2018年09月17日

広中一成氏らの見解への疑問(高木俊朗の作品について)

 前回、牟田口廉也の宴会エピソードに関する記事を書いたが、その後、再びジセダイ総研に、「昭和陸軍と牟田口廉也 その「組織」と「愚将」像を再検討する」という座談会レポート(以下、単に「レポート」と呼ぶ)が掲載された。
 このレポートの内容にも疑問点が多々あるので、改めて検証してみたい。

1 「抗命」と「戦死」の記述の重複説について(1)
 レポートの中では、以下のようなやり取りが行われている。

「広中:たとえばですが、高木俊朗の『抗命』の中に、牟田口が第十五軍司令部に作らせた遥拝場の前で、撤退してきた幹部の前で長々と精神訓話を垂れて、栄養失調の幹部たちがバタバタと倒れた......という有名な逸話があります。
辻田:ああ、誰でも知っているようなやつですね。
広中:ところが、おなじ高木の『戦死』にはこれに極めて類似した逸話が、桜井徳太郎のものとして出てくるんですよ。こうなると、実証史学的にはどちらも採用できない。証言者についてもぼかされている。」

 これらは、高木俊朗「抗命」(文春文庫版)のp243〜245、「戦死」(同)のp319の記述のことを指すものと思われるが、「抗命」のp243では、
「情報班の中井悟四郎中尉は『歩兵第六十七連隊文集』第二巻に、次のように記述している。」
と、この逸話の出典は明確に示されている。「証言者についてもぼかされている」との発言は、事実に合致したものではない。

 また、「戦死」の記述については、同書のp319〜322で、桜井徳太郎歩兵団長の「訓示」(こちらには出典の記載がない)が紹介されている。その中で、牟田口の逸話と類似するのは、

「一地固守の任務を有する部隊が、弾丸のある限り、力の続く限り、手を切られたら足で戦い、手足を切られたら、口で噛みつき、息が絶えたら怨霊となって敵を悩ます」

の、下線を引いた1行に満たない部分だけであり、「戦死」に掲載されている全56行の長文の桜井訓示を読むと、牟田口逸話とは全く異なる内容であることがよく分かる。
 そして、この牟田口と桜井の類似発言の元となったのは、「葉隠」の聞書第七の、

「刀を打折れば手にて仕合ひ、手を切落さるれば肩節にてほぐり倒し、肩切り離さるれば、口にて、首の十や十五は、喰切り申すべく候。」

という部分であろう(詳細は、こちらの「八七〇」を参照)。つまり、牟田口と桜井の発言は、両者が「葉隠」から同じ表現を引用し、それがたまたま被っただけと見るのが自然であり、これをもって「逸話の重複」とするのは、かなり無理のある主張ではないか。

 なお、wikipediaの「牟田口廉也」のページでは、このような無理筋の話を掲載したり、「参考文献」の項目の高木俊朗の著作に、わざわざ「以下は小説である」という断り書きを付けたりと、以前から、高木作品の信憑性の低さを印象付けようとする試みが見受けられる。旧軍の問題点を厳しく批判する著作であるだけに、高木作品は、一部の層にとっては目障りな存在なのだろうか。


2 「抗命」と「戦死」の記述の重複説について(2)
 また、1でレポートを引用した箇所の、広中氏の発言の中に、「こうなると、実証史学的にはどちらも採用できない」との言及がある。

 しかし、同じような逸話が両書に記載されているからといって、「どちらも採用できない」と即断することはできず、まずは両者の出典の内容を確認すべきなのではないか。中井中尉の手記をチェックした上で、「『抗命』の記述には明確な出典があるが、『戦死』の方は出典が確認できず、『戦死』の記述に関しては事実関係が疑わしい」という見解が示されるのであれば分かるし、「中井手記を調べたが、このような理由によって、『抗命』の記述も信憑性がないものと判断した」との説明がなされるのであれば、それもひとまず傾聴すべき主張であろう。
 一般的に、「実証史学」では、このような面倒な確認作業は行わないものなのだろうか。

(2018.12.23追記:桜井訓示についても、「戦死」のあとがき(p364)に、出典が桜井の日記であることが明示されていたので補足しておく。高木は桜井本人に対し、日記を「戦死」に引用することについて承諾を求め、快諾を受けているとのことである。)


3 牟田口と藤原の「腹切り問答」について
 また、レポートの中では以下のやり取りがある。

「辻田:切腹の逸話はどうですか?
平林:参謀だった藤原岩市の証言ですね。腹を切ろうかと思うと言った牟田口に対して、古来より腹を切ると言って切ったものはいない、切腹するなら誰にも言わずにしろ......というような応答があったという。
広中:この証言も取り扱いが難しくて、藤原ってインパール作戦推進派だったんですよ。なので、このような会話があったとしても、ニュアンスまで正確かどうかはわからない。だいたい、この藤原証言のなかで、本人はインパール作戦の実施に積極的であったことを隠していますから。」

 まず、この腹切り問答が「藤原岩市の証言」という点が間違っており、これは第15軍司令部情報班で藤原の部下だった、上述の中井悟四郎中尉の証言である(「抗命」p277に明記されている)。中井中尉は、上司として仕えた藤原の働きぶりを高く評価していた人物であり、この場面を描写するに当たって、作戦推進派だった藤原の無責任な言動を、あえて追及する動機は持っていないものと考えられる。
 つまり、レポートのこの箇所は、そもそも議論の前提を誤った上で、高木作品の信憑性を疑おうとしている。登壇者全員が単純に事実誤認を犯していたのか、故意なのかは知らない。


4 回想録の取扱いについて
 実証史学における回想録の取扱いについて、広中氏は、レポートの中で、「やはり、実証史学ではできるだけ回想録は使用すべきでないんです」との発言をされている。

 一方で、広中氏の著書「牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか」(星海社新書)の参考文献には、深沢卓男「祭兵団インパール戦記」、斎藤政治「『烈兵団』インパール戦記」、前田正雄「菊兵団ビルマ死闘記」のような、第一線で戦った将兵の回想録が複数含まれている。この中でも、特に深沢の「祭兵団インパール戦記」は、どこまで本当か分からないような個人的な自慢話を書き連ねた、かなり読むに堪えない一書である(あの光人社が、何故こんな本をNF文庫に加えたのか、以前から疑問に思っている)。実証を旨とするのであれば、このような本は真っ先に除外されるべきではないか。

 あくまで個人的な感想だが、回想録の取扱いについては、実際に様々な回想録に触れた上で、不正確な記述は他の根拠をもって否定すればよいのであって、入口で回想録の類をシャットアウトしようとするやり方は、あまり望ましいものではないように思われる。前回の記事でも触れたが、公的史料や高級軍人の記録のみに依拠して議論を展開しようとすれば、公的サイドに都合の悪い情報は必然的に捨象されることとなり、導き出される結論に偏りが出てくることは、どうしても避けられないのではないか。
 私自身は歴史学の専門的な教育を受けていないので、単なる素人の印象でしかないが、実証史学が売れないとすれば、それは「面白くないから」ではなく、アプローチの潔癖性にこだわるあまり、議論の着地点が正鵠を射ていない場合があるためではないか(前回の広中記事を見た限りの感想だが)。


5 終わりに
 ここまで厳しいスタンスで書いてきたので、念のため追記するが、これまでの広中氏の研究業績は、高く評価すべきものと思う。特に、太平洋戦争開戦までの日中関係の研究については、学術的にも手薄と思われる分野であり、今後、20年、30年と長く研究され、発言を続けていただきたいと思っている(同年代の方のようなので、個人的にも応援している)。

 だからこそ、先月以来の高木俊朗をめぐる広中氏の主張は、氏にしてはあまりにも杜撰であり、非常に残念なものと言うほかない。失礼を承知で申し上げれば、氏自身が設定した「牟田口は過剰に貶められているのではないか」というテーマを立証しようとするあまり、内容を十分に精査せず、拙速に発言され過ぎているのではないか。こんな無名のブログで何を言おうが、ご本人が御覧になることもないと思うが、一歴史ファンとして触れずにはいられなかったので、今回の記事を書いた。


<余談>
 広中氏の「牟田口廉也」を読んでいて気付いたのだが、盧溝橋事件の際に牟田口の部下だった歩兵砲隊長の「久保田尚平大尉」は、後にルソン島で久保田支隊(詳細はこちら参照)を率いた、捜索第23連隊長の久保田尚平中佐と同一人物なのだろうか(一木清直が少佐の頃なので、階級は大体符合しているように思われる)。
 もしそうだとすれば、盧溝橋事件に部隊長として関わった人物は、河辺正三(旅団長)と牟田口(連隊長)がインパール作戦、一木清直(大隊長)がガダルカナル戦、久保田尚平(歩兵砲隊長)がルソン戦、小岩井光夫(中隊長)がポートモレスビー・ギルワ戦と、後の太平洋戦争で軒並み厳しい戦場に送られたことになる。偶然の結果に過ぎないのだろうが、無情な運命である。


<インパール作戦についての備考>
 インパール作戦の概要については、防衛省(防衛研究所)のサイトに掲載されている、元一等陸佐・防衛大学校教授の荒川憲一氏の論文が、よくまとまった内容になっている(こちら参照)。本作戦にご関心のある方には、この論文の参照を薦めたい。


posted by A at 13:50| 戦史探訪(日本軍) | 更新情報をチェックする