2017年02月05日

西部ニューギニア戦線の「イドレ死の行軍」について

 太平洋戦争中の昭和19年7月から10月頃にかけて、「絶対国防圏」の最前線である西部ニューギニアで、「イドレ死の行軍」と呼ばれる悲惨な転進が行われた。この転進では、敵軍と銃火を交える機会がほとんどなかったにもかかわらず、10,000名以上とも言われる日本軍将兵や軍属などが死亡している。今回は、多くの人命が失われた出来事でありながら、現代ではほとんど知られていないこの行軍について、関係する戦記の記述を踏まえ、実態をまとめてみたい。

 なお、西部ニューギニアの地図としてはこちらを参照されたい。イドレは、マノクワリの南、「Modan」に近い地点である。


1 転進の概要
 まずは、関連書籍の内容を基に、この転進の全体像を整理してみたい。

 昭和19年6月下旬、ビアク島の戦いがいよいよ終末に近づき、マノクワリへの連合軍上陸も目前と考えられた。これを受けて、西部ニューギニア戦線を担当する第2軍司令部は、マノクワリに駐屯していた20,000名余の将兵らのうち、戦闘部隊を中心とした8,000名の兵力をもって、マノクワリの防備を固めることにした。そして、後方部隊など12,000名を、マノクワリ南方170キロにある、イドレに移動させることとしたのである(田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録」(ゆまに書房)による)。

 後方部隊の転進先としてイドレが選ばれたのは、「イドレにはサゴ椰子が無尽蔵にあり、10万人が食っていける」という噂があり、自活に適当な土地だと考えられたためである。しかし、マノクワリからイドレまでの移動経路については、ほとんど調査が行われておらず、満足な地図すらない状態であった。このような状況の中で、第2軍が推し進めた転進計画は、関連戦記によれば以下のようなものであった。

「そんなわけだから、転進の計画はメチャクチャだった。地図の上に線を引いて、その直線距離を、指先でチョイチョイと測っただけである。
『うん、三日か四日の行程だな。そんなら、食糧の携帯は一週間ぶんで十分だ』」(加東大介「南の島に雪が降る」)

「イドレ転進命令が下ったのは19年7月1日である。十日もあれば目的に着ける、途中に大した障碍などないという楽観的雰囲気の中で移動が開始された」(上掲の田中書)

 ところが、実際のイドレまでの経路は、悪疫の蔓延する過酷な密林地帯だった。兵士たちはジャングルの中で、同じ場所をぐるぐる彷徨して道を見失ったり、高山や大河に行く手を阻まれたりして、栄養失調やマラリア、赤痢、チフスなどの病で次々に倒れていった。そのうえ、軍命令により、多くの将兵が途中のヤカチという地点で足止めされ、進退窮まった各部隊は、ここで一気に餓死者・病死者を増やしていった。

 そして、3か月以上の苦難の移動を経て、一握りの者がようやく辿り着いたイドレにも、食料の貯えなどは全くなかった。転進部隊がヤカチで停止を命じられ、イドレへの進入を許されなかったのは、彼らを養うだけの食物が、イドレにはなかったためであった(植松仁作「ニューギニア大密林に死す」)。結果的に第2軍は、「イドレにはサゴ椰子が無尽蔵にある」という根拠のないデマを信じ、その実情をまともに調べないまま大移動を命令して、大量の死者を生み出したのだった。
 この転進の結末について、再び関係書籍の記述を引用する。

「航空地上勤務部隊の大部はマノクワリ方面第二軍後方部隊と共に7月〜8月、イドレに向かって無計画な行軍を行ない、その大半が死没するという惨事を引き起こした」(戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」)

「途中、行ったり来たりを繰り返したために、無事に着いた将兵は、地図上行程の三倍にあたる五百キロ以上も歩いたのではないかと推測されている。死線を越えて辿りついたイドレも極楽ではなかった。移動計画がこのような杜撰極まりないものであったくらいだから、イドレにおける開墾や農耕もしっかりした計画性をもっているはずもなかった。(中略)
 マノクワリを発った一万二千名は、イドレに辿り着くまでに九十%近い餓死、病死者を出し、さらにイドレでも数%の死者を出し、結局、故国に帰還できたのはわずか六%強の運命のいたずらに助けられた者だけであった」(田中書)

 なお、第2軍司令部が「死の行軍」の悲惨な実態に気づいたのは、8月後半になってからのことだったようである(「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」)。


2 関係者の記録
 「イドレ死の行軍」に参加した将兵の手記が、複数刊行されている。その一部を紹介し、転進の実相を追ってみたい。

(1)久山忍「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」(潮書房光人社)
 転進を体験した蓬生孝氏(第2軍司令部所属、陸軍一等兵。戦後日商岩井に入社し、イタリア・西ドイツ等で勤務)の記録が、この久山書に収録されている。少し長くなるが、行軍の悲惨な実情を表す部分を抜粋する。

「・・・川をわたると周囲は一変した。鬱蒼とした大密林であった。密林のなかは、大木と灌木が陰湿な地面を隙間なく埋め、無数の倒木が巨体を折りかさね、光は閉ざされて昼なお暗く、侵入者をかたく拒否していた。
 頭上からは数知れない木の蔓が垂れさがる。歩けばおびただしい山蛭が降る。地面には万年筆の形をした黒光りの毒虫がうごめく。苔などの隠花植物やさまざまなシダ類が地面にはびこっている。(中略)
 赤道直下の高温多湿な密林や湿地帯を、憔悴していく体力でただ歩く。この転進では誰もが病気につきまとわれていた。どの病気も悪化の一途をたどり治癒することがない。そしてついに歩けなくなる。この転進で歩けなくなったら最後である。
 よどんだ生水、くさった食物は大腸炎に直結した。不消化のまま流れ出る大便や血便がやむことなしにつづいた。下痢をするとたちまち衰弱し、貧血になって歩けなくなった。
 多湿な密林のなかの蚊は人間の存在に敏感に気づいて来襲し、小便をするとその臭いを好んで棒のようになってむらがった。マラリアにかかると、高熱、悪寒、下痢、食欲不振となり、歩けなくなった。
 皮膚は抵抗力がなくなっているので、ばい菌は小さな傷口からたちまち蔓延し、南方潰瘍や得体のしれない皮膚病になった。最初は小さかったのが、わずかな期間で脛、腿、股、人によっては全身にひろまってこれまた歩けなくなった。
 毎日、泥水や水たまりを行軍するため、水虫は誰もがやられた。これもズボンがぬげなくなるほど下腹部がふくらむと歩けなくなった。
 大腸炎、マラリア、潰瘍、水虫、日射病の合併症に飢えが加わって苦しみ斃れた転進者の実情は、とうてい文字にできない。
 力尽きて歩けなくなり、泥土にすわって通りすぎてゆく我々をじっと見ていた者、朽ちた大木の穴に独りではいって寝ていた瀕死の者、飯盒のふたを差し出して水を求めていた者、今死んだばかりの者、水にうっ伏して腐乱した者、二、三日前に亡くなって白骨化した者、無数のウジが全身に喰いついていた者たち。死んだ者の肉はすぐに腐り、頻繁なスコールが腐肉を流して骨だけにした。
 木の洞や倒木の陰に遺った白骨、二人、三人並んで水辺や灌木の繁みに遺った白骨、天幕の下に遺った数人の白骨など、数多くの転進者の悲惨な姿についてはなんと申しあげてよいかわからない」

 蓬生氏は昭和19年7月7日にマノクワリを出発、10月3日に奇跡的にイドレ到着。死者続出したイドレでも生き残り、昭和21年6月に復員している。

(2)植松仁作「ニューギニア大密林に死す」(光人社NF文庫)
 著者は電信第24連隊副官で、終戦時陸軍大尉。この転進に参加した記録を、全編にわたって詳しく綴っている。「イドレ死の行軍」について書かれた本の中では、現在最も入手しやすい一書ではないかと思う。
 なお、同著者には「魔の地ニューギニアで戦えり」(光人社NF文庫)という著作もあるが、こちらにはニューギニア以外の地での勤務記録も広く収録されており、「イドレ死の行軍」に関する記録はその一部にとどまる。

(3)「丸別冊 秘めたる戦記 陸海空/戦域総集編U」
 この本に掲載されている鈴木勝氏(第五揚陸隊所属、陸軍一等兵)の手記の中に、軍司令部の移動に関する記述がある。第2軍司令官・豊嶋房太郎中将と高級幕僚は、マノクワリからイドレまで軽爆機・大発を利用して移動したが、彼らを乗せた大発の乗組員は、「大発の中で米軍魚雷艇にいちばん怯えていたのは軍司令官であった」という、容赦のない証言を残している。

(4)その他
 この行軍については、「インドネシア文化宮」さんというサイトが、極めて精力的に記録を収集されている。
 このサイトによれば、飛田忠廣「ニューギニア玉砕記」(昭和24年)、佐々木實「人喰密林戦記」(昭和30年)、西部ニューギニア・ベラウ地峡戦友会機関誌「辺裸飢」(昭和52〜62年)、第2軍司令部参謀部某曹長「野垂れヤカチ」などの手記にも、この転進に関する記録が綴られているようである。


3 公刊戦史
 2に掲げたように、「イドレ死の行軍」の参加者による戦記には複数のものがある。これらに対して、この行軍に関する公刊戦史の記録は、極めて貧弱である。戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」に若干の記述があるが、本来この転進について詳しい記録を残すべきと思われる「豪北方面陸軍作戦」には、

「軍司令部は後方部隊人員と共に扇の要的地点であるイドレに移り自活しつつ持久戦を指導する方針」

という簡単な記述があるのみであり、転進により犠牲者が出た事実すら書かれていない。ほぼ同数の戦没者を出したビアク島の戦いに、67ページもの分量を割いていることと比べれば、かなり強い違和感を受ける。

 また、第2軍の高級参謀であった了戒次男・元中佐が、「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」に、「西部ニューギニアの全般作戦」という手記を寄せている。しかし、この著述の内容は、全体的に作戦面の記述に終始しており、後方部隊をイドレに移動させた顛末にさえ言及していない。軍の側としては、自らの命令の錯誤により膨大な餓死者・病死者を出した事実を、後世に残したくなかったのだろうか。


4 最後に
 この「イドレ死の行軍」に代表される部隊移動の失敗や、各地の守備隊でおびただしい餓死者を出した事実などを踏まえると、西部ニューギニアの第2軍は、本来生きて還るべきであった将兵や軍属を、自らの判断の誤りによって、大量に戦没させたと評されてもやむを得ないのではないかと思われる。この戦域では、ビアク・サルミの戦いで守備隊が壮絶な敢闘を見せているが、これらも、軍上層部の作戦指導が優れていたと言うより、現場で戦った東北編成の精鋭師団、第36師団の頑強さを賞賛すべきものではないかと思う。

 そして、いくつかの戦記でも指摘されている軍司令官の柔弱な性格や、軍参謀長の粗雑な判断、そもそも参謀長の交代が頻繁で空席の時期が長く続いたこと、果ては、参謀長としての発令を受けた将官が、あろうことか赴任をサボタージュする乱脈ぶりを見せたことなど、総じて第2軍では、首脳陣の統帥が、正常に機能していたようには見受けられない。極限とも言うべき凄惨な戦況の中で、最後まで統率を崩壊させなかった東部ニューギニアの第18軍と比べると、対照的と言わざるを得ないのではないか。イドレ転進の悲劇は、上層部に適切な人材を得られなければ、組織に無用かつ甚大な被害が生じるということを示す、一つの重い教訓ではないかと思われる。


(補記1)「イドレ死の行軍」の参加者数などについて
 マノクワリ守備隊の兵数や、「イドレ死の行軍」の参加者・戦没者数には、書籍によってばらつきが見られる。以下、一通り列挙してみることにする。

<マノクワリ守備隊の人員数>
・戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」・・・30,000名余。その他、ムミ地区(マノクワリ南方)に約7,000名の兵員あり
・田中書・・・20,000名を超える数
・久山書・・・軍人と軍属をあわせて約20,000名。そのうち9,000名は飛行場設定隊に編入された土木労務者や台湾人(高砂族)で、残りの11,000名は第2軍司令部関係の後方部隊
・植松書・・・20,000名余

<「イドレ死の行軍」の参加者数>
・田中書・・・12,000名。マノクワリ残置者数は8,000名
・久山書・・・9,800名、10,000名、12,000名など諸説ある
・植松書・・・12,000名
・鈴木手記・・・10,000名有余。マノクワリ残置者数は約12,000名
・「インドネシア文化宮」・・・約12,000又は15,000名

<「イドレ死の行軍」参加者のうち、戦没者数>
・田中書・・・生還者6%強(=戦没者約11,300名)
・久山書・・・一説には、イドレまでの行程の戦没者数が10,200名
・植松書・・・生還者800名以下(=戦没者11,200名以上)
・「インドネシア文化宮」・・・1万数千名

 また、この転進について詳しくまとめているこちらのサイトには、「参加者15,000名、イドレ到着6,000〜7,000名、生還者3,000名未満」という数字が掲載されている。


(補記2)「イドレ死の行軍」の参加部隊について
 「イドレ死の行軍」に参加した部隊についても、その全体像をまとめた資料は見当たらず、実態は明らかでない。見つけられた限りの部隊を全て挙げると、以下のとおりである。

・第2軍司令部、兵器廠、貨物廠、船舶部隊などの後方部隊(田中書)
・第14、第15、第101野戦飛行場設定隊(「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」)
・第3、第14飛行団(同上)
・第107、第108飛行場大隊、第36飛行場中隊、第9航空通信連隊の各一部(同上)
・第8航空情報隊の一部(同上)
・第13野戦気象隊の一部(同上)
・第21野戦航空修理廠の一部(同上)
・第107、第108飛行場大隊(同上。マノクワリ南方のムミ駐屯)
・第34、第46飛行中隊(同上。マノクワリ南方のムミ駐屯)
・電信第24連隊(植松書)
・陸上勤務第37中隊(約300名でマノクワリ出発、生還者ゼロ。久山書)
・兵站病院(「南の島に雪が降る」)
・海軍部隊、高砂勤労隊、インドネシア兵補隊(久山書)
・マレー作戦時の英軍インド兵で編成したインド人部隊(植松書)

 以上の各部隊の全員が転進に参加したわけではなく、マノクワリに残留したり、他の拠点の守備に回されたりしていた者もいたようである。


posted by A at 23:59| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする