2010年10月09日

祖父と戦争

 たまには、読書感想文以外の記事でも書いてみます。私の祖父の話。

 大正生まれの男の宿命として、私の祖父も召集令状を受けて出征した。ずいぶん長い軍隊生活を過ごしたらしいのだけれど、幸い無事に復員することができた。話を聞くと、次のような軍歴を送ったそうだ。

・昭和13年 召集。その後、満州の国境守備隊に送られる。
・昭和16年 復員。
・昭和17年 再召集。南方に送られる。
・昭和19年 南方から帰国。
・昭和20年 宮崎で塹壕を掘っているうちに終戦。

 これだけなら特に珍しくもないような経歴だが、祖父は何度か重大な生命の危機に近づき、その都度、不思議とそれらをうまくすり抜けている。

○ノモンハンの戦い
 祖父が駐屯したソ満国境では、昭和13年に張鼓峰事件、昭和14年にノモンハン事件が勃発した。特に後者は日本軍に8千人以上の戦死者を生じさせた大衝突だったが、祖父はこれらの戦闘に参加することはなかった。祖父の所属部隊は満州第6国境守備隊で、その駐屯地は、ノモンハンと張鼓峰を結ぶ国境線のちょうど中間あたりにある愛琿(アイグン)だった。

○ミッドウェー海戦
 昭和17年に再召集された祖父は、ミッドウェー島を上陸占領する部隊に編入された。ところが、日本海軍がミッドウェー海戦に大敗したため、上陸作戦も自然に中止となった。もしミッドウェー島に上陸していたら、いずれ米軍の反攻に遭い、玉砕する運命は避けられなかっただろう。

○ガダルカナル島の戦い
 祖父が所属したミッドウェー島上陸部隊は、旭川の歩兵第28連隊を基幹とする約2,300名の部隊で、部隊長は一木清直大佐だった。一般に「一木支隊」として知られるこの部隊は、のちにガダルカナル島に投入されて全滅に近い損害を蒙ることになるが、祖父はガダルカナル島上陸前にこの部隊から切り離され、ニューアイルランド島カビエンの守備隊に回された。理由はよく分からないが、祖父がガダルカナル戦の緒戦に不要な自動車運転兵だったためかもしれない。

○帰国
 カビエンの守備隊にいた祖父は、昭和19年に内地に帰還することになった。しかし日本軍は既に制海権・制空権を失っており、しかも乗せられた輸送船は相当な老朽船で、「今度こそ駄目だ、絶対に米軍の潜水艦に沈められる」と覚悟したのだという。そして実際に潜水艦に襲撃されたが、米潜が発射した魚雷は幸運にも船底を素通りしたため命拾いし、無事に帰国することができた。なお、一緒に船団を組んだ他の輸送船には魚雷が命中したが、これが不発で、この船もやはり助かったのだそうだ。

 孫の目から見ても、祖父は特に強運を感じさせるような人でもなく、ごく普通の好々爺だった。足掛け8年も軍隊にいながら、終戦時の階級が伍長というところを見ても、あまり組織で頭角を現すようなタイプの人でもなかったのかもしれない。ただ、もし祖父がどこかで命を落としていれば、戦後私の母が生まれることもなく、私がここに存在することもなかったのだ。そう思うと、祖父を護ってくれた神仏か何かに感謝したくなる思いがする。
 祖父は昨春、91歳で永眠した。冥福を祈りたい。


(追記)
 以上は、祖父自身の証言を元に書き起こした記事である。この中で、祖父が一木支隊のどの部隊に所属していたのかということについて個人的に関心があるが、詳細はよく分からない。
 「丸別冊 最悪の戦場 ガダルカナル戦記」に所収された、「ガ島への先陣「一木支隊」の戦歴」(著者:山本一・元中尉、当時一木支隊本部付)によれば、ガ島に上陸した一木支隊第二梯団について、

「…輜重隊から転属になった弾薬班、行李班三百四十名は、全部が武器携行者ではないので、後方へ残置された人もあるはずだが、記憶にはない。
 また、中岡独立速射砲中隊は、一コ小隊をラバウルに残置したため、第二梯団として上陸した人員は中岡中隊長以下約百名。砲四門となっている」

とのことであり、第二梯団の中から、ガ島に上陸せず後方に残置された人員は存在したようである。ただ、この残置部隊については、戦史叢書「南太平洋陸軍作戦1」や亀井宏「ガダルカナル戦記」にも記述はなく、実態はよく分からない。


posted by A at 17:50| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする