2018年08月11日

【本】河田槌太郎「イラワジ河河畔会戦」

「イラワジ河河畔会戦」 河田槌太郎著、河原六蔵・大塚雅彦編/朝文社/1995年

 インパール作戦の抗命撤退で知られる佐藤幸徳中将の後任として、第31師団(烈兵団)の師団長を務めた、河田槌太郎中将の手記。

 太平洋戦争のインパール作戦では、3人の師団長(柳田元三、山内正文、佐藤幸徳)が解任され、その後任として、田中信男、柴田夘一、河田槌太郎の3将官が任命された。このうち第15師団長の柴田中将は、師団長としての資質に疑問符が付くような言動が散見され、昭和20年2月に更迭、予備役編入となっている。また、第33師団長の田中中将(着任当時は少将)は、その部隊指揮を高く評価する意見のほか、BC級裁判の責任を部下に押し付けようとした証言なども見られ、なかなか一面的な評価が難しい部分がある。

 こうした両師団長と比べると、第31師団長となった河田中将は、当時の部下・関係者からの評判は、それほど悪くなかったように思われる。例えば、型破りな万年上等兵だった高崎伝氏が著した戦記「最悪の戦場に奇蹟はなかった」には、戦後の捕虜収容所での出来事として、以下のようなエピソードが紹介されている。

「…翌日、広場に全員集合がかかった。『烈』師団長河田槌太郎中将が現れて、百二十四連隊の演芸部の石垣兵長(注:石井漠の門下の踊り手。捕虜を慰労するための演芸部に所属し、声望を集めていたが、マラリアで病没)の死をつたえ、河田中将の号令で、石垣兵長の英霊に一分間の黙とうをささげた。そして、河田中将は、一声張りあげて、

『わしは職業軍人で、男が女の踊りなぞするのは、あまり好きじゃなかったが、タトンいらい石垣君の踊りを見て、そのすばらしさに感激していたやさきに、こんなことになって、石垣君、ならびにご家族に申しわけないことをした。責任は、演芸をやらせたわしにある。わしが石垣君を殺したのだ……石垣君、すまんことをした。どうか、この河田をゆるしてくれ……』

と河田閣下は、目にいっぱい涙を流して語った。これには、満場の兵隊たちの方がおどろいた。インパール撤退時に、抗命事件の佐藤幸徳中将(注:兵隊の人気が高かった)と交替した河田中将だ。名前からして、カワッタ野郎がきたと、兵隊たちはかげ口をたたいていたが、今日のことで兵隊たちは、河田中将を見なおした感があった」

 また、インパール作戦末期の惨状のさなかに烈兵団に着任した河田中将が、

「地下足袋を踏みしめ、六尺の棍棒をふりあげ、将校、兵の区別なく大音声で叱咤して激励した。その様子は狂人とも思えるほどだったが、河田中将の一念で将兵の一部は立ちあがり、追尾する英軍にピンポンサカンで応戦し、敗軍の渡河を助けることができた」

との秘話(児島襄「太平洋戦争」)や、昭和20年6月当時、ビルマ方面軍総崩れの中で、方面軍参謀が申し出た困難な作戦を厭わず引き受けたこと(後勝「ビルマ戦記」)、復員の際に、中将を慕う部下たちが「送別歌」を作って送ったこと(本書)、旧制高校の配属将校だった頃に、学生たちがよく家に遊びに来ていたこと(同)など、中将の人柄を偲ばせる余話は少なくない。総じて見れば、「部下を大事にする、血の通った将官」という人物像が浮かび上がってくるように思われる(ただし、麾下の参謀との確執を窺わせる逸話などもないわけではない)。

 そして本書は、昭和39年に没した河田中将の遺稿を預かっていた編者の河原氏(東京帝大2年時に学徒出陣、第31師団司令部で勤務。終戦時中尉)が、この原稿を後世に残したいと考えていた中将の意を汲み、平成7年に刊行したものである。内容は、戦記というよりも、極めて事務的な作戦報告書とでも言うべきものであり、残念ながら未完で終わっている本でもある。史料的な価値はともかく、読んで面白い書物では決してない。

 ただ、そうした地味な本が、没後30年以上を経て出版されていること自体が、中将が部下から敬仰される人物であったことを、端的に示す事実と言えるだろう。戦後、河田元中将は、静岡から仕入れたお茶をリュックに背負い、行商をして生計を立てたとのことだが、こうした飾らない生き方も、復員後に瀬戸物屋を営んだ同じビルマ戦線の名将、宮崎繁三郎あたりと一脈通じるものがある。宮崎中将は、インパール戦線からの撤退時に、傷病者を一名も取り残さないよう厳命したことで知られているが、その宮崎とほぼ入れ違いで烈兵団に着任した河田中将も、その後の退却戦の中で同様の命令を下し、戦傷者・戦病者の収容に努めたとのことである。

posted by A at 22:57| 本(戦記) | 更新情報をチェックする