2018年05月03日

レイテ戦の第68旅団について

 今回は、太平洋戦争のレイテ島の戦いに投入され、ほぼ全滅した第68旅団(星兵団)の概要について、「第六十八旅団奮戦記」(山内一正著/共栄書房/1992年。以下「本書」と呼ぶ)という本をベースにまとめてみたい。

 生還者が極めて少ない第68旅団は、そもそも部隊の活動経緯を証言できる者がおらず、旅団について詳しく触れた書籍も少ない。本書は、こうした第68旅団に焦点を当てた、かなり稀少な戦記である。著者の山内氏(本書中では「K」という仮名を使っているが、これは著者自身のことと思われる)は、第68旅団参謀を拝命するも、旅団長の栗栖猛夫少将と折り合いが悪く、昭和19年8月に第10方面軍司令部に転出。そのまま台湾に留め置かれ、結果的に生還した人物である。

 著者自身がこうした経歴を辿ったことから、本書には、旅団の台湾進出までの経緯についてはかなり詳しく綴られている。その一方で、フィリピン上陸以後の記録は少なく、特にレイテ戦末期に関する記述には、あまり参考となる内容は見当たらない。旅団の最期の模様は現在も不明のままであるが、このあたりの事実関係を明らかにする新資料や証言が出てくることは、残念ながらもはやないのだろう。

 以下、本書や他の関連書籍を参考にしながら、いくつかの点について整理してみたい。

○旅団の南方進出とレイテ戦
 本書によれば、旅団の行動概要は以下のとおりである。

昭和19年
・6/19 陸軍公主嶺学校に動員令が下達され、教導隊を第68旅団として編成替え。所属部隊は、歩兵第126連隊、旅団砲兵隊、旅団工兵隊などで、動員当初の兵員総数は4,377名。この当時、旅団はサイパン島への増援部隊となることが予定されていた
・6月末 旅団は釜山に集結
・7/5頃 旅団の派遣先がフィリピンに変更され、当面、台湾での待機を命ぜられる。夜、旅団は3隻の輸送船で釜山港を出発。門司港に立ち寄り、そのまま一週間ほど滞在
・7/11 栗栖旅団長と幕僚3名(著者含む)は、飛行機で博多から台北に到着。
 また、同日付で、旅団参謀の市川治平中佐(陸士37期、陸大49期)が、第10方面軍の作戦主任参謀に転出。後任に、旅団付将校として市川参謀の補助業務を行っていた著者(陸士52期)が任命
・7/12夜 旅団本体は、歩兵第126連隊長の沖静夫大佐を輸送指揮官とし、門司港を出発
・7/27未明 旅団は台湾・基隆港に到着。その後、新竹に移動
・8/8 用兵思想から旅団長と対立していた著者は、旅団参謀を解任され、第10方面軍司令部に転出。後任に、歩兵第126連隊副官の三角正治少佐が任命される
・8月頃以降 捷一号作戦の下で、旅団は決戦方面に投入されることとなり、新竹で上陸・戦闘の猛訓練に励む
・10月頃 旅団の編制改正。歩兵連隊は3個大隊に、旅団砲兵隊は2個大隊に、それぞれ1個大隊ずつを増加。内地で徴集された者や、台湾での現地応召者、他部隊からの転属者など、700名近い将兵が旅団に増員。旅団から他部隊への転属者も何十名かあり、結果的に、旅団の総員は約5,000名となる
・11/1〜13頃 旅団各部隊は台湾を逐次出港
・11/7〜23頃 旅団各部隊はマニラに到着。途中、歩兵連隊本部、歩兵砲中隊、速射砲中隊等が乗った輸送艇が撃沈されるなど、輸送中の損害は合計約1,000名。
 また、マニラで660名の「特別輜重隊」が増員(著者は、在留邦人等を臨時召集したものではないかと推測。単純計算すれば、この時点の旅団総員は約4,700名)。さらに、旅団参謀として、士官学校教官を務めていた瀬戸口武夫少佐が着任。三角少佐と合わせ、参謀は2名となる
・12/5 旅団はマニラを出発、レイテ島に向かう(第八次多号作戦)
・12/7 輸送船団はレイテ島サンイシドロに擱座上陸
・12/8 昼頃までに、栗栖旅団長が陸上で掌握した兵員は約4,000名。歩兵の重火器は5分の1程度を揚陸。十榴3門も揚陸したが、砲弾は1発もなし。
 同日、旅団長は瀬戸口参謀を、第1師団への連絡のため派遣
・12/9 旅団長は、旅団主力とともにリモン峠方面へ出発。率いた部隊は歩兵2個大隊程度(ただし重火器装備は極めて貧弱)と推定される。火砲を持たない旅団砲兵隊はサンイシドロに残留
・数日後 ルソン島方面から、少ないながらも小銃が届く。旅団砲兵隊第1大隊長川勝隆充少佐以下3個中隊約300名、第2大隊長米沢克行少佐以下3個中隊約300名、合計約600名の部隊は、これを装備し、旅団主力を追って出発。旅団砲兵隊長の守永晃中佐は、後方基地司令としてサンイシドロに残留
・12/13 戦史叢書「レイテ決戦」によれば、この日、瀬戸口参謀はリモン峠南方の第1師団司令部に到着。兵団の状況と地形の錯雑、ゲリラの跳梁を報告。同日夜、瀬戸口参謀は砲撃により重傷を負う
・12/25 旅団主力は、ペニア(サンイシドロの南約30キロ)で第1師団に遭遇。片岡第1師団長から、第35軍司令部がカンギポット山(ペニアの南約5キロ)に所在することを教えられ、栗栖旅団長は三角参謀を軍司令部に派遣
・12/27 米軍がサンイシドロに上陸、所在の日本兵約1,000名が全滅。
 なお、上述の川勝大隊は、その後の記録に全く登場しないことから、著者はサンイシドロで全滅したのではないかと推測。また、米沢大隊については、旅団主力を追わず、レイテ島西岸沿いに南下し、ビリヤバ北方約7キロの地点で昭和20年元旦を迎えたとする資料もあり、記録に混乱が見られる模様
・12/27頃 三角参謀が旅団に帰来。「第68旅団は第1師団主力の西進を掩護しながら歓喜峰(カンギポット山)方向へ転進し、歓喜峰付近に複廓陣地を占領せよ」との軍命令を伝える

 昭和20年に入ってからの旅団の動向については、残念ながら、本書には具体的な記述がない。戦史叢書「レイテ決戦」から関連記述を引用してまとめると、以下のとおりである。

・1/2 同日時点で鈴木第35軍司令官が掌握した兵力10,718名のうち、第68旅団は約4,000名(一部サンイシドロ所在)とされている。(注:レイテ島上陸後の損害を反映していない可能性があるが、詳細は不明)
・1月中旬 地号作戦(第1師団のセブ島脱出)に合わせて、旅団はビリヤバを攻撃するも不成功。逆に、下旬から米軍の掃蕩を受ける
・2/5 山縣第26師団長戦死。その後、栗栖少将が同師団を指揮し、歩兵第126連隊長の沖静夫少将が第68旅団を指揮することになる。第126連隊長には、3月23日付けで、軍司令部付(事前補充の連隊長要員)の金田長雄大佐が発令
・2月上旬〜中旬頃 このころ、米軍の攻撃は不活発
・2月中旬以降 第35軍は、カンギポット付近の残存部隊を北、中、南の3つの自活地区隊に編成。旅団は中自活隊に編入
・2月下旬以降 米軍は本格的な掃蕩を開始。北自活隊(第26師団)と南自活隊(歩兵第77連隊、海軍)は2月下旬〜3月上旬頃に、中自活隊も4月上旬に自活の基本配置を維持できなくなり、カルブゴス山方向に逐次移動。比較的戦力のある第68旅団が移動を支援
・4/24 旅団も遂に戦力が尽きる。金田連隊長は、4/24に陣地の撤収と転進開始を命じるが、翌25日に第2大隊が全滅、第1大隊長永野進少佐も戦死
・6月中旬 歩兵第126連隊の残存兵力は金田連隊長以下18名
・その後の旅団の消息は不明


○第68旅団の編成について
 戦史叢書「レイテ決戦」によれば、第68旅団の編成は以下のとおりである。

・旅団司令部(152名)
  旅団長 栗栖猛夫少将
  参謀 瀬戸口武夫少佐、三角正治少佐
・歩兵第126連隊(3,624名)
  連隊長 沖静夫大佐(のち少将)
  第1大隊長 永野進少佐
  第2大隊長 和田俊郎少佐
  第3大隊長 和田繁二少佐
・旅団砲兵隊(1,350名)
  長 守永晃中佐
  第1大隊長 川勝隆充少佐
  第2大隊長 米沢克行少佐
・旅団工兵隊(250名)
  長 後藤健一少佐
・旅団通信隊(203名)
  長 窪田十三芳少佐
・旅団衛生隊(239名)
  長 佐藤正大尉

 これらの人員を機械的に足し合わせると、5,818名となる。この数字と、山内氏が推定するルソン島滞在時の旅団人員(約4,700名)、厚生省の記録に残る旅団人員(6,392名)はいずれも異なり、どれが正しい数字なのか、にわかに判別しがたい。
 強いて言えば、山内氏の数字(約4,700名)に、台湾からルソン島までの輸送途上での海没人員(約1,000名)を加えれば、戦史叢書の数字(5,818名)に比較的近い数字になる。この5,818名と、厚生省の数字(6,392名)が乖離している理由は、全く不明である。


○第68旅団の生還者について
 厚生省の記録によれば、旅団の総人員は6,392名、戦死者は6,302名とされている。本書によれば、生還者90名の大部分は、台湾及びマニラで罹病入院して後送された者であり、レイテ島に上陸して生還した者は10名に満たないとのことである。

 なお、その奇跡的な生還者の一人である後藤薫氏(歩兵第126連隊第3大隊第7中隊第1小隊第1分隊長、軍曹)の証言が、「昭和史の天皇 レイテ決戦(下)」(読売新聞社編/角川文庫)に収録されている。後藤氏は、3/1〜6頃に、カンギポット山近くの510高地(レイテ富士)付近で行われた戦闘で、全身に銃弾7発を受け重傷を負うも、辛うじて部隊に生還。その後の連隊の様子を、以下のように証言している。

「・・・四、五日かかってやっと中隊本部にめぐり会えたのです。このときの中隊は中隊長格の有光中尉のほか十七人しかいませんでした。そしてみんな食べ物のありそうなところを捜して何日か居すわり、なくなるとまた次へ移動するというような生活をしていました。その間にも『もう歩けません』といって栄養失調やマラリアのためバタバタ落伍するものが出ました。
 連隊本部と合流したのはその途中のことでしたが、連隊といっても金田連隊長以下全部で二十人もいなかったですね。もう戦意というようなものは全くありません。わたしも負傷いらい戦争に対する恐怖心が急につのり、恥ずかしいことですが、一キロも二キロも先で銃声がすると、もう何もかもほうり出して一目散に逃げ出すというありさまでした。
 このわずかばかり残った連隊も六月の中旬、わたしが食糧の徴発に行っている間に敵に襲撃され、十四、五人が戦死していました。わたしが捕虜になったのは二十年の暮れか、二十一年の正月でしたが、投降したとき与えられたチョコレートの味は今でも忘れられません」

 カンギポット残留部隊については、しばしば、「終戦後に山から下りてきた者は一人もいなかった」という言い方をされることがある。しかし、「二十年の暮れか、二十一年の正月」に投降したとされる後藤氏は、その例外ということになるだろう。

 また、大岡昇平「レイテ戦記」には、第8師団歩兵第5連隊(高階支隊)17名、第68旅団2名(下士官1名、兵1名)、その他2名の合計21名がレイテ島を脱出し、20年1月31日にネグロス島に漂着したとの記録がある。神子清「われレイテに死せず」にも、レイテ島からメデリン島に脱出した、「星兵団の川村少尉」の一行が登場する。
 これらの者が生きて終戦を迎えられたかどうかは不明であるが、いずれにせよ、レイテ島から小舟で脱出した遊兵が一定数いたことは確かであろう。


○第68旅団の戦力について
 レイテ戦関連の各種戦記で、第68旅団は有力な精鋭部隊として言及されることがある。これに関して、著者は以下の証言を残している。

「戦後刊行された『大東亜戦史』(服部卓四郎著)その他によれば、第六十八旅団は“精強な機動兵団”だったとされているが、これは、この旅団の各級指揮官の階級が、一般の兵団と比較して一段か二段高かったことで、兵団の戦力が「買い被られ」たものらしい。昭和十九年ごろは、大隊長が大尉、中隊長が中尉で当りまえとされていたが、第六十八旅団では砲兵大隊長が中佐、砲兵中隊長がK大尉以外の二人は少佐で、Kの部下の指揮小隊長は、よその砲兵部隊に行けば大隊長になれるような(士官学校第五十三期生の)大尉だったのだ。驚いたことにこの旅団の歩兵連隊の連隊長は、既に支那大陸の戦線で連隊長として二年余りも実戦を経験し、その後、師団参謀長まで勤めた大ベテランである。
 この事は、公主嶺学校で教官を勤めていた将校を、この旅団の各隊指揮官に「転用」した結果生じたのであるが、実は、これが此の旅団の大きな欠点になっていた。普通の部隊なら上級指揮官の命令は「絶対に」遵奉するが、この旅団の各級幹部は、学校教官のクセが抜け切らず、何かといえば(上級者と雖も)すぐ批判の対象にしてしまうからだ。つまり、作戦部隊の実戦行動と学校での研究演習とを混淆する者が沢山いるのである。
 もう一つの問題は、この旅団の戦場内機動力だ。Kの中隊のように、重輓馬六頭で牽引していた十榴(口径十センチの榴弾砲)を、人力だけで引っ張るのでは、とても機敏に動きまわることは出来ない。そして、牽引車やトラック等が此の旅団には殆んど全く無いのだから、歩兵の重火器や工兵の諸資材なども総べて兵員の「肩」で搬送しなければならない。
 まあ、あれこれ考え合わせると、大本営が第六十八旅団に期待した「精強度」とか「機動性」とかは、マボロシ以外の何ものでもなかった、と言うべきであろう」

 機動力に関して言えば、編成当時、この旅団には馬さえ1頭も存在しなかったとのことである。その後、台湾やルソンで輸送能力を増強したとの記録も見当たらない。もし機動力を欠いたままだったのであれば、仮に火砲などを無事にレイテまで運べたとしても、まともに前線に進出させることもできず、十分な活躍は期待できなかったのではないかと思われる。


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2018年04月15日

【本】神子清「われレイテに死せず」

「われレイテに死せず 上・下」 神子清/ハヤカワ文庫NF/1988年
(初版は、1965年に出版協同社から刊行)

 レイテ島の戦いに参加した陸軍の下士官が、独断で島を脱出し、奇跡的に生還するまでを描いたノンフィクション。

 将兵の生還率が極端に低いレイテ戦を生き残った、一下士官の壮絶な生存記録である。満州で厳しい訓練を積み、無敵関東軍の自負を持ってレイテ島にやってきた著者は、第1師団の尖兵としてリモン峠の戦いに参加。不意の遭遇戦を生き残り、優勢な米軍に圧迫される中でも勇敢に戦い続けるが、激しい物量攻撃の中で、多くの戦友たちを次々に失っていく。そして、尊敬する中隊長・八尋中尉も戦死するに至り、中隊長が最後に発した転進命令に従って、辛うじて前線を脱出する。

 その後、著者は負傷兵たちとともに南下し、日本軍の後方基地・オルモックを目指すが、途中で高千穂空挺隊の兵士たちに出会う。「空の神兵」とうたわれ、戦局を挽回するためにレイテに降下したはずの精鋭部隊が、ただの無謀な斬り込み作戦に使われていく様子を見て、著者は以下のような感慨を抱く。

「落下傘兵たちに会ってから、私の心裡にある変化が起こった。期待が大きかっただけに失望も大きかったのだ。私は、空挺部隊の降下によって大きな積極的作戦の展開を期待したのだが、それが斬込作戦にすぎないと知ったとき、まったく失望した。いや、大きな憤りさえ感じた。こんな作戦指導の下に死ねるものか、と考えるようになった。
 私は、あの若い伍長と話していたとき、きのう父母の国を発ってきたばかりのこの若い生命が、きょうは春の淡雪のように消えるのかと思うと、いても立ってもいられないような痛ましい気持になった。こんな感情は、私にとって初めての経験だった。それは、あの落下傘兵たちが、まだ少年の域を出ていない年ごろだったこともあったのだろうが、それよりも何よりも、人間の生命を、柴の束を囲炉裏に投げこむように、無造作に、しかも無意味に、燃やしてしまう作戦当局の不条理きわまるやりかたに対してがまんがならなくなったのだ。
 それまでの私は、死ぬことを何とも思っていなかった。いのちが惜しいなどと思ったことはただの一度もなかった。むしろ死ぬことを望んでいた。それは、自分のいのちを捧げることによって祖国日本が救われるのだと信じていたからだ。あの少年兵たちも、おそらくは、祖国を救うために自分は死ぬのだという凝縮された使命感に燃え立っていたのだろう。
 ところが、あの空挺部隊の使い方を見て、私のこの信念は、音をたてて崩れた。人間が人間に死ねと命じ得るのは、それによって祖国を救うという至高にして尊厳な使命があるからである。それなのに、救い得ないとはっきりわかっているのに、なおかつ死ねと命じている。そんな権利がどんな人間にあるというのだろうか。この疑惑が、やがて私に、はっきりとした決意を抱かせるにいたったのである。
『誰が何と言おうと、死んでやるもんか』と。」

 そして著者は、偶然行き会った仲間たちとともに、敵の哨戒網をかいくぐりながら、レイテ島の西海岸に脱出。現地住民の小舟を奪取し、セブ島北部のメデリン島を経て、ネグロス島に上陸する。レイテでの激闘、そしてネグロスでの地獄のような生存闘争の記録を読むと、著者が生き残ったのは、その戦技と判断力に加えて、幾重もの奇跡が偶然に積み重なった結果としか思えない。本書は、一人の将兵の類い稀な冒険譚として、大変興味深い物語であるとともに、勇敢で忠誠心にあふれた古参下士官が、どのような心境の変化を経て戦場離脱者となるに至ったかを克明に描いた、極めて優れたノンフィクションでもある。ハヤカワ文庫では既に絶版になっているようだが、このまま埋もれさせるには非常に惜しい一書である。


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2018年03月24日

【本】松谷健二「カルタゴ興亡史 ある国家の一生」

「カルタゴ興亡史 ある国家の一生」 松谷健二/中公文庫/2002年
(初版は、1991年に白水社から刊行)

 古代地中海世界で通商国家として繁栄した、カルタゴの歴史を描いた本。

 紀元前9世紀ごろに現在のチュニジアに興り、紀元前146年にローマに滅ぼされた、海洋国家カルタゴの通史である。歴史ものの新書や文庫本の中には、マニアックな史料の解釈にこだわり、その界隈の通説を否定することに血道を上げている(=読んでいて全然面白くない)本がしばしば見られるけれど、本書は、700年に及ぼうとするカルタゴ史を平易な口調で解き明かしていて、非常に読みやすい。世界史に興味のある人であれば、面白く読める本ではないかと思う。

 カルタゴの長い歴史の中で、最もドラマチックな場面は、史上名高いハンニバルの遠征と、そして国家としてのカルタゴの最期であろう。ハンニバル敗戦の後、半世紀にわたり屈従の期間を耐えてきたカルタゴは、ローマの奸計に騙され、ついに最後の一戦に立ち上がることになる。その場面を、本書は以下のように描いている。

今度の戦争に勝てると思っていたカルタゴ人はひとりもいなかっただろう。ほどほどの戦果をあげ、講和にもちこもうとの甘い考えもなかった。全員玉砕。念頭にあったのはそれだけ。ときに前149年。
 武器はすべてさしだしてしまったので、急遽生産にかかる。寺院など公共の建物を工場とし、市民たちは夜を日についで、ありあわせの材料から、最後の戦いのための道具をつくった。日産として楯百、剣三百、投げ槍五百。それに投石用のカタパルト。そのロープには女たちが髪の毛を供出した」

 こうして覚悟を固めたカルタゴは、3年にわたる孤立無援の籠城戦を戦い抜き、ついにローマ軍によって滅ぼされる。市民は虐殺され、わずかに生き残った5万人は奴隷として売られ、都市カルタゴは徹底的に破壊される。永遠に人が住めず、作物も育たないように、跡地に塩まで撒かれたというエピソードはよく知られている。交易によって繁栄を築き上げてきた、それまでのカルタゴの歴史と対比すると、とりわけ諸行無常の感が深い最後である。


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2018年03月04日

【本】伊丹恒「復刻版 幌加内 −厳寒の地の生活鉄路・深名線とともに−」

「復刻版 幌加内 −厳寒の地の生活鉄路・深名線とともに−」 伊丹恒/共同文化社/2011年
(初版は、1996年に刊行)

 かつて北海道に存在したローカル線・深名線と、その沿線に生きる人々の姿を収めた写真集。

 1995年に廃線となった深名線と、その周辺地域の様子を撮影した写真集である。この深名線は、北海道中北部の山中と田園地帯を走る、全長約120kmのローカル線だったが、その7割近くは広大な雨竜郡幌加内町に位置していた。幌加内の町について、本書は以下のように解説している。

「幌加内は東京から1,300km、北緯44度の地に位置する北海道空知支庁管内北端の町であり、石狩川の支流である雨竜川に沿った集落を抱えているため東西に24km、南北に63kmと長細い形をしている。面積は766.65㎢で大阪府の4割にも達する広大なものであるが、そこに住む人口は平成8年5月現在、2,400人という道内でも有数の過疎地帯となっている。周囲を雨竜川の源ピッシリ山をはじめとする1,000m級の山々に囲まれた盆地となる各集落の気候は通年の温度差が70度にもなり、夏は高温多湿、冬は酷寒多雪と非常に厳しく、特に昭和53年に母子里(もしり)で記録された−41.2度という気温は「日本最寒の地」として幌加内の名を一躍有名なものにした。」

 このような過疎地域を走る深名線は、ほとんど乗客がいないことから「空気輸送」などと揶揄され、既に昭和55年の時点で、100円の利益を生みだすのに2,852円の経費を要する大赤字路線となっていた。そうした非効率な深名線が、国鉄末期の廃線ラッシュを生き延び、1995年まで存続した理由は、ひとえに沿線の道路事情の悪さによるものだった。71年間続いた鉄路がついに終焉を迎えたのは、1991年に名母トンネルが開通して、深名線の並行道路がようやく整備された、その4年後のことだった。

 本書は、こうした深名線の情景や、厳寒・豪雪の地で列車運行のために努力する鉄道員たち、質朴な生活を営む沿線住民たちの姿を捉えた写真集である。本書に収められた数々の写真からは、在りし日のローカル線の雰囲気とともに、幌加内に暮らす人々の生活ぶりを窺い知ることができる。写真の中に捉えられた、住民たちの強さや朗らかさ、そして温かさを湛えた表情は、厳しい生活環境の中で、地に足を着けて生きる人々ならではのものなのだろう。そして、この地に愛着を感じ、何度も通い続けた伊丹氏だからこそ、こうした人々の姿を引き出すことに成功したのではないかと思えた。


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2018年02月04日

【本】ウォーレン・クロマティほか「さらばサムライ野球」

「さらばサムライ野球」 ウォーレン・クロマティ、ロバート・ホワイティング/講談社文庫/1992年
(初版は、1991年に講談社インターナショナルから刊行)

 1984年から1990年まで読売巨人軍に在籍し、優れた打撃成績を残した、ウォーレン・クロマティ外野手の自伝的な本。

 巨人軍の裏側をあけすけに描き、刊行当時に「暴露本」扱いもされた、クロマティの日本野球体験記である。球団首脳の外国人選手への無理解や、コーチたちの無能ぶり、同僚の人物評などを遠慮なく書き並べているほか、外国人から見た日本文化の特異性を包み隠さず指摘していて、結構刺激の強い内容になっている。グラウンドで見せていた、陽気な助っ人外国人クロマティの姿をイメージして読み始めると、少なからず衝撃(場合によっては、失望)を覚えるのではないかと思う。

 1953年にマイアミで生まれたクロマティは、2歳の時に両親が離婚し、スラムで貧しい少年時代を送る。彼の父親違いの弟は、やがて麻薬密売や強盗に手を染めて刑務所に送られるが、野球の才能に恵まれていたクロマティは、不十分ながらも父親からの指導や援助を受け、短大を経てメジャーリーグへ進む。そして、1981年にモントリオール・エクスポズで地区優勝も経験し、84年、高給に惹かれて来日する。

 しかし、巨人に入団してからのクロマティは、チームの風通しの悪さや、ガイジンを疎外する日本社会の壁に苦しみ続ける。『ニューズウィーク』国際版のインタビューで、クロマティは以下のように述べている。

「『年俸はかなりいい。だからみんな日本へ来るのだ。友だちをつくろうと思って日本へ来ているやつはいない。日本人の選手は、ガイジンが自分たちよりたくさん金をもらっていることに嫉妬している。だからガイジンはあらゆる期待にこたえなければならない。ホームランを打ちまくり、どんな飛球でも捕らないと、たちまち批判される。たまには親しみをこめて背中をポンと叩いてくれるが、そんなことは滅多にないと思ったほうがいい。プライドをぐっと飲み込んで、目の前で起こる異常な事態にじっと耐えなければならない』
――日本に偏見はあると思いますか?
『もちろんある。たとえばガイジンに対して偏見をもっている。日本人は、外国人に先を越されることを嫌う。どうせなら同国人にいい思いをさせてやりたいと思っている。たとえ満塁でも、面子のためなら平気で俺を歩かせる』
――黒人に対する偏見に直面したことは?
『もちろんあるさ。その種の偏見は世界中にある。日本だって同じだ。外野で守っていると、スタンドから侮辱的な言葉を浴びせられることがある。アメリカでプレーしているときと同じだ』」

 こうして苦労を重ねてきたクロマティも、4年、5年と日本生活を続けると、以下のような心境に至っている。

「人生なんて、バラ色のあれこれがそっくり用意されているわけではない。すばらしい人生を手に入れようと思ったら、自分も少しは努力すべきなのだ。人に説教できるような柄ではないことはわかっている。俺だってさんざん日本の悪口を言ってきた。だけど今は少しずつ物事がわかりかけている。(中略)
 最初は日本的なものすべてに反抗したものだ。言葉だってまじめに勉強する気にならなかった。だけど今は、少しでもしゃべれるようになって本当によかったと思っている。もっと早くから勉強していればよかったと後悔しているくらいだ。――俺がこんなことを言うようになるなんて、夢にも思わなかったが。
 日本が大好きだ。いろいろ問題はあるが、神の名のもとに一億九千万ドルの寄付を求めるようなジェリー・フェアウェルは、ここにはいない。この国にはこの国なりの献身のしかたがあるのだ。それがだんだんわかってきた。日本人には日本人の考え方があり、その大半はアメリカ人の考え方に少しも劣らない」

 本書を読んだ感想として、クロマティはかなり自我が強く、クセのある人物だが、同時に頭脳明晰で、我慢強く、また柔軟性のある人柄だという印象を受けた。ホーナーやガリクソンのようなメジャーリーガーたちが、日本に嫌気が差して短期間で帰国した一方で、クロマティが7年の長きにわたって異国の地でプレーし、しかも素晴らしい成績を残し続けたのは、こうしたクロマティ自身の人となりによる部分が大きかったのではないか、と思えた。


posted by A at 20:13| 本(ノンフィクション) | 更新情報をチェックする