2014年05月01日

【本】堀栄三「大本営参謀の情報戦記」

「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」 堀栄三/文春文庫/1996年

 太平洋戦争中、米軍の来攻時期などを的確に予測した元大本営参謀が、情報(いわゆる「インテリジェンス」)の専門家としての自らの活動を振り返るとともに、国家が情報を軽視することの危険性について強く警鐘を鳴らした一書。

 日本陸軍で情報参謀として手腕を発揮し、戦後は初代駐西ドイツ大使館防衛駐在官などを務めた、堀栄三氏の回顧録である。堀参謀に関して最も有名なのは、昭和19年11月上旬に、米軍のルソン島上陸時期・場所・兵力を、「昭和20年1月上旬末(8〜9日)、リンガエン湾に上陸、兵力は当初5〜6師団、爾後さらに3〜4師団」と、極めて正確に予測したことであろう。そのほか、台湾沖航空戦の誇大戦果を見抜いていたことや、昭和20年秋から21年春にかけての日本本土への米軍の上陸予定地点・時期・兵力を的確に判断していたことなど、堀氏の活躍ぶりは、ほとんど神懸りと言ってよいレベルのものであった。

 元々、堀氏は情報の専門家として教育を受けたわけではなく、大本営第2部(情報部)の第16課(ドイツ課)、第5課(ソ連課)、第6課(米英課)などをたらい回しされたり、前線を視察したりする中で、様々なタイプの上司から、情報収集のあり方や分析の方法などを自主的に学んでいった人物だった。その手法は、例えば「各種の徴候を丹念に積み上げ、さらに公開文書の翻訳、放送の傍受、暗号の解読、相手国周辺の駐在武官の報告などを組織的、体系的に分析検討して、砂礫のような情報の中から一粒のダイヤを見つけるに似た克明細心な取り組み方をする」方法や、ある情報を「一本の線で一方的に見ないで、他の何かの情報と関連があるかどうかを見つけようとする。従って二線、三線の交叉点を求めようと」するやり方などであり、こうした技法は、現代の我々が仕事をする際などにも、十分に参考となるものである。

 また、堀氏が受けた助言の中には、「情報は結局相手が何を考えているかを探る仕事だ。だが、そう簡単にお前たちの前に心の中を見せてはくれない。しかし心は見せないが、仕草は見せる。その仕草にも本物と偽物とがある。それらを十分に集めたり、点検したりして、これが相手の意中だと判断を下す。(中略)いろいろ各場面で現われる仕草を集めて、それを通して判断する以外にはないようだな」(堀丈夫中将・堀氏の養父)、「枝葉末節にとらわれないで、本質を見ることだ。文字や形の奥の方には本当の哲理のようなものがある、表層の文字や形を覚えないで、その奥にある深層の本質を見ることだ。世の中には似たようなものがあるが、みんなどこかが違うのだ。形だけを見ていると、これがみんな同じに見えてしまう。それだけ覚えていたら大丈夫、ものを考える力ができる」(土肥原賢二大将)といった抽象的なものもあり、これらは大つかみなアドバイスである分、よりいっそう、「噛めば噛むほど味の出る奥深いものがあって、堀には一生忘れられない言葉」となるものであった。

 堀氏が情報参謀として飛躍的な成長を遂げたのは、もともと彼にその素質があり、周囲の人材を触媒として、その才能が自発的・偶然的に開花したということなのだろう。しかし、彼のような情報の俊英が出現しないままずるずると戦況が悪化し、昭和18年も終わり頃になってようやく、大本営で米軍戦法の研究や情報分析が本格化したという現実は、まさに恥ずべき失態というほかない。エリート中のエリートの軍人たちを集めていたはずの大本営において、華々しい作戦指導ばかりに熱中し、その判断根拠となるはずの地道な情報収集・分析を疎かにしていた事実は、十分に教訓とされなければならないことではないかと思う。

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2014年02月16日

【本】山本七平「洪思翊中将の処刑」

「洪思翊中将の処刑 上・下」 山本七平/ちくま文庫/2006年
(初版は、1986年に文藝春秋から刊行)

 卓越した能力と高潔な人格によって昇進を重ねた朝鮮出身の軍人・洪思翊中将が、太平洋戦争後、BC級戦犯として処刑されるに至った経緯を追った本。

 「人間とはその人生において、しばしば、本人が全く予期しない役割を演じさせられるものであろう」(本書より)。王族の例を除き、朝鮮人として唯一将官の地位まで上り詰めた洪思翊中将は、戦争末期にたまたま比島俘虜収容所長の地位にあったために、フィリピンにおける連合軍捕虜虐待の責任を一身に負わされて刑死した。植民地出身者として困難な軍人生活を送ってきた洪中将は、戦後は郷里で数学教師を務めながら平穏に暮らすことを望んでいたというが、彼を待ち受けていたのは、その温和な性格には似合わない過酷な運命であった。

 当然のことながら、洪中将が連合軍捕虜を虐待するよう指示した事実などは全くなかった。しかし洪中将は、戦犯裁判における検察側の的外れな責任追及に対して、一切の弁明を行わなかったという。それは中将の廉直な性格によるものでもあったろうが、同時に、無理やり理屈をでっち上げてでも誰かに「落とし前」をつけさせようとする戦犯裁判の、その虚構性に対する拒絶と諦めの意思表示ではなかったか。彼の辞世の和歌2首(「くよくよと思つてみても愚痴となり 敗戦罪とあきらむがよし」「昔より冤死せしものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ」)は、そうした彼の心情を端的に示したものであろう。

 弁護側の懸命の法廷闘争にもかかわらず、洪中将は1946年4月に絞首刑判決を受け、早くもその年の9月には刑の執行を受けることになる。フィリピンで日本人戦犯処刑の現場に立ち会い続けた片山牧師は、処刑直前に取り乱す戦犯が少なからずいたことに触れた上で、洪中将の最期について次のように書き残している。

「もちろん、立派な態度の人もいた。なかでも抜群だったのは、韓国出身の洪思翊中将である。このときは私一人で、中将のために「聖書」を朗読した。洪中将は寸毫の乱れも見せなかったばかりか、あべこべに、
『片山君、何も心配するな。私は悪いことはしなかった。死んだら真直ぐ神様のところへ行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな』
と、逆に私を励まされた。時間がきてMPが近づくと、中将は落ち着いて立ち上り、
『片山君、君は若いのだから、身体を大事にしなさいよ。そして元気で郷里に帰りなさい』
と、別離の言葉を送られた」

 これだけ落ち着いて自らの死を、それも他者の責任を負わされての死を迎えることができる人物が、果たしてどれだけ存在するだろうか。その淡々とした最期の様子からは、ただ中将の清涼な人柄が偲ばれるばかりである。

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2013年01月19日

【本】山本七平「一下級将校の見た帝国陸軍」

「一下級将校の見た帝国陸軍」 山本七平/文春文庫/1987年
(初版は、朝日新聞社より1976年に刊行)

 太平洋戦争中に陸軍に徴兵され、ルソン島の激戦地に送られた著者が、自らの体験を踏まえながら、軍隊組織の不効率さや矛盾、ひいては日本人組織の特異性を剔出した評論。

 学生時代に徴兵検査に合格し、不本意ながら陸軍に入隊した著者が、陸軍組織の異常さや、その組織内で矛盾と折り合いを付けながら勤務する人々の模様を描いた一書である。後年、「山本学」と総称される著作群を残した人物だけあって、硬直し腐敗した組織を見つめる目は鋭い。当時軍隊にいながら、これだけ冷静かつ客観的に組織を捉えることができた人間が、果たしてどれだけいただろうか。

 本書で述べられているさまざまな場面や現象の中から、ここに取り上げて紹介したいものはいくつもあるが、やはり有名な「員数(いんずう)主義」に触れないわけにはいかないだろう。著者は、日本陸軍を蝕んだ「員数主義」について、次のように解説している。

「…S中尉の言った「員数」という言葉にはその原意とは違った、軍隊内でしか通用しない独特の意味があった。一応これを「員数主義」と言っておこう。このイズムは、もうどうにもならない宿痾、日本軍の不治の病、一種のリュウマチズムとでもいうべきもので、戦後、収容所で、日本軍壊滅の元凶は何かと問われれば、殆どすべての人が異口同音にあげたのがこの「員数主義」であった。そしてこの病は、文字通りに「上は大本営より下は一兵卒に至るまで」を、徹底的にむしばんでいた。もちろん私も、むしばまれていた一人である。(中略)
 元来は員数とは、物品の数を意味するだけであって、いわゆる「員数検査」とは、一般社会の棚卸しと少しも変わらず、帳簿上の数と現物の数とが一致しているかどうかを調べるだけのことである。従って、問題は、検査そのものより、検査の内容と意味づけにあった。すなわち「数さえ合えばそれでよい」が基本的態度であって、その内実は全く問わないという形式主義、それが員数主義の基本なのである」

 こうした「員数主義」の一例として、著者はルソン島北部のアパリで自ら指揮した、ゲリラ掃討戦の様子を紹介している。著者(砲兵少尉)は守備隊長から、アパリ周辺に出没するゲリラを「撃滅スベシ」という命令を受ける。しかし、アパリに残置されていた「砲兵一個中隊」の内情を調べると、大砲4門のうち3門は故障で、残りの1門も誰も扱ったことのない珍しい砲だった。このことを著者は以下のように述べている。

「自分で調べた結果わかったことは、アパリ正面の砲兵一個中隊とは、結局、員数だったということである。どうもおかしいと思ったのは、転進命令が出たときの中隊長たちの動きであった。というのは、一個中隊がそのまま残ったのではなく、各中隊が一個分隊を残し、この残された四個分隊で臨時に一個中隊を編成し、S老大尉が臨時中隊長、本部からは私が残るということになったからである。
 各中隊は、動かない砲、使えない砲、無用の砲弾、そして歩けない病人を捨てて行ったということであった。そして私が残されたのも、結局、結核の既往症があるから、行軍途中で喀血でもされたら足手まといだということと、後述の私の推定通りの理由からだったらしい。
 員数中隊の実体にはゾーッとした。(中略)これでは米軍どころかゲリラにも対抗できない。だが結局私は、面倒なことを支隊長に報告してトラブルを起こすよりも、員数中隊の員数砲弾で員数砲撃をして員数報告を書くことにした」

 そして著者は、故障していない1門の砲を引き出し、でたらめの場所に向かって1時間ほど砲撃を行い、ゲリラを撃滅したという立派な「報告」を書いた。こうした小さな虚構が、数えきれないほど積み重なってできた組織が日本陸軍だったのだとしたら、この集団がいずれ破滅する運命にあったのは当然であろう。

 著者の体験は70年近く前の話であるが、ところで現代の我々も、この「員数主義」の類例を、いくつも身近に見聞することはないだろうか。処理しきれない膨大な作業を抱え込み、ずさんな対応と適当な報告を行っていたという最近の福島の「手抜き除染」の例など、上述の「員数砲撃」と本質的に何も変わらない話であるように思える。もし万一、日本がもう一度戦争をすることがあったとしても、きっと同じように「員数主義」がはびこり、組織を害することになるのではないかと、個人的にはほとんど確信に近いような思いを抱いている。

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2012年05月27日

【本】林えいだい「陸軍特攻 振武寮」

「陸軍特攻 振武寮」 林えいだい/光人社NF文庫/2009年

 太平洋戦争末期、いったん特攻に出撃しながら敵艦突入を果たせなかったパイロットたちを収容・監禁した「振武寮」についてのルポルタージュ。単行本は、2007年に東方出版から刊行。

 昭和20年春。日本陸軍の第六航空軍は、沖縄占領を目指す米軍の艦艇に攻撃を加えるため、九州各地の航空基地から特別攻撃隊を進発させていた。しかし、陸軍のパイロットは長時間の洋上飛行に慣れていない上、速成教育されたパイロットの技量も未熟であり、そもそも特攻に使う飛行機も粗悪品で故障が続発する有様だった。このため、せっかく出発させた特攻機が沖縄に辿り着かず、薩南諸島の島々に不時着するケースが相当数に上る事態となった。

 このような状況を前にして、第六航空軍は、生還パイロットたちの処遇に頭を痛めることになった。「軍神として華々しく送り出したはずのパイロットが実は生きている」という事実が知られてしまうと、将兵や国民の士気にかかわる、というのが軍の冷酷な論理だったのだ。結果的にパイロットたちは、福岡女学院の寄宿舎を接収して設置された「振武寮」という施設に隔離され、参謀に口汚く罵倒されながら、軍人勅諭の筆写などの精神教育を強要されることになるのだった。

 本書は、こうした「振武寮」をめぐる元パイロットたちの思いや、特攻をめぐる葛藤、そして「振武寮」でパイロットたちを強圧的に指導した元参謀の言い分などを詳しく解き明かした一書である。特に、「振武寮」の立ち上げ・運営を事実上主導した参謀、倉澤清忠少佐へのインタビューは注目に値する。これを読むと、参謀にも参謀なりの弁解があったことが窺われるが、しかし、「生きていること自体が不都合」とされた生還パイロットたちの強烈な怒りの前に、それらの釈明はおよそ力を持つことはないのだろうと思わざるを得なかった。

(追記)
 「陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち」さんというサイトに、「振武寮の虚構」という考察が掲載されている。「ある映画や出版物が広めた振武寮のストーリーは明らかに針小棒大であり、虚構に近いものだ」とする意見も一考の価値があると思われるので、ここに紹介させていただく。

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2011年06月12日

【本】藤岡明義「敗残の記 −玉砕地ホロ島の記録−」

「敗残の記 −玉砕地ホロ島の記録−」 藤岡明義/中公文庫/1991年
(初版は、1979年に創林社から刊行)

 太平洋戦争当時、フィリピン諸島南部のホロ島に派遣され、辛うじて生還を遂げた兵士による戦記。

 太平洋戦争は悲惨な玉砕戦場を多数生み出したが、その中でも、スールー諸島の一部に含まれるホロ島には、他の戦場と際立って異なる一つの特徴があった。それは、残忍さで知られる原住民、モロ族の存在である。

 戦争末期、ホロ島には、独立混成第55旅団を中心に6000名強の日本軍が派遣された。そして、このうち生きて日本に帰ることができたのは、わずか135名だった。著者によれば、約6000名の日本軍の死者のうち、「米軍との戦いに死んだものは三分の一で、他の三分の一はマラリヤに倒れ、後の三分の一はモロ族に殺されたと称しても過言ではない」のだという。そのモロ族の様子を、著者は以下のように記している。

「・・・モロは怨恨や兵器欲、貴金属欲、排他性の外に、単に、殺人自身に興味を持っているのである。数百名の米比敗残兵は、曽てモロ族に首を切られてしまったと聞いていたが、今また数千名の敗残日本軍が、彼らのヤイバに斃れたのだ。
 我々がこの島に上陸して一カ月と経たないうちに、百名に近い兵隊がモロに殺されてしまった。いずれも「コムパニー、コムパニー」(友達の意)と近寄り、油断を見て蕃刀の抜討に会ったのである。一番多くやられたのは歩哨であった。
 最初の間は、彼らは少人数を狙って来たが、日本軍与し易しと見るや大胆となり、毎日定時に一定の道を通る部隊を待ち伏せるようになった。ある部隊の命令受領者九名は、毎日定時に命令受領に通る道を待ち伏せされて全員戦死。私の部隊の一コ小隊は山の分哨に出ていたが、毎朝麓の部落まで野菜の買出しに行くのを待ち伏せされて、一行十二名全員戦死。ある部落では日本兵を歓迎して毎日御馳走を出し、空腹の日本兵が大勢で招待されているところに、手榴弾を投げ、首を切って廻った。またある部隊の一コ小隊は山の陣地に糧秣運搬中、協力していたモロに突如背かれて皆殺しにあった。
 彼らのジャングル戦の巧妙さに至っては、実に驚嘆の外はない。
 突如、前方から射って来る。すわ応戦と銃を向ける頃には、すでに後に廻って射って来る。それ後方だと振り向くと槍、蕃刀の突撃である。彼らの射撃は専ら肉薄狙撃で、たいていの場合日本軍は、あまりの突然の近接射撃に、泡を喰って混乱に陥り、夥しい犠牲を出した。私は行軍中突如、彼らの小銃の発射煙をかぶったことすらある。それほど接近しても、彼らの足音を聞き取り、または彼らの姿を先に発見した例は未だ聞いたことがない。風の如く来り、風の如く去る通り魔とでも言おうか。彼らは襲撃の際、異様な兇声を発す。それは人間のものとは思えないような疳高い不吉な声で、敗残生活に入ってからは、その声を聞くと、猫ににらまれた鼠の如く立ちすくんでしまうのが常であった。
 最初日本軍は、来るべき日に備えて、モロの暴行にはなるべく犠牲を惜しみ、モロを刺戟しない方針をとっていたが、遂に参謀をして「敵は米軍に非ず、モロなり」と叫ばしめた。
 頻々たる分哨襲撃事件に業を煮やした兵団は、一日、歩兵一コ大隊に山砲を配して大討伐を行ったが、ジャングル戦に馴れていない日本軍は、弓と槍と蕃刀と小銃による神出鬼没の肉薄攻撃に、小児の如く翻弄され、著しい犠牲を出して逃げ帰った。帰り路には、すでに先廻りしたモロが、多数の樹を路に並べて山砲の進行を阻害、これを踏み越えるのにまごついているところを突撃されて、あわや山砲を奪取されるところであった。
 それ以来、遠方の分哨を引き揚げ、ホロ町付近の警備だけにやっとの形となった。そのホロ町の飛行場すら、白昼襲撃を受けることもあった。
 かくて、参謀をして再び、「モロは相手にせず、真の敵は米軍なり、その日のために兵力を保全すべし」と叫ばしめた。」

 このような原住民の暮らす島で、劣弱な兵器しか持たず、米軍に一蹴されて山に追い込まれた日本軍の辿った運命は、あまりにも凄惨であった。食料もなく、飢えと病に苦しみながらジャングルを彷徨する日本軍を、モロ族はたびたび襲撃した。部隊から落伍した兵士は、片端からモロ族に惨殺された。日本が降伏した後でさえ、兵たちは、米軍に辿り着く前にモロ族の刃にかけられていった。捕虜になることすら許されなかった戦場の悲惨さの前には、ただ言葉を失うばかりである。


(補遺)独立混成第55旅団(菅兵団)について
 ホロ島の守備に就いた独立混成第55旅団(旅団長:鈴木鉄三少将)については、生還者が極めて少なく、戦史叢書の記述内容も乏しい。こちらのサイトが詳細な記事を執筆して下さっているが、今回取り上げた本(便宜上、「藤岡書」と呼ぶ)と、「運命の岐路 −玉砕のホロ島は獰猛なモロ族の棲む南海の孤島であった−」(井上武男/近代文藝社/1993年。便宜上、「井上書」と呼ぶ。なお、著者は同旅団司令部付の主計将校であり、終戦時少佐)という本を参考に、事実関係の補遺を試みてみたいと思う。

・旅団長の最期について
 戦史叢書によれば、旅団長の鈴木鉄三少将は、「七月三十一日〜八月二日、島の中央部において南北道を横断する時、敵と遭遇し、兵団長も戦死した」(独立歩兵第365大隊長だった天明藤吉少佐の手記による)とされている。しかし、井上書には、鈴木少将の最期は以下のように記録されている。

「司令官鈴木閣下も大分弱って来て、遂に歩けなくなった。全兵団の兵員の士気にも影響するので、幾ら指揮命令が出来なくなっても、其処に置いて行く訳には行かない。
 …小枝を切って担架を作り、司令官を乗せて、兵隊さんが四人がかりで担いで進んだが、閣下は小柄で軽量だったけれども、それでも担いでいる兵隊さんもフラフラに弱っていたので、木枝に担架を引掛けたり、転んだりでどうにもならない。そこで何とか驢馬を見付けて来て、之に司令官を縛りつけて運んだ。
 何分にも急坂や谷や崖と揺りたくられるので、司令官もぐったりとなって了った。死んだ様になっているので軍医に尋ねたら、馬から下ろして、上向きに寝かせて溝落の辺を指で突いて見て、欠伸をする様だったらまだ生きている。
 欠伸をしないと死んでいると言うのだ。そうやって見たら欠伸をしたので、又驢馬に乗せて行進した。暫くして司令官が首を垂れてぐったりとしているので、又馬から下して指で突いて見たが、今度は欠伸が出なかった。
 水の無い谷底だったが、茲で司令官鈴木閣下は死亡された。せめて埋葬だけでもして上げたかったけれども、モロ族に追われている時だったので其儘、其所らに寝かせて、成仏を祈りつつ谷を登って行った。
 若し状況、緩にして余裕あらば、穴を掘って埋葬し、司令部だけでも整列して、ラッパ一声、捧げ筒して、黙祷を捧げるべきであろうが、追い捲くられている日本軍敗残兵は逃げるのみだった。」

 井上書には事実関係の誤記も多い。しかし、著者はずっと旅団司令部と行動を共にしており、また、鈴木少将戦没に関する記述については、具体的かつ詳細であるため、一概に誤りを述べているとは言えないように思われる。むしろ、天明少佐の手記の方に、一種の「配慮」があったのではないか。
 なお、鈴木少将は、独立混成第55旅団長就任以前は、名古屋の陸軍幼年学校長を長く務めていたという。平和な教育職から最前線兵団長への転任には、軍隊の人事の過酷さを見る思いがする。

・旅団の降伏について
 井上書によれば、旅団降伏時の佐官級の生存者は3名(天明少佐、井上少佐、ほか一名)。「ほか一名」は、井上書に「大隊長」とあること、戦史叢書に当人の日記・回想が収録されていることを踏まえれば、独立歩兵第363大隊長の笠井満少佐のことと推測される。なお、藤岡書には「川西部隊」「神田部隊」「谷川部隊」が登場するが、藤岡書は「人名だけは若干の配慮を加え」ていることから、それぞれ笠井大隊、天明大隊、清水部隊(旅団砲兵隊)を指すのではないかと思われる。
 降伏時に旅団の指揮を執っていたのは、井上書によれば天明少佐、藤岡書によれば「神田少佐」とされている。旅団司令部と最後まで行動を共にし、一緒に米軍に投降した生存者は、井上書によれば計81名であった。

・ホロ島戦没者の遺骨収集について
 戦後もホロ島は政情不安定であることから、戦没者の遺骨収集を満足に行えない地となっている。昭和三十三年二月十八日の毎日新聞夕刊は、「とりつくシマもないホロ島」との見出しで、「フィリピン南部の島々を回っている遺骨収集団の銀河丸はホロ島ではついに収骨ができなかった。…銀河丸が接岸すると、五筋の白煙が上った。PC(警備隊)の将校がモロの奇襲を恐れて奥に入れず、つい目の先のダホ山をながめながら、派遣団一同は、セミしぐれの中にぼう然と立ちつくすだけだった」と報じている。
 藤岡書(文庫版)の解説によれば、「第一回目の遺骨収集は終戦から十一年目の、一九五六年一月から二月にかけて行われたが、収集団が危険にさらされ一柱の収集も出来なかった。その後、六八年に五十柱、翌年千四百三十柱、そして七四年に四百五十柱を収集出来たが、丘陵地や山地では全く行なわれていないし、「当面、その計画もない」(厚生省援護局)」とのことである。

 なお、ホロ島の戦いに関する書物としては、この他に、藤岡氏と同じく旅団砲兵隊にいた奥村達造という人が著した、「ホロ島戦記」(1980年)という本があるようである。

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