2018年01月13日

【本】阿利莫二「ルソン戦―死の谷」

「ルソン戦―死の谷」 阿利莫二/岩波新書/1987年

 太平洋戦争中、学徒出陣でルソン島に出征した著者が、自らの従軍体験を著した戦記。

 ルソン島の戦いに投入された学徒出陣者の数は、判明しているだけで約1,015名。このうち、日本に生還できたのは約90名だった。本書は、その数少ない生還者の一人である著者が、凄惨なルソン戦の実態を、自らの体験に基づいて書き綴った記録である。本の雰囲気としては、尾川正二「「死の島」ニューギニア」と、どことなく似ているように思えた。

 著者ら前橋陸軍予備士官学校第11期の学徒兵約600名は、まだ修学中だった昭和19年9月、戦況の悪化を受けて、急きょ南方戦線に派遣されることになった。そして、バシー海峡を越えて無事ルソン島に上陸できた約400名は、第14方面軍の教育隊で現地教育を受け、昭和20年1月に見習士官に任官。著者は第19師団(虎兵団)への配属を命じられ、任地に向けて出発する。

 しかし、ルソン島各地で戦線が崩壊する中で、山中を辿る移動は困難を極め、その過程で著者は、傷病兵や在留邦人たちの無惨な死の数々を目の当たりにする。そして、著者自身も飢えとマラリアで幽鬼のようにやせ衰え、さらには米軍機の銃撃を受けて負傷する。傷を負い、意識を失った後の著者の様子を、以下に引用する。

「・・・どのくらい時間が経ったかわからない。夢うつつの世界で誰かが呼んでいる。答えようとしても声が出ない。誰かが見下ろしている。戦場では、その時の自分の力ではどうにもならない運の良し悪しがある。ルソンの戦場から還った者で、何度かこの運に恵まれずしてその生を得た者はあるまい。(中略)
 道はすさまじかった。道路際には車輌の残骸、待避壕には白骨、そこかしこに屍が横たわる。その道をかなりの人が、異様な姿で三々五々右から左に動いている。普通の部隊ではない。顔全体を血で黒く乾いた布きれで巻きつけている者。仲間に肩を貸している者も、足をひきずり、杖をついている。今にも前にのめるように身をかがめて足を運ぶ者。肩から吊った片腕には先がない。明らかに傷病患者である。人の流れは長く、あとからあとからばらばらに続いているようだった。霧のような雨がシトシト降り続く。そのあと、どういうところをどう行ったのか、自分で歩いたのか、誰かの肩を借りたのかも覚えがない。
 野宿が始まる。崖が道際からすこしひっこんで、山間のような平らな空き地である。傷病者がごろごろいた。これが野戦病院だったとするならば、およそ病院の名に値しない傷病者のたまり場でしかない。死ぬ者が後を絶たない。時たま「バーン」という手榴弾の炸裂音がこだました。自決だろう」

 こうした苦境を辛うじて生き延び、その後の深刻な飢餓と続発する重病をも切り抜け、とうとう生還を果たした著者は、とにかく運に恵まれていたとしか言いようがない。このような過酷な戦争体験を振り返って、著者は以下のように述べている。

「今ここで、米軍の非人道的行為をあげたてて、日本軍の犯した残虐行為やあの戦争を正当化するつもりはない。むしろ米軍については、あとでふれるように、身を以て体験した、その人道的行為を知ってもらわねばなるまい。他方、日本軍にもそれなりの戦場美談がある。ここで強調したいのは、戦争そのものが、大なり小なり非人間性、残虐性をどこかで求めるということである。戦場における狂気の沙汰からは、程度の差はあれ、いかなる軍隊も逃れられない。戦争を語るとき、誰が残虐だったかも重要なことだが、戦争そのものが残虐を生みだすということの方が、もっと大切だ。戦場のヒューマニズムが輝きを放つのも、戦場が異常であるが故に稀少な正常さが光をもつからだ。戦場美談の陰には常に戦争の悪がある」

 生きて還った著者は、戦後は学者の道を歩み、1988年から95年まで法政大学総長を務めている。著者とともに出征し、戦没した学徒兵たちも、このような悲運に遭わなければ、国や社会のために有為な人材となったことと思う。


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2017年11月25日

【本】田中俊男「陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦」

「陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦 台湾高砂義勇兵との戦勝録」 田中俊男/戦誌刊行会/1996年

 陸軍中野学校卒業後、東部ニューギニア戦線に派遣され、遊撃戦(いわゆるゲリラ戦)を展開した元陸軍曹長の戦記。

 著者は、昭和16年4月に現役兵として第18師団に入隊し、その後、連隊長の推薦と厳しい選抜試験を経て、17年4月に陸軍中野学校に入校(下士官候補者を対象とした、第四期戊種学生)。そして18年4月に中野学校を卒業し、同年7月にニューギニア・ウエワクに上陸、そのまま終戦まで東部ニューギニアで戦い続けた人物である。本書には、著者ら中野学校出身の将校・下士官たちが、身体能力に優れた台湾出身の高砂義勇兵を指揮して、縦横無尽に遊撃戦を繰り広げた模様が詳しく描かれている。

 例えば、東部ニューギニアの第18軍がウエワクなどの主要基地を失い、全海岸線を放棄して内陸に追い込まれていた昭和20年5月、著者らの挺身攻撃隊は、ウエワク西方のダグア飛行場への潜入攻撃を成功させている。すなわち、選抜された下士官と高砂義勇兵が、敵性化した原住民を警戒しつつ、慎重に攻撃潜入路を選定し、敵の警備状況を偵察・把握。そして深夜に飛行場に潜入し、敵の戦闘機全機と給油所・発電所を爆砕したうえ、全員が生還している。こうした鮮やかな戦果は、破局に近づいていたこの時期のニューギニア戦線では特筆すべきものであろう。

 その他にも著者らは、敵軍の背後に潜入しての偵察や陣地爆破、敵からの兵器・弾薬・食糧の奪取、原住民への宣撫工作など、見事な戦功を立て続けている。壮絶な飢餓と病魔に苦しめられ、文字通り地獄の惨状を呈したニューギニア関連の戦記は、読んでいて非常に悲惨な印象を受けるものが多いが、その中で本書は、旺盛な敢闘精神を最後まで失わない精鋭部隊の様子を描いた、かなり異色の戦記である。著者らの活躍も、結局戦勢を挽回するものではなかったが、こういった部隊が存在したことは、あらゆる辛酸をなめ尽くした当時の第18軍にとって、一つの光明ではなかったかと思う。


(補記)
 昔、初めて本書を読んだときには気付かなかったが、この本にも「サンドイッチ部隊」に関する記述があった。以下に引用する。

「我々第十八軍の将兵はアイタペ・ホルランジャまで到達すれば新手の部隊と交替して帰国し、休養が取れそうだと真しやかな流言飛語が流れ、皆何よりも楽しみに飢餓と苦難にも耐えてきたのであった。が、この敵のアイタペ・ホルランジャ同時上陸は総てを絶望に陥れた。当時ウエワク周辺に所在の陸軍航空部隊・海軍部隊・その他後方要員数千名(五千とも一万とも言われる)は、その大部分が陸路ホルランジャへ向け数個梯団となって出発していた。当時アイタペには第二十師団各部隊への補充部隊数百名が師団のアイタペ到着を待って待機しているに過ぎなかった。補充要員を引率していた安部龍三大尉はこれ等を指揮し、懸命に抵抗し奮戦したが、所詮手に負える敵では無かった。
 安部大尉は兵力を統合して敵の包囲網からの脱出には成功したものの、約半数はホルランジャに向けて西走し、自ら掌握した半数だけがマルジップに後退して、歩七八の第三大隊小池捜索隊に収容され、爾後、所属部隊の到着を待って合流した。
 因みに、ホルランジャへ向け転進した数千名の消息の大半は現在に至るもなお不明のままである。この中には中野学校出身者も数名含まれていたとかで、戦後ルバング島の小野田少尉の救出もあって、中野校友会として救出資金をカンパ、日本政府を通じ豪軍に依頼して捜索したが、何の手がかりもなく現在に至っている。何故何千何百の将兵が何の痕跡も残さずに消えて、一体何処へ行ったのか不思議という他はない。
(註)食料もない儘、人跡未踏の緑の魔境をさまよいながら次々に倒れて行ったものとしか思われず悲痛の極みである。」

 この行方不明になった転進部隊については、わずかながら生還者が存在する。詳細は、こちらの記事を参照されたい。


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2017年08月06日

【本】高崎伝「最悪の戦場に奇蹟はなかった ガダルカナル、インパール戦記」

「最悪の戦場に奇蹟はなかった ガダルカナル、インパール戦記」 高崎伝/光人社NF文庫/2007年
(初版は、1974年に光人社から刊行)

 太平洋戦争の悲惨な戦場である、ガダルカナル島の戦いとインパール作戦の両方を経験した兵士による戦記。

 著者の所属する第18師団(菊兵団)の歩兵第124連隊は、太平洋戦争開戦後、ボルネオ島、セブ島、ミンダナオ島攻略作戦に勝利し、その後ガダルカナル島の戦いに参加して壊滅。戦力再建後、新設の第31師団(烈兵団)に配属替えとなり、ビルマ戦線に投入。インパール作戦やその後の撤退戦を戦い抜き、ビルマ南部で終戦を迎えている。著者は、開戦から終戦までこの連隊に所属し、ガダルカナル戦とインパール作戦の双方を体験した人物である。

 本書は、極めて陰惨な戦場を描写した戦記であるにもかかわらず、意外に読みやすい一書である。それは著者自身の個性と、その文才による部分が大きいのではないかと思う。気性の荒い北九州の部隊で、他部隊からの食糧徴発(一言で言えば、泥棒)をいとわない「ゴロツキ連隊」である124連隊の様子と、誰に対しても遠慮なく物を言う、横紙破りの「万年上等兵」である自分自身の振る舞いを、著者はユーモアを交えた筆づかいで描いていく。こうした著者の旺盛なバイタリティや、権威に盲従しないたくましさ、危機に際して臨機応変に行動できる明敏な頭脳、そして、飢餓や病の中でも最後まで諦めない強靱な精神と身体が、生還という「奇蹟」を著者にもたらしたのではないかと思えた。

 とはいえ、著者が戦った戦場は、やはり悲惨の一語に尽きるものである。昭和19年8月頃、烈兵団の殿部隊としてインパール戦線から退却する中で、著者は以下のような光景に遭遇している。

「私たちは死体をふまぬように、よけて歩きながら、山の中腹から下を見れば、ふもとの方に大きな竹林が見え、その中にきれいな小川が見えてきたので、かっこうの休憩場所とばかり、急いで竹林に近づくと、またもや急に腐乱死臭がプーンと鼻をついてきた。竹林の中へはいってみて、また驚いた。
 ああ、なんという惨状!
 竹林のなかの川渕の砂床には、日本兵の死体が二百? あるいは三百もあろうか? すでに白骨化したもの、あるいは腐乱した死体。まだ生きている傷病兵の全身に、頭髪を白髪と見ちがえるほどウジがいっぱいにわいている者あり、またある者は、大きなウジ虫が、目といわず鼻孔、口、耳穴、傷口から、出たり入ったりしているではないか。
 川に頭を突っ込んで死んでいる兵隊は、下痢で苦しんだのか、下半身はだかで、その肛門からは、大きなウジ虫があふれ出ていた。
 ガダルカナルも悲惨だったが、それ以上に悲惨きわまりなき、地獄絵図だった」

 こうした無惨な結果をもたらしたインパール作戦を、著者は、以下のように総括している。

「愚将のもとに万骨枯れたこの大悲惨事は、世界の戦史にのこした日本陸軍の恥であろう。
 愚将牟田口将軍のもとに、万骨枯れた英霊の無念を思えば、故人となった将軍の死屍にムチ打っても、なおあまりある痛恨かぎりなき地獄の戦場であったといえる」


(補記)
 前回の記事でも少し触れたが、最近、インパール作戦の実態を意図的に無視したり、捏造したり、論点をすり替えたりして、無理やりこの作戦を肯定しようとする、異常な歪曲工作を時々見かけるようになった(例えば、このリンク先で批判されている記事)。
 このような、まともに戦記も読まずに書かれた悪質なフィクションが、近年になって表に出てくるようになったのは、そんなものを読んだら本気で激怒するであろう生還将兵の方々が、多く鬼籍に入ってしまったことが大きな要因だろうか。

 なお、ここここのサイトに、作戦参加将兵の証言が掲載されているので、合わせて紹介しておく。国のために力を尽くされた方々の重い証言であり、傾聴すべきものであろう。


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2016年08月27日

【本】衣笠周司「戦時下の記者たち −セレベス新聞を読む−」

「戦時下の記者たち −セレベス新聞を読む−」 衣笠周司/向陽書房/1997年

 昭和17年から20年にかけて、日本軍政下のセレベス島(現・スラウェシ島)で発行された、「セレベス新聞」の製作経緯を追ったノンフィクション。

 太平洋戦争が始まり、日本軍が南方地域を占領すると、軍は占領地で新聞の発行を志向するようになった。現地日本人の戦意高揚と土着住民への宣伝工作のために、新聞が有効なツールだと考えたのである。そして陸海軍は、それぞれの担当軍政地域での新聞刊行業務を、有力新聞社に委託することとした。その結果、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、同盟通信ほかの各社が、各地に記者や編集機材を送り込み、現地での新聞発行を担うことになった。ちなみに、陸軍が新聞発行を委嘱した地域はジャワ(朝日)、フィリピン(毎日)、ビルマ(読売)、マレー・シンガポール・スマトラ・北ボルネオ(同盟ほか)。海軍は、南ボルネオ(朝日)、セレベス(毎日)、セラム(読売)であった。

 このうち、海軍の委託によりセレベス島で発行された「セレベス新聞」は、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)から派遣された日本人記者や業務・工務関係社員、のべ100人以上によって製作された。「セレベス新聞」の本社は南セレベスのマカッサルに置かれたが、北セレベスのメナドにも支社が設けられ、「セレベス新聞・メナド版」を発行していた。また、現地住民や華僑のスタッフも使って、現地語の新聞「プワルタ・セレベス」も刊行していたのだという。発行部数としては、「セレベス新聞」は、最盛期にはマカッサルだけで8,000部。「プワルタ・セレベス」は、マカッサルで3万部、メナドでも28,000部に及んでいる。

 昭和17年12月8日に創刊号が刊行された「セレベス新聞」は、わずか2ページの構成ながら、日刊(毎週月曜休刊)で発行され、価格は1部7銭(のち8銭)。一面には、東京本社から電話で送稿された、国内の新聞と同じ記事(大本営発表の戦況報道など)が主に掲載されており、二面には記者が現地で取材した記事も多く載せられた。終戦後の20年9月頃まで発行が続けられ、最終号は800号を越していたとも言われている。終戦とともに、現地に残されていた新聞が焼却されたため、戦中に内地に回送された分を除き、少なくない紙面は現存していないとのことである。

 本書は、この「セレベス新聞」の発行に携わった毎日新聞記者たちの回想を踏まえつつ、新聞の編集作業の実態や、戦時のセレベス島の様子などを描いた著作である。比較的平和なセレベス島で、記者たちが住民の文化を取材して記事にする様子や、戦後の捕虜収容所や日本への復員船の中でさえガリ版刷りの新聞を発行し続けたことなど、当時の新聞関係者の活動状況がありのままに描かれていて興味深い。あまり広く知られた本ではないけれど、南方軍政地域でのメディア関係者の姿を分かりやすく伝えた、好著と言ってよいのではないかと思う。


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2015年12月27日

【本】奥村明「セレベス戦記」

「セレベス戦記」 奥村明/図書出版社/1974年

 太平洋戦争当時、セレベス島(現・スラウェシ島)の守備についていた陸軍少尉の従軍記録。

 元々西部ニューギニアの海上機動第2旅団に配属される予定だったが、戦況悪化のため赴任できず、蘭印のセレベス島守備隊に回されて終戦を迎えた著者による戦記である。セレベス島には終戦まで連合軍の上陸はなく、著者も敵兵と戦闘を交える機会はなかった。ただ、戦況の変化に伴う守備位置の変更のため、著者はセレベス島の北から南まで移動させられ、実に3,000km以上の距離を歩かされることになった。そうした苦難の行軍の中で、著者が自分の小隊から死者を出さなかったのは、彼自身の臨機応変な部隊指揮が当を得たためでもあるのだろう。

 著者が命の危険にさらされたのは、むしろ戦争終了後のことかもしれない。「死の草原」と呼ばれた灼熱のマリンプン草原を横断し、ようやく辿り着いたマリンプン俘虜収容所では、同じ日本人の食糧管理隊や炊事班のピンハネのせいで将兵には十分な食事が行き渡らず、栄養失調による死者・病人が続出した。さらに、捕虜の監視に当たったアンボン兵(セラム諸島・アンボン島出身の黒人兵)の、敵意に満ちた虐待にも苦しめられた。とあるアンボン兵が日本人を激しく恨むに至った経緯を、著者は以下のように記している。

「「軍曹にとっては、日本軍は恨み骨髄に徹しているんだ」と、原大尉は私をなだめて、つぎのように軍曹の来歴を語った。
 アンボン軍曹は、かつてオランダ軍の俘虜として、日本へ送還され、三年半服役したのち、セレベス収容所へもどった組である。日本内地での軍曹は、日本鋼管川崎工場、新潟鉄工所などの軍需工場で、強制労働をさせられた。囚人として鞭打たれ、徹夜作業を強制されながら、小芋二個しか与えられなかった。直立不動の姿勢でビンタを食い、「目ん玉をキョロキョロ動かすな」とどなられ、たたきのめされた。あまりの辛さに、かれは何度自殺を考えたか知れなかった。日本語の「目ん玉……」云々は胸にやきついて離れなかった。同僚のアンボン下士官十名のうち、三名が死亡した。
「終戦で解放された軍曹は、日本軍に復讐せずにはいられないのだ。怨念の悪魔と化している。ま、因果はめぐるだね」」

 太平洋戦争後、東南アジア諸国が独立を果たすことができたのは、確かに日本軍の進攻が一つの契機になったのだろう。ただ、さまざまな戦記を読んでいると、捕虜や現地住民を残酷に取り扱った日本軍民の姿が、どうしても少なからず目に付く。そのような、ある種の勘違いをした人々の醜悪な振る舞いが、著者のような、虐待とは無縁な人物に跳ね返ってくる有様は、戦争の不条理さの一端を示すものであろう。


(補記)セレベス島守備隊について
 連合軍の攻勢正面となり、決戦地域になると考えられていた濠北地域には、昭和18年頃以降、次々と陸軍兵力が投入された。主なものとしては、西部ニューギニアのサルミ・ビアクで死闘を繰り広げた第36師団をはじめ、ソロンの第35師団・海上機動第2旅団、ハルマヘラ島の第32師団、スンバワ島の第46師団などがある。その中で、濠北作戦を統括する第2方面軍の司令部が置かれたセレベス島は、「昭和19年8月の時点では、(中略)北東部に二万、南部に一万余の兵力をもって防備していた。海軍は南北にそれぞれ約五千の兵力を配備しているだけで、陸軍が主力になっていた」(奥村書)という守備態勢であった。

 ただ、セレベス島の旅団単位以上の陸上部隊としては、昭和19年6月に新編された独立混成第57旅団(長:遠藤新一少将)があるのみであった。この旅団も、歩兵4個大隊がマニラからセレベスへ輸送される途中で海没、2個大隊が同じく輸送途上で船舶が故障してホロ島に漂着した上、10月にボルネオ島東岸のタラカンへ転用。さらに、海没の欠を補うため1個大隊が追派されたものの、途中セブ島に滞在していたときに米軍がレイテ島に上陸し、急きょレイテ島の戦いに投入された(いわゆる天兵大隊)。結局同旅団は、収容できた海没将兵やその他の人員からなる歩兵4個大隊を基幹として編成されたのだという(戦史叢書「捷号陸軍作戦1 レイテ決戦」による)。

 このため、セレベスに約4万の兵力があったと言っても、その過半は後方部隊や、臨時編成の歩兵部隊、航空軍の残置部隊などだったのではないかと思われる。上級司令部が置かれていた割には、守備兵力は雑多な混成部隊であり、戦力としては手薄だったのではないか。ただ、連合軍が上陸したモロタイミンダナオボルネオのいずれからも後方にあったセレベスは、結果的に敵の来攻を受けることのないまま、終戦を迎えることができた。

(後日追記)
 この戦記の末尾に、独立混成第57旅団の簡単な行動経過が記載されていたので、合わせて紹介しておく。
 また、「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」に収録された「西部ニューギニアの全般作戦」という手記(著者は了戒次男・元第2軍高級参謀)に、昭和20年7月にセレベス島シンカンで撮影された第2軍首脳部の写真が掲載されており、ここに「特設旅団長・山本大佐」という人物が写っている。現地駐在部隊を基に、特設旅団が編成されていたのだろうか。


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