2012年02月25日

レイテ島・カンギポット残留部隊のその後

 フィリピン中部のレイテ島は、太平洋戦争の「天王山」とうたわれた激戦地だった。米軍との決戦のために、この島には84,006名もの日本軍将兵が派遣されたが、このうち、島内で捕虜になるなどして生還した者の数は、僅かに2,500名だった(大岡昇平「レイテ戦記」による)。このほか、セブ島への転進に成功し、終戦まで生き延びた第1師団将兵(500名以下)なども含め、レイテ島派遣部隊全体の生還者数をひとまず3,000名と仮定して計算すると、レイテ戦における将兵の死亡率は、実に約96%となる。この異常な数字は、悲惨な戦場として知られるガダルカナル島の戦い、インパール作戦、東部ニューギニアの戦いをも上回るものである。

 レイテ島の日本軍の死亡率が、このような凄絶な数字になった理由の一つは、レイテ島の戦いの大勢が決した後、敗軍が島から退却できなかったためだろう。昭和19年12月26日、マッカーサー大将がレイテ戦の終結を宣言した時点でも、レイテ島には2万近い日本軍が残存しており、昭和20年3月時点でも1万人前後の敗兵が生き残っていたと言われる(「レイテ戦記」)。これらの将兵は、米軍による制空権・制海権の下で島から脱出する術も持たないまま、レイテ島北西部のカンギポット山付近に立て籠もり、米軍やフィリピンのゲリラ部隊を相手に絶望的な抵抗を続けた。そして、飢えと病の中で次々に倒れていき、終戦後、生きて山から下りてきた日本軍将兵はほぼ皆無だったという。

 こうした戦闘経過を辿ったことから、カンギポット山方面で抗戦した日本軍各部隊の最期は、現在でも明らかになっていない部分が多い。昭和20年3月に、第35軍司令官・鈴木宗作中将が伝馬船でレイテ島から辛うじて脱出した後、第16師団長の牧野四郎中将が残留部隊の総指揮を執ったと言われているが、このような将官クラスや、連隊長・参謀など佐官クラスの高級将校でさえ、その後の動静は十分明らかでない。「レイテ戦記」では、第26師団(泉兵団)独立歩兵第12連隊長の今堀銕作大佐が、その最期の模様が伝わっている唯一の部隊長とされており、このほか、第26師団参謀長の加藤芳寿大佐の最期の様子も判明しているが、その他の軍人については確定的な情報はないままである。今回は、レイテ島残留部隊を指揮したであろう高級将校のその後の消息について、情報の確度を問わず、関連書籍から幅広く集めてまとめてみたい。

○牧野四郎中将(第16師団長)
 御子息の牧野弘道氏(元・産経新聞編集委員)が執筆された、「戦跡に祈る」(産経新聞社。以下、便宜上「牧野書」と呼ぶ)という本に、中将の命日に関する記述がある。同書によれば、

「公刊の『戦史叢書・レイテ決戦』では「牧野中将は八月十日ころ自決した」となっているが、これは確認された事実に基づく記述ではない。戦死公報での父の命日は七月十五日で、これについては母から、戦後鹿児島県の世話課に勤務していた元陸軍中佐が、「閣下のご命日はどうしても特定できないので、諸情報を総合して七月十五日とさせていただきます」と挨拶にきたと聞いている。」

とのことである。なお、少なくとも7月頃まで牧野中将が生存していたことを窺わせる証言は存在する(次の加藤参謀長の項を参照)。

○加藤芳寿大佐(第26師団参謀長)
 加藤大佐については、大佐と行動を共にした茶園貞夫曹長が生還したため、比較的詳しい消息が明らかになっている。再び牧野書から引用する。

「七月頃まで父(注:牧野中将)が生きていたという説はほかにもある。七月四日、泉の独立歩兵第十二連隊長今堀銕作大佐の自決に立ち会い、その後捕虜になって生還した東嶋登大尉の証言もその一つ。今堀大佐自決のあとカルブゴス山にいた泉の生き残り将兵は十九人で、参謀長の加藤芳寿大佐は栗栖師団長代理に意見具申し、最後の任務として部隊の最期を報告するため三群に分かれ、栗栖少将以下三人は残留部隊指揮官の父がいたという南部カルブゴス山へ、加藤大佐以下七人はセブの軍司令部(すでにミンダナオへ移っていた)へ、東嶋大尉以下九人はサマール島経由でルソン島の方面軍司令部へ向けて出発した。
 父が生きていたとすれば、栗栖少将とはすぐ近くにいたことになるが、二人が会えたかどうかは不明のままである。加藤大佐は七月二十四日、ゲリラに襲われ戦死した。それが分かったのは大佐の護衛役、T曹長が捕虜になって生還したからである。数年前私は、T曹長が復員後に大佐の未亡人にあてた手紙を、ご遺族に見せていただいたことがある。曹長はバレンシアに降下した高千穂部隊の隊員で、生きがよかったため他の隊員とともにもっぱら高級将校の護衛役に任命された一人だった。曹長は手紙で、ゲリラの襲撃を受けた際、脱出するのがやっとで、大佐の遺体を埋葬することもできず、ただ木の枝で覆い隠したまま逃げたことを悔い未亡人に詫びていた。一行のうち生還できたのは東嶋大尉とT曹長の二人だけである。」

○沖静夫少将(歩兵第126連隊長、第68旅団長)
 第26師団長の山縣栗花生中将戦死後、その後任には第68旅団長の栗栖猛夫少将が補され、栗栖少将の後任に歩兵第126連隊長の沖少将が任命されたというのが一般的な説である。しかし、どういう訳か、山縣中将の後任として、沖少将が第26師団長に任命されたという記述が、いくつかの戦記に散見される。その一例として、「七月八日、沖は、参謀長に戦況報告のためルソンへの脱出を命じ、自分は一人の手兵もなく、わずかに二名の高砂族に担がれて、牧野中将の第十六師団司令部へ身を寄せた」というものがある(甲斐克彦「陸大物語」光人社NF文庫)。
 レイテ戦末期に関しては、その模様を知る生還者もほとんど存在せず、数少ない生還者も飢餓や病のため記憶がはっきりしないケースがあるようである。証言に混乱が出るのは、やむを得ないことなのかもしれない。

○炭谷鷹義大佐(歩兵第41連隊長)
 ミンダナオ島の第30師団からレイテ島に投入された歩兵第41連隊については、連隊砲中隊長の佐々木寛平大尉が生還しており、昭和20年7月5日までの連隊の行動は明らかになっている(同日、佐々木大尉は敵弾に倒れ、人事不省になっているところを米軍に救出された)。御田重宝「人間の記録 レイテ・ミンダナオ戦」(徳間文庫)から、佐々木大尉の証言を引用する。

「食糧不足は極度にひどく、カンギポットに着いてから栄養失調、マラリア、下痢それに精神病患者が多くなりました。気が狂ってくるんですね。弾丸もありませんから、砲撃があると逃げ回るだけです。米軍は高いところから砲撃して来ますから、こっちの姿はまる見えです。木の陰、岩の下などに隠れるだけ。それしかない。
 人間は不思議なもので、負けいくさの兵隊は自然に固まるものだと知りました。お互いに肩と肩をすり合わせるようにして群がり、谷間のあちこち固まっているのです。そのころになるともう上官も部下もありません。人間と人間の交際になります。」

「弾薬、食糧がなくなって、日本兵がフラフラしながら谷から谷をさ迷うようになったのは、前にもいったように、二十年三月になってからです。
 私は連隊本部とだいたい行動を共にしていましたから炭谷連隊長の司令部の事情については語れる一人です。
 五月、六月と日時がたつにつれて、人員の減少は目に見えてひどくなり、六月になると完全に組織力を失ってしまった、といってよいと思います。(中略)
 七月に入ると、四一連隊の隊員は何十人いたか、何人だったのか、全くつかめません。命令してどうする、というような状況ではありませんでした。上官も部下もなくなっていましたからね。
 私が米軍の迫撃砲にやられたのは七月五日のことですが、そのときまで、炭谷連隊長や中村大尉(通信中隊長)が生存していたのは確実です。米軍の迫撃砲に撃たれて、近くで爆発したところまでが、カンギポット山付近での私の記憶の最期です。気がついてみると、私はカンギポット山の南側にあった米軍の野戦病院にいました。(中略)
 終戦後、レイテの捕虜収容所で、多くの――といっても十人前後だったと思いますが――レイテ島に投入された四一連隊の生き残りに会うことができました。当然、その後の連隊の様子が話題になりました。
 だれがいってくれたのか全く記憶していないんですが、終戦になる一カ月前といいましたから七月十五日ですね。その日、ついに炭谷連隊長は軍旗を焼き、自決された、ということでした。(中略)捕虜収容所での伝聞ですから、どこまで正確か、そこは不明です。私に語ってくれた兵隊も、だれかから聞いたのかもわかりません。可能性としていえば、米軍の砲弾に当たって戦死したことも考えられますが、私の聞いたところでは、七月の中旬に、軍旗を焼いて、連隊長は自決、というのが四一連隊の終末ということになります。」

 「人間の記録 レイテ・ミンダナオ戦」によれば、レイテ島に投入された歩兵第41連隊主力の将兵の中で、生存が確認されている将校は佐々木大尉ただ一人であり、その他の生還者は下士官・兵が十人あまり、というのが実情のようである。

○勝田太郎少佐(第1師団後方参謀)
 遺族の元には、「フィリピン・レイテ島カンギポット山で、死亡日も不確認のまま、師団の最高責任者として、三十八年の生涯を閉じたようです」との情報が伝わっていたようである(高木俊朗「戦死」文春文庫)。片岡師団長脱出後、第1師団のレイテ島残留部隊の指揮を執ったのは、野砲兵第1連隊長の熊川致長大佐とされているが、あるいは熊川大佐が戦没し、勝田少佐が第1師団を率いるような状況があったのだろうか。
 なお、大岡「レイテ戦記」には、今堀大佐自決(7月4日)の頃、「十六師団長牧野中将、二十六師団後任師団長栗栖少将、六十八旅団長沖少将、参謀長加藤大佐、百二十六聯隊長(六十八旅団)金田大佐(沖少将後任)、第五聯隊長高階大佐、四十一聯隊長炭谷大佐、中村軍高級参謀、勝田第一師団後方参謀らは生きていたといわれる」との伝聞が掲載されている。

○中村貢大佐(第35軍高級参謀)
 牧野書に驚くべき記載がある。中村大佐の当番兵、山口喜蔵氏が生還しており、フィリピンの戦友・遺族の親睦団体「曙光会」第36号(昭和61年5月1日発行)に証言を寄せているのだが、それによれば、中村大佐一行は終戦も知らずに昭和20年8月末か9月ごろ、現地民のバンカーでレイテ島からセブ島に脱出し、その後、別の島でゲリラに襲撃されて戦死したというのだ(詳細は牧野書を参照されたい)。
 将官クラスの消息さえ明らかでない最末期のレイテ島で、中村大佐が十人ほどの兵を養いつつ、日本軍に激しい恨みを持つ現地民からバンカーを入手することに成功し、無事セブ島に渡航するというのは、やや非現実的な部分もある話ではないかと思える。しかし、脱出の途中で負傷した山口氏が、セブ島で捕まり生還していることも、また厳然たる事実である。


 このほか、レイテ戦に関する戦記は、これだけ膨大なものが存在するようである。これらを丹念に調べていけば、レイテ島残留部隊について、もう少し詳しい事実関係が明らかになるかもしれない。

 以上のように、レイテ戦末期の事情を調べて気がつくのは、幹部クラスの主要な将校は、少なくとも昭和20年7月ごろまでは生存していたのではないか、ということである。東部ニューギニアの第18軍は、玉砕を目前にして、辛うじて終戦を迎えることができたが、レイテ島の残留部隊は、不幸にも、あと僅かのところで終戦に間に合わなかったのではないか。
 そして後世の我々は、こうした膨大な犠牲を生んだ戦いがあったこと、国や家族を守るためにたくさんの人々が死んでいった事実を、決して忘れてはならないと思う。


posted by A at 22:12| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする

2012年02月19日

【本】有賀ゆう「スーパーエリートの受験術」

「スーパーエリートの受験術」 有賀ゆう/アルファベータ/1994年

 東京大学理科三類や薬剤師国家試験などに合格した著者が、受験テクニックや、受験生活の過ごし方、時間の使い方、食事や成功心理学に至るまで、さまざまな切り口から受験術を解き明かした本。

 Amazonで異様な高値が付いていることで有名な本である。この記事をアップした時点でも、60,000円と200,000円で2冊出品されており、過去には800,000円(!)で売りに出されていたこともあった。

 残念ながら現在は手許にないのだけれど、受験生当時にこの本を読んだ記憶を辿ると、受験テクニックのほかに、受験に向けた心構えや生活態度などに相当な紙幅を割いていて、一種の自己啓発本のような色合いを持つ本だったように思う。類書の中にそうした特徴を持つ本はあまり見当たらなかったので、新鮮な印象を受けた記憶がある。

 また、本書に紹介された受験テクニックの中にも斬新なものがあった。例えば、「選択式の問題を、本文を見ずに選択肢だけを見て解く」という方法は衝撃的だった。すなわち、出題者が問題を作成するときの心理を読みながら正しい選択肢を探り当てていくという、ちょっと小賢しい方法なのだが、大学受験以外にも応用が利く便利なテクニックだった。(必ずしも成功率が高い方法ではないので、個人的には「正攻法で問題を解くに当たり、正答の目星を付ける」程度の使い方をしていた。)

 しかし、本書に何万円もの価値があるかというと、それはまた別の話ではないか。確かに本書には受験に有用な情報が詰め込まれているけれど、どんなに受験情報を集めようが、結局は自分でみっちり勉強しなければならないのだ。私自身、本書も参考にしながら志望校に合格したけれど、それは本書が素晴らしかったからではなく、単に受験生時代に猛勉強したからにほかならない。本書は決して、難関大学に合格する学力を簡単に与えてくれたり、受験の辛さを劇的に救済したりするような、「魔法の杖」ではないことは銘記されていてしかるべきではないかと思う。

 著者は、本書の内容が古くなってしまっていること、もう受験業界から離れていることなどを理由に、本書を再刊するつもりはないそうである。おそらくこうした受験参考書の常として、「本で紹介されたとおりにやったのに上手くいかなかった」というクレームをつけられたり、あるいは医学の道に進むにつれて受験への興味が薄れたりといった事情もあったのではないかと拝察する。

 しかし、本書の中で紹介されている参考書などに陳腐化した部分があろうとも、受験というものの捉え方・考え方にはまだまだ汲むべきものがあるだろうし、そうした事柄を分かりやすく解説する才能も、誰にでも備わったものではない。また、法外な出費をしなければ本書を読むことができないという現状も、およそ健全な状態とは言えないのではないか(国会図書館に行けば、5,000円程度で全文コピーできるようだが)。絶えざる需要がある以上、あくまで1994年当時の受験界を前提にした本であり、現時点でその内容に責任は負えないことを留保した上で、一種の考古学的な価値を持つ本として、部数限定で本書を復刊しても良いのではないかと個人的には思う。

posted by A at 09:53| 本(その他) | 更新情報をチェックする

2012年02月18日

【本】「指原莉乃1stフォトブック さしこ」

「指原莉乃1stフォトブック さしこ」 講談社/2012年

 「AKB48」メンバー、指原莉乃さんのグラビア写真と、その生い立ちなどに関する文章からなるフォトブック。

 元々、芸能界の動きには明るい方ではないのだけれど、それにしてもこのAKB48というアイドルグループは、本当によく分からない。2005年、このグループのメンバー募集に関する報道を見たとき、アイドル冬の時代に物好きなことをやるものだと、多少呆れるような感想すら抱いた。グループが無事誕生したというニュースに接しても、全く垢抜けない女の子たちを見る限り、とてもこのグループが大成するとは思えなかった。初めてテレビでこのグループの歌(「スカート、ひらり」)を聴いたとき、こんな昭和のアイドルソングのような歌では、とても人気は得られないだろうと思った。CDの販売問題で公取に目を付けられ、レコード会社との契約を打ち切られた時には、これでこのグループは完全に終わったと思った。「RIVER」でオリコン1位を取ったときには、これで人気上昇の勢いも一段落するだろうと思った。「ヘビーローテーション」で大ブレイクした時には、これで人気もピークだ、あとは落ちていくだけだと思った。そして、これらの予想は、何ひとつ的中しなかったのだ。

 なぜ、AKB48というグループは爆発的な人気を集め、しかもその人気を高い水準で維持できているのだろうか。その理由は既に各所で語り尽くされているけれど、その一端を、この「さしこ」という本にも見ることができる。本書では、人気メンバーの一人、指原莉乃さんの生い立ちについて、さまざまな人々の証言を集めながら、かなり詳しく紹介している。平凡な子供時代、いじめを受けて不登校になった中学生時代、AKB48に合格するもなかなか芽が出なかった雌伏の時代、そして現在のブレイク。これは、普遍的な共感を獲得しやすいシンデレラ・ストーリーの原型に、そのまま当てはまるものではないだろうか。しばしば言及されることだけれど、こうした個人の成長過程を赤裸々に提示することが、AKB48というグループの人気の秘訣の一つなのだろうと思った。

 我々には、ある対象に資源を投入すればするほど、ますますその対象に執着してしまうような傾向がある。AKB48のCD販売に関しては、ファンによる大量買いが批判されることがあるけれど、逆に言えば、こうした強力なファン層が下支えしているからこそ、AKB48の人気は多少のことでは揺るがず、当面安定的に維持されていくのではないか。このお化けグループの勢いがどこまで続くのか、興味深く見守っていきたい。

posted by A at 14:13| 本(その他) | 更新情報をチェックする