2009年04月18日

【本】御田重宝「太平洋戦争下偽装病院船事件 「橘丸」と戦犯裁判」

「太平洋戦争下偽装病院船事件 「橘丸」と戦犯裁判」 御田重宝/徳間書店/1977年

 昭和20年8月3日未明、豪州北部のバンダ海で、単船ジャワ島を目指していた日本軍の病院船が米軍の駆逐艦に拿捕された。大きな赤十字マークを付けたこの病院船「橘丸」に米軍が移乗して調べたところ、船に乗せられていたのは病人ではなく、ニューギニア島南西のカイ諸島に展開していた第5師団歩兵第11連隊第1、2大隊の大隊長以下全員と歩兵第42連隊の1個中隊、合わせて1,562名の将兵と、多量の武器弾薬であった。本書は、世に言うこの「橘丸事件」の計画・発生から、国際法違反を問うた戦後の戦犯裁判までを追ったノンフィクションである。

 連合軍による飛び石作戦の結果、豪北方面(現在のインドネシア東部〜中部方面)の最前線に取り残された第5師団、第48師団などの精鋭部隊は、事実上の遊兵と化していた。そこで南方総軍は、近く予想されるマレー・シンガポール方面への連合軍の攻勢に備えるため、これらの部隊の移転を計画した。しかし当時の軍の輸送能力は、南太平洋一帯の輸送を担当している第3船舶輸送司令部管内で、千トン以上の輸送船が僅か2隻しか残存していないという、ほとんど戦争の遂行自体が不可能とも言える状況に陥っていた。このため、南方総軍は、病院船「橘丸」での部隊輸送を企図することになる。

 20年7月、「橘丸」により第48師団の一部をティモール島からジャワ島に移駐することに成功した軍は、次いで第5師団の歩兵第11連隊主力を始めとする部隊の輸送を実行する。ところがこれが米軍に露見し、大隊長(少佐)2名を含む、病人の格好を偽装した多数の将兵を一度に捕虜とされた上、病院船で兵士や軍需物資を輸送するという国際法違反を日本軍が犯した事実を、世界に知らしめることとなってしまう。事件の一報を聞いた南方総軍司令官の寺内寿一元帥は、不名誉な捕虜を大量に出した事態に激怒し、爆撃機を出して「橘丸」を撃沈せよ、との命令まで発したという。もっとも当時の軍には、そのような航空兵力さえ残っていなかった。

 この「橘丸事件」に責任を感じた第5師団参謀長の浜島厳郎大佐(インパール作戦当時、烈兵団の参謀だった人)は8月6日に、また、師団長の山田清一中将は終戦の日である8月15日に、相次いで自決した。これに対して、戦後、「橘丸事件」の国際法違反を問う戦犯裁判において、第5師団に対して命令を下す立場にあった第2軍司令官の豊嶋房太郎中将や、南方総軍総参謀長の沼田多稼蔵中将は、師団に罪を負わせ自らの責任を逃れようとする弁明に終始したとされている。重責を担うべき立場に、それに相応しい人材を得られなかったことは、日本陸軍の致命的な欠陥の一つだったと言ってよいだろう。

posted by A at 21:36| 本(戦記) | 更新情報をチェックする