2016年08月27日

【本】衣笠周司「戦時下の記者たち −セレベス新聞を読む−」

「戦時下の記者たち −セレベス新聞を読む−」 衣笠周司/向陽書房/1997年

 昭和17年から20年にかけて、日本軍政下のセレベス島(現・スラウェシ島)で発行された、「セレベス新聞」の製作経緯を追ったノンフィクション。

 太平洋戦争が始まり、日本軍が南方地域を占領すると、軍は占領地で新聞の発行を志向するようになった。現地日本人の戦意高揚と土着住民への宣伝工作のために、新聞が有効なツールだと考えたのである。そして陸海軍は、それぞれの担当軍政地域での新聞刊行業務を、有力新聞社に委託することとした。その結果、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、同盟通信ほかの各社が、各地に記者や編集機材を送り込み、現地での新聞発行を担うことになった。ちなみに、陸軍が新聞発行を委嘱した地域はジャワ(朝日)、フィリピン(毎日)、ビルマ(読売)、マレー・シンガポール・スマトラ・北ボルネオ(同盟ほか)。海軍は、南ボルネオ(朝日)、セレベス(毎日)、セラム(読売)であった。

 このうち、海軍の委託によりセレベス島で発行された「セレベス新聞」は、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)から派遣された日本人記者や業務・工務関係社員、のべ100人以上によって製作された。「セレベス新聞」の本社は南セレベスのマカッサルに置かれたが、北セレベスのメナドにも支社が設けられ、「セレベス新聞・メナド版」を発行していた。また、現地住民や華僑のスタッフも使って、現地語の新聞「プワルタ・セレベス」も刊行していたのだという。発行部数としては、「セレベス新聞」は、最盛期にはマカッサルだけで8,000部。「プワルタ・セレベス」は、マカッサルで3万部、メナドでも28,000部に及んでいる。

 昭和17年12月8日に創刊号が刊行された「セレベス新聞」は、わずか2ページの構成ながら、日刊(毎週月曜休刊)で発行され、価格は1部7銭(のち8銭)。一面には、東京本社から電話で送稿された、国内の新聞と同じ記事(大本営発表の戦況報道など)が主に掲載されており、二面には記者が現地で取材した記事も多く載せられた。終戦後の20年9月頃まで発行が続けられ、最終号は800号を越していたとも言われている。終戦とともに、現地に残されていた新聞が焼却されたため、戦中に内地に回送された分を除き、少なくない紙面は現存していないとのことである。

 本書は、この「セレベス新聞」の発行に携わった毎日新聞記者たちの回想を踏まえつつ、新聞の編集作業の実態や、戦時のセレベス島の様子などを描いた著作である。比較的平和なセレベス島で、記者たちが住民の文化を取材して記事にする様子や、戦後の捕虜収容所や日本への復員船の中でさえガリ版刷りの新聞を発行し続けたことなど、当時の新聞関係者の活動状況がありのままに描かれていて興味深い。あまり広く知られた本ではないけれど、南方軍政地域でのメディア関係者の姿を分かりやすく伝えた、好著と言ってよいのではないかと思う。


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2015年12月27日

【本】奥村明「セレベス戦記」

「セレベス戦記」 奥村明/図書出版社/1974年

 太平洋戦争当時、セレベス島(現・スラウェシ島)の守備についていた陸軍少尉の従軍記録。

 元々西部ニューギニアの海上機動第2旅団に配属される予定だったが、戦況悪化のため赴任できず、蘭印のセレベス島守備隊に回されて終戦を迎えた著者による戦記である。セレベス島には終戦まで連合軍の上陸はなく、著者も敵兵と戦闘を交える機会はなかった。ただ、戦況の変化に伴う守備位置の変更のため、著者はセレベス島の北から南まで移動させられ、実に3,000km以上の距離を歩かされることになった。そうした苦難の行軍の中で、著者が自分の小隊から死者を出さなかったのは、彼自身の臨機応変な部隊指揮が当を得たためでもあるのだろう。

 著者が命の危険にさらされたのは、むしろ戦争終了後のことかもしれない。「死の草原」と呼ばれた灼熱のマリンプン草原を横断し、ようやく辿り着いたマリンプン俘虜収容所では、同じ日本人の食糧管理隊や炊事班のピンハネのせいで将兵には十分な食事が行き渡らず、栄養失調による死者・病人が続出した。さらに、捕虜の監視に当たったアンボン兵(セラム諸島・アンボン島出身の黒人兵)の、敵意に満ちた虐待にも苦しめられた。とあるアンボン兵が日本人を激しく恨むに至った経緯を、著者は以下のように記している。

「「軍曹にとっては、日本軍は恨み骨髄に徹しているんだ」と、原大尉は私をなだめて、つぎのように軍曹の来歴を語った。
 アンボン軍曹は、かつてオランダ軍の俘虜として、日本へ送還され、三年半服役したのち、セレベス収容所へもどった組である。日本内地での軍曹は、日本鋼管川崎工場、新潟鉄工所などの軍需工場で、強制労働をさせられた。囚人として鞭打たれ、徹夜作業を強制されながら、小芋二個しか与えられなかった。直立不動の姿勢でビンタを食い、「目ん玉をキョロキョロ動かすな」とどなられ、たたきのめされた。あまりの辛さに、かれは何度自殺を考えたか知れなかった。日本語の「目ん玉……」云々は胸にやきついて離れなかった。同僚のアンボン下士官十名のうち、三名が死亡した。
「終戦で解放された軍曹は、日本軍に復讐せずにはいられないのだ。怨念の悪魔と化している。ま、因果はめぐるだね」」

 太平洋戦争後、東南アジア諸国が独立を果たすことができたのは、確かに日本軍の進攻が一つの契機になったのだろう。ただ、さまざまな戦記を読んでいると、捕虜や現地住民を残酷に取り扱った日本軍民の姿が、どうしても少なからず目に付く。そのような、ある種の勘違いをした人々の醜悪な振る舞いが、著者のような、虐待とは無縁な人物に跳ね返ってくる有様は、戦争の不条理さの一端を示すものであろう。


(補記)セレベス島守備隊について
 連合軍の攻勢正面となり、決戦地域になると考えられていた濠北地域には、昭和18年頃以降、次々と陸軍兵力が投入された。主なものとしては、西部ニューギニアのサルミ・ビアクで死闘を繰り広げた第36師団をはじめ、ソロンの第35師団・海上機動第2旅団、ハルマヘラ島の第32師団、スンバワ島の第46師団などがある。その中で、濠北作戦を統括する第2方面軍の司令部が置かれたセレベス島は、「昭和19年8月の時点では、(中略)北東部に二万、南部に一万余の兵力をもって防備していた。海軍は南北にそれぞれ約五千の兵力を配備しているだけで、陸軍が主力になっていた」(奥村書)という守備態勢であった。

 ただ、セレベス島の旅団単位以上の陸上部隊としては、昭和19年6月に新編された独立混成第57旅団(長:遠藤新一少将)があるのみであった。この旅団も、歩兵4個大隊がマニラからセレベスへ輸送される途中で海没、2個大隊が同じく輸送途上で船舶が故障してホロ島に漂着した上、10月にボルネオ島東岸のタラカンへ転用。さらに、海没の欠を補うため1個大隊が追派されたものの、途中セブ島に滞在していたときに米軍がレイテ島に上陸し、急きょレイテ島の戦いに投入された(いわゆる天兵大隊)。結局同旅団は、収容できた海没将兵やその他の人員からなる歩兵4個大隊を基幹として編成されたのだという(戦史叢書「捷号陸軍作戦1 レイテ決戦」による)。

 このため、セレベスに約4万の兵力があったと言っても、その過半は後方部隊や、臨時編成の歩兵部隊、航空軍の残置部隊などだったのではないかと思われる。上級司令部が置かれていた割には、守備兵力は雑多な混成部隊であり、戦力としては手薄だったのではないか。ただ、連合軍が上陸したモロタイミンダナオボルネオのいずれからも後方にあったセレベスは、結果的に敵の来攻を受けることのないまま、終戦を迎えることができた。

(後日追記)
 この戦記の末尾に、独立混成第57旅団の簡単な行動経過が記載されていたので、合わせて紹介しておく。
 また、「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」に収録された「西部ニューギニアの全般作戦」という手記(著者は了戒次男・元第2軍高級参謀)に、昭和20年7月にセレベス島シンカンで撮影された第2軍首脳部の写真が掲載されており、ここに「特設旅団長・山本大佐」という人物が写っている。現地駐在部隊を基に、特設旅団が編成されていたのだろうか。


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2015年03月08日

【本】高木俊朗「憤死 −インパールW−」

「憤死 −インパールW−」 高木俊朗/文春文庫/1988年
(単行本は、1969年に文藝春秋から刊行)

 インパール作戦に参加した3個師団の一つ、第15師団(祭兵団)の戦いを、主に師団参謀長・岡田菊三郎少将の視点から描いた作品。

 元々充実した戦力を持ちながら、砲兵連隊、工兵連隊、輜重兵連隊などを転用され、わずか歩兵5個大隊(しかも、各大隊とも定数を大幅に割り込む兵数)でインパール作戦を戦わなければならなかった、祭兵団の過酷な戦闘経過を追った一書である。岡田少将の証言を基に、第15軍だけでなく、山内正文師団長の作戦指導や人材運用もしばしば批判的に描いている点が特徴的である。ただ、軍上層部の無謀な作戦が山内中将の命を削り、ついには「憤死」を招いた事実を踏まえれば、あまり山内中将を責める気にはなれない部分もある。

 インパール作戦に参加した他兵団と同様、祭兵団も、第15軍の無茶苦茶な命令に苦しめられた。軍の指導が支離滅裂なものとなった原因の一つとしては、軍司令部が、前線の実態をおよそ正確に把握していなかったことが挙げられる。長くなるが、作戦当時の軍司令部の様子について、本書から以下のとおり引用する。


「第十五軍司令部がメイミョーにいることは、第一線部隊に非難され、悪評になっていた。牟田口軍司令官は連日、第一線の師団に電報で叱咤激励し、また、実情を無視した、不可能な要求をした。このため、第一線部隊に“軍は何をいうか。戦線から四百キロ以上離れたメイミョーにいては、実情はわからない”という不満をもたせた。その不満は次第に高まって、感情の対立にまで発展した。
 インパールの戦況が悪化すると、さすがに第十五軍もメイミョーにいられなくなった。インパール占領を公約した四月二十九日の天長節(天皇誕生日)は目前に迫ってきた。第十五軍はチンドウィン河を越えて、インダンジーに出ることになった。牟田口軍司令官、久野村参謀長などの首脳部が、メイミョーを出発したのは四月二十日であった。これは弓師団の作戦発起以来、四十四日目であった。
 この四十四日の間、第一線では惨戦惨敗がくり返されたが、メイミョーでは戦場とかけ離れた日課がつづいた。第十五軍司令部の勤務は、夕方五時の定時に終った。そのあと、幹部将校は酒と女の遊びにふけった。その、同じ時刻に、第一線では夜襲死闘をつづけていた。
 牟田口軍司令官は豪壮な洋館を官邸にしていた。その庭に小道があり、衛兵が二十四時間、立哨していた。その小道をくだると、晴明荘という料亭に通じていた。牟田口軍司令官は夜ごと、ゆかたを着て晴明荘にかよった。酒と女に対する欲望に飽きることのない人であった。
 晴明荘について、報道班員としてきていた、朝日新聞社の成田利一記者は、次のように書いた。

≪メイミョーというところは、マンダレーを小田原にたとえると、ちょうど箱根の強羅か仙石原あたりに相当する。蚊も蠅も少ない清潔な町で、英国人の高官や富商の別荘が緑濃い森の中に点々と散在し、幅広い自動車道路が森の中を縦横に走っている。市場や印度人、中国人の商店街も物静かだ。
 こんな住みよい土地に、軍司令官はじめ全幕僚達は、広々した別荘を一軒ずつ私邸として構え、副官や当番兵にかしずかれて貴族のような生活を続けていた。
 西洋館のガッチリした建物に入ると、大工出の兵隊達が腕をふるって、内部はすっかり日本座敷に造作変えされ、床が上げられ、床の間や違い棚、丸窓まであるといった数寄屋造りである。司令部から我家に帰り、長靴を脱いで、座布団にドッカと大あぐらをかけば、まずまず天下泰平の図だ。当番の汲んで出す茶を飲み、一風呂浴びると夜は宴会、高級車で料亭へ横づけだ。ここの料亭も御多分にもれず大阪付近の遊郭からはるばるやって来た慰安婦たちの一行である。
 牟田口軍司令官から晴明荘という名前を頂戴して、大きな別荘をもらい、そこをたくさんの小座敷に作り上げて、将校専門に酒色のサービスをしたのである。
 兵隊さんはもちろんオフリミット、高級車の運転台で、お座敷の放歌高吟を遠くに聞きながら主人のお帰りを待つだけである。酔った将校たちはよく「上野駅から九段まで……」の歌を三味線に合わせてうたっていた。
 情報の藤原岩市参謀などはこの歌が十八番で、手ぬぐいを姉さんかぶりにして、哀れな軍国の老婆の振りつけよろしく、なかなか見事に踊った。
 内地では婦人たちがモンペに火たたき装束で女らしい生活をかなぐり捨てている時に、メイミョーの晴明荘ではパーマの女たちが美しく化粧し、絹物の派手な着物に白たび姿で「おひとつどうぞ」と酌に出て来る。板前の腕は大したこともないが、盛りつけの器類は皆内地から運んだ立派な皿小鉢だ。弾丸を運ぶべき船で、自動車で、よくもこんな皿小鉢をここまで運んだものだとびっくりする。こうした環境の中で第十五軍の首脳者たちは大作戦の構想を練っていた。(後略)≫」


 これに対して、インパール戦線崩壊後、ジャングルの中で豪雨に晒され、飢餓と病に苦しみながら退却をつづけた、第一線部隊の様子を以下に引用する。第二野戦病院、高橋新吾少佐の手記。

「七月二十六日。きょうも朝から救出に出かけた。前日収容できず、粥だけ与え、明日収容にくるからといいおいた患者たちのなかには、粥を半分食べたまま息絶えている者もいた。あるいはまた、泥んこ道に車輪をめりこませたトラックの姿を認めて、近よって見れば、その中には屍体が折り重なって横たわり、車から下りて水を飲もうとしたのか、車の傍の水溜りに顔をつっこんだまま死んでいる兵隊もいた。これらの腐敗しかけた屍体が雨に濡れて、あたりに異様な臭いを漂よわせていた。この痛ましい姿もさる事ながら、もっと痛々しい光景を私は見た。本部から二キロほど離れた密林の中に二十数名の兵隊達が円陣をつくって死んでいた光景である。その中には最近手榴弾で自爆したと思われる生々しい屍体がいくつもあって、首、手、足が散乱していた。円陣のなかほどに三十センチぐらいの高さの切株があって、一人の兵隊が腰かけている。彼はロダンの考える男に似た格好を取り、じっと動かない。私はこの兵に近づき、収容に来た旨を告げ、周囲の屍体について尋ねた。この骸骨のように痩せ衰えた兵隊がかすれた声で答えたことを総合すると、みんな同じ中隊の兵で、九州出身(烈兵団)の者だが、二十日余りここにいる。病気と空腹で歩こうにも歩けなかったのだ。日がたつにつれて一人死に二人死に、きのうまでで五名に減った。けさ五名の中の四名が自爆したので、自分独りになってしまったと云うことである。

「お前だけがどうして自爆を思い止まったのか」
「班長殿が自分を下士官に推薦してくれましたので、下士官になるまで死んではならないと思って頑張っていました」
「そうか、そうか、よく頑張って生きていてくれたな。もう心配するな。わしたちが助けてやるぞ。今、粥を持って来るからそれまで待っておれよ」

 吾々の班は一人当たり八個の飯盒に粥を一ぱい入れて持ってまわったのであるが、途中途中の患者に分配してきて、全部が空になっていた。私が急いで本部に引帰して粥を持ってもどってきた時、それは僅か一時間余り経過したに過ぎなかったのに、その最後の兵隊も息絶えていた。鬼哭啾々とは正にこの全滅した九州男子にむかって捧げる言葉であろう」


 さまざまな高級軍人たちの経歴を見ていると、下級将校や下士官の子息、あるいは農家や商人の次男坊、三男坊以下の者たちが結構多い。たとえ貧しい出自の者であっても、努力次第で軍人として大いに出世できる、そうした軍組織の階層流動性は高く評価すべき点だろうと思う。ただ、刻苦勉励して佐官、将官に昇進したはずの者たちが、第一線の苦労も顧みず享楽に耽る有様には、一体どういうことなのかという思いを禁じ得ない。扱い慣れない権力を手にして、なお自制することの困難さを示す一例と言うべきだろうか。


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2015年02月15日

【本】高木俊朗「全滅 −インパールV−」

「全滅 −インパールV−」 高木俊朗/文春文庫/1987年
(単行本は、1968年に文藝春秋から刊行)

 インパール作戦後期に前線に投入され、軍上層部や参謀の体面維持のために無謀な攻撃を強いられた部隊の、苦闘と壊滅の模様を描いた作品。高木俊朗のインパール四部作の第三作。

 既にインパール作戦の失敗も明白になりつつあった、昭和19年5月。第33師団(弓兵団)が担当していたニンソウコン(ニントウコン)方面の戦線を強化するため、戦車第14連隊(長:井瀬清助大佐)、歩兵第67連隊第1大隊(長:瀬古三郎大尉)、歩兵第154連隊第2大隊(長:岩崎勝治大尉)などの部隊が相次いで増援された。戦車連隊長の井瀬(いのせ)大佐がこれらの部隊の指揮を執ったため、この混成部隊は「井瀬支隊」と総称された。

 ところが、膠着した戦線の打開を焦っていた弓兵団参謀は、逐次前線に到着してくる井瀬支隊の各部隊を、敵情を視察する暇すら与えないまま、無理やり敵陣地に突っ込ませ続けた。その結果、昼夜兼行でようやくニンソウコンに辿り着いた将兵たちは、少人数のまとまらない部隊のまま無茶な突撃に駆り立てられ、圧倒的に強大な英印軍の前で、次々に死傷者の山を築いていくのだった。

 こうした参謀の無謀な攻撃命令の真意を、戦車連隊本部付の中村達夫大尉は、以下のように推測している。

「『師団はずるいと思います。井瀬支隊が一マイルでも二マイルでもインパールに近づけば、師団がそれだけ前進したことにして、十五軍に報告したいのです。だから、せっかくポッサンバン(注:ニンソウコンの北の集落)まで行ったのを撤収するのはおしいという腹なんです』
 中村大尉は師団の堀場参謀の支離滅裂な要求を、そのように読みとった。
『連隊長殿、この南道上には、師団の直属の部隊は一兵もおらんのですよ。井瀬支隊といえば、ていさいはよいが、配属部隊の寄せ集めです。師団の直属部隊は全部山岳地帯にあがっています。こんな泥沼みたいなところに、戦車をだしても、どうにもならないことは、堀場参謀は知っていますよ。戦車出身の参謀ですから。戦車はインパール突入の時以外は、もう、役に立ちません。それでも戦車をだしておけば、泥にうまって動けなくなっても、師団としては「戦車連隊は本道上をインパールに向い突進中なり」と、軍に報告ができます。結局、配属部隊を犠牲にして、功名手柄だけは自分のものにするやり方です』」

 度重なる強引な攻撃で死傷者続出した井瀬支隊は、結局、7月中旬までニンソウコンの死守を命じられ、弓兵団撤退の捨て石にされて、ほとんど全滅状態に追い込まれた。著者の作品としては、昭和24年に刊行され、インパール作戦の悲惨さを世に知らしめた「インパール」や、第31師団(烈兵団)の佐藤師団長の抗命撤退を取り上げた「抗命 −インパールU−」が有名だが、インパール戦線で最後まで戦った井瀬支隊の、惨憺たる戦闘経過と最期を緻密に描いた本書も、強い印象を残す一作である。


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2014年12月23日

【本】岩川隆「人間の旗 甦った血と涙の連隊旗」

「人間の旗 甦った血と涙の連隊旗」 岩川隆/光文社文庫/1985年
(初版は、1983年にカッパ・ノベルスから刊行)

 太平洋戦争時にレイテ島、セブ島で戦った歩兵第57連隊の将兵が、終戦直後に連隊旗をひそかに細断して日本へ持ち帰り、戦後三十余年を経て旗を復元するまでの経緯を描いたノンフィクション。

 日本陸軍の精鋭師団として名高い第1師団(玉兵団)は、昭和19年、1万3千名の兵力でフィリピン・レイテ島に上陸した。そして、機械化された強大な米軍を相手に、実に50数日にわたりリモン峠の激戦を繰り広げたが、遂に矢尽き刀折れてセブ島へ撤退。戦後日本へ生還することができた師団将兵は、わずか500名に満たなかったという。

 この第1師団は、歩兵第1連隊(東京)、第49連隊(甲府)、第57連隊(佐倉)の歩兵3個連隊ほかの部隊から構成されていたが、各歩兵連隊にはそれぞれ、天皇の分身とされる軍旗(連隊旗)が与えられていた。敗戦後、各地の陸軍部隊は、連合軍に投降する前に軍旗を焼却処分したが、伝統ある軍旗の奉焼を潔しとしなかった第1師団では、3本の連隊旗(長年の歳月を経て、旗の生地の部分は失われ、房の部分だけになっていた)を細かく裁断し、連隊本部の将校・下士官などに託して、ひそかに日本へ持ち帰らせたのだった。

 そして一部の将兵は、連隊旗の切れ端を無事に故国へ持ち帰ることができた。これらの細片を、第1連隊は自衛隊練馬駐屯地に展示し、第49連隊は山梨の護国神社に奉納したが、千葉県全域を補充担任地とし、郷土部隊の気風が強い第57連隊では、旗を復元すべしとの声が湧き起こった。本書は、旗の復元運動に携わった元将兵たちの、戦中・戦後の足跡を丁寧に追い掛けたノンフィクションである。

 本書の中では、連隊旗の復元にかける戦友会の情熱や、採算度外視で旗の修復に挑む職人たちの奮闘が鮮やかに描き出されていて、読む者の心を打つ。と同時に、あの戦争への嫌悪から、旗の復元に強く反対する元将校の意見にも目配りがされている。どの人物も一様に平和を希求しながらも、それぞれの戦争体験や人生観の違いから、旗をめぐる姿勢や旧軍への評価に乖離が生じていく様子には、いろいろと考えさせられるものがあった。

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