2018年05月03日

第68旅団とレイテ島の戦いについて

 今回は、太平洋戦争のレイテ島の戦いに投入され、ほぼ全滅した第68旅団(星兵団)の概要について、「第六十八旅団奮戦記」(山内一正著/共栄書房/1992年。以下「本書」と呼ぶ)という本をベースにまとめてみたい。

 生還者が極めて少ない第68旅団は、そもそも部隊の活動経緯を証言できる者がおらず、旅団について詳しく触れた書籍も少ない。本書は、こうした第68旅団に焦点を当てた、かなり稀少な戦記である。著者の山内氏(本書中では「K」という仮名を使っているが、これは著者自身のことと思われる)は、旅団砲兵隊第1中隊長、旅団付将校を経て、旅団参謀を拝命するも、旅団長の栗栖猛夫少将と折り合いが悪く、昭和19年8月に第10方面軍司令部に転出。そのまま台湾に留め置かれ、結果的に生還した人物である。

 著者自身がこうした経歴を辿ったことから、本書には、旅団の台湾進出までの経緯についてはかなり詳しく綴られている。その一方で、フィリピン上陸以後の記録は少なく、特にレイテ戦末期に関する記述には、あまり参考となる内容は見当たらない。旅団の最期の模様は現在も不明のままであるが、このあたりの事実関係を明らかにする新資料や証言が出てくることは、残念ながらもはやないのだろう。

 以下、本書や他の関連書籍を参考にしながら、いくつかの点について整理してみたい。

○旅団の南方進出とレイテ戦
 本書を踏まえれば、旅団の行動概要は以下のとおりである。

昭和19年
・6/19 満州の陸軍公主嶺学校に動員令が下達され、教導隊を第68旅団として編成替え。所属部隊は、歩兵第126連隊、旅団砲兵隊、旅団工兵隊などで、動員当初の兵員総数は4,377名。この当時、旅団はサイパン島への増援部隊となることが予定されていた
・6月末 旅団は釜山に集結
・7/5頃 旅団の派遣先がフィリピンに変更され、当面、台湾での待機を命ぜられる。夜、旅団は3隻の輸送船で釜山港を出発。門司港に立ち寄り、そのまま一週間ほど滞在
・7/11 栗栖旅団長と幕僚3名(著者含む)は、飛行機で博多から台北に到着。
 また、同日付で、旅団参謀の市川治平中佐(陸士37期、陸大49期)が、第10方面軍の作戦主任参謀に転出。後任に、旅団付将校として市川参謀の補助業務を行っていた著者(陸士52期)が任命
・7/12夜 旅団本体は、歩兵第126連隊長の沖静夫大佐を輸送指揮官とし、門司港を出発
・7/27未明 旅団は台湾・基隆港に到着。その後、新竹に移動
・8/8 用兵思想から旅団長と対立していた著者は、旅団参謀を解任され、第10方面軍司令部に転出。後任に、歩兵第126連隊副官の三角正治少佐(陸士48期)が任命される
・8月頃以降 捷一号作戦の下で、旅団は決戦方面に投入されることとなり、新竹で上陸・戦闘の猛訓練に励む
・10月頃 旅団の編制改正。歩兵連隊は3個大隊に、旅団砲兵隊は2個大隊に、それぞれ1個大隊ずつを増加。内地で徴集された者や、台湾での現地応召者、他部隊からの転属者など、700名近い将兵が旅団に増員。旅団から他部隊への転属者も何十名かあり、結果的に、旅団の総員は約5,000名となる
・11/1〜13頃 旅団各部隊は台湾を逐次出港
・11/7〜23頃 旅団各部隊はマニラに到着。途中、歩兵連隊本部、歩兵砲中隊、速射砲中隊等が乗った輸送艇が撃沈されるなど、輸送中の損害は合計約1,000名。
 また、マニラで660名の「特別輜重隊」が増員(著者は、在留邦人等を臨時召集したものではないかと推測。単純計算すれば、この時点の旅団総員は約4,700名)。さらに、旅団参謀として、士官学校教官を務めていた瀬戸口武夫少佐が着任。三角少佐と合わせ、参謀は2名となる
・12/5 旅団はマニラを出発、レイテ島に向かう(第八次多号作戦)
・12/7 輸送船団はレイテ島サンイシドロに擱座上陸
・12/8 昼頃までに、栗栖旅団長が陸上で掌握した兵員は約4,000名。歩兵の重火器は5分の1程度を揚陸。十榴3門も揚陸したが、砲弾は1発もなし。
 同日、旅団長は瀬戸口参謀を、第1師団への連絡のため派遣
・12/9 旅団長は、旅団主力とともにリモン峠方面へ出発。率いた部隊は歩兵2個大隊程度(ただし重火器装備は極めて貧弱)と推定される。火砲を持たない旅団砲兵隊はサンイシドロに残留
・数日後 ルソン島方面から、少ないながらも小銃が届く。旅団砲兵隊第1大隊長川勝隆充少佐以下3個中隊約300名、第2大隊長米沢克行少佐(元・旅団次級副官。著者と陸幼以来の同期)以下3個中隊約300名、合計約600名の部隊は、これを装備し、旅団主力を追って出発。旅団砲兵隊長の守永晃中佐は、後方基地司令としてサンイシドロに残留
・12/13 戦史叢書「レイテ決戦」によれば、この日、瀬戸口参謀はリモン峠南方の第1師団司令部に到着。兵団の状況と地形の錯雑、ゲリラの跳梁を報告。同日夜、瀬戸口参謀は砲撃により重傷を負う
・12/25 旅団主力は、ペニア(サンイシドロの南約30キロ)で第1師団に遭遇。片岡第1師団長から、第35軍司令部がカンギポット山(ペニアの南約5キロ)に所在することを教えられ、栗栖旅団長は三角参謀を軍司令部に派遣
・12/27 米軍がサンイシドロに上陸、所在の日本兵約1,000名が全滅。
 なお、上述の川勝大隊は、その後の記録に全く登場しないことから、著者はサンイシドロ付近で全滅したのではないかと推測。また、米沢大隊については、旅団主力を追わず、レイテ島西岸沿いに南下し、ビリヤバ北方約7キロの地点で昭和20年元旦を迎えたとする資料もあり、記録に混乱が見られる模様
・12/27頃 三角参謀が旅団に帰来。「第68旅団は第1師団主力の西進を掩護しながら歓喜峰(カンギポット山)方向へ転進し、歓喜峰付近に複廓陣地を占領せよ」との軍命令を伝える

 昭和20年に入ってからの旅団の動向については、残念ながら、本書には具体的な記述がない。戦史叢書「レイテ決戦」から関連記述を引用してまとめると、以下のとおりである。

・1/2 同日時点で鈴木第35軍司令官が掌握した兵力10,718名のうち、第68旅団は約4,000名(一部サンイシドロ所在)とされている。(注:レイテ島上陸後の損害を反映していない可能性があるが、詳細は不明)
・1月中旬 地号作戦(第1師団のセブ島脱出)に合わせて、旅団はビリヤバを攻撃するも不成功。逆に、下旬から米軍の掃蕩を受ける
・2/5 山縣第26師団長戦死。その後、栗栖少将が同師団を指揮し、歩兵第126連隊長の沖静夫少将が第68旅団を指揮することになる。第126連隊長には、3月23日付けで、軍司令部付(事前補充の連隊長要員)の金田長雄大佐が発令
・2月上旬〜中旬頃 このころ、米軍の攻撃は不活発
・2月中旬以降 第35軍は、カンギポット付近の残存部隊を北、中、南の3つの自活地区隊に編成。旅団は中自活隊に編入
・2月下旬以降 米軍は本格的な掃蕩を開始。北自活隊(第26師団)と南自活隊(歩兵第77連隊、海軍)は2月下旬〜3月上旬頃に、中自活隊も4月上旬に自活の基本配置を維持できなくなり、カルブゴス山方向に逐次移動。比較的戦力のある第68旅団が移動を支援
・4/24 旅団も遂に戦力が尽きる。金田連隊長は、4/24に陣地の撤収と転進開始を命じるが、翌25日に第2大隊が全滅、第1大隊長永野進少佐も戦死
・6月中旬 歩兵第126連隊の残存兵力は金田連隊長以下18名
・その後の旅団の消息は不明


○第68旅団の編成について
 戦史叢書「レイテ決戦」によれば、第68旅団の編成は以下のとおりである。

・旅団司令部(152名)
  旅団長 栗栖猛夫少将
  参謀 瀬戸口武夫少佐、三角正治少佐
・歩兵第126連隊(3,624名)
  連隊長 沖静夫大佐(のち少将)
  第1大隊長 永野進少佐
  第2大隊長 和田俊郎少佐
  第3大隊長 和田繁二少佐
・旅団砲兵隊(1,350名)
  長 守永晃中佐
  第1大隊長 川勝隆充少佐
  第2大隊長 米沢克行少佐
・旅団工兵隊(250名)
  長 後藤健一少佐
・旅団通信隊(203名)
  長 窪田十三芳少佐
・旅団衛生隊(239名)
  長 佐藤正大尉

 これらの人員を機械的に足し合わせると、5,818名となる。この数字と、山内氏が推定するルソン島滞在時の旅団人員(約4,700名)、厚生省の記録に残る旅団人員(6,392名)はいずれも異なり、どれが正しい数字なのか、にわかに判別しがたい。
 強いて言えば、山内氏の数字(約4,700名)に、台湾からルソン島までの輸送途上での海没人員(約1,000名)を加えると、戦史叢書の数字(5,818名)に比較的近い数字になる。この5,818名と、厚生省の数字(6,392名)が乖離している理由は、全く不明である。


○第68旅団の生還者について
 厚生省の記録によれば、旅団の総人員は6,392名、戦死者は6,302名とされている。本書によれば、生還者90名の大部分は、台湾及びマニラで罹病入院して後送された者であり、レイテ島に上陸して生還した者は10名に満たないとのことである。

 なお、その奇跡的な生還者の一人である後藤薫氏(歩兵第126連隊第3大隊第7中隊第1小隊第1分隊長、軍曹)の証言が、「昭和史の天皇 レイテ決戦(下)」(読売新聞社編/角川文庫)に収録されている。後藤氏は、3/1〜6頃に、カンギポット山近くの510高地(レイテ富士)付近で行われた戦闘で、全身に銃弾7発を受け重傷を負うも、辛うじて部隊に生還。その後の連隊の様子を、以下のように証言している。

「・・・四、五日かかってやっと中隊本部にめぐり会えたのです。このときの中隊は中隊長格の有光中尉のほか十七人しかいませんでした。そしてみんな食べ物のありそうなところを捜して何日か居すわり、なくなるとまた次へ移動するというような生活をしていました。その間にも『もう歩けません』といって栄養失調やマラリアのためバタバタ落伍するものが出ました。
 連隊本部と合流したのはその途中のことでしたが、連隊といっても金田連隊長以下全部で二十人もいなかったですね。もう戦意というようなものは全くありません。わたしも負傷いらい戦争に対する恐怖心が急につのり、恥ずかしいことですが、一キロも二キロも先で銃声がすると、もう何もかもほうり出して一目散に逃げ出すというありさまでした。
 このわずかばかり残った連隊も六月の中旬、わたしが食糧の徴発に行っている間に敵に襲撃され、十四、五人が戦死していました。わたしが捕虜になったのは二十年の暮れか、二十一年の正月でしたが、投降したとき与えられたチョコレートの味は今でも忘れられません」

 カンギポット山残留部隊については、しばしば、「終戦後に山から下りてきた者は一人もいなかった」という言い方をされることがある。しかし、「二十年の暮れか、二十一年の正月」に投降したとされる後藤氏は、その例外ということになるだろう。

 また、大岡昇平「レイテ戦記」には、第8師団歩兵第5連隊(高階支隊)17名、第68旅団2名(下士官1名、兵1名)、その他2名の合計21名がレイテ島を脱出し、20年1月31日にネグロス島に漂着したとの記録がある。神子清「われレイテに死せず」にも、レイテ島からメデリン島に脱出した、「星兵団の川村少尉」の一行が登場する。
 これらの者が生きて終戦を迎えられたかどうかは不明であるが、いずれにせよ、レイテ島から小舟で脱出した遊兵が一定数いたことは確かであろう。


○第68旅団の戦力について
 レイテ戦関連の各種戦記で、第68旅団は有力な精鋭部隊として言及されることがある。これに関して、著者は以下の証言を残している。

「戦後刊行された『大東亜戦史』(服部卓四郎著)その他によれば、第六十八旅団は“精強な機動兵団”だったとされているが、これは、この旅団の各級指揮官の階級が、一般の兵団と比較して一段か二段高かったことで、兵団の戦力が「買い被られ」たものらしい。昭和十九年ごろは、大隊長が大尉、中隊長が中尉で当りまえとされていたが、第六十八旅団では砲兵大隊長が中佐、砲兵中隊長がK大尉以外の二人は少佐で、Kの部下の指揮小隊長は、よその砲兵部隊に行けば大隊長になれるような(士官学校第五十三期生の)大尉だったのだ。驚いたことにこの旅団の歩兵連隊の連隊長は、既に支那大陸の戦線で連隊長として二年余りも実戦を経験し、その後、師団参謀長まで勤めた大ベテランである。
 この事は、公主嶺学校で教官を勤めていた将校を、この旅団の各隊指揮官に「転用」した結果生じたのであるが、実は、これが此の旅団の大きな欠点になっていた。普通の部隊なら上級指揮官の命令は「絶対に」遵奉するが、この旅団の各級幹部は、学校教官のクセが抜け切らず、何かといえば(上級者と雖も)すぐ批判の対象にしてしまうからだ。つまり、作戦部隊の実戦行動と学校での研究演習とを混淆する者が沢山いるのである。
 もう一つの問題は、この旅団の戦場内機動力だ。Kの中隊のように、重輓馬六頭で牽引していた十榴(口径十センチの榴弾砲)を、人力だけで引っ張るのでは、とても機敏に動きまわることは出来ない。そして、牽引車やトラック等が此の旅団には殆んど全く無いのだから、歩兵の重火器や工兵の諸資材なども総べて兵員の「肩」で搬送しなければならない。
 まあ、あれこれ考え合わせると、大本営が第六十八旅団に期待した「精強度」とか「機動性」とかは、マボロシ以外の何ものでもなかった、と言うべきであろう」

 機動力に関して言えば、編成当時、この旅団には馬さえ1頭も存在しなかったとのことである。その後、台湾やルソンで馬匹や車輌を増強したとの記録も見当たらない。もし機動力を欠いたままだったのであれば、仮に火砲などを無事にレイテまで運べたとしても、まともに前線に進出させることもできず、十分な活躍は期待できなかったのではないかと思われる。
 また、必ずしも練度が高くないと思われる将兵が、台湾とマニラで比較的多人数(旅団の1/3〜1/4程度)追加されている点にも留意すべきであろう。

 レイテ戦の第68旅団が、期待されたほどの戦果を挙げられなかったのは、戦況の圧倒的な不利や海上輸送の不成功のほか、以上のような事情も影響したためではないかと考えられる。



(2020.1.19追記)
 以上の記事を書いた後、第68旅団に関して追加で調べた内容を、以下に補記しておく。参考にした文献等は、「陸軍公主嶺学校と星兵団」(星兵団戦友会編。以下「戦友会書」と呼ぶ)のほか、文中に示したものである。

1 第1師団との合流までの旅団の行動について
 大岡昇平「レイテ戦記」は、第68旅団が昭和19年12月7日にレイテ島サンイシドロに上陸した後、同月25日に第1師団と遭遇するまでの行動について、
「すこしおくれすぎるといえる。擱座上陸時に戦意を失い、なるべくおそく戦場に着くように行動したのではないか、という疑いが残る」
と評している。

 この期間の旅団の行動について、戦友会書は以下のように述べている。

・サンイシドロからリモン峠に向かう経路は、当時の地図では自動車道・実線路が描かれていたが、実際は途中に幅2〜4kmにわたる大湿地帯があり、道路は連日の降雨で増水氾濫した湖底下に沈んで利用できなかった
・このため旅団は、サンイシドロ〜リモン峠の中間付近のトウクトウクまでは東進したものの、湿地帯に阻まれたため進路を南方へ変え、200m前後の山を次々と越えて510高地(レイテ富士)方面へ進んだ。この地区は道路に乏しく、また連日の降雨のため泥濘と化しており、前進は遅れた
・さらに、米軍・ゲリラとの戦闘が発生した上、敵飛行機が上空から監視し、発見されるとたちまち砲火が集中した。このため、飛行機が飛来するたびに遮蔽下に退避せざるをえず、遂には夜間中心の行軍となった
・結局、旅団の先頭がペニアの北の510高地付近に到達したのは12/20過ぎ頃であり、さらに南進して25日に第1師団と遭遇した

 おおむね、地形の困難と敵軍の攻撃のため旅団の前進が遅れたものであり、意図的な遅滞はなかったと見てよいのではないかと思われる。


2 旅団砲兵隊第2大隊の南進について
 旅団砲兵隊第2大隊(米沢大隊)について、山内一正氏の「第六十八旅団奮戦記」には、「レイテ島上陸数日後、旅団主力を追及した」旨の記載がある。
 この米沢大隊のその後の行動について、戦友会書により詳しい記録がある。概略をまとめると、以下のとおりである。

・米沢大隊は、12/14に主力を追ってサンイシドロを出発。510高地西側を南下し、12/31に、オチン(ビリヤバの東北約7km)付近で、独立歩兵第380大隊(独立混成第58旅団から抽出。大隊長:関光郎大尉)が米軍と戦闘している場面に遭遇する
・同時期、サンイシドロからセブに渡る予定で海岸道を北上中だった第35軍参謀長・和知鷹二中将の一行(小幡一喜参謀など計11名)は、12/27にタバンゴ(サンイシドロの南約6km)付近にあった関大隊本部に到着。サンイシドロに伝令を派遣し、舟艇をタバンゴに回航するよう伝えたところ、12/28に帰来した伝令は、「27日1400頃、米軍がサンイシドロを攻撃、旅団残留隊長守永中佐とも連絡がつかない」旨を報告
・さらに、米軍は12/28にアレバロ(サンイシドロの南約4km)にも上陸、29日にタバンゴに進出。和知参謀長はタバンゴからセブへの渡航を断念し、カンギポットの軍司令部に帰還することを決意。関大隊とともに南下する
・12/30夜、和知参謀長一行と関大隊はオチン西方の湿地帯で米軍と遭遇し撃退。この頃、米沢大隊は関大隊と連絡がついたものと思われる
・12/31の15時頃から、米軍は砲兵支援の下に関大隊らを攻撃。同日夜、関大隊は米軍を夜襲。米沢大隊は和知参謀長一行とともに南下を続けるも、錯雑した未知の地形のためはぐれ、小幡参謀や米沢大隊長等の前方部隊のみが198高地(オチンの南約3.5km)の北側谷地に到着。20年元旦を迎える
・1/1午後になっても和知参謀長の消息がつかめなかったため、小幡参謀は米沢大隊長と別れ、捜索に向かう。以後の米沢大隊の動向は不明だが、当時、198高地南方斜面には歩兵第126連隊第3大隊が展開していたため、1/2頃には旅団主力と連絡できたものと推測される

 戦友会書によれば、この米沢大隊の第2中隊に所属した木村熙氏が生還しており、また小幡参謀も、昭和20年1月4日に、和知参謀長とともにレイテ島を脱出し生還している。以上の記録は、これらの人々の証言を基に記されたものであろう。
 なお、小幡参謀は、昭和19年5月に、既に孤立していた東部ニューギニアのウエワクからの脱出にも成功している人物である(こちらの記事参照)。極めて運の強い人物と言えるだろう。

 また、以上の記述の中に登場する関大隊は、元々サイパン島奪還作戦に使用される予定だった第十二派遣隊の一部で、陸軍輸送艇3隻により第八次多号作戦(第68旅団の輸送)に続行。執拗な敵機の攻撃をかいくぐって、アレバロ又はタバンゴに上陸していたものである。上述の戦闘後、昭和20年1月中旬頃にカンギポットの軍司令部に合流したようであるが、その後の詳細は不明である。こちらのサイトによれば、同大隊将兵のうち戦死者は1,285名、生還者は4名とされている。


3 米軍のサンイシドロ攻撃について
 12/7に第68旅団が上陸したサンイシドロは、12/9に旅団主力がリモン峠を目指して出発したのち、旅団砲兵隊長の守永晃中佐を残留隊長として、約1,000名(旅団砲兵隊主力、若干の歩兵部隊、旅団の傷病者、海軍第11号輸送艦の乗組員(艦長以下約150名)、各輸送船乗組の船舶砲兵部隊と乗組員(約300名)等)が残留していた。
 このサンイシドロには、12/27に米軍が上陸し、本格的な攻撃を行ってきた。十分な戦力を持たない残留部隊はサンイシドロから撤退し、南方のアレバロに集結することとしたが、28日にはアレバロにも米軍が上陸。移動中の各部隊は各所で米軍・ゲリラの攻撃を受け、さらに海上・上空からも敵の妨害を受けながら、さらに南下を続け、一部の者がビリヤバで旅団主力に合流している。

 この間の行動について、第八次多号作戦で旅団を輸送した日洋丸の乗組員の生還者は、以下のように証言している。

「十二月二十七日、滞在地(サンイシドロ)海岸に敵兵が上陸してきたのを知った。
 二十八日同地を出発、ゲリラや住民の目からのがれるため、夜間カヤ草の中を歩き、昼は草むらの中に隠れ、このようにして三昼夜、漸く一ッ湾(注:アレバロ湾)を越した次の半島の山の中(注:タバンゴ北方)に到着しました。
 同山中に三日間滞在、機関砲隊と一緒に街道(サンイシドロ−パロンポン道?)にでて、その近くで一泊。その次の日の午後三時頃、土民軍に襲撃されみんなバラバラとなり、私達三人は、また元の山の中に戻ってしまいました。
 いつまでもいるわけにはゆきませんので、山からでて海岸にでて更に奥の方に行きましたが、行く先々に敵兵がおり、また大砲を撃ち込まれ行き場がなくなりましたが、その後、一緒になった兵士とともに敵線を突破せんと行動中、同僚の一名も敵の自動小銃弾が頭部に命中戦死をしました。その頃には、もう全員疲労しきって、爆音も砲声も聞こえず頭もボットしてきました。
 一晩おきに敵陣を突破し約十キロばかり行き、そこで約五日間滞在、六日目に敵襲をうけ、同地をたって海岸線にそう前進をあきらめ、また街道を横切りレイテ富士に到り、漸く第二十六師団の部隊と一緒になり、じご同部隊と行動をともにしました。この間食糧はなくトカゲ、ヤシの実、木の芽等を食べて生活しましたが、同地付近はしばしば爆撃をうけ、毎日のように二、三人と戦死者が出ました」

 なお、戦友会書によれば、旅団は十榴3門、野砲1門の計4門の火砲のほか、連隊砲、大隊砲、機関銃等をサンイシドロに揚陸できていたものの、砲兵隊の火砲4門については運搬の手段に困ったため残置し、旅団主力は水牛等を利用して、連隊砲2門、大隊砲、機関銃等を携行・前進したようである。旅団砲兵隊長の守永中佐がサンイシドロ残留隊長となったのは、このような事情が背景にあるものと考えられる。
 そして、旅団主力が携行した連隊砲や大隊砲は、のちに旅団のビリヤバ攻撃に活用されている。サンイシドロが米軍に攻撃された後、南下してビリヤバの旅団司令部に辿り着いた海軍一等輸送艦(第11号輸送艦のことか)の先任将校の青柳大尉は、旅団参謀の三角少佐から、「連隊砲の弾丸が命中し、敵が吹っ飛ぶのが見えた」という話を聞いたとの証言が残っている。


4 山内書と戦友会書の異同について
 山内一正氏の「第六十八旅団奮戦記」と戦友会書に記された旅団の行動経過や編成は、大体において一致しているが、一部には食い違う内容が見られる。
 そのうち、特に気になる点としては、(1)山内書では「旅団編成当時、山内大尉は旅団砲兵隊の第1中隊長に任命された」「山内大尉以外の2名の中隊長は少佐だった」とされているのに対し、戦友会書では、旅団編成時の旅団砲兵隊の中隊長は、第1中隊長橋口大尉、第2中隊長市川大尉、第3中隊長葛原大尉とされている(のち、10月の旅団改編時も変わらず)。
 また、(2)山内書には、6月の旅団編成時に旅団参謀に任命された市川治平中佐が、翌7月に第10方面軍に転出した後、山内大尉が参謀に補任されたものの、なかば放逐される形で第10方面軍に追いやられ、8/8付で歩兵第126連隊副官だった三角少佐が後任の参謀に任命された経緯が詳しく綴られている。これに対して戦友会書には、「市川参謀が7/8に台湾軍参謀に転出、後任には三角少佐が8/8に任命」とのみ記されている。

 山内書に記された、第68旅団の台湾進出までの経緯や、台湾での業務内容などは極めて具体的であり、山内氏がこの旅団で活動していたことは間違いない事実と思われる。にもかかわらず、戦友会書からは、山内氏に関する一切の記述が抜け落ちている。上記の(1)は山内氏の記憶違いだった可能性も考えられるが、(2)については、激戦地への出征を前にした多忙な時期に、1か月間も参謀の不在期間があったことは、いかにも不自然という印象を受ける(特に、後任の参謀を同旅団内から任命するのであれば、そのようなタイムラグは発生し得ないのではないか)。

 山内書によれば、山内氏は用兵思想の相違により栗栖旅団長と険悪な仲になっており、また参謀解任数日前には、宿舎の割当を巡って、旅団通信隊長の窪田少佐と対立事件を起こしている。さらに、若輩の大尉である山内氏が起案した旅団命令に、階級が上である旅団幹部たちが平然と批判や異議を唱えることが頻繁にあったようであり(このことを山内氏は、「実戦部隊の行動と学校の研究演習を混淆している」と批判)、非がどちらにあるかはともかく、山内氏と旅団との関係は決して円滑ではなかったように見受けられる。あるいはこうしたことが、旅団戦友会が編集した記録から、山内氏の存在が排除される原因となったのだろうか。いずれにせよ、詳細な事情は不明である。


5 旅団の生還者について
 山内書によれば、旅団将兵のうち「レイテ島に上陸して生還した者は10名に満たない」とされている。そして、「昭和史の天皇 レイテ決戦(下)」(読売新聞社編/角川文庫)及び戦友会書には、後藤薫氏(歩兵第126連隊第3大隊)、内山時男氏(歩兵第126連隊)、木村熙氏(旅団砲兵隊第2大隊第2中隊)の3名の証言が収録されており、これらの方々が「10名に満たない」うちの3名ではないかと思われる。
 このうち内山氏は、旅団主力に同行せずサンイシドロに残留し、米軍上陸後南下しているが、米軍に投降(保護)された時期は不明である。また、木村氏は「5月に入り、団体行動は不利のため、自由行動となった」旨の証言を残しており、少なくとも昭和20年5月まではカンギポット山付近に残留していたものと思われる。

 なお、戦友会書には、「第六十八旅団については七月二十日頃までに全く消息も絶えてしまった」との記述があり、また旅団将兵については、そのほとんどが「7月17日、ビリヤバにて戦死」と認定されているとのことである。この7月17日〜20日頃に、カンギポット山付近に残存していた旅団将兵が米軍に投降した(保護された)可能性が考えられるが、これ以上の詳しい情報は残念ながら発見できていない。


posted by A at 21:30| 戦史雑記(日本軍) | 更新情報をチェックする