2014年06月28日

【本】高畠通敏「地方の王国」

「地方の王国」 高畠通敏/講談社学術文庫/2013年
(初版は、1986年に潮出版社から刊行)

 1980年代前半に、全国の特徴的な選挙区を訪ね、それぞれの土地の選挙事情や住民の政治意識などを描き出したルポルタージュ。

 今となっては懐かしい、中選挙区制度下の選挙模様を浮き彫りにした著作である。その内容は、「越山会の強気と弱気」(旧新潟三区)、「金権王国の深層海流」(千葉)、「最後の社会党王国」(旧北海道五区)、「保守王国の地割れ」(旧鹿児島三区)、「政争王国の十年戦争」(徳島)、「“揺れる湖国”の大政翼賛体制」(滋賀)、「越山会“角さん音頭”の気勢」(旧新潟三区再訪)の7編から成るが、この手の本が好きな人にとっては、これらのタイトルを見るだけでもワクワクするのではないかと思う。

 本書の中では、やはり旧新潟三区を取り上げた2編が特に興味深い内容だが、ここでは旧鹿児島三区を描いた章、「保守王国の地割れ」を取り上げてみる。二階堂進、山中貞則という二人の大物政治家が地盤としたこの選挙区を評して、著者は次のように述べている。

「(大隅)半島中のいたるところに、山中道路、二階堂道路と呼ばれる舗装道が、農道のはてにいたるまではりめぐらされ、田舎都市の鹿屋には国立体育大学が建設され、新大隅開発計画が推進されて、志布志湾には国家の手による大規模な石油備蓄基地の建設が決定されたばかりであることを、人びとは素朴にも自慢するのだった。かの田中角栄の新潟三区には及びもつかないかもしれないが、しかしその次か次の次くらいに大隅半島は位置するのではないかと。
 日本の保守党政治の中にも制度化が進行し、当選回数の多さによる長老支配が確立した今日、この意味で“大物”を育てあげて中央政界に送り出すシステムは、かつての東京一区のような名門選挙区ではなく新潟三区や鹿児島三区のような辺地選挙区にだけ備わっているといえるだろう。そして、辺地選挙区はまた“大物”を育て送りだす必要性を切実に感じてもいるのである。」

 こうした事情を背景に、自民党のベテラン議員たちが安定して当選回数を重ねていく一方で、その間に割って入った、社会党の上西和郎という候補の選挙戦略が目を引く。彼は、地元の高齢者や障害者などからの生活相談に丁寧に対応し、「社会保障のご用聞き」に徹することによって、選挙民の信頼をつかんでいった。そして、ついに5回目の立候補で、7選を目指した自民党第三の候補・橋口隆を追い落として、見事初当選を果たしたのである。

 このような上西の政治手法は、県評の幹部から「選挙は、何千という党員や組合員をふるい立たせて票を獲得してくるものなのだ。(中略)そういうことは地方議員にまかせればいいじゃないか」と言われるなど、必ずしも好評ではない面もあった。しかし、自民党の大物議員たちが地元への利益誘導により強固な後援組織を築き上げていく中で、そこからこぼれ落ちた層をこまめに拾い上げて票に変えていくスタイルは、インパクトには欠けるにせよ、その効果は決して軽視できないものだったのではないか。同じ選挙区内でライバルたちと共生していくためには、各候補に独自の生存戦略が求められ、それが多様な政治家を生み出すことにつながったのだという中選挙区制度の特質を、端的に示す一例ではないかと思えた。

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2014年04月06日

【本】小林照幸「政治家やめます。」

「政治家やめます。ある国会議員の十年間」 小林照幸/角川文庫/2010年
(初版「政治家やめます。ある自民党代議士の十年間」は、2001年に毎日新聞社から刊行)

 心ならずも二世政治家の道を歩むことになった国会議員が、永田町や地元選挙区の混乱に巻き込まれ、ついに政治家引退を決断するまでの経緯を描いたノンフィクション。

 久野統一郎という、衆議院議員を3期10年務めた国会議員の物語である。真面目な性格で、およそ政治の世界には無縁だった久野氏は、長く政治家を務めた父・久野忠治の策略によって、不本意ながらも国政選挙に担ぎ出されてしまう。そして、どうにか選挙戦を勝ち抜いた彼は、橋本龍太郎などの大物政治家にかわいがられたこともあり、早くから自民党副幹事長、2度の政務次官、政調の部会長を務めるなど、意外なまでに順風満帆な政治家人生を送ることになった。その一方で、政治の世界の不条理を見せつけられる機会も度重なり、こうした政治の醜い部分にとうとう嫌気が差した彼は、「自分は政治家に向いていない」という理由で、あっけなく引退を決意してしまうのだった。

 彼が議員引退に踏み切った直接的な理由としては、地元の半田市長選挙が分裂選挙になり、支持層の一部から強い恨みを買ってしまったことと、これまで公明党を厳しく批判してきたにもかかわらず、政権維持のために自公連携が成立してしまったことの二点が挙げられるのだろう。特に前者は、彼自身の次の選挙を危うくさせる重大な事件だった。本書には、この市長選の際に彼に送り付けられた「脅迫状」の数々が収録されているが、中には書き手の人格が疑われるような、かなり醜悪な中傷も含まれている。

 誰が首長や議員に当選するかによって生活が左右される人々が、目の色を変えて選挙運動に取り組むことは、ある意味では当然のことなのかもしれない。しかし、こうした熱意が行き過ぎて誹謗中傷に走った結果、大臣の椅子を狙えるような有望な政治家を引退に追い込んでしまったのだとしたら、それは選挙民自身にとっても、損失以外の何物でもないのではないか。政治家という存在は簡単に貶されがちだけれど、有権者の側がもう少し長い目で優秀な政治家を育てるつもりにならなければ、結局損をするのは選挙民、ひいては国民自身になるケースもあるのではないか、と思った。

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2013年12月14日

【本】岩見隆夫「昭和の妖怪 岸信介」

「昭和の妖怪 岸信介」 岩見隆夫/中公文庫/2012年
(初版は、1979年に学陽書房から刊行)

 戦前、商工省官僚から満州国総務庁次長、商工大臣などの要職を歴任し、終戦後A級戦犯に指名されながらも、その後十余年を経て総理の座を射止めた政治家、岸信介の表裏を描いたノンフィクション。

 少壮官僚としての出発から、満州国での暗躍、東条内閣への協力と抵抗、戦後の雌伏、総理として取り組んだ難業、そして総理退任後の政治活動に至るまで、岸信介の生涯とその功罪を追った作品である。岸の周辺で活動した様々な関係者と、さらには岸本人へのインタビューを重ね合わせ、岸の人間像をあぶり出そうと試みた一書であるが、ヴェールに覆い隠されたまま終わってしまった感のある部分も少なくない。著者自身があとがきで認めるように、「入口のところをうろうろしたような実感が残」り、「とても本論に踏み込むにはいたらなかった」印象が拭えず、それがまた、岸という掴みどころのない人格を浮き彫りにしている。

 岸が総理の職にあったのは昭和30年代のことだが、彼はいまだ過去の人間にはなっていない。岸の外交と憲法観に関して、本書には以下のような記述がある。

「内閣が成立して三か月後の五月二十日、岸は初仕事として東南アジア歴訪に出発した。
 六月四日までビルマ、インド、パキスタン、セイロン、タイ、台湾の六か国を回り、さらに訪米をはさんで十一月十八日から十二月八日まで南ベトナム、カンボジア、ラオス、マレーシア、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンの九か国、合計十五か国を歴訪したことになる。(中略)
 とにかく、復興しつつある日本経済の市場確保のために、東南アジアの重要性はきわめて大きい、と岸は考えた。さらに日本のあと押しによって、東南アジア新興国の経済基盤が固まってくれば、日本の国際的な発言力が増し、「アジアの指導国」としての政治的、経済的な地歩を築くことができる、と踏んだ。それが米国と緊密に結びながら中ソ両大国とは事を構えずに日本が生きていくための唯一の選択肢だと岸はみたのだろう。」

「(日本国憲法について、80代の岸の言葉)成立過程と内容のいかんですよ。国に元首がないんだ。こんなことはないですよ。やっぱり元首ははっきりしとかなきゃいかん。これは国の基本である。
 それから、国防だ。私はもちろん、戦争をしようとか、武力をもって日本の国策を外交上ナニしようとか、そんなことは考えていないけれども、少なくともね、防衛に当たってる自衛隊が憲法違反の疑いを残すような現在の規定を改めなければいかん。やはり、国を防衛するのは国民の義務の一つであり、国に忠誠を尽くさなきゃいかんということをないがしろにするのが間違っとる。
 それから二院制。むだですよ、あれ。総理大臣が二度もおんなじことをやらなきゃならんのだよ。だから、私が憲法改正する時は一院制にすると思います。大体いまのは翻訳調だからね。変な文句でしょう……」
「憲法改正、これは今後もやります。やりますけれどもなかなか私の目の黒い間にできるとは思っていない。しかし、この火を絶やしちゃいかんと思うんだ」

 現総理は岸の孫に当たる人だが、その外交姿勢や憲法論を見れば、岸の描いたグランドデザインは、今も日本のあり方に陰に陽に影響を及ぼし続けているように思える。

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2013年12月07日

【本】尾川正二「戦争 虚構と真実」

「戦争 虚構と真実」 尾川正二/光人社NF文庫/2013年
(単行本は、2000年に光人社から刊行)

 一兵士として東部ニューギニア戦線を生き抜いた著者が、自らの体験を踏まえつつ、太平洋戦争に関するジャーナリズムの「嘘」を検証する本。

 「極限の中の人間」でニューギニア戦の経験を著し、第1回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した著者による、ジャーナリズムのあり方を問う一書である。北支戦線・ニューギニア戦線における自身の過酷な戦争体験を踏まえながら、戦後巷間に流布する戦争報道を一つひとつ取り上げ、その虚構性を丹念に暴露している。著者が80代になってからの著作のせいか、論旨がやや分かりにくい部分もなくはないが、浩瀚な教養を背景とした丁寧な記述は、読む者の襟を正させるものである。

 著者は、特に戦後五十年前後を経て、実体験に基づかないいい加減な報道が増えてきた事実を深く憂えている。例えば、本書の第十二章「奇怪な流言」に、以下のような文章がある(一部抄録)。

「一九九七年夏以降、奇怪としかいえないような流言を聞くようになった。<旧日本軍、パプア・ニューギニアにおいて、原住民を殺害、これを食せり>というのである。現地に三年いて聞いたこともなく、その後、半世紀以上も話題になったことすらない。まったく突然のことである。その発端は、八月十四日「朝日新聞」神奈川版の「ニューギニアの人々にとって、あの戦争は」という記事だった。(中略)
 …異常な記事が、十月十七日発行の『週刊朝日』に掲載されているのが、コピーで送られてきた。題して「ニューギニアで旧日本兵が行った残虐」という。形容を絶する特異な内容――当時を知るものには、まったくの虚構――だが、『森と魚と激戦地』を下敷きにしたものらしい。一緒に取材にも行っている。
 戦争を体験している、体験していないは、学問的研究において何の意味もない。だが、これほど偏向した、客観性のない非現実的な記述をみると、戦争の実態を知らないと、こんな不毛な思考形態しか生み出せないのかという思いに駆られる。
 「激戦地」と書きながら、内実を知らない。日本で得た資料も、自分の都合のいいようにつまみ食いの引用をし、全体の文脈をみようとしない。みえないのかもしれない。読解力が疑われもする。六千の兵員が、百名になった戦場がどんなものであったか想像もつかぬらしい。想像力の欠如も感じられる。誹謗のことばはあっても、哀悼のことばはない。(中略)
 「語りえないことについては沈黙すべきである」(ヴィトゲンシュタイン)という有名なことばは、当然の命題である。正確な報道のためには、情報源を、記者自身を、繰り返し問い直し、検証しなければならぬ。「信じがたい」ならば、検討すべきである。「信じがたい」といいながら公表すること自体、許されることではない」

 個人的に、ジャーナリズムにおいて、誤った報道というものはどうしても避けえないものだろうと思う。記者の調査が十分に行き届かなかった場合もあるだろうし、記事を発表後、新たな事実が判明する場合もあるだろう。ただ、明らかに事実に反する報道を行ったり、客観的事実から距離のあるような報道を続けたりした場合には、当然その経緯を十分に検証し、きちんと訂正を行うべきではないだろうか。さもないと、その報道機関やジャーナリスト自身が信用を失い、何を言っても耳を傾けてもらえない存在になるのではないかと思う。

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2012年11月18日

【本】渡辺一史「こんな夜更けにバナナかよ」

「こんな夜更けにバナナかよ」 渡辺一史/北海道新聞社/2003年

 北海道で暮らす障害者・鹿野靖明と、彼を介助するために集まったボランティアたちの記録。第35回大宅壮一ノンフィクション賞、第25回講談社ノンフィクション賞受賞。

 難病の筋ジストロフィーのため、一種一級の重度身体障害者として生きる鹿野靖明と、彼の身辺を世話するためにボランティアとして応募してきた人々の人間模様を描いたノンフィクションである。わがままな要求も多く、人当りもきつい鹿野の元に、どうしてこんなに多数のボランティアが集まり、長期間にわたって介護を続けていくのか。傍目にはなかなか不思議な部分もあるが、著者は自らもボランティアとして参加しながら、鹿野やボランティアたちの心情を丁寧に解き明かしていく。

 鹿野の介助に携わるボランティアたちは、多かれ少なかれ、背景となるストーリーを抱えて鹿野のもとにやってくる。劣等感に苦しむ性格を打破しようとする大学生や、40代で冷淡な夫と離婚して、初めて自らの人生を切り拓こうとする主婦など、ボランティア行為そのものに関心があるというよりも、ボランティアを触媒として、人生の転機を掴もうとする者が少なくないように思えるのだ。そして鹿野は、わがままに振る舞う一方で、そうした多様なパーソナリティを受け止めるだけの度量の持ち主でもあるように見受けられる。このような鹿野とボランティアたちの人格の交錯が、このノンフィクションを滋味豊かな作品に仕上げている。

 著者のことにも少し触れておきたい。著者の渡辺一史氏は、北大中退後フリーライターとして活動し、30代半ばにして、初の著書として本書を上梓している。本書の執筆に当たっては、他の仕事を中断し、貧しいアパート暮らしを続け、ついには借金までしながら、2年半の歳月をかけてようやく完成にこぎつけたのだという。きっと著者は、そうした苦しい生活を続けながらも、この題材から優れた作品を生み出せることを、無意識のうちにでも確信していたのではないかと思う。才能に引きずられて、人生のすべてを何かの対象に投入するような著者の生き方は、一見大変そうだけれど、天与の資質に恵まれた人にのみ許された人生であるように思えて、ちょっと羨ましく感じられた。

posted by A at 09:55| 本(ノンフィクション) | 更新情報をチェックする