2016年09月22日

西部ニューギニア戦線・歩兵第221連隊第3大隊の壊滅

 以前のサンドイッチ部隊の話に続き、またニューギニア戦の話題を取り上げてみたい。

 昭和19年5月に西部ニューギニア・マノクワリに上陸した歩兵第221連隊第3大隊は、ほとんど敵軍と戦う機会を持たなかったにもかかわらず、実に9割以上もの戦没者を出して壊滅した。戦史作家・久山忍氏が著した「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」(潮書房光人社/2012年)に詳しい証言が収録されているが、今回はこの本を基に、同大隊が辿った悲惨な運命を追うことにする。

1 西部ニューギニアへの進出
 太平洋戦争中の昭和18年9月。大本営はいわゆる「絶対国防圏」を設定し、西部ニューギニアはその最前線となった。同年11月、満州から西部ニューギニアに進出した第2軍司令部は、米軍の来攻時期を昭和19年後半から20年頃と予測し、それまでに西部ニューギニア各地に合計25個の飛行場を造成する目標を立てた。そして、11個の野戦飛行場設定隊を始めとする、大量の後方部隊が西部ニューギニアに投入されたのだった。

 こうした状況の中で、第2軍司令部が置かれたマノクワリには、約2万名の軍人・軍属が派遣されていた。ただ、そのほとんどは飛行場建設にかかわる土木労務者や軍司令部の後方部隊であり、戦闘部隊は皆無に等しい状態だった。ところが、米軍は早くも昭和19年4月に、同様に後方部隊が駐屯していたニューギニア中部のホーランジア(現ジャヤプラ)に、また5月には、第36師団が守備するサルミとビアク島にも上陸し、マノクワリへの来攻も旦夕に迫ったものと考えられた。

 このように情勢が急迫していた昭和19年5月、ようやくマノクワリに戦闘部隊が進出した。北支戦線からニューギニアに転用された、第35師団歩兵第221連隊の第2大隊と第3大隊である。このうち第2大隊はすぐにビアク島に投入され、後に玉砕に至るが、連隊本部と第3大隊を中心とする約1,000名の兵力は、そのままマノクワリの守備に就いた。後方部隊ばかりのマノクワリで、軍旗を頂く戦闘兵種の存在は大いに頼もしがられたという。


2 過酷な使役
 歩兵第221連隊第3大隊は、マノクワリ上陸時にわずか1週間分の食料しか持っていなかったが、十分な給養も与えられぬまま、ただちに敵上陸に備えた陣地構築に駆り出された。ニューギニアの厳しい自然環境の下、硬い珊瑚礁を相手にした手作業の塹壕掘りは、兵士たちを大いに苦しめた。次いで7月以降、陣地間をつなぐ自動車道路建設工事にも使役され、既に栄養失調とマラリアで衰弱していた兵士たちは、過重労働の中でばたばたと死んでいった。

 そして、ついに米軍の上陸を迎えないまま、マノクワリがすっかり戦線の後方に取り残されていた昭和19年10月。マノクワリ支隊長だった深堀游亀少将は、各部隊に完全自活を命令し、一切の食料配給を停止した。軍の補給廠にはまだ物資の集積はあったが、後方からの補給が期待できなくなった戦況にかんがみ、それぞれの部隊に自ら食料の調達を求めたのである。早くからマノクワリに進出していた各部隊は、既に自前の農園を拓き、一定の食料の備蓄もあったが、最後にマノクワリに到着し、その後も土木作業に使役され続けてきた歩兵第221連隊第3大隊は、農地も食料もほとんど保有していなかった。飢餓と病と過酷な工事に苦しんできた兵士たちは、その日の食料にも事欠く有様となり、いよいよ破滅の瀬戸際に立たされた。


3 壊滅
 昭和19年11月。第3大隊の一部の兵士たちが、他部隊の倉庫から食料を盗み出す事件が発生した。元はと言えば、この大隊が窮地に陥った原因は、マノクワリ支隊による苛烈な使役と、公平性を著しく欠いた食料配給停止措置にある。ただ生き延びるために食料を奪った兵士たちを責めるのは、あまりにも酷であろう。しかし支隊司令部は、大隊に対する懲罰として、事件を起こした第3大隊の第10中隊、第11中隊、第12中隊を、「ワルパミ峡谷」へ移駐させる命令を下した。

 ワルパミ峡谷は、加東大介の名著「南の島に雪が降る」にも、「ワルバミ」という地名で登場している。日光が入らない狭隘な湿地帯であり、農耕に適する土地もなく、到底人間の住める環境ではなかったという。この移駐命令の結果、それぞれ200名程度の人員を有していた各中隊のうち、戦後日本に生還できた者の数は、以下のとおりとなった。

 第10中隊 0名
 第11中隊 1名
 第12中隊 2名

 これらの中隊は精強を誇った現役兵部隊だったが、まともに敵と戦わないまま、とうとう全滅状態に追い込まれた。久山書にもさまざまなエピソードが紹介されているが、率直に言って、マノクワリの軍上層部は、およそ正常な神経で統率を行っていたとは思われない。第3大隊のその他の各部隊(第9中隊、機関銃中隊、歩兵砲中隊、通信隊)でも餓死者・病死者が続出し、存続困難となった大隊は、結局、昭和20年6月1日付けで解隊されている。


4 最後に
 冒頭に掲げた戦史作家・久山忍氏は、西部ニューギニア戦線について、以下のように総括している。

「西部ニューギニアでは、無用な行軍、無意味な作戦、無慈悲な命令によって死んだ兵たちがおびただしかった。私の私見であるが、もし、仮に、西部ニューギニアのすべての各指揮官が適切な指揮能力を発揮していれば、七万以上といわれる西部ニューギニアの死者は半分以下におさえられたのではないか」

 久山氏による「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」は、こうした悲惨な西部ニューギニア戦線を生き抜いた兵士たちの証言を、丁寧に掬い上げた労作である。上記に掲げた歩兵第221連隊第3大隊の苦難の過程は、ほんの概要だけを簡単にまとめたものに過ぎない。西部ニューギニア戦史に御関心のある方は、ぜひ同書を手にとっていただければと思う。久山氏が言うように、まずは「知る、ということが、死者に対するもっとも良い供養になる」のではないかと思われる。

(追記)
 西部ニューギニア戦関係では、「イドレ死の行軍」についても別記事に詳しくまとめました。


posted by A at 14:30| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする