2019年11月10日

牧野四郎中将(第16師団長)はカンギポット山へ辿り着いたか

 昭和19年10月の米軍上陸から翌20年8月の終戦まで、フィリピン戦線のレイテ島で、太平洋戦争の天王山と呼ばれた激戦が行われた。この戦いには日本軍将兵84,006名が投入されたものの、敗軍の多くは島から撤退することができず、ほとんど玉砕に近い結末を迎えている。

 このレイテ島の戦いに参加した師団の一つに、京都編成の第16師団がある。昭和19年10月20日に米軍がレイテ島に上陸した際、第16師団は島の東岸のタクロバン付近でこれを迎え撃ったものの、2名の歩兵連隊長が戦死するなど甚大な損害を受けている。その後、師団は島の内陸へ後退し、12月には和号作戦(ブラウエン飛行場への攻撃作戦)に参加。20年1月以降は飢餓に苦しみつつ島中央部の脊梁山脈を転進し、島の西端のカンギポット山を目指したと言われているが、生還者が極端に少ないため、終末期の師団の模様についてはよく分かっていない。

 そして、第16師団を率いた牧野四郎中将についても、その最期の状況は不明のままである。戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」には、牧野中将は昭和20年3月下旬にカンギポット山に到着し、8月10日頃自決したとする記述があり、また、中将の遺族の元には7月15日付の戦死公報が届けられている。しかし、牧野中将のご子息である牧野弘道氏(元・産経新聞編集委員)によれば、前者は「確認された事実に基づく記述ではない」、後者は「命日がどうしても特定できないので、諸情報を総合して7月15日とされたもの」として、いずれも信用に足らない情報と見なしている。捕虜になって生還した第16師団の将兵の中にも、「牧野中将がカンギポット山に辿り着いたとは思えない」と主張する人もおり、もはや正確な事実関係を掴み得ないのが実情である。

 今回は、第16師団の数少ない生還者の証言を踏まえつつ、昭和20年の牧野中将の動向に関する手掛かりを、できる限り追いかけてみたい。


1 中嶋建之助上等兵(歩兵第9連隊通信中隊)の証言
 中嶋氏は、第16師団のカンギポット山への転進途中に落伍し、昭和20年2月23日にイピル南方で捕虜となった人物である。戦後は戦友会関係の活動を積極的に行い、様々な書籍に多くの証言を残している。和号作戦以降の第16師団の行動経過について、中嶋氏は以下のように記録している。

・昭和19年12月11日 和号作戦中止後、第16師団はブラウエン西北方のマフナグ山(1,349m)に後退。第35軍司令部からカンギポット山への集結命令が伝わらなかったため、師団はその後1か月に渡り、マフナグ山付近で露営生活を送る。この頃、師団の総兵力は約600名。飢餓や悪疫のため、衰弱死する者が続出
・12月28日 第35軍参謀の高橋公平少佐の証言によれば、この日、高橋参謀がマフナグ山南方の287高地で牧野中将に会ったとされているが、中嶋上等兵は「牧野師団長が287高地に赴いた事実はない」としてこれを否定
・昭和20年1月 牧野中将は独断でオルモックへの転進を決意
・1月初旬 第1梯団(師団参謀(情報主任)の宮田中佐を長とする、歩兵第33連隊第7中隊長出口大尉以下の約30名)がマフナグ山を出発
・1月10日 第2梯団(牧野師団長以下約300名)がマフナグ山を出発
・1月15日 第3梯団(歩兵第9連隊長神谷保孝大佐以下117名。中嶋上等兵含む)がマフナグ山を出発。なお、戦史叢書では、神谷連隊長は「12月8日ブラウエン飛行場で戦死」と認定されているが、この1月時点で神谷連隊長が生存していたことは、複数の生還者の証言から確実と見られる
・1月中旬 第1梯団はオルモックの東のダナオ湖南方に到着
・1月中〜下旬頃? 第2梯団はダナオ湖を迂回して北上。「師団司令部はほとんどばらばらになっていた」「牧野中将は、オルモック高地付近で手製のカゴに乗っていた」という生還者の証言がある模様
・1月下旬 第3梯団はダナオ湖南方に到着。転進路はいわゆる「白骨街道」の様相を呈しており、梯団の残存将兵は約80名に減少。神谷連隊長も衰弱が目立つ。
 この頃中嶋上等兵は、50日も前にオルモックが米軍に占領され、軍司令官以下多くの部隊が島の北部に退却を終えている事実を初めて知り驚愕。今後の転進に耐える自信を失い、部隊から落伍
・2月中旬 各所で米軍の攻撃を受けつつ北上していた第2梯団は、この頃、バレンシアとカナンガの中間でオルモック街道の突破を図った模様
・2月23日 中嶋上等兵は、イピル南方カオントグ付近でゲリラに捕えられる

 中嶋氏は、生還した関係者の話などを総合した結論として、3個梯団はいずれもカンギポット山に辿り着く前に全滅し、牧野師団長はバレンシア付近で、神谷連隊長はダナオ湖東方で戦死したものと推定している。なお、転進中に行き倒れ、米軍に収容されて生還した将兵が、第1梯団に1名、第2梯団に7名、第3梯団に5名いたとのことである。


2 櫟(いちい)賢哲少尉(第16師団司令部参謀部付)の証言
 櫟少尉は滋賀県の寺の僧侶で旧制大阪外国語学校の出身であり、英語ができたため参謀部付になった人物である。米軍のレイテ上陸後、相次ぐ前線指揮官の戦死により牧野中将の歴代副官がその後任に補充されたことから、第16師団がマフナグ山付近に到着した後、櫟少尉が牧野中将の副官に登用されている。

 戦後、櫟少尉が残した記録によれば、転進命令が伝わらないままマフナグ山付近にとどまっていた第16師団は、牧野中将の決断で昭和20年1月15日に転進を開始。2月上旬頃、第2梯団と第3梯団は合流しており、歩兵第9連隊の連隊旗手がこの頃戦死したため、師団司令部から代わりの将校を出したという。その後、体力が尽きて落伍した櫟少尉は、2月17日、意識朦朧となってオルモック街道付近をさまよううちに米軍の捕虜となっている。


3 加瀬弥五郎伍長(第16師団経理部)の証言
 牧野中将の子息である牧野弘道氏は、自著の中で、「私にとって間違いなく父が生きていたというあかしは、父の副官だった櫟少尉が落後してオルモック街道で捕虜になった日を手記に記録した二十年二月十七日までで、それ以降は信頼するに足る情報はほとんどない」と述べている。

 しかし、昭和20年7月頃にカンギポット山付近で牧野中将を目撃したとする証言が、平成7年になって明らかにされている。その証言を残した加瀬弥五郎伍長は、第16師団経理部所属で教育隊の班長を務めていた人物であり、米軍上陸前は、タクロバン市内で各部隊から派遣された幹部候補生十余名と起居を共にしていた。昭和19年10月20日の米軍上陸時には、北川支隊(師団参謀(後方主任)の北川少佐を長とする、師団軍医部、経理部、病馬廠など後方勤務の将兵により臨時編成された混成部隊)の分隊長として米軍を迎撃。激戦の結果、支隊将兵は20〜21日の2日間で200名から50名以下に激減している。

 その後、加瀬伍長は米軍とゲリラを相手に悲惨な戦闘を続け、昭和20年7月頃にカンギポット山に到着。牧野師団長ら本部将校と行動を共にしていたという、経理部の同僚の川田伍長を同地で見かけるが、伍長は声をかけても返事ができないほど衰弱していた。そしてその近くでは、牧野師団長が数人の兵隊に支えられていた、との証言を残している。加瀬伍長はそのままカンギポット山で終戦を迎え、生還している。

 余談ながら、第16師団の兵士がカンギポット山付近で終戦を迎えた事例は他にもある。歩兵第33連隊第1大隊の屋敷伍美氏は、昭和20年6月頃にカンギポット山に到着。3〜5名のグループで食糧を探して海岸のビリヤバ方面へ移動するうちに終戦を知り、米軍に投降している。なお、屋敷氏は、第1大隊長の鎌田義信大尉(戦死公報は昭和19年10月21日付、パロ付近)をカンギポット山で目撃しており、鎌田大尉と屋敷氏の班長が交わした会話の内容も記憶している。先の神谷連隊長もそうだが、レイテ戦で早い時期に戦死認定が出されている人物が、実際はその後も生きていた、というケースは少なからずあるようである。


4 東嶋登大尉(第26師団独立歩兵第12連隊副官)の証言
 直接の目撃証言ではないが、第26師団から生還した東嶋登大尉が、昭和20年7月頃に牧野中将がカンギポット山付近に所在していたことを窺わせる証言を残している。

 東嶋大尉によれば、昭和20年7月6日、第26師団の生き残り19名は、師団の最後を報告するため、栗栖猛夫師団長以下3名はレイテの軍司令部(南部カルブゴス山の牧野中将)へ、加藤芳寿参謀長以下7名はセブの軍司令部(第35軍)へ、東嶋大尉以下9名はルソン島の方面軍司令部へ向かうこととした。これを踏まえれば、この時点の第26師団の生存者は、当時牧野中将が南部カルブゴス山に存在していることを認識していたことになる。栗栖師団長が牧野中将の元へ辿り着けたかどうかは不明である。


5 まとめ
 昭和20年の牧野中将、特に2月から6月頃にかけての中将の動向に関する証言はほとんど欠落しており、もはや解明することは困難と考えざるを得ない。しかし、以上の3と4の証言を合わせて考慮すれば、昭和20年7月頃に牧野中将がカンギポット山付近で生存していたことを推測させる証言は複数存在しており、生存の蓋然性は一定程度あると見て良いのではないかと思われる。
 いずれにせよ、第16師団も、レイテ島の戦いに参加した他の部隊と同様、その最後の模様は明らかでない。1個師団の終末すら不明という事実に、この戦場の悲惨さが如実に表れていると言えるだろう。


<参考文献>
・中島建之助「レイテの挽歌」(ビサヤ会)
・牧野弘道「戦跡に祈る」(産経新聞社)
・筒井忠勝「レイテ生き残り記」(同時代社)
・小橋博史「レイテ涙雨」(中日新聞社)
・田中賢一「レイテ作戦の記録」(原書房)
・大岡昇平「レイテ戦記」(中公文庫)
・戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」(朝雲新聞社)

posted by A at 12:35| 戦史雑記(日本軍) | 更新情報をチェックする

2019年10月26日

【本】宮脇俊三「ローカルバスの終点へ」

「ローカルバスの終点へ」 宮脇俊三/洋泉社新書/2010年
(初版は、1989年に日本交通公社出版事業局から刊行)

 1987年から88年にかけて、日本各地のローカル路線バスを終点まで旅し、その土地の雰囲気や泊まった民宿の様子などを綴った旅行記。

 北海道から沖縄まで各地のローカルバスに乗り、それぞれの土地で見た情景や、出会った人々との交流模様を描いた紀行文である。「時刻表2万キロ」や「最長片道切符の旅」のような味わいのある鉄道旅行記で知られる著者の本だけあって、さまざまな地域の特色を丁寧に描写し、旅の楽しさ・奥深さを存分に伝える内容となっている。大いに旅情をかき立てられる一冊である。

 本書の中で訪問先として選ばれているバス路線には、

一 乗車時間は1時間以上
二 行先が有名観光地でないこと
三 行楽や登山シーズンのみ運転の路線は除く
四 著者にとって未知の路線・終点であること

の4条件が課されており、地元の客が日常的に利用するような平凡な路線や、特に見るべきものもないような地味な終点が多く選定される結果となっている。これを裏返すと、昭和末期当時の日本各地のありのままの日常風景を、本書は期せずして描き出すことにつながったとも言えるだろう。ローカルバス路線の終点となるような過疎化が進みつつある土地にも、当時は一定の人口が残っていたことや、多くの場合、仕事客を受け入れる民宿がきちんと営業していたことなどを本書は捉えており、市街地から遠く離れた地域も、現在に比べればまだまだ元気があったことをうかがわせる内容となっている。

posted by A at 22:48| 本(登山、旅) | 更新情報をチェックする

2019年09月23日

【本】丸山静雄「インパール作戦従軍記」

「インパール作戦従軍記」 丸山静雄/岩波新書/1984年

 新聞記者としてインパール作戦を実地に見聞した著者が、その体験をありのままに記録したノンフィクション。

 旺盛な取材精神でインパール作戦の最前線近くまで進出し、その後、敗走する部隊とともに命からがら撤退した新聞記者の貴重な従軍記である。報道内容を統制するため、できる限り取材陣を制限しようとしていた第15軍は、インパール作戦の取材を、毎日新聞(第33師団)、読売新聞(第15師団)、同盟通信(第31師団)の3社に独占させていた。これに対して、朝日新聞に所属する著者は、強硬に反対する軍や同業他社を執拗に説得し、半ば強引に割り込む形で、第33師団と第15師団の間隙で作戦中の山本支隊(歩兵3個大隊、戦車1個連隊、砲兵2個連隊他により編成)に同行することとなった。

 そして著者は、「戦争を見とどける」という意思の下、昭和19年7月下旬に山本支隊が退却に移るまで、戦いの実態を最前線近くで見守り続けた。作戦が敗色濃厚となる中で、第15軍司令部から繰り返し前進の督促を受けた山本支隊長は、部下の部隊長に対して無謀な攻撃命令を強要するようになる。その模様を、著者は以下のように描いている。

「そのころ、一つの瘤をとるのに一回の突撃で成功したことはなく、二回、三回と反復して辛うじて瘤の一角にとりつく有様だった。支隊長の命令は峻烈で、一度、攻撃を命ずると、目標陣地を脱出するまでは同じ部隊に突撃を命じた。攻撃に失敗すると、指揮官は支隊本部に呼びつけられ、『反省のテント』のなかで謹慎を命じられた。(中略)薄暗いテントのなかで、指揮官は幾日も一人黙然と静座し、やがて『最後の突撃』をいい含められ、悄然と前線にもどってゆくのであった」

 こうして山本支隊の麾下部隊は絶望的な突撃を繰り返し、その戦力のほとんどを失っていった。辛うじて生き残った将兵は、作戦中止後、豪雨の中を病み衰えた体で退却し、行き斃れた者たちによる「白骨街道」が現出した。幸運にも生還を遂げた著者は、本書の第3章「敗走千里」で、そうした悲惨な撤退の実情を詳しく描いている。インパール作戦のような悲劇を繰り返さないために、我々がまず語り継がなければならないことは、空疎な作戦論やその目的などよりも、多くの日本人将兵がこのように無惨に死んでいった事実であろう。

posted by A at 13:08| 本(戦記) | 更新情報をチェックする

2019年08月24日

【本】志村正彦「東京、音楽、ロックンロール 完全版」

「東京、音楽、ロックンロール 完全版」 志村正彦/ロッキング・オン/2011年

 ロックバンド・フジファブリックのフロントマンだった、故・志村正彦の日記集。バンドの公式ウェブサイトに掲載されていた内容を書籍化したもの。

 私がフジファブリックというバンドを初めて知ったのは、2004年秋のことだった。毎週土曜の夜に観ていた、テレビ東京の「ジャパンカウントダウン」という音楽番組で、「赤黄色の金木犀」(動画)という曲がオープニングテーマとして流れていた。叙情的なイントロのギターや、それとは打って変わった中盤の激しさにひどく惹かれて、当時この歌をずいぶん聴き込んだものだった。

 その後、(次のシングルの「銀河」が、個人的にはあまりピンと来なかったこともあって)しばらくこのバンドの曲は聴いていなかったのだけれど、2009年春に「Sugar!!」(動画)がWBCの野球中継のテーマソングに採用され、久しぶりに彼らの音楽を耳にした。曲の雰囲気が結構変わったな、と思いつつも、大きなタイアップも付いて第一線で活躍し続けていることを、少し嬉しく思った記憶がある。そしてその9か月後、次に接した彼らのニュースは、ボーカル・志村の訃報だった。

 あれから10年が経ち、改めて本書に綴られた志村の足跡を振り返ると、さまざまな試行錯誤を繰り返しながらも、このバンドが着実に実績を積み重ねてきた過程がはっきりと浮かび上がってくる。志村という一人の天才(そう呼ぶと、本人は嫌がるかもしれないけれど)の喪失は、バンドにとってもファンにとっても、決して拭い去ることのできない大きな悲しみだったけれど、彼が残した遺産の大きさは、フロントマンを失ったバンドを存続に導く、決定的なレールとなったのだろうと思う。

 志村の後を受けてフジファブリックのボーカルを取った山内総一郎は、「Sugar!!」の3年後に出た次のシングル「徒然モノクローム」(動画)の中で、次のように歌い上げている。

 「あきらめるのはまだ早い
  行き詰まった所がほら それが始まりです」――。

 先日、フジファブリックはテレビ朝日の「ミュージックステーション」に初出演を果たし、代表曲「若者のすべて」(動画)を披露した。彼らの真夏のピークは、きっとまだ去らない。


posted by A at 18:38| 本(その他) | 更新情報をチェックする

2019年07月15日

【本】長谷川晶一「最弱球団 高橋ユニオンズ青春記」

「最弱球団 高橋ユニオンズ青春記」 長谷川晶一/白夜書房/2011年

 1954年から56年にかけて存在し、「史上最弱」とも呼ばれたプロ野球チーム、高橋ユニオンズの顛末記。

 3年間で146勝281敗8分、勝率.342という成績を残した、高橋ユニオンズの苦闘の歴史を描いたノンフィクション作品である。「永田ラッパ」と呼ばれた大映社長・永田雅一の思い付きで、パ・リーグを8球団制にするためにユニオンズが創設されるところから始まり、永田を含む他球団オーナーの思惑で、わずか3年で球団が消滅に追い込まれていくまでを、当時の関係者の証言を基に詳しく描き出している。

 リーグ順位が6位、8位、8位と振るわなかったユニオンズだが、往時の選手たちは一様に、「弱かったけれど、いいチームだった」と振り返っている。こうした雰囲気の良いチームづくりに大きく影響したのは、オーナーを引き受けた高橋龍太郎氏の存在だろう。財界の大物として余生を送っていた78歳の高橋氏が、永田社長に担ぎ出される形でユニオンズのオーナーに就任し、私財を切り崩しつつ熱心に選手達を応援する様子は、本書の中でも特に印象的な部分である。球団の解散が決定した当時の龍太郎氏の様子を、著者は以下のように描いている。

「…龍太郎の頬に一筋の涙が光っていた。53年末からの3年余り、永田ラッパに踊らされる形で期せずして球団を経営することになった。『寄せ集め集団』と揶揄されながらも、私財を切り崩してチームの運営に努めてきた。『最弱球団』と馬鹿にされ続けた。それでも、負けても、負けても、足繁く球場に通い続けた。選手がミスをしても、決して彼らを罵倒することはなかった。もちろん、負ければ悔しい。勝ってほしいといつも願っていた。たまにチームが勝つと、子どものように喜んだ。大急ぎでベンチまで降りていき、『よくやった、よくやった』と選手たちを心からねぎらった。シーズン中には何度も『激励会』と称して、都内のレストランを貸し切りにして食事会を開いた。けれども、龍太郎にとっては、単なる勝ち負けよりも、自チームの選手たちの奮闘ぶりが見られるだけで、十分満足だった。自分の孫のような世代の選手たちが、『高橋球団』の一員としてグラウンドを駆け回っている姿を見ているだけで、十分満足だった」

 戦力や人気には決して恵まれなかったユニオンズだが、それでも3年間を生き抜くことができたのは、まさにこのオーナーが球団の支柱となりえたためだろう。そして、こうした人格者のオーナーの存在があったからこそ、高橋ユニオンズは、長く選手たちの心に残り続けることになったのではないかと思う。わずか3年しか活動しなかったユニオンズだが、そのOB会は、会員の高齢化により維持が難しくなった2017年まで、実に60年間も開催され続けた。そして、「プロ野球ニュース」のキャスターとして知られる佐々木信也を始め、毎回多くの元選手たちが出席していたそうである。

posted by A at 12:07| 本(ノンフィクション) | 更新情報をチェックする