2013年01月19日

【本】山本七平「一下級将校の見た帝国陸軍」

「一下級将校の見た帝国陸軍」 山本七平/文春文庫/1987年
(初版は、朝日新聞社より1976年に刊行)

 太平洋戦争中に陸軍に徴兵され、ルソン島の激戦地に送られた著者が、自らの体験を踏まえながら、軍隊組織の不効率さや矛盾、ひいては日本人組織の特異性を剔出した評論。

 学生時代に徴兵検査に合格し、不本意ながら陸軍に入隊した著者が、陸軍組織の異常さや、その組織内で矛盾と折り合いを付けながら勤務する人々の模様を描いた一書である。後年、「山本学」と総称される著作群を残した人物だけあって、硬直し腐敗した組織を見つめる目は鋭い。当時軍隊にいながら、これだけ冷静かつ客観的に組織を捉えることができた人間が、果たしてどれだけいただろうか。

 本書で述べられているさまざまな場面や現象の中から、ここに取り上げて紹介したいものはいくつもあるが、やはり有名な「員数(いんずう)主義」に触れないわけにはいかないだろう。著者は、日本陸軍を蝕んだ「員数主義」について、次のように解説している。

「…S中尉の言った「員数」という言葉にはその原意とは違った、軍隊内でしか通用しない独特の意味があった。一応これを「員数主義」と言っておこう。このイズムは、もうどうにもならない宿痾、日本軍の不治の病、一種のリュウマチズムとでもいうべきもので、戦後、収容所で、日本軍壊滅の元凶は何かと問われれば、殆どすべての人が異口同音にあげたのがこの「員数主義」であった。そしてこの病は、文字通りに「上は大本営より下は一兵卒に至るまで」を、徹底的にむしばんでいた。もちろん私も、むしばまれていた一人である。(中略)
 元来は員数とは、物品の数を意味するだけであって、いわゆる「員数検査」とは、一般社会の棚卸しと少しも変わらず、帳簿上の数と現物の数とが一致しているかどうかを調べるだけのことである。従って、問題は、検査そのものより、検査の内容と意味づけにあった。すなわち「数さえ合えばそれでよい」が基本的態度であって、その内実は全く問わないという形式主義、それが員数主義の基本なのである」

 こうした「員数主義」の一例として、著者はルソン島北部のアパリで自ら指揮した、ゲリラ掃討戦の様子を紹介している。著者(砲兵少尉)は守備隊長から、アパリ周辺に出没するゲリラを「撃滅スベシ」という命令を受ける。しかし、アパリに残置されていた「砲兵一個中隊」の内情を調べると、大砲4門のうち3門は故障で、残りの1門も誰も扱ったことのない珍しい砲だった。このことを著者は以下のように述べている。

「自分で調べた結果わかったことは、アパリ正面の砲兵一個中隊とは、結局、員数だったということである。どうもおかしいと思ったのは、転進命令が出たときの中隊長たちの動きであった。というのは、一個中隊がそのまま残ったのではなく、各中隊が一個分隊を残し、この残された四個分隊で臨時に一個中隊を編成し、S老大尉が臨時中隊長、本部からは私が残るということになったからである。
 各中隊は、動かない砲、使えない砲、無用の砲弾、そして歩けない病人を捨てて行ったということであった。そして私が残されたのも、結局、結核の既往症があるから、行軍途中で喀血でもされたら足手まといだということと、後述の私の推定通りの理由からだったらしい。
 員数中隊の実体にはゾーッとした。(中略)これでは米軍どころかゲリラにも対抗できない。だが結局私は、面倒なことを支隊長に報告してトラブルを起こすよりも、員数中隊の員数砲弾で員数砲撃をして員数報告を書くことにした」

 そして著者は、故障していない1門の砲を引き出し、でたらめの場所に向かって1時間ほど砲撃を行い、ゲリラを撃滅したという立派な「報告」を書いた。こうした小さな虚構が、数えきれないほど積み重なってできた組織が日本陸軍だったのだとしたら、この集団がいずれ破滅する運命にあったのは当然であろう。

 著者の体験は70年近く前の話であるが、ところで現代の我々も、この「員数主義」の類例を、いくつも身近に見聞することはないだろうか。処理しきれない膨大な作業を抱え込み、ずさんな対応と適当な報告を行っていたという最近の福島の「手抜き除染」の例など、上述の「員数砲撃」と本質的に何も変わらない話であるように思える。もし万一、日本がもう一度戦争をすることがあったとしても、きっと同じように「員数主義」がはびこり、組織を害することになるのではないかと、個人的にはほとんど確信に近いような思いを抱いている。

posted by A at 21:11| 本(戦記) | 更新情報をチェックする