2013年05月12日

【本】永野敏夫・正子「南アルプス 大いなる山 静かなる山 知られざるルート120選」

「南アルプス 大いなる山 静かなる山 知られざるルート120選」 永野敏夫・正子著/黒船出版/2000年

 南アルプス南部・深南部を中心に、登山道のないルートを広く歩いた記録をまとめた本である。2010年に、本書の改訂版「南アルプス・深南部 藪山讃歌−知られざるルート94選」(永野敏夫/羽衣出版)が出版されているが、「ルート紹介」に力点を置いた感のある改訂版に比べ、本書は瑞々しい「登山記録」としての色彩が濃く、読み物として読むなら本書の方が面白いのではないかと思う。

 南アルプス深南部を中心とした山域は、そもそもアプローチが遠い、登山道が整備されていない、ヒルが多いなどの理由で登山者も少なく、静かな原生林が広がっている。そうした世界を訪ねる楽しさを、著者は次のように述べている。

「近頃はめっきり南ア南部や深南部に取りつかれている。数少ない未開の地であり、加えて2000メートルを超す高さが魅力だ。原生林に潜り、ヤブに傷つき、ヒルやブヨに襲撃され、道なき山稜を彷徨する。こんなヤブ山にどうして好んで登るのか、自分のことながらも回答を見出しかねているが、遠い昔、まだ人類が山野を駆けめぐった野生の頃の遺伝子が、他人よりも少しばかり強く残っているのではないかとさえ思えてくるのだ。」

 厳冬期の氷壁登攀や海外への高山遠征など、かつて豊富な登山経験を積み重ねてきた著者は、熟練した技量を持つ者にしか胸襟を開かないこの山域を綿密に歩き回り、その行跡を本書に詳しく綴っている。訪れる者の少ない南ア南部・深南部のマイナールートを、これほど詳細に紹介したのは、近年では著者と、ブログ「見たか、聞いたか、言ったか?」の管理人のKさんくらいであろうと思われ、その記録は極めて貴重である。

 また、本書を読むと、かつてこの地域で林業が盛んであったことを示す名残りを、随所に見つけることができる。「無想吊橋」に代表される老朽化した吊橋や、訪れる者もなく山中に朽ち果てた林業用の作業小屋なども気になるが、個人的に興味を惹かれたのは、本書に何度も登場する「田中式熊捕獲檻」だ。遥か昔に水窪の田中鉄工で生産された、シンプルな構造の鉄製の熊捕獲器なのだけれど、一体どれくらいの檻が、もはや使われることもないまま、各地の山々に眠っているのだろうか。赤錆びてやがて崩れ落ち、土に還っていく運命にある大きな檻のことを、しばし思い浮かべた。

posted by A at 12:37| 本(登山、鉄道、旅) | 更新情報をチェックする

2013年05月04日

【本】村上春樹「1Q84」

「1Q84」 村上春樹/新潮社/2009〜2010年

 村上春樹の長編はひととおり目を通すことにしているのだけれど、本書を長らく積読にしているうちに、いつの間にか新刊が出てしまった。ともかく、先月から少しずつ通勤電車の中で本書を読み進め、ようやく読了した。

 本書のプロットをごく大雑把に説明すると、主人公格の青豆や天吾が「1Q84」年の世界に迷い込み、様々な経験を経て成長し、そこから脱出して新たな世界に進む、というものだ。予想外の出来事による身辺の環境の変化、親や友人の死、伴侶の獲得などといった試練に直面する、この「1Q84」年という舞台は、あるいは何かを暗喩するものなのだろうか。まだまだ不安定ながらも、人生の基盤を着実に固めていく青年期のメタファなのか。それとも、単に人間の姿や宗教の特異性を浮き彫りにするために用意された舞台装置に過ぎず、特別な意味は何も込められていないのか。物語のディテールも含めて、色々と好き勝手な推測を巡らせて楽しんだ。

 村上春樹作品では、しばしば多義的な解釈の余地があるストーリーが展開され、その人となりや思考様式が読者の見方に委ねられている登場人物も少なくない。そして読者は、自身の経験や思想に引きつけてそれらを咀嚼し、結果的に読者自身が村上作品に「最後のひと手間」を加えることによって、自分にとって納得のいく作品を自ら仕上げている側面があるように思うのだ。村上作品が世界規模で広く受け入れられていること、また、熱心なファンを次々に生み出していることの理由の一つは、そんなところにもあるのではないか、などということを考えた。

posted by A at 09:51| 本(小説) | 更新情報をチェックする