2015年05月31日

【本】磯部定治「只見線物語」

「只見線物語」 磯部定治/恒文社/1989年

 日本一の豪雪地帯を走るローカル線、只見線の全面開通までの経過を描いたノンフィクション。

 福島県の会津若松駅と新潟県の小出駅を結ぶローカル線、只見線の敷設経緯を取り上げた本である。著者が小出町出身で、長く越南タイムズ社の記者を務めたこともあって、主に新潟側からの視点に立った構成となっている。地元の取材を長く続けてきた著者の手によって、地域政治家たちの熱心な建設運動や沿線住民の暮らしの変化などが、臨場感をもって描き出されていて興味深い。

 大正9年に「柳津−小出間の鉄道敷設促進に関する陳情書」が国に提出され、昭和10年に着工した只見線は、戦争資源となる硅石や木材の搬出の目的もあって、まず昭和17年に小出駅〜大白川駅間が部分開通した。この開業は、沿線住民にとっては大きな喜びだった。豪雪の4〜5か月間はバスも通らず、徒歩以外の交通手段がなかった村々にも、大雪をかきわけて毎日汽車が来てくれる。只見線は地域に不可欠な交通手段として機能し、昭和30年代後半には、定員80人程度の客車に350人を詰め込み、3両編成1,000人の乗客で運行することもあったのだそうだ。

 その後、国鉄の赤字ローカル線の廃止議論が喧しくなっていく中で、住民たちは只見線の全線開通を郷土の政治家・田中角栄に託す。折から進みつつあった過疎化を、この全通で打開しようとしたのだった。国鉄の赤字体質が強い批判にさらされる中で、既に大赤字線であった只見線の建設を続行することは、時の権力者である田中の力なくしては到底不可能であったろう。そして、ついに昭和46年に、只見線全通は達成されたのだった。

 ところが、只見線の建設と並行して、沿線地域でも道路の改良・無雪化工事が進められていた。そして皮肉なことに、只見線の全通と時を同じくして、周辺町村にもようやく車社会が到来したのだった。住民たちは只見線の開通に熱狂したが、ちょうどこの全通の時期を境に只見線の乗客はどんどん減り出し、あれほど待望された鉄道路線は、あっという間に住民たちの意識から遠のいていってしまったのである。

 平成23年に発生した豪雨のため、現在、只見線の会津川口駅〜只見駅間の営業は休止されている。この区間の平成21年度の営業係数が6700であり(営業収益約500万円、営業費約3億3,500万円。すなわち、1年間で約3億2,900万円という膨大な赤字)、さらに復旧費用として約85億円を要することが見込まれることもあって、この資料を見ても、JR東日本は再開通に消極的な姿勢であるように思える。この国が水と緑の国であることを強く実感させられる、あの美しい只見線の車窓風景の一部が失われることは本当に残念だけれど、それこそ田中角栄のような横紙破りの政治力でもない限り、復旧への決定打はなかなか見出し難いのかもしれない。

2015年01月12日

【本】尾上太一「島を愛す 桃岩荘/わが青春のユースホステル」

「島を愛す 桃岩荘/わが青春のユースホステル」 尾上太一/響文社/2011年

 北海道礼文島のユースホステル、桃岩荘をテーマにした写真集。1999年から2010年にかけての写真71点を収録。全編モノクロ。

 旅人たちの間で広く知られた宿、桃岩荘を取り上げた写真集である。この桃岩荘は、かつての「ユースホステル文化」を色濃く残している宿で、昔ながらのミーティングや、スタッフ・宿泊者一体になっての歌と踊り、港での盛大な出迎え・見送りなどを今も続けているのだそうだ。その有り余るエネルギーから、「北海道三大きちがいユース」の一つに数えられた時代もあったようで、youtubeに多数投稿されている見送り動画(たとえばこれ)を見ても、その個性的な様子は十分に伝わってくる。

 こうした桃岩荘のバイタリティとは対照的に、本書は、極めて静かな雰囲気をたたえた写真集である。礼文島の海と空、静寂に包まれた浜、オフシーズンの建物群などを、そっと穏やかに切り取ったような写真の数々が、丁寧に収められている。本来賑やかであるはずのミーティングや見送りの場面も、まるで遠い日の大切な思い出であるかのような、懐かしい佇まいを見せた写真に仕上がっている。旅の最も美しい瞬間、永続しないものだけが放つことのできる輝きを、著者はその鋭敏な感性で見事に捉えている。

2014年11月22日

【本】金邦夫「金副隊長の山岳救助隊日誌」

「金副隊長の山岳救助隊日誌 山は本当に危険がいっぱい」 金(こん)邦夫/角川学芸出版/2007年

 警視庁青梅警察署山岳救助隊の副隊長として、長年にわたって奥多摩で山岳救助に携わってきた著者が、平成14年から18年ごろにかけての救助活動の様子を、自分の感想や意見を交えながら綴った本。

 奥多摩の山は標高も低く、都心から近いこともあって、気軽に登山に来ることができる。そのため、安易な気持ちと不十分な装備で山に入った登山客が遭難事故を起こし、救助を求めてくる場合がある。ひどい時は、日没や疲労を理由に救助要請を行うハイカーもおり、そのたびに山岳救助隊が出動させられることになる。著者は本書の中で、登山客の軽装ぶりや心構えの甘さに繰り返し苦言を呈しているけれど、いくつかの遭難記録を読む限り、著者が怒るのは当然と思えた。

 ただ、そうした手厳しい指摘を含みながらも、本書の読後感は決して悪くない。それは、著者が山に対して抱く温かい感情が、本書を通底して流れているからではないかと思う。「仙人」と呼ばれるユニークな山小屋管理人とのやり取りや、廃集落の幻の滝を訪ねる記録は読んでいて愉しいし、四季折々の自然をいとおしむ文章は、著者の繊細な審美眼をうかがわせるものである。救助した遭難者に対しても、その行動の甘さを指摘しつつも、「山に登るということは素晴らしいことなんだけど、自然に挑戦するには危険が伴う。それなりの装備と知識がなければだめだ」と教え諭したり、「山を志す若者を失いたくない」と、負傷者の回復を心から祈ったりする。そこにあるのは、言葉はぶっきらぼうでも心根は優しい、古きよき「山ヤ」の姿である。

2014年09月13日

【本】「廃線跡懐想 北海道編」

「廃線跡懐想 北海道編」 宮脇俊三(巻頭紀行)ほか/JTB/2002年

 北海道各地に残る、廃線跡や鉄道遺構の姿を収録した写真集である。現地を訪ね、廃線跡の現状を調べたライター達の訪問記も掲載されていて、読み物としても非常に面白い。刊行から既に十数年が経過しているため、本書で取り上げられた遺構の中には、もう撤去されてしまったり、自然の中で朽ち果ててしまったものも少なくないのではないかと思う。

 本書の中の美幸線の項には、以下のような記述がある。

「明治初期、鉄道は都会と港、炭鉱と港を結ぶ所に建設されていった。やがて日本列島の骨格のように線路をのばし、さらにその幹線から毛細血管状に支線が列島を覆う。美幸線もそんな細い血管の一つだった。しかし、美深から北見枝幸までの鉄道はあまりにもスタートが遅すぎた。美深〜仁宇布の開業が昭和39年。その先も工事は続けられたが、部分開業した美幸線自体「日本一の赤字線」として有名になる結果となった。すでにその命脈は尽きていたのだ。美幸線の廃止は昭和60年。完成が近かったコンクリートの路盤はここでも自然の中に果てようとしている。」

 本書に登場する数々の廃線跡も、明治以来の北海道開拓の潮流が辿りついた結末の一つなのかもしれない。本書表紙のタウシュベツ橋梁や、ヒグマが棲む森の中に放棄された名羽線のコンクリート橋、今にも崩れ落ちそうな天北線の廃駅舎などの姿を見ると、先人たちが描いた僻地開拓の夢の末路を、まざまざと見せつけられるようで寂しい。

 それにしても、廃線跡や廃墟のような崩壊の途上にあるものは、どうしてこれほど不思議な美しさを宿すのだろうか。草に埋もれて錆びついた線路や、森の中に無機質な残骸をさらす橋梁などは、どれも神秘的な魅力と形容しがたい懐かしさを放ってやまない。ある物が失われようとする時ほど、その価値が強く再認識される、ということなのだろうか。

2014年08月30日

【本】吉田正仁「リヤカー引いて世界の果てまで」

「リヤカー引いて世界の果てまで 地球一周4万キロ、時速5キロのひとり旅」
吉田正仁/幻冬舎文庫/2014年

 いわゆるニートだった著者が一念発起し、リヤカーに衣食住の荷物を積んで、徒歩で世界一周に挑んだ旅行記。

 4年半余りの歳月をかけて、中国から中央アジア、ロシア、東欧、トルコ、西欧、北米、オーストラリア、東南アジア、そしてまた中国を一人で歩きぬいた若者の旅の記録である。世界各地の人々との温かい交流や、わりと真剣に命が危ない場面などを、素直な筆致で瑞々しく描き出していて面白い。臨場感にあふれた、優れた紀行文と呼べる一書である。

 たとえばオーストラリア縦断の場面について取り上げてみると、著者は、オーストラリア大陸の中央を貫く全長約2,800キロのスチュアートハイウェイを、南から北に向かって単独で踏破していく。このハイウェイ沿線は一面の砂漠で、100キロ、200キロ単位でしか町が存在せず、水も食料もろくに補給することができない。そのような不毛な土地を、灼熱の太陽に照らされながら一人黙々と歩くありさまは、ただ苛酷というほかない。しかしそんな道のりの過程でも、著者は、砂漠の町の雰囲気や気候の様子、通りすがりのドライバーたちとのやり取り、途中で寄り道をしてはるばるウルル(エアーズロック)を訪ねた経緯などを活き活きと描いていて、その感性の豊かさを存分に伝えている。

 ところで、旅が似合う年頃というのは意外に短い。どこにでも行ってやろうという10代の頃の突撃精神も、何でも見てやろうという20代の旺盛な好奇心も、30代に手が届くころになると、どうしても陰りが見えてきてしまう。また、「いつまでふらふらしているのか」という周囲の視線や、なかなか安定できない自分への反省が突き刺さるようになって、旅への無邪気な憧憬を次第に失っていってしまうのだ。そうした意味で著者は、旅がもっとも似つかわしい年代の最後に間に合う形で、この素晴らしい旅を実現できたのではないかと思う。