2016年02月11日

ニューギニア戦線の「サンドイッチ部隊」について

 今回は、太平洋戦争のニューギニアの戦いでほぼ全滅の悲運に遭った、「サンドイッチ部隊」について概要をまとめてみたい。なお、ニューギニアの地図としてはこちらや、こちらを参照されたい。

 過去の記事でも簡単に触れたことがあるが、東部ニューギニア戦線で苦難の撤退戦を続けていた日本陸軍の第18軍は、昭和19年4月当時、西部ニューギニアで防備を固めつつあった第2軍との合流を目指して、西方への過酷な転進を行っている最中だった。そんな中で飛び石作戦を採用した米軍は、4月22日、第18軍が集結しつつあったウエワクの、さらに西方約200kmに位置するアイタペと、同じく西方約350kmのホーランジア(ホーランディア、ホルランジャなどとも表記される。現在の地名はジャヤプラ)に同時上陸した。これにより第18軍は敵中に孤立し、終戦を迎えるまで困難な現地自活を強いられることになった。

 この米軍上陸当時、たまたまアイタペとホーランジアの間を、西方に向けて転進中の部隊があった。戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5 アイタペ・プリアカ・ラバウル」によれば、以下の各隊がそれであり、総人員は約2,500名程度だったという。

・第18軍司令部の一部(軍獣医部長石坂九郎治中佐指揮)
・第41師団の一部
・野戦高射砲第61大隊主力
・独立工兵第36連隊主力
・第1揚陸隊主力
・第36野戦道路隊主力
・軍補給諸廠の一部
・第23野戦防疫給水部
・建築勤務第51中隊の一部

(注:このほか、少なくとも島田覚夫氏が所属した第209飛行場大隊の一部が存在する。同大隊が上記の戦史叢書に記載されていないのは、この部隊が第18軍ではなく、第4航空軍(第6飛行師団)の所属だったためか。
 また、海軍にも西方移動中の部隊があったほか、バニモ(アイタペとホーランジアの間にある港町)やアイタペに駐屯していた部隊があった)

 東西を米軍に挟まれ、脱出の術を失ってしまったこれらの部隊は、当時「サンドイッチ部隊」と呼称された。この「サンドイッチ部隊」と、アイタペから西を目指して撤退してきた一部の部隊、合計約4,000〜5,000名は、ホーランジアのはるか南を迂回し、第36師団が駐屯する西部ニューギニアのサルミ(ホーランジアの西約400km)への転進を図った。
 そして、戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」と「豪北方面陸軍作戦」によれば、これら諸隊の辿った末路は以下のようなものであった。

・各部隊は、バニモからアルソー(注:現インドネシア・パプアニューギニア国境付近の山中にあった、日本軍の兵站基地)へ転進
・この地域は山地峻険であったため、アルソーへの到着には半月〜1月程度を要した
・アルソーで陸稲その他の現地物資を入手
・6月上旬ごろアルソーを出発。梯団を組み、ゲニムに向かう(注:ゲニムはホーランジア南西の地点であり、この頃既に米軍が占領していた。なお、この地図ではセンタニ湖沿いに「Genyem」の表記があるが、戦記を読む限り、日本軍が目指したのはもっと山中の地点だったように思われる)
・ゲニムへの移動途中、地形錯雑のため方向を誤る。やむを得ず各部隊は、ばらばらに分かれてゲニムに前進
・6月中旬〜下旬ごろ、ようやくゲニム付近に到達
・ところが、ゲニムで敵の潜伏攻撃を受け、各隊の大半は散乱
・生き残った者のみが数名〜小部隊ごとの一団となりサルミを目指すが、サルミまで辿り着けた者はほぼ皆無
・結果的に、ホーランジア南方の錯雑地を西移する間に、部隊のほとんど全部は死亡。死亡率は99.9%に達したものと判断される
(注:戦史叢書に書かれた「99.9%」という数字の根拠は不明だが、後述の奥崎謙三氏のように、捕虜になって生還した者の存在は考慮していない数字であるように思われる)

 こうして、「サンドイッチ部隊」を含む約4,000〜5,000名の部隊は、ほぼ全滅に追い込まれた。個々の兵士たちがどこを流転し、どこで戦没したのか、詳細は現在でも明らかでない。確認できた範囲では、以下の書物に、これらの部隊に関する記述がある。

・島田覚夫「私は魔境に生きた」(光人社NF文庫ほか)
 著者は「サンドイッチ部隊」の奇跡的な生還者であり、部隊の雰囲気を克明に書き残している。同書によれば、著者一行は米軍上陸の前日にアイタペを出発し、そのままホーランジアを目指して西進。5月30日になってようやくホーランジア陥落の事実を知り、6月12日に、出会った日本兵から以下の情報を聞く。

「ホルランヂアの南方を迂回する友軍の撤退路は完全に敵に遮断せられ、夜は探照燈まで使用しての警戒でとうてい突破は不可能である。付近は股を没する一面の湿地で、この路を避けることができず、強引に突破を試みた友軍の大多数はその地で全滅した。折柄タミ川付近に在った独立工兵連隊は集団行動の不可能を思い、部隊はついに解散、各自の自由行動をとることになった。再びアルソーに引き返す者もあり、大部は友軍再挙の日を待ち密林に入って待機するなどの手段をとった」

 この情報を受けて、著者一行もジャングル籠城を決意した。そして昭和30年、生き残った4名が日本の土を踏んだのである。
 なお、同書初版の刊行は1986年であるため、戦史叢書執筆者は、彼らの存在を認識していなかったのではないかと思われる。

・「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」所収 高橋孫三郎「第九艦隊が壊滅した日」
 本記事によれば、昭和19年4月にバニモを発ち、20年2月にサルミに到着した高砂義勇隊員が、3名いたそうである。彼らがそのまま終戦を迎えられたとすれば、彼らこそが、4,000〜5,000名のうち0.1%の生還者に含まれるのだろう。

奥崎謙三「ヤマザキ、天皇を撃て!」(三一書房ほか)
 著者は独立工兵第36連隊所属であり、捕虜になり生還した人物である。本書にジャングル彷徨時期についての記述があるとのことだが、個人的に未読のため言及は避ける。

・佐藤清彦「土壇場における人間の研究」(芙蓉書房出版)
 戦前の流行歌手、上原敏(第1揚陸隊第2中隊所属)に関する記述がある。彼は昭和19年3月末か4月初旬ごろ、ウエワク・アイタペ間で道路補修・架橋作業に従事していた独立工兵第33連隊第3中隊の将兵60名の前で、乞われて「妻恋道中」「流転」の2曲を歌っている。その後、彼の所属する第1揚陸隊主力は、アイタペ・ホーランジア間を西進中に4月22日の米軍上陸を迎えており、以後の彼の消息は明らかでない。

 ニューギニア戦線では、ホーランジアの戦いの参加者(約13,500名戦没)、「イドレ死の行軍」の参加者(約10,000〜12,000名戦没)のように、戦闘以外の過程で膨大な将兵・軍属が死亡した事例がある。そうしたいくつかのケースの中でも、この「サンドイッチ部隊」は、極端に生還率が低い部隊である。多くの戦没者が内陸で死亡していることもあり、遺骨収集は、今でも十分に果たされていないのではないかと思われる。南溟の地に果てた人々の冥福を、ただ祈るほかない。


(補記)アイタペ、ホーランジアの守備隊について
 合わせて、アイタペ、ホーランジアの守備隊についても簡単に整理しておく。

<アイタペ守備隊>
 戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」によれば、米軍の上陸を受けた際、アイタペには以下の兵力があった。

・アイタペ警備隊(安部龍三大尉の指揮する第20師団補充員2個中隊、約450名)
・第54兵站地区隊アイタペ支部(竹井作市中佐以下100名)
・第31碇泊場司令部の一部
・第3揚陸隊主力(隊長 淺尾時正大佐)
・軍補給諸廠の一部
・前田奉公隊(前田主計大尉の指揮する現地人部隊)
・飛行場部隊および防空部隊
以上合計 約2,000名
(注:このほか、海軍第27根拠地隊の約200名がいた。また、第18軍憲兵隊が当時アイタペに向かっていたが、米軍上陸時にアイタペに到着していたかどうかは不明とのこと)

 これらのうち、安部大尉の指揮する部隊は東方の第18軍に向けて撤退し、5月10日、約200名が第20師団への合流に成功している。一方、兵站支部その他の部隊はホーランジア方面への転進を図ったものの、「サンドイッチ部隊」と同様の運命を辿っている。


<ホーランジア守備隊>
 米軍上陸時、ホーランジアには約14,600名の兵力があったが、そのほとんどは後方部隊などであり、戦闘能力は皆無に等しかった。これらの部隊は西方のサルミに向けて撤退したが、大半の将兵が戦没している。生還が確認できるのは、サルミ周辺地区で終戦を迎えられた約400名、ホーランジアで捕虜になった600名強であり、このほか稲田正純第6飛行師団長以下の若干名が、昭和19年時点でニューギニアを脱出している。
 この部隊の悲惨な撤退行と現地自活については、以下の各書に詳述されているので、ここでは記述を割愛する。

・戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5 アイタペ・プリアカ・ラバウル」「豪北方面陸軍作戦」「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」の各書
・田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録」(ゆまに書房)
・佐藤清彦「土壇場における人間の研究」(芙蓉書房出版)
・「丸別冊 地獄の戦場 ニューギニア・ビアク戦記」所収
  坂本経雄「ホーランジア→サルミ「死の行進」」
  高橋孫三郎「第九艦隊が壊滅した日」

 また、個人的には未読だが、ラバウル・ニューギニア陸軍航空部隊会編「幻 ニューギニア航空戦の実相」にも、ホーランジア撤退部隊に関する詳しい記述があるようである。


posted by A at 21:06| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする