2018年08月25日

【本】宮田珠己「四次元温泉日記」

「四次元温泉日記」 宮田珠己/ちくま文庫/2015年
(初版は、2011年に筑摩書房から刊行)

 全国各地の温泉宿、特に、建て増しなどによって迷路化した改造建築の旅館を訪ね歩いた旅行記。雑誌での連載記事を単行本化したもの。

 増築を重ねたユニークな温泉旅館に泊まり、その感想を書きつづったエッセイである。著者自身が、服を脱ぐのも面倒、湯につかるのも退屈という風呂嫌いの人物であり(なぜこんな人に温泉巡りの仕事など依頼したのだろうか)、あまり温泉の泉質などには興味がなさそうな様子で筆が進んでいくが、それぞれの旅館を斜に構えた目線で捉えていく著者のやり方も、それはそれで愉しいものである。

 風呂嫌いにもかかわらず(あるいは、風呂嫌いだからこそ)、著者は、そもそも温泉旅行とは何なのかということを、本書の中で正面から考察しようとしている。この本の冒頭には、以下のような記述がある。

「…温泉なら、ずっと宿にいてもいいのではないか。
 ただ宿でゴロゴロしていても、そこに温泉があれば、温泉に入りにきたのだから宿から出ないでも何も問題はない、という理論が成り立つのではあるまいか。
 そうか、人は温泉に入りに行くのではない。何もしないために、温泉に行くのだ。
 迂闊だった。なんということだ。温泉は、何もしない旅の、大義名分だったのだ。それでみんな温泉温泉と騒いでいたのか。
 温泉不感症の私も、そういうことなら話はわかる」

 こうした発想の下に、著者は全国の温泉を巡りつづけ、ついにはすっかり温泉好きになってしまう。そういった著者の転向に大きな影響を与えたのは、やはり本書に登場する、数々の個性的な温泉旅館であろう。これらの旅館の中で、私自身が訪ねたことがあるのは奥那須の北温泉だけだが、ここの建物はどういうわけか、廊下の壁などに変なもの(日露戦争の作戦地図とか、天狗のお面とか)が沢山ぶら下がっていて、だいぶ面食らった記憶がある。こういった非日常的で風変わりな世界と、上質な温泉を体験しつづければ、著者のように温泉に興味がない人であっても、その認識が変わっていくのは自然な成り行きではないかと思った。

posted by A at 12:15| 本(登山、旅) | 更新情報をチェックする

2018年08月11日

【本】河田槌太郎「イラワジ河河畔会戦」

「イラワジ河河畔会戦」 河田槌太郎著、河原六蔵・大塚雅彦編/朝文社/1995年

 インパール作戦の抗命撤退で知られる佐藤幸徳中将の後任として、第31師団(烈兵団)の師団長を務めた、河田槌太郎中将の手記。

 太平洋戦争のインパール作戦では、3人の師団長(柳田元三、山内正文、佐藤幸徳)が解任され、その後任として、田中信男、柴田夘一、河田槌太郎の3将官が任命された。このうち第15師団長の柴田中将は、師団長としての資質に疑問符が付くような言動が散見され、昭和20年2月に更迭、予備役編入となっている。また、第33師団長の田中中将(着任当時は少将)は、その部隊指揮を高く評価する意見のほか、BC級裁判の責任を部下に押し付けようとした証言なども見られ、なかなか一面的な評価が難しい部分がある。

 こうした両師団長と比べると、第31師団長となった河田中将は、当時の部下・関係者からの評判は、それほど悪くなかったように思われる。例えば、型破りな万年上等兵だった高崎伝氏が著した戦記「最悪の戦場に奇蹟はなかった」には、戦後の捕虜収容所での出来事として、以下のようなエピソードが紹介されている。

「…翌日、広場に全員集合がかかった。『烈』師団長河田槌太郎中将が現れて、百二十四連隊の演芸部の石垣兵長(注:石井漠の門下の踊り手。捕虜を慰労するための演芸部に所属し、声望を集めていたが、マラリアで病没)の死をつたえ、河田中将の号令で、石垣兵長の英霊に一分間の黙とうをささげた。そして、河田中将は、一声張りあげて、

『わしは職業軍人で、男が女の踊りなぞするのは、あまり好きじゃなかったが、タトンいらい石垣君の踊りを見て、そのすばらしさに感激していたやさきに、こんなことになって、石垣君、ならびにご家族に申しわけないことをした。責任は、演芸をやらせたわしにある。わしが石垣君を殺したのだ……石垣君、すまんことをした。どうか、この河田をゆるしてくれ……』

と河田閣下は、目にいっぱい涙を流して語った。これには、満場の兵隊たちの方がおどろいた。インパール撤退時に、抗命事件の佐藤幸徳中将(注:兵隊の人気が高かった)と交替した河田中将だ。名前からして、カワッタ野郎がきたと、兵隊たちはかげ口をたたいていたが、今日のことで兵隊たちは、河田中将を見なおした感があった」

 また、インパール作戦末期の惨状のさなかに烈兵団に着任した河田中将が、

「地下足袋を踏みしめ、六尺の棍棒をふりあげ、将校、兵の区別なく大音声で叱咤して激励した。その様子は狂人とも思えるほどだったが、河田中将の一念で将兵の一部は立ちあがり、追尾する英軍にピンポンサカンで応戦し、敗軍の渡河を助けることができた」

との秘話(児島襄「太平洋戦争」)や、昭和20年6月当時、ビルマ方面軍総崩れの中で、方面軍参謀が申し出た困難な作戦を厭わず引き受けたこと(後勝「ビルマ戦記」)、復員の際に、中将を慕う部下たちが「送別歌」を作って送ったこと(本書)、旧制高校の配属将校だった頃に、学生たちがよく家に遊びに来ていたこと(同)など、中将の人柄を偲ばせる余話は少なくない。総じて見れば、「部下を大事にする、血の通った将官」という人物像が浮かび上がってくるように思われる(ただし、麾下の参謀との確執を窺わせる逸話などもないわけではない)。

 そして本書は、昭和39年に没した河田中将の遺稿を預かっていた編者の河原氏(東京帝大2年時に学徒出陣、第31師団司令部で勤務。終戦時中尉)が、この原稿を後世に残したいと考えていた中将の意を汲み、平成7年に刊行したものである。内容は、戦記というよりも、極めて事務的な作戦報告書とでも言うべきものであり、残念ながら未完で終わっている本でもある。史料的な価値はともかく、読んで面白い書物では決してない。

 ただ、そうした地味な本が、没後30年以上を経て出版されていること自体が、中将が部下から敬仰される人物であったことを、端的に示す事実と言えるだろう。戦後、河田元中将は、静岡から仕入れたお茶をリュックに背負い、行商をして生計を立てたとのことだが、こうした飾らない生き方も、復員後に瀬戸物屋を営んだ同じビルマ戦線の名将、宮崎繁三郎あたりと一脈通じるものがある。宮崎中将は、インパール戦線からの撤退時に、傷病者を一名も取り残さないよう厳命したことで知られているが、その宮崎とほぼ入れ違いで烈兵団に着任した河田中将も、その後の退却戦の中で同様の命令を下し、戦傷者・戦病者の収容に努めたとのことである。

posted by A at 22:57| 本(戦記) | 更新情報をチェックする