2011年05月15日

【本】島田覚夫「私は魔境に生きた」

「私は魔境に生きた 終戦も知らずニューギニアの山奥で原始生活十年」 島田覚夫/光人社NF文庫/2002年
(初版は、1986年にヒューマンドキュメント社から刊行)

 昭和19年から10年以上にわたって、ニューギニアの密林の中でサバイバル生活を生き抜き、ついに昭和30年に帰国を果たした日本兵たちの生存闘争記録。

 昭和19年4月。東部ニューギニア戦線で劣勢に苦しむ日本陸軍の第18軍は、西部ニューギニアに展開する第2軍との合流を目指し、部隊を西方に転進させ始めていた。そんな中で、いわゆる「蛙飛び作戦」を採用した米軍は、4月22日、第18軍の後方基地であったニューギニア中部のアイタペとホーランジアに同時上陸し、両地の日本軍守備隊を一蹴する。

 それでも、アイタペの日本軍守備隊は東の第18軍へ、ホーランジアの守備隊は西の第2軍へ合流すべく撤退することができたが、悲惨を極めたのは、たまたまアイタペとホーランジアの間を西に向けて転進中の部隊だった。「サンドイッチ部隊」と呼ばれるこれらの部隊は、東西を米軍に挟まれ、北を海に遮られ、十分な食料も武器もないままジャングルの中を彷徨い続ける運命となる。その結果、戦史叢書によれば、約2500名いた「サンドイッチ部隊」の死亡率は、実に99.9%に上ったという。

 本書は、この「サンドイッチ部隊」に含まれる著者たちが、密林の中で厳しい自活を続け、ついに生還を遂げるまでの模様を詳しく描いたノンフィクションである。昭和19年6月、17名で「籠城生活」を始めた著者たちは、敵軍の襲撃や悪疫などで次々に同志を失いつつも、ジャングルの奥深くでどうにか農園の開拓に成功し、日本軍の再来攻を信じながら辛うじて露命をつないでいく。昭和26年頃には、原住民に自らの所在を知られてしまうが、彼らを口止めしながら隠棲を続け、ついに昭和29年9月、生き残った4名が現地官憲に救出されるのである。

 それにしても、彼らの生存闘争は大きな運にも恵まれていたのだと思う。まず、近くに日本軍の物資集積所があり、数年分の食料や農器具などを調達することができたこと。昭和20年5月の敵襲を除き、彼らの隠れ家が敵に発見されることはなかったこと。苦心して開墾した土地で、農作物が無事に実を結んだこと。乾パンの袋などから衣料の代用品を作ることができ、これでマラリアの悪寒に対処できたこと。貯蔵していた塩が欠乏した頃、原住民との交流が生まれ、彼らから必要な物資を得られるようになったことなど、どれ一つ欠けても、著者らが生命を維持することは不可能だったに違いない。

 また、著者らが生き延びたことについては、食料の徹底平等分配主義など著者のリーダーシップが適切で、メンバー間の団結が保たれたことや、彼ら自身の創意工夫や多大な努力があったことも不可欠の要因として挙げられる。著者は、昭和19年末頃の「サンドイッチ部隊」の状況について、「当時までは他にも相当数の日本兵がいることを集積所、あるいは巡邏道に残された形跡によって想像していたが、その後一年程の間には全くその形跡を絶ってしまった」と書いているが、結局のところ、ニューギニアの過酷な自然環境は、著者らのように運と能力に恵まれた者にしか、その生存を許さなかったのだろう。

 ところで、本書の中では、著者らと他部隊との間で発生した、とある食料争奪事件の模様が描かれている。すなわち、ある夜、著者らが夜闇に紛れて、敵軍の管理下にある食料集積所から物資を盗み出して物陰に隠した。そして、次の日の夜に回収に行ったところ、独立工兵隊の将校を名乗る者たちがこの物資を発見しており、著者に銃剣を突き付けてこれを強奪しようとした事件である。

 この、著者に銃剣を突き付けた、自称「独立工兵隊の将校」は、「ゆきゆきて、神軍」で知られる奥崎謙三上等兵である。戦後数十年を経て著者と奥崎が邂逅する経緯については、「土壇場における人間の研究 ニューギニア闇の戦跡」という本に詳しいが、ほぼ全員が戦没したとされる「サンドイッチ部隊」の奇跡的な生還者2名が、互いの存在を知らないまま、ニューギニア山中で起きた同じ事件についてそれぞれ自著で言及するということは、かなりの奇縁と言っていいように思われる。


(2016.2.11追記)
 「サンドイッチ部隊」については、別記事に詳しくまとめました。


posted by A at 11:16| 本(戦記) | 更新情報をチェックする

2010年09月12日

【本】後勝「ビルマ戦記 ―方面軍参謀 悲劇の回想」

「ビルマ戦記 ―方面軍参謀 悲劇の回想」 後勝/光人社/2010年(新装版)

 昭和19年から20年にかけて、ビルマ方面軍後方参謀として主に軍の兵站・補給面を指導した少壮幕僚による戦記。

 太平洋戦争のビルマ戦線といえば、多大な犠牲をもたらしたインパール作戦(昭和19年3月〜7月)が広く世に知られる。しかしビルマの日本軍は、インパール作戦後の撤退戦の過程で、インパール作戦よりさらに多数の戦没者を生み出している。本書は、戦線全体を俯瞰する立場にいた著者が、こうしたビルマ戦後半期の悲惨な戦闘の実情を描いた記録である。

 昭和19年1月、参謀本部第二課(作戦課)からビルマ方面軍に着任した著者は、軍の後方参謀として、兵站支援を計画・指導する任に就く。着任早々予定されていたインパール作戦に際して、著者は作戦開始前に第15軍の弓兵団(第33師団)、烈兵団(第31師団)、祭兵団(第15師団)の各司令部を巡回訪問する。そして、補給面の弱点を補う方策と、雨季を控え作戦転換の時期を誤らぬよう特に注意すべきことを軍首脳に意見具申しようとするが、同じ後方担当の主任参謀から、

「この作戦は第十五軍が計画し、方面軍も総軍も大本営も承認した作戦で、方面軍の作戦班も、この計画で一ヵ月間にインパールを落とすというのだから、まかせておけばよいのではないか。われわれ後方のものは、その作戦計画の範囲内で後方の仕事をすればよいので、それ以上の口出しは僭越だ」

と一蹴されてしまう。さらに5月初頭、著者は危険を冒して行った現地視察を踏まえ、「インパール作戦の遂行は、糧食の持久限度と雨期入りの時期をあわせ考え、五月末が限度である。五月末には自主的に作戦を打ち切り、全軍一斉にチンドウィン川の線に後退し、雨期体制に入って戦力を回復することが必要である」と軍に報告したところ、

「方面軍の一部幹部の中には、臆病なる発言をなす者があるが、これら臆病な幹部の存在が方面軍目下の最大の敵である」

として冷遇すらされるに及ぶ。当時の主だった方面軍幹部は、前線の実情を把握しようともせず、自らの保身のために、ただ上滑りな積極論を繰り返すばかりであった。

 その後も著者は、無責任な攻勢主義を唱える作戦主任参謀と衝突しつつ、繰り返し戦場を視察して軍の後退戦を指導する。特に昭和20年4月、僅かな同行者とともに危険な前線に向かい、乱戦の中で敵中に残され行方不明になっていた龍兵団(第56師団)、弓兵団、烈兵団との連絡に成功するくだりは、一種の冒険譚を読むような感を抱かせるものである。同時期の方面軍首脳が、在留邦人やビルマ政府要人を置き去りにして、ラングーンから逃げ出す醜態を演じたことと好対照だが、結局、敗軍の混乱の中で曲がりなりにも組織を支えたのは、著者らのような一部の気骨の人材だったのだろう。


posted by A at 21:04| 本(戦記) | 更新情報をチェックする

2010年05月01日

【本】尾川正二「「死の島」ニューギニア −極限のなかの人間−」

「「死の島」ニューギニア −極限のなかの人間−」 尾川正二/光人社NF文庫/2004年
(初版「極限の中の人間−極楽鳥の島」は、1969年に創文社から刊行)

 一歩兵として東部ニューギニア戦に参加した著者が、絶望的な戦場における兵士たちの人間模様や軍のおかれた極限の状況を通して、戦争と人間の関係を描いた本。1970年、第1回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

 第20師団歩兵第79連隊の一員としてニューギニア戦線に送られた著者による、過酷な生存闘争の記録である。太平洋戦争における最も悲惨な戦場の一つと言われるニューギニアの戦いにおいて、著者は昭和18年1月のニューギニア島上陸から、ラエへの道路建設、フィンシュハーフェンの戦い、ガリ転進、アイタペの戦い、山南邀撃戦を戦い抜き、昭和21年1月に日本へ生還した。4,320名の兵力でニューギニアに上陸した歩兵第79連隊のうち、著者とともに帰国の途に就くことができたのは、僅かに60名だったという。

 連合軍の一方的な砲爆撃、そして飢えや病魔、酷暑が支配した苛烈なニューギニア戦線において、兵士たちは何を感じ、どう振る舞い、そしてどのように死んでいったのか。道無き山岳地帯をたどる苦難の撤退戦、食糧の圧倒的な欠乏、マラリアの猛威、絶望の環境に苦しむ兵士たちの心理、原住民の協力や裏切りの様子などを、著者はその鋭い感性をもって丹念に描いていく。多くの将兵が漫然と見逃していったであろう、あるいは何かを感じ取りながらも、自らの死によりそれを日本に持ち帰れなかったであろうニューギニア戦の情景を、著者は克明な文章の形にして、本書の中に書き綴っている。

「…Sも、その後半歳にも足らぬころ、病苦に耐えられず、連隊長に形式的な許可を得て自決してしまった。「美しい死」という。美しく死にたいと思う。だが、敗走の身をおこしてからは、死を選ぶ自由さえなかった。美しい死とは、何をいうのだろうか。美しい生き方はあっても、美しい死に方があろうとは思えないのだ。戦場での死を、まのあたりに美しいと感じた瞬間は、かつて一度もない。鉄の手に引き裂かれた死を、理念化してみる余裕はないのだ。一様の死しかありえない。ことばに尽くせぬ感動・衝撃――あえて言えば悲しみと怒りとである。「美しい」と「死」とは、そもそも結びつきようもないもののように思われるのである。われわれに許されているのは、のたれ死以外にないのだ。美しく死にたい、と考えたなまっちょろさを知った。」

「…そんなからだで、戦いながら点々と居を移さねばならなかった。装具を持ってもらって、いのちの限り歩きつづけた。おれの生きていることが、みんなの負担になっているのではないか、そう思うと、熱い友情がかえって切なかった。そのころ、自決するのではないかと、それとなくみんなで監視していたのだ、と後になって明かされた。形相はすでに、この世のものではなかったのだ。
 生と死との境界線は模糊としてかすみ、しかも生は苦痛であり死は安楽であるという、くっきりとした定式のなかに生きて、なぜ死のやすらぎを選ばなかったか。ことばにうつすのはむずかしいが、自分を支えていた根源のものは、自分自身に対する責任のようなものであった。それは、逃げないということである。何一つ逃避しないということ、どんな場合にも真っ向から立ち向かっていこうという単純さである。病兵に安楽死を求められたときの振舞いを反省するまでもなく、そういう心の姿勢が幾度かつまずいたのを痛いほど感じている。だが、自分自身から逃げまいとする単純さが、究極の拠りどころであったことは言いきれると思う。さらには、おれにもまだ、何かが残されているはずだ、果たすべき何かがある、そんな気がしていたのである。」

「人間が人間であるということには、学校教育も社会的地位も何のかかわりもない。人間性の問題に関するかぎり、学歴も職業も何のかかわりもなかった。それらは、身につけている衣装にすぎぬ。究極のものは、学校教育をはみ出た部分であり、社会的路線をこえたところでつくられた、より本源的なもののように思われた。それを“繊細の精神”と呼ぶならば、それは一体どこで養われてゆくものなのか。社会的に信頼されるべき人、あるいはインテリという階層に属する人々が、借り着を脱ぐように空しく崩れ、教育もろくに受けていない人物のなかにも、素朴な、それゆえに真正な人間の輝きをみる、という事実をどう解釈すればいいのだろうか。烈しい生存本能は、一切の装いを剥ぎとって、裸身をさらけ出した。装いと構えを棄てたとき、あとに残るものは何なのか。それが、極限状況のなかで問われた課題であり、残酷な試練であった。
 そうした重苦しい陰にみちた黄昏のなかにあって、なお道徳的稟性は信じられていいのではないか、という一条の光を認めえたことは幸せだった。こうして生かされた、ということがその一つの証であるように思われる。人間不信を生み出すべき客観的な事実の数々を見聞しながら、直接私自身に向かってきた人は、信じられていいという反証を掲げてくれることが多かった。これは、どういうことなのか。幸せであったということ以上に、どんな場合にも信じられていい「人間」を、確かめえたように思われるのである。それは、いまなお慰めの星として、暁天に光芒を放っている。」

 戦後、著者は国文学の教授職を歴任するかたわら、平成に入ってからも戦争に関する本を著し続け、平成21年3月、91歳で逝去した。著者に長命を保たせたのは、あるいは、凄惨な体験を具現化する使命感であったのだろうか。


posted by A at 09:21| 本(戦記) | 更新情報をチェックする

2010年03月01日

【本】長嶺秀雄「戦場 学んだこと、伝えたいこと」

「戦場 学んだこと、伝えたいこと」 長嶺秀雄/並木書房/2003年

 レイテ島で戦った元陸軍将校が、自らの戦場体験を踏まえて所感を書きつづった本。

 著者は、太平洋戦争のレイテ島の戦いで第1師団歩兵第57連隊の大隊長として活躍し、辛くも生還を遂げた人物である。レイテ島における著者の行動の軌跡は、大岡昇平「レイテ戦記」をはじめ、複数の戦記に描写されている。本書は、レイテ島や中国戦線での著者の戦争経験を踏まえて、戦場において留意すべき点や体験談をまとめた本である。

 一例を挙げると、本書の冒頭に「タバコ」という一項がある。タバコは一般的には嗜好品とされているが、著者は、「戦場においては、アルコールの興奮性よりも、タバコの鎮静性が、不安や焦慮を落ち着かせて安堵に導く意外な効果があるようである。(中略)そして一本のタバコも分け合う戦友の友情が、部隊の団結を高め士気を鼓舞することになるのである」と述べて、タバコが役に立った具体的な場面をいくつか挙げている。現代では強く排斥されているタバコが、戦場では意外な効用を果たしていた、という点が興味深かった。

 また著者は、「タバコ」のほかにも、「シャベル」「病気」「塩」「糧食」「地図」「トイレ」「馬」や、あるいは戦闘方法や部下の掌握方法などについて、実際に戦争の場に身を置いた者でなければ分からない教訓を詳しく紹介している。こうした戦争に関する先達の知恵が活かされる場が、再度現出することはあってはならないと思うけれど、著者がどのように死地をくぐってきたかという体験談として、なかなか関心を惹かれる内容だった。

posted by A at 01:11| 本(戦記) | 更新情報をチェックする

2010年01月09日

【本】高木俊朗「抗命 −インパールU−」

「抗命 −インパールU−」 高木俊朗/文春文庫/1976年
(初版「抗命」は、1966年に文藝春秋から刊行)

 太平洋戦争のインパール作戦で佐藤幸徳・第31師団長が引き起こした、いわゆる「抗命事件」の実相を追った戦記。

 1944年春、太平洋方面の戦いで連合軍に押されていた日本陸軍は、ビルマ戦線でインパール作戦を発起した。これは、インド東端の都市・インパールを攻略し、インドから中国への補給ルートを遮断するとともに、インド独立の機運を煽ることを狙うものだった。

 しかし、補給を無視した乱暴な作戦は、連合軍の反攻と雨季の到来を前に行き詰まり、その中で、前代未聞の「抗命事件」が発生する。すなわち、インパールを目指した日本軍3個師団のうち、第31師団(烈兵団)が、軍が約束した補給が全く行われないことなどを理由に、軍命令に反し独断で退却したのだった。本書は、この「抗命事件」の実像を明らかにすべく取り組んだ一書である。

 日本軍の参加将兵約8万6千のうち、実に7万以上の戦死者・戦病者を出したとされる凄惨なインパール作戦について、著者は次のように述べている。

「今もなお、インパール作戦には、多くの疑問をいだき意欲をそそられるのである。それは、戦術上の優劣や戦闘経過などの動きよりも、その背後にある人間に、多くの問題があるからである。この戦争を作りだした人間が、どのようなものであったかという点である。その愚かしさ、その恐しさ、そのむなしさが、この作戦ほど顕著にあらわれた例はすくない。」

 著者が言うように、インパール作戦は、「人間」に由来する悲劇であった。特に、作戦を直接指揮した第15軍司令官・牟田口廉也中将の資質が、この大惨事の主因となった。第15軍司令部情報班の中井悟四郎中尉は、牟田口軍司令官の人となりについて、以下のように書き残している。

「烈兵団長が退って行った翌日、司令部将校は全員、この神々の座と言うか、かの祝詞の座付近に集合を命ぜられた。ふらつく足を踏みしめ、弱った将校の手を引きながら、ようやくの思いで登りつめた頂上に、十坪ばかりをきれいに地均しし、その上に白砂を二寸ぐらいの厚さに敷きつめ、周囲には青竹を風流に切って、粋な籬(まがき)をしつらえ、丸太を美しく削って鳥居を建ててある。
 副官の話によると、軍司令官の遥拝所だそうだ。毎早朝、彼はここに土下座して、在天の神々に対し、己が武運を守らせ給えと、叫び続けるのだそうだ。もう彼の頭には神頼み以外の良策が浮かんで来ないらしいのだ。
 しばらく待たされていると、軍司令官が出て来た。そして、あるいは激しく、あるいは悲痛な声をあげ、時には涙声さえまじえて、山上の垂訓ならぬ訓示を始めたのである。

『諸君、佐藤烈師団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にはならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕で行くんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる。毛唐の奴ばらに日本が負けるものか。絶対に負けやせん。必勝の信念をもってやれ。食物がなくても命のある限りやり抜くんじゃ。神州は不滅であることを忘れちゃいかん』

 この声涙共にくだる一時間余りの長広舌のため、あちらでも、こちらでも脳貧血を起して卒倒する者が続出した。高橋、薄井の両参謀も倒れた。それでも彼はいっこうに山上の迷言狂訓をやめようとはしなかった。神州不滅論も時により結構だが、栄養失調の私達将校には立って居ること自体が懸命の努力なのである。大尉以下の下級者には、人間が食うような物は何一つ当らないのだ。ようやくにして訓示も終り、彼は専属副官を従えて軍司令官宿舎の方へ帰って行った。私達は救われた思いで、それぞれの瀬降りへ帰ったのである。
 このころは、もう軍司令部としての機能は麻痺してしまって居た。重症患者が半数を越し、他の半数もどうにか起きて居られるに過ぎない患者なのであった。参謀達も、戦闘指導だ、やれ後方兵站の確保だと、出払って不在の者が多く、軍司令部はひとしお、さびしくなりはてていたのである。」


「牟田口軍司令官が、藤原参謀の机の所へやって来て、私達部付将校の前でこんな事を言った。

『藤原、これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失った事は、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、貴官の腹蔵ない意見を聞きたい』

 と、いとも弱々しい口調で藤原参謀に話しかけた。私達は仕事の手を休め、この興味深い話に耳を傾けた。彼は本当に責任を感じ、心底からこんな事をいい出したものだろうか。自分の自害を人に相談する者があるだろうか。彼の言葉は形式的な辞句に過ぎないものではなかろうか。言葉の裏に隠された生への執着が、言外にあふれているような疑いが、だれしもの脳裏にピンと来た。藤原参謀はと見ると、仕事の手を一瞬もとめようとはせず、作戦命令の起案の鉛筆を走らせていた。司令官には一瞥もくれようとせず、表情すら動かさず、次のようなことを激しい口調で言われた。

『昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ち掛けられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めない訳には参りません。司令官としての責任を真実感じておられるなら黙って腹を切って下さい。だれも邪魔したり止めたりは致しません。心置きなく腹を切って下さい。今度の作戦の失敗はそれ以上の価値があります』

 と言って相も変らず仕事を続けている。取りつくしまもなくなった司令官は『そうか、良くわかった』と消え入りそうな、ファッファッと、どこか気の抜けた笑い声とも自嘲ともつかない声を残して、参謀の机の前から去って行った。私達は何事もなかったように各自の仕事を再開しながら心の中で思った。司令官は死ぬ積りは毛頭ないのだ。大勢将校のいる前で参謀に相談し、参謀から、切腹を思い止まるよう忠告する言葉を期待していたのだ。そしてこの寸劇により、司令部内外への宣伝価値をねらったのに違いない。ところが案に相違した参謀の言葉に、この演出は失敗に終ったのだ。卑怯卑劣という言葉が、この場合の司令官の言動に最も適した言葉であった。」


 「抗命事件」の主役となった佐藤師団長は、この牟田口軍司令官や、牟田口中将と一緒になって作戦を推進した軍の上層部について、戦後の回想録でこう記している。

「結局、大本営、総軍、方面軍、十五軍というばかの四乗が、インパールの悲劇を招来したのである。」


(追記)
 本書に登場する藤原岩市参謀については、こちらに詳しくまとめました。


posted by A at 12:32| 本(戦記) | 更新情報をチェックする