2020年01月26日

【本】池部良「ハルマヘラ・メモリー」

「ハルマヘラ・メモリー」 池部良/中公文庫/2001年
(初版は、1997年に中央公論社から刊行)

 大戦中に陸軍に召集され、中国戦線からハルマヘラ島に転戦した著者による戦争体験記。

 俳優として活動中に召集されて輜重兵となり、のち保定予備士官学校を卒業して、第32師団衛生隊第2中隊(輜重)の第1小隊長を務めた著者による戦記である。昭和の名優かつ名エッセイストとして知られる著者は、軍隊経験を著した本を何冊か上梓しており、本書には、中国山東省の第32師団に見習士官として着任した後、輸送船で赤道直下のハルマヘラ島に送られ、終戦を迎えるまでの経緯が描かれている。幸いハルマヘラ島には米軍の上陸は無かったため、著者は生きて日本へ還ることができたが、それでも輸送船が撃沈されて海上を漂流したり、ハルマヘラ上陸後に敵機の襲撃を受けたりするなど、九死に一生を得る体験を繰り返しており、本書にはその模様が詳しく綴られている。

 この本の中で特に強い印象を受けるのは、全編を通じて生々しく描かれている、軍隊の人間関係の苦労についてであろう。大卒のため短い軍隊経験で将校になってしまった著者に対する、下士官たちの激しいやっかみや陰湿な嫌がらせ、あるいは著者ら予備士官学校卒の将校を露骨に軽侮する、陸軍士官学校出の無能な将校たちなど、著者が体験した辛苦が詳細に述べられている。現代の大組織でも多かれ少なかれ生じる現象ではあるが、本書のこうした記述を通して、当時の軍隊生活の理不尽さをありありと追体験することができる。

 なお、著者はいわゆる竹一船団でハルマヘラ島に進出しているが、本書に記された船団の被害と実際の被害は大きく食い違っている。海上を長時間漂流した割に、著者の小隊の各分隊員が全員無事だったり、現実には大損害を受けた砲兵連隊が無傷だったと述べられていたりするなど、本書には結構脚色が入っている印象も受けた。第32師団の各部隊長も軒並み仮名で表記されており、同師団に関する事実関係が必ずしも正確に書かれていない点については、注意が必要であろう。


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2019年09月23日

【本】丸山静雄「インパール作戦従軍記」

「インパール作戦従軍記」 丸山静雄/岩波新書/1984年

 新聞記者としてインパール作戦を実地に見聞した著者が、その体験をありのままに記録したノンフィクション。

 旺盛な取材精神でインパール作戦の最前線近くまで進出し、その後、敗走する部隊とともに命からがら撤退した新聞記者の貴重な従軍記である。報道内容を統制するため、できる限り取材陣を制限しようとしていた第15軍は、インパール作戦の取材を、毎日新聞(第33師団)、読売新聞(第15師団)、同盟通信(第31師団)の3社に独占させていた。これに対して、朝日新聞に所属する著者は、強硬に反対する軍や同業他社を執拗に説得し、半ば強引に割り込む形で、第33師団と第15師団の間隙で作戦中の山本支隊(歩兵3個大隊、戦車1個連隊、砲兵2個連隊他により編成)に同行することとなった。

 そして著者は、「戦争を見とどける」という意思の下、昭和19年7月下旬に山本支隊が退却に移るまで、戦いの実態を最前線近くで見守り続けた。作戦が敗色濃厚となる中で、第15軍司令部から繰り返し前進の督促を受けた山本支隊長は、部下の部隊長に対して無謀な攻撃命令を強要するようになる。その模様を、著者は以下のように描いている。

「そのころ、一つの瘤をとるのに一回の突撃で成功したことはなく、二回、三回と反復して辛うじて瘤の一角にとりつく有様だった。支隊長の命令は峻烈で、一度、攻撃を命ずると、目標陣地を脱出するまでは同じ部隊に突撃を命じた。攻撃に失敗すると、指揮官は支隊本部に呼びつけられ、『反省のテント』のなかで謹慎を命じられた。(中略)薄暗いテントのなかで、指揮官は幾日も一人黙然と静座し、やがて『最後の突撃』をいい含められ、悄然と前線にもどってゆくのであった」

 こうして山本支隊の麾下部隊は絶望的な突撃を繰り返し、その戦力のほとんどを失っていった。辛うじて生き残った将兵は、作戦中止後、豪雨の中を病み衰えた体で退却し、行き斃れた者たちによる「白骨街道」が現出した。幸運にも生還を遂げた著者は、本書の第3章「敗走千里」で、そうした悲惨な撤退の実情を詳しく描いている。インパール作戦のような悲劇を繰り返さないために、我々がまず語り継がなければならないことは、空疎な作戦論やその目的などよりも、多くの日本人将兵がこのように無惨に死んでいった事実であろう。

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2019年05月26日

【本】児島襄「マニラ海軍陸戦隊」

「マニラ海軍陸戦隊」 児島襄/新潮社/1969年

 昭和20年のマニラの戦いの模様を、生還将兵の証言を元に描いた戦記。

 寄せ集めの陸海軍部隊が凄惨な市街戦を戦った、マニラの戦いの実像を追った作品である。生還将兵を取材した著者によれば、マニラで米軍を迎え撃った将兵は、元々はマニラで激しい戦闘を行うことは想定していなかったようである。陸軍野口支隊の藤井中尉(臨時歩兵第2大隊第5中隊長、生還)は、戦いが始まる前のマニラの雰囲気を以下のように証言している。

「まさかマニラでひどい戦争になるとは予想していませんでしたね。せいぜい適当に戦ってひきあげるのだ、という話でしたし、だいいち、華僑は逃げ支度をしているようだったが、フィリピン人ときたら、別にどうということもない。それに、わたしたち陸軍は、みんな、現地召集でしょ。フィリピン人の知り合いも多いし、つきあいもつづいている。いってみれば、マニラで短期入営したような気持ちでしたよ」

 ところが、米軍がマニラに来攻すると、各部隊は市街地で本格的に敵を迎え撃つことになり、戦いの様相は酸鼻を極めたものとなった。マニラ戦がこうした悲惨な展開を辿った原因としては、海軍指揮官の岩淵三次少将が戦闘途上の2月11日にマニラ死守命令を出したため、各部隊が脱出の機会を失ってしまったことや、現場の命令が二転三転して混乱を招いたことなど、現地司令部の指揮命令が適切さを欠いたことが挙げられるだろう。一定数の将兵は、戦いの前半期にマニラからの転進に成功しており、撤退時期を誤らなければ、日本軍将兵やマニラ市民の損害はもっと少なくて済んだのではないかと思われる。

 ただ、現地司令部の判断に責められる部分があったにせよ、それと同時に、彼らが多種多様な上級司令部の判断に振り回された事実も合わせて考慮すべきであろう。陸海軍とも、マニラ放棄論・死守論をそれぞれ唱える関係司令部が存在したり、戦闘開始後も、撤退命令(例:2/15、振武集団長・横山陸軍中将)が出されたり、敢闘死守の激励電(例:2/16、連合艦隊司令長官及び大本営海軍部)が出されたりと、上層部の意思がまるで統一されていないことが本書から見て取れる。陸海軍の連携の欠如、あるいは屋上屋を重ねたような複雑な指揮命令系統は、各地の戦場で日本軍の戦力発揮の阻害要因となったが、マニラ市街戦は、そうした不効率・不適切さを最も凝縮した形で示した、悲劇の戦場だったと言えるだろう。

 このような錯誤がもたらした必然の結果として、本書の後半では、壊滅していくマニラ防衛部隊の最後の模様が詳しく描かれている。生き残った将兵が財務省、農商務省、議事堂の3ビルの廃墟に追い詰められ、戦車と砲に包囲されて絶望感を深めていく中で、海軍岩淵少将は2月26日未明に農商務省ビルで自決。一方、財務省ビルに陣取った陸軍野口支隊本部では、25日夕刻に最後の幹部会議が開かれていた。その模様を以下に引用する。

「『これは、みんなの意見もぜひ聞きたいと思ってな』
 野口大佐は、一同の緊張をときほぐすように、ゆっくりと微笑をうかべながら、
『戦況は、みんなも承知のとおりだ。だいぶ、詰ってきたと思う。あとは、ひとつ、最後の花を咲かすことになるが、さて、どんな花の咲かせかたをするか、それを相談しようと思うてなア』
 さりげない、むしろ、気楽なくらいの話しぶりだが、一同には大佐の意向はよくわかった。
 敵を待って差し違えるか、斬込みにでるか――いずれにしても死は免れないが、死の型は選べる、というのである。二つに一つ、選択は容易なはずだし、その点については、各将校とも何度か考えたことがあるが、さあ、と促されてみると、すぐに答えはでない。
『どうだ、兵の意見も聞いてみては……』と、野内少佐(注:臨時歩兵第2大隊長)の言葉をしおに、一同はいったん部屋を出た。和田中尉(注:同大隊副官)も廊下をへだてた斜め横の部屋に入り、集まる第二大隊本部員に意見を求めた。一人が即座に返事をした。
『副官どの。わしらもそれを考えとったんですが、ここで腹切って死ぬのも忠義かもわからんが、ともかく出て行って、一人でも敵を倒すほうが、もっと忠義にならんかと思います。同じ死ぬなら、そうしたい思うとります』
 どや、みんな、と呼びかける声に、居合わせた兵たちは、いっせいに賛成を応えた。和田中尉が野口大佐の部屋に戻ると、やがて次々に現われた将校たちも、一致して部下の斬込み志望を報告した。
『よし、決めよう。午前一時出撃』」

 こうして、26日未明に斬込みに出た野口支隊の残存将兵は、結局ルネタ公園付近で集中砲火を浴び、ちりぢりに倒れて死んだ。その中で、和田中尉が負傷しつつも奇跡的に振武集団の陣地に辿り着き、野口支隊の最後の模様を伝えることとなった。軍上層部の意思決定の混乱のあおりを受けながらも、ただ実直に戦って死んだ将兵たちがいたことは、記録に留められるべきであろう。

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2019年03月31日

【本】鈴木伸元「反骨の知将 帝国陸軍少将・小沼治夫」

「反骨の知将 帝国陸軍少将・小沼治夫」 鈴木伸元/平凡社新書/2015年

 日本陸軍で戦史研究に長く従事し、太平洋戦争開戦後はガダルカナル戦やルソン戦で作戦指導を行った軍人、小沼治夫の生涯を追った本。

 参謀本部戦史課員、同戦略戦術課員、第2軍作戦参謀、陸大教官(兼ノモンハン事件研究委員会メンバー)、参謀本部戦史課長、第17軍作戦参謀、陸大教官、第14方面軍参謀副長、第12方面軍参謀副長などを務め、戦史畑や作戦系統の職務に携わり続けた軍人、小沼治夫を取り上げた一書である。理系的な素養を備えた小沼が、戦史研究を進める中で、陸軍の日露戦争観が精神主義に偏重していること、ノモンハン事件ではソ連の物質主義に圧倒されたこと、近代戦への備えが喫緊の課題であることなどを、データを駆使しつつ理性的に主張していく様子が、本書には詳しく描かれている。こうした小沼の仕事ぶりからは、精神力を重視する陸軍の空気に流されない合理性や、自らの職務に対する責任感の強さがうかがわれるが、組織の常識に真っ向から挑戦する彼の研究成果は批判にさらされ、上司からも不興を買う結果となった。

 そして、太平洋戦争が始まり、近代戦に関する小沼の危惧が的中してくると、皮肉にもようやく彼の見識が注目され、最重要方面の作戦担当参謀に抜擢されることになる。しかし彼の登用は、もはや遅きに失した感が否めないものだった。装備の劣弱と補給の欠乏に苦しんだガダルカナル戦やルソン戦で、精神力に頼った作戦指導を行わざるを得なくなった小沼の姿は、一種の悲劇と言うほかない。戦争が劣勢に傾いてくると、ガダルカナルで戦った小沼や、彼の上司を務めた宮崎周一、沖縄作戦を立案した八原博通のような戦史畑の軍人が表舞台に出てくるようになるが、彼らの合理性がもっと早い時期に活かされていれば、戦いの趨勢もまた違ったものになったのかもしれない。

 なお、本書には事実関係の誤記が散見されるほか、ルソン戦での小沼の仕事ぶりに関する記述が十分でない。昭和20年春頃の小沼は、ルソン島バレテ峠・サラクサク峠の防衛線を支えるために、退却してくる雑多な部隊を片っ端から歩兵大隊に再編成し、その臨編大隊の数が26個にも達したという極めて困難な仕事に従事しており(牧野弘道「戦跡を歩く」)、彼がこの難しい職務にどう取り組んだのか、是非とも掘り下げてほしかったところではある。
 その一方で、本書に取り上げられた小沼のエピソードの中には、興味を惹かれるものも少なからずあった。第14方面軍がルソン島の山岳地帯に追い込まれつつあった昭和20年6月に、彼がどうやってルソン島から東京へ転勤できたのか、以前から疑問に思っていたのだが、本書によれば、壊れた機体から組み立てた航空機で夜間にエチアゲを出発し、台湾、上海、米子で給油して宇都宮に至り、宇都宮から陸路で東京へ帰還したのだという。その他にも、小沼の家庭環境に関する逸話などが多く紹介されており、戦史には現れない彼の人となりをうかがい知ることができた。

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2019年03月10日

【本】白水清治「激戦ニューギニア」

「激戦ニューギニア」 白水清治/光人社NF文庫/2018年
(初版は、2010年に元就出版社から刊行)

 昭和18年5月に東部ニューギニアに上陸し、フィンシュハーフェンの戦い、セピック転進、アイタペの戦いなどを後方支援しつつ終戦まで生き延びた、第20師団歩兵第78連隊の主計曹長の戦記。

 陸士出身将校の指揮の拙劣さや臆病さ、軍律違反が不問に付される不公平さなどを厳しく糾弾した、かなり異色の戦記である。幹候・下士官出身の大隊長や中隊長が勇戦敢闘した一方で、陸士出身将校はおよそ役に立たなかったという感情的な批判に終始しており、一般的にはその統率・人格を高く評価されている第18軍司令官・安達二十三中将についても、相当強い調子で非難を行っている。
 しかし、著者によるこれらの人物評価や状況描写は、必ずしも正確でない部分が見られるように思われる。その例として、以下の3点を挙げる。

1 歓喜嶺の戦いについて
 昭和19年1月頃に、第20師団・第51師団のガリ転進を援護する目的で行われた歓喜嶺の戦いで、歩兵第78連隊第6中隊(長:片山真一中尉、陸士出身)は豪軍をよく防ぎ、残兵20名程度を残して壊滅している。
 この戦いにおける片山中隊長の様子について、著者は以下のように記している。

「片山中尉は、一体どこで何をし、どんな戦死をしたのか一切が不明である。屯営時代は肩を怒らせ、辺りを睥睨し、威勢天を突き、兵を塵芥のように接したあの勢いは、弾丸の下で萎え、縮んでしまったのか…?」

 同じく歓喜嶺で戦った大畠正彦大尉(野砲兵第26連隊第3中隊長)が著した「ニューギニア砲兵隊戦記」(光人社NF文庫)によれば、この片山中尉の最期の模様は、第一線の様子を把握するため壕を出て高地に登ろうとしたところを敵に狙い撃ちされ、山の急斜面を真っ逆さまに転落したと記録されている。歓喜嶺の前線にいなかった著者が、こうした状況を把握していなかったことはやむを得ないにしても、実情を詳しく知らないにもかかわらず、まるで片山中尉が臆病風に吹かれたかのような書き方をすることは、戦死した片山中尉にとっても極めて不公平ではないかと思われる。

 また、この歓喜嶺の戦いでは、守備隊長の香川昭二少佐(歩兵第78連隊第2大隊長、少候出身)はマラリアで病臥して役目を果たせず更迭されているが、にもかかわらず著者は香川少佐を高く評価している。また、上述の大畠大尉(陸士52期)率いる野砲兵第26連隊第3中隊は、山砲わずか2門で豪軍の野砲1個連隊(27門)と渡り合い、見事な戦功を立てているが、著者はこのことに全く言及していない。これらも、公正を欠いた記述と言うべきであろう。

2 サテルベルク高地攻防戦について
 昭和18年10月頃、フィンシュハーフェン近郊のサテルベルク高地をめぐる攻防戦について、直接戦闘に参加していない著者は、関係者の手記などを引用しつつ、かなり独自の解釈を加えてこの戦いの様子を書き下している。その中でも、歩兵第79連隊第2大隊長の竹鼻嘉則少佐や、竹鼻少佐戦死後に大隊の指揮を執った福家隆中尉(いずれも陸士出身)が、攻撃命令に従わず前進を遅滞させたとして、「不可解で怯懦」「蛸壺に潜むこと五日間。『武学十年、我れ土遁の術を極めたり』」などと、かなり品のない表現で批判している。

 しかし、福家中尉(のち少佐。戦後、戦誌刊行会代表として各種戦記を精力的に刊行)が著した「痛恨の東部ニューギニア戦」には、実際に戦場でどのように苦労して密林内を転進し、どのように接敵・交戦し、どのように周囲の将兵が戦死・負傷したかが詳細に描かれている。その内容は具体的で真に迫ったものであり、福家中尉が故意に交戦を厭ったとは考えがたい。
 また、10月20日から24日にかけての戦闘で福家中隊が蛸壺に立てこもったことを、著者は「土遁の術」と揶揄しているが、福家手記を見る限り、敵の猛烈な銃火の前に釘付けにされたのが実情であろう。蛸壺から出た者が一斉射撃を食らい、負傷者続出している様子を見ても、著者が要求するような「他大隊との連携攻撃」が容易に行えるような状況ではなかったように思われる。この戦闘に関しては、後方にいた著者による憶測を交えた記述よりも、第一線で砲火にさらされていた福家中尉の記録の方を信用すべきではないかと考えられる。

3 アイタペの戦いについて
 昭和19年6月、第18軍司令官・安達二十三中将がアイタペ攻撃を発起したことについて、著者は、

「安達中将は大命に抗し、兵を勝手に動員(私兵化)し、自己の時局観に酔い、兵を死地に投ずることなどまったく意に介せず、攻撃命令を発した。
 この瞬間、天皇→大本営→南方軍総司令部→第十八軍に連なる統帥系統の命令を、自ら断ち切り、自己の価値観・時局観により、恣意的に戦闘開始命令を発したのである。したがって、それ以後の安達二十三は、日本の陸軍中将に非ず、ただの軍閥『安達軍』の首領となったのである」

と、激越な調子で非難している。

 アイタペ戦の意義・必要性については、確かに批判的な見解が少なくない。また、フィンシュハーフェンの戦い、ガリ転進、セピック転進を生き延びてきた第20師団の精鋭将兵が、アイタペ戦で一気にすり潰されていく様子は、本書を読んでいても極めて悲惨としか言いようがない。
 ただ、著者は、大陸命第1030号(昭和19年6月17日)の「…第十八軍その他の諸部隊をして同方面の要域に於て持久を策し以て全般の作戦遂行を容易ならしむべし」の一文を引用し、

「大命(天皇の命令)は『持久を策し』であって、自由裁量を安達中将に与えられたものではない。隷下部隊を私兵化した安達中将以下各幕僚こそ『まさに軍法会議もの』である」

として、安達中将を「『大命違反』の大反逆罪」と批判するが、この大陸命に関する大本営の真意は、

「結局、第十八軍のアイタペ攻撃に関しては、その実行を中央から命令し、あるいは逆に中止を命令するような指導を行わず、ただ第十八軍司令官が自由に状況を判断し、その所信に従って善処し得るように、包括的な任務を与えることとした」(戦史叢書「南太平洋陸軍作戦<5> アイタペ・プリアカ・ラバウル」p97)

というものであり、著者の主張は曲解と言わざるを得ない。
 また、第18軍の軍需品が残存するのは8〜9月末頃までと予想される状況下で、敵をニューギニアに拘束し、戦局全般に寄与することが作戦の大きな目的であったこと、また作戦発起までに安達中将が深刻に苦悩したことなどは、上掲の戦史叢書のほか各種の戦記にも記されている。このような事実関係を考慮すれば、「兵を勝手に動員(私兵化)し、自己の時局観に酔い、兵を死地に投ずることなどまったく意に介せず…」という著者の安達中将評は、さすがに目に余るものと言うべきであろう。

 以上の1〜3を踏まえれば、本書は、「陸士出身将校は無能・臆病、それ以外の将校は優秀」という著者の個人的な思い込みに記述内容を合わせようとするあまり、事実関係の描写が正確性・公平性を欠いているとの批判は免れないのではないかと思われる。
 ただ、合わせて留意すべきは、著者にこうした強烈な情念を植え付けた、ニューギニア戦線の異常な過酷さであろう。人間の極限とも言うべき状況の中で、下士官兵が陸士出身将校から理不尽な目に遭わされた事例は、実際に相当数あったものと思われる(複数の戦記を見る限りでは、例えば第20師団の各連隊長はかなり評判が悪い印象を受ける)。戦後65年を経て、著者がこのような本を書くに至ったこと自体が、著者が送られた戦場が極めて不条理な世界であったことを端的に示す証左であろう。

posted by A at 21:49| 本(戦記) | 更新情報をチェックする