2017年08月06日

【本】高崎伝「最悪の戦場に奇蹟はなかった ガダルカナル、インパール戦記」

「最悪の戦場に奇蹟はなかった ガダルカナル、インパール戦記」 高崎伝/光人社NF文庫/2007年
(初版は、1974年に光人社から刊行)

 太平洋戦争の悲惨な戦場である、ガダルカナル島の戦いとインパール作戦の両方を経験した兵士による戦記。

 著者の所属する第18師団(菊兵団)の歩兵第124連隊は、太平洋戦争開戦後、ボルネオ島、セブ島、ミンダナオ島攻略作戦に勝利し、その後ガダルカナル島の戦いに参加して壊滅。戦力再建後、新設の第31師団(烈兵団)に配属替えとなり、ビルマ戦線に投入。インパール作戦やその後の撤退戦を戦い抜き、ビルマ南部で終戦を迎えている。著者は、開戦から終戦までこの連隊に所属し、ガダルカナル戦とインパール作戦の双方を体験した人物である。

 本書は、極めて陰惨な戦場を描写した戦記であるにもかかわらず、意外に読みやすい一書である。それは著者自身の個性と、その文才による部分が大きいのではないかと思う。気性の荒い北九州の部隊で、他部隊からの食糧徴発(一言で言えば、泥棒)をいとわない「ゴロツキ連隊」である124連隊の様子と、誰に対しても遠慮なく物を言う、横紙破りの「万年上等兵」である自分自身の振る舞いを、著者はユーモアを交えた筆づかいで描いていく。こうした著者の旺盛なバイタリティや、権威に盲従しないたくましさ、危機に際して臨機応変に行動できる明敏な頭脳、そして、飢餓や病の中でも最後まで諦めない強靱な精神と身体が、生還という「奇蹟」を著者にもたらしたのではないかと思えた。

 とはいえ、著者が戦った戦場は、やはり悲惨の一語に尽きるものである。昭和19年8月頃、烈兵団の殿部隊としてインパール戦線から退却する中で、著者は以下のような光景に遭遇している。

「私たちは死体をふまぬように、よけて歩きながら、山の中腹から下を見れば、ふもとの方に大きな竹林が見え、その中にきれいな小川が見えてきたので、かっこうの休憩場所とばかり、急いで竹林に近づくと、またもや急に腐乱死臭がプーンと鼻をついてきた。竹林の中へはいってみて、また驚いた。
 ああ、なんという惨状!
 竹林のなかの川渕の砂床には、日本兵の死体が二百? あるいは三百もあろうか? すでに白骨化したもの、あるいは腐乱した死体。まだ生きている傷病兵の全身に、頭髪を白髪と見ちがえるほどウジがいっぱいにわいている者あり、またある者は、大きなウジ虫が、目といわず鼻孔、口、耳穴、傷口から、出たり入ったりしているではないか。
 川に頭を突っ込んで死んでいる兵隊は、下痢で苦しんだのか、下半身はだかで、その肛門からは、大きなウジ虫があふれ出ていた。
 ガダルカナルも悲惨だったが、それ以上に悲惨きわまりなき、地獄絵図だった」

 こうした無惨な結果をもたらしたインパール作戦を、著者は、以下のように総括している。

「愚将のもとに万骨枯れたこの大悲惨事は、世界の戦史にのこした日本陸軍の恥であろう。
 愚将牟田口将軍のもとに、万骨枯れた英霊の無念を思えば、故人となった将軍の死屍にムチ打っても、なおあまりある痛恨かぎりなき地獄の戦場であったといえる」


(補記)
 前回の記事でも少し触れたが、最近、インパール作戦の実態を意図的に無視したり、歪曲したり、論点をずらしたりして、無理やりこの作戦を肯定しようとする、異常な珍説を時々見かけるようになった(例えば、このリンク先で批判されている記事)。こうした主張を行う人々は、隣国の歴史教科書のことを、「ファンタジー」などと批判できる立場ではないだろう。
 このような、まともに戦記も読まずに書かれた悪質な捏造が、近年になって表に出てくるようになったのは、そんなものを読んだら本気で激怒するであろう生還将兵の方々が、多く鬼籍に入ってしまったことが大きな要因だろうか。

 なお、ここここのサイトに、作戦参加将兵の証言が掲載されているので、合わせて紹介しておく。国のために力を尽くされた方々の重い証言であり、傾聴すべきものであろう。



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2017年07月15日

藤原岩市参謀と、インパール作戦の「統制前進説」について

 太平洋戦争中、ビルマ戦線の第15軍で情報主任参謀を務めた、藤原岩市少佐(のち中佐)という人物がいる。インド独立支援の文脈で高く評価される傾向のある軍人だが、インパール作戦に関する彼の身の処し方には少なからず疑問の点があり、個人的には彼への評価は非常に辛い。彼のこういった部分に触れた話はあまり取り上げられていない気がするので、人物評価のバランスを取るために、今回は彼の疑問点についてまとめてみる。

 第15軍司令官・牟田口廉也中将に関する有名な逸話として、インパール作戦失敗の責任を負い自決すべきかどうか、部下の藤原に相談したところ、かえって藤原から本気で自決を勧められた、というものがある(詳細はこちらを参照)。意外に知られていないが、藤原は牟田口と同様、インパール作戦の推進に積極的だった人物である。作戦開始前、第15軍の参謀たちの多くが無謀な作戦に否定的だった中で、牟田口と藤原の両名は作戦の実施を強く主張し、作戦実現に向けて奔走している(高木俊朗「抗命」などに、その模様が描かれている)。

 牟田口が、「自決問答」の茶番劇の相手として藤原を選んだのは、あるいは藤原が牟田口とともに作戦失敗の責任を負うべき立場にあり、牟田口を批判する資格のない参謀だったためかもしれない(作戦中に、一緒に芸者遊びをしていた仲でもある)。ところが藤原は、牟田口から自決の相談を持ちかけられた際、自分自身の責任には全く触れず、一方的に牟田口を追及している。晴気誠の例に倣えと言うと極端に過ぎるが、牟田口とともに作戦を推進してきた参謀の姿勢として、藤原の言動はあまりにも割り切ったものではないかと思う。

 また、藤原は戦後、「第33師団(弓兵団)が意図的に前進を遅らせたため、インパールへの進出に失敗した」という偽説(いわゆる「統制前進説」)を流し、作戦の失敗を第一線で戦った弓兵団のせいにして、責任転嫁を図ろうとしている(藤原自身の著述として、「大東亜戦争全史」(服部卓四郎編、1953年)及び「別冊知性・太平洋戦争の全貌」(1956年)の同作戦関係部分)。

 しかし、第33師団長・柳田元三中将は作戦に否定的ではあったが、師団の前進を故意に抑止した事実はない。伊藤正徳「帝国陸軍の最後」(1960年)や児島襄「太平洋戦争」(1966年)、山岡荘八「小説太平洋戦争」(1967年)が、藤原の流したデマを誤って採用したため、戦史に詳しくない層にこの誤説が広まったが、結局、1968年刊行の公刊戦史が、この「統制前進説」を否定している(詳細は、戦史叢書「インパール作戦」p399〜415参照)。

 また、「インパール作戦蹉跌に対するいわれなき批難を、長い間苦々しく思っていた」という磯部卓男(元陸軍中尉。第33師団歩兵第215連隊(笹原連隊)の連隊旗手)は、戦後の自著「インパール作戦 その体験と研究」の中で、藤原が拡散させた嘘の実態を詳しく検証し、「言葉が過ぎると思われるが、『一犬虚に吠え、万犬之に和す』の感を禁じ得ない」と述懐している。

 なお、「統制前進説」が浸透した背景について、高木俊朗「インパール」には以下の記述がある。

「私は非常な興味を感じた。それは、その資料提供者(注:伊藤正徳氏に資料を提供した者)のことである。それが誰であるにしても、あのインパール作戦を弁護し、正しかったと信じている人がいるということだ。あるいは、正しいものにしようとしている、というべきだろうか。そのために、いわば、謀略の資料を提供したのだ。
 その目的は、第十五軍と牟田口中将の体面を傷つけないようにするためばかりでなく、旧陸軍の名誉を保持しようとする意図ではなかろうかそうしたことが必要になるほど、インパール作戦間には、醜悪で不名誉な事件が続発した。世界戦史にも例のないことである。インパール作戦は、まれに見る非道な戦争であった」(注:下線部は引用者)

 この、インパール作戦を「正しいものにしようとしている」動きは、現在でもネット上などで散見されるように思う。しかし、祖国に父母や妻子を残して戦争に参加した若い将兵を、杜撰な作戦計画で大量に戦没させておいて、それを「正しい」作戦と呼ぶことは、常識的な感覚では到底できるものではない。「インド独立」などという美辞麗句は、現実離れしたデタラメな軍命令が乱発され、そのために膨大な死者を生み出したこの作戦の実態を、正当化するものでは絶対にない。他民族を助けるという美名があれば、牟田口や第15軍幹部のような横暴や無能や堕落が許容されるという考えを持つ者は、つまるところ、我々日本人自身を殺すことを何とも思っていない者であろう。
 まともな日本人であれば、飢餓と病の中で倒れ、ジャングルに白骨を晒した、死ななくとも良かった多数の日本人将兵の怒りや無念を、自分の痛みとして感じる部分があるのではないかと思う。そうした共感や同情心の感情を、絶望的に欠いた人間でなければ、このインパール作戦を肯定することなどできないのではないか。


(補記)
 なお、ビルマ戦線で評価すべき参謀としては、インパール作戦の現実を冷静に把握したビルマ方面軍後方参謀の後勝や、戦争末期ごろの花谷正をよく抑えた第55師団参謀長の小尾哲三、あるいは、自ら現場をよく把握して部下から多大な信望を集めた、第33軍参謀長の山本清衛などが挙げられるのではないかと思う。
 本稿で扱った藤原岩市は非常に問題の多い人物であり、その責任逃れの言動は厳しく批判されて然るべきだが、陸軍軍人にも尊敬に値する人物がきちんといることは、あえて明記しておきたい。


posted by A at 02:06| 雑記(戦記関係) | 更新情報をチェックする

2017年07月08日

【本】山口耀久「山頂への道」

「山頂への道」 山口耀久/平凡社ライブラリー/2012年
(初版は、2004年に平凡社から刊行)

 山岳文芸の世界に携わってきた著者が、1955年から2001年までの間に発表した紀行文や登山評論を、一冊の本にまとめた散文集。

 自らも先鋭的な登山を行うとともに、山の文芸誌「アルプ」の編集委員を最終刊300号まで務めた著者による、登山エッセイ・評論集である。文才豊かな著者は、「アルプ」や「岳人」などで多数の登山批評を執筆してきたほか、山岳文学の重鎮たちとも広い交流を持ち、尾崎喜八や辻まことらの作品解説も行っている。また、深田久弥が代表作「日本百名山」を刊行する際には、深田本人から依頼を受け、同書に掲載する山岳地図も作成している。

 このような著者の文芸活動記録は、在りし日の山岳文学界の雰囲気を知る上でも貴重なものであるが、本書の中で楽しく読めるのは、やはり著者自身の紀行文であろう。本書の前半部分に収録されている登山エッセイは、友人が霧ヶ峰に山荘(コロボックル・ヒュッテ)を開いた話や、健康回復のために芝の愛宕山に通い詰めた話、あるいは、北海道・礼文島で放火騒ぎに巻き込まれた話など、さまざまなバリエーションに富んでいて興趣が尽きない。

 そして、それらの紀行文の中で特に目を惹くものとして、10代後半の戦中の頃に、神奈川県の丹沢山域に通い続けた話が挙げられよう。ひどい食糧難の中、投宿した西丹沢の民家でもらった貴重なふかし芋を携えて、難しい沢に果敢に挑む記録は、瑞々しさにあふれていて新鮮な印象を残すものである。こうした随筆にも表れている著者の優れた感性が、個性派が顔を揃えた戦後の山岳文学の世界の中で、「アルプ」に重要な結節点の役割を果たさせたのではないかと思う。


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2017年06月24日

【本】鈴木忠平「清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実」

「清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実」 鈴木忠平/文藝春秋/2016年

 PL学園当時の清原和博と甲子園で対戦し、ホームランを打たれた投手らによる回想録。

 1983年から85年にかけて、甲子園で清原に本塁打を打たれたピッチャーら11人が、当時の勝負の思い出や現在の清原への思いを述懐した本である。本塁打を打たれたという、必ずしも愉快ではない記憶に関するインタビューでありながら、一名(マスコミとの接触を一切断っている中山裕章)を除く全投手が取材に応じた事実を見ても、清原という大打者との対戦が、投手の側にとっても大きな意味を持っていたことが分かる。

 それぞれの投手たちの追想を読むと、清原と全力で対戦し敗れたことで、すっかり気持ちの整理がついている者もいれば、選手起用の綾で清原とまともに勝負することができず、現在まで後悔を引きずっている者もいるなど、投手たちにもさまざまな思いがあることが見て取れる。中でも、勝負すべき時に勝負できなかったことに関して、30年経っても消えない未練を述べたある投手の執念には、ちょっとした恐ろしささえ覚えさせられた。

 個人的には、清原という選手はずっと好きになれなかった。高校・西武時代はともかく、巨人時代に、相手投手に対してストレートを投げるよう恫喝した姿は、プロの野球選手としては到底あるまじき態度だと思った。また、オリックス時代の、およそスポーツマンとはかけ離れた風貌には、率直に言って嫌悪感しか抱くことはできなかった。

 しかし、本書を見ると、清原と対戦した投手たちには、かなり過酷なプレッシャーがかかっていたことがよく分かる。一試合でのみ清原と向き合った投手たちがこんな状態であれば、毎試合、いや試合の外でも凄まじい注目にさらされ続けた清原には、一体どれだけ深刻な重圧がかかっていたのだろうか。本書にも描かれているように、元々気さくで親切な性格だった清原が、苛烈なプレッシャーの中で、やがて人として疲れ果てたとしても、そのことを厳しく糾弾したい気にはなれなかった。本書を読み終えた今、清原和博という人物に対して抱くのは、ただ同情の思いと、更正への願いばかりである。


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2017年05月21日

【本】山内進「北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大」

「北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大」 山内進/講談社学術文庫/2011年
(初版は、1997年に講談社選書メチエから刊行)

 バルト3国を中心とした北東ヨーロッパへの、キリスト教拡大の歴史を著した本。1998年、サントリー学芸賞受賞。

 中世ヨーロッパにおいて、カトリックがどのように北東ヨーロッパ方面に浸透していったのか、その歴史的経緯を書き記した一書である。我々日本人にとって、あまり馴染みの無い地域をテーマにした本であることもあり、本書に登場する人物や地名には、見覚えのないものが結構多い。それでも抵抗なく本書を読み進めることができるのは、このような疎遠な主題を一般向けに分かりやすく記すことに成功した、著者の叙述の腕による部分が大きいのではないかと思う。この点も、本書がサントリー学芸賞を受けるに値すると見なされた、重要な理由の一つに挙げられるのではないか。

 本書の中では、11〜13世紀頃を中心に、ドイツの騎士修道会がバルト三国に対して、キリスト教を「布教」していく様子が詳述されている。すなわち、「十字軍」の騎士たちが、キリスト教を受容しない異教徒たちを、何のためらいもなく虐殺・略奪・奴隷化していくのだが、こうした彼らの姿は、端的に言えば傲慢で独善的と評するほかないものである。これが正義とされるのであれば、そもそも宗教とはいったい何のために存在するものなのか、という根本的な疑念を抱かずにはいられなかった。

 そして、北東ヨーロッパ方面のキリスト教化がおおむね完了した15世紀頃以降になると、キリスト教化、ひいては「ヨーロッパ化」の矛先は、世界の他の地域に向かっていくことになる。本書から引用すると、

「今日のバルト三国に派遣された十字軍とその思想は、アフリカとアメリカへの「ヨーロッパの拡大」のひな型を提供するものであった。(中略)イベリア半島とバルト海域で鍛えられた「ヨーロッパ拡大の論理」は、とりわけ新たに「発見」された、インディオやアメリカ・インディアンといった、比較的プリミティブな異教徒たちから支配権と財産権、信仰と自由を奪うことに貢献した」

のである。このような捉え方にはさまざまな議論があるのかもしれないが、いずれにせよ、世界の中では一辺境地域に過ぎないバルト地域の動きが、やがて世界史全体に波及していくという本書の視座は、確かに興味深いものだった。


posted by A at 22:28| 本(歴史) | 更新情報をチェックする