2014年07月05日

【本】海野十三「赤道南下」

「赤道南下」 海野十三/中公文庫/2003年
(初版は、1942年に大日本雄辯會講談社から刊行)

 戦前の流行作家である著者が、太平洋戦争開戦前後に海軍報道班員として召集を受け、重巡洋艦「青葉」に乗り組んで南方攻略作戦に参加した際の従軍記。

 日本のSF作家のはしりとして知られる海野十三の、「日本海軍体験記」のような趣の作品である。著者が「青葉」に乗り組んだのが太平洋戦争緒戦の昭和17年1月〜4月だったためか、作中に描かれる作戦の様子も極めて順調であり、乗組員たちも戦勝の希望に満ちあふれている。著者も、海軍将兵の旺盛な士気や練度の高さを素朴に褒めたたえ、彼らの勝利を無邪気に確信している。読んでいて愉快になる本である。

 しかし、日本海軍優勢の時期も長くは続かなかった。著者退艦後の昭和17年10月に行われたサボ島沖海戦では、「青葉」は艦橋に直撃弾を浴び、本書に登場する謹厳な司令官・五藤存知少将や、温厚な副長・中村謙治中佐をはじめとした多くの将兵が戦死している。その後も「青葉」は、撃沈寸前の大被害を何度も蒙り、最後は呉軍港に大破着底して終戦を迎えたのだった。

 ところで著者は、「青葉」乗艦当時に見聞した小戦闘に関する大本営発表を、以下のように批評している。

「私は一読失望を感じた。それは大本営の発表が、私共の知っているあの日の戦況報告に較べて甚だ内輪に報道されてあったからだ。あのときわが航空部隊は、もっと大きな戦果を挙げた筈である。これでは死闘した勇士たちにどうも気の毒だ。つまりこの大本営発表は(非常に点がからい)という印象を受け取った。
 (中略)だが、一歩退って考えると、わが大本営の発表は常に斯くの如く辛い採点をして、正確を期していることがよく分かった。あの輝かしい大本営発表の大戦果も、内輪に見積もった発表だとすると、実際の戦果は更に一段も二段も輝かしい成果を収めていることとなる。私たちは、本当はもっとその大戦果にびっくりしていいのだという結論が生まれる。世界中に、一体どこの国がこのような謙譲な軍事発表をやっているだろうか。これは只一つ日本海軍だけだ」

 このときから3か月後に発生したミッドウェー海戦では、大本営は、日本海軍の空母の損失を1隻と発表した。今日の眼で見れば、著者の純粋さが少々気の毒に映る。

posted by A at 23:51| 本(戦記) | 更新情報をチェックする

2014年05月01日

【本】堀栄三「大本営参謀の情報戦記」

「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」 堀栄三/文春文庫/1996年

 太平洋戦争中、米軍の来攻時期などを的確に予測した元大本営参謀が、情報(いわゆる「インテリジェンス」)の専門家としての自らの活動を振り返るとともに、国家が情報を軽視することの危険性について強く警鐘を鳴らした一書。

 日本陸軍で情報参謀として手腕を発揮し、戦後は初代駐西ドイツ大使館防衛駐在官などを務めた、堀栄三氏の回顧録である。堀参謀に関して最も有名なのは、昭和19年11月上旬に、米軍のルソン島上陸時期・場所・兵力を、「昭和20年1月上旬末(8〜9日)、リンガエン湾に上陸、兵力は当初5〜6師団、爾後さらに3〜4師団」と、極めて正確に予測したことであろう。そのほか、台湾沖航空戦の誇大戦果を見抜いていたことや、昭和20年秋から21年春にかけての日本本土への米軍の上陸予定地点・時期・兵力を的確に判断していたことなど、堀氏の活躍ぶりは、ほとんど神懸りと言ってよいレベルのものであった。

 元々、堀氏は情報の専門家として教育を受けたわけではなく、大本営第2部(情報部)の第16課(ドイツ課)、第5課(ソ連課)、第6課(米英課)などをたらい回しされたり、前線を視察したりする中で、様々なタイプの上司から、情報収集のあり方や分析の方法などを自主的に学んでいった人物だった。その手法は、例えば「各種の徴候を丹念に積み上げ、さらに公開文書の翻訳、放送の傍受、暗号の解読、相手国周辺の駐在武官の報告などを組織的、体系的に分析検討して、砂礫のような情報の中から一粒のダイヤを見つけるに似た克明細心な取り組み方をする」方法や、ある情報を「一本の線で一方的に見ないで、他の何かの情報と関連があるかどうかを見つけようとする。従って二線、三線の交叉点を求めようと」するやり方などであり、こうした技法は、現代の我々が仕事をする際などにも、十分に参考となるものである。

 また、堀氏が受けた助言の中には、「情報は結局相手が何を考えているかを探る仕事だ。だが、そう簡単にお前たちの前に心の中を見せてはくれない。しかし心は見せないが、仕草は見せる。その仕草にも本物と偽物とがある。それらを十分に集めたり、点検したりして、これが相手の意中だと判断を下す。(中略)いろいろ各場面で現われる仕草を集めて、それを通して判断する以外にはないようだな」(堀丈夫中将・堀氏の養父)、「枝葉末節にとらわれないで、本質を見ることだ。文字や形の奥の方には本当の哲理のようなものがある、表層の文字や形を覚えないで、その奥にある深層の本質を見ることだ。世の中には似たようなものがあるが、みんなどこかが違うのだ。形だけを見ていると、これがみんな同じに見えてしまう。それだけ覚えていたら大丈夫、ものを考える力ができる」(土肥原賢二大将)といった抽象的なものもあり、これらは大つかみなアドバイスである分、よりいっそう、「噛めば噛むほど味の出る奥深いものがあって、堀には一生忘れられない言葉」となるものであった。

 堀氏が情報参謀として飛躍的な成長を遂げたのは、もともと彼にその素質があり、周囲の人材を触媒として、その才能が自発的・偶然的に開花したということなのだろう。しかし、彼のような情報の俊英が出現しないままずるずると戦況が悪化し、昭和18年も終わり頃になってようやく、大本営で米軍戦法の研究や情報分析が本格化したという現実は、まさに恥ずべき失態というほかない。エリート中のエリートの軍人たちを集めていたはずの大本営において、華々しい作戦指導ばかりに熱中し、その判断根拠となるはずの地道な情報収集・分析を疎かにしていた事実は、十分に教訓とされなければならないことではないかと思う。

posted by A at 08:20| 本(戦記) | 更新情報をチェックする

2014年02月16日

【本】山本七平「洪思翊中将の処刑」

「洪思翊中将の処刑 上・下」 山本七平/ちくま文庫/2006年
(初版は、1986年に文藝春秋から刊行)

 卓越した能力と高潔な人格によって昇進を重ねた朝鮮出身の軍人・洪思翊中将が、太平洋戦争後、BC級戦犯として処刑されるに至った経緯を追った本。

 「人間とはその人生において、しばしば、本人が全く予期しない役割を演じさせられるものであろう」(本書より)。王族の例を除き、朝鮮人として唯一将官の地位まで上り詰めた洪思翊中将は、戦争末期にたまたま比島俘虜収容所長の地位にあったために、フィリピンにおける連合軍捕虜虐待の責任を一身に負わされて刑死した。植民地出身者として困難な軍人生活を送ってきた洪中将は、戦後は郷里で数学教師を務めながら平穏に暮らすことを望んでいたというが、彼を待ち受けていたのは、その温和な性格には似合わない過酷な運命であった。

 当然のことながら、洪中将が連合軍捕虜を虐待するよう指示した事実などは全くなかった。しかし洪中将は、戦犯裁判における検察側の的外れな責任追及に対して、一切の弁明を行わなかったという。それは中将の廉直な性格によるものでもあったろうが、同時に、無理やり理屈をでっち上げてでも誰かに「落とし前」をつけさせようとする戦犯裁判の、その虚構性に対する拒絶と諦めの意思表示ではなかったか。彼の辞世の和歌2首(「くよくよと思つてみても愚痴となり 敗戦罪とあきらむがよし」「昔より冤死せしものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ」)は、そうした彼の心情を端的に示したものであろう。

 弁護側の懸命の法廷闘争にもかかわらず、洪中将は1946年4月に絞首刑判決を受け、早くもその年の9月には刑の執行を受けることになる。フィリピンで日本人戦犯処刑の現場に立ち会い続けた片山牧師は、処刑直前に取り乱す戦犯が少なからずいたことに触れた上で、洪中将の最期について次のように書き残している。

「もちろん、立派な態度の人もいた。なかでも抜群だったのは、韓国出身の洪思翊中将である。このときは私一人で、中将のために「聖書」を朗読した。洪中将は寸毫の乱れも見せなかったばかりか、あべこべに、
『片山君、何も心配するな。私は悪いことはしなかった。死んだら真直ぐ神様のところへ行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな』
と、逆に私を励まされた。時間がきてMPが近づくと、中将は落ち着いて立ち上り、
『片山君、君は若いのだから、身体を大事にしなさいよ。そして元気で郷里に帰りなさい』
と、別離の言葉を送られた」

 これだけ落ち着いて自らの死を、それも他者の責任を負わされての死を迎えることができる人物が、果たしてどれだけ存在するだろうか。その淡々とした最期の様子からは、ただ中将の清涼な人柄が偲ばれるばかりである。

posted by A at 20:03| 本(戦記) | 更新情報をチェックする

2013年01月19日

【本】山本七平「一下級将校の見た帝国陸軍」

「一下級将校の見た帝国陸軍」 山本七平/文春文庫/1987年
(初版は、朝日新聞社より1976年に刊行)

 太平洋戦争中に陸軍に徴兵され、ルソン島の激戦地に送られた著者が、自らの体験を踏まえながら、軍隊組織の不効率さや矛盾、ひいては日本人組織の特異性を剔出した評論。

 学生時代に徴兵検査に合格し、不本意ながら陸軍に入隊した著者が、陸軍組織の異常さや、その組織内で矛盾と折り合いを付けながら勤務する人々の模様を描いた一書である。後年、「山本学」と総称される著作群を残した人物だけあって、硬直し腐敗した組織を見つめる目は鋭い。当時軍隊にいながら、これだけ冷静かつ客観的に組織を捉えることができた人間が、果たしてどれだけいただろうか。

 本書で述べられているさまざまな場面や現象の中から、ここに取り上げて紹介したいものはいくつもあるが、やはり有名な「員数(いんずう)主義」に触れないわけにはいかないだろう。著者は、日本陸軍を蝕んだ「員数主義」について、次のように解説している。

「…S中尉の言った「員数」という言葉にはその原意とは違った、軍隊内でしか通用しない独特の意味があった。一応これを「員数主義」と言っておこう。このイズムは、もうどうにもならない宿痾、日本軍の不治の病、一種のリュウマチズムとでもいうべきもので、戦後、収容所で、日本軍壊滅の元凶は何かと問われれば、殆どすべての人が異口同音にあげたのがこの「員数主義」であった。そしてこの病は、文字通りに「上は大本営より下は一兵卒に至るまで」を、徹底的にむしばんでいた。もちろん私も、むしばまれていた一人である。(中略)
 元来は員数とは、物品の数を意味するだけであって、いわゆる「員数検査」とは、一般社会の棚卸しと少しも変わらず、帳簿上の数と現物の数とが一致しているかどうかを調べるだけのことである。従って、問題は、検査そのものより、検査の内容と意味づけにあった。すなわち「数さえ合えばそれでよい」が基本的態度であって、その内実は全く問わないという形式主義、それが員数主義の基本なのである」

 こうした「員数主義」の一例として、著者はルソン島北部のアパリで自ら指揮した、ゲリラ掃討戦の様子を紹介している。著者(砲兵少尉)は守備隊長から、アパリ周辺に出没するゲリラを「撃滅スベシ」という命令を受ける。しかし、アパリに残置されていた「砲兵一個中隊」の内情を調べると、大砲4門のうち3門は故障で、残りの1門も誰も扱ったことのない珍しい砲だった。このことを著者は以下のように述べている。

「自分で調べた結果わかったことは、アパリ正面の砲兵一個中隊とは、結局、員数だったということである。どうもおかしいと思ったのは、転進命令が出たときの中隊長たちの動きであった。というのは、一個中隊がそのまま残ったのではなく、各中隊が一個分隊を残し、この残された四個分隊で臨時に一個中隊を編成し、S老大尉が臨時中隊長、本部からは私が残るということになったからである。
 各中隊は、動かない砲、使えない砲、無用の砲弾、そして歩けない病人を捨てて行ったということであった。そして私が残されたのも、結局、結核の既往症があるから、行軍途中で喀血でもされたら足手まといだということと、後述の私の推定通りの理由からだったらしい。
 員数中隊の実体にはゾーッとした。(中略)これでは米軍どころかゲリラにも対抗できない。だが結局私は、面倒なことを支隊長に報告してトラブルを起こすよりも、員数中隊の員数砲弾で員数砲撃をして員数報告を書くことにした」

 そして著者は、故障していない1門の砲を引き出し、でたらめの場所に向かって1時間ほど砲撃を行い、ゲリラを撃滅したという立派な「報告」を書いた。こうした小さな虚構が、数えきれないほど積み重なってできた組織が日本陸軍だったのだとしたら、この集団がいずれ破滅する運命にあったのは当然であろう。

 著者の体験は70年近く前の話であるが、ところで現代の我々も、この「員数主義」の類例を、いくつも身近に見聞することはないだろうか。処理しきれない膨大な作業を抱え込み、ずさんな対応と適当な報告を行っていたという最近の福島の「手抜き除染」の例など、上述の「員数砲撃」と本質的に何も変わらない話であるように思える。もし万一、日本がもう一度戦争をすることがあったとしても、きっと同じように「員数主義」がはびこり、組織を害することになるのではないかと、個人的にはほとんど確信に近いような思いを抱いている。

posted by A at 21:11| 本(戦記) | 更新情報をチェックする

2012年05月27日

【本】林えいだい「陸軍特攻 振武寮」

「陸軍特攻 振武寮」 林えいだい/光人社NF文庫/2009年

 太平洋戦争末期、いったん特攻に出撃しながら敵艦突入を果たせなかったパイロットたちを収容・監禁した「振武寮」についてのルポルタージュ。単行本は、2007年に東方出版から刊行。

 昭和20年春。日本陸軍の第六航空軍は、沖縄占領を目指す米軍の艦艇に攻撃を加えるため、九州各地の航空基地から特別攻撃隊を進発させていた。しかし、陸軍のパイロットは長時間の洋上飛行に慣れていない上、速成教育されたパイロットの技量も未熟であり、そもそも特攻に使う飛行機も粗悪品で故障が続発する有様だった。このため、せっかく出発させた特攻機が沖縄に辿り着かず、薩南諸島の島々に不時着するケースが相当数に上る事態となった。

 このような状況を前にして、第六航空軍は、生還パイロットたちの処遇に頭を痛めることになった。「軍神として華々しく送り出したはずのパイロットが実は生きている」という事実が知られてしまうと、将兵や国民の士気にかかわる、というのが軍の冷酷な論理だったのだ。結果的にパイロットたちは、福岡女学院の寄宿舎を接収して設置された「振武寮」という施設に隔離され、参謀に口汚く罵倒されながら、軍人勅諭の筆写などの精神教育を強要されることになるのだった。

 本書は、こうした「振武寮」をめぐる元パイロットたちの思いや、特攻をめぐる葛藤、そして「振武寮」でパイロットたちを強圧的に指導した元参謀の言い分などを詳しく解き明かした一書である。特に、「振武寮」の立ち上げ・運営を事実上主導した参謀、倉澤清忠少佐へのインタビューは注目に値する。これを読むと、参謀にも参謀なりの弁解があったことが窺われるが、しかし、「生きていること自体が不都合」とされた生還パイロットたちの強烈な怒りの前に、それらの釈明はおよそ力を持つことはないのだろうと思わざるを得なかった。

(追記)
 「陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち」さんというサイトに、「振武寮の虚構」という考察が掲載されている。「ある映画や出版物が広めた振武寮のストーリーは明らかに針小棒大であり、虚構に近いものだ」とする意見も一考の価値があると思われるので、ここに紹介させていただく。

posted by A at 10:47| 本(戦記) | 更新情報をチェックする