2018年11月25日

【本】大畠正彦「ニューギニア砲兵隊戦記 東部ニューギニア歓喜嶺の死闘」

「ニューギニア砲兵隊戦記 東部ニューギニア歓喜嶺の死闘」 大畠正彦/光人社NF文庫/2015年
(初版は、2010年に光人社から刊行)

 東部ニューギニア戦線の歓喜嶺の戦いで、砲兵1個中隊を率い、オーストラリア軍の前進を3か月半にわたって阻止し続けた砲兵大尉による戦記。

 昭和18年10月から19年1月にかけて、太平洋戦争の東部ニューギニア戦線で、「歓喜嶺の戦い」という戦闘が行われた。当時のニューギニア戦線では、サラワケット山系を越えて悲惨な撤退を行ってきた日本陸軍の第51師団、フィンシュハーフェンの戦いで甚大な被害を受けた第20師団が、フォン半島のキアリという地点に集結を進めているところだった(地図としては、こちらこちら参照)。ところが、キアリ西方のグンビ岬に米軍が上陸したため、両師団は西への退路を断たれ、敵の包囲下に取り残される形となってしまう。このため両師団は、米軍を避ける形でフィニステル山系を横断し、後方基地のマダンへ転進することとなった。

 この当時、これら両師団の横腹を突く形で、南方から豪軍第7師団が進出してきていた。こうした豪軍の動きに対して、第20師団歩兵団長の中井増太郎少将は、1個大隊半の兵力をかき集め、歓喜嶺という地点で豪軍を拒止させた。この歓喜嶺守備隊は、複雑な地形を利用しつつ善戦敢闘し、わずか約1,000名の兵力で、3か月半にわたり豪軍1個師団を食い止め続ける。その結果、第20師団、第51師団の残存部隊は、合計約13,000名の兵力を約7,500名まで減らしながらも、地形峻険なフィニステル山系を突破し、マダンへの撤退を成し遂げたのだった。

 本書は、砲兵1個中隊(といっても、山砲わずか2門)を率いて、この歓喜嶺の戦いに参加し、豪軍の野砲1個連隊(27門。野砲なので、山砲より射程が長い)と互角に渡り合った、砲兵中隊長による戦記である。本書の特徴は、著者による個々の判断やその背景事情が、極めて細密に記録されていることだろう。著者が、ニューギニア上陸前に部隊に基礎訓練を徹底し、それが後に戦場で活きたこと、瘴癘の地ニューギニアの地勢や風土を事前に調べ上げ、装備の耐久性まで予測していたこと、中隊の住環境や衛生状態に細かい配慮を行っていたこと、部下の能力を詳細かつ冷静に把握していたこと、食糧・弾薬を適切に集積しながら作戦を進めたこと、そして何より、敵情や味方の状況を逐次把握しつつ、極めて的確に戦闘指揮を行った様子などが、本書には詳細に書き留められている。著者が、非常に優秀な現場指揮官であったことをうかがわせる内容であり、こういった戦記物をよく読まれる方におかれては、一読の価値がある本だろう。
 
 なお、本書の巻末には、葛原和三・一等陸佐(陸上自衛隊幹部学校戦史教官)による解説が付されている。それによれば、平成15年当時、海外の戦史会議での発表内容に悩んでいた葛原氏は、先輩からの紹介で初めて大畠氏と出会う。そして、大畠氏が執筆した綿密な手記や資料を読み、感じるものがあった葛原氏は、大畠氏への取材を踏まえて、歓喜嶺の戦闘に関する研究成果をまとめ、諸外国の戦史研究者約400名に対して発表する。その発表内容は海外研究者からも高い評価を受け、そのことも一つのきっかけとなって、後に大畠氏の手記の刊行に至っている。大畠氏の逝去間際に、葛原氏という研究者との出会いがあり、その結果、大畠氏の体験が後世に伝えられることになったことには、何か不思議な縁が働いているように思われた。

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2018年08月11日

【本】河田槌太郎「イラワジ河河畔会戦」

「イラワジ河河畔会戦」 河田槌太郎著、河原六蔵・大塚雅彦編/朝文社/1995年

 インパール作戦の抗命撤退で知られる佐藤幸徳中将の後任として、第31師団(烈兵団)の師団長を務めた、河田槌太郎中将の手記。

 太平洋戦争のインパール作戦では、3人の師団長(柳田元三、山内正文、佐藤幸徳)が解任され、その後任として、田中信男、柴田夘一、河田槌太郎の3将官が任命された。このうち第15師団長の柴田中将は、師団長としての資質に疑問符が付くような言動が散見され、昭和20年2月に更迭、予備役編入となっている。また、第33師団長の田中中将(着任当時は少将)は、その部隊指揮を高く評価する意見のほか、BC級裁判の責任を部下に押し付けようとした証言なども見られ、なかなか一面的な評価が難しい部分がある。

 こうした両師団長と比べると、第31師団長となった河田中将は、当時の部下・関係者からの評判は、それほど悪くなかったように思われる。例えば、型破りな万年上等兵だった高崎伝氏が著した戦記「最悪の戦場に奇蹟はなかった」には、戦後の捕虜収容所での出来事として、以下のようなエピソードが紹介されている。

「…翌日、広場に全員集合がかかった。『烈』師団長河田槌太郎中将が現れて、百二十四連隊の演芸部の石垣兵長(注:石井漠の門下の踊り手。捕虜を慰労するための演芸部に所属し、声望を集めていたが、マラリアで病没)の死をつたえ、河田中将の号令で、石垣兵長の英霊に一分間の黙とうをささげた。そして、河田中将は、一声張りあげて、

『わしは職業軍人で、男が女の踊りなぞするのは、あまり好きじゃなかったが、タトンいらい石垣君の踊りを見て、そのすばらしさに感激していたやさきに、こんなことになって、石垣君、ならびにご家族に申しわけないことをした。責任は、演芸をやらせたわしにある。わしが石垣君を殺したのだ……石垣君、すまんことをした。どうか、この河田をゆるしてくれ……』

と河田閣下は、目にいっぱい涙を流して語った。これには、満場の兵隊たちの方がおどろいた。インパール撤退時に、抗命事件の佐藤幸徳中将(注:兵隊の人気が高かった)と交替した河田中将だ。名前からして、カワッタ野郎がきたと、兵隊たちはかげ口をたたいていたが、今日のことで兵隊たちは、河田中将を見なおした感があった」

 また、インパール作戦末期の惨状のさなかに烈兵団に着任した河田中将が、

「地下足袋を踏みしめ、六尺の棍棒をふりあげ、将校、兵の区別なく大音声で叱咤して激励した。その様子は狂人とも思えるほどだったが、河田中将の一念で将兵の一部は立ちあがり、追尾する英軍にピンポンサカンで応戦し、敗軍の渡河を助けることができた」

との秘話(児島襄「太平洋戦争」)や、昭和20年6月当時、ビルマ方面軍総崩れの中で、方面軍参謀が申し出た困難な作戦を厭わず引き受けたこと(後勝「ビルマ戦記」)、復員の際に、中将を慕う部下たちが「送別歌」を作って送ったこと(本書)、旧制高校の配属将校だった頃に、学生たちがよく家に遊びに来ていたこと(同)など、中将の人柄を偲ばせる余話は少なくない。総じて見れば、「部下を大事にする、血の通った将官」という人物像が浮かび上がってくるように思われる(ただし、麾下の参謀との確執を窺わせる逸話などもないわけではない)。

 そして本書は、昭和39年に没した河田中将の遺稿を預かっていた編者の河原氏(東京帝大2年時に学徒出陣、第31師団司令部で勤務。終戦時中尉)が、この原稿を後世に残したいと考えていた中将の意を汲み、平成7年に刊行したものである。内容は、戦記というよりも、極めて事務的な作戦報告書とでも言うべきものであり、残念ながら未完で終わっている本でもある。史料的な価値はともかく、読んで面白い書物では決してない。

 ただ、そうした地味な本が、没後30年以上を経て出版されていること自体が、中将が部下から敬仰される人物であったことを、端的に示す事実と言えるだろう。戦後、河田元中将は、静岡から仕入れたお茶をリュックに背負い、行商をして生計を立てたとのことだが、こうした飾らない生き方も、復員後に瀬戸物屋を営んだ同じビルマ戦線の名将、宮崎繁三郎あたりと一脈通じるものがある。宮崎中将は、インパール戦線からの撤退時に、傷病者を一名も取り残さないよう厳命したことで知られているが、その宮崎とほぼ入れ違いで烈兵団に着任した河田中将も、その後の退却戦の中で同様の命令を下し、戦傷者・戦病者の収容に努めたとのことである。

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2018年04月15日

【本】神子清「われレイテに死せず」

「われレイテに死せず 上・下」 神子清/ハヤカワ文庫NF/1988年
(初版は、1965年に出版協同社から刊行)

 レイテ島の戦いに参加した陸軍の下士官が、独断で島を脱出し、奇跡的に生還するまでを描いたノンフィクション。

 将兵の生還率が極端に低いレイテ戦を生き残った、一下士官の壮絶な生存記録である。満州で厳しい訓練を積み、無敵関東軍の自負を持ってレイテ島にやってきた著者は、第1師団の尖兵としてリモン峠の戦いに参加。不意の遭遇戦を生き残り、優勢な米軍に圧迫される中でも勇敢に戦い続けるが、激しい物量攻撃の中で、多くの戦友たちを次々に失っていく。そして、尊敬する中隊長・八尋中尉も戦死するに至り、中隊長が最後に発した転進命令に従って、辛うじて前線を脱出する。

 その後、著者は負傷兵たちとともに南下し、日本軍の後方基地・オルモックを目指すが、途中で高千穂空挺隊の兵士たちに出会う。「空の神兵」とうたわれ、戦局を挽回するためにレイテに降下したはずの精鋭部隊が、ただの無謀な斬り込み作戦に使われていく様子を見て、著者は以下のような感慨を抱く。

「落下傘兵たちに会ってから、私の心裡にある変化が起こった。期待が大きかっただけに失望も大きかったのだ。私は、空挺部隊の降下によって大きな積極的作戦の展開を期待したのだが、それが斬込作戦にすぎないと知ったとき、まったく失望した。いや、大きな憤りさえ感じた。こんな作戦指導の下に死ねるものか、と考えるようになった。
 私は、あの若い伍長と話していたとき、きのう父母の国を発ってきたばかりのこの若い生命が、きょうは春の淡雪のように消えるのかと思うと、いても立ってもいられないような痛ましい気持になった。こんな感情は、私にとって初めての経験だった。それは、あの落下傘兵たちが、まだ少年の域を出ていない年ごろだったこともあったのだろうが、それよりも何よりも、人間の生命を、柴の束を囲炉裏に投げこむように、無造作に、しかも無意味に、燃やしてしまう作戦当局の不条理きわまるやりかたに対してがまんがならなくなったのだ。
 それまでの私は、死ぬことを何とも思っていなかった。いのちが惜しいなどと思ったことはただの一度もなかった。むしろ死ぬことを望んでいた。それは、自分のいのちを捧げることによって祖国日本が救われるのだと信じていたからだ。あの少年兵たちも、おそらくは、祖国を救うために自分は死ぬのだという凝縮された使命感に燃え立っていたのだろう。
 ところが、あの空挺部隊の使い方を見て、私のこの信念は、音をたてて崩れた。人間が人間に死ねと命じ得るのは、それによって祖国を救うという至高にして尊厳な使命があるからである。それなのに、救い得ないとはっきりわかっているのに、なおかつ死ねと命じている。そんな権利がどんな人間にあるというのだろうか。この疑惑が、やがて私に、はっきりとした決意を抱かせるにいたったのである。
『誰が何と言おうと、死んでやるもんか』と。」

 そして著者は、偶然行き会った仲間たちとともに、敵の哨戒網をかいくぐりながら、レイテ島の西海岸に脱出。現地住民の小舟を奪取し、セブ島北部のメデリン島を経て、ネグロス島に上陸する。レイテでの激闘、そしてネグロスでの地獄のような生存闘争の記録を読むと、著者が生き残ったのは、その戦技と判断力に加えて、幾重もの奇跡が偶然に積み重なった結果としか思えない。本書は、一人の将兵の類い稀な冒険譚として、大変興味深い物語であるとともに、勇敢で忠誠心にあふれた古参下士官が、どのような心境の変化を経て戦場離脱者となるに至ったかを克明に描いた、極めて優れたノンフィクションでもある。ハヤカワ文庫では既に絶版になっているようだが、このまま埋もれさせるには非常に惜しい一書である。


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2018年01月13日

【本】阿利莫二「ルソン戦―死の谷」

「ルソン戦―死の谷」 阿利莫二/岩波新書/1987年

 太平洋戦争中、学徒出陣でルソン島に出征した著者が、自らの従軍体験を著した戦記。

 ルソン島の戦いに投入された学徒出陣者の数は、判明しているだけで約1,015名。このうち、日本に生還できたのは約90名だった。本書は、その数少ない生還者の一人である著者が、凄惨なルソン戦の実態を、自らの体験に基づいて書き綴った記録である。本の雰囲気としては、尾川正二「『死の島』ニューギニア」(光人社NF文庫ほか)と、どことなく似ているように思えた。

 著者ら前橋陸軍予備士官学校第11期の学徒兵約600名は、まだ修学中だった昭和19年9月、戦況の悪化を受けて、急きょ南方戦線に派遣されることになった。そして、バシー海峡を越えて無事ルソン島に上陸できた約400名は、第14方面軍の教育隊で現地教育を受け、昭和20年1月に見習士官に任官。著者は第19師団(虎兵団)への配属を命じられ、任地に向けて出発する。

 しかし、ルソン島各地で戦線が崩壊する中で、山中を辿る移動は困難を極め、その過程で著者は、傷病兵や在留邦人たちの無惨な死の数々を目の当たりにする。そして、著者自身も飢えとマラリアで幽鬼のようにやせ衰え、さらには米軍機の銃撃を受けて負傷する。傷を負い、意識を失った後の著者の様子を、以下に引用する。

「・・・どのくらい時間が経ったかわからない。夢うつつの世界で誰かが呼んでいる。答えようとしても声が出ない。誰かが見下ろしている。戦場では、その時の自分の力ではどうにもならない運の良し悪しがある。ルソンの戦場から還った者で、何度かこの運に恵まれずしてその生を得た者はあるまい。(中略)
 道はすさまじかった。道路際には車輌の残骸、待避壕には白骨、そこかしこに屍が横たわる。その道をかなりの人が、異様な姿で三々五々右から左に動いている。普通の部隊ではない。顔全体を血で黒く乾いた布きれで巻きつけている者。仲間に肩を貸している者も、足をひきずり、杖をついている。今にも前にのめるように身をかがめて足を運ぶ者。肩から吊った片腕には先がない。明らかに傷病患者である。人の流れは長く、あとからあとからばらばらに続いているようだった。霧のような雨がシトシト降り続く。そのあと、どういうところをどう行ったのか、自分で歩いたのか、誰かの肩を借りたのかも覚えがない。
 野宿が始まる。崖が道際からすこしひっこんで、山間のような平らな空き地である。傷病者がごろごろいた。これが野戦病院だったとするならば、およそ病院の名に値しない傷病者のたまり場でしかない。死ぬ者が後を絶たない。時たま「バーン」という手榴弾の炸裂音がこだました。自決だろう」

 こうした苦境を辛うじて生き延び、その後の深刻な飢餓と続発する重病をも切り抜け、とうとう生還を果たした著者は、とにかく運に恵まれていたとしか言いようがない。このような過酷な戦争体験を振り返って、著者は以下のように述べている。

「今ここで、米軍の非人道的行為をあげたてて、日本軍の犯した残虐行為やあの戦争を正当化するつもりはない。むしろ米軍については、あとでふれるように、身を以て体験した、その人道的行為を知ってもらわねばなるまい。他方、日本軍にもそれなりの戦場美談がある。ここで強調したいのは、戦争そのものが、大なり小なり非人間性、残虐性をどこかで求めるということである。戦場における狂気の沙汰からは、程度の差はあれ、いかなる軍隊も逃れられない。戦争を語るとき、誰が残虐だったかも重要なことだが、戦争そのものが残虐を生みだすということの方が、もっと大切だ。戦場のヒューマニズムが輝きを放つのも、戦場が異常であるが故に稀少な正常さが光をもつからだ。戦場美談の陰には常に戦争の悪がある」

 生きて還った著者は、戦後は学者の道を歩み、1988年から95年まで法政大学総長を務めている。著者とともに出征し、戦没した学徒兵たちも、このような悲運に遭わなければ、国や社会のために有為な人材となったことと思う。


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2017年11月25日

【本】田中俊男「陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦」

「陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦 台湾高砂義勇兵との戦勝録」 田中俊男/戦誌刊行会/1996年

 陸軍中野学校卒業後、東部ニューギニア戦線に派遣され、遊撃戦(いわゆるゲリラ戦)を展開した元陸軍曹長の戦記。

 著者は、昭和16年4月に現役兵として第18師団に入隊し、その後、連隊長の推薦と厳しい選抜試験を経て、17年4月に陸軍中野学校に入校(下士官候補者を対象とした、第四期戊種学生)。そして18年4月に中野学校を卒業し、同年7月にニューギニア・ウエワクに上陸、そのまま終戦まで東部ニューギニアで戦い続けた人物である。本書には、著者ら中野学校出身の将校・下士官たちが、身体能力に優れた台湾出身の高砂義勇兵を指揮して、縦横無尽に遊撃戦を繰り広げた模様が詳しく描かれている。

 例えば、東部ニューギニアの第18軍がウエワクなどの主要基地を失い、全海岸線を放棄して内陸に追い込まれていた昭和20年5月、著者らの挺身攻撃隊は、ウエワク西方のダグア飛行場への潜入攻撃を成功させている。すなわち、選抜された下士官と高砂義勇兵が、敵性化した原住民を警戒しつつ、慎重に攻撃潜入路を選定し、敵の警備状況を偵察・把握。そして深夜に飛行場に潜入し、敵の戦闘機全機と給油所・発電所を爆砕したうえ、全員が生還している。こうした鮮やかな戦果は、破局に近づいていたこの時期のニューギニア戦線では特筆すべきものであろう。

 その他にも著者らは、敵軍の背後に潜入しての偵察や陣地爆破、敵からの兵器・弾薬・食糧の奪取、原住民への宣撫工作など、見事な戦功を立て続けている。壮絶な飢餓と病魔に苦しめられ、文字通り地獄の惨状を呈したニューギニア関連の戦記は、読んでいて非常に悲惨な印象を受けるものが多いが、その中で本書は、旺盛な敢闘精神を最後まで失わない精鋭部隊の様子を描いた、かなり異色の戦記である。著者らの活躍も、結局戦勢を挽回するものではなかったが、こういった部隊が存在したことは、あらゆる辛酸をなめ尽くした当時の第18軍にとって、一つの光明ではなかったかと思う。


(補記)
 昔、初めて本書を読んだときには気付かなかったが、この本にも、ニューギニア戦線でほぼ全滅した「サンドイッチ部隊」に関する記述があった。以下に引用する。

「我々第十八軍の将兵はアイタペ・ホルランジャまで到達すれば新手の部隊と交替して帰国し、休養が取れそうだと真しやかな流言飛語が流れ、皆何よりも楽しみに飢餓と苦難にも耐えてきたのであった。が、この敵のアイタペ・ホルランジャ同時上陸は総てを絶望に陥れた。当時ウエワク周辺に所在の陸軍航空部隊・海軍部隊・その他後方要員数千名(五千とも一万とも言われる)は、その大部分が陸路ホルランジャへ向け数個梯団となって出発していた。当時アイタペには第二十師団各部隊への補充部隊数百名が師団のアイタペ到着を待って待機しているに過ぎなかった。補充要員を引率していた安部龍三大尉はこれ等を指揮し、懸命に抵抗し奮戦したが、所詮手に負える敵では無かった。
 安部大尉は兵力を統合して敵の包囲網からの脱出には成功したものの、約半数はホルランジャに向けて西走し、自ら掌握した半数だけがマルジップに後退して、歩七八の第三大隊小池捜索隊に収容され、爾後、所属部隊の到着を待って合流した。
 因みに、ホルランジャへ向け転進した数千名の消息の大半は現在に至るもなお不明のままである。この中には中野学校出身者も数名含まれていたとかで、戦後ルバング島の小野田少尉の救出もあって、中野校友会として救出資金をカンパ、日本政府を通じ豪軍に依頼して捜索したが、何の手がかりもなく現在に至っている。何故何千何百の将兵が何の痕跡も残さずに消えて、一体何処へ行ったのか不思議という他はない。
(註)食料もない儘、人跡未踏の緑の魔境をさまよいながら次々に倒れて行ったものとしか思われず悲痛の極みである。」


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