2019年07月15日

【本】長谷川晶一「最弱球団 高橋ユニオンズ青春記」

「最弱球団 高橋ユニオンズ青春記」 長谷川晶一/白夜書房/2011年

 1954年から56年にかけて存在し、「史上最弱」とも呼ばれたプロ野球チーム、高橋ユニオンズの顛末記。

 3年間で146勝281敗8分、勝率.342という成績を残した、高橋ユニオンズの苦闘の歴史を描いたノンフィクション作品である。「永田ラッパ」と呼ばれた大映社長・永田雅一の思い付きで、パ・リーグを8球団制にするためにユニオンズが創設されるところから始まり、永田を含む他球団オーナーの思惑で、わずか3年で球団が消滅に追い込まれていくまでを、当時の関係者の証言を基に詳しく描き出している。

 リーグ順位が6位、8位、8位と振るわなかったユニオンズだが、往時の選手たちは一様に、「弱かったけれど、いいチームだった」と振り返っている。こうした雰囲気の良いチームづくりに大きく影響したのは、オーナーを引き受けた高橋龍太郎氏の存在だろう。財界の大物として余生を送っていた78歳の高橋氏が、永田社長に担ぎ出される形でユニオンズのオーナーに就任し、私財を切り崩しつつ熱心に選手達を応援する様子は、本書の中でも特に印象的な部分である。球団の解散が決定した当時の龍太郎氏の様子を、著者は以下のように描いている。

「…龍太郎の頬に一筋の涙が光っていた。53年末からの3年余り、永田ラッパに踊らされる形で期せずして球団を経営することになった。『寄せ集め集団』と揶揄されながらも、私財を切り崩してチームの運営に努めてきた。『最弱球団』と馬鹿にされ続けた。それでも、負けても、負けても、足繁く球場に通い続けた。選手がミスをしても、決して彼らを罵倒することはなかった。もちろん、負ければ悔しい。勝ってほしいといつも願っていた。たまにチームが勝つと、子どものように喜んだ。大急ぎでベンチまで降りていき、『よくやった、よくやった』と選手たちを心からねぎらった。シーズン中には何度も『激励会』と称して、都内のレストランを貸し切りにして食事会を開いた。けれども、龍太郎にとっては、単なる勝ち負けよりも、自チームの選手たちの奮闘ぶりが見られるだけで、十分満足だった。自分の孫のような世代の選手たちが、『高橋球団』の一員としてグラウンドを駆け回っている姿を見ているだけで、十分満足だった」

 戦力や人気には決して恵まれなかったユニオンズだが、それでも3年間を生き抜くことができたのは、まさにこのオーナーが球団の支柱となりえたためだろう。そして、こうした人格者のオーナーの存在があったからこそ、高橋ユニオンズは、長く選手たちの心に残り続けることになったのではないかと思う。わずか3年しか活動しなかったユニオンズだが、そのOB会は、会員の高齢化により維持が難しくなった2017年まで、実に60年間も開催され続けた。そして、「プロ野球ニュース」のキャスターとして知られる佐々木信也を始め、毎回多くの元選手たちが出席していたそうである。

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2019年06月16日

【本】若林宣「帝国日本の交通網 つながらなかった大東亜共栄圏」

「帝国日本の交通網 つながらなかった大東亜共栄圏」 若林宣/青弓社/2016年

 明治期から太平洋戦争までの時代にかけて、日本が大陸や南洋に勢力を伸ばしてゆく過程を追いつつ、その領土拡張に対応する交通網の整備が十分に進まなかった実態を明らかにした本。

 太平洋戦争関係の書籍を読んでいると、北はアリューシャンから南はソロモン・ニューギニアまで、広大な地域をカバーした大日本帝国の領土地図を見かけることがよくある。また、南方戦線に出征した将兵の戦記(例えば、加東大介「南の島に雪が降る」)を読むと、「この戦争は百年戦争だ」と、兵士たちが長期戦への覚悟を求められている場面に出くわすことがある。ところで、その壮大な版図の中で人員・物資を円滑に移動させたり、長期戦を支える経済活動を維持したりするために必要不可欠な陸海空の交通網は、一体どの程度整備されていたのだろうか。その実態を、膨大な史料を基に丁寧に解き明かしたのが本書である。

 例えば、本書の第4章「南洋群島の交通網」では、第一次世界大戦前のドイツ領時代の海上交通事情から説き起こし、日本統治時代の南洋航路の発展経緯について詳しく解説を行っている。それによれば、第一次大戦後の1920年、日本郵船による東回り線(横浜−サイパン−トラック−ヤルート)、西回り線(横須賀−サイパン−トラック−パラオ−アンガウル)が運航を開始して以降、内地からパラオ・ヤルート両方に立ち寄る東西連絡線や、内地とマリアナ諸島を結ぶサイパン線、さらに多数の離島間航路などが次々と開設され、年間運航回数は少ないながらも、航路網は次第に拡充されていった。しかし、太平洋戦争の開始により船舶が徴用されたり、空襲で失われたりして、民間海上交通網は一気に崩壊していくのだった。

 こうした海上交通の発展と衰退の歴史のほかにも、本書には、内地と朝鮮・満州・内蒙・中国・南洋を結ぶ民間航空路の設定や、中国や南方占領地における困難な鉄道経営など、戦前・戦中期における帝国日本の交通網の実情が詳細に描かれている。その中には、日独航空連絡路(予定ルート:ベルリン−ロードス島−バグダッド−カブール−安西−新京−東京)の創設を目指して、日本軍の勢力圏外だったゴビ砂漠西南端の安西に着陸場を設けようとした逸話や、1944年2〜3月頃、南方軍に協力して、シンガポール−ジャカルタ−ホーランジア−ラバウル間の危険な輸送任務に従事した民間航空輸送隊の苦心譚など、大変興味を惹かれるエピソードも含まれている。240ページ程度の分量ながら、極めて守備範囲の広い一冊であり、この時代の航空・海上・鉄道の各分野の歴史を掘り下げていくに当たり、優れた入口にもなりうる良書である。

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2019年06月09日

ニューギニア戦線・ウエワクの第18軍への空路連絡について

 太平洋戦争のニューギニア戦線では、昭和19年4月22日の米軍のアイタペ・ホーランジア(現ジャヤプラ)上陸により、西進中の日本陸軍の第18軍は退路を断たれ、東部ニューギニアのウエワク付近(地図はこちらを参照)に孤立することとなった。そして、食糧や武器弾薬の補給が途絶した状況の下で、終戦まで多数の餓死者を出しつつ、劣悪な装備で連合軍への抵抗を続けたのだった。

 こうした中で、昭和19年5月以降、ウエワクに対する連絡飛行(緊急物資の空輸)が計4回試みられ、その全てが成功している。今回は、敵の制空権下におけるこれらの空路連絡について、概要をまとめてみたい。

1 昭和19年5月(第1回、第2回)
 米軍の飛び石作戦によりウエワクから西へ進むことができなくなった第18軍は、昭和19年5月7日、メナド所在の第4航空軍に対して、ウエワクに対する連絡飛行と、まもなく進攻することになるアイタペ付近の空中写真偵察を要望した。このうち空中写真の撮影は、司偵戦力の枯渇や制空権の状況から不可能だったが、空中勤務者が取り残されていたウエワクへの飛行については、第4航空軍としても積極的に対応することとした。

 そして第4航空軍は、この連絡飛行を、重爆が使用できる最前線の飛行場であるヌンホル島(地図はこちら)のカメリーから行うことに決定した。カメリーからウエワクへの直線距離は約1,100kmだが、ホーランジアのはるか北を迂回して飛行するため、実質的な飛行距離は約1,400kmと見込まれた。

@5月14日(第1回)
 第1回飛行は、飛行第61戦隊の鈴木正典大尉(陸士52期)を機長とする百式重爆1機により行われた。この飛行は大きな問題もなく、軍需品(特に乾電池)、衛生材料(特にマラリア剤)をウエワクに輸送することに成功し、ウエワクからは操縦者8名(将校4名、下士官4名)を連れ帰った。

A5月15日(第2回)
 第2回飛行は、飛行第61戦隊の宮澤敏男大尉(陸士50期)を機長とし、第1回とほぼ同様のやり方で、ウエワクへの軍需品の輸送を成功させた。しかし、肝を冷やす事件が発生したのは帰路だった。第18軍参謀の小幡一喜中佐(陸士35期・陸大47期、工兵)と、空中勤務者6名(将校2名、下士官4名)を乗せた宮澤機はウエワクを出発するが、ホーランジアの北方300km付近を飛行しているところを連合軍の戦闘機に触接されてしまう。いよいよとなれば海中に突っ込み、玉砕することなどを機中で話していると、敵機が翼灯を点滅したので、こちらもそれに合わせて翼灯を点滅。すると敵機は旋回して去り、宮澤機は九死に一生を得る結果となった。

 その後、メナドに到着した小幡参謀は、阿南大将以下の第2方面軍幹部と第4航空軍幹部に対して、第18軍の現状、特にアイタペ攻勢計画について詳しく説明し、以後の支援の約束を得た。ところが5月17日、連合軍がサルミとワクデに、また27日はビアクにも上陸し、ヘルヴィング湾方面からのウエワク連絡飛行は中止に追い込まれることになった。カメリー飛行場のあるヌンホル島にも7月2日に米軍が上陸し、歩兵第219連隊長の清水季貞大佐以下の守備隊が抗戦するも衆寡敵せず、8月中〜下旬頃に軍旗を埋没、清水大佐が自決して遊撃戦に移行している(終戦時の生存者11名)。

 それでも小幡参謀は第18軍への復帰を熱望し、パラオに移動してウエワク行きの潜水艦を待ったが、6月中旬の連合軍のマリアナ来攻により、5月27日にウエワクに入港した呂115号を最後に東部ニューギニアへの潜水艦輸送は途絶した。その後、小幡参謀は第35軍に転属となり、レイテ島の戦いからも生還。第16軍司令部附で終戦を迎えたようである。


2 昭和19年9月(第3回)
 アイタペ攻勢の敢闘を目の当たりにした南方軍は、7月27日、第18軍に対して、ウエワクへの空中連絡の可否を照会した。これに対して第18軍は、ウエワクの飛行場補修には2,000人/日の労力を要するとし、アイタペ作戦中であることも踏まえて空輸を辞退した。その代わりに第18軍は潜水艦輸送を要望したが、これは実現しなかった。

 そしてアイタペ作戦が中止となった後、南方軍は第4航空軍に対してウエワクへの連絡飛行を指導し、結局、第7飛行団(ボルネオ島アピ所在)の飛行第62戦隊がこれを実行することになった。百式重爆の第62戦隊は、この連絡飛行に当たり、発動機に信頼性の高い九七式重爆の使用を希望したため、第12戦隊から九七重U型1機の機材が62戦隊に貸与され、作戦に使用された。また、ウエワクへの経路は、当時使用可能だったニューギニア島西南方のカイ諸島(この周辺の諸島は、マレー作戦で活躍した第5師団が移駐・守備していた)の飛行場を出発し、ヘルヴィング湾上に出て、脊梁山系の北麓沿いに飛行し、ウエワクまで約1,500kmの航路を取ることが予定された。

 9月7日午後11時頃、62戦隊の児玉邦芳中尉(陸士55期)が機長を務める九七式重爆は、衛生材料、通信消耗品、現地自活用の種子、激励慰問の手紙などを搭載し、カイ諸島ラングールの飛行場を出発した。敵の制空権下で、灯りを全て消してウエワクへ飛行し、翌8日午前4時50分頃、隠密に補修を完了していたウエワク飛行場に無事着陸。迅速に物資を積み下ろしたが、着陸20分後に来襲した敵機の対地攻撃で機体は大破し、児玉機乗員の6名は帰還のすべを失ってしまう。結局、彼らは第18軍司令部付となってそのままニューギニアに残留し、原住民と自活しつつ終戦を迎えている。

 この児玉機の飛来については、迎えた側の第18軍将兵の手記にもいくつかの記述が散見される。例えば、第41師団参謀部付だった星野一雄大尉は、以下のような記録を書き残している。

「その頃、米軍機の活動がとみに活発になり、それも戦闘機の編隊がしばしば見られた。(中略)これは後日判明したことだが、薬品や無線用電池などといった緊要なものを、友軍機が単機でチモールの方から緊急輸送してきたことによるものであった。この機は着陸と同時に米軍機の攻撃を受けて機体は大破してしまったが、目的物は無事着いた由であった。しかしその搭乗員の方は、気の毒にもニューギニアに閉じこめられて、私たちと運命をともにすることになった」

 また、児玉機の操縦士だった高木茂氏が、この飛行に関する詳しい手記を残している(こちら参照。日付等の記録については、戦史叢書と若干の相違あり)。本手記によれば、連絡飛行という危険な任務に就き、ニューギニアに取り残される羽目になった児玉機乗員は生きて終戦を迎えられたものの、安全だったはずの第7飛行団本隊に残った者は、その後のレイテ戦などで大部分が戦死したとのことである。数奇な運命と言うほかない。


3 昭和20年1〜2月(第4回)
 昭和19年11月下旬、第18軍は兵器、真空管、雷管、薬品などの潜水艦輸送を要請し、南方軍や大本営は海軍側に交渉したが、レイテ決戦中のためその余裕はなかった。しかし、第18軍の窮状を察した南方軍は、せめて緊急軍需品だけでも空路輸送することを意図し、第4航空軍にこれを指示した。そして、飛行第14戦隊の武市茂二中尉(陸士55期)に、この困難な任務が命ぜられたのだった。

 今回の飛行も、前年9月の児玉機の飛行と同じく九七式重爆を用い、アル諸島(戦史叢書には「カイ諸島」とあるが、誤記か)のドボからウエワクを目指すことになった。ただし、ウエワクは既に連合軍機の厳重な監視下にあり、また第18軍にも滑走路整備の余力がなかったため、武市機は初めからウエワク近郊のオーム岬に胴体着陸を行うことを予定していた。昭和20年1月上旬、数回の飛行を天候に妨げられた武市機は、月齢の関係もあって一度ジャワに引き揚げた後、1月末に作戦を再開。2月1日未明、オーム岬への胴体着陸に成功している。

 なお、この武市機をウエワクで迎えた第51師団歩兵第66連隊の飯塚栄地軍曹は、その感激を以下のように記している。

「昭和20年の2月爆撃機一機がマラリアの特効薬であるキニーネと、無線機に必要な乾電池、自活に必要なトーモロコシの種をつみ、遠いボルネオから運んできた。しかもこの飛行機はウエワクに胴体着陸をしたのであった。私たちはその前日と当日の夜、飛行場の爆弾穴を埋める使役に駆りだされた。日本の飛行機がくるのだという。果してうまく撃墜を免れて無事に到着するであろうか。かたずを呑んで待っていると、午前一時ごろ爆音が響いてきた。日本機がきたのだ。日本機だ。われわれは胸が抉られるような喜びと、形容し難い感激で、ぼうぜんとし、声もでなかった。飛行機が着陸して、ホッとわれにかえった兵士たちはバラバラとかけ寄り、敢て死地に飛込んできた飛行士に対し、感激のことばをいくどもいくどもあびせるのだった」

 長く東部ニューギニアに孤立した状態に置かれていた第18軍の将兵が、日本軍機の飛来をどのような感情で受け止めたかを、ありありと示した文章であろう。その後、武市中尉らも、終戦までニューギニアで地上戦闘任務に就いている。


4 まとめ
 以上1〜3のウエワクへの連絡飛行は、いずれも敵の制空権下で、重爆撃機単機により行われたものである。特に、2〜3は夜間飛行、3は胴体着陸によりウエワクに無事到着しており、日本軍操縦士の技量の高さを示す見事な成功例だったと言うべきだろう。
 これらの空輸により補給を受けた第18軍は、玉砕寸前の状態に追い込まれながらも、終戦まで上級司令部との連絡を維持することができた。そして、約1万名強の将兵が生きて終戦を迎えたのだった。


<参考文献>
・戦史叢書「東部ニューギニア方面陸軍航空作戦」pp662〜663
・戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」pp527、568〜569、658
・高木茂「ニューギニアへの緊急空輸と現地生活」(平和祈念展示資料館ウェブサイト)
・ラバウル・ニューギニア陸軍航空部隊会「幻 ニューギニア航空戦の実相」pp438〜439
・星野一雄「激闘ニューギニア戦記」(光人社NF文庫)p117
・飯塚栄地「パプアの亡魂」(日本週報社)p217
・田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍」(ゆまに書房)pp498〜499
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」所収、藤井清「ヌンホル支隊の作戦」pp130〜132

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2019年05月26日

【本】児島襄「マニラ海軍陸戦隊」

「マニラ海軍陸戦隊」 児島襄/新潮社/1969年

 昭和20年のマニラの戦いの模様を、生還将兵の証言を元に描いた戦記。

 寄せ集めの陸海軍部隊が凄惨な市街戦を戦った、マニラの戦いの実像を追った作品である。生還将兵を取材した著者によれば、マニラで米軍を迎え撃った将兵は、元々はマニラで激しい戦闘を行うことは想定していなかったようである。陸軍野口支隊の藤井中尉(臨時歩兵第2大隊第5中隊長、生還)は、戦いが始まる前のマニラの雰囲気を以下のように証言している。

「まさかマニラでひどい戦争になるとは予想していませんでしたね。せいぜい適当に戦ってひきあげるのだ、という話でしたし、だいいち、華僑は逃げ支度をしているようだったが、フィリピン人ときたら、別にどうということもない。それに、わたしたち陸軍は、みんな、現地召集でしょ。フィリピン人の知り合いも多いし、つきあいもつづいている。いってみれば、マニラで短期入営したような気持ちでしたよ」

 ところが、米軍がマニラに来攻すると、各部隊は市街地で本格的に敵を迎え撃つことになり、戦いの様相は酸鼻を極めたものとなった。マニラ戦がこうした悲惨な展開を辿った原因としては、海軍指揮官の岩淵三次少将が戦闘途上の2月11日にマニラ死守命令を出したため、各部隊が脱出の機会を失ってしまったことや、現場の命令が二転三転して混乱を招いたことなど、現地司令部の指揮命令が適切さを欠いたことが挙げられるだろう。一定数の将兵は、戦いの前半期にマニラからの転進に成功しており、撤退時期を誤らなければ、日本軍将兵やマニラ市民の損害はもっと少なくて済んだのではないかと思われる。

 ただ、現地司令部の判断に責められる部分があったにせよ、それと同時に、彼らが多種多様な上級司令部の判断に振り回された事実も合わせて考慮すべきであろう。陸海軍とも、マニラ放棄論・死守論をそれぞれ唱える関係司令部が存在したり、戦闘開始後も、撤退命令(例:2/15、振武集団長・横山陸軍中将)が出されたり、敢闘死守の激励電(例:2/16、連合艦隊司令長官及び大本営海軍部)が出されたりと、上層部の意思がまるで統一されていないことが本書から見て取れる。陸海軍の連携の欠如、あるいは屋上屋を重ねたような複雑な指揮命令系統は、各地の戦場で日本軍の戦力発揮の阻害要因となったが、マニラ市街戦は、そうした不効率・不適切さを最も凝縮した形で示した、悲劇の戦場だったと言えるだろう。

 このような錯誤がもたらした必然の結果として、本書の後半では、壊滅していくマニラ防衛部隊の最後の模様が詳しく描かれている。生き残った将兵が財務省、農商務省、議事堂の3ビルの廃墟に追い詰められ、戦車と砲に包囲されて絶望感を深めていく中で、海軍岩淵少将は2月26日未明に農商務省ビルで自決。一方、財務省ビルに陣取った陸軍野口支隊本部では、25日夕刻に最後の幹部会議が開かれていた。その模様を以下に引用する。

「『これは、みんなの意見もぜひ聞きたいと思ってな』
 野口大佐は、一同の緊張をときほぐすように、ゆっくりと微笑をうかべながら、
『戦況は、みんなも承知のとおりだ。だいぶ、詰ってきたと思う。あとは、ひとつ、最後の花を咲かすことになるが、さて、どんな花の咲かせかたをするか、それを相談しようと思うてなア』
 さりげない、むしろ、気楽なくらいの話しぶりだが、一同には大佐の意向はよくわかった。
 敵を待って差し違えるか、斬込みにでるか――いずれにしても死は免れないが、死の型は選べる、というのである。二つに一つ、選択は容易なはずだし、その点については、各将校とも何度か考えたことがあるが、さあ、と促されてみると、すぐに答えはでない。
『どうだ、兵の意見も聞いてみては……』と、野内少佐(注:臨時歩兵第2大隊長)の言葉をしおに、一同はいったん部屋を出た。和田中尉(注:同大隊副官)も廊下をへだてた斜め横の部屋に入り、集まる第二大隊本部員に意見を求めた。一人が即座に返事をした。
『副官どの。わしらもそれを考えとったんですが、ここで腹切って死ぬのも忠義かもわからんが、ともかく出て行って、一人でも敵を倒すほうが、もっと忠義にならんかと思います。同じ死ぬなら、そうしたい思うとります』
 どや、みんな、と呼びかける声に、居合わせた兵たちは、いっせいに賛成を応えた。和田中尉が野口大佐の部屋に戻ると、やがて次々に現われた将校たちも、一致して部下の斬込み志望を報告した。
『よし、決めよう。午前一時出撃』」

 こうして、26日未明に斬込みに出た野口支隊の残存将兵は、結局ルネタ公園付近で集中砲火を浴び、ちりぢりに倒れて死んだ。その中で、和田中尉が負傷しつつも奇跡的に振武集団の陣地に辿り着き、野口支隊の最後の模様を伝えることとなった。軍上層部の意思決定の混乱のあおりを受けながらも、ただ実直に戦って死んだ将兵たちがいたことは、記録に留められるべきであろう。

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2019年05月19日

【本】織井青吾「方城大非常」

「方城大非常」 織井青吾/朝日新聞社/1979年

 1914年に発生し、671名(一説には1,000名以上)の死者を出した炭鉱事故、「方城大非常」の実態を追ったノンフィクション。

 日本史上最悪の炭鉱事故と呼ばれる、方城大非常(参考:wikipedia)を取り上げたノンフィクション作品である。坑夫たちが方城炭鉱で働くに至った経緯や、事故直後の炭鉱の惨状、遺された家族の姿などをつぶさに記録し、当時の炭鉱労働者たちが置かれた厳しい労働環境を詳細に描き出している。幅広い読者を獲得した山本茂実の「あゝ野麦峠」や、北海道のタコ部屋労働者の実像を追った小池喜孝の「常紋トンネル」(こちらに全文掲載あり。非常に読み応えのある内容ですが、深夜には読まない方が良いかも)と同様、昭和中期に朝日新聞社が刊行した記録文学の名作の一つだが、これらの二書と異なり、なぜか本書は文庫に収録されておらず、惜しまれる点である。

 この炭鉱事故の特徴の一つは、事故による死者の数が正確に特定できていないことであろう。炭鉱経営企業である三菱鉱業は671名という犠牲者数を公表しているが、当時の新聞報道や各種の記録・証言はさまざまな数字を示しており、その実態は掴みづらい。著者は、当時の出炭量や出勤坑夫数を詳しく調査し、それらの数字を元に1,000名以上の犠牲者が出たと結論づけており、この数字は地域の古老の言い伝えとも合致するものである。

 そして、公表された犠牲者数と実態の数が乖離した原因として考えられるのは、@第一次大戦による増産の中で、炭鉱側は生産を上げるべく坑夫集めに狂奔し、人員管理が極めてずさんになっていたこと、A姓名や年齢や本籍を偽らなければならなかった坑夫や、文盲で正確な文字を知らなかった坑夫など、入坑者名簿が不正確な者が多数存在し、これらの者が死者数にカウントされなかった可能性があること、B当時は1,000名以上の死者を出すと炭鉱が閉鎖させられるとの風説があり、会社側もこの点を危惧していたこと、等が挙げられている。真相はもはや闇の中であるが、本書中に示された著者の推論は、相応の説得力を持つもののように思えた。

 なお、著者が本書の執筆を行った時点で、事故から既に60年以上が経過しており、当時の実情を知る人も減り、記憶の風化も進みつつあった。そうした状況の中で、著者は上述のような点も含めて事故の実態を調査し、その詳細を本書によって後世に残している。このような記録者としての著者の業績は、たとえ目立たないものであるとしても、高く評価されるべきものであろう。

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