2010年03月01日

【本】長嶺秀雄「戦場 学んだこと、伝えたいこと」

「戦場 学んだこと、伝えたいこと」 長嶺秀雄/並木書房/2003年

 レイテ島で戦った元陸軍将校が、自らの戦場体験を踏まえて所感を書きつづった本。

 著者は、太平洋戦争のレイテ島の戦いで第1師団歩兵第57連隊の大隊長として活躍し、辛くも生還を遂げた人物である。レイテ島における著者の行動の軌跡は、大岡昇平「レイテ戦記」をはじめ、複数の戦記に描写されている。本書は、レイテ島や中国戦線での著者の戦争経験を踏まえて、戦場において留意すべき点や体験談をまとめた本である。

 一例を挙げると、本書の冒頭に「タバコ」という一項がある。タバコは一般的には嗜好品とされているが、著者は、「戦場においては、アルコールの興奮性よりも、タバコの鎮静性が、不安や焦慮を落ち着かせて安堵に導く意外な効果があるようである。(中略)そして一本のタバコも分け合う戦友の友情が、部隊の団結を高め士気を鼓舞することになるのである」と述べて、タバコが役に立った具体的な場面をいくつか挙げている。現代では強く排斥されているタバコが、戦場では意外な効用を果たしていた、という点が興味深かった。

 また著者は、「タバコ」のほかにも、「シャベル」「病気」「塩」「糧食」「地図」「トイレ」「馬」や、あるいは戦闘方法や部下の掌握方法などについて、実際に戦争の場に身を置いた者でなければ分からない教訓を詳しく紹介している。こうした戦争に関する先達の知恵が活かされる場が、再度現出することはあってはならないと思うけれど、著者がどのように死地をくぐってきたかという体験談として、なかなか関心を惹かれる内容だった。

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2010年01月09日

【本】高木俊朗「抗命 −インパールU−」

「抗命 −インパールU−」 高木俊朗/文春文庫/1976年
(初版「抗命」は、1966年に文藝春秋から刊行)

 太平洋戦争のインパール作戦で佐藤幸徳・第31師団長が引き起こした、いわゆる「抗命事件」の実相を追った戦記。

 1944年春、太平洋方面の戦いで連合軍に押されていた日本陸軍は、ビルマ戦線でインパール作戦を発起した。これは、インド東端の都市・インパールを攻略し、インドから中国への補給ルートを遮断するとともに、インド独立の機運を煽ることを狙うものだった。

 しかし、補給を無視した乱暴な作戦は、連合軍の反攻と雨季の到来を前に行き詰まり、その中で、前代未聞の「抗命事件」が発生する。すなわち、インパールを目指した日本軍3個師団のうち、第31師団(烈兵団)が、軍が約束した補給が全く行われないことなどを理由に、軍命令に反し独断で退却したのだった。本書は、この「抗命事件」の実像を明らかにすべく取り組んだ一書である。

 日本軍の参加将兵約8万6千のうち、実に7万以上の戦死者・戦病者を出したとされる凄惨なインパール作戦について、著者は次のように述べている。

「今もなお、インパール作戦には、多くの疑問をいだき意欲をそそられるのである。それは、戦術上の優劣や戦闘経過などの動きよりも、その背後にある人間に、多くの問題があるからである。この戦争を作りだした人間が、どのようなものであったかという点である。その愚かしさ、その恐しさ、そのむなしさが、この作戦ほど顕著にあらわれた例はすくない。」

 著者が言うように、インパール作戦は、「人間」に由来する悲劇であった。特に、作戦を直接指揮した第15軍司令官・牟田口廉也中将の資質が、この大惨事の主因となった。第15軍司令部情報班の中井悟四郎中尉は、牟田口軍司令官の人となりについて、以下のように書き残している。

「烈兵団長が退って行った翌日、司令部将校は全員、この神々の座と言うか、かの祝詞の座付近に集合を命ぜられた。ふらつく足を踏みしめ、弱った将校の手を引きながら、ようやくの思いで登りつめた頂上に、十坪ばかりをきれいに地均しし、その上に白砂を二寸ぐらいの厚さに敷きつめ、周囲には青竹を風流に切って、粋な籬(まがき)をしつらえ、丸太を美しく削って鳥居を建ててある。
 副官の話によると、軍司令官の遥拝所だそうだ。毎早朝、彼はここに土下座して、在天の神々に対し、己が武運を守らせ給えと、叫び続けるのだそうだ。もう彼の頭には神頼み以外の良策が浮かんで来ないらしいのだ。
 しばらく待たされていると、軍司令官が出て来た。そして、あるいは激しく、あるいは悲痛な声をあげ、時には涙声さえまじえて、山上の垂訓ならぬ訓示を始めたのである。

『諸君、佐藤烈師団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にはならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕で行くんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる。毛唐の奴ばらに日本が負けるものか。絶対に負けやせん。必勝の信念をもってやれ。食物がなくても命のある限りやり抜くんじゃ。神州は不滅であることを忘れちゃいかん』

 この声涙共にくだる一時間余りの長広舌のため、あちらでも、こちらでも脳貧血を起して卒倒する者が続出した。高橋、薄井の両参謀も倒れた。それでも彼はいっこうに山上の迷言狂訓をやめようとはしなかった。神州不滅論も時により結構だが、栄養失調の私達将校には立って居ること自体が懸命の努力なのである。大尉以下の下級者には、人間が食うような物は何一つ当らないのだ。ようやくにして訓示も終り、彼は専属副官を従えて軍司令官宿舎の方へ帰って行った。私達は救われた思いで、それぞれの瀬降りへ帰ったのである。
 このころは、もう軍司令部としての機能は麻痺してしまって居た。重症患者が半数を越し、他の半数もどうにか起きて居られるに過ぎない患者なのであった。参謀達も、戦闘指導だ、やれ後方兵站の確保だと、出払って不在の者が多く、軍司令部はひとしお、さびしくなりはてていたのである。」


「牟田口軍司令官が、藤原参謀の机の所へやって来て、私達部付将校の前でこんな事を言った。

『藤原、これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失った事は、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、貴官の腹蔵ない意見を聞きたい』

 と、いとも弱々しい口調で藤原参謀に話しかけた。私達は仕事の手を休め、この興味深い話に耳を傾けた。彼は本当に責任を感じ、心底からこんな事をいい出したものだろうか。自分の自害を人に相談する者があるだろうか。彼の言葉は形式的な辞句に過ぎないものではなかろうか。言葉の裏に隠された生への執着が、言外にあふれているような疑いが、だれしもの脳裏にピンと来た。藤原参謀はと見ると、仕事の手を一瞬もとめようとはせず、作戦命令の起案の鉛筆を走らせていた。司令官には一瞥もくれようとせず、表情すら動かさず、次のようなことを激しい口調で言われた。

『昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ち掛けられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めない訳には参りません。司令官としての責任を真実感じておられるなら黙って腹を切って下さい。だれも邪魔したり止めたりは致しません。心置きなく腹を切って下さい。今度の作戦の失敗はそれ以上の価値があります』

 と言って相も変らず仕事を続けている。取りつくしまもなくなった司令官は『そうか、良くわかった』と消え入りそうな、ファッファッと、どこか気の抜けた笑い声とも自嘲ともつかない声を残して、参謀の机の前から去って行った。私達は何事もなかったように各自の仕事を再開しながら心の中で思った。司令官は死ぬ積りは毛頭ないのだ。大勢将校のいる前で参謀に相談し、参謀から、切腹を思い止まるよう忠告する言葉を期待していたのだ。そしてこの寸劇により、司令部内外への宣伝価値をねらったのに違いない。ところが案に相違した参謀の言葉に、この演出は失敗に終ったのだ。卑怯卑劣という言葉が、この場合の司令官の言動に最も適した言葉であった。」


 「抗命事件」の主役となった佐藤師団長は、この牟田口軍司令官や、牟田口中将と一緒になって作戦を推進した軍の上層部について、戦後の回想録でこう記している。

「結局、大本営、総軍、方面軍、十五軍というばかの四乗が、インパールの悲劇を招来したのである。」


(追記)
 この記事の続きを、こちらに書きました。


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2009年11月28日

【本】高木俊朗「インパール」

「インパール」 高木俊朗/文春文庫/1975年
(初版「イムパール」は、1949年に雄鶏社から刊行)

 「無謀な作戦」の代名詞として世に知られるインパール作戦の模様を、第33師団(弓兵団)歩兵第214連隊の苦闘を中心に描いた戦記。

 昭和19年春に発起され、参加した日本軍将兵約8万6千のうち、実に7万以上の戦死者・戦病者を出したとされるインパール作戦の悲惨な実態を世に知らしめた戦記である。牟田口廉也・第15軍司令官が神懸り的に作戦を推し進める様子や、牟田口の意を受けて第15軍司令部が乱発する現実離れした作戦命令、前線の兵士が飢えながら戦っている間も酒と女にうつつを抜かす軍の高級幹部たちの姿を見るにつけ、この作戦がいかに報われない戦いであったかを、まざまざと見せつけられる思いがする。

 作戦開始に近い時期、著者は、前線に近い歩兵第214連隊の本部を訪ねている。その模様を以下に引用する。

「飛行師団の司令部で、地上部隊の展開状況を調べていると、意外な人の名があった。ビルマ=インドの国境方面に出ている歩兵部隊に、第33師団の第214連隊がある。連隊長は、作間喬宜大佐である。
 作間大佐とは、陸軍省宣伝班のころからの古なじみである。その後、作間大佐が北支派遣軍の報道部に転出になると、私も、その部の報道班員になった。
 中国の魅力の、みちあふれた北京である。私はしばしば、中国風の赤い門のある公館に作間大佐を訪ねて、酒をくみかわした。その人が、今、密林と酷熱のなかで苦闘している、という。
 酒ずきの大佐も、酒をのめずにいるだろう。
 私のかばんには、ジャワでもらったキング・ジョージがいれてある。私は、それを、何かの機会にあけるつもりで、大事にとっておいたのだ。
 私は、作間大佐を陣中みまいに行こうと考えた。久しぶりに会って、うまい酒を、のませてあげたいと思った。
 北京の、酒の借りをかえすのは今である。

(中略)

 私が訪ねて行ったことは、作間大佐には、思いがけないできごとだった。大佐の目には光るものがあった。連隊長の居室で、われわれは再会を喜び、乾杯をした。その時、情報主任という若い中尉が、いっしょに席についた。それが、長一雄中尉であった。山砲連隊長の福家政男大佐も席に加わった。
「こんな所には、報道班員なんて人はきたこともありません」
 と、ぼやいた長中尉は、連隊の情報主任で、報道も担当するということだった。
 日本酒が、たくさん、出た。
「さすがに、連隊長ですね」
 とおどろくと、
「いや、いつも、ビルマ酒をのんでいる」
 と笑った。歓待のしるしであった。私は、キング・ジョージを、兵隊の作ったらしい食卓の上においた。そして、ジャワから持ってきたものであることを、話した。
 作間連隊長は、居ずまいを正すようにして、礼をいわれた。そして、目をつぶって、小さなグラスをかたむけた。しみじみと、味わったようであった。
 私が、さらに一杯をすすめると、連隊長はグラスをふせてしまった。そして、意外なことをいった。
「こんなうまいウィスキーを、ここで、のもうとは思わなかった。これで、作間はおみやげを全部、いただいたことにする。そして、大事にとっておいて、これからの戦場で、てがらをたてた兵隊に、一杯ずつ、のませてやるつもりだ」
 と、静かに、びんをかたわらにおいた。
 私の胸には、あついものが、しみるようだった。
 それは、将たるものの、兵を愛する気持である。そしてまた、本当に酒をのみ、酒を愛する人の心である。
 私が、しばらく、言葉も出ないでいると、連隊長は、笑っていった。
「さあ、このびんを見ながら、のもう」
 ランプの光に照らされた連隊長の顔は、別人のように、黒く、やせていた。」

 こうした人情味のある部隊長が、度重なる無茶な軍命令に苦しみ、機械化された連合軍を相手に苦戦し、ついには部下のほとんどを失っていくさまは、この作戦の愚かさを浮き彫りにして余りあるものである。

 また、作戦が進むにつれて、本書には歩兵第214連隊の将校たちが多数登場してくる。その中には、大隊長代理として繰り返し前線に出て、激減した部下をまとめつつ勇戦する者もいれば、何度命令を受けても一向に前線に出てこない臆病な大隊長もいる。極限の状況の中で人間の地金が露わになる様子は、読んでいて興味深くもあり、また恐ろしくもある。


(2013.3.20追記) 末田光大尉について
 本書の中で縦横無尽の活躍を見せている、歩兵第214連隊第2大隊長の末田光大尉のその後が気になったので調べてみた。

 歩兵第214連隊のビシェンプール攻撃の最中に、連隊本部の作戦主任から第2大隊長に充てられた末田大尉は、下士官から累進した老練な将校で当時38歳(秦郁彦「昭和史の秘話を追う」PHP研究所)。第2大隊は、ビシェンプール戦で540名の人員が僅か37名まで激減したが、末田大尉はこの少人数の部隊を指揮し、敵正面からの奇跡的な撤退に成功している。

 その後、214連隊は南に向かって苦難の退却戦を続けることになるが、その中で末田大尉はそのまま第2大隊長の職に留まり続けたらしく、山之口甫「実戦インパール作戦 作間連隊の死闘」(展望社)と、部隊史である「歩兵第二百十四聯隊戦記」(非売品)に、それぞれ昭和19年12月と20年4月時点の末田大隊長に関する言及がある。「歩兵第二百十四聯隊戦記」には、214連隊が復員した昭和21年6月当時の編成表が掲載されているが、ここでも第2大隊長は末田光少佐となっている。なお、「歩兵第二百十四聯隊戦記」の名簿を見る限りでは、同戦記が刊行された昭和49年時点でも、末田光氏は存命だったようである。才覚と天運の両方に恵まれた人だったのだろう。

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2009年10月17日

【本】高木俊朗「戦死 −インパール牽制作戦−」

「戦死 −インパール牽制作戦−」 高木俊朗/朝日新聞社/1967年
(文春文庫版(1984年)で読みました)

 昭和19年2月、間近に迫ったインパール作戦の陽動作戦として実施された「ハ号作戦」(第二次アキャブ作戦)の経過を、戦いに参加した第55師団(壮兵団)の人間模様を踏まえつつ描いた戦記。

 ビルマ西海岸のアキャブ地方からインド国境地帯への進攻作戦である、ハ号作戦の実情を追った一書である。まず本書の前半では、第55師団の中核部隊として戦線を支えた、歩兵第112連隊(連隊長:棚橋真作大佐)の苦闘の模様が描かれている。棚橋大佐がなぜ自決に至ったのか、その経緯に疑問を持った著者は、生き残った連隊関係者の証言を拾い集め、師団上層部による強引かつ横暴な作戦指導の実態を解き明かしていく。

 そして本書の後半では、第55師団長・花谷正中将の、暴虐きわまりない統率の様子が詳しく描写されている。ビルマ戦線には牟田口廉也という司令官がいて、無謀な指揮を行って大量の将兵を殺した将軍としてはこの人が有名だが、花谷はそれに匹敵する、いや、質的な意味では牟田口を上回る狂気の師団長だった。第55師団では、少なからぬ将兵が花谷によって殴られ、悪罵され、相次いで自決に追い込まれた。本書に記録された虐待の数々は、「パワハラ」という軽い言葉では捉えきれない、恐るべき陰惨さを湛えている。

 また、こうした直接的な暴力の他にも、師団長としての花谷の言動には、強い違和感を覚えさせられる点が少なくない。例えば彼は、遥かに優勢な敵を相手に寡兵をもって苦戦する前線部隊に対して、まともに食糧も弾薬も補給せず、その結果敗れた部隊の指揮官に対しては、激しい言葉で自決を強要したのだという。その一方で、花谷自身がハ号作戦の失敗の責任をとって自決することはなく、昭和32年、畳の上で病没している。また、花谷は前線部隊が壊滅の危機に瀕しても撤退を許さないなど、部下の犠牲には無関心だったが、彼自身は空襲を異常に恐れ、自分の移動する先々で自分用の防空壕を掘らせたのだそうだ。

 世の中に、花谷のような人格の破綻した人間が一定数現れることは、残念ながら避け得ないことなのだろう。問題は、このような常軌を逸した人物が順調に出世し、万余の将兵を指揮する師団長の要職に就いたという事実にあるのではないだろうか。花谷の師団長就任には、花谷とともに関東軍で満州国建国に策動した片倉衷らの後援があったとされているが、そこには、身内の庇い合いや派閥人事のために、粗悪な人材が抜擢されるという、日本陸軍組織の病痾が見て取れる。

 そして現代の我々は、このような陸軍組織の人事的失敗の教訓から、何かを学んだと言えるだろうか。


<補遺>
 花谷の異常ぶりを示す一例を紹介する。第55師団の弾薬集積所が英軍に爆撃され損害を出した事案をめぐり、花谷が師団兵器部長のH中佐(のち、大佐)をどのように責め立てたかを、少し長くなるが本書から引用する。

「花谷師団長は、毎日、H中佐を呼びつけた。そして、事こまかに弾薬集積所の被害について、詰問をつづけた。H中佐がそれに答えるたびに、罵り、なぐりつけた。花谷師団長は、どのような答えも受けつけようとしなかった。手落ちを見つけては、徹底して、動きのとれないところに追いこまずにはいられない性格だった。そのためには、鋭く頭が働いた。こうした時には、必ず口にする言葉があった。
「あいつ、つめ腹を切らしてやる」
 異常な決意がふくまれたこの言葉が、すでに幾たりかの人に対して吐かれた。

 H中佐は、連日なぐられて、顔は青黒くふくれていた。居室にいる時は、四十九歳の白髪まじりの頭をかかえて、声をしのんで泣いていた。どこへ逃げることも、助けを求めることもできなかった。それが軍隊という組織であった。
 兵器部の仕事の報告を命ぜられて、担当の兵器勤務隊長の藤岡大尉が花谷師団長のところへ行って、書類をさしだすと、いきなり、たたき返された。
「貴様ら応召の将校に何がわかるか。士官学校を出ないやつはだめだ。部長を呼べ」
 改めてH中佐が報告を持って行くと、花谷師団長はちょっと目を通して、窓の外にほうりだした。雨季の豪雨の降りしきるなかである。それからも書きなおしをさせられた。あとで参謀にきくと、二字か三字の訂正ですむところだった。しかし師団長は、それを教えようとはしなかった。
 H中佐は、もはや、あやまるばかりだった。ほかに言葉もなかった。
「Hが悪くありました。申し訳がありません」
 あやまっても、なぐられた。
「この野郎、あやまってすむと思うか。天皇陛下の弾薬をなくすやつは国賊だぞ。不忠者だ」
 花谷師団長は、この大義名分のために、制裁を加えるというようであった。しかし実際には、猫が鼠をなぶるに等しいものがあった。
 H中佐は、あやまりつづけた。
「Hが悪くありました。これから改めます」

 その日。
 雨が時おり激しく降りかかり、密林はさわがしい音をたてた。
 師団の獣医部長の中村芳雄中佐が花谷師団長の決裁をうけに行くと、師団長の小屋で荒々しい物音がしていた。また、だれかやられていると思って、中村中佐は三宅専属副官の部屋にはいって待つことにした。三宅中尉に、目顔で、だれがやられているのか、ときくと、
「うちの高級副官です」
と答えたが、ひどく、おびえていた。
 師団長室の物音は、なまなましくひびいた。花谷師団長はどなりながら、長い間、なぐりつづけていた。しばらくして、激しい音は静まったが、師団長の悪罵の声だけが聞こえた。なぐりつかれると、師団長は腰をおろし、なお、悪罵をつづけるのが常であった。それでおさまるかと思っていると、また、なぐりだした。その音が、しばらくつづいた。中村中佐は栗田中佐を痛々しく思った。この調子で毎日やられながら、職務とはいいながら、それにたえている忍耐力に、容易ではないものを感じた。

 そこへH大佐がきて、師団長への取り次ぎを三宅副官にたのんだ。すぐに、師団長室の物音に気づいて、おちつかない表情になった。熱もあるらしく、苦しそうな息をしていた。
 栗田高級副官がもどってきた。顔が赤黒く、でこぼこになるほど、はれあがっていた。血がふきだしていた。さすがに無言で、自分の小屋に帰って行った。
 中村中佐はH大佐が苦しそうにしているので、さきをゆずった。まもなく、なぐり飛ばす音が聞こえた。師団長は、栗田高級副官をさんざんなぐったあとである。中村中佐は、師団長が疲れて、それほどのことはあるまいと思っていた。ところがそうでなかった。師団長は疲れも見せずにH大佐をなぐりつづけた。
「馬の死んだ数がわかるのに、それに乗せた鞍の数がわからんのか」
 そんな罵声も聞こえた。時々、激しい音がするのは、H大佐が倒れるためであった。
 それが一時間近くもつづいた。師団長室を出てきたH大佐の顔は、いいようのないほどに変わっていた。それが、べたべたにぬれていた。H大佐は全身をふるわせていた。
「H大佐殿、おからだを大事にしてください。何事も、がまんが第一です」
 中村中佐が慰めたが、H大佐は泣きながら去って行った。

 栗田高級副官がなぐられたのは、H大佐の処罰について、意見をいったためであった。花谷師団長は、
「重謹慎三十日にせい」
と命じた。栗田高級副官は、重すぎると思ったので、
「一週間ぐらいでどうですか」
と、意見をいいだすと、なぐられた。
 栗田高級副官は重謹慎の必要もないと思った。H大佐が追及を受け暴力を加えられた日数だけでも、ひと月を越していた。連日の心身の苦痛のために、半病人になっている。それでも、かろうじて、たえているのは、H大佐が気骨の人であるからだ。それにしても限度がある。何かの方法をとらねばならないと栗田中佐は考えた。

 その後、栗田高級副官は、わざと長い時間をおいて、H大佐の処罰命令を持って行くと、花谷師団長は鼻下の半白のひげをせかせかとひねっていた。ふきげんな時にする動作であった。師団長は命じた。
「Hを呼べ」
 花谷師団長に呼びつけられた時、H大佐は竹で作った寝台に横になっていた。連日、過酷な詰問をうけて、気力を失っていた。そこへマラリアの発熱が加わった。
 H大佐は呼ばれて、師団長室にはいった。動作に力がなかった。花谷師団長は立ち上がって、
「処罰を申し渡す」
と、ぶきみな目で見すえた。栗田高級副官が侍立していた。
「H大佐を重謹慎三十日に処す」
 そのあとで、一歩前に近よって、
「貴様はカデットじゃないか」
と、どなりつけた。カデットという言葉には、陸軍幼年学校出身者の意味であり、優秀者という意識がこめられていた。そのために陸軍士官学校にはいってからは、一般の中学校からきた生徒と対立して、それぞれに派閥を作った。
 また、幼年学校では≪満州蒙古をとって日本の領土とする≫という考えを、少年生徒の頭に強く教えこんだ。花谷師団長がことごとに幼年学校を誇りにし、あるいは「満州事変はおれがおこした」と自慢するのは、このためであった。
 花谷師団長はどなりつづけた。
「貴様、カデットの誇りを知れ。カデットのつらよごしだ」
 手をふりあげて、なぐりつけた。H大佐は歯をくいしばって、こらえた。師団長は両手を交互にふるって、左右から顔をなぐった。H大佐はよろめいて、うしろにさがった。花谷師団長は足をあげて蹴りつけ、H大佐をゆかの上に倒した。それを二、三度蹴りつけてから、胸もとをつかんで引きおこした。
「恥を知れ、恥を」
 重謹慎三十日は将校にとって最大の処罰であったし、大佐の階級にある者がなぐられるのも異常であった。恥辱は身にこたえていた。H大佐は言葉がなかった。その顔に花谷師団長は、つばをはきかけた。
「この責任をどうするのだ」
と、いいすてて自分の部屋に去った。
 栗田中佐は目をそむけていた。H大佐をかばえば、自分が重謹慎にされなければならない。なぐられることでは、H大佐以上だった。ふたりは同じ立場だった。
 H大佐は立ったまま、むせび泣いていた。栗田中佐は肩を抱いて、
「H大佐殿、こらえなさいよ。こらえなさいよ」
と、外につれだした。いたわりながら、兵器部の小屋に送って行った。
「早まった考えを持ったらいけませんよ。お疲れでしょうから、お休みなさい」
 髪に白いものが目立つH大佐が、少年のようにむせび泣きつづけた。

 兵器部の下士官や兵は、すでに事態を知っていて、悲憤の色を浮かべて迎えた。H大佐を部長室に送りこんでから、栗田中佐は密林の道をもどった。副官部の小屋は百メートルほど離れていた。栗田中佐が自分の部屋に帰って、まもなく、銃声がひびいた。
 兵器部の小屋でさわぎがおこった。栗田中佐は急いでかけつけた。
 H大佐は寝台の上に横たわっていた。額から血が流れていた。全身は、静かに寝ているように見えたが、ひざのあたりを手ぬぐいでしばってあった。乱れた姿にならないための、たしなみであった。
 右手には小型のピストル、コルトを握っていた。部下が大佐の自決を心配して、書類の間にかくしておいたものであった。それをいつのまにか、見つけだしたのだ。
 H大佐の死亡の公報には次のように記されてある。

≪昭和十九年八月二十五日、ビルマ、アキャブ県ノータンゴにおいて、頭部貫通銃創のため戦死≫

 少将に進級の手続きがとれたのは、戦争が終わって、十一年を経た昭和三十一年であった。

 花谷師団長を殺す、といううわさが、師団司令部の下士官兵の間にひろまった。根のないことではなかった。H大佐自決の直後には、兵器部の下士官が顔色を変えて、手榴弾を持って飛びだそうとした。
「あの気ちがいを殺してやる」
 まわりにいた兵たちが押しとどめた。栗田高級副官がなだめると、下士官は、
「師団長だからといって、これじゃ人殺しじゃないですか。陸軍刑法では許されることですか」
と、泣きじゃくりながら訴えた。
 また、古年兵のひとりが、兵器勤務隊長の藤岡大尉に、
「地雷をだす命令をください」
と、たのみにきた。理由を聞くと、
「花谷に踏ませるんです」
と、答えた。藤岡大尉がことわると、
「埋没はわれわれがやります。ご迷惑はかけません」
と、くいさがった。本気で計画していることが、顔色にあらわれていた」

 これは花谷による狂暴な統率の、ほんの一例にすぎない。このほかにも、最前線で勇敢に戦った少壮将校を自決に追い込んだ事例など、花谷による犠牲者は枚挙にいとまがない。詳細は本書を参照されたい。

(2016.10.16改稿)


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2009年09月14日

【本】手塚正己「軍艦武蔵」

「軍艦武蔵 上・下」 手塚正己/新潮文庫/2009年
 (2003年に太田出版から刊行された「軍艦武蔵」を、加筆・修正したもの)

 戦艦「武蔵」の建造過程から、太平洋戦争中の行動、レイテ沖海戦での激闘・沈没、乗員たちのその後の運命などを、関係者の証言を基に描き出したノンフィクション。

 上下巻合わせて1400ページ弱に及ぶ、大変な労作である。生き残った乗組員たちや、シブヤン海で「武蔵」乗員を救助した駆逐艦「浜風」「清霜」の関係者、そのほか「武蔵」に縁のあった広汎な人々から実に丹念に証言を集め、「武蔵」の足跡を克明に辿っている。調べた事実を細部まで提示することは、しばしば物語としての面白さを低減させることにもつながりかねないが、本書は個々の登場人物のストーリーをそれぞれ丁寧に描き上げることで、次々にページをめくりたくなるような誘引力を有する作品に仕上がっている。

 戦艦「武蔵」にまつわる書物としては、吉村昭の名著「戦艦武蔵」を始め、一定の刊行物が世に出されている。これらの書籍と本書の顕著な相違点は、本書が「武蔵」沈没後の展開にも大きな比重を置いていることだろう。計1400ページ弱のうち、実に400ページ弱が、「武蔵」が失われて以後の関係者の物語に充てられている。生き残った「武蔵」乗員のうち、約半数はそのままフィリピンに残され、そのほとんどはマニラ市街戦やコレヒドール島攻防戦、建武集団の戦いなど、ルソン島を舞台とする戦いで戦死した。世界一の戦艦として、日本海軍の精鋭を集めた乗組員たちのその後の運命は、極めて過酷なものであったことが窺われる。

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