2011年06月12日

【本】藤岡明義「敗残の記 −玉砕地ホロ島の記録−」

「敗残の記 −玉砕地ホロ島の記録−」 藤岡明義/中公文庫/1991年
(初版は、1979年に創林社から刊行)

 太平洋戦争当時、フィリピン諸島南部のホロ島に派遣され、辛うじて生還を遂げた兵士による戦記。

 太平洋戦争は悲惨な玉砕戦場を多数生み出したが、その中でも、スールー諸島の一部に含まれるホロ島には、他の戦場と際立って異なる一つの特徴があった。それは、残忍さで知られる原住民、モロ族の存在である。

 戦争末期、ホロ島には、独立混成第55旅団を中心に6000名強の日本軍が派遣された。そして、このうち生きて日本に帰ることができたのは、わずか135名だった。著者によれば、約6000名の日本軍の死者のうち、「米軍との戦いに死んだものは三分の一で、他の三分の一はマラリヤに倒れ、後の三分の一はモロ族に殺されたと称しても過言ではない」のだという。そのモロ族の様子を、著者は以下のように記している。

「・・・モロは怨恨や兵器欲、貴金属欲、排他性の外に、単に、殺人自身に興味を持っているのである。数百名の米比敗残兵は、曽てモロ族に首を切られてしまったと聞いていたが、今また数千名の敗残日本軍が、彼らのヤイバに斃れたのだ。
 我々がこの島に上陸して一カ月と経たないうちに、百名に近い兵隊がモロに殺されてしまった。いずれも「コムパニー、コムパニー」(友達の意)と近寄り、油断を見て蕃刀の抜討に会ったのである。一番多くやられたのは歩哨であった。
 最初の間は、彼らは少人数を狙って来たが、日本軍与し易しと見るや大胆となり、毎日定時に一定の道を通る部隊を待ち伏せるようになった。ある部隊の命令受領者九名は、毎日定時に命令受領に通る道を待ち伏せされて全員戦死。私の部隊の一コ小隊は山の分哨に出ていたが、毎朝麓の部落まで野菜の買出しに行くのを待ち伏せされて、一行十二名全員戦死。ある部落では日本兵を歓迎して毎日御馳走を出し、空腹の日本兵が大勢で招待されているところに、手榴弾を投げ、首を切って廻った。またある部隊の一コ小隊は山の陣地に糧秣運搬中、協力していたモロに突如背かれて皆殺しにあった。
 彼らのジャングル戦の巧妙さに至っては、実に驚嘆の外はない。
 突如、前方から射って来る。すわ応戦と銃を向ける頃には、すでに後に廻って射って来る。それ後方だと振り向くと槍、蕃刀の突撃である。彼らの射撃は専ら肉薄狙撃で、たいていの場合日本軍は、あまりの突然の近接射撃に、泡を喰って混乱に陥り、夥しい犠牲を出した。私は行軍中突如、彼らの小銃の発射煙をかぶったことすらある。それほど接近しても、彼らの足音を聞き取り、または彼らの姿を先に発見した例は未だ聞いたことがない。風の如く来り、風の如く去る通り魔とでも言おうか。彼らは襲撃の際、異様な兇声を発す。それは人間のものとは思えないような疳高い不吉な声で、敗残生活に入ってからは、その声を聞くと、猫ににらまれた鼠の如く立ちすくんでしまうのが常であった。
 最初日本軍は、来るべき日に備えて、モロの暴行にはなるべく犠牲を惜しみ、モロを刺戟しない方針をとっていたが、遂に参謀をして「敵は米軍に非ず、モロなり」と叫ばしめた。
 頻々たる分哨襲撃事件に業を煮やした兵団は、一日、歩兵一コ大隊に山砲を配して大討伐を行ったが、ジャングル戦に馴れていない日本軍は、弓と槍と蕃刀と小銃による神出鬼没の肉薄攻撃に、小児の如く翻弄され、著しい犠牲を出して逃げ帰った。帰り路には、すでに先廻りしたモロが、多数の樹を路に並べて山砲の進行を阻害、これを踏み越えるのにまごついているところを突撃されて、あわや山砲を奪取されるところであった。
 それ以来、遠方の分哨を引き揚げ、ホロ町付近の警備だけにやっとの形となった。そのホロ町の飛行場すら、白昼襲撃を受けることもあった。
 かくて、参謀をして再び、「モロは相手にせず、真の敵は米軍なり、その日のために兵力を保全すべし」と叫ばしめた。」

 このような原住民の暮らす島で、劣弱な兵器しか持たず、米軍に一蹴されて山に追い込まれた日本軍の辿った運命は、あまりにも凄惨であった。食料もなく、飢えと病に苦しみながらジャングルを彷徨する日本軍を、モロ族はたびたび襲撃した。部隊から落伍した兵士は、片端からモロ族に惨殺された。日本が降伏した後でさえ、兵たちは、米軍に辿り着く前にモロ族の刃にかけられていった。捕虜になることすら許されなかった戦場の悲惨さの前には、ただ言葉を失うばかりである。


(補遺)独立混成第55旅団(菅兵団)について
 ホロ島の守備に就いた独立混成第55旅団(旅団長:鈴木鉄三少将)については、生還者が極めて少なく、戦史叢書の記述内容も乏しい。こちらのサイトが詳細な記事を執筆して下さっているが、今回取り上げた本(便宜上、「藤岡書」と呼ぶ)と、「運命の岐路 −玉砕のホロ島は獰猛なモロ族の棲む南海の孤島であった−」(井上武男/近代文藝社/1993年。便宜上、「井上書」と呼ぶ。なお、著者は同旅団司令部付の主計将校であり、終戦時少佐)という本を参考に、事実関係の補遺を試みてみたいと思う。

・旅団長の最期について
 戦史叢書によれば、旅団長の鈴木鉄三少将は、「七月三十一日〜八月二日、島の中央部において南北道を横断する時、敵と遭遇し、兵団長も戦死した」(独立歩兵第365大隊長だった天明藤吉少佐の手記による)とされている。しかし、井上書には、鈴木少将の最期は以下のように記録されている。

「司令官鈴木閣下も大分弱って来て、遂に歩けなくなった。全兵団の兵員の士気にも影響するので、幾ら指揮命令が出来なくなっても、其処に置いて行く訳には行かない。
 …小枝を切って担架を作り、司令官を乗せて、兵隊さんが四人がかりで担いで進んだが、閣下は小柄で軽量だったけれども、それでも担いでいる兵隊さんもフラフラに弱っていたので、木枝に担架を引掛けたり、転んだりでどうにもならない。そこで何とか驢馬を見付けて来て、之に司令官を縛りつけて運んだ。
 何分にも急坂や谷や崖と揺りたくられるので、司令官もぐったりとなって了った。死んだ様になっているので軍医に尋ねたら、馬から下ろして、上向きに寝かせて溝落の辺を指で突いて見て、欠伸をする様だったらまだ生きている。
 欠伸をしないと死んでいると言うのだ。そうやって見たら欠伸をしたので、又驢馬に乗せて行進した。暫くして司令官が首を垂れてぐったりとしているので、又馬から下して指で突いて見たが、今度は欠伸が出なかった。
 水の無い谷底だったが、茲で司令官鈴木閣下は死亡された。せめて埋葬だけでもして上げたかったけれども、モロ族に追われている時だったので其儘、其所らに寝かせて、成仏を祈りつつ谷を登って行った。
 若し状況、緩にして余裕あらば、穴を掘って埋葬し、司令部だけでも整列して、ラッパ一声、捧げ筒して、黙祷を捧げるべきであろうが、追い捲くられている日本軍敗残兵は逃げるのみだった。」

 井上書には事実関係の誤記も多い。しかし、著者はずっと旅団司令部と行動を共にしており、また、鈴木少将戦没に関する記述については、具体的かつ詳細であるため、一概に誤りを述べているとは言えないように思われる。むしろ、天明少佐の手記の方に、一種の「配慮」があったのではないか。
 なお、鈴木少将は、独立混成第55旅団長就任以前は、名古屋の陸軍幼年学校長を長く務めていたという。平和な教育職から最前線兵団長への転任には、軍隊の人事の過酷さを見る思いがする。

・旅団の降伏について
 井上書によれば、旅団降伏時の佐官級の生存者は3名(天明少佐、井上少佐、ほか一名)。「ほか一名」は、井上書に「大隊長」とあること、戦史叢書に当人の日記・回想が収録されていることを踏まえれば、独立歩兵第363大隊長の笠井満少佐のことと推測される。なお、藤岡書には「川西部隊」「神田部隊」「谷川部隊」が登場するが、藤岡書は「人名だけは若干の配慮を加え」ていることから、それぞれ笠井大隊、天明大隊、清水部隊(旅団砲兵隊)を指すのではないかと思われる。
 降伏時に旅団の指揮を執っていたのは、井上書によれば天明少佐、藤岡書によれば「神田少佐」とされている。旅団司令部と最後まで行動を共にし、一緒に米軍に投降した生存者は、井上書によれば計81名であった。

・ホロ島戦没者の遺骨収集について
 戦後もホロ島は政情不安定であることから、戦没者の遺骨収集を満足に行えない地となっている。昭和三十三年二月十八日の毎日新聞夕刊は、「とりつくシマもないホロ島」との見出しで、「フィリピン南部の島々を回っている遺骨収集団の銀河丸はホロ島ではついに収骨ができなかった。…銀河丸が接岸すると、五筋の白煙が上った。PC(警備隊)の将校がモロの奇襲を恐れて奥に入れず、つい目の先のダホ山をながめながら、派遣団一同は、セミしぐれの中にぼう然と立ちつくすだけだった」と報じている。
 藤岡書(文庫版)の解説によれば、「第一回目の遺骨収集は終戦から十一年目の、一九五六年一月から二月にかけて行われたが、収集団が危険にさらされ一柱の収集も出来なかった。その後、六八年に五十柱、翌年千四百三十柱、そして七四年に四百五十柱を収集出来たが、丘陵地や山地では全く行なわれていないし、「当面、その計画もない」(厚生省援護局)」とのことである。

 なお、ホロ島の戦いに関する書物としては、この他に、藤岡氏と同じく旅団砲兵隊にいた奥村達造という人が著した、「ホロ島戦記」(1980年)という本があるようである。

posted by A at 18:08| 本(戦記) | 更新情報をチェックする