2014年12月23日

【本】岩川隆「人間の旗 甦った血と涙の連隊旗」

「人間の旗 甦った血と涙の連隊旗」 岩川隆/光文社文庫/1985年
(初版は、1983年にカッパ・ノベルスから刊行)

 太平洋戦争時にレイテ島、セブ島で戦った歩兵第57連隊の将兵が、終戦直後に連隊旗をひそかに細断して日本へ持ち帰り、戦後三十余年を経て旗を復元するまでの経緯を描いたノンフィクション。

 日本陸軍の精鋭師団として名高い第1師団(玉兵団)は、昭和19年、1万3千名の兵力でフィリピン・レイテ島に上陸した。そして、機械化された強大な米軍を相手に、実に50数日にわたりリモン峠の激戦を繰り広げたが、遂に矢尽き刀折れてセブ島へ撤退。戦後日本へ生還することができた師団将兵は、わずか500名に満たなかったという。

 この第1師団は、歩兵第1連隊(東京)、第49連隊(甲府)、第57連隊(佐倉)の歩兵3個連隊ほかの部隊から構成されていたが、各歩兵連隊にはそれぞれ、天皇の分身とされる軍旗(連隊旗)が与えられていた。敗戦後、各地の陸軍部隊は、連合軍に投降する前に軍旗を焼却処分したが、伝統ある軍旗の奉焼を潔しとしなかった第1師団では、3本の連隊旗(長年の歳月を経て、旗の生地の部分は失われ、房の部分だけになっていた)を細かく裁断し、連隊本部の将校・下士官などに託して、ひそかに日本へ持ち帰らせたのだった。

 そして一部の将兵は、連隊旗の切れ端を無事に故国へ持ち帰ることができた。これらの細片を、第1連隊は自衛隊練馬駐屯地に展示し、第49連隊は山梨の護国神社に奉納したが、千葉県全域を補充担任地とし、郷土部隊の気風が強い第57連隊では、旗を復元すべしとの声が湧き起こった。本書は、旗の復元運動に携わった元将兵たちの、戦中・戦後の足跡を丁寧に追い掛けたノンフィクションである。

 本書の中では、連隊旗の復元にかける戦友会の情熱や、採算度外視で旗の修復に挑む職人たちの奮闘が鮮やかに描き出されていて、読む者の心を打つ。と同時に、あの戦争への嫌悪から、旗の復元に強く反対する元将校の意見にも目配りがされている。どの人物も一様に平和を希求しながらも、それぞれの戦争体験や人生観の違いから、旗をめぐる姿勢や旧軍への評価に乖離が生じていく様子には、いろいろと考えさせられるものがあった。

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2014年09月28日

【本】西浦進「昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実」

「昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実」 西浦進/日経ビジネス人文庫/2013年
(1980年に原書房から刊行された「昭和戦争史の証言」を、改題・文庫化したもの)

 戦前から戦中期にかけて陸軍省軍務局に勤務した著者が、戦時体制下の陸軍中枢の実情を書きとめた一書。

 陸軍中央で少佐〜大佐期を過ごした著者による、陸軍官僚エピソード集といった趣の本である。日中戦争から太平洋戦争にかけて、陸軍の中枢部がどのような意見に左右され、どのように意思決定を行っていったかという実態を垣間見ることができ、資料的な価値も高い一書と言える。太平洋戦争で軍司令官や師団長クラスで活躍した軍人たちの、佐官時代の仕事ぶりも赤裸々に描かれていて、陸軍史に関心がある人にとっては特に興味を惹かれる一冊ではないかと思う。

 本書から判断するに、著者の陸軍官僚としての能力は、極めて高い水準にあったのだろう。予算の差配や戦力の整備などの諸課題について、問題の所在を正確に把握し、関係者を説得して適切に処理していく著者の姿は、まさに「能吏」という言葉がふさわしいものである。学校の成績と事務処理能力は必ずしも結びつかないケースもあるが、著者の場合は、陸士優等・陸大首席の優れた頭脳が、見事に職務に直結していたと言うべきだろう。

 ただ、著者が優秀といっても、それはあくまで官僚としての優秀さと見るべきなのかもしれない。装備のどの部分を拡充するかとか、突発的な事故にどう対処するかといった目先の課題に関して、確かに著者は辣腕を振るっている。しかし本書を読む限りでは、国家のあり方や戦争の先行きといった大きなテーマを、著者はどれだけ自分自身の問題として受け止めていたのだろうか、という疑問もないわけではない。「私はこうすべきと思っていた」といったような、やや他人事のような印象を受ける言説も散見され、少しすっきりしない読後感が残った。

 それとも、それはあくまで著者の官僚としての限界であって、問題はむしろ、著者のような能吏を使いこなす大局観のある政治家が、この時代にほとんど見当たらなかった点に求めるべきなのだろうか。本書の中でも能吏の権化のように描かれ、「最も優秀な大尉参謀」とまで(揶揄半分に)評されている東条英機のような人物が、太平洋戦争という難局の国家指導を任されてしまったことは、当時の日本にとって、おそらく悲劇的なミスキャストだったのだろう。


<おまけ>
 日経ビジネス人文庫に収録されているだけあって、本書には、仕事をする上で参考になるような記述も少なくない。そのいくつかを抜粋・紹介してみる。

(その1) 勉強
「私は軍事課に行って先ず軍備整理、行政整理の仕事をやらされ、軍備改変要領の起案にあたった。これは遂に実施されずに終ったが、後年たびたびの軍備改編の各種軍令の一の規範ともなった。このときの基礎的勉強は後年の仕事に役に立った。
 当時は毎日帰宅は九時頃となったが、それでも帰宅後は憲法、行政法の各種権威者の著書等を随分勉強もした、統帥権問題等についても一通り今迄の各議論に目を通した。
 予算班に代ってからは財政経済の本も可成勉強した。その他軍事課の過去の各種の書類も一通り目を通した。こんな勉強は後年軍事課長になるまでになにかにつけ随分と役に立った。法制局、枢密院等に引張り出され、また他省の連中と交渉しても、こういう問題については知識の不足の気おくれというものは感じられなかった。最初の一、二年みっちり勉強すればその効果は莫大なものである――いささか以上は手前味噌の感があって恐縮であるが、率直に自分の感想を述べた次第である。
 真に仕事に責任を感ずれば、役所の仕事の如き理解するのはさして困難なことではない筈である。」

(その2) 永田鉄山の執務準則
「永田軍事課長の執務準則として我々に示したことで、今でも頭に残っていることは『一つの事柄が起きたならば先ず白紙で、これは斯くあるべきものという判断をせよ。しかる後規則をしらべて成るべく之が実行を容易ならしむる方法を研究せよ』ということであった。事務官僚が規則に拘泥するのを戒しめたものである。
 自分としては後年まで始終頭に残っていた教訓であった。」

(その3) ある業務の充実
「支那関係者が本当に軍事的諜報に身をいれず、政治的事項に興味をもち過ぎ「サロン」諜報や食堂諜報をやっていた罪ではなかろうか。支那事変でも所謂支那通の意見は施策を誤らしたこと一再ではない。事変のすすむにつれ、いわゆる支那関係者がだんだん重んぜられなくなったのも無理はない。(中略)
 ロシヤ関係情報もその頃まではこの嫌いを免れなかった。橋本欣五郎中佐を班長とするロシヤ班が十月事件の主体だった如き、その適例というべきだろう。
 しかるに昭和七、八年頃からのロシヤ班は次第に本当の軍諜報機関化してきて、その調査も段々具体的組織的となり、軍の中では最も成果を挙げていたように思う。之は色々原因もあろうが、笠原幸雄(22期)、秦彦三郎(24期)中佐等の功績は確かに大きなものがあったと思う。
 或る時代に真面目な、地味なしかも部内に対して信用のある人物が、相当期間勤務するということは、その業務を大いに進展せしむるものである。」

(その4) お役所式悪例
「所謂、御役所仕事ということがよく言われる。無責任な表面糊塗、杓子定規、私は仕事の関係上、建築に関係することが多かったのでよくその例を見た。
 いつか旭川の官舎が大変悪いというので視察に行ったことがあった。建物の素質はとも角として、驚くべき非常識なことを発見した。道路を隔てて並びあった官舎街の官舎は、北側のものも南側のものも同じ設計のものを、唯向きを変えただけである。これでは片方のものは陽当りの悪いことお話にならぬ。(中略)
 後年私は南京に赴任したが官舎――それも大佐級以上の官舎の設備が、完備しすぎているのに一驚した。それでいて、尉官、下士官級のものはみじめなものだった。こんなところにも、精神的に多大の反省の余地があると思う。それでいて南京は一番質実剛健だったというのである。直ぐに畳を内地から取寄せる、電気冷蔵庫をおく、作戦準備の方は欠点だらけ、上級者の責任は大きい。も少し理想をもち、思想をもってこんな問題も指導すべきであった。敗戦後も、自分の室に絨氈を敷かないといって不平を言う将官がいたようでは、矢張り他から非難されるのが当り前である。
 十何年かの勤務を通じて、自分の身の廻りのことについて文句の多い人は、本来の仕事には割合に冷淡無関心であるという結論がでてくる。色々と他の批判はあっても、清貧に甘んじている将軍は愈々のときに頼もしい人であるということは間違いではないようである。」

(その5) 強硬論者と出世
「当時としては、下の強硬論にただ便乗して頑張る一種の英雄主義は、却って出世の一方法でもあった。四面強硬論に孤立、正しい軟論を主張する人は割に少なかった。こういう英雄主義で上の位置についた人は、愈々戦況悲惨の極となり、或は終戦後の状況一変と共に、頼りない上官となってしまったものが多い。」

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2014年07月05日

【本】海野十三「赤道南下」

「赤道南下」 海野十三/中公文庫/2003年
(初版は、1942年に大日本雄辯會講談社から刊行)

 戦前の流行作家である著者が、太平洋戦争開戦前後に海軍報道班員として召集を受け、重巡洋艦「青葉」に乗り組んで南方攻略作戦に参加した際の従軍記。

 日本のSF作家のはしりとして知られる海野十三の、「日本海軍体験記」のような趣の作品である。著者が「青葉」に乗り組んだのが太平洋戦争緒戦の昭和17年1月〜4月だったためか、作中に描かれる作戦の様子も極めて順調であり、乗組員たちも戦勝の希望に満ちあふれている。著者も、海軍将兵の旺盛な士気や練度の高さを素朴に褒めたたえ、彼らの勝利を無邪気に確信している。読んでいて愉快になる本である。

 しかし、日本海軍優勢の時期も長くは続かなかった。著者退艦後の昭和17年10月に行われたサボ島沖海戦では、「青葉」は艦橋に直撃弾を浴び、本書に登場する謹厳な司令官・五藤存知少将や、温厚な副長・中村謙治中佐をはじめとした多くの将兵が戦死している。その後も「青葉」は、撃沈寸前の大被害を何度も蒙り、最後は呉軍港に大破着底して終戦を迎えたのだった。

 ところで著者は、「青葉」乗艦当時に見聞した小戦闘に関する大本営発表を、以下のように批評している。

「私は一読失望を感じた。それは大本営の発表が、私共の知っているあの日の戦況報告に較べて甚だ内輪に報道されてあったからだ。あのときわが航空部隊は、もっと大きな戦果を挙げた筈である。これでは死闘した勇士たちにどうも気の毒だ。つまりこの大本営発表は(非常に点がからい)という印象を受け取った。
 (中略)だが、一歩退って考えると、わが大本営の発表は常に斯くの如く辛い採点をして、正確を期していることがよく分かった。あの輝かしい大本営発表の大戦果も、内輪に見積もった発表だとすると、実際の戦果は更に一段も二段も輝かしい成果を収めていることとなる。私たちは、本当はもっとその大戦果にびっくりしていいのだという結論が生まれる。世界中に、一体どこの国がこのような謙譲な軍事発表をやっているだろうか。これは只一つ日本海軍だけだ」

 このときから3か月後に発生したミッドウェー海戦では、大本営は、日本海軍の空母の損失を1隻と発表した。今日の眼で見れば、著者の純粋さが少々気の毒に映る。

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2014年05月01日

【本】堀栄三「大本営参謀の情報戦記」

「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」 堀栄三/文春文庫/1996年

 太平洋戦争中、米軍の来攻時期などを的確に予測した元大本営参謀が、情報(いわゆる「インテリジェンス」)の専門家としての自らの活動を振り返るとともに、国家が情報を軽視することの危険性について強く警鐘を鳴らした一書。

 日本陸軍で情報参謀として手腕を発揮し、戦後は初代駐西ドイツ大使館防衛駐在官などを務めた、堀栄三氏の回顧録である。堀参謀に関して最も有名なのは、昭和19年11月上旬に、米軍のルソン島上陸時期・場所・兵力を、「昭和20年1月上旬末(8〜9日)、リンガエン湾に上陸、兵力は当初5〜6師団、爾後さらに3〜4師団」と、極めて正確に予測したことであろう。そのほか、台湾沖航空戦の誇大戦果を見抜いていたことや、昭和20年秋から21年春にかけての日本本土への米軍の上陸予定地点・時期・兵力を的確に判断していたことなど、堀氏の活躍ぶりは、ほとんど神懸りと言ってよいレベルのものであった。

 元々、堀氏は情報の専門家として教育を受けたわけではなく、大本営第2部(情報部)の第16課(ドイツ課)、第5課(ソ連課)、第6課(米英課)などをたらい回しされたり、前線を視察したりする中で、様々なタイプの上司から、情報収集のあり方や分析の方法などを自主的に学んでいった人物だった。その手法は、例えば「各種の徴候を丹念に積み上げ、さらに公開文書の翻訳、放送の傍受、暗号の解読、相手国周辺の駐在武官の報告などを組織的、体系的に分析検討して、砂礫のような情報の中から一粒のダイヤを見つけるに似た克明細心な取り組み方をする」方法や、ある情報を「一本の線で一方的に見ないで、他の何かの情報と関連があるかどうかを見つけようとする。従って二線、三線の交叉点を求めようと」するやり方などであり、こうした技法は、現代の我々が仕事をする際などにも、十分に参考となるものである。

 また、堀氏が受けた助言の中には、「情報は結局相手が何を考えているかを探る仕事だ。だが、そう簡単にお前たちの前に心の中を見せてはくれない。しかし心は見せないが、仕草は見せる。その仕草にも本物と偽物とがある。それらを十分に集めたり、点検したりして、これが相手の意中だと判断を下す。(中略)いろいろ各場面で現われる仕草を集めて、それを通して判断する以外にはないようだな」(堀丈夫中将・堀氏の養父)、「枝葉末節にとらわれないで、本質を見ることだ。文字や形の奥の方には本当の哲理のようなものがある、表層の文字や形を覚えないで、その奥にある深層の本質を見ることだ。世の中には似たようなものがあるが、みんなどこかが違うのだ。形だけを見ていると、これがみんな同じに見えてしまう。それだけ覚えていたら大丈夫、ものを考える力ができる」(土肥原賢二大将)といった抽象的なものもあり、これらは大つかみなアドバイスである分、よりいっそう、「噛めば噛むほど味の出る奥深いものがあって、堀には一生忘れられない言葉」となるものであった。

 堀氏が情報参謀として飛躍的な成長を遂げたのは、もともと彼にその素質があり、周囲の人材を触媒として、その才能が自発的・偶然的に開花したということなのだろう。しかし、彼のような情報の俊英が出現しないままずるずると戦況が悪化し、昭和18年も終わり頃になってようやく、大本営で米軍戦法の研究や情報分析が本格化したという現実は、まさに恥ずべき失態というほかない。エリート中のエリートの軍人たちを集めていたはずの大本営において、華々しい作戦指導ばかりに熱中し、その判断根拠となるはずの地道な情報収集・分析を疎かにしていた事実は、十分に教訓とされなければならないことではないかと思う。

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2014年02月16日

【本】山本七平「洪思翊中将の処刑」

「洪思翊中将の処刑 上・下」 山本七平/ちくま文庫/2006年
(初版は、1986年に文藝春秋から刊行)

 卓越した能力と高潔な人格によって昇進を重ねた朝鮮出身の軍人・洪思翊中将が、太平洋戦争後、BC級戦犯として処刑されるに至った経緯を追った本。

 「人間とはその人生において、しばしば、本人が全く予期しない役割を演じさせられるものであろう」(本書より)。王族の例を除き、朝鮮人として唯一将官の地位まで上り詰めた洪思翊中将は、戦争末期にたまたま比島俘虜収容所長の地位にあったために、フィリピンにおける連合軍捕虜虐待の責任を一身に負わされて刑死した。植民地出身者として困難な軍人生活を送ってきた洪中将は、戦後は郷里で数学教師を務めながら平穏に暮らすことを望んでいたというが、彼を待ち受けていたのは、その温和な性格には似合わない過酷な運命であった。

 当然のことながら、洪中将が連合軍捕虜を虐待するよう指示した事実などは全くなかった。しかし洪中将は、戦犯裁判における検察側の的外れな責任追及に対して、一切の弁明を行わなかったという。それは中将の廉直な性格によるものでもあったろうが、同時に、無理やり理屈をでっち上げてでも誰かに「落とし前」をつけさせようとする戦犯裁判の、その虚構性に対する拒絶と諦めの意思表示ではなかったか。彼の辞世の和歌2首(「くよくよと思つてみても愚痴となり 敗戦罪とあきらむがよし」「昔より冤死せしものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ」)は、そうした彼の心情を端的に示したものであろう。

 弁護側の懸命の法廷闘争にもかかわらず、洪中将は1946年4月に絞首刑判決を受け、早くもその年の9月には刑の執行を受けることになる。フィリピンで日本人戦犯処刑の現場に立ち会い続けた片山牧師は、処刑直前に取り乱す戦犯が少なからずいたことに触れた上で、洪中将の最期について次のように書き残している。

「もちろん、立派な態度の人もいた。なかでも抜群だったのは、韓国出身の洪思翊中将である。このときは私一人で、中将のために「聖書」を朗読した。洪中将は寸毫の乱れも見せなかったばかりか、あべこべに、
『片山君、何も心配するな。私は悪いことはしなかった。死んだら真直ぐ神様のところへ行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな』
と、逆に私を励まされた。時間がきてMPが近づくと、中将は落ち着いて立ち上り、
『片山君、君は若いのだから、身体を大事にしなさいよ。そして元気で郷里に帰りなさい』
と、別離の言葉を送られた」

 これだけ落ち着いて自らの死を、それも他者の責任を負わされての死を迎えることができる人物が、果たしてどれだけ存在するだろうか。その淡々とした最期の様子からは、ただ中将の清涼な人柄が偲ばれるばかりである。

posted by A at 20:03| 本(戦記) | 更新情報をチェックする