2011年11月26日

消えた久保田支隊

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1075765500

 こんなところからリンクが張られていた。大昔に見たドラえもんの映画で、ドラえもんが「昔、中国で、3千人の軍隊が行方不明になった」みたいな台詞を言っていたシーンがあった気がするけれど、あれは日本軍の話ではなかったように思う。(調べてみたら、「のび太の日本誕生」で、中国兵士集団失踪事件の話に触れられているようだ。)

 とはいえ、「日本軍が集団で行方不明になった」事例は実際に存在する。今回は、太平洋戦争末期にルソン島の守備に就いたものの、現在に至るまでその後の消息が知れない部隊、「久保田支隊」について小文を書いてみたい。

 昭和19年末のこと。満州からルソン島に転用されてきた第23師団(旭兵団)は、米軍の上陸に備えて、リンガエン湾沿岸の防備強化に大わらわとなっていた。そんな中、ルソン島守備軍の最高司令部である第14方面軍の西村敏雄参謀副長は、12月28日、第23師団に対して唐突に命令を下す。それは、師団本体から遠く離れた、リンガエン湾の南西端のラブラドールに、兵力の派遣を求めるものだった。

 これを受けて第23師団では、捜索第23連隊(長:久保田尚平中佐)、歩兵第72連隊第1大隊(長:野田敏夫大尉)、工兵第23連隊の工兵分隊(長:前田明義軍曹)、その他の小部隊からなる約2500名の部隊を編成し、ラブラドールを中心とした地域に展開させた。部隊の指揮を執ったのが久保田中佐であったことから、この部隊は「久保田支隊」と呼ばれた。九州出身の現役兵を主体とした、精鋭部隊だったという。

 西村参謀副長の意図は、久保田支隊をリンガエン湾南西に置くことにより、ラブラドールの西北3キロのスアル港に配備されていた海上特攻隊を援護すること。合わせて、リンガエン湾よりさらに南方のクラーク飛行場群を守る建武集団(長:塚田理喜智中将、約3万名)との連絡を確保することだった。これは、陸大出の秀才参謀が描く机上の作戦計画としては見栄えの良いものだったが、結局のところ、およそ現実にはそぐわない図上作戦であった。明けて昭和20年1月9日、リンガエン湾にアメリカの大軍が上陸し、激しい戦闘が開始されると、第23師団と久保田支隊の通信は完全に途絶えてしまう。憂慮した第23師団は、久保田支隊に向けて将校斥候を3度派遣したが、そのいずれも帰還することはなかった。

 その後の久保田支隊の運命は、一般に以下のように伝えられている。

「ラブラドールに行った久保田支隊については、何もわかっていない。戦争が終わってからも、久保田支隊については、なんの痕跡も手掛かりも出てこなかった。二千五百名の大部隊は、一兵も生還することなく、全く消滅したまま、今日に至っている。」(「ルソン戦記 ベンゲット道」高木俊朗/文春文庫)

 この久保田支隊の消息について、比較的詳しく調査した記事がある。「丸別冊 日米戦の天王山 フィリピン決戦記」に掲載された、「消滅した久保田支隊の謎」(著者:鈴木昌夫、元歩兵第72連隊通信中隊長・陸軍大尉)がそれである。鈴木元大尉がかき集めた資料・証言によれば、米軍上陸後の久保田支隊の行動経過は、以下のようなものだったらしい。

昭和20年
・1/5 支隊本体がラブラドールに到着
・1/6以降 米軍がスアル、ラブラドールに猛烈な艦砲射撃、銃爆撃を加える
・1/9 米軍上陸
・1/10朝以降 久保田支隊は米軍歩兵第185連隊の猛攻を受ける。支隊将兵は急造陣地で、航空・戦車・砲兵の支援が皆無の中で健闘するも、連日の敵砲爆で次々に斃れ、食糧も尽きる
・1月下旬〜2月上旬 ラブラドールの陣地を撤収。中隊級の小グループに分かれて敵の包囲網を脱出し、自戦自活しながら建武集団に向かう。この頃、野田大隊の兵力は半減していたという
・2月以降 支隊は、ラブラドールの南に広がるザンパレス山脈に進入。人跡未踏の山脈で食糧調達に困難をきたし、またマラリアやアメーバ赤痢などの病気が蔓延。さらにゲリラの襲撃に見舞われ、支隊の人員は急減
・3月頃 サンタクルス東方地区に到達
・4月頃 マシンロク東方地区に到達。その後、ハイピーク山方面に向かう
・6月上旬 ピナツボ山の北、オドンネル〜イバ道の中間で、野田大隊と称する少数の陸軍部隊に遭遇したという証言あり
・その後、久保田支隊の消息に関する手掛かりは皆無

 久保田支隊の野田大隊の中には、生還者は存在するようである。(鈴木元大尉が詳しく触れていないということは、あるいは途中で部隊から脱落して捕虜になった者か。)とはいえ、数千人規模の部隊が丸ごと行方不明となり、その最期すら明らかでないという事態は、太平洋戦域各地で苦杯を喫した日本軍部隊の中でも、極めて異例である。ルソン島守備部隊が辿った運命は、悲惨の一語に尽きるものが多いが、久保田支隊はその中でも最右翼に挙げられる悲運の部隊であったと言えるだろう。

posted by A at 19:43| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする

2011年11月06日

【本】小野健「栂海新道を拓く 夢の縦走路にかけた青春」

「栂海新道を拓く 夢の縦走路にかけた青春」 小野健/山と渓谷社/2010年

 著者とその仲間たちが、北アルプス・朝日岳から新潟県の親不知までをつなぐ「栂海新道」を開拓した記録をつづった本。同著者による「山族野郎の青春」(昭和46年刊)を全面改稿したもの。

 著者を代表とする新潟の小さな登山団体、「さわがに山岳会」が、北アルプスの標高3000m近い山々から海抜0mの日本海までを結ぶ縦走路、栂海新道を切り拓く軌跡を描いた本である。長大な登山道を作るために、休日のほとんどを伐開作業に費やす山岳会メンバーたちの苦闘ぶりを見ると、そのストイックな生活にはただ感心してしまう。同時に、魅力的な新道の開拓という、情熱を注ぐに値する偉大な目標を持つことができた彼らには、ちょっとした羨望も覚えさせられた。

 私財をなげうって新道整備にのめり込み、十分に家庭を顧みない著者は、その奥さんや子供たちから見れば、必ずしも理想的な家庭人ではなかったのかもしれない。しかし、仕事で成果を上げて博士号を授与され、地元では4期16年にわたり町議会議員の要職を務め、さらには山岳界で広く評価される業績を残した著者の人生行路は、男の生き方としては理想の形のひとつではないかとも思える。我が身を振り返ると、これだけ骨太な人生の過ごし方とはちょっと程遠いなと、少しばかり焦燥感をかき立てられてしまう。

posted by A at 14:07| 本(登山、鉄道、旅) | 更新情報をチェックする