2009年09月14日

【本】手塚正己「軍艦武蔵」

「軍艦武蔵 上・下」 手塚正己/新潮文庫/2009年
 (2003年に太田出版から刊行された「軍艦武蔵」を、加筆・修正したもの)

 戦艦「武蔵」の建造過程から、太平洋戦争中の行動、レイテ沖海戦での激闘・沈没、乗員たちのその後の運命などを、関係者の証言を基に描き出したノンフィクション。

 上下巻合わせて1400ページ弱に及ぶ、大変な労作である。生き残った乗組員たちや、シブヤン海で「武蔵」乗員を救助した駆逐艦「浜風」「清霜」の関係者、そのほか「武蔵」に縁のあった広汎な人々から実に丹念に証言を集め、「武蔵」の足跡を克明に辿っている。調べた事実を細部まで提示することは、しばしば物語としての面白さを低減させることにもつながりかねないが、本書は個々の登場人物のストーリーをそれぞれ丁寧に描き上げることで、次々にページをめくりたくなるような誘引力を有する作品に仕上がっている。

 戦艦「武蔵」にまつわる書物としては、吉村昭の名著「戦艦武蔵」を始め、一定の刊行物が世に出されている。これらの書籍と本書の顕著な相違点は、本書が「武蔵」沈没後の展開にも大きな比重を置いていることだろう。計1400ページ弱のうち、実に400ページ弱が、「武蔵」が失われて以後の関係者の物語に充てられている。生き残った「武蔵」乗員のうち、約半数はそのままフィリピンに残され、そのほとんどはマニラ市街戦やコレヒドール島攻防戦、建武集団の戦いなど、ルソン島を舞台とする戦いで戦死した。世界一の戦艦として、日本海軍の精鋭を集めた乗組員たちのその後の運命は、極めて過酷なものであったことが窺われる。

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2009年08月07日

【本】丸山豊「月白の道」

「月白の道」 丸山豊/創言社/1970年
(新訂増補版(1987年)で読みました)

 太平洋戦争中、北ビルマのミイトキーナで戦い、辛くも生還した軍医による回想記。著者は戦後、医院を開業するとともに詩人としても活躍し、1991年、その業績を称えて、郷里久留米市が「丸山豊記念現代詩賞」を創設している。

 北ビルマ・雲南戦線における過酷な戦場の一つ、ミイトキーナで、第56師団(龍(たつ)兵団)の歩兵団長である水上源蔵少将の側近として戦った軍医中尉の戦記である。戦後、現代詩人として高い評価を得た人物による記録であるためか、どことなく叙情的で幻想的な雰囲気を持つ作品であり、そうした作風が、ある意味では戦いの凄惨さをより一層際立たせている。

 太平洋戦争開戦後、著者の属する坂口支隊(坂口静夫少将指揮)はミンダナオ、ボルネオ、ジャワ上陸戦に勝利し、その後、龍兵団本体に再合流して北ビルマの戦いに参加する。昭和19年、第18師団(菊兵団)歩兵第114連隊が守る交通の要衝、ミイトキーナが連合軍の攻勢を受け、危殆に瀕したことから、坂口少将の後任、水上少将に救援命令が下る。もっとも、同時期に進行していたインパール作戦のあおりを受けてビルマ戦線はどこも兵力不足に陥っており、水上少将が率いた増援部隊も、僅かに歩兵1個小隊他の小部隊だった。

 水上少将がミイトキーナに着任した後も、連合軍は圧倒的な兵力で攻撃を続け、日本軍守備隊は次第に全滅の危機に近づく。既に軍からは「水上少将はミイトキーナを死守すべし」(=現地を死ぬまで守り、生きて撤退することは許さない、の意)との命令が発せられていたが、まだ生存している部下を救うため、水上少将は退却命令を下して自決する。著者は、少将自決直後の模様を次のように描いている。

「起案用紙がぬれていなかったところをみると、そのときはもう雨がやんでいたのかもしれない。用紙には鉛筆がきで命令がしたためられ、書判をおしておられた。
 ミイトキーナ守備隊ノ残存シアル将兵ハ南方ヘ転進ヲ命ズ。
 伝令がはしって高級副官も次級副官もかけつけた。水上閣下のこの絶筆は、二階級特進も軍神の名もなげうって、いさぎよい抗命のかたちで、まだ生きのこっている私たち約七百名の延命を策されたものである。
 堀江屋副官が、連隊本部へ閣下の死を報告にいったあいだ、執行大尉は閣下の魂のない体をだきかかえ、私は微弱な心音を無意味にきいていた。(以下略)」

 苛烈な戦場で部下をいたわり、わずかな食料や煙草も部下に分かち与え、菊兵団の将兵でさえ「閣下に一目お目にかかってから死にたい」とわざわざ挨拶に来る者が絶えないほど、水上少将の徳性はミイトキーナに響いていたという。本書の冒頭で著者は言う。

「私たちはおたがいに心の虫歯をもっていたほうがよい。ズキズキと虫歯がいたむたびに、心のおくの一番大切なところが目ざめてくる。でないと、忘却というあの便利な力をかりて、微温的なその日ぐらしのなかに、ともすれば安住してしまうのだ。さえざえとした一生を生きぬくには、ときどき猛烈な痛みを呼びこむ必要がある。」

 著者にとっての大きな「心の虫歯」は、敬慕する将軍を悲惨な戦場で失ってしまったこと、それをどうすることもできなかったことへの、強い心の痛みであったに違いない。

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2009年07月03日

【本】八原博通「沖縄決戦 高級参謀の手記」

「沖縄決戦 高級参謀の手記」 八原博通/読売新聞社/1972年

 第32軍高級参謀として、太平洋戦争における沖縄戦の作戦を指導した著者が、戦いの経過を振り返った手記。

 冴えない飛行場設定軍としての第32軍の発足から、マリアナ失陥後の急速な兵力増強、大本営や第10方面軍の過度な干渉、第9師団の台湾抽出、繰り返される陣地変換、住民疎開の努力、米軍上陸後の戦闘経過、そして司令部の崩壊に至るまで、軍の中心にあった者しか知りえない沖縄戦の実相を率直に明らかにした本である。その分量も450ページ弱に及び、読み応えがある。

 第32軍の使命を「戦略持久」と心得ていた著者は、米軍上陸後、攻勢に逸る軍上層部とたびたび衝突を繰り返す。例えば、昭和20年5月4日に予定されていた総攻撃に強硬に反対する著者は、攻勢の決心を固めた牛島軍司令官からの説諭に対し、

 「私は失敗必定の攻撃の結果を思うと、つい憂鬱にならざるを得ません。今回の攻撃が成功するやに考える者が多いようですが、おそらく数万の将兵は、南上原の高地にも手をかけ得ず、幸地付近を血に染めて死んで行くでしょう。これは、無意味な自殺的攻撃に過ぎぬものと思います。しかし、すでに閣下が決心になったことでありますので、私としては、もちろん、その職責に鑑み、全力を尽くしております。」

と述べている。このような、あまりにも露骨な物言いをしていては、著者が軍内で次第に孤立していくのは当然であろう。著者は「悲運の参謀」などと呼ばれることがあるが、その原因の一端は、他ならぬ著者自身にあったと見ることもできるのではないか。

 しかし、こうした著者の気質は、一面では彼の美点でもある。著者は他人に対して仮借ない態度を取るところがあるが、それは作戦の成功を追求するあまりのものであり、言わば強烈な職人気質の表れのようなものだ。周囲の人間が次々に攻勢を叫ぶ中で、臆病と蔑まれながらも徹底して自分の主張を貫こうとする姿勢は、生半可には取り得るものではない。むしろ、展望のない持久戦や米軍の圧倒的な砲爆撃に耐え切れずに総攻撃を唱え出した者たちの方が、外見上は勇敢なようでいて、その本質は臆病であるか、あるいは戦いの先行きを見通す冷静な目を持っていなかったと言えるのではないだろうか。

 なお、著者と軍参謀長の長勇中将は、作戦方針やその人となりが対照的であったこともあり、鋭く対立したイメージが強い。しかし実際のところ、著者は長参謀長の人間性について少なからず好意的であり、また長参謀長の側も同じであったことが、本書の端々から見て取れる。自分にはない資質を互いに相手に認めていたのかもしれないが、こうした戦史の表面に表れにくい生の人間関係も、本書の興味深い部分の一つである。

(後日追記)
 本書については、作家の佐藤優氏(御母堂が沖縄戦に巻き込まれる)が、琉球新報のコラムで「沖縄人を物のごとく扱う姿勢に吐き気がする」という厳しい評価をされているようである。こうした見方があることも認識しておくべきものと思われるため、合わせて紹介しておく。


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2009年06月01日

【本】武藤章「比島から巣鴨へ」

「比島から巣鴨へ」 武藤章/実業之日本社/1952年
(中公文庫版(2008年)で読みました)

 太平洋戦争開戦期に陸軍省軍務局長として軍部を主導し、その後近衛第2師団長、第14方面軍参謀長を務め、敗戦後にA級戦犯として処刑された武藤章中将の回顧録。大きく分けて、誕生から終戦までの来歴を記した「経歴の素描」、フィリピンでの戦いの経過を詳述した「比島戦の実相」、巣鴨に拘置された日々を綴った「巣鴨日記」の三編からなる。

 陸軍きっての俊秀と呼ばれた武藤の自伝だが、陸軍中枢部や支那派遣軍で腕を振るった佐官以降の時代の記述は、曖昧で不明確な部分が多い。特に、対支戦線拡大や三国同盟、大政翼賛運動などに関する彼の思想や行動は結果的に国の方向を誤ったものであり、この点、彼自身の手による明確な総括を期待したかったところではある。

 しかし、フィリピンでの苦戦の模様や、巣鴨での日々に関する記録は、軍人の筆になるものとしては比較的客観性を失わず、また滋味を含んだものだ。米軍に押され第14方面軍全体が窮地に陥る中、蠅を叩いている山下奉文大将に向かって、

「老将の蠅叩きおり卓ひとつ」

の句を詠み、大将から「でもここには老将はおらんよ」などと返されるさまは、苦境にあって精神の余裕を失わない彼の姿を端的に示すものだろう。

 戦後、巣鴨の獄中で旺盛な読書に励む著者は、H.G.ウェルズの「世界文化史」の中で職業将軍の頭の堅さが徹底的に罵倒されていることについて、「聡明で悧巧な将軍がいて、日々外界の新しい刺戟によって事物を変更していたら、その結果どんな軍隊が出来上るだろうか。恐らく戦争の役には立つまい」と反論を試みている。米内光政にも似たような言葉があったと記憶するが、このように軍人自身を客観的に見ることができる軍人が、当時どれほどいただろうか。著者には少年の頃から文学、思想、哲学等の耽読癖があったそうだが、惜しむらくは軍人に似つかわしくないそうした識見が、軍の中枢にある時に適切に発揮されるほど強固なものではなかったことだ。結局、彼自身も「頭の堅い」軍人の呪縛から逃れられなかったということだろうか。

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2009年04月18日

【本】御田重宝「太平洋戦争下偽装病院船事件 「橘丸」と戦犯裁判」

「太平洋戦争下偽装病院船事件 「橘丸」と戦犯裁判」 御田重宝/徳間書店/1977年

 昭和20年8月3日未明、豪州北部のバンダ海で、単船ジャワ島を目指していた日本軍の病院船が米軍の駆逐艦に拿捕された。大きな赤十字マークを付けたこの病院船「橘丸」に米軍が移乗して調べたところ、船に乗せられていたのは病人ではなく、ニューギニア島南西のカイ諸島に展開していた第5師団歩兵第11連隊第1、2大隊の大隊長以下全員と歩兵第42連隊の1個中隊、合わせて1,562名の将兵と、多量の武器弾薬であった。本書は、世に言うこの「橘丸事件」の計画・発生から、国際法違反を問うた戦後の戦犯裁判までを追ったノンフィクションである。

 連合軍による飛び石作戦の結果、豪北方面(現在のインドネシア東部〜中部方面)の最前線に取り残された第5師団、第48師団などの精鋭部隊は、事実上の遊兵と化していた。そこで南方総軍は、近く予想されるマレー・シンガポール方面への連合軍の攻勢に備えるため、これらの部隊の移転を計画した。しかし当時の軍の輸送能力は、南太平洋一帯の輸送を担当している第3船舶輸送司令部管内で、千トン以上の輸送船が僅か2隻しか残存していないという、ほとんど戦争の遂行自体が不可能とも言える状況に陥っていた。このため、南方総軍は、病院船「橘丸」での部隊輸送を企図することになる。

 20年7月、「橘丸」により第48師団の一部をティモール島からジャワ島に移駐することに成功した軍は、次いで第5師団の歩兵第11連隊主力を始めとする部隊の輸送を実行する。ところがこれが米軍に露見し、大隊長(少佐)2名を含む、病人の格好を偽装した多数の将兵を一度に捕虜とされた上、病院船で兵士や軍需物資を輸送するという国際法違反を日本軍が犯した事実を、世界に知らしめることとなってしまう。事件の一報を聞いた南方総軍司令官の寺内寿一元帥は、不名誉な捕虜を大量に出した事態に激怒し、爆撃機を出して「橘丸」を撃沈せよ、との命令まで発したという。もっとも当時の軍には、そのような航空兵力さえ残っていなかった。

 この「橘丸事件」に責任を感じた第5師団参謀長の浜島厳郎大佐(インパール作戦当時、烈兵団の参謀だった人)は8月6日に、また、師団長の山田清一中将は終戦の日である8月15日に、相次いで自決した。これに対して、戦後、「橘丸事件」の国際法違反を問う戦犯裁判において、第5師団に対して命令を下す立場にあった第2軍司令官の豊嶋房太郎中将や、南方総軍総参謀長の沼田多稼蔵中将は、師団に罪を負わせ自らの責任を逃れようとする弁明に終始したとされている。重責を担うべき立場に、それに相応しい人材を得られなかったことは、日本陸軍の致命的な欠陥の一つだったと言ってよいだろう。

posted by A at 21:36| 本(戦記) | 更新情報をチェックする