2015年08月22日

旧制中学卒の陸軍軍人

 戦前の日本陸軍の将校養成機関であった陸軍士官学校は、主として陸軍幼年学校の卒業者と、旧制中学校の卒業者から生徒を採用した。このうち、陸軍の主流派を占めたのは幼年学校の卒業者だった。「早くから軍人精神を叩き込まれた幼年学校出身者こそが、志操堅固であり、天皇への忠誠心も篤く、軍人として優等な存在である」というような意識が、彼らにはあったようだ。三根生久大「陸軍参謀」(文春文庫、1992年)には、以下のような記述がある。

「…もともとこの幼年学校の制度は、ドイツの伝統的な兵制と貴族の特殊学校の影響を受け、将校として、また国家のエリートとしての意識を幼少の頃から植えつけられてきているので、中学校から士官学校に入校してくる者との間には、少なからぬ格差があった。
 そうしたことから、中学校出と幼年学校出が士官学校内で激しく対立していたことがあり、大正二年には第二十七期の双方が市ケ谷台上で大乱闘に及び、多くの負傷者を出すという事件さえ起こったのだった。戦後、極東国際軍事裁判の検察側証人として出廷し、内外の注目を浴びた田中隆吉は、このことについて次のように回想している。

<…陸軍には幼年学校出身者と中学出身者との二大潮流があった。…幼年学校出身者は中学出身者を“デーコロ”と呼んでこれを蔑視し、中学校出身者は幼年学校出身者を“ピーコロ”と呼んでこれを憎悪する。この対立は世間の想像を超えた深刻なものであった。しかも先輩は後輩に対し、この対立思想を植え付けて叱咤激励する。…これはまた昇進後いかなる階級同士の間にあっても、大小の差こそあれ“デーコロ”“ピーコロ”の抗争は存続した。(『日本軍閥暗闘史』)>

 …中学出と幼年学校出の軋轢は時には人事にまで影響したといわれたが、事実、陸軍大学校の学生は圧倒的に幼年学校出身者が多く、昭和の初期ごろまでは陸軍大学校在籍の学生中、中学出はわずかその一割にすぎないこともあった。
 陸軍人事に強大な権限を持っていた陸軍省人事局補任課員は全員が幼年学校出身者であったし、中学出で大将にまで昇進した者は数えるほどしかいなかった。
 これは能力上の問題ではなくて、陸軍の人事上の基本的姿勢であったといわれている。」

 ちなみに、「デーコロ」「ピーコロ」の意味は、
「予科士官学校においては、幼年学校出身者と、一般の中学出身者とは反目が激しく、幼年学校出身者は自分たちを、cadet・カデット(士官候補生の意)から「Cさん」と称し、中学出身者を、Cより劣るDという意味で「デーコロ」と侮称した。ころは、犬ころ のころである。逆に中学出身者は、幼年学校出身者を「ピーコロ」と軽蔑した。「cadetとはおこがましい、ただのpupilではないか。」という意味で考案された侮称である」(Wikipedia「陸軍幼年学校」の項より)
なのだそうだ。

 このように、軍の主流派にはなれず、軍中央の要職に就く機会も少なかった中学卒の将校たちだったが、いざ太平洋戦争が始まると、むしろ彼らの中から、目覚ましい武勲を挙げたり、柔軟・合理的な判断を示したりする軍人が現れているように思う。例えば、以下のような人々が挙げられよう。

・今村均(新発田中卒、陸士19期。南寧作戦蘭印作戦・軍政を成功。終戦までラバウルを保持)
・田中静壱(龍野中卒、陸士19期。東部軍管区司令官として宮城事件を鎮圧)
・水上源蔵(日川中卒、陸士23期。ビルマ・ミートキーナを死守、自決)
・栗林忠道(長野中卒、陸士26期。硫黄島の戦いを指揮)
・宮崎繁三郎(岐阜中卒、陸士26期。ビルマ戦線で活躍)
・中川州男(玉名中卒、陸士30期。ペリリューの戦いを指揮)
・今井武夫(長野中卒、陸士30期。日中和平工作・終戦処理に従事。第2次バターン戦の際、辻政信が出した偽の処刑命令を見破り捕虜を逃がす)
・鈴木敬司(浜松中卒、陸士30期。「南機関」機関長)
・小畑信良(茨木中卒、陸士30期。第15軍参謀長としてインパール作戦に反対、更迭)
・八原博通(米子中卒、陸士35期。第32軍高級参謀として、米軍に評価された沖縄防衛作戦を立案)

 もっとも、中学卒の軍人の中には、以下のような人々もいることも付記しておかなければならない。

・河辺正三(陸士19期。インパール作戦時のビルマ方面軍司令官)
・豊嶋房太郎(陸士22期。第2軍司令官、「イドレ死の行軍」の責任者)
・福栄真平(陸士23期。第102師団長当時、レイテ島の戦いで無断撤退)
・立花芳夫(陸士25期。第109師団長当時、小笠原事件を起こす)


 これに対して、対支戦線拡大、ノモンハン事件、日独伊三国同盟締結、対米開戦などの局面において、軍の中枢にあって判断を誤り、視野の狭さを見せた軍人たち(東条英機、武藤章、田中新一、冨永恭次、服部卓四郎、辻政信など)を想起すると、そのほとんどは幼年学校出身者である。中学卒で目立つのは、佐藤賢了くらいではないだろうか。

 以上のような事実から考えてみると、10代半ばの多感な時期に幼年学校で偏頗な教育を受けるよりも、一般中学で、文学や芸術や音楽に触れたり、いろいろ道草を食ったりする時間を与えられた方が、ずっと柔軟で理性的な思考の持ち主の育成につながったのではないかと思われる。陸軍よりも海軍の方に、比較的視野の広い軍人が多かったとも言われるが、その要因の一つに、海軍兵学校の生徒を中学卒業者から採用していたことが挙げられるのではないか。
 そうした意味では、現代の防衛大学校が高校卒業者に受験資格を与えていることは、少なくとも過去の陸軍と比較すれば、適切な選抜制度を採っていると言えるのではないかと思う。

posted by A at 23:56| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする

2015年08月16日

【本】新井信太郎「雲取山に生きる」

「雲取山に生きる ランプとともに30年余の山暮し」 新井信太郎/実業之日本社/1988年

 東京都最高峰・雲取山(2017m)の山頂に位置する山小屋、雲取山荘の主人によるエッセイ集。

 1960年から2013年まで、実に50年以上にわたって雲取山荘の管理人を務めた著者による、雲取山にまつわる随想録である。戦前の山小屋設置の経緯から、自分が山荘の主人を引き継ぐことになった成り行き、山小屋での暮らし、山の動植物、雲取山に縁のある人々など、多岐にわたる記録や所感が綴られていて、山歩きを趣味とする人にとっては大いに興味を惹かれる一冊になっている。

 中でも、富田治三郎氏をめぐる記述は注目に値する。雲取山荘の初代管理人にして、鎌を持って山を歩いたことから「鎌仙人」の愛称でも知られた富田氏の人となりや、山小屋管理の様子、富田新道開拓のエピソードなどが収録されており、奥秩父山岳史の観点からも貴重な記録ではないかと思われる。ところで、この富田氏に関しては、以前「山と高原地図 奥多摩」(昭文社)の付録冊子に、秋山平三氏の手による「山小屋の番人 鎌仙人――富田治三郎のこと」という秀逸なエッセイが掲載されていた。近年の版には載らなくなってしまったようだけれど、この小品も、山で生きる人間の厳しさと優しさを見事に描いた名作であり、どこかで再録されないものかと思う。

 都心から比較的アプローチしやすい雲取山荘は、なんとなくいつも混んでいそうな印象があり、私自身は雲取山には日帰りでしか登ったことがない(荷物が軽かったので、鴨沢バス停から往復6時間半で行けた)。同じく新井氏が山暮らしの日々を描いた随筆、「雲取山のてっぺんから」(けやき出版、1994年)や、「雲取山よもやま話」(さきたま出版会、1996年)を読む限りでは、平日であれば山荘への宿泊者は少なく、冬になると、何日も登山者が訪れないこともあるのだという。現在では新井氏の御子息が山荘の管理人を引き継がれているようだけれど、一度、山小屋泊を目当てに雲取山に登ってもいいかなと思えた。