2019年05月26日

【本】児島襄「マニラ海軍陸戦隊」

「マニラ海軍陸戦隊」 児島襄/新潮社/1969年

 昭和20年のマニラの戦いの模様を、生還将兵の証言を元に描いた戦記。

 寄せ集めの陸海軍部隊が凄惨な市街戦を戦った、マニラの戦いの実像を追った作品である。生還将兵を取材した著者によれば、マニラで米軍を迎え撃った将兵は、元々はマニラで激しい戦闘を行うことは想定していなかったようである。陸軍野口支隊の藤井中尉(臨時歩兵第2大隊第5中隊長、生還)は、戦いが始まる前のマニラの雰囲気を以下のように証言している。

「まさかマニラでひどい戦争になるとは予想していませんでしたね。せいぜい適当に戦ってひきあげるのだ、という話でしたし、だいいち、華僑は逃げ支度をしているようだったが、フィリピン人ときたら、別にどうということもない。それに、わたしたち陸軍は、みんな、現地召集でしょ。フィリピン人の知り合いも多いし、つきあいもつづいている。いってみれば、マニラで短期入営したような気持ちでしたよ」

 ところが、米軍がマニラに来攻すると、各部隊は市街地で本格的に敵を迎え撃つことになり、戦いの様相は酸鼻を極めたものとなった。マニラ戦がこうした悲惨な展開を辿った原因としては、海軍指揮官の岩淵三次少将が戦闘途上の2月11日にマニラ死守命令を出したため、各部隊が脱出の機会を失ってしまったことや、現場の命令が二転三転して混乱を招いたことなど、現地司令部の指揮命令が適切さを欠いたことが挙げられるだろう。一定数の将兵は、戦いの前半期にマニラからの転進に成功しており、撤退時期を誤らなければ、日本軍将兵やマニラ市民の損害はもっと少なくて済んだのではないかと思われる。

 ただ、現地司令部の判断に責められる部分があったにせよ、それと同時に、彼らが多種多様な上級司令部の判断に振り回された事実も合わせて考慮すべきであろう。陸海軍とも、マニラ放棄論・死守論をそれぞれ唱える関係司令部が存在したり、戦闘開始後も、撤退命令(例:2/15、振武集団長・横山陸軍中将)が出されたり、敢闘死守の激励電(例:2/16、連合艦隊司令長官及び大本営海軍部)が出されたりと、上層部の意思がまるで統一されていないことが本書から見て取れる。陸海軍の連携の欠如、あるいは屋上屋を重ねたような複雑な指揮命令系統は、各地の戦場で日本軍の戦力発揮の阻害要因となったが、マニラ市街戦は、そうした不効率・不適切さを最も凝縮した形で示した、悲劇の戦場だったと言えるだろう。

 このような錯誤がもたらした必然の結果として、本書の後半では、壊滅していくマニラ防衛部隊の最後の模様が詳しく描かれている。生き残った将兵が財務省、農商務省、議事堂の3ビルの廃墟に追い詰められ、戦車と砲に包囲されて絶望感を深めていく中で、海軍岩淵少将は2月26日未明に農商務省ビルで自決。一方、財務省ビルに陣取った陸軍野口支隊本部では、25日夕刻に最後の幹部会議が開かれていた。その模様を以下に引用する。

「『これは、みんなの意見もぜひ聞きたいと思ってな』
 野口大佐は、一同の緊張をときほぐすように、ゆっくりと微笑をうかべながら、
『戦況は、みんなも承知のとおりだ。だいぶ、詰ってきたと思う。あとは、ひとつ、最後の花を咲かすことになるが、さて、どんな花の咲かせかたをするか、それを相談しようと思うてなア』
 さりげない、むしろ、気楽なくらいの話しぶりだが、一同には大佐の意向はよくわかった。
 敵を待って差し違えるか、斬込みにでるか――いずれにしても死は免れないが、死の型は選べる、というのである。二つに一つ、選択は容易なはずだし、その点については、各将校とも何度か考えたことがあるが、さあ、と促されてみると、すぐに答えはでない。
『どうだ、兵の意見も聞いてみては……』と、野内少佐(注:臨時歩兵第2大隊長)の言葉をしおに、一同はいったん部屋を出た。和田中尉(注:同大隊副官)も廊下をへだてた斜め横の部屋に入り、集まる第二大隊本部員に意見を求めた。一人が即座に返事をした。
『副官どの。わしらもそれを考えとったんですが、ここで腹切って死ぬのも忠義かもわからんが、ともかく出て行って、一人でも敵を倒すほうが、もっと忠義にならんかと思います。同じ死ぬなら、そうしたい思うとります』
 どや、みんな、と呼びかける声に、居合わせた兵たちは、いっせいに賛成を応えた。和田中尉が野口大佐の部屋に戻ると、やがて次々に現われた将校たちも、一致して部下の斬込み志望を報告した。
『よし、決めよう。午前一時出撃』」

 こうして、26日未明に斬込みに出た野口支隊の残存将兵は、結局ルネタ公園付近で集中砲火を浴び、ちりぢりに倒れて死んだ。その中で、和田中尉が負傷しつつも奇跡的に振武集団の陣地に辿り着き、野口支隊の最後の模様を伝えることとなった。軍上層部の意思決定の混乱のあおりを受けながらも、ただ実直に戦って死んだ将兵たちがいたことは、記録に留められるべきであろう。

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2019年05月19日

【本】織井青吾「方城大非常」

「方城大非常」 織井青吾/朝日新聞社/1979年

 1914年に発生し、671名(一説には1,000名以上)の死者を出した炭鉱事故、「方城大非常」の実態を追ったノンフィクション。

 日本史上最悪の炭鉱事故と呼ばれる、方城大非常(参考:wikipedia)を取り上げたノンフィクション作品である。坑夫たちが方城炭鉱で働くに至った経緯や、事故直後の炭鉱の惨状、遺された家族の姿などをつぶさに記録し、当時の炭鉱労働者たちが置かれた厳しい労働環境を詳細に描き出している。幅広い読者を獲得した山本茂実の「あゝ野麦峠」や、北海道のタコ部屋労働者の実像を追った小池喜孝の「常紋トンネル」(こちらに全文掲載あり。非常に読み応えのある内容ですが、深夜には読まない方が良いかも)と同様、昭和中期に朝日新聞社が刊行した記録文学の名作の一つだが、これらの二書と異なり、なぜか本書は文庫に収録されておらず、惜しまれる点である。

 この炭鉱事故の特徴の一つは、事故による死者の数が正確に特定できていないことであろう。炭鉱経営企業である三菱鉱業は671名という犠牲者数を公表しているが、当時の新聞報道や各種の記録・証言はさまざまな数字を示しており、その実態は掴みづらい。著者は、当時の出炭量や出勤坑夫数を詳しく調査し、それらの数字を元に1,000名以上の犠牲者が出たと結論づけており、この数字は地域の古老の言い伝えとも合致するものである。

 そして、公表された犠牲者数と実態の数が乖離した原因として考えられるのは、@第一次大戦による増産の中で、炭鉱側は生産を上げるべく坑夫集めに狂奔し、人員管理が極めてずさんになっていたこと、A姓名や年齢や本籍を偽らなければならなかった坑夫や、文盲で正確な文字を知らなかった坑夫など、入坑者名簿が不正確な者が多数存在し、これらの者が死者数にカウントされなかった可能性があること、B当時は1,000名以上の死者を出すと炭鉱が閉鎖させられるとの風説があり、会社側もこの点を危惧していたこと、等が挙げられている。真相はもはや闇の中であるが、本書中に示された著者の推論は、相応の説得力を持つもののように思えた。

 なお、著者が本書の執筆を行った時点で、事故から既に60年以上が経過しており、当時の実情を知る人も減り、記憶の風化も進みつつあった。そうした状況の中で、著者は上述のような点も含めて事故の実態を調査し、その詳細を本書によって後世に残している。このような記録者としての著者の業績は、たとえ目立たないものであるとしても、高く評価されるべきものであろう。

posted by A at 18:17| 本(ノンフィクション) | 更新情報をチェックする