2019年01月03日

ニューギニア戦線のインド兵について

 昭和17年2月にシンガポールを占領した日本軍は、約10万名の捕虜を得た。その中にはインド兵が多く含まれており、一説には、約5万名に上ったとも言われている(戦史叢書「マレー進攻作戦」p626〜627)。

 これらのインド兵の中には、インド国民軍に参加し、インパール作戦に協力した者もいる一方で、ニューギニアやラバウルなど南太平洋戦線に送られ、日本軍への協力を求められた者も少なからず存在する。後者については、これまであまり注目されることもなかったように思われるので、今回は、特にニューギニア戦線に送られたインド兵について、様々な証言などを基にまとめてみたい。

1 ニューギニア戦線のインド兵の数
 まず、ニューギニア戦線に送られたインド兵の数については、「約3,000名」だったとする記録が複数見られる。
 その一つに、第20師団歩兵第79連隊の尾川正二(1970年に第1回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞)の証言がある。尾川は、自著「東部ニューギニア戦線」(光人社NF文庫。以下「尾川書」)の中で、以下のように述べている。

「かつて、英印軍の兵士として、マレー作戦に加わり、日本軍の捕虜となった人々である。その約十万が、話し合いにより、捕虜の身分から宣誓釈放となり、軍務を解かれ、一度は民間人の位置にかえされた。そのうち、半数が志願し、インド国民軍に編入され、スバス・チャンドラ・ボースの指揮下にはいり、インパール作戦などに参加、インド独立のために戦うこととなった。志願の形で、特設勤務隊として、南東方面に向かったものもいる。ニューギニアに来ていたのも、その一隊で、約三千といわれる」(尾川書p141)

 また、オーストラリア政府の運営するウェブサイト「The Anzac Portal」にも、「約3,000名がニューギニアのウエワクに送られた(six companies (approximately 3000 men) were sent to Wewak in New Guinea.)」との記述がある。
 このほか、林博史・関東学院大学教授の論文でも、John Baptist Crasta氏(1933年に英印軍に入隊、戦後はインド軍でも勤務)の著書からの引用として、「ニューギニアに送られたインド人たちはもっと悲惨な運命にあった。3000人中生き残ったのはたった200人にすぎず、ほとんどは飢えや強制労働、病気で死亡した」と述べられている。


2 戦中のインド兵の様子
 いくつかの戦記に、ニューギニア戦線で目撃されたインド兵の様子が描写されている。以下に引用する。

「嗚呼担送に任ずる我が将兵、殊には遙々マレーより大東亜戦に共鳴し、我が軍に協力を誓って渡来した、印度兵や、ネパール人迄が、連続二ヵ月の担送の労苦、思うだに胸迫るの思い、真に感謝感激に堪えなかった」(昭和19年7月頃、アイタペ作戦中に。吉原矩「南十字星」東部ニューギニア会、p236)

「このハンサに、静かな集団を見た。インド兵だという。どうして、こんなところに? という疑問があった。われわれ自身、どうしようもないところまで追いつめられている。戦うべき装備すらない。彼らを養うことすらできぬのではないか。通りすがりにことばをかけてみたが全く通じない。というより、反応しようとする意欲さえ感じられぬ」(昭和19年5月頃、アイタペ作戦の途上で。尾川書p139〜140)

「一六・三〇出発。ラム河渡河点に向かう。はじめてインド人部隊(シンガポール戦の捕虜)に出会う」(昭和19年4月、セピック河湿地帯横断中に。渡辺哲夫「海軍陸戦隊ジャングルに消ゆ」戦誌刊行会、p102)

 また、西部ニューギニア戦線でも、「イドレ死の行軍」に参加した植松仁作大尉(電信第24連隊副官)が、「ニューギニア大密林に死す」(光人社NF文庫)の中で、転進途中の一場面として以下を記録している。

「集落は一棟で、原住民はもちろん一人もいない。その空家を占領して石岡大尉のインド部隊がすし詰めになっている。この部隊は、マレー作戦の時の英軍インド兵で編成したもので、もともと精悍な彼らの顔も、今は青黒く、そのうえ髭はのび放題だから、人相の悪いことこの上ない。(中略)
 七月三十一日、今日も快晴。早々に谷へ洗濯に下りた。もう炊事の人たちが来ているので、遠慮して谷間をもう少し下った。すると、プーンと屍臭がしてきた。
『死体だな』
 下を見ると、二人のインド兵が倒れている。水を飲みにきて倒れたままだろう。
 彼らも、民族独立の情熱を傾け、インド独立を叫びながら、インド国民軍をつくり日本軍と統一作戦をしている。その一部が、どういうわけか、このニューギニアに回ったのだが、この転進では我々同様に次々に倒れていった」(p89,91)

 西部ニューギニアのマノクワリはウエワクから約750kmの距離があるため、これらのインド兵は、ウエワクに送られた約3,000名とは別のグループではないかと思われる。


3 インド兵の写真
 1で掲げたウェブサイト「The Anzac Portal」に、ニューギニアで豪軍に保護されたインド兵の写真が複数掲載されている。
 また、森山康平編著「米軍が記録したニューギニアの戦い」(草思社)にも、ロスネグロス島で保護されたインド人部隊の写真が収録されており(p129)、ターバンを巻いた多数のインド兵たちが写っている。「The Anzac Portal」に、ロスネグロスで69名のシク教徒の捕虜を救出・解放した(When the US 1st Cavalry Division seized the Admiralty Islands they rescued and liberated 69 Sikh prisoners who had been used as labourers at Los Negros.)との記述があり、これらの人々を指すものと思われる。


4 終戦時のインド兵の様子
 昭和20年8月に日本が降伏した直後に、インド兵と接触した際の証言が残されている。第18軍軍医部の鈴木正己軍医少佐は、終戦後の出来事として、以下のような記録を綴っている。

「その日、武装解除が終わってから、私たちは自動小銃を構えたMPの前に一列に並ばされた。そして私たちの列から少し離れたところに、インド兵の一団が立っていて、私たちのほうを注視していた。見るとそこには、昨日私がアンゴラムでみかけたインド兵の姿もあった。
 私たちは一列になってインド兵の前を行進させられ、彼らに敬礼させられたのである。敬礼動作が悪いと、その場で鞭でなぐられた。MPの立ち合いのもとに、インド兵に仕返しをさせたわけである。気の毒だったのは、インド兵を使役した水上勤務隊の将兵であった。彼らはインド兵に目の仇にされ、なぐられたり、薪集めやら荷物運びやらでインド兵にこき使われたのである」(鈴木正己「ニューギニア軍医戦記」光人社NF文庫、p282、284〜285)

 また、飛行第68戦隊の整備兵だった菅野茂上等兵は、以下のように書き残している。

「ほっと、安堵したのも束の間、今度は豪軍憲兵に連れられた五、六名のインド兵が現われた。インド兵は、緒戦の頃シンガポール陥落当時、日本軍の捕虜になり、ニューギニアに送られて強制労働に服していた。食糧が切迫したため、日本軍は彼らを解放した。今度は立場が逆転して勝者になった彼らは、捕虜当時に虐待を加えた者の首実検に現われたものだった。
 私は、インド兵とは接触がなく、虐待したことも殺したこともない。しかし他人の空似という諺もある。私たちがインド兵を見ると、みんな容姿が似ていてみな同じように見えると同様、彼らの目からすれば日本兵も同じように映るのではなかろうか、と思うと不安になった。もし『この男だ』と自分が指されたら最後、この戦場においては、たとえそれが誤りであっても、言い逃れはできない。と、思うと心も凍る。
 ギョロ、ギョロと黒い怨みの眼差しを向けられたときは、全く生きた心地がなかった。氷の刷毛で背筋を撫でられる思いだった。インド兵たちは、代わる代わる私たちの顔を覗き込みながら通り過ぎた。彼らの後ろ姿を見て、ほっと溜息が出て、同時に私は、全身の力が抜けてしまって、崩れるように地べたに座り込んでしまった」(菅野茂「7%の運命」光人社NF文庫、p215)


5 ラバウル戦犯裁判
 戦後、ラバウル・ニューギニア・ブーゲンビル方面の将兵の戦犯裁判がラバウルで行われており、ここで多数の日本軍将兵が、インド兵虐待の罪によりBC級戦犯とされ、絞首刑を含む重刑に処せられている。しかし、これらの裁判には、あまりにも量刑が過重であったり、そもそも不当な裁判と呼ぶほかないものが少なからず含まれている。

 ラバウル戦犯裁判の特異性をよく表す具体例として、角田房子「責任 ラバウルの将軍今村均」(ちくま文庫。以下「角田書」)に記された以下の事例を紹介する。ラバウルの野戦自動車廠に勤務していた3名の下士官が、全くの無実の罪により絞首刑となった事案である。

「刑死した三人と長野(注:野戦自動車廠でインド兵の監督を務めていた曹長)とは共にラバウルの第二十六野戦自動車廠に所属していた。戦後間もなく、長野の管理下にあった百数十人のインド人は、笑顔で彼に挨拶して帰国船に乗った。それを見送った長野は、戦中インド人を好遇したことでよい人間関係を保ち得たと、ひそかに満足したのだが――1945年(昭和20)12月、中隊の三人が戦犯容疑者として逮捕され、それがインド人の告訴によるものと知って、愕然とした。
 長谷川と沼道は『印度外人部隊ガンガー・シタラム殺害事件』で、岸は『印度外人部隊ビンズー殺害事件』で裁かれることになった。だが『殴打による致死』とされているインド人たちが、実際はマラリアと脚気のため休養室に収容され、そこで死んだことを長野はよく知っていた。彼は被告の長谷川、山谷衛生曹長と共にシタラムの臨終にたち会い、『山谷曹長より、当時の状況下では過分の手当を受けての平常死であった』と書いている。ビンズーについても、ほぼ同じ記述がある。“殴打による致死”などとは全くの捏造だ――と血の逆流する思いの中で長野は、とにかく裁判に勝って、三人を救い出さねばならぬ――と心を決した。
 長野は前後八回証人として出廷したが一回ごとに彼の絶望は深まるばかりであった。弁護側がインド人の告訴状についてどれほど多くの疑点を指摘しても、告訴人は法廷にいないのだ。インド人は豪軍の手に告訴状を残して、みな帰国したあとである。従って、反対尋問によって彼らの主張の矛盾をつくことが出来ない。
 『日本兵は殴った、インド人は倒れた、出血した死亡した、何の治療も受けなかった、私はそこにいた』などと書かれた複数の告訴状が、多人数の“目撃者”による事実事項として、そのまま採用されてゆく。インド衛生兵の記録した患者名簿さえあれば、“殴打による致死”が実は病死であったことを完全に立証できるのだが――と長野は歯がみする思いであったが、唯一の物証であるその名簿は終戦時の軍の指令で焼却されていた」(角田書p87〜88)

 このほか、第8方面軍司令官だった今村均大将の「今村均回顧録」(芙蓉書房出版)にも、戦中のラバウルで、怠け者のインド兵の頬を打って無理やり潰瘍の治療をしたり、マラリヤの予防薬である苦いキニーネを飲ませたりしたために、患者を虐待したと告発されて絞首刑となった衛生伍長の話や、同性愛傾向のあるインド人将校に薬を飲まされて強姦されそうになったため、相手を木っ端微塵にぶん殴ったところ、激しい虐待を行ったとして絞首刑判決を受けた伍長(のち有期20年に減刑)のケースなどが紹介されている(p449〜457)。

 そして、ニューギニア戦線の戦犯事案については、ラバウル裁判で弁護人を務めた松浦義教中佐(第38師団参謀)が、その著書「ラバウル戦犯弁護人」(光人社NF文庫。以下「松浦書」)の中で、弁護を担当した特設水上勤務第16中隊の某伍長(のち刑務所内で自決)の証言として、以下を書き残している。

「確かにそういう名のインド人が死んだことは事実です。しかし、絶対に殴ったから死んだのではなく、当時食糧が乏しく、マラリアに犯されてもいましたので、結局、栄養失調で死んだのです。当時のニューギニアの事情ではどうにも…」(p59)

 極限の状況に陥ったニューギニアで、多くのインド兵の死者(そして、日本兵の死者)を出した本質的な理由は、結局のところ、これであろう。インド兵に多数の死者が出たことは大変悼ましく、ただその冥福を切に祈るほかない。4に述べたような終戦後のインド兵の反応の厳しさも、彼らを見舞った過酷な運命を考えれば、忍受するよりほかないものであろうと思われる。

 しかし、その報復として、日本人下級将兵の命を奪うことが正当化されるかどうかは、また別の議論であろう。松浦書には、ニューギニア関係を含む様々な裁判の模様と、処刑された将兵の最期の言葉が多数収められており、読む者の胸に迫る内容となっている。
 こうしたラバウル戦犯裁判について、松浦中佐は以下のような所感を残している。

「ラバウルにおける戦犯裁判は、インド人・中国人労務者に関するものが圧倒的に多い。
(ラバウルで結審した戦犯裁判二百三件のうち、この労務隊関係が百八十三件、そのうちインド人関係が百四件であった)
 この事実は、むろん長期にわたる日本軍支配下の思わざる長期の労務に服した怨みが、その基底に在るのであろう。
 ことに難局のニューギニア戦線では、いろいろ問題もあったと思われるが、ラバウルではそのような酷烈な場面はなく、それでいて何故、かくも大量の戦犯者を出したのか。
 労務隊員たちが、いよいよ本国に帰れると決まった時、彼らの不安は、中国人労務隊は、汪政権下で志願したという問題があり、インド人の場合は、インドはまだ英国領だ。自分たちがインド独立国民軍だったとか、日本軍の宣誓労務隊員となって協力したことなどが、帰国後反逆者として責められるのではないか、ということではなかったか。
 インド独立国民軍は、インド独立の志士チャンドラ・ボースの主宰で、一時インドに進攻したインパール作戦にも参加したことさえあった。
 そういう深刻な不安と憂慮から、今は独立国民軍や宣誓労務隊に入っていたことは一切秘匿して、ただただ日本軍の俘虜になって、強制労働に服したという立場だけを強調したく、したがって連合軍側の立場に身を置いてそれに協力する姿勢。つまり豪軍に迎合するため、その告訴奨励に応じたのではないか。
 いったんそういう姿勢にあったら、わが身を救うためには、針小棒大も、まったくの作りごとも意に介するところではなかっただろう。
 大掛かりな告訴の続出。しかも捏造された告訴の多さは、まったくわれわれの常識と想像を遙かに越えたものだったが、時の形勢と自らの利益に順応したい人心の動き、自己保全の本能とはそうしたものであろう」(松浦書p199〜200)


6 まとめ
 マレー戦で捕虜になったインド兵は、近年、「インド国民軍として日本軍とともに戦った」といったような、「美しい物語」の文脈の中で捉えられがちである。しかし、本記事で述べたように、当時の日本軍はインド兵をニューギニアなど幅広い戦線に送り出し、日印双方にとって不幸な結果をもたらしている。こうした歴史があったことも、同様に認識しておくべきことであろう。
 特に、処刑された日本人BC級戦犯のうち一定数の者が、無実であったことを証明したいと考える者にとっては、こういった事実に触れていくことは、必要不可欠の手続ではないかと思われる。


(2019.2.14追記)
 戦史について精力的に調査を行われている有村悠さんが、「昭和19年5月、東部ニューギニア・ボイキンでインド兵捕虜約400名が『処分』された」とする証言を発見され、ツイートされている。
 このような事案が実際に発生していたのであれば、その関係者が重刑に処されることは当然であろう。本件は、これまで戦記類で取り上げられることのなかった、新たな事実の発見と思われるので、合わせて紹介させていただく。

(2019.4.21追記)
 ニューギニア戦線のインド兵に関しては、以下の各書にも関連記述があったので追記しておく。

・白水清治「激戦ニューギニア」(光人社NF文庫)
 昭和19年3月、第20師団所属の著者がマダンからウエワクへ移動する途中に、ハンサの揚陸場で多数の「インド兵捕虜」が使役されているのを目撃する場面がある(p186)。著者がその中の一人と会話を交わしたところ、彼はシンガポールで野菜屋を営んでいたこと、日英開戦と同時に召集されたこと、シンガポール陥落で捕虜になったこと、妻と子供二人が彼の帰りを待っていることなどを話している。

・田中俊男「陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦」(戦誌刊行会)
 昭和19年後半頃(アイタペ戦後)、著者が山南地区でインド兵捕虜のグループと出会い、困窮している彼らに食糧(サクサク二俵(約二斗強)、タロ芋一網、トウガラシ一籠)を恵与し、非常に感謝される場面がある(p164〜165)。
 同書の記述によれば、彼らは自らを「捕虜となって日本軍の管理下にある」と認識していたこと、貨物廠の管轄下にあったこと、食糧を求めて無断で移動を重ね、所属部隊と連絡が取れなくなっていたこと(つまり、管理があまり厳重でなかったこと)が窺われる。

・中谷孝雄「のどかな戦場」(東都書房)
 西部ニューギニア・マノクワリ支隊に配属されていた著者が、道路建設工事に従事する「インド人の捕虜(志願した兵補という説もあり)」について描写した場面がある(p95〜98)。彼らが作業に対してあまり積極的ではなく、隙あらば怠ける様子が詳しく描かれている。


posted by A at 09:49| 戦史探訪(日本軍) | 更新情報をチェックする