2014年05月11日

【本】伊藤正一「定本 黒部の山賊 アルプスの怪」

「定本 黒部の山賊 アルプスの怪」 伊藤正一/山と渓谷社/2014年

 登山黎明期の黒部源流地域で起きた奇怪な事件や、登山者たちの遭難の記録、山小屋生活の思い出などについて綴った一書。本書の初版は昭和39年に、新版は平成6年に刊行されているが、これらの内容を再構成し、改めて上梓されたのが今回の定本である。

 著者の伊藤正一氏は、終戦直後、北アルプス最奥の小屋とも言われる三俣蓮華小屋(現・三俣山荘)を買い取り、現在まで経営を続けてきた人物である。その著者が、初めてこの小屋を訪ねる場面からして度肝を抜かれる。終戦直後の荒廃した世相の中で、いつしか小屋には「山賊」たちが勝手に住みつき、猟師たちを脅しているというのである。登山者のふりをしながら彼らと一泊を共にし、やがてその正体を知って打ち解けた著者は、彼らと協力しながら、三俣から雲ノ平付近の登山環境の整備を進めていく。本書に描かれる「山賊」たちの健脚ぶりや、熊狩りや岩魚釣りの腕前はまさに超人的であり、人は山暮らしをすると、こういう能力が発達するのかと感心させられる。

 また、著者が山で見聞したというさまざまな怪奇譚は、読者の注目を惹かずにはおかないものである。「山から“オーイ、オーイ”と呼ばれて“オーイ”と返事をしたら、バケモノに引き込まれて行方知れずになってしまう」とか、「狸には、人間が出す音を真似る習性がある。夜中に狸がやってきて、昼間の山小屋の工事の音と同じ物音を出して騒ぎ続ける」などといった奇々怪々な逸話が、盛りだくさんに紹介されている。およそ現実にはあり得ないようなエピソードの数々だが、理系の技術者で、元々非科学的な現象を信じなかった著者が実際に経験したというのだから、全くのでたらめとも思えなくなってくる。

 その他にも、現代では思いもよらないような当時の登山事情がありありと描かれていて、読んでいて大変興味深い。このような幻惑的な雰囲気に満ちていた山の世界も、今では登山道も整備され、ヘリも容易に飛ぶようになり、本書に登場するような個性的な山人やバケモノたちも、すっかり影を潜めてしまったように思える。宮本常一の著作の中に、「昔は天狗や狸にまつわる奇譚がたくさんあったが、人臭くなった今ではすっかりなくなってしまった」というようなくだりがあったと記憶しているが、昭和前期のこの頃が、合理的に説明できない「何か」の息づかいが色濃く残っていた、最後の時代だったのだろうか。

 余談ながら。10年ほど前、一人でテント泊装備を担いで、本書の舞台になった山域を歩いたことがある。太郎兵衛平から見た富山平野の夜景、薬師沢出合からの急登、神秘的な雲ノ平、華々しい水晶岳や雄大な鷲羽岳など、思い出に残る風景はいくつもあったが、最も印象に残ったのは黒部の源流だった。祖父岳の直下、深い霧の中で見た黒部川の最初の一滴は、息をのむほど純粋無垢で美しいものだった。

posted by A at 23:29| 本(登山、鉄道、旅) | 更新情報をチェックする