべきだろう。
 これらの空輸により補給を受けた第18軍は、玉砕寸前の状態に追い込まれながらも、終戦まで上級司令部との連絡を維持することができた。そして、約1万名強の将兵が生きて終戦を迎えたのだった。


<参考文献>
・戦史叢書「東部ニューギニア方面陸軍航空作戦」pp662〜663
・戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」pp527、568〜569、658
・高木茂「ニューギニアへの緊急空輸と現地生活」(平和祈念展示資料館ウェブサイト)
・ラバウル・ニューギニア陸軍航空部隊会「幻 ニューギニア航空戦の実相」pp438〜439
・星野一雄「激闘ニューギニア戦記」(光人社NF文庫)p117
・飯塚栄地「パプアの亡魂」(日本週報社)p217
・田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍」(ゆまに書房)pp498〜499
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」所収、藤井清「ヌンホル支隊の作戦」pp130〜132


(2019.8.18追記)
 昭和20年1〜2月の武市機の飛行については、秦郁彦「第二次大戦航空史話 上」(中公文庫)の第8章「三十四年目の感状授与式」でも詳しい経緯が述べられているので、合わせて紹介しておく。

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2019年04月29日

独立混成第57旅団のセレベス島派遣について

 昭和19年6月、セレベス島(現スラウェシ島)の防衛のために、独立混成第57旅団(桂兵団)の編成が発令された。しかし、同旅団への配属が予定されていた各歩兵大隊は、その後の困難な海上輸送事情に翻弄され、セレベス、ボルネオ、セブ、レイテの各島に分散して辿り着き、その一部は米豪軍と激戦を繰り広げることになった。今回は、さまざまな運命を辿った独立混成第57旅団の各部隊について、個別にまとめてみたい。

1 セレベス島
(1)旅団主力のメナド上陸
 西部ニューギニア方面の戦局悪化を受けた大本営は、昭和19年6月、小三角地帯(ソロン、ハルマヘラ、セラムを結ぶ三角地帯)の戦備を強化するとともに、比島−ボルネオの線までの縦深戦備を整備することとした。そして、セレベス海域方面(地図はこちら参照)に、以下の4個旅団を編成配置することを決定した。

・独立混成第54旅団(ミンダナオ島ザンボアンガ方面)
 編制:司令部1、独立歩兵大隊3個、旅団砲兵、工兵、通信隊
・独立混成第55旅団(スールー列島方面)
 編制:54旅団に同じ
・独立混成第56旅団(ボルネオ北東部方面)
 編制:司令部1、独立歩兵大隊6個、旅団砲兵、工兵、通信隊
・独立混成第57旅団(セレベス島メナド(現マナド)方面)
 編制:56旅団に同じ

 これらの旅団の編成方針は、まず旅団長・大隊長を中央が任命して単独赴任させ、同時に、内地から仮編成した部隊を輸送する。そして、部隊長要員と部隊が到着次第、現地の軍司令官が軍令通り編成完結する、というものだった。この仮編部隊を乗せた輸送船団は7月3日に門司を出港し、一部海没の被害を出しながらも、15日にマニラに到着した。しかし、ルソン防衛を重視する第14軍司令官・黒田重徳中将は、これらの部隊を前送したくない考えを持ち、南方軍総司令官・寺内寿一元帥も同意見だった。その結果、メナド方面配備予定の部隊は、仮編部隊のまましばらくマニラに留め置かれることになった。

 そして、米軍のハルマヘラ来攻が本格的に予想されるようになった8月15日、セレベスの兵力増強の必要性が理解され、ようやくメナド派遣部隊はマニラを出港した。しかし、この時期には既にハルマヘラ方面への空襲が激化しており、メナド行きの船団が無事到着できるかは疑問視される状況となっていた。57旅団の仮編部隊は、はあぶる丸(歩兵2個大隊乗船)、めきしこ丸(歩兵4個大隊乗船)の2隻の輸送船に分乗して南下したが、輸送途中、はあぶる丸はセレベス海でクランクシャフトの故障により航行不能となってしまう。そして、危険な状況下でマニラまで戻るのは到底無理との判断により、掃海艇に曳航されてホロ島へ引き返し、上陸して別の輸送船を待つこととなった。

 また、歩兵4個大隊を乗せためきしこ丸も、メナド近くまで辿り着いた8月29日未明、敵潜水艦の魚雷攻撃により撃沈され、多数の戦死者を出してしまう。メナド港で、空襲にさらされながら輸送船の到着を待ち受けていた海上機動第2旅団輸送隊の奥村明少尉は、この当時の模様を以下のように述べている。

「朝の太陽がまぶしく海面に照り映えるころ、駆逐艦二隻が、沖合に勇姿をあらわした。日本の軍艦旗である。そのあとに大型輸送船がつづいているにちがいなかった。港内、投錨の位置はわかっていた。私たちは作業員を満載した大型発動機艇に、空のボート数隻を繋留し、日の丸をうちふって埠頭を出た。大発は小気味よく、おだやかな金波銀波のうねりを切りさいて進んでゆく。
 駆逐艦は舳をそろえて停止したが、なぜか、輸送船のつづいてくる気配はなかった。上甲板には、裸同然の兵士たちがひしめいていた。舷側で手を振っているものもあった。軍装も完全な凜々しい歩兵部隊の入港を期待していた私たちは、衝撃をうけた。駆逐艦から、最初に私たちの大発へ下船してきた海軍士官は、輸送船二隻(引用者注:1隻の誤りか)が敵潜水艦の集中攻撃をうけ、近海で轟沈されたことを告げた。歩兵部隊の大部分は、兵器・弾薬・貨物とともに、セレベス島影を目にとめる位置で、海の藻屑と化していたのである」

 結局、在メナドの第2方面軍は、海没した輸送船からの収容者やその他の人員をもって、独立混成第57旅団の各部隊を編成した。旅団長は遠藤新一少将(陸士28期、陸大40期)。アジア歴史資料センターの史料によれば、旅団の編制は以下のとおりだった。

・旅団司令部 133名(ほか軍属61名)
・旅団通信隊(長:田村一男大尉) 180名
・独立守備歩兵第22大隊(長:田邊百一大尉) 488名
・独立歩兵第372大隊(長:相良廣遠少佐) 755名
・独立歩兵第373大隊(長:中村武次少佐) 955名
・独立歩兵第375大隊(長:岩木貢少佐) 697名
・独立歩兵第377大隊(長:高延隆雄少佐) 1,413名
・旅団工兵隊(長:金田保美大尉、11月13日編成完了) 軍人1名、台湾勤労団699名

 これらの各部隊のうち、独立守備歩兵第22大隊は、当初は第10派遣隊(マニラからハルマヘラ島へ派遣)の所属だったが、この大隊のみサンギヘ諸島に送られることになり、6月15日にマニラを出発するも海没。ダバオで再建ののち、7月下旬にメナド、次いでサンギヘ諸島に到着していたものである(なお、史料によっては、同大隊を57旅団に含めていないものも見られる)。
 また、旅団工兵隊は、輸送途上で要員が海没したため、海南島から隊長要員として着任していた金田大尉の下、台湾勤労団を主体として11月に編成されている。
 なお、旅団砲兵隊については記録がないが、同時期に編成された独立混成第55旅団砲兵隊の装備が、四一式山砲わずか3門(うち1門故障)という惨憺たる状態であり、57旅団についても、保有するわずかな砲及び砲兵隊要員が撃沈され、その後も補充がなく、結局砲兵隊が編成されなかった可能性があるのではないかと考えられる。

(2)その後のセレベス島の防衛体制
 昭和19年8月時点のセレベス島の守備兵力は、陸軍は北東部に2万、南部に1万余であり、海軍は南北にそれぞれ約5千、合計約4万という態勢だった。そうした中で独立混成第57旅団は、別途編成された集成3個大隊とともにメナドに置かれ、同地付近を防衛した。9月24日に、戦局の推移に伴って第2方面軍司令部がメナドから西南部セレベス内陸のシンカン(地図はこちら)に移転した後も、同旅団はメナド地区(司令部はメナド近郊のトモホン)に駐屯し続けている。なお、9月23日及び10月23日の「南方要域防衛ニ関スル陸海軍中央協定」改定により、セレベスや南ボルネオの陸上直接防衛の主担当は海軍から陸軍に変更されている。

 その後、米軍の北上に伴い、濠北方面の戦略価値は著しく低下し、第2方面軍の主たる任務は南西方面への兵力転用という状況となった。このため、第2方面軍は昭和20年5月29日に廃止され、元々西部ニューギニア方面を専担していた第2軍がその作戦区域を引き継いだ。そして、5月以降の連合軍のボルネオ上陸を受けて、第2軍はセレベス南部マカッサル方面への連合軍上陸を予想し、メナドに配置していた57旅団主力を急いで西南部セレベスへ転進させるとともに、7月中旬からセレベス島の在留邦人約4,000名を現地臨時召集し、速成教育を実施した。さらに、西南部セレベスの各部隊を編合して特設旅団1個を編成し、その旅団長に、西部ニューギニア所在の山本勝大佐(第2野戦飛行場設定司令官)を任命している。そして、シンカンを中心とした永久抗戦陣地の造成に躍起となる中で、8月15日の終戦を迎えたのだった。

 こうした中で、独立混成第57旅団主力は7月10日にメナドから西南部セレベスへの転進を開始し、その途中で終戦を迎え、再びメナドへ戻っている(同旅団の行動経緯の詳細については、こちらの資料のp75〜78に記述あり)。なお、旅団長の遠藤少将は、終戦時に麾下部隊長を集め、「連合軍の上陸に際して一戦を交え、日本軍の真価を見せてやりたい」との訓示を行ったが、作戦打合せのためシンカンに先行していた旅団参謀の甲村武雄中佐(陸士38期。開戦当初、挺進第2連隊長としてパレンバンに降下)が旅団に帰任し、この訓示を撤回させるという一幕もあったようである。

 その後、セレベス島所在の各部隊は、気候が悪く「死の草原」と呼ばれたマリンプンの俘虜収容所で困難な生活を送り、昭和21年6月に復員している。


2 ボルネオ島(現カリマンタン島)
(1)タラカン島の戦い
 1(1)で触れたように、独立混成第57旅団の仮編部隊のうち2個大隊(独立歩兵第374,376大隊として予定されていた部隊)は、セレベス島への輸送途上に船舶が故障し、8月24日にホロ島に上陸した。この両大隊をセレベス島へ前送すべく、9月26日に輸送船立石丸がホロ島に到着したが、これもホロ島で撃沈された。なお、独立混成第55旅団砲兵隊の藤岡明義軍曹の手記によれば、同年10月、ホロ港外に沈んでいたセレベス行きの船から野砲1門、砲弾30発を引き揚げ、これを55旅団砲兵隊が装備しているが、この沈船が立石丸で、セレベスに輸送する野砲を積んでいた可能性があるものと思われる。

 そして、台湾沖航空戦(により米機動部隊が壊滅したとの誤判断)により、米軍がボルネオ北東部に基地航空の足場を求めることが想定されたことから、ボルネオの戦備強化のため、10月13日、ホロ島所在の独立混成第57旅団の2個大隊は第37軍の指揮下に入ることになった。しばらく便船を待ったのち、12月9日、まず両大隊の本部及び各1個中隊が、日本軍の重要な石油基地だったタラカン島(地図はこちら)に移動。同18日、友軍戦闘機1個中隊の直協を得て、後発本隊も輸送船満洋丸によりタラカン島に上陸した。同22日、両大隊は指揮外の小部隊も編合し、歩兵4個中隊、銃砲隊1個中隊を有する独立歩兵第454大隊(長:山田光秋少佐)、独立歩兵第455大隊(長:常井忠雄少佐)として編成された。

 その後、この2個大隊はタラカン島を守備していたが、昭和20年3月4日、454大隊はバリクパパン(地図はこちら)に転用される。結局、タラカン島守備隊は、455大隊約860名、海軍第2警備隊(司令:香春博中佐)約500名、その他燃料廠関係者や後方部隊などを含め合計約2,000名の陣容となった。そして、5月1日に上陸した連合軍を迎え撃って健闘するも、次第に圧迫され、6月中旬に密林内に分散して遊撃戦に移行、そのまま終戦を迎えている。香春司令は7月3日、常井大隊長は8月10日に戦死。守備隊の生還者は、455大隊の副官代理だった宮地喬中尉の手記によれば2,173名中576名、このうち455大隊の生還者は796名中169名。また、第37軍作戦参謀の岩橋学中佐の記録によれば、455大隊の生還者は913名中176名とされている。

 なお、タラカン島の戦いの経過については、上述の宮地中尉の手記の中で詳しく述べられている。あまり広く知られた戦闘ではないが、後方部隊や在留邦人も含めて頑強に抵抗し、善戦敢闘した戦いと評価されるべきではないかと思われる。また、タラカン島は全島至るところから石油を産出するような土地で、密林内の小川にも石油が混じった薄茶色の水が流れており、そのおかげでマラリア蚊が生息しなかったという。宮地中尉は、タラカンでマラリアにかかった者はいなかったと証言しており、南方戦線では珍しい事例と言えるだろう。

(2)バリクパパンの戦い
 バリクパパンの防衛兵力は、海軍第22特別根拠地隊(司令官・鎌田道章中将以下約3,000名)、タラカン島から転用された454大隊の主力、燃料廠や現地召集の邦人なども含めて、合計約1万名だった。また、バリクパパン北方のサマリンダに、454大隊の1個中隊、海軍部隊、現地召集邦人3,000名、合計約5,000名が駐屯していた。

 昭和20年7月1日、約3万の連合軍がバリクパパンに上陸した。454大隊主力はバリクパパン近郊のマンガル飛行場を守備していたが、7月6日に陥落。以後サマリンダを経て奥地に後退し、終戦を迎えている。海軍第22特別根拠地隊の先任参謀だった辻橋文吉大佐によれば、バリクパパンから撤退して以降、連合軍の追撃は甚だ緩慢になったという。上掲の岩橋中佐の記録では、454大隊の兵力は846名、うち生還者635名とされている。


3 レイテ島
 1(1)で述べたとおり、セレベス島に派遣された仮編4個大隊は8月29日に海没し、大きな損害を出した。その欠を埋めるため、9月17日、独立混成第57旅団の新たな仮編大隊(長:紙岡稔少佐。記録によっては大尉との表記もあり)がマニラを出港した。この大隊は21日から艦載機の攻撃にさらされ、逐次その機帆船・漁船を失いつつ、26日にマスバテ島に辿り着いた。その後、紙岡仮編大隊はセブ島に渡り、931名の兵力でメナドヘの渡航を待っていた。

 ところが10月20日、米軍が大挙レイテ島(地図はこちら)のタクロバン方面に上陸した。第35軍は、取り急ぎレイテに送る増援部隊として、独断で紙岡大隊から512名を抽出。大隊長補充要員として軍に配属されていた藤原義雄少佐を大隊長に任命し、レイテに派遣することとした。この部隊は天与の兵力、たまたまこの部隊がセブ島にいたのは天の恵みであるという意味で、「天兵大隊」と命名された。兵は九州出身、大隊長も精鋭の人物と評価されていたようである。

 そして天兵大隊は、10月24日夜に機帆船3隻でセブ島を出発。うち2隻(神風、大國丸)が25日朝にオルモック到着し、大隊は2個中隊編成とされた。26日朝にオルモックに揚陸された歩兵第41連隊(歩兵2個大隊基幹、2,550名)とともに、天兵大隊は第16師団に配属されることになり、同連隊の指揮下でカリガラ平野方面へ進出した。

 その後、10月28日にカリガラの町に到着した天兵大隊は、さらに東方のサンミゲルへの進出を準備していた時、東方から来攻してきた米第1騎兵師団の1個中隊による攻撃(戦車を伴う威力偵察)を受ける。天兵大隊が機関銃で応戦すると、米軍はこれを装備補給の完備した増援部隊と誤断して退却した。この天兵大隊の交戦と、ハロ方面での歩兵第41連隊、独立歩兵第169大隊による抵抗の結果、米軍は第1騎兵師団と第24師団の到着を待ってカリガラを攻撃することとし、ほとんど空に近いカリガラへの進攻を1日遅らせた。

 そしてこの1日が、レイテ戦の戦局全般に極めて大きな意味を持つことになった。11月2日、米軍は重砲により砲撃を行った後、2個師団によりカリガラへ突入したが、町は既にもぬけの殻だった。第102師団参謀・金子中二少佐が、兵力の弱小を危惧して、天兵大隊をカリガラ西南方高地へ下げていたためだった。大岡昇平は、もし11月1日にカリガラが突破されていれば、後に日本軍第1師団と米軍が激戦を繰り広げたリモン峠まで、米軍を妨げるものはほとんどなく、峠の頂上を占領するのは米軍の方が先だっただろうと述べている。天兵大隊は、偶発的な小戦闘から、結果的に想定外の戦功を残したのだった。

 その後、天兵大隊はカリガラの西南、リモン峠の東南の517高地付近に後退。金子参謀の指導の下、歩兵第41連隊、第102師団の2個大隊(独立歩兵第169,171大隊)とともに、ピナ山方面に防衛線を構築する。そして、これまでの戦闘で人員減耗していた天兵大隊はここで解隊されることになるが、この「解隊」については謎が多い。戦史叢書では、「第三十五軍は天兵大隊を解隊し大隊長以外を各隊の補充に充て」とされているが、「この解隊を実施したところ、天兵大隊の兵力は150名で田邊大隊(引用者注:独立歩兵第171大隊)とともに517高地に位置していた」との記述もあり、171大隊以外への配属については何ら言及がない。歩兵第41連隊の事績について詳細に調査した大田祐介氏の「永遠の四一」でも、天兵大隊は11月17日に171大隊に合流したとされており、大隊の残存兵力は、その全てが171大隊と行動を共にした可能性があるものと考えられる。

 また、戦史叢書によれば、天兵大隊長の藤原少佐は11月6日付で第30師団参謀に発令されている。ところが、やはり歩兵第41連隊を取り上げた御田重宝氏の著作には、藤原少佐は第30師団参謀発令後も天兵大隊を率いていたらしい、との記述がある。御田氏は、「中央でどんな命令を出そうと、戦況に影響のないような問題は、現地で無視したか、あるいは既に部隊間の連絡がとれなかった、と解すべきであろうか」と述べているが、実態がどうであったのか、もはや解明する手段はない。

 その後の天兵大隊の動向については、残念ながら文献等で確認することはできない。第102師団は、リモン峠方面の戦況が破断界に達した12月23日にピナ山から撤退し、29日にカンギポット山地区に到達。昭和20年1月5日、師団長・福栄真平中将がセブ島に無断渡航した際には、169大隊の将兵約60名を同行させているが、171大隊はそのままレイテに残留している。天兵大隊員もレイテに残り、171大隊と同様にカンギポット山付近で抗戦したものと思われるが、この地区からの生還者は極端に少なく、具体的な状況は一切不明である。隊員の戦没日は、昭和20年3月17日で一括認定されているようである。


4 セブ島
 天兵大隊のレイテ島派遣後、独立混成第57旅団の仮編大隊の残部(戦記では「紙岡大隊」と呼ばれることがあるため、以後そのように表記)は、そのままセブ島(地図はこちら)に逗留した。そして昭和20年1月、第1師団が地号作戦によりレイテ島から撤退してくると、セブ島北部のダアンタボゴン(タボゴンの南方約4km)に駐屯していた紙岡大隊約500名は、第1師団に配属されることになった。

 その後の紙岡大隊は、
・1月22日以降、歩兵第49連隊、歩兵第57連隊とともにボゴ付近のゲリラを掃蕩
・1月28日以降、57連隊の指揮下でボゴ以北を掃蕩。同時に、ゲリラの跳梁に備え、補給輸送を円滑にするため、イリハン、サガイ、ルゴに大隊の一部を配備し、交通路を確保
・2月21日、歩兵第1連隊の一部とともに、サガイ警備隊を襲撃したゲリラを攻撃
・2月23日、1連隊の指揮下でルゴ−タブレン道を討伐(〜3月2日まで)
・3月13日、1連隊、49連隊とともに西海岸地区を掃蕩
・4月中旬以降、49連隊とともにソゴドに配置され、北上してくる米軍を迎撃
・5月中旬以降、ルゴ西方地区を拠点として随時ルゴ方面に出撃し、遊撃戦を実施
・5月24〜25日、ソゴド西方地区で第1師団の須山参謀、49連隊の小浦連隊長が戦死し、49連隊将兵も大きな被害を受けたため、急きょ紙岡大隊が派遣。同連隊の軍旗及び残兵を収容して師団に復帰するよう指示される
・7月21日、49連隊将兵を守りつつ第1師団司令部に復帰

と、まさに東奔西走といった形で酷使されている。配属部隊の宿命と言えるだろうが、第1師団将兵が激減・疲弊した中で、まとまった兵力を持つ紙岡大隊の存在が貴重だったということでもあるのだろう。

 なお、紙岡大隊が5月に49連隊収容のため出動する際に、セブ島南部の海軍部隊へ合流するため南下する第33特別根拠地隊司令官・原田覚少将ほか2名が同行しており、その時の模様が、同根拠地隊副官の岡田貞寛海軍少佐の手記に描かれている。それによれば、この南下の際に紙岡大尉が率いた兵力は約80名(これが当時の紙岡大隊の全兵力かどうかは不明)。幾度か米軍に発見されつつも、紙岡大隊長の指示でこれを巧みにかわしていく様子が記されており、「剛胆な紙岡大尉」「戦上手の紙岡大尉」と高く評価されている。

 そして8月15日に終戦を迎えると、第1師団の各歩兵連隊は、連隊旗の房と竿頭の菊の紋章を密かに細断し、各将校・下士官に託して日本へ持ち帰ることとし、旗竿の部分を各連隊ごとの軍旗奉焼式で焼却した。終戦を迎えた紙岡大尉も、49連隊の奉焼式に立ち会っている。


5 おわりに
 独立混成第57旅団は、連合軍の上陸がなかったセレベス島に主力が駐屯していたため、あまり振り返られることのない旅団である。しかし、旅団主力に合流できず、ボルネオ・レイテ・セブに分散した各部隊は、いずれも強大な米豪軍を相手に敢闘している。戦史において必ずしも注目される存在ではないが、忘れてはならない部隊であろう。


<参考文献>
1 セレベス島関連
・戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」p58〜59、64、94、124〜125、134、162
・戦史叢書「南西方面陸軍作戦」p291〜292、327
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ3 静かなる戦場」所収、宮地喬「ボルネオ東端タラカン島戦記」p279
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ11 大いなる戦場」所収、藤岡明義「玉砕地ホロ島敗残記」p452
・奥村明「セレベス戦記」(図書出版社)p59、83
・「太平洋戦争ドキュメンタリー第22巻 栄光マラソン部隊」(今日の話題社)所収、了戒次男「謎のセレベス作戦」p114〜115、124、126
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」所収、大竹三吾「セレベス島の思い出」p467

2 ボルネオ島関連
・戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」p196
・戦史叢書「南西方面陸軍作戦」p302、397、399
・戦史叢書「南西方面海軍作戦 第二段作戦以降」p306
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ3 静かなる戦場」所収、宮地喬「ボルネオ東端タラカン島戦記」p279〜280
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ11 大いなる戦場」所収、藤岡明義「玉砕地ホロ島敗残記」p452
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」所収、岩橋学「北ボルネオの作戦」p216
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」所収、辻橋文吉「南ボルネオの作戦」p224

3 レイテ島関連
・戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」p196、277〜278、297、310〜311、348〜349、386、584
・大岡昇平「レイテ戦記」(中公文庫)上巻p109、348〜354
・御田重宝「人間の記録 レイテ・ミンダナオ戦 前篇」(徳間文庫)p252
・大田祐介「永遠の四一」(福山健康舎)p459

4 セブ島関連
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ11 大いなる戦場」所収、岡田貞寛「セブ海軍部隊の戦闘」p306
・冨田清之助「第1師団レイテ決戦の真相」(朝雲新聞社)p246、296、ほか紙岡大隊関連部分
・第1師団レイテ会「第1師団レイテ戦記」の紙岡大隊関連部分

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2019年01月03日

ニューギニア戦線のインド兵について

 昭和17年2月にシンガポールを占領した日本軍は、約10万名の捕虜を得た。その中にはインド兵が多く含まれており、一説には、約5万名に上ったとも言われている(戦史叢書「マレー進攻作戦」p626〜627)。

 これらのインド兵の中には、インド国民軍に参加し、インパール作戦に協力した者もいる一方で、ニューギニアやラバウルなど南太平洋戦線に送られ、日本軍への協力を求められた者も少なからず存在する。後者については、これまであまり注目されることもなかったように思われるので、今回は、特にニューギニア戦線に送られたインド兵について、様々な証言などを基にまとめてみたい。

1 ニューギニア戦線のインド兵の数
 まず、ニューギニア戦線に送られたインド兵の数については、「約3,000名」だったとする記録が複数見られる。
 その一つに、第20師団歩兵第79連隊の尾川正二(1970年に第1回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞)の証言がある。尾川は、自著「東部ニューギニア戦線」(光人社NF文庫。以下「尾川書」)の中で、以下のように述べている。

「かつて、英印軍の兵士として、マレー作戦に加わり、日本軍の捕虜となった人々である。その約十万が、話し合いにより、捕虜の身分から宣誓釈放となり、軍務を解かれ、一度は民間人の位置にかえされた。そのうち、半数が志願し、インド国民軍に編入され、スバス・チャンドラ・ボースの指揮下にはいり、インパール作戦などに参加、インド独立のために戦うこととなった。志願の形で、特設勤務隊として、南東方面に向かったものもいる。ニューギニアに来ていたのも、その一隊で、約三千といわれる」(尾川書p141)

 また、オーストラリア政府の運営するウェブサイト「The Anzac Portal」にも、「約3,000名がニューギニアのウエワクに送られた(six companies (approximately 3000 men) were sent to Wewak in New Guinea.)」との記述がある。
 このほか、林博史・関東学院大学教授の論文でも、John Baptist Crasta氏(1933年に英印軍に入隊、戦後はインド軍でも勤務)の著書からの引用として、「ニューギニアに送られたインド人たちはもっと悲惨な運命にあった。3000人中生き残ったのはたった200人にすぎず、ほとんどは飢えや強制労働、病気で死亡した」と述べられている。


2 戦中のインド兵の様子
 いくつかの戦記に、ニューギニア戦線で目撃されたインド兵の様子が描写されている。以下に引用する。

「嗚呼担送に任ずる我が将兵、殊には遙々マレーより大東亜戦に共鳴し、我が軍に協力を誓って渡来した、印度兵や、ネパール人迄が、連続二ヵ月の担送の労苦、思うだに胸迫るの思い、真に感謝感激に堪えなかった」(昭和19年7月頃、アイタペ作戦中に。吉原矩「南十字星」東部ニューギニア会、p236)

「このハンサに、静かな集団を見た。インド兵だという。どうして、こんなところに? という疑問があった。われわれ自身、どうしようもないところまで追いつめられている。戦うべき装備すらない。彼らを養うことすらできぬのではないか。通りすがりにことばをかけてみたが全く通じない。というより、反応しようとする意欲さえ感じられぬ」(昭和19年5月頃、アイタペ作戦の途上で。尾川書p139〜140)

「一六・三〇出発。ラム河渡河点に向かう。はじめてインド人部隊(シンガポール戦の捕虜)に出会う」(昭和19年4月、セピック河湿地帯横断中に。渡辺哲夫「海軍陸戦隊ジャングルに消ゆ」戦誌刊行会、p102)

 また、西部ニューギニア戦線でも、「イドレ死の行軍」に参加した植松仁作大尉(電信第24連隊副官)が、「ニューギニア大密林に死す」(光人社NF文庫)の中で、転進途中の一場面として以下を記録している。

「集落は一棟で、原住民はもちろん一人もいない。その空家を占領して石岡大尉のインド部隊がすし詰めになっている。この部隊は、マレー作戦の時の英軍インド兵で編成したもので、もともと精悍な彼らの顔も、今は青黒く、そのうえ髭はのび放題だから、人相の悪いことこの上ない。(中略)
 七月三十一日、今日も快晴。早々に谷へ洗濯に下りた。もう炊事の人たちが来ているので、遠慮して谷間をもう少し下った。すると、プーンと屍臭がしてきた。
『死体だな』
 下を見ると、二人のインド兵が倒れている。水を飲みにきて倒れたままだろう。
 彼らも、民族独立の情熱を傾け、インド独立を叫びながら、インド国民軍をつくり日本軍と統一作戦をしている。その一部が、どういうわけか、このニューギニアに回ったのだが、この転進では我々同様に次々に倒れていった」(p89,91)

 西部ニューギニアのマノクワリはウエワクから約750kmの距離があるため、これらのインド兵は、ウエワクに送られた約3,000名とは別のグループではないかと思われる。


3 インド兵の写真
 1で掲げたウェブサイト「The Anzac Portal」に、ニューギニアで豪軍に保護されたインド兵の写真が複数掲載されている。
 また、森山康平編著「米軍が記録したニューギニアの戦い」(草思社)にも、ロスネグロス島で保護されたインド人部隊の写真が収録されており(p129)、ターバンを巻いた多数のインド兵たちが写っている。「The Anzac Portal」に、ロスネグロスで69名のシク教徒の捕虜を救出・解放した(When the US 1st Cavalry Division seized the Admiralty Islands they rescued and liberated 69 Sikh prisoners who had been used as labourers at Los Negros.)との記述があり、これらの人々を指すものと思われる。


4 終戦時のインド兵の様子
 昭和20年8月に日本が降伏した直後に、インド兵と接触した際の証言が残されている。第18軍軍医部の鈴木正己軍医少佐は、終戦後の出来事として、以下のような記録を綴っている。

「その日、武装解除が終わってから、私たちは自動小銃を構えたMPの前に一列に並ばされた。そして私たちの列から少し離れたところに、インド兵の一団が立っていて、私たちのほうを注視していた。見るとそこには、昨日私がアンゴラムでみかけたインド兵の姿もあった。
 私たちは一列になってインド兵の前を行進させられ、彼らに敬礼させられたのである。敬礼動作が悪いと、その場で鞭でなぐられた。MPの立ち合いのもとに、インド兵に仕返しをさせたわけである。気の毒だったのは、インド兵を使役した水上勤務隊の将兵であった。彼らはインド兵に目の仇にされ、なぐられたり、薪集めやら荷物運びやらでインド兵にこき使われたのである」(鈴木正己「ニューギニア軍医戦記」光人社NF文庫、p282、284〜285)

 また、飛行第68戦隊の整備兵だった菅野茂上等兵は、以下のように書き残している。

「ほっと、安堵したのも束の間、今度は豪軍憲兵に連れられた五、六名のインド兵が現われた。インド兵は、緒戦の頃シンガポール陥落当時、日本軍の捕虜になり、ニューギニアに送られて強制労働に服していた。食糧が切迫したため、日本軍は彼らを解放した。今度は立場が逆転して勝者になった彼らは、捕虜当時に虐待を加えた者の首実検に現われたものだった。
 私は、インド兵とは接触がなく、虐待したことも殺したこともない。しかし他人の空似という諺もある。私たちがインド兵を見ると、みんな容姿が似ていてみな同じように見えると同様、彼らの目からすれば日本兵も同じように映るのではなかろうか、と思うと不安になった。もし『この男だ』と自分が指されたら最後、この戦場においては、たとえそれが誤りであっても、言い逃れはできない。と、思うと心も凍る。
 ギョロ、ギョロと黒い怨みの眼差しを向けられたときは、全く生きた心地がなかった。氷の刷毛で背筋を撫でられる思いだった。インド兵たちは、代わる代わる私たちの顔を覗き込みながら通り過ぎた。彼らの後ろ姿を見て、ほっと溜息が出て、同時に私は、全身の力が抜けてしまって、崩れるように地べたに座り込んでしまった」(菅野茂「7%の運命」光人社NF文庫、p215)


5 ラバウル戦犯裁判
 戦後、ラバウル・ニューギニア・ブーゲンビル方面の将兵の戦犯裁判がラバウルで行われており、ここで多数の日本軍将兵が、インド兵虐待の罪によりBC級戦犯とされ、絞首刑を含む重刑に処せられている。しかし、これらの裁判には、あまりにも量刑が過重であったり、そもそも不当な裁判と呼ぶほかないものが少なからず含まれている。

 ラバウル戦犯裁判の特異性をよく表す具体例として、角田房子「責任 ラバウルの将軍今村均」(ちくま文庫。以下「角田書」)に記された以下の事例を紹介する。ラバウルの野戦自動車廠に勤務していた3名の下士官が、全くの無実の罪により絞首刑となった事案である。

「刑死した三人と長野(注:野戦自動車廠でインド兵の監督を務めていた曹長)とは共にラバウルの第二十六野戦自動車廠に所属していた。戦後間もなく、長野の管理下にあった百数十人のインド人は、笑顔で彼に挨拶して帰国船に乗った。それを見送った長野は、戦中インド人を好遇したことでよい人間関係を保ち得たと、ひそかに満足したのだが――1945年(昭和20)12月、中隊の三人が戦犯容疑者として逮捕され、それがインド人の告訴によるものと知って、愕然とした。
 長谷川と沼道は『印度外人部隊ガンガー・シタラム殺害事件』で、岸は『印度外人部隊ビンズー殺害事件』で裁かれることになった。だが『殴打による致死』とされているインド人たちが、実際はマラリアと脚気のため休養室に収容され、そこで死んだことを長野はよく知っていた。彼は被告の長谷川、山谷衛生曹長と共にシタラムの臨終にたち会い、『山谷曹長より、当時の状況下では過分の手当を受けての平常死であった』と書いている。ビンズーについても、ほぼ同じ記述がある。“殴打による致死”などとは全くの捏造だ――と血の逆流する思いの中で長野は、とにかく裁判に勝って、三人を救い出さねばならぬ――と心を決した。
 長野は前後八回証人として出廷したが一回ごとに彼の絶望は深まるばかりであった。弁護側がインド人の告訴状についてどれほど多くの疑点を指摘しても、告訴人は法廷にいないのだ。インド人は豪軍の手に告訴状を残して、みな帰国したあとである。従って、反対尋問によって彼らの主張の矛盾をつくことが出来ない。
 『日本兵は殴った、インド人は倒れた、出血した死亡した、何の治療も受けなかった、私はそこにいた』などと書かれた複数の告訴状が、多人数の“目撃者”による事実事項として、そのまま採用されてゆく。インド衛生兵の記録した患者名簿さえあれば、“殴打による致死”が実は病死であったことを完全に立証できるのだが――と長野は歯がみする思いであったが、唯一の物証であるその名簿は終戦時の軍の指令で焼却されていた」(角田書p87〜88)

 このほか、第8方面軍司令官だった今村均大将の「今村均回顧録」(芙蓉書房出版)にも、戦中のラバウルで、怠け者のインド兵の頬を打って無理やり潰瘍の治療をしたり、マラリヤの予防薬である苦いキニーネを飲ませたりしたために、患者を虐待したと告発されて絞首刑となった衛生伍長の話や、同性愛傾向のあるインド人将校に薬を飲まされて強姦されそうになったため、相手を木っ端微塵にぶん殴ったところ、激しい虐待を行ったとして絞首刑判決を受けた伍長(のち有期20年に減刑)のケースなどが紹介されている(p449〜457)。

 そして、ニューギニア戦線の戦犯事案については、ラバウル裁判で弁護人を務めた松浦義教中佐(第38師団参謀)が、その著書「ラバウル戦犯弁護人」(光人社NF文庫。以下「松浦書」)の中で、弁護を担当した特設水上勤務第16中隊の某伍長(のち刑務所内で自決)の証言として、以下を書き残している。

「確かにそういう名のインド人が死んだことは事実です。しかし、絶対に殴ったから死んだのではなく、当時食糧が乏しく、マラリアに犯されてもいましたので、結局、栄養失調で死んだのです。当時のニューギニアの事情ではどうにも…」(p59)

 極限の状況に陥ったニューギニアで、多くのインド兵の死者(そして、日本兵の死者)を出した本質的な理由は、結局のところ、これであろう。インド兵に多数の死者が出たことは大変悼ましく、ただその冥福を切に祈るほかない。4に述べたような終戦後のインド兵の反応の厳しさも、彼らを見舞った過酷な運命を考えれば、忍受するよりほかないものであろうと思われる。

 しかし、その報復として、日本人下級将兵の命を奪うことが正当化されるかどうかは、また別の議論であろう。松浦書には、ニューギニア関係を含む様々な裁判の模様と、処刑された将兵の最期の言葉が多数収められており、読む者の胸に迫る内容となっている。
 こうしたラバウル戦犯裁判について、松浦中佐は以下のような所感を残している。

「ラバウルにおける戦犯裁判は、インド人・中国人労務者に関するものが圧倒的に多い。
(ラバウルで結審した戦犯裁判二百三件のうち、この労務隊関係が百八十三件、そのうちインド人関係が百四件であった)
 この事実は、むろん長期にわたる日本軍支配下の思わざる長期の労務に服した怨みが、その基底に在るのであろう。
 ことに難局のニューギニア戦線では、いろいろ問題もあったと思われるが、ラバウルではそのような酷烈な場面はなく、それでいて何故、かくも大量の戦犯者を出したのか。
 労務隊員たちが、いよいよ本国に帰れると決まった時、彼らの不安は、中国人労務隊は、汪政権下で志願したという問題があり、インド人の場合は、インドはまだ英国領だ。自分たちがインド独立国民軍だったとか、日本軍の宣誓労務隊員となって協力したことなどが、帰国後反逆者として責められるのではないか、ということではなかったか。
 インド独立国民軍は、インド独立の志士チャンドラ・ボースの主宰で、一時インドに進攻したインパール作戦にも参加したことさえあった。
 そういう深刻な不安と憂慮から、今は独立国民軍や宣誓労務隊に入っていたことは一切秘匿して、ただただ日本軍の俘虜になって、強制労働に服したという立場だけを強調したく、したがって連合軍側の立場に身を置いてそれに協力する姿勢。つまり豪軍に迎合するため、その告訴奨励に応じたのではないか。
 いったんそういう姿勢にあったら、わが身を救うためには、針小棒大も、まったくの作りごとも意に介するところではなかっただろう。
 大掛かりな告訴の続出。しかも捏造された告訴の多さは、まったくわれわれの常識と想像を遙かに越えたものだったが、時の形勢と自らの利益に順応したい人心の動き、自己保全の本能とはそうしたものであろう」(松浦書p199〜200)


6 まとめ
 マレー戦で捕虜になったインド兵は、近年、「インド国民軍として日本軍とともに戦った」といったような、「美しい物語」の文脈の中で捉えられがちである。しかし、本記事で述べたように、当時の日本軍はインド兵をニューギニアなど幅広い戦線に送り出し、日印双方にとって不幸な結果をもたらしている。こうした歴史があったことも、同様に認識しておくべきことであろう。
 特に、処刑された日本人BC級戦犯のうち一定数の者が、無実であったことを証明したいと考える者にとっては、こういった事実に触れていくことは、必要不可欠の手続ではないかと思われる。


(2019.2.14追記)
 戦史について精力的に調査を行われている有村悠さんが、「昭和19年5月、東部ニューギニア・ボイキンでインド兵捕虜約400名が『処分』された」とする証言を発見され、ツイートされている。
 このような事案が実際に発生していたのであれば、その関係者が重刑に処されることは当然であろう。本件は、これまで戦記類で取り上げられることのなかった、新たな事実の発見と思われるので、合わせて紹介させていただく。

(2019.4.21追記)
 ニューギニア戦線のインド兵に関しては、以下の各書にも関連記述があったので追記しておく。

・白水清治「激戦ニューギニア」(光人社NF文庫)
 昭和19年3月、第20師団所属の著者がマダンからウエワクへ移動する途中に、ハンサの揚陸場で多数の「インド兵捕虜」が使役されているのを目撃する場面がある(p186)。著者がその中の一人と会話を交わしたところ、彼はシンガポールで野菜屋を営んでいたこと、日英開戦と同時に召集されたこと、シンガポール陥落で捕虜になったこと、妻と子供二人が彼の帰りを待っていることなどを話している。

・田中俊男「陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦」(戦誌刊行会)
 昭和19年後半頃(アイタペ戦後)、著者が山南地区でインド兵捕虜のグループと出会い、困窮している彼らに食糧(サクサク二俵(約二斗強)、タロ芋一網、トウガラシ一籠)を恵与し、非常に感謝される場面がある(p164〜165)。
 同書の記述によれば、彼らは自らを「捕虜となって日本軍の管理下にある」と認識していたこと、貨物廠の管轄下にあったこと、食糧を求めて無断で移動を重ね、所属部隊と連絡が取れなくなっていたこと(つまり、管理があまり厳重でなかったこと)が窺われる。

・中谷孝雄「のどかな戦場」(東都書房)
 西部ニューギニア・マノクワリ支隊に配属されていた著者が、道路建設工事に従事する「インド人の捕虜(志願した兵補という説もあり)」について描写した場面がある(p95〜98)。彼らが作業に対してあまり積極的ではなく、隙あらば怠ける様子が詳しく描かれている。


posted by A at 09:49| 戦史雑記(日本軍) | 更新情報をチェックする