2019年06月16日

【本】若林宣「帝国日本の交通網 つながらなかった大東亜共栄圏」

「帝国日本の交通網 つながらなかった大東亜共栄圏」 若林宣/青弓社/2016年

 明治期から太平洋戦争までの時代にかけて、日本が大陸や南洋に勢力を伸ばしてゆく過程を追いつつ、その領土拡張に対応する交通網の整備が十分に進まなかった実態を明らかにした本。

 太平洋戦争関係の書籍を読んでいると、北はアリューシャンから南はソロモン・ニューギニアまで、広大な地域をカバーした大日本帝国の領土地図を見かけることがよくある。また、南方戦線に出征した将兵の戦記(例えば、加東大介「南の島に雪が降る」)を読むと、「この戦争は百年戦争だ」と、兵士たちが長期戦への覚悟を求められている場面に出くわすことがある。ところで、その壮大な版図の中で人員・物資を円滑に移動させたり、長期戦を支える経済活動を維持したりするために必要不可欠な陸海空の交通網は、一体どの程度整備されていたのだろうか。その実態を、膨大な史料を基に丁寧に解き明かしたのが本書である。

 例えば、本書の第4章「南洋群島の交通網」では、第一次世界大戦前のドイツ領時代の海上交通事情から説き起こし、日本統治時代の南洋航路の発展経緯について詳しく解説を行っている。それによれば、第一次大戦後の1920年、日本郵船による東回り線(横浜−サイパン−トラック−ヤルート)、西回り線(横須賀−サイパン−トラック−パラオ−アンガウル)が運航を開始して以降、内地からパラオ・ヤルート両方に立ち寄る東西連絡線や、内地とマリアナ諸島を結ぶサイパン線、さらに多数の離島間航路などが次々と開設され、年間運航回数は少ないながらも、航路網は次第に拡充されていった。しかし、太平洋戦争の開始により船舶が徴用されたり、空襲で失われたりして、民間海上交通網は一気に崩壊していくのだった。

 こうした海上交通の発展と衰退の歴史のほかにも、本書には、内地と朝鮮・満州・内蒙・中国・南洋を結ぶ民間航空路の設定や、中国や南方占領地における困難な鉄道経営など、戦前・戦中期における帝国日本の交通網の実情が詳細に描かれている。その中には、日独航空連絡路(予定ルート:ベルリン−ロードス島−バグダッド−カブール−安西−新京−東京)の創設を目指して、日本軍の勢力圏外だったゴビ砂漠西南端の安西に着陸場を設けようとした逸話や、1944年2〜3月頃、南方軍に協力して、シンガポール−ジャカルタ−ホーランジア−ラバウル間の危険な輸送任務に従事した民間航空輸送隊の苦心譚など、大変興味を惹かれるエピソードも含まれている。240ページ程度の分量ながら、極めて守備範囲の広い一冊であり、この時代の航空・海上・鉄道の各分野の歴史を掘り下げていくに当たり、優れた入口にもなりうる良書である。

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2019年06月09日

ニューギニア戦線・ウエワクの第18軍への空路連絡について

 太平洋戦争のニューギニア戦線では、昭和19年4月22日の米軍のアイタペ・ホーランジア(現ジャヤプラ)上陸により、西進中の日本陸軍の第18軍は退路を断たれ、東部ニューギニアのウエワク付近(地図はこちらを参照)に孤立することとなった。そして、食糧や武器弾薬の補給が途絶した状況の下で、終戦まで多数の餓死者を出しつつ、劣悪な装備で連合軍への抵抗を続けたのだった。

 こうした中で、昭和19年5月以降、ウエワクに対する連絡飛行(緊急物資の空輸)が計4回試みられ、その全てが成功している。今回は、敵の制空権下におけるこれらの空路連絡について、概要をまとめてみたい。

1 昭和19年5月(第1回、第2回)
 米軍の飛び石作戦によりウエワクから西へ進むことができなくなった第18軍は、昭和19年5月7日、メナド所在の第4航空軍に対して、ウエワクに対する連絡飛行と、まもなく進攻することになるアイタペ付近の空中写真偵察を要望した。このうち空中写真の撮影は、司偵戦力の枯渇や制空権の状況から不可能だったが、空中勤務者が取り残されていたウエワクへの飛行については、第4航空軍としても積極的に対応することとした。

 そして第4航空軍は、この連絡飛行を、重爆が使用できる最前線の飛行場であるヌンホル島(地図はこちら)のカメリーから行うことに決定した。カメリーからウエワクへの直線距離は約1,100kmだが、ホーランジアのはるか北を迂回して飛行するため、実質的な飛行距離は約1,400kmと見込まれた。

@5月14日(第1回)
 第1回飛行は、飛行第61戦隊の鈴木正典大尉(陸士52期)を機長とする百式重爆1機により行われた。この飛行は大きな問題もなく、軍需品(特に乾電池)、衛生材料(特にマラリア剤)をウエワクに輸送することに成功し、ウエワクからは操縦者8名(将校4名、下士官4名)を連れ帰った。

A5月15日(第2回)
 第2回飛行は、飛行第61戦隊の宮澤敏男大尉(陸士50期)を機長とし、第1回とほぼ同様のやり方で、ウエワクへの軍需品の輸送を成功させた。しかし、肝を冷やす事件が発生したのは帰路だった。第18軍参謀の小幡一喜中佐(陸士35期・陸大47期、工兵)と、空中勤務者6名(将校2名、下士官4名)を乗せた宮澤機はウエワクを出発するが、ホーランジアの北方300km付近を飛行しているところを連合軍の戦闘機に触接されてしまう。いよいよとなれば海中に突っ込み、玉砕することなどを機中で話していると、敵機が翼灯を点滅したので、こちらもそれに合わせて翼灯を点滅。すると敵機は旋回して去り、宮澤機は九死に一生を得る結果となった。

 その後、メナドに到着した小幡参謀は、阿南大将以下の第2方面軍幹部と第4航空軍幹部に対して、第18軍の現状、特にアイタペ攻勢計画について詳しく説明し、以後の支援の約束を得た。ところが5月17日、連合軍がサルミとワクデに、また27日はビアクにも上陸し、ヘルヴィング湾方面からのウエワク連絡飛行は中止に追い込まれることになった。カメリー飛行場のあるヌンホル島にも7月2日に米軍が上陸し、歩兵第219連隊長の清水季貞大佐以下の守備隊が抗戦するも衆寡敵せず、8月中〜下旬頃に軍旗を埋没、清水大佐が自決して遊撃戦に移行している(終戦時の生存者11名)。

 それでも小幡参謀は第18軍への復帰を熱望し、パラオに移動してウエワク行きの潜水艦を待ったが、6月中旬の連合軍のマリアナ来攻により、5月27日にウエワクに入港した呂115号を最後に東部ニューギニアへの潜水艦輸送は途絶した。その後、小幡参謀は第35軍に転属となり、レイテ島の戦いからも生還。第16軍司令部附で終戦を迎えたようである。


2 昭和19年9月(第3回)
 アイタペ攻勢の敢闘を目の当たりにした南方軍は、7月27日、第18軍に対して、ウエワクへの空中連絡の可否を照会した。これに対して第18軍は、ウエワクの飛行場補修には2,000人/日の労力を要するとし、アイタペ作戦中であることも踏まえて空輸を辞退した。その代わりに第18軍は潜水艦輸送を要望したが、これは実現しなかった。

 そしてアイタペ作戦が中止となった後、南方軍は第4航空軍に対してウエワクへの連絡飛行を指導し、結局、第7飛行団(ボルネオ島アピ所在)の飛行第62戦隊がこれを実行することになった。百式重爆の第62戦隊は、この連絡飛行に当たり、発動機に信頼性の高い九七式重爆の使用を希望したため、第12戦隊から九七重U型1機の機材が62戦隊に貸与され、作戦に使用された。また、ウエワクへの経路は、当時使用可能だったニューギニア島西南方のカイ諸島(この周辺の諸島は、マレー作戦で活躍した第5師団が移駐・守備していた)の飛行場を出発し、ヘルヴィング湾上に出て、脊梁山系の北麓沿いに飛行し、ウエワクまで約1,500kmの航路を取ることが予定された。

 9月7日午後11時頃、62戦隊の児玉邦芳中尉(陸士55期)が機長を務める九七式重爆は、衛生材料、通信消耗品、現地自活用の種子、激励慰問の手紙などを搭載し、カイ諸島ラングールの飛行場を出発した。敵の制空権下で、灯りを全て消してウエワクへ飛行し、翌8日午前4時50分頃、隠密に補修を完了していたウエワク飛行場に無事着陸。迅速に物資を積み下ろしたが、着陸20分後に来襲した敵機の対地攻撃で機体は大破し、児玉機乗員の6名は帰還のすべを失ってしまう。結局、彼らは第18軍司令部付となってそのままニューギニアに残留し、原住民と自活しつつ終戦を迎えている。

 この児玉機の飛来については、迎えた側の第18軍将兵の手記にもいくつかの記述が散見される。例えば、第41師団参謀部付だった星野一雄大尉は、以下のような記録を書き残している。

「その頃、米軍機の活動がとみに活発になり、それも戦闘機の編隊がしばしば見られた。(中略)これは後日判明したことだが、薬品や無線用電池などといった緊要なものを、友軍機が単機でチモールの方から緊急輸送してきたことによるものであった。この機は着陸と同時に米軍機の攻撃を受けて機体は大破してしまったが、目的物は無事着いた由であった。しかしその搭乗員の方は、気の毒にもニューギニアに閉じこめられて、私たちと運命をともにすることになった」

 また、児玉機の操縦士だった高木茂氏が、この飛行に関する詳しい手記を残している(こちら参照。日付等の記録については、戦史叢書と若干の相違あり)。本手記によれば、連絡飛行という危険な任務に就き、ニューギニアに取り残される羽目になった児玉機乗員は生きて終戦を迎えられたものの、安全だったはずの第7飛行団本隊に残った者は、その後のレイテ戦などで大部分が戦死したとのことである。数奇な運命と言うほかない。


3 昭和20年1〜2月(第4回)
 昭和19年11月下旬、第18軍は兵器、真空管、雷管、薬品などの潜水艦輸送を要請し、南方軍や大本営は海軍側に交渉したが、レイテ決戦中のためその余裕はなかった。しかし、第18軍の窮状を察した南方軍は、せめて緊急軍需品だけでも空路輸送することを意図し、第4航空軍にこれを指示した。そして、飛行第14戦隊の武市茂二中尉(陸士55期)に、この困難な任務が命ぜられたのだった。

 今回の飛行も、前年9月の児玉機の飛行と同じく九七式重爆を用い、アル諸島(戦史叢書には「カイ諸島」とあるが、誤記か)のドボからウエワクを目指すことになった。ただし、ウエワクは既に連合軍機の厳重な監視下にあり、また第18軍にも滑走路整備の余力がなかったため、武市機は初めからウエワク近郊のオーム岬に胴体着陸を行うことを予定していた。昭和20年1月上旬、数回の飛行を天候に妨げられた武市機は、月齢の関係もあって一度ジャワに引き揚げた後、1月末に作戦を再開。2月1日未明、オーム岬への胴体着陸に成功している。

 なお、この武市機をウエワクで迎えた第51師団歩兵第66連隊の飯塚栄地軍曹は、その感激を以下のように記している。

「昭和20年の2月爆撃機一機がマラリアの特効薬であるキニーネと、無線機に必要な乾電池、自活に必要なトーモロコシの種をつみ、遠いボルネオから運んできた。しかもこの飛行機はウエワクに胴体着陸をしたのであった。私たちはその前日と当日の夜、飛行場の爆弾穴を埋める使役に駆りだされた。日本の飛行機がくるのだという。果してうまく撃墜を免れて無事に到着するであろうか。かたずを呑んで待っていると、午前一時ごろ爆音が響いてきた。日本機がきたのだ。日本機だ。われわれは胸が抉られるような喜びと、形容し難い感激で、ぼうぜんとし、声もでなかった。飛行機が着陸して、ホッとわれにかえった兵士たちはバラバラとかけ寄り、敢て死地に飛込んできた飛行士に対し、感激のことばをいくどもいくどもあびせるのだった」

 長く東部ニューギニアに孤立した状態に置かれていた第18軍の将兵が、日本軍機の飛来をどのような感情で受け止めたかを、ありありと示した文章であろう。その後、武市中尉らも、終戦までニューギニアで地上戦闘任務に就いている。


4 まとめ
 以上1〜3のウエワクへの連絡飛行は、いずれも敵の制空権下で、重爆撃機単機により行われたものである。特に、2〜3は夜間飛行、3は胴体着陸によりウエワクに無事到着しており、日本軍操縦士の技量の高さを示す見事な成功例だったと言うべきだろう。
 これらの空輸により補給を受けた第18軍は、玉砕寸前の状態に追い込まれながらも、終戦まで上級司令部との連絡を維持することができた。そして、約1万名強の将兵が生きて終戦を迎えたのだった。


<参考文献>
・戦史叢書「東部ニューギニア方面陸軍航空作戦」pp662〜663
・戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」pp527、568〜569、658
・高木茂「ニューギニアへの緊急空輸と現地生活」(平和祈念展示資料館ウェブサイト)
・ラバウル・ニューギニア陸軍航空部隊会「幻 ニューギニア航空戦の実相」pp438〜439
・星野一雄「激闘ニューギニア戦記」(光人社NF文庫)p117
・飯塚栄地「パプアの亡魂」(日本週報社)p217
・田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍」(ゆまに書房)pp498〜499
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」所収、藤井清「ヌンホル支隊の作戦」pp130〜132


(2019.8.18追記)
 昭和20年1〜2月の武市機の飛行については、秦郁彦「第二次大戦航空史話 上」(中公文庫)の第8章「三十四年目の感状授与式」でも詳しい経緯が述べられているので、合わせて紹介しておく。

posted by A at 13:39| 戦史雑記(日本軍) | 更新情報をチェックする