2018年02月04日

【本】ウォーレン・クロマティほか「さらばサムライ野球」

「さらばサムライ野球」 ウォーレン・クロマティ、ロバート・ホワイティング/講談社文庫/1992年
(初版は、1991年に講談社インターナショナルから刊行)

 1984年から1990年まで読売巨人軍に在籍し、優れた打撃成績を残した、ウォーレン・クロマティ外野手の自伝的な本。

 巨人軍の裏側をあけすけに描き、刊行当時に「暴露本」扱いもされた、クロマティの日本野球体験記である。球団首脳の外国人選手への無理解や、コーチたちの無能ぶり、同僚の人物評などを遠慮なく書き並べているほか、外国人から見た日本文化の特異性を包み隠さず指摘していて、結構刺激の強い内容になっている。グラウンドで見せていた、陽気な助っ人外国人クロマティの姿をイメージして読み始めると、少なからず衝撃(場合によっては、失望)を覚えるのではないかと思う。

 1953年にマイアミで生まれたクロマティは、2歳の時に両親が離婚し、スラムで貧しい少年時代を送る。彼の父親違いの弟は、やがて麻薬密売や強盗に手を染めて刑務所に送られるが、野球の才能に恵まれていたクロマティは、不十分ながらも父親からの指導や援助を受け、短大を経てメジャーリーグへ進む。そして、1981年にモントリオール・エクスポズで地区優勝も経験し、84年、高給に惹かれて来日する。

 しかし、巨人に入団してからのクロマティは、チームの風通しの悪さや、ガイジンを疎外する日本社会の壁に苦しみ続ける。『ニューズウィーク』国際版のインタビューで、クロマティは以下のように述べている。

「『年俸はかなりいい。だからみんな日本へ来るのだ。友だちをつくろうと思って日本へ来ているやつはいない。日本人の選手は、ガイジンが自分たちよりたくさん金をもらっていることに嫉妬している。だからガイジンはあらゆる期待にこたえなければならない。ホームランを打ちまくり、どんな飛球でも捕らないと、たちまち批判される。たまには親しみをこめて背中をポンと叩いてくれるが、そんなことは滅多にないと思ったほうがいい。プライドをぐっと飲み込んで、目の前で起こる異常な事態にじっと耐えなければならない』
――日本に偏見はあると思いますか?
『もちろんある。たとえばガイジンに対して偏見をもっている。日本人は、外国人に先を越されることを嫌う。どうせなら同国人にいい思いをさせてやりたいと思っている。たとえ満塁でも、面子のためなら平気で俺を歩かせる』
――黒人に対する偏見に直面したことは?
『もちろんあるさ。その種の偏見は世界中にある。日本だって同じだ。外野で守っていると、スタンドから侮辱的な言葉を浴びせられることがある。アメリカでプレーしているときと同じだ』」

 こうして苦労を重ねてきたクロマティも、4年、5年と日本生活を続けると、以下のような心境に至っている。

「人生なんて、バラ色のあれこれがそっくり用意されているわけではない。すばらしい人生を手に入れようと思ったら、自分も少しは努力すべきなのだ。人に説教できるような柄ではないことはわかっている。俺だってさんざん日本の悪口を言ってきた。だけど今は少しずつ物事がわかりかけている。(中略)
 最初は日本的なものすべてに反抗したものだ。言葉だってまじめに勉強する気にならなかった。だけど今は、少しでもしゃべれるようになって本当によかったと思っている。もっと早くから勉強していればよかったと後悔しているくらいだ。――俺がこんなことを言うようになるなんて、夢にも思わなかったが。
 日本が大好きだ。いろいろ問題はあるが、神の名のもとに一億九千万ドルの寄付を求めるようなジェリー・フェアウェルは、ここにはいない。この国にはこの国なりの献身のしかたがあるのだ。それがだんだんわかってきた。日本人には日本人の考え方があり、その大半はアメリカ人の考え方に少しも劣らない」

 本書を読んだ感想として、クロマティはかなり自我が強く、クセのある人物だが、同時に頭脳明晰で、我慢強く、また柔軟性のある人柄だという印象を受けた。ホーナーやガリクソンのようなメジャーリーガーたちが、日本に嫌気が差して短期間で帰国した一方で、クロマティが7年の長きにわたって異国の地でプレーし、しかも素晴らしい成績を残し続けたのは、こうしたクロマティ自身の人となりによる部分が大きかったのではないか、と思えた。


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2018年01月13日

【本】阿利莫二「ルソン戦―死の谷」

「ルソン戦―死の谷」 阿利莫二/岩波新書/1987年

 太平洋戦争中、学徒出陣でルソン島に出征した著者が、自らの従軍体験を著した戦記。

 ルソン島の戦いに投入された学徒出陣者の数は、判明しているだけで約1,015名。このうち、日本に生還できたのは約90名だった。本書は、その数少ない生還者の一人である著者が、凄惨なルソン戦の実態を、自らの体験に基づいて書き綴った記録である。本の雰囲気としては、尾川正二「「死の島」ニューギニア」と、どことなく似ているように思えた。

 著者ら前橋陸軍予備士官学校第11期の学徒兵約600名は、まだ修学中だった昭和19年9月、戦況の悪化を受けて、急きょ南方戦線に派遣されることになった。そして、バシー海峡を越えて無事ルソン島に上陸できた約400名は、第14方面軍の教育隊で現地教育を受け、昭和20年1月に見習士官に任官。著者は第19師団(虎兵団)への配属を命じられ、任地に向けて出発する。

 しかし、ルソン島各地で戦線が崩壊する中で、山中を辿る移動は困難を極め、その過程で著者は、傷病兵や在留邦人たちの無惨な死の数々を目の当たりにする。そして、著者自身も飢えとマラリアで幽鬼のようにやせ衰え、さらには米軍機の銃撃を受けて負傷する。傷を負い、意識を失った後の著者の様子を、以下に引用する。

「・・・どのくらい時間が経ったかわからない。夢うつつの世界で誰かが呼んでいる。答えようとしても声が出ない。誰かが見下ろしている。戦場では、その時の自分の力ではどうにもならない運の良し悪しがある。ルソンの戦場から還った者で、何度かこの運に恵まれずしてその生を得た者はあるまい。(中略)
 道はすさまじかった。道路際には車輌の残骸、待避壕には白骨、そこかしこに屍が横たわる。その道をかなりの人が、異様な姿で三々五々右から左に動いている。普通の部隊ではない。顔全体を血で黒く乾いた布きれで巻きつけている者。仲間に肩を貸している者も、足をひきずり、杖をついている。今にも前にのめるように身をかがめて足を運ぶ者。肩から吊った片腕には先がない。明らかに傷病患者である。人の流れは長く、あとからあとからばらばらに続いているようだった。霧のような雨がシトシト降り続く。そのあと、どういうところをどう行ったのか、自分で歩いたのか、誰かの肩を借りたのかも覚えがない。
 野宿が始まる。崖が道際からすこしひっこんで、山間のような平らな空き地である。傷病者がごろごろいた。これが野戦病院だったとするならば、およそ病院の名に値しない傷病者のたまり場でしかない。死ぬ者が後を絶たない。時たま「バーン」という手榴弾の炸裂音がこだました。自決だろう」

 こうした苦境を辛うじて生き延び、その後の深刻な飢餓と続発する重病をも切り抜け、とうとう生還を果たした著者は、とにかく運に恵まれていたとしか言いようがない。このような過酷な戦争体験を振り返って、著者は以下のように述べている。

「今ここで、米軍の非人道的行為をあげたてて、日本軍の犯した残虐行為やあの戦争を正当化するつもりはない。むしろ米軍については、あとでふれるように、身を以て体験した、その人道的行為を知ってもらわねばなるまい。他方、日本軍にもそれなりの戦場美談がある。ここで強調したいのは、戦争そのものが、大なり小なり非人間性、残虐性をどこかで求めるということである。戦場における狂気の沙汰からは、程度の差はあれ、いかなる軍隊も逃れられない。戦争を語るとき、誰が残虐だったかも重要なことだが、戦争そのものが残虐を生みだすということの方が、もっと大切だ。戦場のヒューマニズムが輝きを放つのも、戦場が異常であるが故に稀少な正常さが光をもつからだ。戦場美談の陰には常に戦争の悪がある」

 生きて還った著者は、戦後は学者の道を歩み、1988年から95年まで法政大学総長を務めている。著者とともに出征し、戦没した学徒兵たちも、このような悲運に遭わなければ、国や社会のために有為な人材となったことと思う。


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2017年12月16日

【本】高橋英利「オウムからの帰還」

「オウムからの帰還」 高橋英利/草思社文庫/2012年
(初版は、1996年に草思社から刊行)

 学生時代にオウム真理教に入信し、のちに出家した信者が、やがて教団に疑問を持つようになり、なかば強引に脱会するまでの過程を描いた本。

 著者は、1995年3月に地下鉄サリン事件が発生した後、テレビ朝日「ニュースステーション」などに実名と顔をさらして出演し、オウム真理教の実態を赤裸々に証言した人物である。そうした大胆な証言者である著者が、自らのオウム信者としての遍歴を、生々しく詳述したのが本書である。

 大学生時代に、青年期特有の形而上学的な悩みや、研究の行き詰まりなどから鬱状態に陥っていた著者は、ある日、自らの通う大学で開かれた麻原彰晃の講演会を聞きに行く。そして、講演会後に熱心に勧誘してきた井上嘉浩に説得され、衝動的にオウム真理教に入信する。その後、一時オウムを離れたものの、大学院生時代にふたたび精神状態が悪化してオウムに復帰。最後には、とうとう出家信者としての道を選んでしまう。著者の人生選択は、結局のところ最悪のものだったと言うほかないのだけれど、生真面目で突き詰めて考える性格の著者だからこそ、かえってこうしたカルトに絡め取られてしまったのかな、と思えた。

 そして、著者は山梨県上九一色村の教団施設(サティアン)で修行生活を送ることになるが、やがて教団の組織管理のルーズさや秘密主義に疑問を抱くようになり、そのことを幹部からも警戒されるようになる。カルト宗教の信者というものは、自ら考えることを放棄して、すっかり従順になってしまったような人々だというイメージを持っていたけれど、著者は、他の出家信者たちよりも芯の強い人だったようである。このような著者に対して、オウムの幹部たちがどのような指導を行ったのか、一例を本書から引用する。

「・・・誰かがヴァジラベルというベルを『チリーン』と鳴らしながら僕のまわりを歩きまわる。そして恐ろしげな声でささやくのだ。
『お前は修行がなっていない!』
 飯田さん(注:飯田エリ子)だった。それに続いてほかの人(注:新實智光など)も恐ろしげな声を出して、僕の修行態度の至らない点をあれこれとつつきはじめるのである。(中略)
 だけど僕はいま、教団のやり方に大きな疑問を持っているのだ。こんな子供だましのようなものに付き合っていられなかった。僕のほうから議論をふっかけていった。
 サティアンがあまりにも汚いこと、管理運営のやり方があまりにも粗雑すぎること、それらは要は出家サマナたちの心がまだ汚れたままであることの証拠ではないのか。
 彼らは必死になって、それはお前の修行が・・・とか、お前はプライドが高すぎて・・・などとオウムの常套文句で僕の攻撃をかわそうとするが、僕はひるまなかった。僕の指摘は的を射ていたらしく、飯田さんなどはしまいに普通の声になっていた。
『でもね高橋君、そうは言ってもね、グルに従うしかないのよ。私たちは』
 僕は彼女を問い詰めた。
『グルに従うというけど、じゃあグルが何をしようとしているのか、わかっているんですか』
 それに対して彼女はこう答えたのだ。
『私たちにもうかがい知れない人なのよ・・・』
 気弱な泣き言のような言い方だった」

 こうした会話を見て、著者はずいぶん骨のある方だなという印象を受けた。信者のリンチ・殺害事件が続いていたこの時期に、このような率直な振る舞いをすれば、一歩間違えば著者自身の命を危うくしていたことだろう。本書を読む限りでは、著者による井上嘉浩の人物評価は一面的で甘すぎるとしか思えず、また、著者自身のオウム信者時代に対する総括も、あまり核心に至っていないように感じられた。ただ、上記のようなやり取りからうかがわれる著者の気骨や行動力が、やがて力ずくの脱会やテレビ出演、本書の執筆などにつながり、教団の実像の一端を明らかにしたことは確かだろうし、そうした点は率直に評価すべきものではないかと思った。


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2017年11月25日

【本】田中俊男「陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦」

「陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦 台湾高砂義勇兵との戦勝録」 田中俊男/戦誌刊行会/1996年

 陸軍中野学校卒業後、東部ニューギニア戦線に派遣され、遊撃戦(いわゆるゲリラ戦)を展開した元陸軍曹長の戦記。

 著者は、昭和16年4月に現役兵として第18師団に入隊し、その後、連隊長の推薦と厳しい選抜試験を経て、17年4月に陸軍中野学校に入校(下士官候補者を対象とした、第四期戊種学生)。そして18年4月に中野学校を卒業し、同年7月にニューギニア・ウエワクに上陸、そのまま終戦まで東部ニューギニアで戦い続けた人物である。本書には、著者ら中野学校出身の将校・下士官たちが、身体能力に優れた台湾出身の高砂義勇兵を指揮して、縦横無尽に遊撃戦を繰り広げた模様が詳しく描かれている。

 例えば、東部ニューギニアの第18軍がウエワクなどの主要基地を失い、全海岸線を放棄して内陸に追い込まれていた昭和20年5月、著者らの挺身攻撃隊は、ウエワク西方のダグア飛行場への潜入攻撃を成功させている。すなわち、選抜された下士官と高砂義勇兵が、敵性化した原住民を警戒しつつ、慎重に攻撃潜入路を選定し、敵の警備状況を偵察・把握。そして深夜に飛行場に潜入し、敵の戦闘機全機と給油所・発電所を爆砕したうえ、全員が生還している。こうした鮮やかな戦果は、破局に近づいていたこの時期のニューギニア戦線では特筆すべきものであろう。

 その他にも著者らは、敵軍の背後に潜入しての偵察や陣地爆破、敵からの兵器・弾薬・食糧の奪取、原住民への宣撫工作など、見事な戦功を立て続けている。壮絶な飢餓と病魔に苦しめられ、文字通り地獄の惨状を呈したニューギニア関連の戦記は、読んでいて非常に悲惨な印象を受けるものが多いが、その中で本書は、旺盛な敢闘精神を最後まで失わない精鋭部隊の様子を描いた、かなり異色の戦記である。著者らの活躍も、結局戦勢を挽回するものではなかったが、こういった部隊が存在したことは、あらゆる辛酸をなめ尽くした当時の第18軍にとって、一つの光明ではなかったかと思う。


(補記)
 昔、初めて本書を読んだときには気付かなかったが、この本にも「サンドイッチ部隊」に関する記述があった。以下に引用する。

「我々第十八軍の将兵はアイタペ・ホルランジャまで到達すれば新手の部隊と交替して帰国し、休養が取れそうだと真しやかな流言飛語が流れ、皆何よりも楽しみに飢餓と苦難にも耐えてきたのであった。が、この敵のアイタペ・ホルランジャ同時上陸は総てを絶望に陥れた。当時ウエワク周辺に所在の陸軍航空部隊・海軍部隊・その他後方要員数千名(五千とも一万とも言われる)は、その大部分が陸路ホルランジャへ向け数個梯団となって出発していた。当時アイタペには第二十師団各部隊への補充部隊数百名が師団のアイタペ到着を待って待機しているに過ぎなかった。補充要員を引率していた安部龍三大尉はこれ等を指揮し、懸命に抵抗し奮戦したが、所詮手に負える敵では無かった。
 安部大尉は兵力を統合して敵の包囲網からの脱出には成功したものの、約半数はホルランジャに向けて西走し、自ら掌握した半数だけがマルジップに後退して、歩七八の第三大隊小池捜索隊に収容され、爾後、所属部隊の到着を待って合流した。
 因みに、ホルランジャへ向け転進した数千名の消息の大半は現在に至るもなお不明のままである。この中には中野学校出身者も数名含まれていたとかで、戦後ルバング島の小野田少尉の救出もあって、中野校友会として救出資金をカンパ、日本政府を通じ豪軍に依頼して捜索したが、何の手がかりもなく現在に至っている。何故何千何百の将兵が何の痕跡も残さずに消えて、一体何処へ行ったのか不思議という他はない。
(註)食料もない儘、人跡未踏の緑の魔境をさまよいながら次々に倒れて行ったものとしか思われず悲痛の極みである。」

 この行方不明になった転進部隊については、わずかながら生還者が存在する。詳細は、こちらの記事を参照されたい。


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2017年11月04日

【本】羽根田治ほか「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」

「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか 低体温症と事故の教訓」 羽根田治・飯田肇・金田正樹・山本正嘉/ヤマケイ文庫/2012年
(初版は、2010年に山と渓谷社から刊行)

 2009年7月に発生した、トムラウシ山遭難事故の実態を詳しく検証した本。

 18名のツアー登山パーティ(ガイド3名含む)のうち、実に8名もの死者を出した、トムラウシ山遭難事故の実像に迫った本である。生還した登山客らの証言を基に、パーティの行動経過を詳細に解き明かすとともに、本事故の検証委員会「トムラウシ山遭難事故調査特別委員会」にも参加した医師などの専門家が、気象・医学・運動生理学の観点から充実した解説を行っている。読み応えのある一冊である。

 本書の中では、やはり第1章「大量遭難」が、最も読者の関心を惹く内容であろう。山岳遭難事故に関して多数の著作があるライターの羽根田治氏が、パーティの生還者を直接取材して貴重な証言を引き出しており、こうした裏付けを積み上げながら、個々の参加者たちの彷徨と生死の経緯を明らかにしている。中には、他者との証言の食い違いが少なからず目立つ人物もいて、まるで芥川の「藪の中」のようだな、という印象を受ける部分もあった。

 また、専門家による解説の中では、医師の金田正樹氏が執筆した第4章「低体温症」が特に興味深かった。山岳事故の実例を多数引用しつつ、医学的な見地から低体温症の実情に迫っており、登山を行う人にとっては大変参考になる内容ではないかと思う。こうした事故では、どうしても犯人探しや責任追及が面白おかしく語られがちだが、既に起きてしまった事故の原因を解き明かし、再発防止につなげることが、何よりも重要であることを忘れてはなるまい。第4章の最後で、金田氏は以下のように述べている。

「今回の遭難報道と事実の間には相違点が多々あった。遭難事故が起きると、メディアは誰の責任かと犯人探しの報道が優先され、時にはバッシングと思われるような書き方までされる。それでは遭難の真相は解明されない。大自然の山のなかで、小さな人間の行動は計算どおりにできるはずはない。気象条件に左右され、その判断の誤りが気象遭難に繋がるのであって、町での事件とは違う。もう少し山の状況を知った上で、事実をきちんと書くべきだろう。人間にミスはつきものである。そのミスを解明し、それを生かし、今後の行動に繋がるようにしなければならない」


posted by A at 22:41| 本(登山、鉄道、旅) | 更新情報をチェックする