2016年03月13日

【本】後藤正治「牙 江夏豊とその時代」

「牙 江夏豊とその時代」 後藤正治/講談社文庫/2005年
(単行本は、2002年に講談社から刊行)

 20世紀最高の投手の一人にも数えられる左腕投手・江夏豊の、主に阪神時代の活躍や苦悩を描いたノンフィクション。

 通算206勝158敗193セーブ(セーブ制度導入以前の記録を含めれば、実質230セーブ)の記録を打ち立てた大投手、江夏豊の野球人生を描写した作品である。江夏本人のほか、阪神時代の同僚選手である辻恭彦、田淵幸一、藤田平、遠井吾郎、藤井栄治、川藤幸三、池田純一や、ライバル球団・巨人の王貞治、堀内恒夫、森昌彦(のち祇晶)、土井正三、黒江透修、柴田勲、さらにトラ番のベテラン記者たちや、甲子園のグラウンドキーパーに至るまで、阪神時代の江夏と交錯したさまざまな人々に取材し、江夏豊という人物の実像を丁寧に浮かび上がらせている。

 そうした江夏周辺の群像のうち、本書の最後の場面で取り上げられているのは、大洋ホエールズの林健造という選手である。プロ野球選手としてごく平凡な成績しか残さず、ほぼ無名の存在の林がなぜこの本に登場するのか、詳細は本書を参照されたいが、江夏という一流投手と渡り合った過去を、彼は以下のように述懐している。

「……いまもときどき思うんです。長嶋がいて王がいて江夏がいた。あの時代、プロの最高のピッチャーから、俺みたいなへぼバッターが打ったことがあるんだということね、嘘みたいに思えるんですよ。……ピカッと一瞬触れ合っただけだけど、それでもそれは箪笥の奥に大事にしまい込んである宝物のようなもんです。人にいったことはないですけどね……」

 彼のいう「箪笥の奥に大事にしまい込んである宝物」とは、きっと誰もが、大なり小なり大切に持っているものなのだろう。そしてそういったものが、代わり映えのしない日々を生きていくための、一つのよすがになるのではないか、などといったことを考えた。

 なお、本書の中では、学生運動にも没入できないまま冷めた学生時代を過ごし、サラリーマン時代を経てライターへの道を歩んでゆく20代の著者の姿が、江夏の野球人生と重層的に描かれている。人気球団の重圧の中で苦闘する江夏と、同世代の無名の若者である著者の彷徨を重ね合わせることで、本書はさらなる深みを湛えた作品に仕上がっている。作中の展開を踏まえれば、この本が江夏の南海移籍で締めくくられることは必然なのかもしれないが、優れたノンフィクション作家である著者の描く、江夏の南海での再生、そして広島での栄光の軌跡も、やはり見てみたかった気はする。

posted by A at 23:06| 本(ノンフィクション) | 更新情報をチェックする