2019年02月17日

【本】坂井孝一「承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱」

「承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱」 坂井孝一/中公新書/2018年

 朝廷と幕府のパワーバランスを大きく変え、武家政権が政治的な実権を掌握するきっかけとなった「承久の乱」について概説した本。

 「後鳥羽上皇が鎌倉幕府に無謀な戦いを挑み、あっけなく返り討ちにあった」というイメージで語られがちな承久の乱について、乱の発生に至る経緯やその影響を詳しく読み解いた一書である。後三条上皇の院政開始以降、「治天の君」たる上皇・法皇がどのように権力を確立し、その過程で武家がどのような役割を果たしたかを分かりやすく整理しつつ、争乱を引き起こした後鳥羽上皇の心象風景に迫ろうとしている。著者の語り口が平易で読みやすいうえ、勅撰和歌集の編纂や有職故実の整理など文化的な側面にも幅広く目配りされており、知的好奇心をかき立てられる内容となっている。

 本書によれば、三種の神器の一つである宝剣を壇ノ浦に沈められてしまい、「正統な王」たるには重大な欠格事由を背負ってしまった後鳥羽は、「新古今和歌集」の編纂や宮廷儀礼の復興などの文化事業でそれらをカバーし、朝廷の権威確立に向けて強力なリーダーシップを発揮する。しかし、良好な関係を築いていた鎌倉幕府の源実朝が暗殺されたうえ、幕府内の権力争いから発展した謀反事件に巻き込まれて大内裏焼失という挫折経験を味わう。そして、大内裏再建に向けた賦課に対して、全国の地頭などから強い抵抗を受けて苛立ちを募らせた後鳥羽上皇は、幕府をコントロール下に置くために、その実権を握る北条義時追討の院宣を出すに至ったのだった。こうした著者の解釈が、歴史学の専門家の間でどの程度有力な説とされているかは承知していないが、少なくとも、具体的な史料に立脚した一つの議論の展開として興味深く拝読した。

 また、乱が勃発した後、迅速に東国武士の結束を固めることに成功した鎌倉幕府と、諸事に拙劣な対応をとった朝廷の姿は極めて対照的である。著者は前者を、情勢や戦力を分析する有能な裏方(大江広元・三善康信)、裏方の提言を採用する名監督(北条政子)、的確な指示を選手に伝えるキャプテン(北条義時)、経験豊富な中心選手(北条時房・三浦義村)、若手のホープ(北条泰時)らから成る「チーム鎌倉」と捉え、強固な結束力と優れた総合力を持ったチームとして高く評価する。これに対して後者は、なまじ後鳥羽が多芸多才だったために、後鳥羽が監督・裏方・キャプテンを務めるワンマンチームとなり、東国武士に対するリアリティを欠いた後鳥羽が独断専行でチームを運営することとなったと分析している。そして、ここに乱の勝敗を分けるポイントがあったと評価しており、乱の推移の細部を見るにつけ、こうした著者の認識は的確なものであるように思えた。史料に現れるさまざまな事実から、ある事件の政治的な背景や因果関係を解明していく歴史学の一つの楽しさを、本書のこうした考察から教えられたように思った。

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2019年02月11日

【本】岡田一郎「革新自治体 熱狂と挫折に何を学ぶか」

「革新自治体 熱狂と挫折に何を学ぶか」 岡田一郎/中公新書/2016年

 戦後から1970年代頃にかけて全国各地に誕生した「革新自治体」について、その台頭の背景や功罪、衰退の経緯などを解き明かした本。

 高度経済成長期に各地に出現し、80年代には保革相乗りの流れの中で衰退していった、革新自治体の実態を追った一書である。この革新自治体は、著者自身が述べるように、「福祉に金を使い過ぎたうえに、公務員に甘く人件費がかさみ、財政難を引き起こしたため、有権者の支持を失った」といった総括をされがちである。私自身も全く同じイメージで捉えていたし、さらに言えば、「実務に疎い学者を集票の顔に立てつつ、実権は左派政党関係者の側近が握り、財政規律を顧みない(あるいは、思想的にバイアスのかかった)自治体行政を行っていた」といったような、かなり否定的な印象しか持っていなかった。

 しかし著者は、こうした印象論が実態にそぐわないことを、実例を踏まえつつ丁寧に検証していく。上述の「財政難を引き起こした」という革新自治体のイメージは、主に美濃部都政後半期の失政が植え付けたものであること、京都の蜷川府政や横浜の飛鳥田市政は末期においても財政黒字であったこと、北海道池田町のように財政破綻した自治体を立て直した事例もあることなどを挙げて、必ずしも革新自治体であることが財政の悪化と結び付くものではないことを説く。これらは、サンプルがやや特殊な自治体に偏っているきらいがあり、また池田町に関しては、自治体の革新性というよりも、丸谷金保という名物町長個人の発想力とバイタリティによる部分が大きいようにも思え、こうした著者の主張は直ちに一般化できるものではないのかもしれない。ただ、少なくとも、「革新自治体は財政難をもたらす」という見解に対する一つの反証ではあるのだろう。

 また、著者は、革新自治体が定着・永続しなかった大きな要因として、これらの自治体と中央政党との関わりについて考証している。この辺りの分析は、日本社会党史を専門とする著者の真骨頂であろう。政党と自治体との協力関係は、革新・中道各政党間の対立や言論出版妨害事件への公明党の対処など、さまざまな政治的要素に左右されたことが見て取れるが、何よりも目立つのは、野党第一党である社会党の頼りなさ、先見の明のなさである。革新自治体の台頭の背景を読み切れないばかりか、党派争いに明け暮れて有効な手立てを打てない社会党中央の姿は、正直なところ、その統治能力を疑わせるものと言わざるをえない。高度経済成長の波の中でなおざりにされていた、公害問題や社会福祉などの諸課題を争点化して躍進のきっかけをつかんだ革新自治体が、結果的にその政権を維持できなかったことには、さまざまな理由が挙げられるのだろうが、中央政党からの適切なバックアップを受けられなかったことは致命的な要素であろう。そしてこの点は、地方における野党の連携という観点からすれば、今日にも通底する課題であるのかもしれない。

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2019年01月26日

【本】上明戸聡「日本ボロ宿紀行」

「日本ボロ宿紀行」 上明戸聡/鉄人文庫/2017年

 日本全国の「ボロ宿」、すなわち、年季の入った趣のある宿に泊まり、その印象を書き綴った本。

 ビジネス書関係のライターを本業とする著者が、全国の「ボロ宿」を訪ね、そこに宿泊した感想や、その土地のひなびた雰囲気などを書き著した本である。各地の古い旅館を泊まり歩いた記録としては、大穂耕一郎の「駅前旅館に泊まるローカル線の旅」という名著が過去に出ているけれど、本書もそれぞれの宿の風情を丁寧に描き出していて、優れた紀行文となっている。全体的に、泊まった宿の長所や見どころを探し、そこで働く人々に敬意を払いながら各々の旅館を捉えており、その点も本書が良い読後感を残す理由となっているのだろう。

 本書に紹介されたそれぞれの宿の中には、地方都市で時折見かけそうなオーソドックスな駅前旅館タイプのものから、強烈な個性を湛える秘境の宿まで、さまざまな性格のものがそろっている。後者のものとして特に印象に残ったのは、北関東・那須湯本のとある旅館である。外観はほぼ廃墟、廊下の壁はぼろぼろにはがれていてホラー小説を想起させるレベル、窓から見える風景は山奥の緑と大きなホテルの廃墟、だけれど泉質は抜群で地元のおっちゃんたちに愛されているという、個人的にも相当惹かれる温泉宿である。こうした特徴ある宿の様子を、時にユーモアを交えつつ、軽妙に綴っていく著者の筆致には、次第になくなりつつある古びた旅館への愛情がこめられていて味わい深い。本書の続編も刊行されているようなので、いずれ読んでみたく思っている。

posted by A at 14:52| 本(登山、旅) | 更新情報をチェックする

2019年01月03日

ニューギニア戦線のインド兵について

 昭和17年2月にシンガポールを占領した日本軍は、約10万名の捕虜を得た。その中にはインド兵が多く含まれており、一説には、約5万名に上ったとも言われている(戦史叢書「マレー進攻作戦」p626〜627)。

 これらのインド兵の中には、インド国民軍に参加し、インパール作戦に協力した者もいる一方で、ニューギニアやラバウルなど南太平洋戦線に送られ、日本軍への協力を求められた者も少なからず存在する。後者については、これまであまり注目されることもなかったように思われるので、今回は、特にニューギニア戦線に送られたインド兵について、様々な証言などを基にまとめてみたい。

1 ニューギニア戦線のインド兵の数
 まず、ニューギニア戦線に送られたインド兵の数については、「約3,000名」だったとする記録が複数見られる。
 その一つに、第20師団歩兵第79連隊の尾川正二(1970年に第1回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞)の証言がある。尾川は、自著「東部ニューギニア戦線」(光人社NF文庫。以下「尾川書」)の中で、以下のように述べている。

「かつて、英印軍の兵士として、マレー作戦に加わり、日本軍の捕虜となった人々である。その約十万が、話し合いにより、捕虜の身分から宣誓釈放となり、軍務を解かれ、一度は民間人の位置にかえされた。そのうち、半数が志願し、インド国民軍に編入され、スバス・チャンドラ・ボースの指揮下にはいり、インパール作戦などに参加、インド独立のために戦うこととなった。志願の形で、特設勤務隊として、南東方面に向かったものもいる。ニューギニアに来ていたのも、その一隊で、約三千といわれる」(尾川書p141)

 また、オーストラリア政府の運営するウェブサイト「The Anzac Portal」にも、「約3,000名がニューギニアのウエワクに送られた(six companies (approximately 3000 men) were sent to Wewak in New Guinea.)」との記述がある。
 このほか、林博史・関東学院大学教授の論文でも、John Baptist Crasta氏(1933年に英印軍に入隊、戦後はインド軍でも勤務)の著書からの引用として、「ニューギニアに送られたインド人たちはもっと悲惨な運命にあった。3000人中生き残ったのはたった200人にすぎず、ほとんどは飢えや強制労働、病気で死亡した」と述べられている。


2 戦中のインド兵の様子
 いくつかの戦記に、ニューギニア戦線で目撃されたインド兵の様子が描写されている。以下に引用する。

「嗚呼担送に任ずる我が将兵、殊には遙々マレーより大東亜戦に共鳴し、我が軍に協力を誓って渡来した、印度兵や、ネパール人迄が、連続二ヵ月の担送の労苦、思うだに胸迫るの思い、真に感謝感激に堪えなかった」(昭和19年7月頃、アイタペ作戦中に。吉原矩「南十字星」東部ニューギニア会、p236)

「このハンサに、静かな集団を見た。インド兵だという。どうして、こんなところに? という疑問があった。われわれ自身、どうしようもないところまで追いつめられている。戦うべき装備すらない。彼らを養うことすらできぬのではないか。通りすがりにことばをかけてみたが全く通じない。というより、反応しようとする意欲さえ感じられぬ」(昭和19年5月頃、アイタペ作戦の途上で。尾川書p139〜140)

「一六・三〇出発。ラム河渡河点に向かう。はじめてインド人部隊(シンガポール戦の捕虜)に出会う」(昭和19年4月、セピック河湿地帯横断中に。渡辺哲夫「海軍陸戦隊ジャングルに消ゆ」戦誌刊行会、p102)

 また、西部ニューギニア戦線でも、「イドレ死の行軍」に参加した植松仁作大尉(電信第24連隊副官)が、「ニューギニア大密林に死す」(光人社NF文庫)の中で、転進途中の一場面として以下を記録している。

「集落は一棟で、原住民はもちろん一人もいない。その空家を占領して石岡大尉のインド部隊がすし詰めになっている。この部隊は、マレー作戦の時の英軍インド兵で編成したもので、もともと精悍な彼らの顔も、今は青黒く、そのうえ髭はのび放題だから、人相の悪いことこの上ない。(中略)
 七月三十一日、今日も快晴。早々に谷へ洗濯に下りた。もう炊事の人たちが来ているので、遠慮して谷間をもう少し下った。すると、プーンと屍臭がしてきた。
『死体だな』
 下を見ると、二人のインド兵が倒れている。水を飲みにきて倒れたままだろう。
 彼らも、民族独立の情熱を傾け、インド独立を叫びながら、インド国民軍をつくり日本軍と統一作戦をしている。その一部が、どういうわけか、このニューギニアに回ったのだが、この転進では我々同様に次々に倒れていった」(p89,91)

 西部ニューギニアのマノクワリはウエワクから約750kmの距離があるため、これらのインド兵は、ウエワクに送られた約3,000名とは別のグループではないかと思われる。


3 インド兵の写真
 1で掲げたウェブサイト「The Anzac Portal」に、ニューギニアで豪軍に保護されたインド兵の写真が複数掲載されている。
 また、森山康平編著「米軍が記録したニューギニアの戦い」(草思社)にも、ロスネグロス島で保護されたインド人部隊の写真が収録されており(p129)、ターバンを巻いた多数のインド兵たちが写っている。「The Anzac Portal」に、ロスネグロスで69名のシク教徒の捕虜を救出・解放した(When the US 1st Cavalry Division seized the Admiralty Islands they rescued and liberated 69 Sikh prisoners who had been used as labourers at Los Negros.)との記述があり、これらの人々を指すものと思われる。


4 終戦時のインド兵の様子
 昭和20年8月に日本が降伏した直後に、インド兵と接触した際の証言が残されている。第18軍軍医部の鈴木正己軍医少佐は、終戦後の出来事として、以下のような記録を綴っている。

「その日、武装解除が終わってから、私たちは自動小銃を構えたMPの前に一列に並ばされた。そして私たちの列から少し離れたところに、インド兵の一団が立っていて、私たちのほうを注視していた。見るとそこには、昨日私がアンゴラムでみかけたインド兵の姿もあった。
 私たちは一列になってインド兵の前を行進させられ、彼らに敬礼させられたのである。敬礼動作が悪いと、その場で鞭でなぐられた。MPの立ち合いのもとに、インド兵に仕返しをさせたわけである。気の毒だったのは、インド兵を使役した水上勤務隊の将兵であった。彼らはインド兵に目の仇にされ、なぐられたり、薪集めやら荷物運びやらでインド兵にこき使われたのである」(鈴木正己「ニューギニア軍医戦記」光人社NF文庫、p282、284〜285)

 また、飛行第68戦隊の整備兵だった菅野茂上等兵は、以下のように書き残している。

「ほっと、安堵したのも束の間、今度は豪軍憲兵に連れられた五、六名のインド兵が現われた。インド兵は、緒戦の頃シンガポール陥落当時、日本軍の捕虜になり、ニューギニアに送られて強制労働に服していた。食糧が切迫したため、日本軍は彼らを解放した。今度は立場が逆転して勝者になった彼らは、捕虜当時に虐待を加えた者の首実検に現われたものだった。
 私は、インド兵とは接触がなく、虐待したことも殺したこともない。しかし他人の空似という諺もある。私たちがインド兵を見ると、みんな容姿が似ていてみな同じように見えると同様、彼らの目からすれば日本兵も同じように映るのではなかろうか、と思うと不安になった。もし『この男だ』と自分が指されたら最後、この戦場においては、たとえそれが誤りであっても、言い逃れはできない。と、思うと心も凍る。
 ギョロ、ギョロと黒い怨みの眼差しを向けられたときは、全く生きた心地がなかった。氷の刷毛で背筋を撫でられる思いだった。インド兵たちは、代わる代わる私たちの顔を覗き込みながら通り過ぎた。彼らの後ろ姿を見て、ほっと溜息が出て、同時に私は、全身の力が抜けてしまって、崩れるように地べたに座り込んでしまった」(菅野茂「7%の運命」光人社NF文庫、p215)


5 ラバウル戦犯裁判
 戦後、ラバウル・ニューギニア・ブーゲンビル方面の将兵の戦犯裁判がラバウルで行われており、ここで多数の日本軍将兵が、インド兵虐待の罪によりBC級戦犯とされ、絞首刑を含む重刑に処せられている。しかし、これらの裁判には、あまりにも量刑が過重であったり、そもそも不当な裁判と呼ぶほかないものが少なからず含まれている。

 ラバウル戦犯裁判の特異性をよく表す具体例として、角田房子「責任 ラバウルの将軍今村均」(ちくま文庫。以下「角田書」)に記された以下の事例を紹介する。ラバウルの野戦自動車廠に勤務していた3名の下士官が、全くの無実の罪により絞首刑となった事案である。

「刑死した三人と長野(注:野戦自動車廠でインド兵の監督を務めていた曹長)とは共にラバウルの第二十六野戦自動車廠に所属していた。戦後間もなく、長野の管理下にあった百数十人のインド人は、笑顔で彼に挨拶して帰国船に乗った。それを見送った長野は、戦中インド人を好遇したことでよい人間関係を保ち得たと、ひそかに満足したのだが――1945年(昭和20)12月、中隊の三人が戦犯容疑者として逮捕され、それがインド人の告訴によるものと知って、愕然とした。
 長谷川と沼道は『印度外人部隊ガンガー・シタラム殺害事件』で、岸は『印度外人部隊ビンズー殺害事件』で裁かれることになった。だが『殴打による致死』とされているインド人たちが、実際はマラリアと脚気のため休養室に収容され、そこで死んだことを長野はよく知っていた。彼は被告の長谷川、山谷衛生曹長と共にシタラムの臨終にたち会い、『山谷曹長より、当時の状況下では過分の手当を受けての平常死であった』と書いている。ビンズーについても、ほぼ同じ記述がある。“殴打による致死”などとは全くの捏造だ――と血の逆流する思いの中で長野は、とにかく裁判に勝って、三人を救い出さねばならぬ――と心を決した。
 長野は前後八回証人として出廷したが一回ごとに彼の絶望は深まるばかりであった。弁護側がインド人の告訴状についてどれほど多くの疑点を指摘しても、告訴人は法廷にいないのだ。インド人は豪軍の手に告訴状を残して、みな帰国したあとである。従って、反対尋問によって彼らの主張の矛盾をつくことが出来ない。
 『日本兵は殴った、インド人は倒れた、出血した死亡した、何の治療も受けなかった、私はそこにいた』などと書かれた複数の告訴状が、多人数の“目撃者”による事実事項として、そのまま採用されてゆく。インド衛生兵の記録した患者名簿さえあれば、“殴打による致死”が実は病死であったことを完全に立証できるのだが――と長野は歯がみする思いであったが、唯一の物証であるその名簿は終戦時の軍の指令で焼却されていた」(角田書p87〜88)

 このほか、第8方面軍司令官だった今村均大将の「今村均回顧録」(芙蓉書房出版)にも、戦中のラバウルで、怠け者のインド兵の頬を打って無理やり潰瘍の治療をしたり、マラリヤの予防薬である苦いキニーネを飲ませたりしたために、患者を虐待したと告発されて絞首刑となった衛生伍長の話や、同性愛傾向のあるインド人将校に薬を飲まされて強姦されそうになったため、相手を木っ端微塵にぶん殴ったところ、激しい虐待を行ったとして絞首刑判決を受けた伍長(のち有期20年に減刑)のケースなどが紹介されている(p449〜457)。

 そして、ニューギニア戦線の戦犯事案については、ラバウル裁判で弁護人を務めた松浦義教中佐(第38師団参謀)が、その著書「ラバウル戦犯弁護人」(光人社NF文庫。以下「松浦書」)の中で、弁護を担当した特設水上勤務第16中隊の某伍長(のち刑務所内で自決)の証言として、以下を書き残している。

「確かにそういう名のインド人が死んだことは事実です。しかし、絶対に殴ったから死んだのではなく、当時食糧が乏しく、マラリアに犯されてもいましたので、結局、栄養失調で死んだのです。当時のニューギニアの事情ではどうにも…」(p59)

 極限の状況に陥ったニューギニアで、多くのインド兵の死者(そして、日本兵の死者)を出した本質的な理由は、結局のところ、これであろう。インド兵に多数の死者が出たことは大変悼ましく、ただその冥福を切に祈るほかない。4に述べたような終戦後のインド兵の反応の厳しさも、彼らを見舞った過酷な運命を考えれば、忍受するよりほかないものであろうと思われる。

 しかし、その報復として、日本人下級将兵の命を奪うことが正当化されるかどうかは、また別の議論であろう。松浦書には、ニューギニア関係を含む様々な裁判の模様と、処刑された将兵の最期の言葉が多数収められており、読む者の胸に迫る内容となっている。
 こうしたラバウル戦犯裁判について、松浦中佐は以下のような所感を残している。

「ラバウルにおける戦犯裁判は、インド人・中国人労務者に関するものが圧倒的に多い。
(ラバウルで結審した戦犯裁判二百三件のうち、この労務隊関係が百八十三件、そのうちインド人関係が百四件であった)
 この事実は、むろん長期にわたる日本軍支配下の思わざる長期の労務に服した怨みが、その基底に在るのであろう。
 ことに難局のニューギニア戦線では、いろいろ問題もあったと思われるが、ラバウルではそのような酷烈な場面はなく、それでいて何故、かくも大量の戦犯者を出したのか。
 労務隊員たちが、いよいよ本国に帰れると決まった時、彼らの不安は、中国人労務隊は、汪政権下で志願したという問題があり、インド人の場合は、インドはまだ英国領だ。自分たちがインド独立国民軍だったとか、日本軍の宣誓労務隊員となって協力したことなどが、帰国後反逆者として責められるのではないか、ということではなかったか。
 インド独立国民軍は、インド独立の志士チャンドラ・ボースの主宰で、一時インドに進攻したインパール作戦にも参加したことさえあった。
 そういう深刻な不安と憂慮から、今は独立国民軍や宣誓労務隊に入っていたことは一切秘匿して、ただただ日本軍の俘虜になって、強制労働に服したという立場だけを強調したく、したがって連合軍側の立場に身を置いてそれに協力する姿勢。つまり豪軍に迎合するため、その告訴奨励に応じたのではないか。
 いったんそういう姿勢にあったら、わが身を救うためには、針小棒大も、まったくの作りごとも意に介するところではなかっただろう。
 大掛かりな告訴の続出。しかも捏造された告訴の多さは、まったくわれわれの常識と想像を遙かに越えたものだったが、時の形勢と自らの利益に順応したい人心の動き、自己保全の本能とはそうしたものであろう」(松浦書p199〜200)


6 まとめ
 マレー戦で捕虜になったインド兵は、近年、「インド国民軍として日本軍とともに戦った」といったような、「美しい物語」の文脈の中で捉えられがちである。しかし、本記事で述べたように、当時の日本軍はインド兵をニューギニアなど幅広い戦線に送り出し、日印双方にとって不幸な結果をもたらしている。こうした歴史があったことも、同様に認識しておくべきことであろう。
 特に、処刑された日本人BC級戦犯のうち一定数の者が、無実であったことを証明したいと考える者にとっては、こういった事実に触れていくことは、必要不可欠の手続ではないかと思われる。


(2019.2.14追記)
 戦史関係で精力的に調査を行われている有村悠さんが、「昭和19年5月、東部ニューギニア・ボイキンでインド兵捕虜約400名が『処分』された」とする証言を発見され、ツイートされている。
 このような事案に関しては、関係者が重刑に処されることは当然であろう。本件は、これまで戦記類で取り上げられることのなかった、新たな事実の発見と思われるので、合わせて紹介させていただく。


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2018年12月23日

ニューギニア戦線・第22飛行場大隊の苦難の転進

 ニューギニア戦線の日本軍は、米軍の「蛙跳び作戦」により、たびたび後方の拠点を攻略された。このため第一線部隊は、サラワケット越えに代表される厳しい転進を余儀なくされ、その過程で多数の将兵が戦没している。

 そうした苦難の行軍を強いられた部隊の一つに、第6飛行師団隷下の第22飛行場大隊(以下「22飛大」)という部隊がある。22飛大は、昭和18年1月に東部ニューギニアのラエに上陸し、過酷な転進を続けたのち、西部ニューギニアのサルミ(一部はバボ)で終戦を迎えている。今回は、東西ニューギニア戦線で数奇な運命に翻弄され続けた、22飛大の足跡についてまとめてみたい。
 なお、ニューギニアの地図としては、こちらこちらを参照されたい。

1 ラエ〜マダン
 22飛大のニューギニア・ラエ上陸から、サラワケット越えを経てマダンまでの行程については、同大隊の一等兵だった高橋秀治氏の「ニューギニア航空戦記」(光人社NF文庫。以下「高橋書」)という本に詳しく記述されている。同書によれば、22飛大は元々ハルピンに駐留していた関東軍の部隊であり、太平洋戦争開戦後、飛行第1戦隊(戦闘)と第11戦隊(同左)からなる第12飛行団を支えてマレー、ビルマを転戦。ついで南東方面に進出し、昭和17年12月25日にラバウルに到着していた。大隊長は天口伊兵衛大尉(少候13期)であった。

 昭和18年1月5日、ラバウルからラエへの輸送作戦である十八号作戦(輸送船5隻、護衛駆逐艦5隻(浦風、磯風、浜風、谷風、舞風))により、22飛大はニューギニアへ進出することとなった。大隊本体に、通信、情報、気象など第6飛行師団関係の各一部隊を追加し、合計約400名の部隊だったという。途中、輸送船5隻のうち1隻(日龍丸)の撃沈により45名の戦死者を出すも、残りの将兵は1月8日にラエに上陸している。

 その後、22飛大は激しい空襲にさらされつつも飛行場整備に努め、第12飛行団を支え続けるが、9月の連合軍上陸により、ラエの日本軍部隊は敵中に取り残されてしまう。こうした状況下で、ラエの第51師団(基(もと)兵団)の中野英光師団長は、サラワケット山系を越えてキアリへの脱出を決心する。ラバウル出発時に約400名だった22飛大を中心とする部隊は、このとき、283名まで減っていたとのことである。

 そして22飛大は、天口大尉指揮の下で敵のラエ侵入を遅滞させた後、9月14日にラエを出発。飢餓と厳しい寒さ、険峻な行路に苦しみつつ、10月中旬頃にキアリに到着。到着できた者の数は207名であり、76名がサラワケット越えで死亡した計算になる。なお、9月に第4航空軍司令官・寺本熊市中将から天口大尉に対して、11月には同中将から22飛大に対して、猛烈な空襲下でラエ飛行場の維持に奮闘努力してきたことについて感謝電報や賞詞が与えられている(戦史叢書「東部ニューギニア方面陸軍航空作戦」(以下「叢書7巻」)のp422,431)。

 その後、22飛大は直ちにマダンへの転進を続けたため、いわゆる「ガリ転進」(注:昭和19年1〜2月にかけて、フィニステル山系で行われた転進。第20師団・第51師団等の将兵約13,000名のうち、約5,500名が戦没)を経験することはなく、11月までにマダンに到着している。なお、高橋氏はマダンで主計下士官候補者要員となり、第十三次ウエワク輸送船団の帰途に便乗してニューギニアを離れたため、高橋書はマダンまでで記述を終えている。


2 マダン〜ホーランジア
 昭和18年11月以降、22飛大がいつ、どうやってマダンからホーランジアへ移動したかについては、残念ながら記録が見当たらない。叢書7巻p620の部隊配置図を見る限りでは、昭和19年2月には既に22飛大がホーランジアに配置されており、この時期までにホーランジアに移動していたことがうかがわれる。少なくとも、4月22日の米軍上陸時点で、22飛大がホーランジアに駐屯していたことは確実である。


3 ホーランジア以西へ
(1)稲田正純少将のホーランジア脱出
 昭和19年4月22日、日本軍の予想を裏切る形で、突如米軍がホーランジアに上陸した。この当時、ホーランジアには第18軍関係約6,600名、第4航空軍関係約7,000名、海軍関係約1,000名、合計約14,600名の兵力があったが(戦史叢書「南太平洋陸軍作戦<5> アイタペ・プリアカ・ラバウル」(以下「叢書84巻」)のp21〜22)、その多くは後方部隊や航空関係部隊であり、陸上戦力として計算しうる兵力はほとんどなかった。久山忍「西部ニューギニア戦線 極限の戦場」(潮書房光人社。以下「久山書」)所収の、松浦豊少尉(電信第16連隊第3中隊第3小隊長。昭和18年8月にホーランジア上陸)の手記によれば、ホーランジアには「銃の総数は1,000挺、弾薬は小銃1挺につき10発しかなかった」(久山書p124)。結局、米軍はほぼ無抵抗でホーランジアに上陸し、日本軍は約400km西方のサルミへ向けて、過酷な転進を強いられることになった。

 第6飛行師団長心得としてホーランジアに着任したばかりだった稲田正純少将は、ホーランジアの陸軍部隊の総指揮を執ることとなり、4月30日にホーランジア南西のゲニムまで後退。掌握した約7,300名の将兵を10個梯団に分け、自らは22飛大など771名からなる第5梯団を率いて、5月3日にサルミに向けて出発した。しかし、十分食料を携行しないままホーランジアを追われ、道なきジャングルを進むこの転進は、悲惨を極めたものになった。その模様を、第18軍の派遣参謀だった中本太郎少佐は以下のように描写している。

「ホーランジア戦闘に引続き実施されたる四〇〇キロの転進は、未開、瘴癘、ジャングルの連続、進むに道無く、幾多横たわる大小無数の山嶽、湿地、河川を越えざるを得ない。其の間、飢餓、空腹、栄養失調、これに加えるにマラリアの猖獗は機動を益々困難ならしめ、遂に白骨をしてホーランジア、サルミ間の道標たるの感あらしむるに至れり」(叢書84巻p46)

 しかし、こうした戦況の中で、22飛大は稲田少将から高い評価を受けていた。佐藤清彦「土壇場における人間の研究」(芙蓉書房出版。以下「佐藤書」)p250〜251に引用されている、稲田少将の日記の記述を孫引きすると、

「梯団長たらしめし第二十二飛大の天口伊兵衛大尉以下、ラエより山越えの経験者にて行軍力段違いなり。糧食の収集また期待すべし。今夕もバナナ、パパイヤを見付けてくれる。何か採れば必ずまず予に届ける。心懸けのいい男なり」

と激賞している。気をよくした稲田少将は、5月9日、師団司令部(50名)と22飛大将兵(110名)、軍参謀らを合わせた総勢165名のみを率い、サルミへ先行することを決心する(「濠北を征く」(濠北方面遺骨引揚促進会編、以下「濠北書」)所収、稲田正純「第六飛行師団始末記」p238)。

 そして5月31日、稲田少将はサルミの第36師団(雪兵団)司令部に到着し、師団長の田上八郎中将と面会。夜は今田新太郎参謀長(陸大同期、稲田が作戦課長当時の部下)とコップ酒を酌み交わし、そのまましばらく第36師団司令部に逗留。6月12日に、約50名(空中勤務者13名、護衛として22飛大の天口大尉以下20数名含む)を率いてサルミを出発、徒歩と大発で26日にマノクワリ着。28日に双軽二機でマノクワリを出発、ソロン経由でメナド着、第2方面軍司令官の阿南惟幾大将に面会。29日にダバオ経由でマニラ着、30日に南方軍総司令官の寺内寿一元帥に申告。8月15日、戦場離脱の責任を問われ、停職2か月の処分を受けている。
 このような稲田の行動を、電信第16連隊の松浦少尉は以下のように評している。

「この頃稲田師団長は、第三十六師団長と会合し航空部隊の悪口のみを述べ、自らは司令部高級部員と一部の空中勤務者を伴い、部下七千名の擁護を要請せずして、師団再建の美名のもとにマノクワリ経由フィリピンへ逃亡したのである」(佐藤書p263〜264)

 こうした見方に立てば、部下将兵の大半をサルミ以東に置き去りにして、自らはマノクワリへ脱出した天口大尉も、やはりその行動への批判は避けられないだろう。もっとも、マノクワリに移動した22飛大将兵は、稲田のニューギニア脱出には同行せず、マノクワリ南方のバボ(こちらの赤色着色部分)付近で終戦を迎えたようである(叢書22巻p675)。

(2)サルミ残留部隊の悲劇
 ホーランジアからの撤退部隊は、飢餓と病に苦しみながら、5月末頃以降、ようやくサルミ手前のトル河付近に到着し始めていた。ところが、サルミを守る第36師団は、転進部隊がトル河を渡ることを許さなかった。既にサルミにも米軍が上陸し、激戦中だった第36師団は、飢えきった転進部隊が陣地内に乱入し、収拾がつかなくなることを極度に警戒忌避していたのである(叢書22巻p554)。

 そして、サルミでの給養を期待して、どうにかトル河まで辿り着いた転進部隊は、飢餓と衰えの極みにある中で渡河を禁止され、文字通り地獄の様相を呈した。当時の転進部隊の様子について、関連戦記からいくつかの記録を抜粋する。

「このころ、流言飛語が飛び、転進各部隊の動揺がはなはだしかった。その流言飛語とは、
『トル河を渡河すれば第三六師団は作戦の邪魔になるので、たとえ友軍でも射殺する』
 というものである。
 我々ホーランジアの転進部隊はここで完全に行きづまった。トル河を渡河して友軍である第三六師団と戦うか、現地にとどまって餓死するかの岐路に立たされたのである。(中略)
 行く先々でドンア集落で見たのと同じ情景を見た。佐官級の将校の死体もあった。行動する体力も気力も尽き果て、ただ横たわっている光景が至るところにあった。みな疲労困憊し、飢餓のためやせおとろえている。目はくぼみ、被服も汗と泥で変色し、力なくたむろしている。その情景はまさに幽鬼の群れそのものであった」(久山書p143)

「某准尉は、ほとんどだめと思える部下の一人を木陰に寝かせ、翌朝様子を見に行くと、もうほとんど骨だけの姿になって銀バエが群がっていた。野豚のいたずらか、鳥の群の仕業か、それとも日本兵による解体か、いずれとも断定はしかねた。数日後、野草を飯盒で煮ていると、見知らぬ兵士が近づいてきて、『野豚をたべないか。ここで炊いてよろしいか』と火のそばに腰を下ろした。見ると、彼がかついでいる天幕の包みから人間の足が出ている。准尉はつねづね、『人間が人間の肉を食ってはいかん。自家中毒になる』と部下に言っていたので、背筋が寒くなるのを覚えた。さらに数日後、今度は部下の一人が『野豚、たべませんか』と、飯盒の肉を見せた。准尉は、その黒ずんだ固い肉に岩塩をまぶすようにして食べた。その後、准尉は、戦病死した兵を、一人だけでなく三人の肉を軍刀で切って食べた。『あの時、私は正常な人間でなく、鬼畜と化していたのだろう』、戦後、そう語っている」(佐藤書p269)

「少年飛行兵出身者が一人、トル河で飯盒を洗っていると、いきなり三人組の兵に連れ去られたという話を聞いた者もいる。半ば常習犯と化していたらしいその三人組も、『生きた戦友の肉を奪うものは射殺』の命令によって、やがて上官に射殺された、という。これとは別に『きのうの肉は少年飛行兵で若いからうまかった』という会話を耳にした兵もいる」(佐藤書p269〜270)

「道筋に将校の倒れている姿も少なくない。五キロも歩いたころ、ラワンの木に背をもたせかけ、両手で軍刀を持ったままうずくまっている中佐がいた。ふと見ると、転進のとき松浦隊のすぐ前にいた第十梯団の梯団長、第百十三病院長の陣内中佐である。松浦少尉は『病院長殿、陣内中佐殿』とゆすったが、心臓は動いているものの、瞳孔は開いたままであった。衛生兵が中佐の図嚢を調べたが、注射器が二本入っているだけだった。中佐だというのに、当番兵もついていない。たった一人で、トル河右岸の惨状を訴え、薬物の供与を求めるつもりだったのだろうかと松浦は想像した。すでにミイラのような形相であった」(佐藤書p272)

「トル河右岸からそうであったが、軍隊としての規律は完全になくなっていた。死んだ将校の肩章を盗み、軍刀、拳銃をもち、勝手に将校になりすまし、少しでも食糧をもっている者がくると射殺し、わずかな食糧をうばうという5、6人の強盗団のようなグループがあった。
 岡本参謀(注:第6飛行師団作戦主任参謀の岡本貞雄中佐。稲田少将に同行せず転進部隊に残留し、各隊から感謝されていた)は部隊長で合同会議を行ない、各隊から射撃の名手を二名ずつ選抜し、討伐隊を組織し、ついに11人を射殺した。強盗団のなかには少佐の階級章をつけた者もいた」(久山書p153)

 こうした状況の中で、稲田少将から精鋭と見なされていた22飛大は、第五航空通信連隊、第十三野戦飛行場設定隊とともに、稲田少将から第36師団に「いますぐ役立つ」と推薦され、例外的にトル河を渡ることを許可されていた(佐藤書p266)。そして、第36師団の直接指揮下で戦闘任務につき、終戦まで無難に任務を果たしたとされている(叢書22巻p459,671)。

 一方で、トル河渡河を許されなかった部隊は、一部の第36師団将兵から厳しい仕打ちを受けながらも、辛うじて約2,000名が6月下旬まで生き残った。米軍との交戦で兵力を減らしていた第36師団は、この頃になると、これらの部隊がサルミ北西6kmのシハラ(シアラ)地区に集結し、現地自活を行うことを許可していた。転進部隊はようやくトル河を渡ることができたが、既に「病人と負傷兵ばかりで、被服は破れ、靴をはいている者もまれであった。ホーランジアから転進をはじめた53の部隊のうち、全員が死亡した部隊が4、生存者が5人以下に減少した部隊が25」(久山書p153)という状態だった。

 そして、辿り着いたシハラも平和な地ではなかった。海岸に近いシハラ地区は、連日の爆撃とともに艦砲射撃にもさらされ、主要な将校でさえ次々と戦没した。5月17日に北川季人中佐(第四航空情報連隊長)、6月8日に泊重愛少佐(飛行第78戦隊長)、6月10日に恩田謙蔵大佐(第14飛行団長)、7月5日に齋藤武夫大佐(第18航空地区司令官、初代シハラ地区司令官)、7月15日に森玉徳光少将(第30飛行団長)、7月25日に船山正夫大佐(第14野戦航空修理廠長、第2代シハラ地区司令官)、8月5日に原孫治少佐(飛行第63戦隊長)、10月20日に岡巖少佐(第14野戦航空補給廠長、第3代シハラ地区司令官)などである(濠北書所収、折茂一郎「ホルランジャ、サルミ附近陸軍航空部隊の最後」p353〜354)。こうした状況から、当時トル河は「命とる河」、シハラは「死原」などと呼ばれていたそうである。

 その後、第209分廠長の折茂一郎少佐が第4代シハラ地区司令官となり、苦労して開墾を続けながら、翌年8月の終戦を迎えている。濠北書p355〜356には、以下のような折茂部隊の編成表が掲載されている。

@本部 白城子陸軍飛行学校材料廠第209分隊、第20、22(一部)、209(一部)飛行場大隊、第4航空情報連隊、第6航空移動修理班
A本隊 第4航空軍司令部(残留員)の一部、第6飛行師団司令部、第14飛行団司令部、飛行第10、28、33、34、61、63、68、75、77、78、248戦隊、独立飛行第83中隊、第7輸送飛行隊、第38飛行場大隊、独立工兵第36連隊
B駒野隊 第4航空軍司令部(残留員)の一部、白城子陸軍飛行学校教導飛行団司令部、第86飛行場中隊、第2航空移動修理班、第14野戦航空補給廠、第12野戦気象隊、陸上勤務第81中隊、建築勤務第31、52中隊
C立川隊 野戦高射砲第66大隊、独立野戦高射砲第39中隊、野戦機関砲第39中隊、独立野戦照空第3中隊、第2、第5航空通信連隊、第4航空情報連隊
D菊岡隊 飛行第208戦隊、第209飛行場大隊、白城子陸軍飛行学校材料廠第209分廠の一部、第11航空移動修理班、第6航測隊、第1航空路部、第13野戦気象隊、陸上勤務第73中隊の一部
E久田隊 第14野戦航空修理廠、陸上勤務第73中隊
F大島隊 第22飛行場大隊

 以上を見ると、「@本部」と「F大島隊」に、22飛大の名前が見える。22飛大がどういう経緯でシハラにいたのか、例外的にトル河渡河を許可されていた将兵もその後シハラに回されたのか、詳細はよく分からない。ただ、ホーランジアに駐屯していた約14,600名のうち、シハラで終戦を迎え、日本に生還できた者がわずか500名足らず(濠北書p362)であったことを考えると、いずれにせよ22飛大の生還者も少なかったのではないかと思われる。

 なお、シハラから生きて還った人々は、戦後「白梅会」という戦友会をつくった。ちょっと戦友会らしくない、優美な会名の由来は、「雪(第36師団)にどんなに痛めつけられ、迫害を受けても、それに耐え、やがて春には白い花を咲かせて見せる」という意味だったという(久山書p154)。佐藤書が刊行された2003年当時、22飛大の曹長だった花輪久夫氏が、「白梅会」の会長を務めている。

posted by A at 10:55| 戦史探訪(日本軍) | 更新情報をチェックする