2019年04月29日

独立混成第57旅団のセレベス島派遣について

 昭和19年6月、セレベス島(現スラウェシ島)の防衛のために、独立混成第57旅団(桂兵団)の編成が発令された。しかし、同旅団への配属が予定されていた各歩兵大隊は、その後の困難な海上輸送事情に翻弄され、セレベス、ボルネオ、セブ、レイテの各島に分散して辿り着き、その一部は米豪軍と激戦を繰り広げることになった。今回は、さまざまな運命を辿った独立混成第57旅団の各部隊について、個別にまとめてみたい。

1 セレベス島
(1)旅団主力のメナド上陸
 西部ニューギニア方面の戦局悪化を受けた大本営は、昭和19年6月、小三角地帯(ソロン、ハルマヘラ、セラムを結ぶ三角地帯)の戦備を強化するとともに、比島−ボルネオの線までの縦深戦備を整備することとした。そして、セレベス海域方面(地図はこちら参照)に、以下の4個旅団を編成配置することを決定した。

・独立混成第54旅団(ミンダナオ島ザンボアンガ方面)
 編制:司令部1、独立歩兵大隊3個、旅団砲兵、工兵、通信隊
・独立混成第55旅団(スールー列島方面)
 編制:54旅団に同じ
・独立混成第56旅団(ボルネオ北東部方面)
 編制:司令部1、独立歩兵大隊6個、旅団砲兵、工兵、通信隊
・独立混成第57旅団(セレベス島メナド(現マナド)方面)
 編制:56旅団に同じ

 これらの旅団の編成方針は、まず旅団長・大隊長を中央が任命して単独赴任させ、同時に、内地から仮編成した部隊を輸送する。そして、部隊長要員と部隊が到着次第、現地の軍司令官が軍令通り編成完結する、というものだった。この仮編部隊を乗せた輸送船団は7月3日に門司を出港し、一部海没の被害を出しながらも、15日にマニラに到着した。しかし、ルソン防衛を重視する第14軍司令官・黒田重徳中将は、これらの部隊を前送したくない考えを持ち、南方軍総司令官・寺内寿一元帥も同意見だった。その結果、メナド方面配備予定の部隊は、仮編部隊のまましばらくマニラに留め置かれることになった。

 そして、米軍のハルマヘラ来攻が本格的に予想されるようになった8月15日、セレベスの兵力増強の必要性が理解され、ようやくメナド派遣部隊はマニラを出港した。しかし、この時期には既にハルマヘラ方面への空襲が激化しており、メナド行きの船団が無事到着できるかは疑問視される状況となっていた。57旅団の仮編部隊は、はあぶる丸(歩兵2個大隊乗船)、めきしこ丸(歩兵4個大隊乗船)の2隻の輸送船に分乗して南下したが、輸送途中、はあぶる丸はセレベス海でクランクシャフトの故障により航行不能となってしまう。そして、危険な状況下でマニラまで戻るのは到底無理との判断により、掃海艇に曳航されてホロ島へ引き返し、上陸して別の輸送船を待つこととなった。

 また、歩兵4個大隊を乗せためきしこ丸も、メナド近くまで辿り着いた8月29日未明、敵潜水艦の魚雷攻撃により撃沈され、多数の戦死者を出してしまう。メナド港で、空襲にさらされながら輸送船の到着を待ち受けていた海上機動第2旅団輸送隊の奥村明少尉は、この当時の模様を以下のように述べている。

「朝の太陽がまぶしく海面に照り映えるころ、駆逐艦二隻が、沖合に勇姿をあらわした。日本の軍艦旗である。そのあとに大型輸送船がつづいているにちがいなかった。港内、投錨の位置はわかっていた。私たちは作業員を満載した大型発動機艇に、空のボート数隻を繋留し、日の丸をうちふって埠頭を出た。大発は小気味よく、おだやかな金波銀波のうねりを切りさいて進んでゆく。
 駆逐艦は舳をそろえて停止したが、なぜか、輸送船のつづいてくる気配はなかった。上甲板には、裸同然の兵士たちがひしめいていた。舷側で手を振っているものもあった。軍装も完全な凜々しい歩兵部隊の入港を期待していた私たちは、衝撃をうけた。駆逐艦から、最初に私たちの大発へ下船してきた海軍士官は、輸送船二隻(引用者注:1隻の誤りか)が敵潜水艦の集中攻撃をうけ、近海で轟沈されたことを告げた。歩兵部隊の大部分は、兵器・弾薬・貨物とともに、セレベス島影を目にとめる位置で、海の藻屑と化していたのである」

 結局、在メナドの第2方面軍は、海没した輸送船からの収容者やその他の人員をもって、独立混成第57旅団の各部隊を編成した。旅団長は遠藤新一少将(陸士28期、陸大40期)。アジア歴史資料センターの史料によれば、旅団の編制は以下のとおりだった。

・旅団司令部 133名(ほか軍属61名)
・旅団通信隊(長:田村一男大尉) 180名
・独立守備歩兵第22大隊(長:田邊百一大尉) 488名
・独立歩兵第372大隊(長:相良廣遠少佐) 755名
・独立歩兵第373大隊(長:中村武次少佐) 955名
・独立歩兵第375大隊(長:岩木貢少佐) 697名
・独立歩兵第377大隊(長:高延隆雄少佐) 1,413名
・旅団工兵隊(長:金田保美大尉、11月13日編成完了) 軍人1名、台湾勤労団699名

 これらの各部隊のうち、独立守備歩兵第22大隊は、当初は第10派遣隊(マニラからハルマヘラ島へ派遣)の所属だったが、この大隊のみサンギヘ諸島に送られることになり、6月15日にマニラを出発するも海没。ダバオで再建ののち、7月下旬にメナド、次いでサンギヘ諸島に到着していたものである(なお、史料によっては、同大隊を57旅団に含めていないものも見られる)。
 また、旅団工兵隊は、輸送途上で要員が海没したため、海南島から隊長要員として着任していた金田大尉の下、台湾勤労団を主体として11月に編成されている。
 なお、旅団砲兵隊については記録がないが、同時期に編成された独立混成第55旅団砲兵隊の装備が、四一式山砲わずか3門(うち1門故障)という惨憺たる状態であり、57旅団についても、保有するわずかな砲及び砲兵隊要員が撃沈され、その後も補充がなく、結局砲兵隊が編成されなかった可能性があるのではないかと考えられる。

(2)その後のセレベス島の防衛体制
 昭和19年8月時点のセレベス島の守備兵力は、陸軍は北東部に2万、南部に1万余であり、海軍は南北にそれぞれ約5千、合計約4万という態勢だった。そうした中で独立混成第57旅団は、別途編成された集成3個大隊とともにメナドに置かれ、同地付近を防衛した。9月24日に、戦局の推移に伴って第2方面軍司令部がメナドから西南部セレベス内陸のシンカン(地図はこちら)に移転した後も、同旅団はメナド地区(司令部はメナド近郊のトモホン)に駐屯し続けている。なお、9月23日及び10月23日の「南方要域防衛ニ関スル陸海軍中央協定」改定により、セレベスや南ボルネオの陸上直接防衛の主担当は海軍から陸軍に変更されている。

 その後、米軍の北上に伴い、濠北方面の戦略価値は著しく低下し、第2方面軍の主たる任務は南西方面への兵力転用という状況となった。このため、第2方面軍は昭和20年5月29日に廃止され、元々西部ニューギニア方面を専担していた第2軍がその作戦区域を引き継いだ。そして、5月以降の連合軍のボルネオ上陸を受けて、第2軍はセレベス南部マカッサル方面への連合軍上陸を予想し、メナドに配置していた57旅団主力を急いで西南部セレベスへ転進させるとともに、7月中旬からセレベス島の在留邦人約4,000名を現地臨時召集し、速成教育を実施した。さらに、西南部セレベスの各部隊を編合して特設旅団1個を編成し、その旅団長に、西部ニューギニア所在の山本勝大佐(第2野戦飛行場設定司令官)を任命している。そして、シンカンを中心とした永久抗戦陣地の造成に躍起となる中で、8月15日の終戦を迎えたのだった。

 こうした中で、独立混成第57旅団主力は7月10日にメナドから西南部セレベスへの転進を開始し、その途中で終戦を迎え、再びメナドへ戻っている(同旅団の行動経緯の詳細については、こちらの資料のp75〜78に記述あり)。なお、旅団長の遠藤少将は、終戦時に麾下部隊長を集め、「連合軍の上陸に際して一戦を交え、日本軍の真価を見せてやりたい」との訓示を行ったが、作戦打合せのためシンカンに先行していた旅団参謀の甲村武雄中佐(陸士38期。開戦当初、挺進第2連隊長としてパレンバンに降下)が旅団に帰任し、この訓示を撤回させるという一幕もあったようである。

 その後、セレベス島所在の各部隊は、気候が悪く「死の草原」と呼ばれたマリンプンの俘虜収容所で困難な生活を送り、昭和21年6月に復員している。


2 ボルネオ島(現カリマンタン島)
(1)タラカン島の戦い
 1(1)で触れたように、独立混成第57旅団の仮編部隊のうち2個大隊(独立歩兵第374,376大隊として予定されていた部隊)は、セレベス島への輸送途上に船舶が故障し、8月24日にホロ島に上陸した。この両大隊をセレベス島へ前送すべく、9月26日に輸送船立石丸がホロ島に到着したが、これもホロ島で撃沈された。なお、独立混成第55旅団砲兵隊の藤岡明義軍曹の手記によれば、同年10月、ホロ港外に沈んでいたセレベス行きの船から野砲1門、砲弾30発を引き揚げ、これを55旅団砲兵隊が装備しているが、この沈船が立石丸で、セレベスに輸送する野砲を積んでいた可能性があるものと思われる。

 そして、台湾沖航空戦(により米機動部隊が壊滅したとの誤判断)により、米軍がボルネオ北東部に基地航空の足場を求めることが想定されたことから、ボルネオの戦備強化のため、10月13日、ホロ島所在の独立混成第57旅団の2個大隊は第37軍の指揮下に入ることになった。しばらく便船を待ったのち、12月9日、まず両大隊の本部及び各1個中隊が、日本軍の重要な石油基地だったタラカン島(地図はこちら)に移動。同18日、友軍戦闘機1個中隊の直協を得て、後発本隊も輸送船満洋丸によりタラカン島に上陸した。同22日、両大隊は指揮外の小部隊も編合し、歩兵4個中隊、銃砲隊1個中隊を有する独立歩兵第454大隊(長:山田光秋少佐)、独立歩兵第455大隊(長:常井忠雄少佐)として編成された。

 その後、この2個大隊はタラカン島を守備していたが、昭和20年3月4日、454大隊はバリクパパン(地図はこちら)に転用される。結局、タラカン島守備隊は、455大隊約860名、海軍第2警備隊(司令:香春博中佐)約500名、その他燃料廠関係者や後方部隊などを含め合計約2,000名の陣容となった。そして、5月1日に上陸した連合軍を迎え撃って健闘するも、次第に圧迫され、6月中旬に密林内に分散して遊撃戦に移行、そのまま終戦を迎えている。香春司令は7月3日、常井大隊長は8月10日に戦死。守備隊の生還者は、455大隊の副官代理だった宮地喬中尉の手記によれば2,173名中576名、このうち455大隊の生還者は796名中169名。また、第37軍作戦参謀の岩橋学中佐の記録によれば、455大隊の生還者は913名中176名とされている。

 なお、タラカン島の戦いの経過については、上述の宮地中尉の手記の中で詳しく述べられている。あまり広く知られた戦闘ではないが、後方部隊や在留邦人も含めて頑強に抵抗し、善戦敢闘した戦いと評価されるべきではないかと思われる。また、タラカン島は全島至るところから石油を産出するような土地で、密林内の小川にも石油が混じった薄茶色の水が流れており、そのおかげでマラリア蚊が生息しなかったという。宮地中尉は、タラカンでマラリアにかかった者はいなかったと証言しており、南方戦線では珍しい事例と言えるだろう。

(2)バリクパパンの戦い
 バリクパパンの防衛兵力は、海軍第22特別根拠地隊(司令官・鎌田道章中将以下約3,000名)、タラカン島から転用された454大隊の主力、燃料廠や現地召集の邦人なども含めて、合計約1万名だった。また、バリクパパン北方のサマリンダに、454大隊の1個中隊、海軍部隊、現地召集邦人3,000名、合計約5,000名が駐屯していた。

 昭和20年7月1日、約3万の連合軍がバリクパパンに上陸した。454大隊主力はバリクパパン近郊のマンガル飛行場を守備していたが、7月6日に陥落。以後サマリンダを経て奥地に後退し、終戦を迎えている。海軍第22特別根拠地隊の先任参謀だった辻橋文吉大佐によれば、バリクパパンから撤退して以降、連合軍の追撃は甚だ緩慢になったという。上掲の岩橋中佐の記録では、454大隊の兵力は846名、うち生還者635名とされている。


3 レイテ島
 1(1)で述べたとおり、セレベス島に派遣された仮編4個大隊は8月29日に海没し、大きな損害を出した。その欠を埋めるため、9月17日、独立混成第57旅団の新たな仮編大隊(長:紙岡稔少佐。記録によっては大尉との表記もあり)がマニラを出港した。この大隊は21日から艦載機の攻撃にさらされ、逐次その機帆船・漁船を失いつつ、26日にマスバテ島に辿り着いた。その後、紙岡仮編大隊はセブ島に渡り、931名の兵力でメナドヘの渡航を待っていた。

 ところが10月20日、米軍が大挙レイテ島(地図はこちら)のタクロバン方面に上陸した。第35軍は、取り急ぎレイテに送る増援部隊として、独断で紙岡大隊から512名を抽出。大隊長補充要員として軍に配属されていた藤原義雄少佐を大隊長に任命し、レイテに派遣することとした。この部隊は天与の兵力、たまたまこの部隊がセブ島にいたのは天の恵みであるという意味で、「天兵大隊」と命名された。兵は九州出身、大隊長も精鋭の人物と評価されていたようである。

 そして天兵大隊は、10月24日夜に機帆船3隻でセブ島を出発。うち2隻(神風、大國丸)が25日朝にオルモック到着し、大隊は2個中隊編成とされた。26日朝にオルモックに揚陸された歩兵第41連隊(歩兵2個大隊基幹、2,550名)とともに、天兵大隊は第16師団に配属されることになり、同連隊の指揮下でカリガラ平野方面へ進出した。

 その後、10月28日にカリガラの町に到着した天兵大隊は、さらに東方のサンミゲルへの進出を準備していた時、東方から来攻してきた米第1騎兵師団の1個中隊による攻撃(戦車を伴う威力偵察)を受ける。天兵大隊が機関銃で応戦すると、米軍はこれを装備補給の完備した増援部隊と誤断して退却した。この天兵大隊の交戦と、ハロ方面での歩兵第41連隊、独立歩兵第169大隊による抵抗の結果、米軍は第1騎兵師団と第24師団の到着を待ってカリガラを攻撃することとし、ほとんど空に近いカリガラへの進攻を1日遅らせた。

 そしてこの1日が、レイテ戦の戦局全般に極めて大きな意味を持つことになった。11月2日、米軍は重砲により砲撃を行った後、2個師団によりカリガラへ突入したが、町は既にもぬけの殻だった。第102師団参謀・金子中二少佐が、兵力の弱小を危惧して、天兵大隊をカリガラ西南方高地へ下げていたためだった。大岡昇平は、もし11月1日にカリガラが突破されていれば、後に日本軍第1師団と米軍が激戦を繰り広げたリモン峠まで、米軍を妨げるものはほとんどなく、峠の頂上を占領するのは米軍の方が先だっただろうと述べている。天兵大隊は、偶発的な小戦闘から、結果的に想定外の戦功を残したのだった。

 その後、天兵大隊はカリガラの西南、リモン峠の東南の517高地付近に後退。金子参謀の指導の下、歩兵第41連隊、第102師団の2個大隊(独立歩兵第169,171大隊)とともに、ピナ山方面に防衛線を構築する。そして、これまでの戦闘で人員減耗していた天兵大隊はここで解隊されることになるが、この「解隊」については謎が多い。戦史叢書では、「第三十五軍は天兵大隊を解隊し大隊長以外を各隊の補充に充て」とされているが、「この解隊を実施したところ、天兵大隊の兵力は150名で田邊大隊(引用者注:独立歩兵第171大隊)とともに517高地に位置していた」との記述もあり、171大隊以外への配属については何ら言及がない。歩兵第41連隊の事績について詳細に調査した大田祐介氏の「永遠の四一」でも、天兵大隊は11月17日に171大隊に合流したとされており、大隊の残存兵力は、その全てが171大隊と行動を共にした可能性があるものと考えられる。

 また、戦史叢書によれば、天兵大隊長の藤原少佐は11月6日付で第30師団参謀に発令されている。ところが、やはり歩兵第41連隊を取り上げた御田重宝氏の著作には、藤原少佐は第30師団参謀発令後も天兵大隊を率いていたらしい、との記述がある。御田氏は、「中央でどんな命令を出そうと、戦況に影響のないような問題は、現地で無視したか、あるいは既に部隊間の連絡がとれなかった、と解すべきであろうか」と述べているが、実態がどうであったのか、もはや解明する手段はない。

 その後の天兵大隊の動向については、残念ながら文献等で確認することはできない。第102師団は、リモン峠方面の戦況が破断界に達した12月23日にピナ山から撤退し、29日にカンギポット山地区に到達。昭和20年1月5日、師団長・福栄真平中将がセブ島に無断渡航した際には、169大隊の将兵約60名を同行させているが、171大隊はそのままレイテに残留している。天兵大隊員もレイテに残り、171大隊と同様にカンギポット山付近で抗戦したものと思われるが、この地区からの生還者は極端に少なく、具体的な状況は一切不明である。隊員の戦没日は、昭和20年3月17日で一括認定されているようである。


4 セブ島
 天兵大隊のレイテ島派遣後、独立混成第57旅団の仮編大隊の残部(戦記では「紙岡大隊」と呼ばれることがあるため、以後そのように表記)は、そのままセブ島(地図はこちら)に逗留した。そして昭和20年1月、第1師団が地号作戦によりレイテ島から撤退してくると、セブ島北部のダアンタボゴン(タボゴンの南方約4km)に駐屯していた紙岡大隊約500名は、第1師団に配属されることになった。

 その後の紙岡大隊は、
・1月22日以降、歩兵第49連隊、歩兵第57連隊とともにボゴ付近のゲリラを掃蕩
・1月28日以降、57連隊の指揮下でボゴ以北を掃蕩。同時に、ゲリラの跳梁に備え、補給輸送を円滑にするため、イリハン、サガイ、ルゴに大隊の一部を配備し、交通路を確保
・2月21日、歩兵第1連隊の一部とともに、サガイ警備隊を襲撃したゲリラを攻撃
・2月23日、1連隊の指揮下でルゴ−タブレン道を討伐(〜3月2日まで)
・3月13日、1連隊、49連隊とともに西海岸地区を掃蕩
・4月中旬以降、49連隊とともにソゴドに配置され、北上してくる米軍を迎撃
・5月中旬以降、ルゴ西方地区を拠点として随時ルゴ方面に出撃し、遊撃戦を実施
・5月24〜25日、ソゴド西方地区で第1師団の須山参謀、49連隊の小浦連隊長が戦死し、49連隊将兵も大きな被害を受けたため、急きょ紙岡大隊が派遣。同連隊の軍旗及び残兵を収容して師団に復帰するよう指示される
・7月21日、49連隊将兵を守りつつ第1師団司令部に復帰

と、まさに東奔西走といった形で酷使されている。配属部隊の宿命と言えるだろうが、第1師団将兵が激減・疲弊した中で、まとまった兵力を持つ紙岡大隊の存在が貴重だったということでもあるのだろう。

 なお、紙岡大隊が5月に49連隊収容のため出動する際に、セブ島南部の海軍部隊へ合流するため南下する第33特別根拠地隊司令官・原田覚少将ほか2名が同行しており、その時の模様が、同根拠地隊副官の岡田貞寛海軍少佐の手記に描かれている。それによれば、この南下の際に紙岡大尉が率いた兵力は約80名(これが当時の紙岡大隊の全兵力かどうかは不明)。幾度か米軍に発見されつつも、紙岡大隊長の指示でこれを巧みにかわしていく様子が記されており、「剛胆な紙岡大尉」「戦上手の紙岡大尉」と高く評価されている。

 そして8月15日に終戦を迎えると、第1師団の各歩兵連隊は、連隊旗の房と竿頭の菊の紋章を密かに細断し、各将校・下士官に託して日本へ持ち帰ることとし、旗竿の部分を各連隊ごとの軍旗奉焼式で焼却した。終戦を迎えた紙岡大尉も、49連隊の奉焼式に立ち会っている。


5 おわりに
 独立混成第57旅団は、連合軍の上陸がなかったセレベス島に主力が駐屯していたため、あまり振り返られることのない旅団である。しかし、旅団主力に合流できず、ボルネオ・レイテ・セブに分散した各部隊は、いずれも強大な米豪軍を相手に敢闘している。戦史において必ずしも注目される存在ではないが、忘れてはならない部隊であろう。


<参考文献>
1 セレベス島関連
・戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」p58〜59、64、94、124〜125、134、162
・戦史叢書「南西方面陸軍作戦」p291〜292、327
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ3 静かなる戦場」所収、宮地喬「ボルネオ東端タラカン島戦記」p279
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ11 大いなる戦場」所収、藤岡明義「玉砕地ホロ島敗残記」p452
・奥村明「セレベス戦記」(図書出版社)p59、83
・「太平洋戦争ドキュメンタリー第22巻 栄光マラソン部隊」(今日の話題社)所収、了戒次男「謎のセレベス作戦」p114〜115、124、126
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」所収、大竹三吾「セレベス島の思い出」p467

2 ボルネオ島関連
・戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」p196
・戦史叢書「南西方面陸軍作戦」p302、397、399
・戦史叢書「南西方面海軍作戦 第二段作戦以降」p306
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ3 静かなる戦場」所収、宮地喬「ボルネオ東端タラカン島戦記」p279〜280
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ11 大いなる戦場」所収、藤岡明義「玉砕地ホロ島敗残記」p452
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」所収、岩橋学「北ボルネオの作戦」p216
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」所収、辻橋文吉「南ボルネオの作戦」p224

3 レイテ島関連
・戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」p196、277〜278、297、310〜311、348〜349、386、584
・大岡昇平「レイテ戦記」(中公文庫)上巻p109、348〜354
・御田重宝「人間の記録 レイテ・ミンダナオ戦 前篇」(徳間文庫)p252
・大田祐介「永遠の四一」(福山健康舎)p459

4 セブ島関連
・丸別冊「太平洋戦争証言シリーズ11 大いなる戦場」所収、岡田貞寛「セブ海軍部隊の戦闘」p306
・冨田清之助「第1師団レイテ決戦の真相」(朝雲新聞社)p246、296、ほか紙岡大隊関連部分
・第1師団レイテ会「第1師団レイテ戦記」の紙岡大隊関連部分

posted by A at 23:46| 戦史雑記(日本軍) | 更新情報をチェックする