2018年09月29日

日本陸軍の軍司令官・参謀長人事に関する雑感

 前回の記事を書くに当たり、広中一成氏の著書「牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか」(星海社新書)を読んだ。同書の中では、河辺正三・ビルマ方面軍司令官と牟田口廉也・第15軍司令官の関係などについて考察が行われているが、太平洋戦争当時の日本陸軍の軍司令官・参謀長人事について、個人的に気になったことを書き留めておきたい。

1 軍司令官人事について
 陸軍の軍司令官人事では、「一度組んだコンビをもう一度組ませる」という例は時々見られる。例えば、

・今村均と加藤鑰平(第23軍司令官と参謀長、のち第8方面軍司令官と参謀長)
・山下奉文と鈴木宗作(第25軍司令官と参謀長、のち第14方面軍司令官と第35軍司令官)
・阿南惟幾と豊嶋房太郎(第11軍司令官と第3師団長、のち第2方面軍司令官と第2軍司令官)
・河辺正三と牟田口廉也(支那駐屯歩兵旅団長と連隊長、のちビルマ方面軍司令官と第15軍司令官)

などが挙げられるだろう。

 このうち、今村と加藤の例は、両者の仲も良好で、見事な実績(終戦までラバウル防衛)を残している。また、山下と鈴木の例は、1回目は大勝、2回目は大敗に終わったが、2回目に関しては、誰がやってもこの結果は避けられなかったものと思われ、人事としての評価は難しい面がある。

 これらに対して、阿南と豊嶋の例は、そもそも1回目からして大失敗(第二次長沙作戦)であり、なぜもう一度、しかも濠北という重要方面でコンビを組ませたのか、かなり理解に苦しむ人事である。案の定、2回目の西部ニューギニア戦線でも、阿南の行き過ぎた積極性に引きずられる形で、松山支隊のホーランジア派遣(注:約4万の米軍が上陸したホーランジア奪回のため、サルミから、歩兵2個大隊基幹の松山支隊を派遣しようとした事例。サルミ−ホーランジア間は約400km)という誤判断が行われている。

 この松山支隊の派遣については、現場の第36師団が反対していたこと、参謀本部(次長)や南方軍(総参謀長)も反対していたこと、にもかかわらず阿南が強硬に実施を主張したこと、阿南の主張を尊重する形で寺内寿一・南方軍総司令官が作戦を承認したことなど、インパール作戦と類似した構図が見られる。こうした意思決定過程の詳細は、戦史叢書「豪北方面陸軍作戦」に記録されているが、阿南が参謀総長指示や南方軍命令に従わない意向を示す電報を発し、大本営から叱責電を受けるなど、インパール作戦の承認過程よりも問題のある点さえ見受けられる。

 松山支隊の事例が、後世において目立った批判の対象になっていないのは、インパール作戦よりも小規模で目立たないこと、作戦開始直後にサルミにも米軍が上陸したため問題が顕在化しなかったこと(松山支隊が袋の鼠になり、かつ、兵力の手薄なサルミを失陥するような最悪の事態に至らなかったこと)、そして、阿南本人の人格のためであろう。あくまで個人的な心情論として言うならば、終戦時の阿南の身の処し方のことなどを考えると、(牟田口と異なり)阿南の責任を追及する気にはなれない部分がある。
 ただ、河辺と牟田口という人事の失敗例について、学問的な視点から研究するのであれば、阿南と豊嶋の組合せについても掘り下げ、その共通点を抽出することは、一つのアプローチになるのではないかと思われる。


2 軍参謀長人事について
 また、陸軍の人事に関しては、担当する戦域で不足している要素を、軍参謀長人事で補おうとする「癖」があるように見受けられる(こうした傾向の存在については、過去にも何かの本で触れられていた記憶がある)。
 私見として挙げるならば、以下の例が該当し得るだろう。

・上陸作戦を行うマレー(第25軍)では、運輸畑(参謀本部第3部長)の経験がある鈴木宗作
・地形複雑で移動困難な東部ニューギニア(第18軍)では、工兵出身の吉原矩
・航空主体の防衛戦が想定される西部ニューギニア(第2軍)では、航空兵出身(転科)の藤塚止戈夫
・兵站が不安視される北ビルマ(第15軍)では、輜重兵出身の小畑信良
・逆上陸作戦が想定される千島(第27軍。海上機動旅団2個が配属)では、参本船舶課長などを務めた鈴木敬司
・フランス植民地政府との軍事・経済協力が求められるインドシナ(第38軍)では、フランス駐在と陸軍派遣学生(東京帝大法学部政治学科)の経験がある河村参郎

 これらのうち、失敗だったと評価せざるを得ないのは、そもそも軍司令官と参謀長個人の能力に疑問符が付く第2軍(一例として、イドレ死の行軍)と、軍司令官と参謀長の相性が最悪だった第15軍であろう。参謀長の専門分野に着目して人事を行っても、その他の要因により上手くいかない場合があることを示す例であり、人事の難しさを物語るものと言えるだろう。

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2018年09月17日

広中一成氏らの見解への疑問(高木俊朗の作品について)

 前回、牟田口廉也の宴会エピソードに関する記事を書いたが、その後、再びジセダイ総研に、「昭和陸軍と牟田口廉也 その「組織」と「愚将」像を再検討する」という座談会レポート(以下、単に「レポート」と呼ぶ)が掲載された。
 このレポートの内容にも疑問点が多々あるので、改めて検証してみたい。

1 「抗命」と「戦死」の記述の重複説について(1)
 レポートの中では、以下のようなやり取りが行われている。

「広中:たとえばですが、高木俊朗の『抗命』の中に、牟田口が第十五軍司令部に作らせた遥拝場の前で、撤退してきた幹部の前で長々と精神訓話を垂れて、栄養失調の幹部たちがバタバタと倒れた......という有名な逸話があります。
辻田:ああ、誰でも知っているようなやつですね。
広中:ところが、おなじ高木の『戦死』にはこれに極めて類似した逸話が、桜井徳太郎のものとして出てくるんですよ。こうなると、実証史学的にはどちらも採用できない。証言者についてもぼかされている。」

 これらは、高木俊朗「抗命」(文春文庫版)のp243〜245、「戦死」(同)のp319の記述のことを指すものと思われるが、「抗命」のp243では、
「情報班の中井悟四郎中尉は『歩兵第六十七連隊文集』第二巻に、次のように記述している。」
と、この逸話の出典は明確に示されている。「証言者についてもぼかされている」との発言は、事実に合致したものではない。

 また、「戦死」の記述については、同書のp319〜322で、桜井徳太郎歩兵団長の「訓示」(こちらには出典の記載がない)が紹介されている。その中で、牟田口の逸話と類似するのは、

「一地固守の任務を有する部隊が、弾丸のある限り、力の続く限り、手を切られたら足で戦い、手足を切られたら、口で噛みつき、息が絶えたら怨霊となって敵を悩ます」

の、下線を引いた1行に満たない部分だけであり、「戦死」に掲載されている全56行の長文の桜井訓示を読むと、牟田口逸話とは全く異なる内容であることがよく分かる。
 そして、この牟田口と桜井の類似発言の元となったのは、「葉隠」の聞書第七の、

「刀を打折れば手にて仕合ひ、手を切落さるれば肩節にてほぐり倒し、肩切り離さるれば、口にて、首の十や十五は、喰切り申すべく候。」

という部分であろう(詳細は、こちらの「八七〇」を参照)。つまり、牟田口と桜井の発言は、両者が「葉隠」から同じ表現を引用し、それがたまたま被っただけと見るのが自然であり、これをもって「逸話の重複」とするのは、かなり無理のある主張ではないか。

 なお、wikipediaの「牟田口廉也」のページでは、このような無理筋の話を掲載したり、「参考文献」の項目の高木俊朗の著作に、わざわざ「以下は小説である」という断り書きを付けたりと、以前から、高木作品の信憑性の低さを印象付けようとする試みが見受けられる。旧軍の問題点を厳しく批判する著作であるだけに、高木作品は、一部の層にとっては目障りな存在なのだろうか。


2 「抗命」と「戦死」の記述の重複説について(2)
 また、1でレポートを引用した箇所の、広中氏の発言の中に、「こうなると、実証史学的にはどちらも採用できない」との言及がある。

 しかし、同じような逸話が両書に記載されているからといって、「どちらも採用できない」と即断することはできず、まずは両者の出典の内容を確認すべきなのではないか。中井中尉の手記をチェックした上で、「『抗命』の記述には明確な出典があるが、『戦死』の方は出典が確認できず、『戦死』の記述に関しては事実関係が疑わしい」という見解が示されるのであれば分かるし、「中井手記を調べたが、このような理由によって、『抗命』の記述も信憑性がないものと判断した」との説明がなされるのであれば、それもひとまず傾聴すべき主張であろう。
 一般的に、「実証史学」では、このような面倒な確認作業は行わないものなのだろうか。

(2018.12.23追記:桜井訓示についても、「戦死」のあとがき(p364)に、出典が桜井の日記であることが明示されていたので補足しておく。高木は桜井本人に対し、日記を「戦死」に引用することについて承諾を求め、快諾を受けているとのことである。)


3 牟田口と藤原の「腹切り問答」について
 また、レポートの中では以下のやり取りがある。

「辻田:切腹の逸話はどうですか?
平林:参謀だった藤原岩市の証言ですね。腹を切ろうかと思うと言った牟田口に対して、古来より腹を切ると言って切ったものはいない、切腹するなら誰にも言わずにしろ......というような応答があったという。
広中:この証言も取り扱いが難しくて、藤原ってインパール作戦推進派だったんですよ。なので、このような会話があったとしても、ニュアンスまで正確かどうかはわからない。だいたい、この藤原証言のなかで、本人はインパール作戦の実施に積極的であったことを隠していますから。」

 まず、この腹切り問答が「藤原岩市の証言」という点が間違っており、これは第15軍司令部情報班で藤原の部下だった、上述の中井悟四郎中尉の証言である(「抗命」p277に明記されている)。中井中尉は、上司として仕えた藤原の働きぶりを高く評価していた人物であり、この場面を描写するに当たって、作戦推進派だった藤原の無責任な言動を、あえて追及する動機は持っていないものと考えられる。
 つまり、レポートのこの箇所は、そもそも議論の前提を誤った上で、高木作品の信憑性を疑おうとしている。登壇者全員が単純に事実誤認を犯していたのか、故意なのかは知らない。


4 回想録の取扱いについて
 実証史学における回想録の取扱いについて、広中氏は、レポートの中で、「やはり、実証史学ではできるだけ回想録は使用すべきでないんです」との発言をされている。

 一方で、広中氏の著書「牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか」(星海社新書)の参考文献には、深沢卓男「祭兵団インパール戦記」、斎藤政治「『烈兵団』インパール戦記」、前田正雄「菊兵団ビルマ死闘記」のような、第一線で戦った将兵の回想録が複数含まれている。この中でも、特に深沢の「祭兵団インパール戦記」は、どこまで本当か分からないような個人的な自慢話を書き連ねた、かなり読むに堪えない一書である(あの光人社が、何故こんな本をNF文庫に加えたのか、以前から疑問に思っている)。実証を旨とするのであれば、このような本は真っ先に除外されるべきではないか。

 あくまで個人的な感想だが、回想録の取扱いについては、実際に様々な回想録に触れた上で、不正確な記述は他の根拠をもって否定すればよいのであって、入口で回想録の類をシャットアウトしようとするやり方は、あまり望ましいものではないように思われる。前回の記事でも触れたが、公的史料や高級軍人の記録のみに依拠して議論を展開しようとすれば、公的サイドに都合の悪い情報は必然的に捨象されることとなり、導き出される結論に偏りが出てくることは、どうしても避けられないのではないか。
 私自身は歴史学の専門的な教育を受けていないので、単なる素人の印象でしかないが、実証史学が売れないとすれば、それは「面白くないから」ではなく、アプローチの潔癖性にこだわるあまり、議論の着地点が正鵠を射ていない場合があるためではないか(前回の広中記事を見た限りの感想だが)。


5 終わりに
 ここまで厳しいスタンスで書いてきたので、念のため追記するが、これまでの広中氏の研究業績は、高く評価すべきものと思う。特に、太平洋戦争開戦までの日中関係の研究については、学術的にも手薄と思われる分野であり、今後、20年、30年と長く研究され、発言を続けていただきたいと思っている(同年代の方のようなので、個人的にも応援している)。

 だからこそ、先月以来の高木俊朗をめぐる広中氏の主張は、氏にしてはあまりにも杜撰であり、非常に残念なものと言うほかない。失礼を承知で申し上げれば、氏自身が設定した「牟田口は過剰に貶められているのではないか」というテーマを立証しようとするあまり、内容を十分に精査せず、拙速に発言され過ぎているのではないか。こんな無名のブログで何を言おうが、ご本人が御覧になることもないと思うが、一歴史ファンとして触れずにはいられなかったので、今回の記事を書いた。


<余談>
 広中氏の「牟田口廉也」を読んでいて気付いたのだが、盧溝橋事件の際に牟田口の部下だった歩兵砲隊長の「久保田尚平大尉」は、後にルソン島で久保田支隊(詳細はこちら参照)を率いた、捜索第23連隊長の久保田尚平中佐と同一人物なのだろうか(一木清直が少佐の頃なので、階級は大体符合しているように思われる)。
 もしそうだとすれば、盧溝橋事件に部隊長として関わった人物は、河辺正三(旅団長)と牟田口(連隊長)がインパール作戦、一木清直(大隊長)がガダルカナル戦、久保田尚平(歩兵砲隊長)がルソン戦、小岩井光夫(中隊長)がポートモレスビー・ギルワ戦と、後の太平洋戦争で軒並み厳しい戦場に送られたことになる。偶然の結果に過ぎないのだろうが、無情な運命である。


<インパール作戦についての備考>
 インパール作戦の概要については、防衛省(防衛研究所)のサイトに掲載されている、元一等陸佐・防衛大学校教授の荒川憲一氏の論文が、よくまとまった内容になっている(こちら参照)。本作戦にご関心のある方には、この論文の参照を薦めたい。


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2018年09月01日

広中一成氏の「牟田口廉也の宴会エピソード」否定論について

 星海社新書から「牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか」を刊行された広中一成氏が、ジセダイ総研というサイトで、「牟田口廉也「愚将」逸話の検証 伝単と前線将兵」という記事を発表されている(以下、「広中記事」と呼ぶ)。その中で広中氏は、「牟田口中将がインパール作戦中に連日宴会を開いていた」とのエピソードに関して、「宴会逸話の初出は高木俊朗の著作か」などとして、その信憑性に疑問を呈されている。
 この広中氏の見解が妥当なものかどうか、検証してみたい。

 なお、「軍人が宴会に興じていた」などという事実は、公文書に記録されるような性質の話ではないし、当事者が日記などに記録したがる事柄でもない。公的史料や当事者の記録だけに頼って立論しようとすれば、「そのような事実は発見できなかった」という結論に至ることは極めて当然であり、事実関係を明らかにするためには、当事者の周囲にいた人々の証言に当たることが必須であることを、前提条件として述べておきたい。


1 メイミョウの第15軍幹部について
(1)成田記者の手記
 広中記事にもあるとおり、「牟田口宴会逸話」は、高木俊朗の「憤死」という作品の中で紹介されているものである。広中記事から引用すると、

「同書には、牟田口が夜ごと開いた宴会の様子が次のように記されている。
『牟田口軍司令官は豪壮な洋館を官邸にしていた。その庭に小道があり、衛兵が二十四時間、立哨していた。その小道をくだると、晴明荘という料亭に通じていた。牟田口軍司令官は夜ごと、ゆかたを着て晴明荘にかよった。酒と女に対する欲望に飽きることのない人であった(引用者中略)一風呂浴びると夜は宴会、高級車で料亭へ横づけだ。ここの料亭も御多分にもれず大阪付近の遊郭からはるばるやって来た慰安婦たちの一行である』(『憤死』261〜262ページ)。
 高木のインパール五部作は、いずれも牟田口に対する評価が厳しい。その厳しさは、ときには感情的とも受け取れる。この牟田口の宴会での様子は、彼の愚かさを表すにはもってこいのエピソードである。しかし、この記述は出典が不明確で、当時の牟田口がつけていた日記などもないため、史料的裏づけがとれない。」

 こちらを御覧いただければお分かりになるが、広中氏が引用した「憤死」の記述の、「(引用者中略)」以降の部分は、「朝日新聞社の成田利一記者」の記録を出典としているものである。
 太平洋戦争中、朝日新聞社の報道班員として第15軍に同行していた成田記者は、戦後、「運命の会戦」という手記(以下、「成田手記」と呼ぶ)を著しており、これが「秘録大東亜戦史 マレー・ビルマ篇」(富士書苑、1954年)という本に収録されている。この手記によれば、昭和19年3月のインパール作戦発起に際して、報道各社の担当方面は、第33師団(弓兵団)が毎日、第15師団(祭兵団)が読売、第31師団(烈兵団)が同盟、フーコン戦線が朝日と決められたが、作戦の準備段階からメイミョウに駐在していた成田記者は、第15軍司令部で戦局全般を担当することとなり、そのままメイミョウに残留。翌月、軍司令部がインタンギーに進出する際にも同行しており、牟田口中将を間近で観察し続ける立場にあった人物である。

 なお、余談ながら成田記者は、インパール作戦開始前、牟田口中将本人から、「今のうちに暇でもあったら読んで見給え、なかなかいいことが書いてある」として、尾崎士郎の小説「成吉思汗」を借り受けたという逸話の持ち主である。同書の各ページには、牟田口中将により赤鉛筆でアンダーラインが引かれており、特に山羊を伴って長駆遠征に上るくだりには、「全々同感、断じて行えば成らざるなし」との書き込みがあったそうである(推測でしかないが、牟田口の「ジンギスカン作戦」の着想は、案外このあたりから来ているのではないか)。

 そして戦後、無事に日本に帰還した成田記者は、ビルマでの体験を元に成田手記を残しており、その冒頭に以下の記述がある。高木俊朗が「憤死」に引用した内容の、元となったのはこの部分であろう(ただし、高木は一部省略して引用しているようである)。

「昭和18年9月、雲南で僅かに戦局が動いた後の第15軍は、半歳以上もビルマ随一の避暑地メイミョウに腰をすえて、全インドを席捲したかのような甘い夢を見続けていた。
 メイミョウというところは、マンダレーを小田原に譬えると、ちょうど箱根の強羅か仙石原あたりに相当する。マンダレーから東北に九十九折の山道を上りきると、亭々とした木蔭に茶店もあって、ビルマにもこんな涼しいところがあるのかと驚く。ここから坦々たる舗装道路が並木の中を北に走り、自動車で三十分も飛ばすとメイミョウの街に入る。蚊も蠅も少ない清潔な町で、英国人の高官や富商の別荘が緑濃い森の中に点々と散在し、幅広い自動車道路が森の中を縦横に走っている。市場や印度人、中国人の商店街も物静かだ。
 こんな住みよい土地に、軍司令官はじめ全幕僚達は、広々した別荘を一軒ずつ私邸として構え、副官や当番兵にかしずかれて貴族のような生活を続けていた。
 西洋館のガッチリした建物に入ると、大工出の兵隊達が腕をふるって、内部はすっかり日本座敷に造作変えされ、床が上げられ、床の間や違い棚、丸窓まであるといった数寄屋造りである。司令部から我家に帰り、長靴を脱いで、座布団にドッカと大あぐらをかけば、まずまず天下泰平の図だ。当番の汲んで出す茶を飲み、一風呂浴びると夜は宴会、高級車で料亭へ横づけだ。ここの料亭も御多分に洩れず大阪付近の遊郭からはるばるやって来た慰安婦たちの一行である。
 牟田口軍司令官から「清明荘」という名前を頂戴して、大きな別荘を貰い、そこを沢山の小座敷に作り上げて、将校専門に酒色のサービスをしたのである。兵隊さん達は勿論オフリミット、高級車の運転台で、お座敷の放歌高吟を遠くに聞きながら主人のお帰りを待つだけである。酔った将校達はよく「上野駅から九段まで……」の歌を三味線に合わせて唄っていた。
 新聞記者係りの藤原岩市参謀などはこの歌が十八番で、手拭を姉さんかぶりにして、哀れな軍国の老婆の振りつけよろしく、なかなか見事に踊った。この踊りだけは今だに感心している。兵隊さん達の酒保では、調子の悪いピアノを叩きながら「誰か故郷を思わざる」が大流行で、やりきれない戦争の悲哀感がこもっていた。
 内地では婦人たちがモンペに火叩き装束で女らしい生活をかなぐり捨てている時に、メイミョウの清明荘ではパーマの女たちが美しく化粧し、絹物の派手な着物に白足袋姿で「お一つどうぞ」と酌に出て来る。鳥肉や乙な吸物、口取り、酒は原地製だが日本酒、ウィスキー、ブランデー、板前の腕は大したこともないが、盛りつけの器類は皆内地から運んだ立派な皿小鉢だ。弾丸を運ぶべき船で、自動車で、よくもこんな皿小鉢をここまで運んだものだとびっくりする。こうした環境の中で第十五軍の首脳者たちは大作戦の構想を練っていた。」(p412〜413)

 以上を読んだ限りでは、この描写は、「昭和18年9月」の第15軍司令部の様子を描いたもののようであり、インパール作戦期間中のものではない。ただ、この時期(10月以降)、第15軍隷下の第18師団(菊兵団)が、悪疫瘴癘のフーコン戦線で苦戦を続けていたことを考えれば、これだけでも第15軍幹部の資質を疑わせる内容と言うべきだろう。

 その他に、成田手記の中で、第15軍幹部が放逸な暮らしを続けていたことを窺わせる記述としては、「決戦の年、昭和19年を梅も桜も桃も一度に咲くメイミョウで迎えた。2月になると軍司令部も次第に活況を呈して来た。清明荘も追込み作戦でますます繁昌している」(p415)、「15軍司令部が極楽の地、メイミョウを降りて、インパール前線、インタンギーに指揮所を移動させ始めたのは、四月も半ばを過ぎたころであった」(p417)というものがある。これらを踏まえれば、昭和18年9月以降も、清明荘をめぐる状況はあまり変わらなかったのではないかと推測されるが、以下の(2)で、インパール作戦中の第15軍司令部の様子について触れたい。

 なお、補足として、成田手記の中では、抗命撤退を行った佐藤幸徳中将についても厳しい批判が行われており、この手記は牟田口を貶める目的で書かれたものとは言いがたいことを付言しておく(ちなみに、ビルマ戦線末期を戦った弓の田中信男中将、烈の河田槌太郎中将などは好意的に描かれている)。


(2)齋藤少尉の証言
 インパール作戦当時に第15軍司令部で勤務していた、齋藤博圀・元少尉の証言が、「戦慄の記録 インパール」(岩波書店、2018年)に収録されている。軍幹部の宴会に関わる部分を以下に引用する。

「厳しい戦況を知らせる前線からの報告を、この料亭(注:清明荘)で伝えることもあったという。齋藤元少尉は悔しさを押し殺しながら、こうインタビューに答えている。
『私は、あそこで、あの人たちにいろんな情報を報告しました。そのときに、彼らは、日本から来た芸者を相手に飲みながら。だから、一将校の命がけの連絡も、芸者のところで聞いていたわけです。誠実に報告してもだめです。命をかけた戦の大事な情報を、女と酒を飲みながら、聞いていた』」(p116)

 実際に第15軍司令部で勤務していた将校の証言であり、成田手記の内容との矛盾も見られない。齋藤証言を否定するに足る根拠は、特に見当たらないのではないかと思われる。
(なお、この齋藤証言の存在は、個人的に、kkさんという方のツイートで初めて承知した。感謝とともに付記しておきたい。)


(3)その他の証言
 石田新作・元軍医大尉が著した「悪魔の日本軍医」(山手書房、1982年)に、昭和18年6月当時、石田大尉が実際に清明荘で遊んだ時の体験談が記されている。その中では、「夜になるといつも、料亭の前には赤い旗(佐官旗)、黄色い旗(将官旗)をつけた乗用車がずらりと並んでいた」、「牟田口中将がナンバーワンの芸者を落籍し、軍司令官の宿舎で同居していると噂されていた」ことが触れられている(p139〜141)。

 また、「悲運の京都兵団証言録 防人の詩 インパール編」(京都新聞社、1979年)には、「牟田口中将が同居し寵愛する芸者は、化粧を控えめにした清楚な雰囲気の女性だったことから、『麗人』と呼ばれていた」、「この女性のことは、軍司令部内でも一部の高級将校しか知らない秘事とされていたが、事実は軍司令部に勤務する三百余人の将校たちの間で公然の秘密となっていた」、「インパール作戦開始後も牟田口中将がメイミョウを離れないのは、『麗人との別離がつらいのだろう』との風評がささやかれていた」ことが述べられている(p79〜80)。ただし、同書は、巻末に紹介されている参考文献の量が膨大であり、上記の記述がどの文献を根拠としているかまでは突き止めきれなかった。

 また、辻政信の「十五対一」(原書房、1979年ほか)には、新設の第33軍の参謀を拝命した辻が、昭和19年7月にメイミョウに着任した時の印象として、「軽井沢に優るとも劣らぬ快適の地にいて、あの苛烈極まる作戦を想像し得る道理がない。『こんな所にいては碌な戦争が出来る筈はない』というのが到着の第一印象であった」、「翠明荘(原文ママ)という将校専用の慰安所も、その界隈の下士官兵の慰安所も昼間から大入満員の盛況である」ことが記されている(p50〜51、53)。


(4)まとめ
 以上の各記録、特に成田手記と齋藤証言を踏まえれば、インパール作戦前、そして作戦期間中に、第15軍の幹部たちが芸者とともに宴会に興じていたことは、事実と見るべきではないかと考えられる。厳密に言うならば、その幹部たちの中に「牟田口」本人が確実に含まれることを示す決定的な文献は、この一週間程度で調べた限りでは、残念ながら見つけることができなかった(彼一人が、他の幹部たちと異なり清潔だったとする根拠も見当たらないが)。しかし、少なくとも、第15軍幹部たちの乱脈ぶりは、牟田口の軍司令官としての統率の至らなさを示すものであり、その責任は司令官たる牟田口も負うべきものであろう。
 いずれにせよ、高木俊朗が「憤死」で紹介した「牟田口宴会逸話」を、「牟田口を貶めるためのエピソード」と位置づけることは、高木が無から有を創作したような誤解を与えかねない、不適当な表現ではないかと思われる。


2 ラングーンのビルマ方面軍幹部について
 広中記事では、ラングーンの料亭「翠紅園」(文献により、「粋香園」「粹香園」など複数の表記あり)についても言及がある。この翠紅園については、読売新聞社からビルマに従軍記者として来ていた若林政夫が、「秘録大東亜戦史 ビルマ篇」(富士書苑、1953年。先ほどの成田手記の掲載本とは別の本)に寄せた「ラングーンに傲るもの」という手記の中に、以下のような記述がある。

「びっくりしたことは陸海競って専用料亭を持ち、日とともに日本の女の子が殖え、いやな言葉だがいわゆる慰安所という、お女郎屋が雨後の筍のようにニョキニョキ出来てゆくことだった。
 そのお職は、なんといっても陸軍の星の旦那方が御専用の粋香園に止めをさす。
 こいつがラングーンに進出したことについてはこんなことが、まことしやかにいわれていた。
 粋香園というのはかっての軍都久留米の料理屋で、例の割腹自殺をした杉山元帥が久留米の師団長時代にごひいきにしていた家だとかで、大の客筋の師団はなくなる。統制統制でにっちもさっちもゆかなくなって、廃業の御挨拶におやじが元帥邸に伺候したところまあもう少し待て、俺が、いい口をさがしてやるということになった。それから間もなく戦争がはじまる、直ぐ上京せよということで、お前ラングーンに行けということになったのだと。ありそうなことだ。
 それはともかくとして、ラングーンの一流のクラブをいただいて、そこに陣取ったこの一隊は総勢百五十名になんなんとする大部隊で、芸妓、雛妓はもとより女中、下働き、料理番。これまではわかるがあとが凄い。髪結いさんに三味線屋、鳴物屋、仕立屋に洗張屋にお医者さんまで、これが婦人科兼泌尿科医であることはもちろんのことだ。それに青畳、座蒲団、屏風、障子、会席膳一式まで海路はるばる監視哨つきの御用船で、つつがなくラングーンに御着到になったのだ。
 湿気の多いビルマでは三味線も太鼓も鼓も、こわれやすいし、御相手がお相手で、相当の破損を覚悟してのことと、暑いビルマではおべべも、汗まみれになるというので仕立屋さんや、洗張屋さんも配属となったもの。それでも輜重行李から、衛生隊まで引つれての進撃ぶりは大したものだ。それだけに、お値段も滅法おたかく相手にもしてくれなかったが、何もかも留守宅送金の僕ら軍属どもには無用の長物、高嶺の花だった。
 灯ともしごろともなれば、青、赤、黄の小旗のついたトヨダさんが門前に並んで、椰子の樹蔭から粋な音じめがもれて来るという始末で、チークの床に青畳を敷きつめた宴会場では明石か絽縮緬の単衣かなにかをお召しになった久留米芸妓のお座付からはじまってあとは、例によって例の放歌乱舞が日毎夜毎の盛宴に明け暮れていた。」(p117〜118)

 この記述内容を裏書きするものとして、ビルマ方面軍後方参謀の後勝少佐が、自著「ビルマ戦記」(光人社、2010年)に記した、以下の証言がある。

「また偕行社とは別に、九州の熊本(原文ママ)から来たという粋香園という料亭があった。
 ビルマのように厳しい戦局下で、こんな荷物はない方がよいと思ったが、方面軍ではどうしたことか、作戦課長直轄の聖域であった。その門前にはいつも数十台の車が並び、苛烈な戦局をよそに繁昌をきわめ、前線将兵の怨嗟の的でもあった。(中略)
 戦後ある会合で、『戦時中に私は、部付将校を連れて偕行社に行き、月に一度か二度すき焼きを食べたら、月給は空っぽに使い果たしたのに、値段の高い粋香園が、連日繁昌していたのは理解できなかった』と言ったところ、『ガソリンやその他の軍需品を、少し横流しすれば悠々と一ヵ月遊べたのに、方面軍の後方主任がそんなことを知らないようでは、戦さに負けるのも無理はない』と笑われて、まったく二の句がつげなかった。私たちが身を切るような思いをして、補給をつづけた裏では、そのような浪費がつづけられていたのであった」(p175〜176)

 これもまた、高木俊朗「抗命」の、広中記事で引用されている部分が、事実に即していることを傍証する内容であろう。

 それにしても、以上に見たように、ビルマの軍上層部の堕落ぶりは目を覆うばかりである。太平洋戦争で壮絶な飢餓に苦しめられた戦場、例えばガダルカナル(第17軍司令官・百武晴吉中将)、東部ニューギニア(第18軍司令官・安達二十三中将)、レイテ(第35軍司令官・鈴木宗作中将)、ルソン(第14方面軍司令官・山下奉文大将)において、軍司令官や参謀を中傷する宣伝工作が行われ、目立った効果を上げたとする記録が特段見当たらないのに対し、ひとりビルマにおいてのみ工作が顕著な成功を示しているのは、ビルマでは伝単や宣伝の内容が信用される下地が元々あった、つまり、牟田口中将を始めとしたビルマの軍上層部の乱行ぶりが目に余り、それが周知の事実であったためと捉えるのが自然ではないかと思われる。

(追記)
 この記事の続きを、こちらに書きました。


posted by A at 21:07| 戦史雑記(日本軍) | 更新情報をチェックする