2012年05月27日

【本】林えいだい「陸軍特攻 振武寮」

「陸軍特攻 振武寮」 林えいだい/光人社NF文庫/2009年

 太平洋戦争末期、いったん特攻に出撃しながら敵艦突入を果たせなかったパイロットたちを収容・監禁した「振武寮」についてのルポルタージュ。単行本は、2007年に東方出版から刊行。

 昭和20年春。日本陸軍の第六航空軍は、沖縄占領を目指す米軍の艦艇に攻撃を加えるため、九州各地の航空基地から特別攻撃隊を進発させていた。しかし、陸軍のパイロットは長時間の洋上飛行に慣れていない上、速成教育されたパイロットの技量も未熟であり、そもそも特攻に使う飛行機も粗悪品で故障が続発する有様だった。このため、せっかく出発させた特攻機が沖縄に辿り着かず、薩南諸島の島々に不時着するケースが相当数に上る事態となった。

 このような状況を前にして、第六航空軍は、生還パイロットたちの処遇に頭を痛めることになった。「軍神として華々しく送り出したはずのパイロットが実は生きている」という事実が知られてしまうと、将兵や国民の士気にかかわる、というのが軍の冷酷な論理だったのだ。結果的にパイロットたちは、福岡女学院の寄宿舎を接収して設置された「振武寮」という施設に隔離され、参謀に口汚く罵倒されながら、軍人勅諭の筆写などの精神教育を強要されることになるのだった。

 本書は、こうした「振武寮」をめぐる元パイロットたちの思いや、特攻をめぐる葛藤、そして「振武寮」でパイロットたちを強圧的に指導した元参謀の言い分などを詳しく解き明かした一書である。特に、「振武寮」の立ち上げ・運営を事実上主導した参謀、倉澤清忠少佐へのインタビューは注目に値する。これを読むと、参謀にも参謀なりの弁解があったことが窺われるが、しかし、「生きていること自体が不都合」とされた生還パイロットたちの強烈な怒りの前に、それらの釈明はおよそ力を持つことはないのだろうと思わざるを得なかった。

(追記)
 「陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち」さんというサイトに、「振武寮の虚構」という考察が掲載されている。「ある映画や出版物が広めた振武寮のストーリーは明らかに針小棒大であり、虚構に近いものだ」とする意見も一考の価値があると思われるので、ここに紹介させていただく。

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2011年06月12日

【本】藤岡明義「敗残の記 −玉砕地ホロ島の記録−」

「敗残の記 −玉砕地ホロ島の記録−」 藤岡明義/中公文庫/1991年
(初版は、1979年に創林社から刊行)

 太平洋戦争当時、フィリピン諸島南部のホロ島に派遣され、辛うじて生還を遂げた兵士による戦記。

 太平洋戦争は悲惨な玉砕戦場を多数生み出したが、その中でも、スールー諸島の一部に含まれるホロ島には、他の戦場と際立って異なる一つの特徴があった。それは、残忍さで知られる原住民、モロ族の存在である。

 戦争末期、ホロ島には、独立混成第55旅団を中心に6000名強の日本軍が派遣された。そして、このうち生きて日本に帰ることができたのは、わずか135名だった。著者によれば、約6000名の日本軍の死者のうち、「米軍との戦いに死んだものは三分の一で、他の三分の一はマラリヤに倒れ、後の三分の一はモロ族に殺されたと称しても過言ではない」のだという。そのモロ族の様子を、著者は以下のように記している。

「・・・モロは怨恨や兵器欲、貴金属欲、排他性の外に、単に、殺人自身に興味を持っているのである。数百名の米比敗残兵は、曽てモロ族に首を切られてしまったと聞いていたが、今また数千名の敗残日本軍が、彼らのヤイバに斃れたのだ。
 我々がこの島に上陸して一カ月と経たないうちに、百名に近い兵隊がモロに殺されてしまった。いずれも「コムパニー、コムパニー」(友達の意)と近寄り、油断を見て蕃刀の抜討に会ったのである。一番多くやられたのは歩哨であった。
 最初の間は、彼らは少人数を狙って来たが、日本軍与し易しと見るや大胆となり、毎日定時に一定の道を通る部隊を待ち伏せるようになった。ある部隊の命令受領者九名は、毎日定時に命令受領に通る道を待ち伏せされて全員戦死。私の部隊の一コ小隊は山の分哨に出ていたが、毎朝麓の部落まで野菜の買出しに行くのを待ち伏せされて、一行十二名全員戦死。ある部落では日本兵を歓迎して毎日御馳走を出し、空腹の日本兵が大勢で招待されているところに、手榴弾を投げ、首を切って廻った。またある部隊の一コ小隊は山の陣地に糧秣運搬中、協力していたモロに突如背かれて皆殺しにあった。
 彼らのジャングル戦の巧妙さに至っては、実に驚嘆の外はない。
 突如、前方から射って来る。すわ応戦と銃を向ける頃には、すでに後に廻って射って来る。それ後方だと振り向くと槍、蕃刀の突撃である。彼らの射撃は専ら肉薄狙撃で、たいていの場合日本軍は、あまりの突然の近接射撃に、泡を喰って混乱に陥り、夥しい犠牲を出した。私は行軍中突如、彼らの小銃の発射煙をかぶったことすらある。それほど接近しても、彼らの足音を聞き取り、または彼らの姿を先に発見した例は未だ聞いたことがない。風の如く来り、風の如く去る通り魔とでも言おうか。彼らは襲撃の際、異様な兇声を発す。それは人間のものとは思えないような疳高い不吉な声で、敗残生活に入ってからは、その声を聞くと、猫ににらまれた鼠の如く立ちすくんでしまうのが常であった。
 最初日本軍は、来るべき日に備えて、モロの暴行にはなるべく犠牲を惜しみ、モロを刺戟しない方針をとっていたが、遂に参謀をして「敵は米軍に非ず、モロなり」と叫ばしめた。
 頻々たる分哨襲撃事件に業を煮やした兵団は、一日、歩兵一コ大隊に山砲を配して大討伐を行ったが、ジャングル戦に馴れていない日本軍は、弓と槍と蕃刀と小銃による神出鬼没の肉薄攻撃に、小児の如く翻弄され、著しい犠牲を出して逃げ帰った。帰り路には、すでに先廻りしたモロが、多数の樹を路に並べて山砲の進行を阻害、これを踏み越えるのにまごついているところを突撃されて、あわや山砲を奪取されるところであった。
 それ以来、遠方の分哨を引き揚げ、ホロ町付近の警備だけにやっとの形となった。そのホロ町の飛行場すら、白昼襲撃を受けることもあった。
 かくて、参謀をして再び、「モロは相手にせず、真の敵は米軍なり、その日のために兵力を保全すべし」と叫ばしめた。」

 このような原住民の暮らす島で、劣弱な兵器しか持たず、米軍に一蹴されて山に追い込まれた日本軍の辿った運命は、あまりにも凄惨であった。食料もなく、飢えと病に苦しみながらジャングルを彷徨する日本軍を、モロ族はたびたび襲撃した。部隊から落伍した兵士は、片端からモロ族に惨殺された。日本が降伏した後でさえ、兵たちは、米軍に辿り着く前にモロ族の刃にかけられていった。捕虜になることすら許されなかった戦場の悲惨さの前には、ただ言葉を失うばかりである。


(補遺)独立混成第55旅団(菅兵団)について
 ホロ島の守備に就いた独立混成第55旅団(旅団長:鈴木鉄三少将)については、生還者が極めて少なく、戦史叢書の記述内容も乏しい。こちらのサイトが詳細な記事を執筆して下さっているが、今回取り上げた本(便宜上、「藤岡書」と呼ぶ)と、「運命の岐路 −玉砕のホロ島は獰猛なモロ族の棲む南海の孤島であった−」(井上武男/近代文藝社/1993年。便宜上、「井上書」と呼ぶ。なお、著者は同旅団司令部付の主計将校であり、終戦時少佐)という本を参考に、事実関係の補遺を試みてみたいと思う。

・旅団長の最期について
 戦史叢書によれば、旅団長の鈴木鉄三少将は、「七月三十一日〜八月二日、島の中央部において南北道を横断する時、敵と遭遇し、兵団長も戦死した」(独立歩兵第365大隊長だった天明藤吉少佐の手記による)とされている。しかし、井上書には、鈴木少将の最期は以下のように記録されている。

「司令官鈴木閣下も大分弱って来て、遂に歩けなくなった。全兵団の兵員の士気にも影響するので、幾ら指揮命令が出来なくなっても、其処に置いて行く訳には行かない。
 …小枝を切って担架を作り、司令官を乗せて、兵隊さんが四人がかりで担いで進んだが、閣下は小柄で軽量だったけれども、それでも担いでいる兵隊さんもフラフラに弱っていたので、木枝に担架を引掛けたり、転んだりでどうにもならない。そこで何とか驢馬を見付けて来て、之に司令官を縛りつけて運んだ。
 何分にも急坂や谷や崖と揺りたくられるので、司令官もぐったりとなって了った。死んだ様になっているので軍医に尋ねたら、馬から下ろして、上向きに寝かせて溝落の辺を指で突いて見て、欠伸をする様だったらまだ生きている。
 欠伸をしないと死んでいると言うのだ。そうやって見たら欠伸をしたので、又驢馬に乗せて行進した。暫くして司令官が首を垂れてぐったりとしているので、又馬から下して指で突いて見たが、今度は欠伸が出なかった。
 水の無い谷底だったが、茲で司令官鈴木閣下は死亡された。せめて埋葬だけでもして上げたかったけれども、モロ族に追われている時だったので其儘、其所らに寝かせて、成仏を祈りつつ谷を登って行った。
 若し状況、緩にして余裕あらば、穴を掘って埋葬し、司令部だけでも整列して、ラッパ一声、捧げ筒して、黙祷を捧げるべきであろうが、追い捲くられている日本軍敗残兵は逃げるのみだった。」

 井上書には事実関係の誤記も多い。しかし、著者はずっと旅団司令部と行動を共にしており、また、鈴木少将戦没に関する記述については、具体的かつ詳細であるため、一概に誤りを述べているとは言えないように思われる。むしろ、天明少佐の手記の方に、一種の「配慮」があったのではないか。
 なお、鈴木少将は、独立混成第55旅団長就任以前は、名古屋の陸軍幼年学校長を長く務めていたという。平和な教育職から最前線兵団長への転任には、軍隊の人事の過酷さを見る思いがする。

・旅団の降伏について
 井上書によれば、旅団降伏時の佐官級の生存者は3名(天明少佐、井上少佐、ほか一名)。「ほか一名」は、井上書に「大隊長」とあること、戦史叢書に当人の日記・回想が収録されていることを踏まえれば、独立歩兵第363大隊長の笠井満少佐のことと推測される。なお、藤岡書には「川西部隊」「神田部隊」「谷川部隊」が登場するが、藤岡書は「人名だけは若干の配慮を加え」ていることから、それぞれ笠井大隊、天明大隊、清水部隊(旅団砲兵隊)を指すのではないかと思われる。
 降伏時に旅団の指揮を執っていたのは、井上書によれば天明少佐、藤岡書によれば「神田少佐」とされている。旅団司令部と最後まで行動を共にし、一緒に米軍に投降した生存者は、井上書によれば計81名であった。

・ホロ島戦没者の遺骨収集について
 戦後もホロ島は政情不安定であることから、戦没者の遺骨収集を満足に行えない地となっている。昭和三十三年二月十八日の毎日新聞夕刊は、「とりつくシマもないホロ島」との見出しで、「フィリピン南部の島々を回っている遺骨収集団の銀河丸はホロ島ではついに収骨ができなかった。…銀河丸が接岸すると、五筋の白煙が上った。PC(警備隊)の将校がモロの奇襲を恐れて奥に入れず、つい目の先のダホ山をながめながら、派遣団一同は、セミしぐれの中にぼう然と立ちつくすだけだった」と報じている。
 藤岡書(文庫版)の解説によれば、「第一回目の遺骨収集は終戦から十一年目の、一九五六年一月から二月にかけて行われたが、収集団が危険にさらされ一柱の収集も出来なかった。その後、六八年に五十柱、翌年千四百三十柱、そして七四年に四百五十柱を収集出来たが、丘陵地や山地では全く行なわれていないし、「当面、その計画もない」(厚生省援護局)」とのことである。

 なお、ホロ島の戦いに関する書物としては、この他に、藤岡氏と同じく旅団砲兵隊にいた奥村達造という人が著した、「ホロ島戦記」(1980年)という本があるようである。

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2011年05月15日

【本】島田覚夫「私は魔境に生きた」

「私は魔境に生きた 終戦も知らずニューギニアの山奥で原始生活十年」 島田覚夫/光人社NF文庫/2002年
(初版は、1986年にヒューマンドキュメント社から刊行)

 昭和19年から10年以上にわたって、ニューギニアの密林の中でサバイバル生活を生き抜き、ついに昭和30年に帰国を果たした日本兵たちの生存闘争記録。

 昭和19年4月。東部ニューギニア戦線で劣勢に苦しむ日本陸軍の第18軍は、西部ニューギニアに展開する第2軍との合流を目指し、部隊を西方に転進させ始めていた。そんな中で、いわゆる「蛙飛び作戦」を採用した米軍は、4月22日、第18軍の後方基地であったニューギニア中部のアイタペとホーランジアに同時上陸し、両地の日本軍守備隊を一蹴する。

 それでも、アイタペの日本軍守備隊は東の第18軍へ、ホーランジアの守備隊は西の第2軍へ合流すべく撤退することができたが、悲惨を極めたのは、たまたまアイタペとホーランジアの間を西に向けて転進中の部隊だった。「サンドイッチ部隊」と呼ばれるこれらの部隊は、東西を米軍に挟まれ、北を海に遮られ、十分な食料も武器もないままジャングルの中を彷徨い続ける運命となる。その結果、戦史叢書によれば、約2500名いた「サンドイッチ部隊」の死亡率は、実に99.9%に上ったという。

 本書は、この「サンドイッチ部隊」に含まれる著者たちが、密林の中で厳しい自活を続け、ついに生還を遂げるまでの模様を詳しく描いたノンフィクションである。昭和19年6月、17名で「籠城生活」を始めた著者たちは、敵軍の襲撃や悪疫などで次々に同志を失いつつも、ジャングルの奥深くでどうにか農園の開拓に成功し、日本軍の再来攻を信じながら辛うじて露命をつないでいく。昭和26年頃には、原住民に自らの所在を知られてしまうが、彼らを口止めしながら隠棲を続け、ついに昭和29年9月、生き残った4名が現地官憲に救出されるのである。

 それにしても、彼らの生存闘争は大きな運にも恵まれていたのだと思う。まず、近くに日本軍の物資集積所があり、数年分の食料や農器具などを調達することができたこと。昭和20年5月の敵襲を除き、彼らの隠れ家が敵に発見されることはなかったこと。苦心して開墾した土地で、農作物が無事に実を結んだこと。乾パンの袋などから衣料の代用品を作ることができ、これでマラリアの悪寒に対処できたこと。貯蔵していた塩が欠乏した頃、原住民との交流が生まれ、彼らから必要な物資を得られるようになったことなど、どれ一つ欠けても、著者らが生命を維持することは不可能だったに違いない。

 また、著者らが生き延びたことについては、食料の徹底平等分配主義など著者のリーダーシップが適切で、メンバー間の団結が保たれたことや、彼ら自身の創意工夫や多大な努力があったことも不可欠の要因として挙げられる。著者は、昭和19年末頃の「サンドイッチ部隊」の状況について、「当時までは他にも相当数の日本兵がいることを集積所、あるいは巡邏道に残された形跡によって想像していたが、その後一年程の間には全くその形跡を絶ってしまった」と書いているが、結局のところ、ニューギニアの過酷な自然環境は、著者らのように運と能力に恵まれた者にしか、その生存を許さなかったのだろう。

 ところで、本書の中では、著者らと他部隊との間で発生した、とある食料争奪事件の模様が描かれている。すなわち、ある夜、著者らが夜闇に紛れて、敵軍の管理下にある食料集積所から物資を盗み出して物陰に隠した。そして、次の日の夜に回収に行ったところ、独立工兵隊の将校を名乗る者たちがこの物資を発見しており、著者に銃剣を突き付けてこれを強奪しようとした事件である。

 この、著者に銃剣を突き付けた、自称「独立工兵隊の将校」は、「ゆきゆきて、神軍」で知られる奥崎謙三上等兵である。戦後数十年を経て著者と奥崎が邂逅する経緯については、「土壇場における人間の研究 ニューギニア闇の戦跡」という本に詳しいが、ほぼ全員が戦没したとされる「サンドイッチ部隊」の奇跡的な生還者2名が、互いの存在を知らないまま、ニューギニア山中で起きた同じ事件についてそれぞれ自著で言及するということは、かなりの奇縁と言っていいように思われる。


(2016.2.11追記)
 「サンドイッチ部隊」については、別記事に詳しくまとめました。


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2010年09月12日

【本】後勝「ビルマ戦記 ―方面軍参謀 悲劇の回想」

「ビルマ戦記 ―方面軍参謀 悲劇の回想」 後勝/光人社/2010年(新装版)

 昭和19年から20年にかけて、ビルマ方面軍後方参謀として主に軍の兵站・補給面を指導した少壮幕僚による戦記。

 太平洋戦争のビルマ戦線といえば、多大な犠牲をもたらしたインパール作戦(昭和19年3月〜7月)が広く世に知られる。しかしビルマの日本軍は、インパール作戦後の撤退戦の過程で、インパール作戦よりさらに多数の戦没者を生み出している。本書は、戦線全体を俯瞰する立場にいた著者が、こうしたビルマ戦後半期の悲惨な戦闘の実情を描いた記録である。

 昭和19年1月、参謀本部第二課(作戦課)からビルマ方面軍に着任した著者は、軍の後方参謀として、兵站支援を計画・指導する任に就く。着任早々予定されていたインパール作戦に際して、著者は作戦開始前に第15軍の弓兵団(第33師団)、烈兵団(第31師団)、祭兵団(第15師団)の各司令部を巡回訪問する。そして、補給面の弱点を補う方策と、雨季を控え作戦転換の時期を誤らぬよう特に注意すべきことを軍首脳に意見具申しようとするが、同じ後方担当の主任参謀から、

「この作戦は第十五軍が計画し、方面軍も総軍も大本営も承認した作戦で、方面軍の作戦班も、この計画で一ヵ月間にインパールを落とすというのだから、まかせておけばよいのではないか。われわれ後方のものは、その作戦計画の範囲内で後方の仕事をすればよいので、それ以上の口出しは僭越だ」

と一蹴されてしまう。さらに5月初頭、著者は危険を冒して行った現地視察を踏まえ、「インパール作戦の遂行は、糧食の持久限度と雨期入りの時期をあわせ考え、五月末が限度である。五月末には自主的に作戦を打ち切り、全軍一斉にチンドウィン川の線に後退し、雨期体制に入って戦力を回復することが必要である」と軍に報告したところ、

「方面軍の一部幹部の中には、臆病なる発言をなす者があるが、これら臆病な幹部の存在が方面軍目下の最大の敵である」

として冷遇すらされるに及ぶ。当時の主だった方面軍幹部は、前線の実情を把握しようともせず、自らの保身のために、ただ上滑りな積極論を繰り返すばかりであった。

 その後も著者は、無責任な攻勢主義を唱える作戦主任参謀と衝突しつつ、繰り返し戦場を視察して軍の後退戦を指導する。特に昭和20年4月、僅かな同行者とともに危険な前線に向かい、乱戦の中で敵中に残され行方不明になっていた龍兵団(第56師団)、弓兵団、烈兵団との連絡に成功するくだりは、一種の冒険譚を読むような感を抱かせるものである。同時期の方面軍首脳が、在留邦人やビルマ政府要人を置き去りにして、ラングーンから逃げ出す醜態を演じたことと好対照だが、結局、敗軍の混乱の中で曲がりなりにも組織を支えたのは、著者らのような一部の気骨の人材だったのだろう。


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2010年05月01日

【本】尾川正二「「死の島」ニューギニア −極限のなかの人間−」

「「死の島」ニューギニア −極限のなかの人間−」 尾川正二/光人社NF文庫/2004年
(初版「極限の中の人間−極楽鳥の島」は、1969年に創文社から刊行)

 一歩兵として東部ニューギニア戦に参加した著者が、絶望的な戦場における兵士たちの人間模様や軍のおかれた極限の状況を通して、戦争と人間の関係を描いた本。1970年、第1回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

 第20師団歩兵第79連隊の一員としてニューギニア戦線に送られた著者による、過酷な生存闘争の記録である。太平洋戦争における最も悲惨な戦場の一つと言われるニューギニアの戦いにおいて、著者は昭和18年1月のニューギニア島上陸から、ラエへの道路建設、フィンシュハーフェンの戦い、ガリ転進、アイタペの戦い、山南邀撃戦を戦い抜き、昭和21年1月に日本へ生還した。4,320名の兵力でニューギニアに上陸した歩兵第79連隊のうち、著者とともに帰国の途に就くことができたのは、僅かに60名だったという。

 連合軍の一方的な砲爆撃、そして飢えや病魔、酷暑が支配した苛烈なニューギニア戦線において、兵士たちは何を感じ、どう振る舞い、そしてどのように死んでいったのか。道無き山岳地帯をたどる苦難の撤退戦、食糧の圧倒的な欠乏、マラリアの猛威、絶望の環境に苦しむ兵士たちの心理、原住民の協力や裏切りの様子などを、著者はその鋭い感性をもって丹念に描いていく。多くの将兵が漫然と見逃していったであろう、あるいは何かを感じ取りながらも、自らの死によりそれを日本に持ち帰れなかったであろうニューギニア戦の情景を、著者は克明な文章の形にして、本書の中に書き綴っている。

「…Sも、その後半歳にも足らぬころ、病苦に耐えられず、連隊長に形式的な許可を得て自決してしまった。「美しい死」という。美しく死にたいと思う。だが、敗走の身をおこしてからは、死を選ぶ自由さえなかった。美しい死とは、何をいうのだろうか。美しい生き方はあっても、美しい死に方があろうとは思えないのだ。戦場での死を、まのあたりに美しいと感じた瞬間は、かつて一度もない。鉄の手に引き裂かれた死を、理念化してみる余裕はないのだ。一様の死しかありえない。ことばに尽くせぬ感動・衝撃――あえて言えば悲しみと怒りとである。「美しい」と「死」とは、そもそも結びつきようもないもののように思われるのである。われわれに許されているのは、のたれ死以外にないのだ。美しく死にたい、と考えたなまっちょろさを知った。」

「…そんなからだで、戦いながら点々と居を移さねばならなかった。装具を持ってもらって、いのちの限り歩きつづけた。おれの生きていることが、みんなの負担になっているのではないか、そう思うと、熱い友情がかえって切なかった。そのころ、自決するのではないかと、それとなくみんなで監視していたのだ、と後になって明かされた。形相はすでに、この世のものではなかったのだ。
 生と死との境界線は模糊としてかすみ、しかも生は苦痛であり死は安楽であるという、くっきりとした定式のなかに生きて、なぜ死のやすらぎを選ばなかったか。ことばにうつすのはむずかしいが、自分を支えていた根源のものは、自分自身に対する責任のようなものであった。それは、逃げないということである。何一つ逃避しないということ、どんな場合にも真っ向から立ち向かっていこうという単純さである。病兵に安楽死を求められたときの振舞いを反省するまでもなく、そういう心の姿勢が幾度かつまずいたのを痛いほど感じている。だが、自分自身から逃げまいとする単純さが、究極の拠りどころであったことは言いきれると思う。さらには、おれにもまだ、何かが残されているはずだ、果たすべき何かがある、そんな気がしていたのである。」

「人間が人間であるということには、学校教育も社会的地位も何のかかわりもない。人間性の問題に関するかぎり、学歴も職業も何のかかわりもなかった。それらは、身につけている衣装にすぎぬ。究極のものは、学校教育をはみ出た部分であり、社会的路線をこえたところでつくられた、より本源的なもののように思われた。それを“繊細の精神”と呼ぶならば、それは一体どこで養われてゆくものなのか。社会的に信頼されるべき人、あるいはインテリという階層に属する人々が、借り着を脱ぐように空しく崩れ、教育もろくに受けていない人物のなかにも、素朴な、それゆえに真正な人間の輝きをみる、という事実をどう解釈すればいいのだろうか。烈しい生存本能は、一切の装いを剥ぎとって、裸身をさらけ出した。装いと構えを棄てたとき、あとに残るものは何なのか。それが、極限状況のなかで問われた課題であり、残酷な試練であった。
 そうした重苦しい陰にみちた黄昏のなかにあって、なお道徳的稟性は信じられていいのではないか、という一条の光を認めえたことは幸せだった。こうして生かされた、ということがその一つの証であるように思われる。人間不信を生み出すべき客観的な事実の数々を見聞しながら、直接私自身に向かってきた人は、信じられていいという反証を掲げてくれることが多かった。これは、どういうことなのか。幸せであったということ以上に、どんな場合にも信じられていい「人間」を、確かめえたように思われるのである。それは、いまなお慰めの星として、暁天に光芒を放っている。」

 戦後、著者は国文学の教授職を歴任するかたわら、平成に入ってからも戦争に関する本を著し続け、平成21年3月、91歳で逝去した。著者に長命を保たせたのは、あるいは、凄惨な体験を具現化する使命感であったのだろうか。

posted by A at 09:21| 本(戦記) | 更新情報をチェックする