2009年11月14日

【本】後藤正治「人物ノンフィクションV 孤高の戦い人」

「人物ノンフィクションV 孤高の戦い人」 後藤正治/岩波現代文庫/2009年

 一瞬の勝負の世界に生きるスポーツ選手・監督たちの姿を綴ったノンフィクション。取り上げられた人物は、松井秀喜、小川良樹、福永祐一・北橋修二、上田利治、伊達公子、岡野功・古賀稔彦・谷本歩実、仰木彬。

 松井や伊達のようなスター選手から、上田や小川のような通好みの監督まで、スポーツの世界でさまざまに活躍する人物を描写したノンフィクションである。どの項も温かい読後感を残す名編だが、例えば騎手・福永祐一を扱った一節は、所属厩舎の調教師・北橋修二との関係を丁寧に追い、味わい深い師弟関係の一例を見事に描き上げている。

 「天才」の名をほしいままにし、不慮の事故でターフを去った往年の名騎手・福永洋一の息子として生まれた福永祐一は、父と家族ぐるみで付き合いのあった北橋家と関わりを持ちながら成長する。やがて、父と同じく騎手の道を志し、競馬学校を卒業した祐一は、北橋厩舎に所属して騎手生活を送ることになる。

 北橋の庇護の下、順調に勝鞍を増やす祐一だが、他の騎手たちと同様、その成長過程において大きな失敗や怪我、酷評などを避けることはできなかった。デビュー3年目のダービーで、祐一はキングヘイローという人気馬に跨ったが、騎乗ミスから大惨敗を喫する。たまたまこのレースを府中競馬場で見ていたが、「掛かりやがった!」「馬鹿野郎!」「下手クソ!」など、スタンドには祐一を呪う罵声が飛び交ったことを覚えている。

 しかし、幾多の試練を経て、祐一は一流ジョッキーの仲間入りを果たしていく。「福永洋一の息子であり北橋修二の弟子である以上、いいかげんな仕事はできません」という彼の言葉は、彼自身の成長を何よりも物語るものだろう。一貫して祐一を外野の声から守りつづけ、一流騎手に育て上げた北橋の祐一評を、著者は以下のように拾っている。

「福永祐一のこれからに望むことはありますか――。北橋に訊いた。
『ま、なんとかかんとか添え木はいらんようにはなったが、野球でいえば二割六、七分の打者だ。はやく三割打者になって、乗り方にあれこれ注文をつけられるようになってもらいたいもんだよ』
『勝ち星をあげてるといっても、豊の半分じゃないか。なんとか普通に乗れるというレベルだ。豊が横綱ならまだ幕の内力士だ。ここ一番、ダービーに誰を頼むか。ワシだって豊に頼むよ』
『いまの乗り役は個性がない。だから競馬が面白くないといわれるんだ。プロを感心させてこそ一人前じゃないか。ま、そんなレースもなくはなかったが…。とにかくまだまだこれからだ。ちやほやするとろくなことはない』
 老調教師はついに、一言半句、甘い言葉を吐かなかった。頑固親父め――。帰り道、久々、胸のあたりがぽかぽかしていた。」

posted by A at 10:02| 本(ノンフィクション) | 更新情報をチェックする