2018年10月13日

【本】中村紘子「チャイコフスキー・コンクール」

「チャイコフスキー・コンクール ピアニストが聴く現代」 中村紘子/中公文庫/1991年
(初版は、1988年に中央公論社から刊行。また、2012年に新潮文庫からも刊行)

 1986年に旧ソ連で開催された「チャイコフスキー・コンクール」の審査の内情を描きながら、プロのピアニストたちが置かれた環境や、彼らが世に出るプロセスなどを詳述した作品。1989年大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

 女流ピアニストとして広く知られた著者が、国際的に著名なピアノコンクールである「チャイコフスキー・コンクール」に審査員として参加し、その審査の模様を赤裸々に描いたノンフィクションである。案外いい加減な態度を取りながらも、見るべき所はきちんと見ている各国審査員の様子や、コンクール参加者の個性的な振る舞いなどが、率直な筆遣いで綴られていて面白い。ユーモアを交えつつも、結構シビアで容赦ない著者の観察眼を、存分に堪能できる一書である。

 それに加えて、本書の中では、世界各国からのコンクール参加者の奏法の違いや、その背景となる教育方法の違い、あるいは、名ピアニストの出現が各国に及ぼす影響などについても考察が行われており、いわば一種の優れた比較文化論にもなっている。ピアノという一つの切り口から、これだけ思索の幅を広げられるのは、著者の随筆家としての卓越した技量を示すものであろう。

 ところで、著者の夫である芥川賞作家・庄司薫のwikipediaのページには、著者の作品について、庄司による代筆の噂があることが記されている。本書を読んだ感想としては、コンクール審査の舞台裏や自身の体験談が瑞々しい筆致で綴られている一方で、ひどく観念的で硬質な議論(例えば、p103〜104のバッハ論)が展開されている部分もあり、文章の雰囲気が一貫せず、ややちぐはぐな印象を受ける面もあった。また、「なんだかひどくガンバッテル気分にさせられるのだった」(p202)といったような、いかにも庄司薫的な表現も見受けられた。

 とはいえ本書は、全体を通じて、プロのピアニストとしての経験を積んできた著者でなければ書けない内容で占められており、それらをすべて庄司が代筆したとは到底考えられないだろう。部分的に、庄司によるチェックや加筆修正が入っている箇所はあるのかもしれないが、そうした事実を示す証拠や独白は、当然ながらどこにも存在しない。庄司ファンとしては気になる論点ではあるが、著者が幽明境を異にした今、この辺りを掘り下げようとすることは、そもそも無粋な真似なのかもしれない。

posted by A at 19:56| 本(ノンフィクション) | 更新情報をチェックする