2009年05月03日

【本】後藤正治「遠いリング」

「遠いリング」 後藤正治/講談社/1989年
(岩波現代文庫版(2002年)で読みました)

 大阪のボクシングジム、グリーンツダジムで拳を磨く若者たちと、彼らを見守り育て、あるいは彼らと戦う人々の物語。1990年講談社ノンフィクション賞受賞。

 井岡弘樹、徳島尚、山根禎英、野崎万弘、谷内均、大竹永寿、奥田章博、河野俊彦の8人のボクサーが、本書の各章の主人公だ。両親が離婚した者、実家が多額の借金を抱えている者、別のスポーツの世界で挫折を経験した者など、各人が各人なりの背景を背負ってボクシングの世界に挑んでいる。そして、彼らの抱える事情やボクシングに賭ける情熱を、著者は自然に、かつ丁寧に聞き取り、穏やかな筆致で記していく。

 物語として最も鮮やかな光を放つのは、やはり冒頭の井岡弘樹の章だろう。名伯楽エディ・タウンゼントの、病身を押した命がけの指導。グリーンツダジム津田会長とエディの強い友情。ジムの命運を懸けた井岡の世界タイトル挑戦。そして、劇的なエディの最期。ドラマのような一連の流れは、美しくも切ない一編の詩を見る思いにさせられる。

 また、8人のボクサー達の中で、個人的に最も心を惹かれたのは、最後の一章に登場する奥田章博だ。不良上がりのヤンチャな者も多いボクシングの世界で、色白で細身、生真面目で理知的なこの若者は、中学卒業後、1年間の労働期間を経て、グリーンツダジムでの合宿生活に入る。遊びたい盛りの10代後半の若者であるはずなのに、徹底して禁欲的な生活を過ごし、誰より熱心に練習や研究に取り組み、全てをボクシングに捧げるかのような日々を送る彼の姿は、確かに痛ましいとさえ思えるものだ。

 そして、それだけ一心にボクシングに取り組んだ結果はどうだったのだろうか。色々と調べても明確な情報を見つけられないことからすれば、残念ながら、結果的に彼は大きなタイトルとは無縁であったようにも思われる。しかし、一つの対象に対して、これだけ大きな熱量を注ぐ青春を送った彼は、現在も、決してそのことについて後悔はしていないのではないか。ささやかながら、彼の人生に幸多きことを祈りたい気持ちになった。

 8人の若きボクサーについて著者は、2002年冬に執筆した岩波現代文庫版あとがきで、「はっきりしているのは、すでに全員がリングから去っていることである」と記している。しかし翌2003年秋、39歳の大竹永寿が、実に9年ぶりの復帰戦をインドネシアで戦っているそうだ(結果は残念ながら敗戦であったようだが)。また、本書にも登場した、1989年に大竹永寿とミドル級全日本新人王戦を戦った西沢良徳というボクサーは、2006年、40歳にして東洋太平洋ライトヘビー級王座を獲得し、今なお現役という。ボクサー達の物語は、果てなく長く続いている。

posted by A at 22:11| 本(ノンフィクション) | 更新情報をチェックする