2016年06月04日

ガダルカナル戦のしんがり、一木支隊

 ガダルカナル島の戦いの「一木支隊」といえば、この戦いの先陣を切った部隊としてその名を知られている。昭和17年8月20〜21日に、一木支隊の第一梯団916名がガダルカナル戦の第一次攻撃を敢行、奮戦したものの衆寡敵せず、ほぼ全滅に近い損害を蒙っている。その後、一木支隊の第二梯団(約1,000名)もガ島に送られ、川口支隊による第二次攻撃に参加している。

 これらの戦闘と、その後の飢餓を経て生き残った一木支隊の残存将兵は、ガダルカナル戦の最終盤まで島に残って敵を食い止め、最後の撤退でガ島から撤収している。今回は、戦史叢書(「南太平洋陸軍作戦1」及び同「2」)と、亀井宏「ガダルカナル戦記」、そして「丸別冊 最悪の戦場 ガダルカナル戦記」に所収された「ガ島への先陣「一木支隊」の戦歴」(著者:山本一・元中尉、当時一木支隊本部付)を基に、一木支隊のガダルカナル島への上陸過程と、その後の戦闘経過についてまとめてみた。

 まず、山本元中尉の手記によれば、一木支隊の編成は以下のとおりだった。

〔一木支隊第一梯団〕
○支隊本部
 支隊長  一木清直大佐(歩兵第28連隊長)
 連隊旗手 伊藤少尉
 副官   富樫大尉
 通信隊長 渋谷大尉
 本部附  田坂軍医大尉
  〃   篠原主計中尉
  〃   榊原中尉
 大島通訳

○大隊本部
 大隊長  蔵本少佐
 副官   近藤中尉
 本部附  羽原少尉

○四コ中隊編成(各隊105名限り)
 中隊長  沢田大尉 105名
  〃   樋口中尉 105名
  〃   丸山中尉 105名
  〃   千葉中尉 105名
 大隊砲小隊(砲二門) 50名
  小隊長 花海少尉

○支隊直轄
 機関銃中隊(重機八挺)110名
  中隊長 小松中尉
 配属工兵中隊(火炎放射器携行)150名
  中隊長 後藤中尉

合計 916名


〔一木支隊第二梯団〕
○大隊本部 水野少佐
 副官兼兵器係 山本少尉(手記著者)
 軍医   坂本中尉
 〃    織田中尉
 薬剤官  小林少尉
 憲兵   矢野中尉

○一般中隊(将校全欠)
 各中隊で駆逐艦乗員制限のため、残留した下士官兵総員約200名および弾薬班、行李班員340名

○速射砲中隊(四門)  大久保中尉
 連隊砲中隊(四門)  和田中尉
 独立速射砲中隊(八門)中岡大尉
 工兵中隊残員     星野中尉

合計 約1,300名
(※ただし、このうち弾薬班、行李班員340名の一部と、独立速射砲中隊の一コ小隊(四門)はガ島に上陸せず、後方に残置された模様)


 これらの部隊は、以下のような行動経過を辿っている。

・昭和17年8月18日 一木支隊第一梯団が、ガダルカナル島タイボ岬に上陸成功
・8月20〜21日 第一梯団のイル川渡河攻撃失敗。戦死777名、戦傷約30名。山本手記によれば、一木支隊長は拳銃で自決。軍旗は連隊旗手・伊藤致計少尉が奉焼し、伊藤少尉は手榴弾で自決
・8月26日 輸送船「ぼすとん丸」及び「大福丸」に分乗して、トラック島からガダルカナル島を目指していた第二梯団(約1,000名)は、輸送作戦失敗によりショートランド泊地に退避
・8月29日 第二梯団の一部(300名、速射砲四門を含む)は、駆逐艦「海風」「江風」に分乗し、タイボ岬に上陸成功
・8月30日 第二梯団の一部(約260名)は、駆逐艦「夕立」及び哨戒艇4隻に分乗し、タイボ岬に上陸成功
・9月1日 川口支隊長(川口清健少将)は、一木支隊第一梯団の残部及び第二梯団をもって、歩兵2中隊、連隊砲1中隊(4門)、速射砲2中隊(各中隊4門)及び工兵小隊等からなる混成大隊を編成させ、これを「熊大隊」と呼称することとした。大隊長には、一木支隊副官だった水野鋭士少佐が任命された(注:「熊」は、歩兵第28連隊が所属する第7師団の兵団文字符
・9月4日 第二梯団残部と青葉支隊の一部(歩兵第4連隊第2大隊)、合計約1,000名は、駆逐艦「浦波」「敷波」「有明」「夕立」「初雪」「叢雲」に分乗し、タイボ岬に上陸成功
・9月12〜14日 川口支隊総攻撃に当たって、熊大隊は大隊本部と第1中隊第1小隊が夜襲を決行するも不成功、水野少佐以下約100名戦死。大隊のその他の部隊は、地形不明のため攻撃準備位置に進出できず
・その後、熊大隊残存将兵は岡部隊(歩兵第124連隊)への合流を目指して撤退するも、食糧皆無のため絶食状態の行軍を強いられる。過度の疲労と栄養失調、マラリア、アメーバ赤痢などのため死者続出
・この頃、北尾淳二郎少佐(歩兵第28連隊長代理、陸士45期)が水野少佐の後任として着任。岡部隊との合流後、熊大隊の残存将兵で1個中隊を編成し、糧秣の陸路輸送任務に従事
・10月20日 第2師団の総攻撃に際して、北尾少佐が指揮する一木支隊の残部100名が輜重隊に配属。総攻撃は失敗し、26日中止
・11月2日 米軍の反撃に際して、北尾部隊約70名が歩兵第4連隊に増援される
・その後、北尾部隊は海岸警備隊としてタサファロング付近に駐屯
・昭和18年1月21日 歩兵第28連隊長一木大佐の後任として、松田教寛大佐(陸士28期、陸大専科卒)がガダルカナル島に着任。一木支隊残存将兵の指揮を北尾少佐から引き継ぐ。このとき一木支隊の残存兵力は約300名で、その大部分は傷病兵。保有する残存兵器は、小銃56、擲弾筒2
・2月1日 ケ号作戦(撤退作戦)開始。第1次撤退成功
・2月4日 第2次撤退成功。第17軍司令部も撤退し、残留部隊約2,000名の総指揮を松田大佐が執ることになる。一木支隊残存将兵も、撤退支援のためガ島に送り込まれた矢野集成大隊などとともに島に残り、敵を拒止
・2月7日 第3次撤退成功。松田大佐以下、一木支隊残存将兵も撤退
「噫思へば我歩兵第二十八聯隊は一木大佐に依り陸軍部隊として第一次に上陸し、今亦後任の予が最後の軍を収容し以て我聯隊歴史を飾れり」(松田大佐の手記より)
・一木支隊生還者は本土に帰還。第17軍参謀長・宮崎周一少将の記録によれば、一木支隊のガダルカナル島上陸人員は2,108名、島からの撤収人員は264名とされている


 なお、第3次撤退作戦実施の見通しが立たず、後衛部隊生還の可能性は低いと見られていた状況下で、一木支隊が最後までガ島に残された理由に関して、亀井宏「ガダルカナル戦記」には以下のような記述がある。

「(山本)中尉はさらに自説を敷衍して、「俺たち旧一木支隊は、軍旗を喪失しているから、こうやって見殺しにされるんだな」という感触をこの時点で持ったという。(中略)
 軍旗を喪失したために殿部隊として残されたのだとする先の山本中尉の指摘であるが、そういわれてみれば、後に述べるように、総後衛部隊の中核は、第二十八聯隊(松田部隊)以下第二十九聯隊、百二十四聯隊の生存者で構成されている。二十九聯隊の場合は、昭和十七年十月の総攻撃の章で詳述したように、聯隊長古宮大佐と共に軍旗を喪なってしまったし、百二十四聯隊の軍旗は、この時点ではまだ存在が危ぶまれていた」
(注:歩兵第124連隊の軍旗については、敵の包囲下で一度アウステン山の地中に埋められ、その後掘り出されて持ち帰られたことになっているが、状況には不明な点が多い)

 歩兵第28連隊(旭川)、第29連隊(会津若松)、第124連隊(福岡)は、いずれ劣らぬ精鋭部隊であり、ガ島でも、戦機に恵まれなかった面はあるにせよ勇戦敢闘している。彼らが、半ば見捨てられるような形で島に残留させられた事実からは、軍旗にまつわる旧軍の、行き過ぎと言うほかない峻厳さ・冷酷さを垣間見る思いがする。


posted by A at 19:10| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする