2015年10月04日

【本】栗原裕一郎「〈盗作〉の文学史」

「〈盗作〉の文学史」 栗原裕一郎/新曜社/2008年

 明治以降の日本文学における盗作事件を幅広く収録し、分析・検証した本。日本推理作家協会賞受賞。

 著者自ら国会図書館に通うなどして拾い上げた古今の盗作事件を、詳しく紹介するとともに、その経緯や背景などを解析した本である。ハードカバー500ページ弱の大変な労作であるが、著者の解説が分かりやすく、かつ面白くて、スムーズに読むことができた。それにしても、これだけの資料を捜索・集積するには、相当な手間と時間がかかったのではないかと思う。「日本文学盗作史」としての本書の資料的価値も、大いに評価すべき点であろう。

 紹介された様々な盗作事件について読んでいくと、創作の苦しみから無意識のうちに他書を引き写してしまったのだろうかと思えるものから、他の作品をほぼそのまま丸写しし、間違って文学賞を受賞してしまった挙句、「受賞の言葉」まで他人のものを丸パクリした大胆な事例まで(賞は当然取り消し)、色々なケースがあって興味深い。その中から、盗作と評価すべきかどうか微妙な事案として、庄司薫の例について考えてみたい。

 本書でも触れられているように、庄司の代表作「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の模倣ではないかという認識が広く浸透している。その根拠としては、1969年9月2日付の東京新聞の特集で三浦清宏・明大助教授(当時)が指摘しているような、「文体」「数字を具体的に挙げる技法」「「電話に出てくるママ」のようなディテール」「「狂気と童心」の対置」「プロット・人物造形」などといったポイントに関する類似性が挙げられるのだろう。

 そして、これらの相似傾向に鑑みれば、そうした技術的な手法を、庄司がサリンジャー(及びその野崎訳)から借用した側面が全くなかったとは言いづらいのかもしれない。ただ、著者や高田里惠子(「グロテスクな教養」ちくま新書、2005)が「薫くん」のエリート性について言及しているように、この「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、「(エリートの)男の子いかに生くべきか」という、ある特殊な階層の若者の人生論といった色彩を濃厚に持つ作品である。この点、成績不良で学校をドロップアウトした少年の彷徨を描く「ライ麦畑でつかまえて」とは、その主題や射程を異にする作品と見るのが自然ではないかと思う。

 そうした事情を踏まえて考えてみれば、庄司の「ただぼくの作品を読んでいただきたい」という反論は、作品の技法論などというテクニカルな(つまり、非本質的な)部分ではなく、両作のテーマ性の大きな違いに着目するよう訴えたいものであったのかもしれない。一方で、彼の反論が妙に抽象的かつ感情的であったのは、批判に対する有効な抗弁材料を持ち合わせていないことを、彼自身が自覚していたためではないかな、というような気もした。

 いずれにせよ、刊行から40年以上を経てなお批評が絶えないという事実は、この「赤頭巾ちゃん気をつけて」という作品が持つ影響力の強さを雄弁に物語るものであろうと思う。そして、本書「〈盗作〉の文学史」は、この作品に関する論評を精力的に採録・分析しており、その充実した論考は一読に値するものである。

posted by A at 16:35| 本(評論) | 更新情報をチェックする