2019年05月26日

【本】児島襄「マニラ海軍陸戦隊」

「マニラ海軍陸戦隊」 児島襄/新潮社/1969年

 昭和20年のマニラの戦いの模様を、生還将兵の証言を元に描いた戦記。

 寄せ集めの陸海軍部隊が凄惨な市街戦を戦った、マニラの戦いの実像を追った作品である。生還将兵を取材した著者によれば、マニラで米軍を迎え撃った将兵は、元々はマニラで激しい戦闘を行うことは想定していなかったようである。陸軍野口支隊の藤井中尉(臨時歩兵第2大隊第5中隊長、生還)は、戦いが始まる前のマニラの雰囲気を以下のように証言している。

「まさかマニラでひどい戦争になるとは予想していませんでしたね。せいぜい適当に戦ってひきあげるのだ、という話でしたし、だいいち、華僑は逃げ支度をしているようだったが、フィリピン人ときたら、別にどうということもない。それに、わたしたち陸軍は、みんな、現地召集でしょ。フィリピン人の知り合いも多いし、つきあいもつづいている。いってみれば、マニラで短期入営したような気持ちでしたよ」

 ところが、米軍がマニラに来攻すると、各部隊は市街地で本格的に敵を迎え撃つことになり、戦いの様相は酸鼻を極めたものとなった。マニラ戦がこうした悲惨な展開を辿った原因としては、海軍指揮官の岩淵三次少将が戦闘途上の2月11日にマニラ死守命令を出したため、各部隊が脱出の機会を失ってしまったことや、現場の命令が二転三転して混乱を招いたことなど、現地司令部の指揮命令が適切さを欠いたことが挙げられるだろう。一定数の将兵は、戦いの前半期にマニラからの転進に成功しており、撤退時期を誤らなければ、日本軍将兵やマニラ市民の損害はもっと少なくて済んだのではないかと思われる。

 ただ、現地司令部の判断に責められる部分があったにせよ、それと同時に、彼らが多種多様な上級司令部の判断に振り回された事実も合わせて考慮すべきであろう。陸海軍とも、マニラ放棄論・死守論をそれぞれ唱える関係司令部が存在したり、戦闘開始後も、撤退命令(例:2/15、振武集団長・横山陸軍中将)が出されたり、敢闘死守の激励電(例:2/16、連合艦隊司令長官及び大本営海軍部)が出されたりと、上層部の意思がまるで統一されていないことが本書から見て取れる。陸海軍の連携の欠如、あるいは屋上屋を重ねたような複雑な指揮命令系統は、各地の戦場で日本軍の戦力発揮の阻害要因となったが、マニラ市街戦は、そうした不効率・不適切さを最も凝縮した形で示した、悲劇の戦場だったと言えるだろう。

 このような錯誤がもたらした必然の結果として、本書の後半では、壊滅していくマニラ防衛部隊の最後の模様が詳しく描かれている。生き残った将兵が財務省、農商務省、議事堂の3ビルの廃墟に追い詰められ、戦車と砲に包囲されて絶望感を深めていく中で、海軍岩淵少将は2月26日未明に農商務省ビルで自決。一方、財務省ビルに陣取った陸軍野口支隊本部では、25日夕刻に最後の幹部会議が開かれていた。その模様を以下に引用する。

「『これは、みんなの意見もぜひ聞きたいと思ってな』
 野口大佐は、一同の緊張をときほぐすように、ゆっくりと微笑をうかべながら、
『戦況は、みんなも承知のとおりだ。だいぶ、詰ってきたと思う。あとは、ひとつ、最後の花を咲かすことになるが、さて、どんな花の咲かせかたをするか、それを相談しようと思うてなア』
 さりげない、むしろ、気楽なくらいの話しぶりだが、一同には大佐の意向はよくわかった。
 敵を待って差し違えるか、斬込みにでるか――いずれにしても死は免れないが、死の型は選べる、というのである。二つに一つ、選択は容易なはずだし、その点については、各将校とも何度か考えたことがあるが、さあ、と促されてみると、すぐに答えはでない。
『どうだ、兵の意見も聞いてみては……』と、野内少佐(注:臨時歩兵第2大隊長)の言葉をしおに、一同はいったん部屋を出た。和田中尉(注:同大隊副官)も廊下をへだてた斜め横の部屋に入り、集まる第二大隊本部員に意見を求めた。一人が即座に返事をした。
『副官どの。わしらもそれを考えとったんですが、ここで腹切って死ぬのも忠義かもわからんが、ともかく出て行って、一人でも敵を倒すほうが、もっと忠義にならんかと思います。同じ死ぬなら、そうしたい思うとります』
 どや、みんな、と呼びかける声に、居合わせた兵たちは、いっせいに賛成を応えた。和田中尉が野口大佐の部屋に戻ると、やがて次々に現われた将校たちも、一致して部下の斬込み志望を報告した。
『よし、決めよう。午前一時出撃』」

 こうして、26日未明に斬込みに出た野口支隊の残存将兵は、結局ルネタ公園付近で集中砲火を浴び、ちりぢりに倒れて死んだ。その中で、和田中尉が負傷しつつも奇跡的に振武集団の陣地に辿り着き、野口支隊の最後の模様を伝えることとなった。軍上層部の意思決定の混乱のあおりを受けながらも、ただ実直に戦って死んだ将兵たちがいたことは、記録に留められるべきであろう。

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2019年03月31日

【本】鈴木伸元「反骨の知将 帝国陸軍少将・小沼治夫」

「反骨の知将 帝国陸軍少将・小沼治夫」 鈴木伸元/平凡社新書/2015年

 日本陸軍で戦史研究に長く従事し、太平洋戦争開戦後はガダルカナル戦やルソン戦で作戦指導を行った軍人、小沼治夫の生涯を追った本。

 参謀本部戦史課員、同戦略戦術課員、第2軍作戦参謀、陸大教官(兼ノモンハン事件研究委員会メンバー)、参謀本部戦史課長、第17軍作戦参謀、陸大教官、第14方面軍参謀副長、第12方面軍参謀副長などを務め、戦史畑や作戦系統の職務に携わり続けた軍人、小沼治夫を取り上げた一書である。理系的な素養を備えた小沼が、戦史研究を進める中で、陸軍の日露戦争観が精神主義に偏重していること、ノモンハン事件ではソ連の物質主義に圧倒されたこと、近代戦への備えが喫緊の課題であることなどを、データを駆使しつつ理性的に主張していく様子が、本書には詳しく描かれている。こうした小沼の仕事ぶりからは、精神力を重視する陸軍の空気に流されない合理性や、自らの職務に対する責任感の強さがうかがわれるが、組織の常識に真っ向から挑戦する彼の研究成果は批判にさらされ、上司からも不興を買う結果となった。

 そして、太平洋戦争が始まり、近代戦に関する小沼の危惧が的中してくると、皮肉にもようやく彼の見識が注目され、最重要方面の作戦担当参謀に抜擢されることになる。しかし彼の登用は、もはや遅きに失した感が否めないものだった。装備の劣弱と補給の欠乏に苦しんだガダルカナル戦やルソン戦で、精神力に頼った作戦指導を行わざるを得なくなった小沼の姿は、一種の悲劇と言うほかない。戦争が劣勢に傾いてくると、ガダルカナルで戦った小沼や、彼の上司を務めた宮崎周一、沖縄作戦を立案した八原博通のような戦史畑の軍人が表舞台に出てくるようになるが、彼らの合理性がもっと早い時期に活かされていれば、戦いの趨勢もまた違ったものになったのかもしれない。

 なお、本書には事実関係の誤記が散見されるほか、ルソン戦での小沼の仕事ぶりに関する記述が十分でない。昭和20年春頃の小沼は、ルソン島バレテ峠・サラクサク峠の防衛線を支えるために、退却してくる雑多な部隊を片っ端から歩兵大隊に再編成し、その臨編大隊の数が26個にも達したという極めて困難な仕事に従事しており(牧野弘道「戦跡を歩く」)、彼がこの難しい職務にどう取り組んだのか、是非とも掘り下げてほしかったところではある。
 その一方で、本書に取り上げられた小沼のエピソードの中には、興味を惹かれるものも少なからずあった。第14方面軍がルソン島の山岳地帯に追い込まれつつあった昭和20年6月に、彼がどうやってルソン島から東京へ転勤できたのか、以前から疑問に思っていたのだが、本書によれば、壊れた機体から組み立てた航空機で夜間にエチアゲを出発し、台湾、上海、米子で給油して宇都宮に至り、宇都宮から陸路で東京へ帰還したのだという。その他にも、小沼の家庭環境に関する逸話などが多く紹介されており、戦史には現れない彼の人となりをうかがい知ることができた。

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2019年03月10日

【本】白水清治「激戦ニューギニア」

「激戦ニューギニア」 白水清治/光人社NF文庫/2018年
(初版は、2010年に元就出版社から刊行)

 昭和18年5月に東部ニューギニアに上陸し、フィンシュハーフェンの戦い、セピック転進、アイタペの戦いなどを後方支援しつつ終戦まで生き延びた、第20師団歩兵第78連隊の主計曹長の戦記。

 陸士出身将校の指揮の拙劣さや臆病さ、軍律違反が不問に付される不公平さなどを厳しく糾弾した、かなり異色の戦記である。幹候・下士官出身の大隊長や中隊長が勇戦敢闘した一方で、陸士出身将校はおよそ役に立たなかったという感情的な批判に終始しており、一般的にはその統率・人格を高く評価されている第18軍司令官・安達二十三中将についても、相当強い調子で非難を行っている。
 しかし、著者によるこれらの人物評価や状況描写は、必ずしも正確でない部分が見られるように思われる。その例として、以下の3点を挙げる。

1 歓喜嶺の戦いについて
 昭和19年1月頃に、第20師団・第51師団のガリ転進を援護する目的で行われた歓喜嶺の戦いで、歩兵第78連隊第6中隊(長:片山真一中尉、陸士出身)は豪軍をよく防ぎ、残兵20名程度を残して壊滅している。
 この戦いにおける片山中隊長の様子について、著者は以下のように記している。

「片山中尉は、一体どこで何をし、どんな戦死をしたのか一切が不明である。屯営時代は肩を怒らせ、辺りを睥睨し、威勢天を突き、兵を塵芥のように接したあの勢いは、弾丸の下で萎え、縮んでしまったのか…?」

 同じく歓喜嶺で戦った大畠正彦大尉(野砲兵第26連隊第3中隊長)が著した「ニューギニア砲兵隊戦記」(光人社NF文庫)によれば、この片山中尉の最期の模様は、第一線の様子を把握するため壕を出て高地に登ろうとしたところを敵に狙い撃ちされ、山の急斜面を真っ逆さまに転落したと記録されている。歓喜嶺の前線にいなかった著者が、こうした状況を把握していなかったことはやむを得ないにしても、実情を詳しく知らないにもかかわらず、まるで片山中尉が臆病風に吹かれたかのような書き方をすることは、戦死した片山中尉にとっても極めて不公平ではないかと思われる。

 また、この歓喜嶺の戦いでは、守備隊長の香川昭二少佐(歩兵第78連隊第2大隊長、少候出身)はマラリアで病臥して役目を果たせず更迭されているが、にもかかわらず著者は香川少佐を高く評価している。また、上述の大畠大尉(陸士52期)率いる野砲兵第26連隊第3中隊は、山砲わずか2門で豪軍の野砲1個連隊(27門)と渡り合い、見事な戦功を立てているが、著者はこのことに全く言及していない。これらも、公正を欠いた記述と言うべきであろう。

2 サテルベルク高地攻防戦について
 昭和18年10月頃、フィンシュハーフェン近郊のサテルベルク高地をめぐる攻防戦について、直接戦闘に参加していない著者は、関係者の手記などを引用しつつ、かなり独自の解釈を加えてこの戦いの様子を書き下している。その中でも、歩兵第79連隊第2大隊長の竹鼻嘉則少佐や、竹鼻少佐戦死後に大隊の指揮を執った福家隆中尉(いずれも陸士出身)が、攻撃命令に従わず前進を遅滞させたとして、「不可解で怯懦」「蛸壺に潜むこと五日間。『武学十年、我れ土遁の術を極めたり』」などと、かなり品のない表現で批判している。

 しかし、福家中尉(のち少佐。戦後、戦誌刊行会代表として各種戦記を精力的に刊行)が著した「痛恨の東部ニューギニア戦」には、実際に戦場でどのように苦労して密林内を転進し、どのように接敵・交戦し、どのように周囲の将兵が戦死・負傷したかが詳細に描かれている。その内容は具体的で真に迫ったものであり、福家中尉が故意に交戦を厭ったとは考えがたい。
 また、10月20日から24日にかけての戦闘で福家中隊が蛸壺に立てこもったことを、著者は「土遁の術」と揶揄しているが、福家手記を見る限り、敵の猛烈な銃火の前に釘付けにされたのが実情であろう。蛸壺から出た者が一斉射撃を食らい、負傷者続出している様子を見ても、著者が要求するような「他大隊との連携攻撃」が容易に行えるような状況ではなかったように思われる。この戦闘に関しては、後方にいた著者による憶測を交えた記述よりも、第一線で砲火にさらされていた福家中尉の記録の方を信用すべきではないかと考えられる。

3 アイタペの戦いについて
 昭和19年6月、第18軍司令官・安達二十三中将がアイタペ攻撃を発起したことについて、著者は、

「安達中将は大命に抗し、兵を勝手に動員(私兵化)し、自己の時局観に酔い、兵を死地に投ずることなどまったく意に介せず、攻撃命令を発した。
 この瞬間、天皇→大本営→南方軍総司令部→第十八軍に連なる統帥系統の命令を、自ら断ち切り、自己の価値観・時局観により、恣意的に戦闘開始命令を発したのである。したがって、それ以後の安達二十三は、日本の陸軍中将に非ず、ただの軍閥『安達軍』の首領となったのである」

と、激越な調子で非難している。

 アイタペ戦の意義・必要性については、確かに批判的な見解が少なくない。また、フィンシュハーフェンの戦い、ガリ転進、セピック転進を生き延びてきた第20師団の精鋭将兵が、アイタペ戦で一気にすり潰されていく様子は、本書を読んでいても極めて悲惨としか言いようがない。
 ただ、著者は、大陸命第1030号(昭和19年6月17日)の「…第十八軍その他の諸部隊をして同方面の要域に於て持久を策し以て全般の作戦遂行を容易ならしむべし」の一文を引用し、

「大命(天皇の命令)は『持久を策し』であって、自由裁量を安達中将に与えられたものではない。隷下部隊を私兵化した安達中将以下各幕僚こそ『まさに軍法会議もの』である」

として、安達中将を「『大命違反』の大反逆罪」と批判するが、この大陸命に関する大本営の真意は、

「結局、第十八軍のアイタペ攻撃に関しては、その実行を中央から命令し、あるいは逆に中止を命令するような指導を行わず、ただ第十八軍司令官が自由に状況を判断し、その所信に従って善処し得るように、包括的な任務を与えることとした」(戦史叢書「南太平洋陸軍作戦<5> アイタペ・プリアカ・ラバウル」p97)

というものであり、著者の主張は曲解と言わざるを得ない。
 また、第18軍の軍需品が残存するのは8〜9月末頃までと予想される状況下で、敵をニューギニアに拘束し、戦局全般に寄与することが作戦の大きな目的であったこと、また作戦発起までに安達中将が深刻に苦悩したことなどは、上掲の戦史叢書のほか各種の戦記にも記されている。このような事実関係を考慮すれば、「兵を勝手に動員(私兵化)し、自己の時局観に酔い、兵を死地に投ずることなどまったく意に介せず…」という著者の安達中将評は、さすがに目に余るものと言うべきであろう。

 以上の1〜3を踏まえれば、本書は、「陸士出身将校は無能・臆病、それ以外の将校は優秀」という著者の個人的な思い込みに記述内容を合わせようとするあまり、事実関係の描写が正確性・公平性を欠いているとの批判は免れないのではないかと思われる。
 ただ、合わせて留意すべきは、著者にこうした強烈な情念を植え付けた、ニューギニア戦線の異常な過酷さであろう。人間の極限とも言うべき状況の中で、下士官兵が陸士出身将校から理不尽な目に遭わされた事例は、実際に相当数あったものと思われる(複数の戦記を見る限りでは、例えば第20師団の各連隊長はかなり評判が悪い印象を受ける)。戦後65年を経て、著者がこのような本を書くに至ったこと自体が、著者が送られた戦場が極めて不条理な世界であったことを端的に示す証左であろう。

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2018年11月25日

【本】大畠正彦「ニューギニア砲兵隊戦記 東部ニューギニア歓喜嶺の死闘」

「ニューギニア砲兵隊戦記 東部ニューギニア歓喜嶺の死闘」 大畠正彦/光人社NF文庫/2015年
(初版は、2010年に光人社から刊行)

 東部ニューギニア戦線の歓喜嶺の戦いで、砲兵1個中隊を率い、オーストラリア軍の前進を3か月半にわたって阻止し続けた砲兵大尉による戦記。

 昭和18年10月から19年1月にかけて、太平洋戦争の東部ニューギニア戦線で、「歓喜嶺の戦い」という戦闘が行われた。当時のニューギニア戦線では、サラワケット山系を越えて悲惨な撤退を行ってきた日本陸軍の第51師団、フィンシュハーフェンの戦いで甚大な被害を受けた第20師団が、フォン半島のキアリという地点に集結を進めているところだった(地図としては、こちらこちら参照)。ところが、キアリ西方のグンビ岬に米軍が上陸したため、両師団は西への退路を断たれ、敵の包囲下に取り残される形となってしまう。このため両師団は、米軍を避ける形でフィニステル山系を横断し、後方基地のマダンへ転進することとなった。

 この当時、これら両師団の横腹を突く形で、南方から豪軍第7師団が進出してきていた。こうした豪軍の動きに対して、第20師団歩兵団長の中井増太郎少将は、1個大隊半の兵力をかき集め、歓喜嶺という地点で豪軍を拒止させた。この歓喜嶺守備隊は、複雑な地形を利用しつつ善戦敢闘し、わずか約1,000名の兵力で、3か月半にわたり豪軍1個師団を食い止め続ける。その結果、第20師団、第51師団の残存部隊は、合計約13,000名の兵力を約7,500名まで減らしながらも、地形峻険なフィニステル山系を突破し、マダンへの撤退を成し遂げたのだった。

 本書は、砲兵1個中隊(といっても、山砲わずか2門)を率いて、この歓喜嶺の戦いに参加し、豪軍の野砲1個連隊(27門。野砲なので、山砲より射程が長い)と互角に渡り合った、砲兵中隊長による戦記である。本書の特徴は、著者による個々の判断やその背景事情が、極めて細密に記録されていることだろう。著者が、ニューギニア上陸前に部隊に基礎訓練を徹底し、それが後に戦場で活きたこと、瘴癘の地ニューギニアの地勢や風土を事前に調べ上げ、装備の耐久性まで予測していたこと、中隊の住環境や衛生状態に細かい配慮を行っていたこと、部下の能力を詳細かつ冷静に把握していたこと、食糧・弾薬を適切に集積しながら作戦を進めたこと、そして何より、敵情や味方の状況を逐次把握しつつ、極めて的確に戦闘指揮を行った様子などが、本書には詳細に書き留められている。著者が、非常に優秀な現場指揮官であったことをうかがわせる内容であり、こういった戦記物をよく読まれる方におかれては、一読の価値がある本だろう。
 
 なお、本書の巻末には、葛原和三・一等陸佐(陸上自衛隊幹部学校戦史教官)による解説が付されている。それによれば、平成15年当時、海外の戦史会議での発表内容に悩んでいた葛原氏は、先輩からの紹介で初めて大畠氏と出会う。そして、大畠氏が執筆した綿密な手記や資料を読み、感じるものがあった葛原氏は、大畠氏への取材を踏まえて、歓喜嶺の戦闘に関する研究成果をまとめ、諸外国の戦史研究者約400名に対して発表する。その発表内容は海外研究者からも高い評価を受け、そのことも一つのきっかけとなって、後に大畠氏の手記の刊行に至っている。大畠氏の逝去間際に、葛原氏という研究者との出会いがあり、その結果、大畠氏の体験が後世に伝えられることになったことには、何か不思議な縁が働いているように思われた。

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2018年08月11日

【本】河田槌太郎「イラワジ河河畔会戦」

「イラワジ河河畔会戦」 河田槌太郎著、河原六蔵・大塚雅彦編/朝文社/1995年

 インパール作戦の抗命撤退で知られる佐藤幸徳中将の後任として、第31師団(烈兵団)の師団長を務めた、河田槌太郎中将の手記。

 太平洋戦争のインパール作戦では、3人の師団長(柳田元三、山内正文、佐藤幸徳)が解任され、その後任として、田中信男、柴田夘一、河田槌太郎の3将官が任命された。このうち第15師団長の柴田中将は、師団長としての資質に疑問符が付くような言動が散見され、昭和20年2月に更迭、予備役編入となっている。また、第33師団長の田中中将(着任当時は少将)は、その部隊指揮を高く評価する意見のほか、BC級裁判の責任を部下に押し付けようとした証言なども見られ、なかなか一面的な評価が難しい部分がある。

 こうした両師団長と比べると、第31師団長となった河田中将は、当時の部下・関係者からの評判は、それほど悪くなかったように思われる。例えば、型破りな万年上等兵だった高崎伝氏が著した戦記「最悪の戦場に奇蹟はなかった」には、戦後の捕虜収容所での出来事として、以下のようなエピソードが紹介されている。

「…翌日、広場に全員集合がかかった。『烈』師団長河田槌太郎中将が現れて、百二十四連隊の演芸部の石垣兵長(注:石井漠の門下の踊り手。捕虜を慰労するための演芸部に所属し、声望を集めていたが、マラリアで病没)の死をつたえ、河田中将の号令で、石垣兵長の英霊に一分間の黙とうをささげた。そして、河田中将は、一声張りあげて、

『わしは職業軍人で、男が女の踊りなぞするのは、あまり好きじゃなかったが、タトンいらい石垣君の踊りを見て、そのすばらしさに感激していたやさきに、こんなことになって、石垣君、ならびにご家族に申しわけないことをした。責任は、演芸をやらせたわしにある。わしが石垣君を殺したのだ……石垣君、すまんことをした。どうか、この河田をゆるしてくれ……』

と河田閣下は、目にいっぱい涙を流して語った。これには、満場の兵隊たちの方がおどろいた。インパール撤退時に、抗命事件の佐藤幸徳中将(注:兵隊の人気が高かった)と交替した河田中将だ。名前からして、カワッタ野郎がきたと、兵隊たちはかげ口をたたいていたが、今日のことで兵隊たちは、河田中将を見なおした感があった」

 また、インパール作戦末期の惨状のさなかに烈兵団に着任した河田中将が、

「地下足袋を踏みしめ、六尺の棍棒をふりあげ、将校、兵の区別なく大音声で叱咤して激励した。その様子は狂人とも思えるほどだったが、河田中将の一念で将兵の一部は立ちあがり、追尾する英軍にピンポンサカンで応戦し、敗軍の渡河を助けることができた」

との秘話(児島襄「太平洋戦争」)や、昭和20年6月当時、ビルマ方面軍総崩れの中で、方面軍参謀が申し出た困難な作戦を厭わず引き受けたこと(後勝「ビルマ戦記」)、復員の際に、中将を慕う部下たちが「送別歌」を作って送ったこと(本書)、旧制高校の配属将校だった頃に、学生たちがよく家に遊びに来ていたこと(同)など、中将の人柄を偲ばせる余話は少なくない。総じて見れば、「部下を大事にする、血の通った将官」という人物像が浮かび上がってくるように思われる(ただし、麾下の参謀との確執を窺わせる逸話などもないわけではない)。

 そして本書は、昭和39年に没した河田中将の遺稿を預かっていた編者の河原氏(東京帝大2年時に学徒出陣、第31師団司令部で勤務。終戦時中尉)が、この原稿を後世に残したいと考えていた中将の意を汲み、平成7年に刊行したものである。内容は、戦記というよりも、極めて事務的な作戦報告書とでも言うべきものであり、残念ながら未完で終わっている本でもある。史料的な価値はともかく、読んで面白い書物では決してない。

 ただ、そうした地味な本が、没後30年以上を経て出版されていること自体が、中将が部下から敬仰される人物であったことを、端的に示す事実と言えるだろう。戦後、河田元中将は、静岡から仕入れたお茶をリュックに背負い、行商をして生計を立てたとのことだが、こうした飾らない生き方も、復員後に瀬戸物屋を営んだ同じビルマ戦線の名将、宮崎繁三郎あたりと一脈通じるものがある。宮崎中将は、インパール戦線からの撤退時に、傷病者を一名も取り残さないよう厳命したことで知られているが、その宮崎とほぼ入れ違いで烈兵団に着任した河田中将も、その後の退却戦の中で同様の命令を下し、戦傷者・戦病者の収容に努めたとのことである。

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