2009年10月17日

【本】高木俊朗「戦死 −インパール牽制作戦−」

「戦死 −インパール牽制作戦−」 高木俊朗/朝日新聞社/1967年
(文春文庫版(1984年)で読みました)

 昭和19年2月、間近に迫ったインパール作戦の陽動作戦として実施された「ハ号作戦」(第二次アキャブ作戦)の経過を、戦いに参加した第55師団(壮兵団)の人間模様を踏まえつつ描いた戦記。

 ビルマ西海岸のアキャブ地方からインド国境地帯への進攻作戦である、ハ号作戦の実情を追った一書である。まず本書の前半では、第55師団の中核部隊として戦線を支えた、歩兵第112連隊(連隊長:棚橋真作大佐)の苦闘の模様が描かれている。棚橋大佐がなぜ自決に至ったのか、その経緯に疑問を持った著者は、生き残った連隊関係者の証言を拾い集め、師団上層部による強引かつ横暴な作戦指導の実態を解き明かしていく。

 そして本書の後半では、第55師団長・花谷正中将の、暴虐きわまりない統率の様子が詳しく描写されている。ビルマ戦線には牟田口廉也という司令官がいて、無謀な指揮を行って大量の将兵を殺した将軍としてはこの人が有名だが、花谷はそれに匹敵する、いや、質的な意味では牟田口を上回る狂気の師団長だった。第55師団では、少なからぬ将兵が花谷によって殴られ、悪罵され、相次いで自決に追い込まれた。本書に記録された虐待の数々は、「パワハラ」という軽い言葉では捉えきれない、恐るべき陰惨さを湛えている。

 また、こうした直接的な暴力の他にも、師団長としての花谷の言動には、強い違和感を覚えさせられる点が少なくない。例えば彼は、遥かに優勢な敵を相手に寡兵をもって苦戦する前線部隊に対して、まともに食糧も弾薬も補給せず、その結果敗れた部隊の指揮官に対しては、激しい言葉で自決を強要したのだという。その一方で、花谷自身がハ号作戦の失敗の責任をとって自決することはなく、昭和32年、畳の上で病没している。また、花谷は前線部隊が壊滅の危機に瀕しても撤退を許さないなど、部下の犠牲には無関心だったが、彼自身は空襲を異常に恐れ、自分の移動する先々で自分用の防空壕を掘らせたのだそうだ。

 世の中に、花谷のような人格の破綻した人間が一定数現れることは、残念ながら避け得ないことなのだろう。問題は、このような常軌を逸した人物が順調に出世し、万余の将兵を指揮する師団長の要職に就いたという事実にあるのではないだろうか。花谷の師団長就任には、花谷とともに関東軍で満州国建国に策動した片倉衷らの後援があったとされているが、そこには、身内の庇い合いや派閥人事のために、粗悪な人材が抜擢されるという、日本陸軍組織の病痾が見て取れる。

 そして現代の我々は、このような陸軍組織の人事的失敗の教訓から、何かを学んだと言えるだろうか。


<補遺>
 花谷の異常ぶりを示す一例を紹介する。第55師団の弾薬集積所が英軍に爆撃され損害を出した事案をめぐり、花谷が師団兵器部長のH中佐(のち、大佐)をどのように責め立てたかを、少し長くなるが本書から引用する。

「花谷師団長は、毎日、H中佐を呼びつけた。そして、事こまかに弾薬集積所の被害について、詰問をつづけた。H中佐がそれに答えるたびに、罵り、なぐりつけた。花谷師団長は、どのような答えも受けつけようとしなかった。手落ちを見つけては、徹底して、動きのとれないところに追いこまずにはいられない性格だった。そのためには、鋭く頭が働いた。こうした時には、必ず口にする言葉があった。
「あいつ、つめ腹を切らしてやる」
 異常な決意がふくまれたこの言葉が、すでに幾たりかの人に対して吐かれた。

 H中佐は、連日なぐられて、顔は青黒くふくれていた。居室にいる時は、四十九歳の白髪まじりの頭をかかえて、声をしのんで泣いていた。どこへ逃げることも、助けを求めることもできなかった。それが軍隊という組織であった。
 兵器部の仕事の報告を命ぜられて、担当の兵器勤務隊長の藤岡大尉が花谷師団長のところへ行って、書類をさしだすと、いきなり、たたき返された。
「貴様ら応召の将校に何がわかるか。士官学校を出ないやつはだめだ。部長を呼べ」
 改めてH中佐が報告を持って行くと、花谷師団長はちょっと目を通して、窓の外にほうりだした。雨季の豪雨の降りしきるなかである。それからも書きなおしをさせられた。あとで参謀にきくと、二字か三字の訂正ですむところだった。しかし師団長は、それを教えようとはしなかった。
 H中佐は、もはや、あやまるばかりだった。ほかに言葉もなかった。
「Hが悪くありました。申し訳がありません」
 あやまっても、なぐられた。
「この野郎、あやまってすむと思うか。天皇陛下の弾薬をなくすやつは国賊だぞ。不忠者だ」
 花谷師団長は、この大義名分のために、制裁を加えるというようであった。しかし実際には、猫が鼠をなぶるに等しいものがあった。
 H中佐は、あやまりつづけた。
「Hが悪くありました。これから改めます」

 その日。
 雨が時おり激しく降りかかり、密林はさわがしい音をたてた。
 師団の獣医部長の中村芳雄中佐が花谷師団長の決裁をうけに行くと、師団長の小屋で荒々しい物音がしていた。また、だれかやられていると思って、中村中佐は三宅専属副官の部屋にはいって待つことにした。三宅中尉に、目顔で、だれがやられているのか、ときくと、
「うちの高級副官です」
と答えたが、ひどく、おびえていた。
 師団長室の物音は、なまなましくひびいた。花谷師団長はどなりながら、長い間、なぐりつづけていた。しばらくして、激しい音は静まったが、師団長の悪罵の声だけが聞こえた。なぐりつかれると、師団長は腰をおろし、なお、悪罵をつづけるのが常であった。それでおさまるかと思っていると、また、なぐりだした。その音が、しばらくつづいた。中村中佐は栗田中佐を痛々しく思った。この調子で毎日やられながら、職務とはいいながら、それにたえている忍耐力に、容易ではないものを感じた。

 そこへH大佐がきて、師団長への取り次ぎを三宅副官にたのんだ。すぐに、師団長室の物音に気づいて、おちつかない表情になった。熱もあるらしく、苦しそうな息をしていた。
 栗田高級副官がもどってきた。顔が赤黒く、でこぼこになるほど、はれあがっていた。血がふきだしていた。さすがに無言で、自分の小屋に帰って行った。
 中村中佐はH大佐が苦しそうにしているので、さきをゆずった。まもなく、なぐり飛ばす音が聞こえた。師団長は、栗田高級副官をさんざんなぐったあとである。中村中佐は、師団長が疲れて、それほどのことはあるまいと思っていた。ところがそうでなかった。師団長は疲れも見せずにH大佐をなぐりつづけた。
「馬の死んだ数がわかるのに、それに乗せた鞍の数がわからんのか」
 そんな罵声も聞こえた。時々、激しい音がするのは、H大佐が倒れるためであった。
 それが一時間近くもつづいた。師団長室を出てきたH大佐の顔は、いいようのないほどに変わっていた。それが、べたべたにぬれていた。H大佐は全身をふるわせていた。
「H大佐殿、おからだを大事にしてください。何事も、がまんが第一です」
 中村中佐が慰めたが、H大佐は泣きながら去って行った。

 栗田高級副官がなぐられたのは、H大佐の処罰について、意見をいったためであった。花谷師団長は、
「重謹慎三十日にせい」
と命じた。栗田高級副官は、重すぎると思ったので、
「一週間ぐらいでどうですか」
と、意見をいいだすと、なぐられた。
 栗田高級副官は重謹慎の必要もないと思った。H大佐が追及を受け暴力を加えられた日数だけでも、ひと月を越していた。連日の心身の苦痛のために、半病人になっている。それでも、かろうじて、たえているのは、H大佐が気骨の人であるからだ。それにしても限度がある。何かの方法をとらねばならないと栗田中佐は考えた。

 その後、栗田高級副官は、わざと長い時間をおいて、H大佐の処罰命令を持って行くと、花谷師団長は鼻下の半白のひげをせかせかとひねっていた。ふきげんな時にする動作であった。師団長は命じた。
「Hを呼べ」
 花谷師団長に呼びつけられた時、H大佐は竹で作った寝台に横になっていた。連日、過酷な詰問をうけて、気力を失っていた。そこへマラリアの発熱が加わった。
 H大佐は呼ばれて、師団長室にはいった。動作に力がなかった。花谷師団長は立ち上がって、
「処罰を申し渡す」
と、ぶきみな目で見すえた。栗田高級副官が侍立していた。
「H大佐を重謹慎三十日に処す」
 そのあとで、一歩前に近よって、
「貴様はカデットじゃないか」
と、どなりつけた。カデットという言葉には、陸軍幼年学校出身者の意味であり、優秀者という意識がこめられていた。そのために陸軍士官学校にはいってからは、一般の中学校からきた生徒と対立して、それぞれに派閥を作った。
 また、幼年学校では≪満州蒙古をとって日本の領土とする≫という考えを、少年生徒の頭に強く教えこんだ。花谷師団長がことごとに幼年学校を誇りにし、あるいは「満州事変はおれがおこした」と自慢するのは、このためであった。
 花谷師団長はどなりつづけた。
「貴様、カデットの誇りを知れ。カデットのつらよごしだ」
 手をふりあげて、なぐりつけた。H大佐は歯をくいしばって、こらえた。師団長は両手を交互にふるって、左右から顔をなぐった。H大佐はよろめいて、うしろにさがった。花谷師団長は足をあげて蹴りつけ、H大佐をゆかの上に倒した。それを二、三度蹴りつけてから、胸もとをつかんで引きおこした。
「恥を知れ、恥を」
 重謹慎三十日は将校にとって最大の処罰であったし、大佐の階級にある者がなぐられるのも異常であった。恥辱は身にこたえていた。H大佐は言葉がなかった。その顔に花谷師団長は、つばをはきかけた。
「この責任をどうするのだ」
と、いいすてて自分の部屋に去った。
 栗田中佐は目をそむけていた。H大佐をかばえば、自分が重謹慎にされなければならない。なぐられることでは、H大佐以上だった。ふたりは同じ立場だった。
 H大佐は立ったまま、むせび泣いていた。栗田中佐は肩を抱いて、
「H大佐殿、こらえなさいよ。こらえなさいよ」
と、外につれだした。いたわりながら、兵器部の小屋に送って行った。
「早まった考えを持ったらいけませんよ。お疲れでしょうから、お休みなさい」
 髪に白いものが目立つH大佐が、少年のようにむせび泣きつづけた。

 兵器部の下士官や兵は、すでに事態を知っていて、悲憤の色を浮かべて迎えた。H大佐を部長室に送りこんでから、栗田中佐は密林の道をもどった。副官部の小屋は百メートルほど離れていた。栗田中佐が自分の部屋に帰って、まもなく、銃声がひびいた。
 兵器部の小屋でさわぎがおこった。栗田中佐は急いでかけつけた。
 H大佐は寝台の上に横たわっていた。額から血が流れていた。全身は、静かに寝ているように見えたが、ひざのあたりを手ぬぐいでしばってあった。乱れた姿にならないための、たしなみであった。
 右手には小型のピストル、コルトを握っていた。部下が大佐の自決を心配して、書類の間にかくしておいたものであった。それをいつのまにか、見つけだしたのだ。
 H大佐の死亡の公報には次のように記されてある。

≪昭和十九年八月二十五日、ビルマ、アキャブ県ノータンゴにおいて、頭部貫通銃創のため戦死≫

 少将に進級の手続きがとれたのは、戦争が終わって、十一年を経た昭和三十一年であった。

 花谷師団長を殺す、といううわさが、師団司令部の下士官兵の間にひろまった。根のないことではなかった。H大佐自決の直後には、兵器部の下士官が顔色を変えて、手榴弾を持って飛びだそうとした。
「あの気ちがいを殺してやる」
 まわりにいた兵たちが押しとどめた。栗田高級副官がなだめると、下士官は、
「師団長だからといって、これじゃ人殺しじゃないですか。陸軍刑法では許されることですか」
と、泣きじゃくりながら訴えた。
 また、古年兵のひとりが、兵器勤務隊長の藤岡大尉に、
「地雷をだす命令をください」
と、たのみにきた。理由を聞くと、
「花谷に踏ませるんです」
と、答えた。藤岡大尉がことわると、
「埋没はわれわれがやります。ご迷惑はかけません」
と、くいさがった。本気で計画していることが、顔色にあらわれていた」

 これは花谷による狂暴な統率の、ほんの一例にすぎない。このほかにも、最前線で勇敢に戦った少壮将校を自決に追い込んだ事例など、花谷による犠牲者は枚挙にいとまがない。詳細は本書を参照されたい。

(2016.10.16改稿)


posted by A at 19:27| 本(戦記) | 更新情報をチェックする