2014年09月28日

【本】西浦進「昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実」

「昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実」 西浦進/日経ビジネス人文庫/2013年
(1980年に原書房から刊行された「昭和戦争史の証言」を、改題・文庫化したもの)

 戦前から戦中期にかけて陸軍省軍務局に勤務した著者が、戦時体制下の陸軍中枢の実情を書きとめた一書。

 陸軍中央で少佐〜大佐期を過ごした著者による、陸軍官僚エピソード集といった趣の本である。日中戦争から太平洋戦争にかけて、陸軍の中枢部がどのような意見に左右され、どのように意思決定を行っていったかという実態を垣間見ることができ、資料的な価値も高い一書と言える。太平洋戦争で軍司令官や師団長クラスで活躍した軍人たちの、佐官時代の仕事ぶりも赤裸々に描かれていて、陸軍史に関心がある人にとっては特に興味を惹かれる一冊ではないかと思う。

 本書から判断するに、著者の陸軍官僚としての能力は、極めて高い水準にあったのだろう。予算の差配や戦力の整備などの諸課題について、問題の所在を正確に把握し、関係者を説得して適切に処理していく著者の姿は、まさに「能吏」という言葉がふさわしいものである。学校の成績と事務処理能力は必ずしも結びつかないケースもあるが、著者の場合は、陸士優等・陸大首席の優れた頭脳が、見事に職務に直結していたと言うべきだろう。

 ただ、著者が優秀といっても、それはあくまで官僚としての優秀さと見るべきなのかもしれない。装備のどの部分を拡充するかとか、突発的な事故にどう対処するかといった目先の課題に関して、確かに著者は辣腕を振るっている。しかし本書を読む限りでは、国家のあり方や戦争の先行きといった大きなテーマを、著者はどれだけ自分自身の問題として受け止めていたのだろうか、という疑問もないわけではない。「私はこうすべきと思っていた」といったような、やや他人事のような印象を受ける言説も散見され、少しすっきりしない読後感が残った。

 それとも、それはあくまで著者の官僚としての限界であって、問題はむしろ、著者のような能吏を使いこなす大局観のある政治家が、この時代にほとんど見当たらなかった点に求めるべきなのだろうか。本書の中でも能吏の権化のように描かれ、「最も優秀な大尉参謀」とまで(揶揄半分に)評されている東条英機のような人物が、太平洋戦争という難局の国家指導を任されてしまったことは、当時の日本にとって、おそらく悲劇的なミスキャストだったのだろう。


<おまけ>
 日経ビジネス人文庫に収録されているだけあって、本書には、仕事をする上で参考になるような記述も少なくない。そのいくつかを抜粋・紹介してみる。

(その1) 勉強
「私は軍事課に行って先ず軍備整理、行政整理の仕事をやらされ、軍備改変要領の起案にあたった。これは遂に実施されずに終ったが、後年たびたびの軍備改編の各種軍令の一の規範ともなった。このときの基礎的勉強は後年の仕事に役に立った。
 当時は毎日帰宅は九時頃となったが、それでも帰宅後は憲法、行政法の各種権威者の著書等を随分勉強もした、統帥権問題等についても一通り今迄の各議論に目を通した。
 予算班に代ってからは財政経済の本も可成勉強した。その他軍事課の過去の各種の書類も一通り目を通した。こんな勉強は後年軍事課長になるまでになにかにつけ随分と役に立った。法制局、枢密院等に引張り出され、また他省の連中と交渉しても、こういう問題については知識の不足の気おくれというものは感じられなかった。最初の一、二年みっちり勉強すればその効果は莫大なものである――いささか以上は手前味噌の感があって恐縮であるが、率直に自分の感想を述べた次第である。
 真に仕事に責任を感ずれば、役所の仕事の如き理解するのはさして困難なことではない筈である。」

(その2) 永田鉄山の執務準則
「永田軍事課長の執務準則として我々に示したことで、今でも頭に残っていることは『一つの事柄が起きたならば先ず白紙で、これは斯くあるべきものという判断をせよ。しかる後規則をしらべて成るべく之が実行を容易ならしむる方法を研究せよ』ということであった。事務官僚が規則に拘泥するのを戒しめたものである。
 自分としては後年まで始終頭に残っていた教訓であった。」

(その3) ある業務の充実
「支那関係者が本当に軍事的諜報に身をいれず、政治的事項に興味をもち過ぎ「サロン」諜報や食堂諜報をやっていた罪ではなかろうか。支那事変でも所謂支那通の意見は施策を誤らしたこと一再ではない。事変のすすむにつれ、いわゆる支那関係者がだんだん重んぜられなくなったのも無理はない。(中略)
 ロシヤ関係情報もその頃まではこの嫌いを免れなかった。橋本欣五郎中佐を班長とするロシヤ班が十月事件の主体だった如き、その適例というべきだろう。
 しかるに昭和七、八年頃からのロシヤ班は次第に本当の軍諜報機関化してきて、その調査も段々具体的組織的となり、軍の中では最も成果を挙げていたように思う。之は色々原因もあろうが、笠原幸雄(22期)、秦彦三郎(24期)中佐等の功績は確かに大きなものがあったと思う。
 或る時代に真面目な、地味なしかも部内に対して信用のある人物が、相当期間勤務するということは、その業務を大いに進展せしむるものである。」

(その4) お役所式悪例
「所謂、御役所仕事ということがよく言われる。無責任な表面糊塗、杓子定規、私は仕事の関係上、建築に関係することが多かったのでよくその例を見た。
 いつか旭川の官舎が大変悪いというので視察に行ったことがあった。建物の素質はとも角として、驚くべき非常識なことを発見した。道路を隔てて並びあった官舎街の官舎は、北側のものも南側のものも同じ設計のものを、唯向きを変えただけである。これでは片方のものは陽当りの悪いことお話にならぬ。(中略)
 後年私は南京に赴任したが官舎――それも大佐級以上の官舎の設備が、完備しすぎているのに一驚した。それでいて、尉官、下士官級のものはみじめなものだった。こんなところにも、精神的に多大の反省の余地があると思う。それでいて南京は一番質実剛健だったというのである。直ぐに畳を内地から取寄せる、電気冷蔵庫をおく、作戦準備の方は欠点だらけ、上級者の責任は大きい。も少し理想をもち、思想をもってこんな問題も指導すべきであった。敗戦後も、自分の室に絨氈を敷かないといって不平を言う将官がいたようでは、矢張り他から非難されるのが当り前である。
 十何年かの勤務を通じて、自分の身の廻りのことについて文句の多い人は、本来の仕事には割合に冷淡無関心であるという結論がでてくる。色々と他の批判はあっても、清貧に甘んじている将軍は愈々のときに頼もしい人であるということは間違いではないようである。」

(その5) 強硬論者と出世
「当時としては、下の強硬論にただ便乗して頑張る一種の英雄主義は、却って出世の一方法でもあった。四面強硬論に孤立、正しい軟論を主張する人は割に少なかった。こういう英雄主義で上の位置についた人は、愈々戦況悲惨の極となり、或は終戦後の状況一変と共に、頼りない上官となってしまったものが多い。」

posted by A at 19:27| 本(戦記) | 更新情報をチェックする

2014年09月13日

【本】「廃線跡懐想 北海道編」

「廃線跡懐想 北海道編」 宮脇俊三(巻頭紀行)ほか/JTB/2002年

 北海道各地に残る、廃線跡や鉄道遺構の姿を収録した写真集である。現地を訪ね、廃線跡の現状を調べたライター達の訪問記も掲載されていて、読み物としても非常に面白い。刊行から既に十数年が経過しているため、本書で取り上げられた遺構の中には、もう撤去されてしまったり、自然の中で朽ち果ててしまったものも少なくないのではないかと思う。

 本書の中の美幸線の項には、以下のような記述がある。

「明治初期、鉄道は都会と港、炭鉱と港を結ぶ所に建設されていった。やがて日本列島の骨格のように線路をのばし、さらにその幹線から毛細血管状に支線が列島を覆う。美幸線もそんな細い血管の一つだった。しかし、美深から北見枝幸までの鉄道はあまりにもスタートが遅すぎた。美深〜仁宇布の開業が昭和39年。その先も工事は続けられたが、部分開業した美幸線自体「日本一の赤字線」として有名になる結果となった。すでにその命脈は尽きていたのだ。美幸線の廃止は昭和60年。完成が近かったコンクリートの路盤はここでも自然の中に果てようとしている。」

 本書に登場する数々の廃線跡も、明治以来の北海道開拓の潮流が辿りついた結末の一つなのかもしれない。本書表紙のタウシュベツ橋梁や、ヒグマが棲む森の中に放棄された名羽線のコンクリート橋、今にも崩れ落ちそうな天北線の廃駅舎などの姿を見ると、先人たちが描いた僻地開拓の夢の末路を、まざまざと見せつけられるようで寂しい。

 それにしても、廃線跡や廃墟のような崩壊の途上にあるものは、どうしてこれほど不思議な美しさを宿すのだろうか。草に埋もれて錆びついた線路や、森の中に無機質な残骸をさらす橋梁などは、どれも神秘的な魅力と形容しがたい懐かしさを放ってやまない。ある物が失われようとする時ほど、その価値が強く再認識される、ということなのだろうか。