2017年07月15日

藤原岩市参謀と、インパール作戦の「統制前進説」について

 太平洋戦争中、ビルマ戦線の第15軍で情報主任参謀を務めた、藤原岩市少佐(のち中佐)という人物がいる。インド独立支援の文脈で高く評価される傾向のある軍人だが、インパール作戦に関する彼の身の処し方には少なからず疑問の点があり、個人的には彼への評価は非常に辛い。彼のこういった部分に触れた話はあまり取り上げられていない気がするので、人物評価のバランスを取るために、今回は彼の疑問点についてまとめてみる。

 第15軍司令官・牟田口廉也中将に関する有名な逸話として、インパール作戦失敗の責任を負い自決すべきかどうか、部下の藤原に相談したところ、かえって藤原から本気で自決を勧められた、というものがある(詳細はこちらを参照)。意外に知られていないが、藤原は牟田口と同様、インパール作戦の推進に積極的だった人物である。作戦開始前、第15軍の参謀たちの多くが無謀な作戦に否定的だった中で、牟田口と藤原の両名は作戦の実施を強く主張し、作戦実現に向けて奔走している(高木俊朗「抗命」などに、その模様が描かれている)。

 牟田口が、「自決問答」の茶番劇の相手として藤原を選んだのは、あるいは藤原が牟田口とともに作戦失敗の責任を負うべき立場にあり、牟田口を批判する資格のない参謀だったためかもしれない(作戦中に、一緒に芸者遊びをしていた仲でもある)。ところが藤原は、牟田口から自決の相談を持ちかけられた際、自分自身の責任には全く触れず、一方的に牟田口を追及している。晴気誠の例に倣えと言うと極端に過ぎるが、牟田口とともに作戦を推進してきた参謀の姿勢として、藤原の言動はあまりにも割り切ったものではないかと思う。

 また、藤原は戦後、「第33師団(弓兵団)が意図的に前進を遅らせたため、インパールへの進出に失敗した」という偽説(「統制前進説」あるいは「統制前進論」と呼ばれる)を流し、作戦の失敗を第一線で戦った弓兵団のせいにして、責任転嫁を図ろうとしている(藤原自身の著述として、「大東亜戦争全史」(服部卓四郎編、1953年)及び「別冊知性・太平洋戦争の全貌」(1956年)の同作戦関係部分)。

 しかし、第33師団長・柳田元三中将は作戦に否定的ではあったが、師団の前進を故意に抑止した事実はない。伊藤正徳「帝国陸軍の最後」(1960年)や児島襄「太平洋戦争」(1966年)、山岡荘八「小説太平洋戦争」(1967年)が、藤原の流したデマを誤って採用したため、戦史に詳しくない層にこの誤説が広まったが、結局、1968年刊行の公刊戦史が、この「統制前進説」を否定している(詳細は、戦史叢書「インパール作戦」p399〜415参照)。

 また、「インパール作戦蹉跌に対するいわれなき批難を、長い間苦々しく思っていた」という磯部卓男(元陸軍中尉。第33師団歩兵第215連隊(笹原連隊)の連隊旗手)は、戦後の自著「インパール作戦 その体験と研究」の中で、藤原が拡散させた嘘の実態を詳しく検証し、「言葉が過ぎると思われるが、『一犬虚に吠え、万犬之に和す』の感を禁じ得ない」と述懐している。

 なお、「統制前進説」が浸透した背景について、高木俊朗「インパール」には以下の記述がある。

「私は非常な興味を感じた。それは、その資料提供者(注:伊藤正徳氏に資料を提供した者)のことである。それが誰であるにしても、あのインパール作戦を弁護し、正しかったと信じている人がいるということだ。あるいは、正しいものにしようとしている、というべきだろうか。そのために、いわば、謀略の資料を提供したのだ。
 その目的は、第十五軍と牟田口中将の体面を傷つけないようにするためばかりでなく、旧陸軍の名誉を保持しようとする意図ではなかろうかそうしたことが必要になるほど、インパール作戦間には、醜悪で不名誉な事件が続発した。世界戦史にも例のないことである。インパール作戦は、まれに見る非道な戦争であった」(注:下線部は引用者)

 この、インパール作戦を「正しいものにしようとしている」動きは、現在でもネット上などで散見されるように思う。しかし、祖国に父母や妻子を残して戦争に参加した若い将兵を、杜撰な作戦計画で大量に戦没させておいて、それを「正しい」作戦と呼ぶことは、常識的な感覚では到底できるものではない。「インド独立」などという美辞麗句は、現実離れしたデタラメな軍命令が乱発され、そのために膨大な死者を生み出したこの作戦の実態を、正当化するものでは絶対にない。他民族を助けるという美名があれば、牟田口や第15軍幹部のような横暴や無能や堕落が許容されるという考えを持つ者は、つまるところ、我々日本人自身を殺すことを何とも思っていない者であろう。
 まともな日本人であれば、飢餓と病の中で倒れ、ジャングルに白骨を晒した、死ななくとも良かった多数の日本人将兵の怒りや無念を、自分の痛みとして感じる部分があるのではないかと思う。そうした共感や同情心の感情を、絶望的に欠いた人間でなければ、このインパール作戦を肯定することなどできないのではないか。


(補記)
 なお、ビルマ戦線で評価すべき参謀としては、インパール作戦の現実を冷静に把握したビルマ方面軍後方参謀の後勝や、戦争末期ごろの花谷正をよく抑えた第55師団参謀長の小尾哲三などが挙げられるのではないかと思う。
 本稿で扱った藤原岩市は非常に問題の多い人物であり、その責任逃れの言動は厳しく批判されて然るべきだが、陸軍軍人にも評価に値する人物がきちんといることは、あえて明記しておきたい。



posted by A at 02:06| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする

2017年07月08日

【本】山口耀久「山頂への道」

「山頂への道」 山口耀久/平凡社ライブラリー/2012年
(初版は、2004年に平凡社から刊行)

 山岳文芸の世界に携わってきた著者が、1955年から2001年までの間に発表した紀行文や登山評論を、一冊の本にまとめた散文集。

 自らも先鋭的な登山を行うとともに、山の文芸誌「アルプ」の編集委員を最終刊300号まで務めた著者による、登山エッセイ・評論集である。文才豊かな著者は、「アルプ」や「岳人」などで多数の登山批評を執筆してきたほか、山岳文学の重鎮たちとも広い交流を持ち、尾崎喜八や辻まことらの作品解説も行っている。また、深田久弥が代表作「日本百名山」を刊行する際には、深田本人から依頼を受け、同書に掲載する山岳地図も作成している。

 このような著者の文芸活動記録は、在りし日の山岳文学界の雰囲気を知る上でも貴重なものであるが、本書の中で楽しく読めるのは、やはり著者自身の紀行文であろう。本書の前半部分に収録されている登山エッセイは、友人が霧ヶ峰に山荘(コロボックル・ヒュッテ)を開いた話や、健康回復のために芝の愛宕山に通い詰めた話、あるいは、北海道・礼文島で放火騒ぎに巻き込まれた話など、さまざまなバリエーションに富んでいて興趣が尽きない。

 そして、それらの紀行文の中で特に目を惹くものとして、10代後半の戦中の頃に、神奈川県の丹沢山域に通い続けた話が挙げられよう。ひどい食糧難の中、投宿した西丹沢の民家でもらった貴重なふかし芋を携えて、難しい沢に果敢に挑む記録は、瑞々しさにあふれていて新鮮な印象を残すものである。こうした随筆にも表れている著者の優れた感性が、個性派が顔を揃えた戦後の山岳文学の世界の中で、「アルプ」に重要な結節点の役割を果たさせたのではないかと思う。


posted by A at 20:36| 本(登山、鉄道、旅) | 更新情報をチェックする