2018年12月23日

ニューギニア戦線・第22飛行場大隊の苦難の転進

 ニューギニア戦線の日本軍は、米軍の「蛙跳び作戦」により、たびたび後方の拠点を攻略された。このため第一線部隊は、サラワケット越えに代表される厳しい転進を余儀なくされ、その過程で多数の将兵が戦没している。

 そうした苦難の行軍を強いられた部隊の一つに、第6飛行師団隷下の第22飛行場大隊(以下「22飛大」)という部隊がある。22飛大は、昭和18年1月に東部ニューギニアのラエに上陸し、過酷な転進を続けたのち、西部ニューギニアのサルミ(一部はバボ)で終戦を迎えている。今回は、東西ニューギニア戦線で数奇な運命に翻弄され続けた、22飛大の足跡についてまとめてみたい。
 なお、ニューギニアの地図としては、こちらこちらを参照されたい。

1 ラエ〜マダン
 22飛大のニューギニア・ラエ上陸から、サラワケット越えを経てマダンまでの行程については、同大隊の一等兵だった高橋秀治氏の「ニューギニア航空戦記」(光人社NF文庫。以下「高橋書」)という本に詳しく記述されている。同書によれば、22飛大は元々ハルピンに駐留していた関東軍の部隊であり、太平洋戦争開戦後、飛行第1戦隊(戦闘)と第11戦隊(同左)からなる第12飛行団を支えてマレー、ビルマを転戦。ついで南東方面に進出し、昭和17年12月25日にラバウルに到着していた。大隊長は天口伊兵衛大尉(少候13期)であった。

 昭和18年1月5日、ラバウルからラエへの輸送作戦である十八号作戦(輸送船5隻、護衛駆逐艦5隻(浦風、磯風、浜風、谷風、舞風))により、22飛大はニューギニアへ進出することとなった。大隊本体に、通信、情報、気象など第6飛行師団関係の各一部隊を追加し、合計約400名の部隊だったという。途中、輸送船5隻のうち1隻(日龍丸)の撃沈により45名の戦死者を出すも、残りの将兵は1月8日にラエに上陸している。

 その後、22飛大は激しい空襲にさらされつつも飛行場整備に努め、第12飛行団を支え続けるが、9月の連合軍上陸により、ラエの日本軍部隊は敵中に取り残されてしまう。こうした状況下で、ラエの第51師団(基(もと)兵団)の中野英光師団長は、サラワケット山系を越えてキアリへの脱出を決心する。ラバウル出発時に約400名だった22飛大を中心とする部隊は、このとき、283名まで減っていたとのことである。

 そして22飛大は、天口大尉指揮の下で敵のラエ侵入を遅滞させた後、9月14日にラエを出発。飢餓と厳しい寒さ、険峻な行路に苦しみつつ、10月中旬頃にキアリに到着。到着できた者の数は207名であり、76名がサラワケット越えで死亡した計算になる。なお、9月に第4航空軍司令官・寺本熊市中将から天口大尉に対して、11月には同中将から22飛大に対して、猛烈な空襲下でラエ飛行場の維持に奮闘努力してきたことについて感謝電報や賞詞が与えられている(戦史叢書「東部ニューギニア方面陸軍航空作戦」(以下「叢書7巻」)のp422,431)。

 その後、22飛大は直ちにマダンへの転進を続けたため、いわゆる「ガリ転進」(注:昭和19年1〜2月にかけて、フィニステル山系で行われた転進。第20師団・第51師団等の将兵約13,000名のうち、約5,500名が戦没)を経験することはなく、11月までにマダンに到着している。なお、高橋氏はマダンで主計下士官候補者要員となり、第十三次ウエワク輸送船団の帰途に便乗してニューギニアを離れたため、高橋書はマダンまでで記述を終えている。


2 マダン〜ホーランジア
 昭和18年11月以降、22飛大がいつ、どうやってマダンからホーランジアへ移動したかについては、残念ながら記録が見当たらない。叢書7巻p620の部隊配置図を見る限りでは、昭和19年2月には既に22飛大がホーランジアに配置されており、この時期までにホーランジアに移動していたことがうかがわれる。少なくとも、4月22日の米軍上陸時点で、22飛大がホーランジアに駐屯していたことは確実である。


3 ホーランジア以西へ
(1)稲田正純少将のホーランジア脱出
 昭和19年4月22日、日本軍の予想を裏切る形で、突如米軍がホーランジアに上陸した。この当時、ホーランジアには第18軍関係約6,600名、第4航空軍関係約7,000名、海軍関係約1,000名、合計約14,600名の兵力があったが(戦史叢書「南太平洋陸軍作戦<5> アイタペ・プリアカ・ラバウル」(以下「叢書84巻」)のp21〜22)、その多くは後方部隊や航空関係部隊であり、陸上戦力として計算しうる兵力はほとんどなかった。久山忍「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」(潮書房光人社。以下「久山書」)所収の、松浦豊少尉(電信第16連隊第3中隊第3小隊長。昭和18年8月にホーランジア上陸)の手記によれば、ホーランジアには「銃の総数は1,000挺、弾薬は小銃1挺につき10発しかなかった」(久山書p124)。結局、米軍はほぼ無抵抗でホーランジアに上陸し、日本軍は約400km西方のサルミへ向けて、過酷な転進を強いられることになった。

 第6飛行師団長心得としてホーランジアに着任したばかりだった稲田正純少将は、ホーランジアの陸軍部隊の総指揮を執ることとなり、4月30日にホーランジア南西のゲニムまで後退。掌握した約7,300名の将兵を10個梯団に分け、自らは22飛大など771名からなる第5梯団を率いて、5月3日にサルミに向けて出発した。しかし、十分食料を携行しないままホーランジアを追われ、道なきジャングルを進むこの転進は、悲惨を極めたものになった。その模様を、第18軍の派遣参謀だった中本太郎少佐は以下のように描写している。

「ホーランジア戦闘に引続き実施されたる四〇〇キロの転進は、未開、瘴癘、ジャングルの連続、進むに道無く、幾多横たわる大小無数の山嶽、湿地、河川を越えざるを得ない。其の間、飢餓、空腹、栄養失調、これに加えるにマラリアの猖獗は機動を益々困難ならしめ、遂に白骨をしてホーランジア、サルミ間の道標たるの感あらしむるに至れり」(叢書84巻p46)

 しかし、こうした戦況の中で、22飛大は稲田少将から高い評価を受けていた。佐藤清彦「土壇場における人間の研究」(芙蓉書房出版。以下「佐藤書」)p250〜251に引用されている、稲田少将の日記の記述を孫引きすると、

「梯団長たらしめし第二十二飛大の天口伊兵衛大尉以下、ラエより山越えの経験者にて行軍力段違いなり。糧食の収集また期待すべし。今夕もバナナ、パパイヤを見付けてくれる。何か採れば必ずまず予に届ける。心懸けのいい男なり」

と激賞している。気をよくした稲田少将は、5月9日、師団司令部(50名)と22飛大将兵(110名)、軍参謀らを合わせた総勢165名のみを率い、サルミへ先行することを決心する(「濠北を征く」(濠北方面遺骨引揚促進会編、以下「濠北書」)所収、稲田正純「第六飛行師団始末記」p238)。

 そして5月31日、稲田少将はサルミの第36師団(雪兵団)司令部に到着し、師団長の田上八郎中将と面会。夜は今田新太郎参謀長(陸大同期、稲田が作戦課長当時の部下)とコップ酒を酌み交わし、そのまましばらく第36師団司令部に逗留。6月12日に、約50名(空中勤務者13名、護衛として22飛大の天口大尉以下20数名含む)を率いてサルミを出発、徒歩と大発で26日にマノクワリ着。28日に双軽二機でマノクワリを出発、ソロン経由でメナド着、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将に面会。29日にダバオ経由でマニラ着、30日に南方軍総司令官の寺内寿一元帥に申告。8月15日、戦場離脱の責任を問われ、停職2か月の処分を受けている。
 このような稲田の行動を、電信第16連隊の松浦少尉は以下のように評している。

「この頃稲田師団長は、第三十六師団長と会合し航空部隊の悪口のみを述べ、自らは司令部高級部員と一部の空中勤務者を伴い、部下七千名の擁護を要請せずして、師団再建の美名のもとにマノクワリ経由フィリピンへ逃亡したのである」(佐藤書p263〜264)

 こうした見方に立てば、部下将兵の大半をサルミ以東に置き去りにして、自らはマノクワリへ脱出した天口大尉も、やはりその行動への批判は避けられないだろう。もっとも、マノクワリに移動した22飛大将兵は、稲田のニューギニア脱出には同行せず、マノクワリ南方のバボ(こちらの赤色着色部分)付近で終戦を迎えたようである(叢書22巻p675)。

(2)サルミ残留部隊の悲劇
 ホーランジアからの撤退部隊は、飢餓と病に苦しみながら、5月末頃以降、ようやくサルミ手前のトル河付近に到着し始めていた。ところが、サルミを守る第36師団は、転進部隊がトル河を渡ることを許さなかった。既にサルミにも米軍が上陸し、激戦中だった第36師団は、飢えきった転進部隊が陣地内に乱入し、収拾がつかなくなることを極度に警戒忌避していたのである(叢書22巻p554)。

 そして、サルミでの給養を期待して、どうにかトル河まで辿り着いた転進部隊は、飢餓と衰えの極みにある中で渡河を禁止され、文字通り地獄の様相を呈した。当時の転進部隊の様子について、関連戦記からいくつかの記録を抜粋する。

「このころ、流言飛語が飛び、転進各部隊の動揺がはなはだしかった。その流言飛語とは、
『トル河を渡河すれば第三六師団は作戦の邪魔になるので、たとえ友軍でも射殺する』
 というものである。
 我々ホーランジアの転進部隊はここで完全に行きづまった。トル河を渡河して友軍である第三六師団と戦うか、現地にとどまって餓死するかの岐路に立たされたのである。(中略)
 行く先々でドンア集落で見たのと同じ情景を見た。佐官級の将校の死体もあった。行動する体力も気力も尽き果て、ただ横たわっている光景が至るところにあった。みな疲労困憊し、飢餓のためやせおとろえている。目はくぼみ、被服も汗と泥で変色し、力なくたむろしている。その情景はまさに幽鬼の群れそのものであった」(久山書p143)

「某准尉は、ほとんどだめと思える部下の一人を木陰に寝かせ、翌朝様子を見に行くと、もうほとんど骨だけの姿になって銀バエが群がっていた。野豚のいたずらか、鳥の群の仕業か、それとも日本兵による解体か、いずれとも断定はしかねた。数日後、野草を飯盒で煮ていると、見知らぬ兵士が近づいてきて、『野豚をたべないか。ここで炊いてよろしいか』と火のそばに腰を下ろした。見ると、彼がかついでいる天幕の包みから人間の足が出ている。准尉はつねづね、『人間が人間の肉を食ってはいかん。自家中毒になる』と部下に言っていたので、背筋が寒くなるのを覚えた。さらに数日後、今度は部下の一人が『野豚、たべませんか』と、飯盒の肉を見せた。准尉は、その黒ずんだ固い肉に岩塩をまぶすようにして食べた。その後、准尉は、戦病死した兵を、一人だけでなく三人の肉を軍刀で切って食べた。『あの時、私は正常な人間でなく、鬼畜と化していたのだろう』、戦後、そう語っている」(佐藤書p269)

「少年飛行兵出身者が一人、トル河で飯盒を洗っていると、いきなり三人組の兵に連れ去られたという話を聞いた者もいる。半ば常習犯と化していたらしいその三人組も、『生きた戦友の肉を奪うものは射殺』の命令によって、やがて上官に射殺された、という。これとは別に『きのうの肉は少年飛行兵で若いからうまかった』という会話を耳にした兵もいる」(佐藤書p269〜270)

「道筋に将校の倒れている姿も少なくない。五キロも歩いたころ、ラワンの木に背をもたせかけ、両手で軍刀を持ったままうずくまっている中佐がいた。ふと見ると、転進のとき松浦隊のすぐ前にいた第十梯団の梯団長、第百十三病院長の陣内中佐である。松浦少尉は『病院長殿、陣内中佐殿』とゆすったが、心臓は動いているものの、瞳孔は開いたままであった。衛生兵が中佐の図嚢を調べたが、注射器が二本入っているだけだった。中佐だというのに、当番兵もついていない。たった一人で、トル河右岸の惨状を訴え、薬物の供与を求めるつもりだったのだろうかと松浦は想像した。すでにミイラのような形相であった」(佐藤書p272)

「トル河右岸からそうであったが、軍隊としての規律は完全になくなっていた。死んだ将校の肩章を盗み、軍刀、拳銃をもち、勝手に将校になりすまし、少しでも食糧をもっている者がくると射殺し、わずかな食糧をうばうという5、6人の強盗団のようなグループがあった。
 岡本参謀(注:第6飛行師団作戦主任参謀の岡本貞雄中佐。稲田少将に同行せず転進部隊に残留し、各隊から感謝されていた)は部隊長で合同会議を行ない、各隊から射撃の名手を二名ずつ選抜し、討伐隊を組織し、ついに11人を射殺した。強盗団のなかには少佐の階級章をつけた者もいた」(久山書p153)

 こうした状況の中で、稲田少将から精鋭と見なされていた22飛大は、第五航空通信連隊、第十三野戦飛行場設定隊とともに、稲田少将から第36師団に「いますぐ役立つ」と推薦され、例外的にトル河を渡ることを許可されていた(佐藤書p266)。そして、第36師団の直接指揮下で戦闘任務につき、終戦まで無難に任務を果たしたとされている(叢書22巻p459,671)。

 一方で、トル河渡河を許されなかった部隊は、一部の第36師団将兵から厳しい仕打ちを受けながらも、辛うじて約2,000名が6月下旬まで生き残った。米軍との交戦で兵力を減らしていた第36師団は、この頃になると、これらの部隊がサルミ北西6kmのシハラ(シアラ)地区に集結し、現地自活を行うことを許可していた。転進部隊はようやくトル河を渡ることができたが、既に「病人と負傷兵ばかりで、被服は破れ、靴をはいている者もまれであった。ホーランジアから転進をはじめた53の部隊のうち、全員が死亡した部隊が4、生存者が5人以下に減少した部隊が25」(久山書p153)という状態だった。

 そして、辿り着いたシハラも平和な地ではなかった。海岸に近いシハラ地区は、連日の爆撃とともに艦砲射撃にもさらされ、主要な将校でさえ次々と戦没した。5月17日に北川季人中佐(第四航空情報連隊長)、6月8日に泊重愛少佐(飛行第78戦隊長)、6月10日に恩田謙蔵大佐(第14飛行団長)、7月5日に齋藤武夫大佐(第18航空地区司令官、初代シハラ地区司令官)、7月15日に森玉徳光少将(第30飛行団長)、7月25日に船山正夫大佐(第14野戦航空修理廠長、第2代シハラ地区司令官)、8月5日に原孫治少佐(飛行第63戦隊長)、10月20日に岡巖少佐(第14野戦航空補給廠長、第3代シハラ地区司令官)などである(濠北書所収、折茂一郎「ホルランジャ、サルミ附近陸軍航空部隊の最後」p353〜354)。こうした状況から、当時トル河は「命とる河」、シハラは「死原」などと呼ばれていたそうである。

 その後、第209分廠長の折茂一郎少佐が第4代シハラ地区司令官となり、苦労して開墾を続けながら、翌年8月の終戦を迎えている。濠北書p355〜356には、以下のような折茂部隊の編成表が掲載されている。

@本部 白城子陸軍飛行学校材料廠第209分隊、第20、22(一部)、209(一部)飛行場大隊、第4航空情報連隊、第6航空移動修理班
A本隊 第4航空軍司令部(残留員)の一部、第6飛行師団司令部、第14飛行団司令部、飛行第10、28、33、34、61、63、68、75、77、78、248戦隊、独立飛行第83中隊、第7輸送飛行隊、第38飛行場大隊、独立工兵第36連隊
B駒野隊 第4航空軍司令部(残留員)の一部、白城子陸軍飛行学校教導飛行団司令部、第86飛行場中隊、第2航空移動修理班、第14野戦航空補給廠、第12野戦気象隊、陸上勤務第81中隊、建築勤務第31、52中隊
C立川隊 野戦高射砲第66大隊、独立野戦高射砲第39中隊、野戦機関砲第39中隊、独立野戦照空第3中隊、第2、第5航空通信連隊、第4航空情報連隊
D菊岡隊 飛行第208戦隊、第209飛行場大隊、白城子陸軍飛行学校材料廠第209分廠の一部、第11航空移動修理班、第6航測隊、第1航空路部、第13野戦気象隊、陸上勤務第73中隊の一部
E久田隊 第14野戦航空修理廠、陸上勤務第73中隊
F大島隊 第22飛行場大隊

 以上を見ると、「@本部」と「F大島隊」に、22飛大の名前が見える。22飛大がどういう経緯でシハラにいたのか、例外的にトル河渡河を許可されていた将兵もその後シハラに回されたのか、詳細はよく分からない。ただ、ホーランジアに駐屯していた約14,600名のうち、シハラで終戦を迎え、日本に生還できた者がわずか500名足らず(濠北書p362)であったことを考えると、いずれにせよ22飛大の生還者も少なかったのではないかと思われる。

 なお、シハラから生きて還った人々は、戦後「白梅会」という戦友会をつくった。ちょっと戦友会らしくない、優美な会名の由来は、「雪(第36師団)にどんなに痛めつけられ、迫害を受けても、それに耐え、やがて春には白い花を咲かせて見せる」という意味だったという(久山書p154)。佐藤書が刊行された2003年当時、22飛大の曹長だった花輪久夫氏が、「白梅会」の会長を務めている。

posted by A at 10:55| 戦史探訪(日本軍) | 更新情報をチェックする