2013年12月23日

【本】若杉冽「原発ホワイトアウト」

「原発ホワイトアウト」 若杉冽/講談社/2013年

 原発をめぐる政官財の癒着を暴く「リアル告発ノベル」、という謳い文句の小説である。全体として面白く読めたし、実際さもありなんと思える部分もあったが、展開の持って行き方が明らかに強引な箇所も目立ち、これを「ノンフィクション・ノベル」と呼ぶのはいささか乱暴ではないかな、と思った。

 本書に書かれた告発的な内容については、その真偽を判断するだけの知識を持ち合わせていないけれど、個人的には、著者がいったいどんな人物なのかが気になった。本書を読むと、例えば「第11章 総理と検事総長」の出来の悪さが目立つ。検事に関する事実関係の誤り(最も瑣末な一例を挙げれば、「局付検事」は基本的には役職に就く前の若手クラスであり、エネ庁次長のような高官と同期というのは現実的でない)や、著者が検察の実情を知らないことを窺わせる記述が散見されるほか、この章の執筆に当たって下敷きにしたと思われる本(例えば「国家の罠」)や、文中に引用する本には、いかにも偏りがある。こうした粗雑な根拠を基に、「政権と検察は一心同体」などという結論を導くのはあまりに乱暴であり、現実の検事たちも全然納得しないのではないか。ほぼ確信を持って言うけれど、著者に親しい検事の知り合いはおらず、また、生身の検事への十分な取材も行っていない。

 また、著者は霞が関の事情については細部まで極めて詳しく、著者が「霞が関の省庁に勤務」というのは確かに事実だろうなと思えるけれど、「東京大学法学部卒業」を名乗る割には、小説全体を通じて、東大法学部卒でなければ知らないような事実や、書けない記述が全く見当たらない。逆に、「東大法学部卒の人間なら、こういう書き方はしないな」と思える部分がいくつかあり、一OBの直感として、著者は東大法学部卒ではないのではないかという気がする。

 さらに、著者は「電力ムラ」の内情には非常に詳しい一方で、経済産業省本省、特に事務系キャリアの人事運用についてはあまり詳しい知識がない印象を受ける。資源エネルギー庁や原子力安全・保安院あたりに長年奉職し、「電力ムラ」のあり方に疑問を抱いてきた人物の可能性も考えられるが、3・11後に環境省や文科省などから原子力関係の部署に出向してきて、初めて「電力ムラ」の実態を目の当たりにした人物でも、この本の内容は書けるかもしれない。

 また、大物議員への「ご説明」や自民党の部会の現場に立ち会って(著者は間違いなくその経験がある)、その意味を消化し、本書の第8章や第14章のように描いてみせるのは、やはり相応の経験のある人間でなければ難しいのではないかと思う。少なくとも、著者は課長補佐クラス以上の人物ではないか。

 なお、小説出版後の著者の行動には、やや理解しがたい面がある。著者は、(顔や声を隠す形で)テレビ、ラジオ、新聞などさまざまなメディアに登場して、政府批判を展開している。あくまで私見だけれど、著者が小説を一冊出版して問題意識を世に問い、その後は行政内部で社会が良い方向に進むよう努力するなら、まだ理解できる部分はある。しかし、メディアに出演して匿名で政府の方針を批判して回るのは、行政官としては明らかに一線を越えた行為ではないか。小説執筆の動機をどれだけ美しい言葉で飾ったとしても、実際のところ著者は、組織への恨み(邪推するなら、思うような人事上の処遇を得られなかった恨み)を、こうした形で晴らしている側面がないとは言えないのではないか。

 また、これだけ多くのメディアと不用意に接触していると、どこからか著者の情報が出身省庁に漏れることも、十分にあり得るのではないかと思えてならない。著者自身、自著が予想以上に注目を集めて、怖いものがなくなってしまったのだろうか。


<おまけ>
 小説出版後の著者の行動について考えていた際に、今村均という軍人の自伝の記述を思い出したので書き留めておく。

 明治末期、今村が24歳で陸軍中尉だった頃のこと。今村の所属する仙台第2師団は、朝鮮半島北部に駐屯し、治安維持の任務に当たっていた。このとき、今村の親しい同期生の小泉清中尉が、とある僻地の小さな守備隊の隊長に任命された。ところが、この僻地には新聞、雑誌、蓄音器、運動器具など精神的な娯楽に役立つものが何もなく、小泉中尉の部下の兵士30名は毎日寂しそうにしていた。そこで小泉は一計を案じ、日々の食費を少し水増しして請求し、余ったお金で新聞やレコードなどを買ってやることにした。すると、兵士たちは小泉を慕い、仕事にも一生懸命に取り組み、治安の状況や兵の健康状態などは、小泉の担当区域が一番良好となった。

 ある日、師団参謀長の市川堅太郎大佐が視察に来て、この事実を知ることとなった。今村は小泉のやり方を擁護し、市川大佐もこうした処置の必要性は理解したが、今村に対して以下のようなことを述べた。

「小泉のことはよく分かった。(中略)司令部に帰ってから研究して処置しよう。
 だが、君の言葉から察する君の思想のうちには、善悪と軍の統制とを、混同しているところがある。
 たとえ『こうすれば、部下の士気や健康上に良い』と考えても、自分一個の判断で、規則や法を軽く見たり、ごまかしのことをやるのは、やっぱり悪なんだぞ。そんなことが習慣になってみい、はじめは善の手段と思ってやったことが、だんだんに私欲のための方便になる。人間はいつも善い心だけを、持っていられるものじゃない。部隊の長の過失はたいてい初めの一、二回の善意の反則がもとになり、深みにおちいったものが多い。上の者の監督は、このような間違いにおとし入れまいとする親切からされるもので、下の者のあらをさがすことを、目的にしているものじゃない。
 いいかい、君の将来のために言っておく。改めなければならんと気づいたことは、順序を経て、意見を各上官に申し出ることを憚ってはならないが、善いと思ったことのためには、規則や法は無視しても、かまわないとする思想は、国家社会の秩序を維持するため、とくに軍紀と、軍の統制、戦闘力の発揮上、許されないものだぞ。孔子様が、中庸を心がけ、中道を歩むことを、道徳の最も大きなものと教えられたのは、そのときどきの感情で、不軌独断の行為に出ることの善くないことを、いましめられたものだぞ」

 このときから25年ほど後。今村は陸軍少将に昇進し、歩兵第40旅団長として、やはり朝鮮に駐屯していた。このとき、東京で有名な2・26事件が勃発した。今村は部下の青年将校たちを集め、次のような訓示を行った。

「…けさの新聞にはまだ何ものっておらないが、夕刊には大きくかかげられることと思う。それは、憲兵隊と総督府にはいった電報によると、一部の在京将兵が昨夜暴動を起こし、陸軍省と参謀本部、それに警視庁とを襲ったとのことだ。その兵数や目的などは、まだ知られていない。私の推察では、わが政界の無為と堕落とを憤慨した将兵の革新行動で、さきの五・一五事件とか、その前の十月事件などに類するものかと思う。しかし陸軍の中央官衙を襲ったということなので、軍首脳部とは関係のない、又はこれを敵視してかかったものかも知れない。
 諸官の十分肝に銘じておかなければならんことは、軍は陛下の大命によるのでなければ、動くことはできない。とくに武器を用うるが如きことは、断じて許されない。しかし、わが国家各方面の堕落を看過するに忍びず、起って革新の実を挙げたいと熱願する純情の士が、諸官の中にも存在するかもしれない。そのような人は、ちょうど幕末の志士が各自の行動でその属する藩に迷惑をかけないため、禄を返還し、藩籍から離れ、一介の浪人となって国事に奔走した例にならい、現役より退き、身を在郷の地位に移した上で、革新のことに邁進するがよろしい。そうすれば陛下の軍には、何らの迷惑をも及ぼさない。
 よって今朝起こった東京の事件に参加のため上京したいと思う人は直ちに連隊長に届け出で、予備役編入の手つづきをとられよ。万一にも現役のまま右暴動に参加するような者があったら、軍律違反者として、私は断乎たる処分を行なう。諸官はよく、建軍の大義を考え、国家のためとはいえ、個人の感情により、軍を害することのないよう切望してやまない」

 著者の振る舞いとは、対蹠にある考え方だろうと思う。

posted by A at 10:42| 本(小説) | 更新情報をチェックする

2013年05月04日

【本】村上春樹「1Q84」

「1Q84」 村上春樹/新潮社/2009〜2010年

 村上春樹の長編はひととおり目を通すことにしているのだけれど、本書を長らく積読にしているうちに、いつの間にか新刊が出てしまった。ともかく、先月から少しずつ通勤電車の中で本書を読み進め、ようやく読了した。

 本書のプロットをごく大雑把に説明すると、主人公格の青豆や天吾が「1Q84」年の世界に迷い込み、様々な経験を経て成長し、そこから脱出して新たな世界に進む、というものだ。予想外の出来事による身辺の環境の変化、親や友人の死、伴侶の獲得などといった試練に直面する、この「1Q84」年という舞台は、あるいは何かを暗喩するものなのだろうか。まだまだ不安定ながらも、人生の基盤を着実に固めていく青年期のメタファなのか。それとも、単に人間の姿や宗教の特異性を浮き彫りにするために用意された舞台装置に過ぎず、特別な意味は何も込められていないのか。物語のディテールも含めて、色々と好き勝手な推測を巡らせて楽しんだ。

 村上春樹作品では、しばしば多義的な解釈の余地があるストーリーが展開され、その人となりや思考様式が読者の見方に委ねられている登場人物も少なくない。そして読者は、自身の経験や思想に引きつけてそれらを咀嚼し、結果的に読者自身が村上作品に「最後のひと手間」を加えることによって、自分にとって納得のいく作品を自ら仕上げている側面があるように思うのだ。村上作品が世界規模で広く受け入れられていること、また、熱心なファンを次々に生み出していることの理由の一つは、そんなところにもあるのではないか、などということを考えた。

posted by A at 09:51| 本(小説) | 更新情報をチェックする

2010年01月04日

【本】森見登美彦「夜は短し歩けよ乙女」

「夜は短し歩けよ乙女」 森見登美彦/角川書店/2006年
(角川文庫版(2008年)で読みました)

 大学生の「先輩」が、黒髪の乙女である後輩の「彼女」の気を引こうと奮闘する、ちょっとコミカルな恋愛ファンタジー。2007年山本周五郎賞受賞、本屋大賞2位、直木賞候補作。

 リズミカルで巧妙な文章、愉快な登場人物、ファンタジックな舞台設定、そして、どんどん引き込まれる破天荒なストーリー。実に魅力的な物語だ。博識な著者が随所に仕掛ける、衒学的なパロディにもニヤリとさせられる。ライトノベル的な本かな、という先入観があってなかなか手を出せずにいたのだけれど、読み出すと止まらなくなる一冊だった。

 本書の魅力は沢山あるけれども、個人的には、ヒロインの純真なキャラクターに強く惹かれた。人を疑うことを知らない善意あふれる性格や、人の幸せを(やや勘違い気味に)祈れる純粋さ、そうした善なるもののために彼女が発揮する驚異的な行動力は、読んでいて相当気持ちが良い。そして、その天然ボケぶりや、「おともだちパンチ」とか「なむなむ!」といった小道具が、彼女の魅力をよりいっそう引き立てているのだ。

 彼女のような天真爛漫さは、我々も子供の頃にはある程度持っていたはずのものだ。けれども、歳を重ねるにつれて、我々はそれをどこかに置き忘れてしまう。そうした「失われた純真さ」への憧憬が、彼女に惹かれる理由の一つかもしれないな、などと考えたりした。

posted by A at 01:04| 本(小説) | 更新情報をチェックする

2009年02月09日

【本】庄司薫「さよなら快傑黒頭巾」

「さよなら快傑黒頭巾」 庄司薫/中央公論社/1969年
(中公文庫版(1973年)で読みました)

 いわゆる庄司薫四部作の第三作(ただし、第二作の「白鳥の歌なんか聞えない」より本書の方が先に刊行された)。主人公が、兄の知人の医学生や若手政治学者をめぐる出来事などを通じて、青春や理想の挫折を垣間見る物語。

 二人の魅力的な美少女も気になるけれど、やはり本作の軸となるのは、主人公の薫くん(どうしても「くん」を付けたくなる)と、兄貴を始めとした人生の先輩たちとの関係だろう。薫くんの兄貴たちは、「人生という兵学校」における頼もしい先達であり、薫くんの目には見えないことを教えてくれたり、大人として頼り甲斐のあるところを見せたりする。

 しかし、兄貴たちが頼もしければ頼もしいだけ、最後の場面で彼らが見せる泥酔した姿は、より一層強い印象を残すものになる。そして薫くんは、そんな兄貴たちのために、早朝の玄関でひたすら来るべきものを待ち続ける。社会に出て現実を知り、自分の力では敵わないことがいくらもあることを知ってしまった兄貴たちへのやさしさと、自分はまだ負けないというささやかな自負をこめて。

 庄司薫の小説には、10代終わり頃の「男の子」が抱く理想や感性がきれいに封じ込められている。もう薫くんの兄貴たちとほぼ同じ年頃になってしまったけれど、彼の一連の作品を読めば、10年ほど前、薫くんと同じくらいの歳に初めて四部作を読んだ頃の気持ちを、少しだけ思い起こすことができる。

posted by A at 00:00| 本(小説) | 更新情報をチェックする