2020年03月21日

ヌンホル島の戦いについて

 南太平洋に位置するニューギニア島の西北部に、太平洋戦争の激戦地として広く知られたビアク島という島がある。第36師団歩兵第222連隊(長:葛目直幸大佐)を基幹とする約1万名の日本軍ビアク島守備隊は、昭和19年5月27日に上陸してきた米軍を迎え撃ち、1か月以上にわたって善戦敢闘した。のちに葛目連隊長が軍旗を奉焼して自決した後も、生き残った将兵は島内で遊撃戦を展開し、終戦後に86名の残存将兵が救出されている。

 このビアク島と、西部ニューギニアの主要都市・マノクワリとの間に、ヌンホル島という小さな島がある。直径20km程度の、円型に近いこの島には、第35師団歩兵第219連隊第3大隊を中心に約3,000名の守備隊・軍属が派遣された。そして、ビアク島で葛目大佐が自決した7月2日に米軍上陸を迎え、やはり1か月以上にわたって戦闘を続けた後、8月18日に連隊長が軍旗を埋没して自決。残った将兵は少人数のグループに分かれて島内に展開し、終戦後に11名が救出されており、ビアク島守備隊とよく似た運命を辿っている。今回は、ビアク島の戦いの陰に隠れてほとんど知られていない、このヌンホル島の戦いに光を当ててみたい。

 なお、文中に掲載した地図は、濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」(1956年刊、著作権切れ。以下「濠北書」)から転載したものである。

map01.JPG
(ヌンホル島の位置。クリックで拡大)


1 西部ニューギニア「航空要塞」構想(昭和18年8月〜)
 昭和18年8月、日本軍は中部ソロモン諸島と東部ニューギニアのサラモア方面で制空権を失い、戦局は次第に劣勢に傾き始めていた。こうした状況を受けて大本営は、後方に新戦線を形成して、戦争遂行のために絶対に必要な圏域を確保する方針を固めつつあった。そしてその後方要線は、マリアナ、カロリン諸島、西部ニューギニアを結ぶ線とすることが考えられた(のち、9月30日の御前会議で「絶対国防圏」として決定)。

 そうした中で、日本本土と蘭印の資源地帯を結ぶシーレーンを守るための前線となる西部ニューギニアでは、ヘルビング湾方面を有力な防衛線とすることが構想された。8月中旬、濠北方面の防衛を担当する日本陸軍の第19軍は、軍参謀部附の柳恵治少佐に軍偵機で飛行場適地を偵察させ、さらに地上からの偵察も行った上で、ヘルビング湾に浮かぶ小島、ヌンホル島のカメリーに飛行場を造成することを決定した。軍としては当初、離島に飛行場を設定することは極力避ける考えだったが、ヘルビング湾方面に重層的に飛行場を整備し、この地区を強力な「航空要塞」とするためには、ニューギニア本島内だけでは飛行場が足りず、ヌンホル島やビアク島など飛行場適地に恵まれた湾内の離島を活用するほかないものと判断された。

 そして第19軍は、第5師団から抽出し、西部ニューギニアのベラウ湾南岸のサガで飛行場造成に従事していた鯉第1臨時飛行場設定隊(長:小田二三夫中尉。のち、第117野戦飛行場設定隊に改編)と、鯉第3臨時飛行場設定隊(長:三隅道夫中尉。のち、第119野戦飛行場設定隊に改編)、いずれも約50名の隊をヌンホル島に転用し、9月12日から飛行場の造成を開始した。11月中旬には、本土から派遣された第102野戦飛行場設定隊(長:森甚六少佐)も加わり、12月末には長さ1,200m、幅80mの滑走路が完成。翌19年1月2日に重爆機(第3飛行団長・塚田理喜智少将同乗)の試験着陸が行われた後、同月13日、飛行第5戦隊長高田勝重少佐が複戦5機を率いてカメリー飛行場に進出し、船団援護の基地として使用を開始した。

 さらに、西部ニューギニア全体で合計25個の飛行場を設定するとの方針の下で、ヌンホル島では1月下旬以降、カメリー飛行場の拡充工事を行うとともに、新たにルンボイ(ナンベル)飛行場の造成を開始。2月中旬にはエンブロー飛行場の整備にも着手し、さらにコロナリレンへの飛行場設定も構想された。設営隊員は、1台のブルドーザーもないまま、ジャングルの巨木を手斧で切り開き、リーフを鶴嘴で打ち砕く苦難の作業を続け、輸送量の不足により食事の定量も半減、マラリアも流行し、全員が体力を消耗し尽くしたという。そうした辛苦を経て、4月始めにカメリー飛行場の拡充工事が終了し、6月末にはルンボイ、エンブローの両飛行場も概成。さらに、エンブローからルンボイに至る自動車道路も完成するに至った。

 一方、1月2日に東部ニューギニアのグンビ岬に上陸し、第18軍の第20師団・第51師団を敵中に孤立させた米軍は、いわゆる飛び石作戦を採用し、ニューギニア島北岸を一気に西へ進もうとしていた。


2 米軍のホーランジア・ビアク来攻(昭和19年4〜5月)
 昭和19年4月22日、米軍は東部ニューギニアのマダン、ハンサ、ウエワク、ブーツを飛び越え、ニューギニア中部のホーランジアとアイタペに大挙上陸した。これに先立つ同月18〜20日にかけて、マノクワリとヌンホル島カメリー飛行場にもB24による空襲が行われた。こうした戦況の急変を受けて、第4航空軍司令部は、ハルマヘラ所在の飛行第13戦隊(一式戦)にヌンホル島への進出を命じ、4月23日、町田久雄戦隊長以下26機がカメリー飛行場に到着した。同日、早速B24が11機カメリーに来襲し、第13戦隊は14機で邀撃して2機撃墜を報じた。

 この頃、カメリー飛行場は、日本軍にとって重爆を使える最前線の飛行場となっていた。このためヌンホル島は、米軍のホーランジア上陸により孤立した東部ニューギニア方面への重爆による中継連絡(詳細はこちら参照)や、船団援護、ホーランジア方面への偵察等の基地として大いに活用された。しかし、米軍との交戦が続いて被害も甚大となり、6月上旬時点の第13戦隊の実働機は、わずか2〜3機まで落ち込む状態となった。

 また、大本営は5月2日、情勢の激変を踏まえ、西部ニューギニアにおいて確保すべき要域からサルミ・ビアクを除外し(大陸指第千九百七十三号)、さらに9日、マノクワリをも除外して、確保第一線をソロン、ハルマヘラの線まで後退させた(大陸指第千九百八十八号)。現地軍である第2方面軍、第4航空軍はこの方針にはなはだ不満だったが、17日、米軍がホーランジア西方のサルミに来攻しても、大本営は同地を前進陣地と見なし、既定の方針を変えることはなかった。

 しかし同月27日、米軍がビアク島に上陸すると、元々ヘルビング湾決戦論者だった堀場一雄大佐が高級参謀を務める南方軍は、ミンダナオ島ザンボアンガに待機中の海上機動第2旅団を、海軍艦艇によりビアク島に突入させる案を大本営に意見具申した。大本営陸軍部は、ビアクに兵力を投入しても同島の保持は時間の問題であり、「あ」号作戦にも悪影響を及ぼすおそれがあるとの判断により、この案に乗り気ではなかったが、海軍部は、なるべく長く同島を保持することにより、連合軍機動部隊を奥深く誘致する契機となるとの考えにより、突入案にむしろ積極的だった。こうした海軍の意向を踏まえて、いわゆる「渾作戦」の実施が決定された(のち中止)。また、積極主義をもって知られる第2方面軍司令官の阿南惟幾大将も、マノクワリの第2軍に対してビアク島への兵力増援を命じている。


3 歩兵第219連隊主力のヌンホル島進出(昭和19年6月)
 昭和18年9月に決定された絶対国防圏構想に沿って、西部ニューギニア方面には、北支から第35師団、第36師団の投入が予定された。このうち、同年11月に中支呉淞を出港した第36師団は、12月末に無事にサルミ・ビアクに到着できたが、翌19年4月に上海を出発した第35師団主力は、輸送途上で米潜の攻撃を受け、壊滅的な被害をこうむることとなった(いわゆる竹一船団)。

 これに対し、第35師団歩兵第219連隊(長:清水季貞大佐)は、師団主力に先んじる形で、3月27日に三池丸(11,738総トン)により青島を出港。横浜で東松5号船団に加わり、4月24日、第14師団将兵とともに無事パラオに到着した。その後、第1大隊をセントアンデレウ諸島守備隊として送り出した後、輸送船がないためしばらくパラオにて待機し、5月19日、重巡洋艦青葉、軽巡洋艦大井などに分乗してパラオを出発、翌20日にニューギニア島の西端ソロンに到着した。そして、大発に分乗してニューギニア北岸を夜間に東進し、一部被害を受けつつも、おおむね27日(米軍のビアク島上陸日)までにヌンホル島に到着した。

map02.JPG
(ヌンホル島の地図。クリックで拡大)

 冒頭に記したとおり、ヌンホル島は直径約20kmの円型に近い島で、外周は珊瑚礁に覆われていた。島の中央には約200mの高台があり、将兵はこれを「203高地」と呼んでいた。清水連隊長は島内の地形を偵察した上で、第2大隊(長:西原登一大尉)を島北部のカメリー飛行場に、第3大隊(長:西川隆興大尉)を島南西部のルンボイ地区に配置し、陣地構築を命じた。守備隊の本部は、両大隊の間に位置するカンサイに置かれた。

 一方この頃、ヌンホル島に隣接するビアク島では激戦が続いており、元々ヌンホル島に駐屯していた歩兵第222連隊第5中隊(長:引地一男大尉)や、マノクワリに所在していた歩兵第221連隊第2大隊(長:小澤久平大尉)などがビアク島に投入された。カメリー飛行場に布陣したばかりの歩兵第219連隊第2大隊にも、さらなる増援兵力として白羽の矢が立ち、6月14日夜、大発に分乗してビアク島へ送られていった。これによりヌンホル島の守備隊(ヌンホル支隊)は、以下の兵力で米軍の上陸を迎えることになった。

<ヌンホル支隊編成表(昭和19年6月30日)>
・支隊本部(歩兵第219連隊) 清水大佐 30名
・第3大隊本部  西川大尉  20名
   第9中隊   篠中尉 150名
   第10中隊 山後中尉 150名
   第12中隊 大塚中尉 150名
   第3機関銃中隊 児玉中尉 150名
  歩兵砲中隊  遠藤大尉 100名
  通信中隊   伊藤大尉  70名
  独立山砲兵第4連隊第6中隊 吉永中尉 100名
  野戦機関砲第41中隊 中山中尉 100名
  飛行場警備第36中隊  150名
・ビアク島転進予定の部隊(ヌンホル島待機中だったもの)
  第2大隊第6中隊(1小隊欠) 高橋中尉 100名
  西原大隊残員 20名
  小澤大隊残員ほか 10名
  引地隊残員 鎌田少尉 100名
(以上、戦闘部隊1,400名)

・師団通信無線1分隊 5名
・電信第24連隊の有線1小隊・無線1分隊 15名
・独立自動車第227中隊の1小隊 30名
・師団野戦病院 吉村軍医 20名
・建築勤務隊 30名
(以上、後方部隊100名)

・第102、117、119野戦飛行場設定隊
・第9台湾特設勤労団(注:台湾特設勤労団は、通例、内地人7名、台湾人1,000名により編成。第9勤労団は18年11月2日ヌンホル島着、飛行場造成に従事)
(以上、飛行場設定隊1,400名)

・船舶部隊(海軍第18警備隊) 約30名

以上合計 約3,000名
(注:以上は、歩兵第219連隊の部隊史である「目でみる聯隊」からの引用。ただし、戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」p503によれば、第47飛行場大隊の一部、第36飛行場中隊、第8航空情報隊及び第13野戦気象隊の一部もヌンホル島に所在しており、第102、117、119野戦飛行場設定隊と合わせて約600名だったとの記述がある)


 6月下旬に入ると、ヌンホル島に対する米軍の空爆が激化し、築城資材も届かない中で、陣地の構築はなかなか進捗しなかった。第2大隊の抽出により空白となったカメリー飛行場には、元々在島していた第102野戦飛行場設定隊がひとまず配置された。そして、7月2日に米軍が上陸したのは、まさにこの手薄なカメリー飛行場付近だった。


4 ヌンホル支隊の死闘(昭和19年7月)
 米軍は元々、ヌンホル島への上陸を予定していなかったが、昭和19年5月中旬、この方針は米軍の第5空軍の主張により変更された。すなわち、ヘルビング湾地区には十分な飛行部隊を展開させるための飛行場が不足していたが、ヌンホル島にはその適地が豊富にある、というのが第5空軍の見解だった。6月5日、マッカーサー将軍は、歩兵1個連隊で同島を攻略することを決定した。米軍は、日本軍の守備兵力を2,850名、そのうち戦闘員は1,600名と、ほぼ正確に推定していた。

 6月20日以降、米軍はカメリー飛行場に対して総計約810トンの爆弾を投下した。ヌンホル支隊では、野戦機関砲第41中隊が連日孤軍奮闘し、感状を三度授与される活躍を見せたが、戦況を覆すには至らなかった。そして、サルミ東方40kmのトエムで上陸訓練を積んでいた、エドウィン・D・パトリック准将率いる7,414名の米軍上陸部隊(第158連隊戦闘団基幹)は、6月29日に同地を出発し、7月2日午前6時半にカメリー沖に到着、艦砲射撃ののち上陸を開始した。ヌンホル支隊は、カメリー飛行場に配置されていた第102野戦飛行場設定隊が迎撃したが、水陸両用戦車を伴う優勢な米軍を拒止することはできなかった。

 2日午後、米軍の上陸はカメリー地区のみと判断した清水支隊長は、ルンボイ地区守備の西川大隊(吉永山砲中隊含む)をカメリーに招致するとともに、各地に分散している兵についても、日本人と名の付くものは全てカンサイの支隊本部に集結するよう命令を下した。元々清水支隊長は、敵を上陸させた後、橋頭堡が完成されないその日の夜襲戦で一挙に敵を粉砕する作戦計画を持っていたが、ルンボイからカンサイに至る一本の道路は敵機と艦砲射撃により執拗に攻撃され、西川大隊の将兵が損害を出しつつカンサイに到着したのは、翌日の明け方だった。

 7月3日になると、ようやく清水支隊長の下に続々と兵が集まってきた。一方、初日に得た日本軍捕虜から「ヌンホル島の日本軍は3,500〜5,000名」と聞かされていた米軍は、予備兵力としていた第503空挺連隊の将兵1,424名を、3日と4日に分けてカメリー飛行場に降下させた(捕虜の言葉が意図的な虚言なのか、単純に本人が混乱していたためなのかは不明の模様。なお、米軍は6日にルンボイにも上陸)。飛行場守備に当たっていた第36飛行場中隊は必死に防戦したが、兵力と装備の差は如何ともしがたく、3日午後に各施設やガソリンに火を放ち、炎の中で最後の一兵まで戦い続けて玉砕した。4日午前0時以降、日本軍は3時間に渡り夜襲を繰り返したが、遂に成功に至らず攻撃は中止された。

 7月4日も、米軍の砲爆撃は相変わらず激しく続いた。ヌンホル支隊では、その後も支隊長の下に集まってきていた兵を加え、今夜こそ敵の橋頭堡を覆さんと夜襲の準備を進めていた。ところが19時半頃、敵砲弾の飛来により、第3大隊長西川大尉、第10中隊長山後中尉らの将校が一瞬で戦死する悲劇的な事態が発生した。これを受けて、当時たまたまヌンホル島に来訪していた第2軍司令部情報班の小森正夫少佐が、夜襲部隊を率いることを申し出た。夜襲に出た小森部隊は突撃に突撃を繰り返し、ようやく第一線を突破したが、やがて天明を迎え、再び敵の猛砲火を受けて後退せざるを得なくなった。なお、第12中隊は第一線を突破した後、連隊一の鬼隊長と呼ばれた大塚中隊長を先頭に、中隊一丸となって万歳突撃を敢行し、敵の心胆を寒からしめたという。

 7月5日になり、戦闘部隊の大半を失った清水支隊長は、ついに最後の段階が来たことを悟った。この日は支隊の総力を挙げて夜襲を行い、後方部隊も銃を執れる者は第一線要員とし、支隊長自ら指揮して敵陣に突入、玉砕する覚悟を固めた。午後9時、マノクワリの第35師団司令部に最後の訣別電報を発したところ、すぐに以下の返電があった。

「連日ノ奮斗ニ対シ深甚ノ敬意ヲ表ス。ヌンホル支隊ハ決戦ヲ避ケ、ヌンホル島ニ持久健在シ、遊撃戦ニヨリ敵戦力ノ消滅ヲ企図スベシ」

 この命令を受けて清水支隊長は最後の突撃を中止し、残存将兵に対して、島内部の203高地に集結するよう命令した。


5 軍旗埋没・連隊長自決(昭和19年8月)
 7月7日、203高地に集結した支隊残存将兵は、敵の攻撃を受けて島西南の密林地帯に移動を開始した。この頃、清水支隊長が掌握した部下は、後方要員を中心に約500名だったという。その後、支隊は食糧確保のため、農園があると言われた島東南のイナシ方面に移動したが、敵の攻撃を繰り返し受け続けた。極端な栄養失調に苦しみつつ、8月18日にイナシの入江近くの湿地帯に辿り着いた時には、残存将兵は支隊長以下100名足らずに減少していた。

 そしてこの8月18日、清水大佐は、もはや支隊としてのまとまった行動は不可能であることを見定め、軍旗の奉焼を決意した。しかし、支隊には既に一本のマッチすらない状態となっており、やむを得ず将兵は湿地帯に深く穴を掘り、軍旗を埋没処理した。ヌンホル支隊の奇跡的な生還者の一人である藤井清氏(歩兵第219連隊通信隊員)は、濠北書所収の手記の中で、この時の模様を以下のように綴っている(なお、原文を現代仮名遣いに改めた)。

「…やがて軍旗は清水大佐の手により厳に埋葬された。終わって清水大佐は部下全員を身近に集め、静かに諭した。

『もはや時が来た。最後まで軍旗を守り抜いた事がせめてもの慰めである。軍旗をこの地に埋葬し、余は死して鬼神となり、軍旗のお供をする。皆はこの苦しい戦に、良く最後まで奮闘してくれた。何も悔を残すところは無い。自分が自決しても、決して自分の跡を追う事は許さない。必ず生き延びて、もう一度陛下のお役に立つよう心から願うものである』

と諄々とさとす言葉は神の声の如く、慈愛に満ちた父の如く、我々の胸を抉った。語り終わった清水大佐の面差の上には今までの苦悩の色もいつしか消え、部下将兵に会釈を送りつつ、只一人静かに灌木の林の中に消えて行った。やがて朝靄をやぶるピストルの銃声一発、従容として南国の鬼と化した。後に残された者は連隊長の冥福を祈り、いつまでも深くうなだれていた。やがて遠藤大尉(注:大隊長代理)は、

『我々は連隊長の命を守って生きぬくべきである。これからは全員一緒に行動する事は、敵の目にもつき危険であるから、これにて一応部隊の編成を解く。二人でも三人でも気の合った者同志で行動し、各自自重して、決して生命を無駄にする事のないように』

 聞き終っても誰一人として立上る者とてない。二度、三度と促され、やっと二組、三組が立ち上った。『隊長殿お元気で…』『お前にも随分世話になったな、元気で暮してくれよ』手を取り合って泣いた。共に何度も死線を越えた仲である。声はつまり、いつしか烈しい嗚咽となった。誰しもこの時ばかりは共に自決したかった。おそらく連隊長の制止がなければ全員が跡を追って自決して行った事であろう。

 別れ別れになってからは敵に発見されぬようジャングルに潜み、すきを見ては農園に出て食糧をあさった。しかしこれも永続きはせず、敵弾に、あるいは病に、栄養失調にと倒れ、又は敵軍に捕えられる者、毎日のように二人、三人と消えて行った。かくして終戦当時生き残っていた者は僅か11人であった」

 なお、支隊将兵の戦没日は、夜襲の行われた7月4日か、この8月18日で認定されている例が多いようである。


6 支隊解散後(昭和19年8月〜)
 8月18日にヌンホル支隊が解散した後も、ヌンホル島に関わる動きはいくつかあった。簡単な概要のみ、以下に列挙する。

(1)ヌンホル島からの脱出
 7月22日、ヌンホル島の清水支隊長は、戦況をマノクワリの上級司令部に報告するため、挺進連絡班として下士官以下9名に脱出を命じた。彼らのうち3名は、敵の警戒網をくぐり抜けて海岸に到達し、筏を作り島を脱出。その中の1名である加藤兵長のみが、出発後約40日の9月2日に、マノクワリ南方10kmの海岸に奇跡的に漂着した。加藤兵長はマノクワリ司令部に、「軍旗を奉持するヌンホル支隊長以下約500名はカメリー東南方高地附近にありて健闘しあり」と報告したが、この時点で既に、支隊は解散していた。

 また、マノクワリ〜ヌンホル島〜ビアク島間の舟艇輸送に携わり、米軍のヌンホル島上陸時に島に滞在していた第5揚陸隊の将兵の一部が、敵機の厳しい哨戒を突破し、マノクワリへの帰還に成功している(7/12に大発にて13名、7/25に折畳舟にて5名が帰還)。


(2)上級司令部の動き
 7月2日の米軍ヌンホル島上陸を受けて、ヌンホル島から目と鼻の先にあるマノクワリの第2軍司令官は、同月4日に空路で南方ムミへ脱出、次いで舟艇でイドレへ移動した。取り残された第2軍後方部隊は、陸路にてマノクワリからイドレを目指し、いわゆる「イドレ死の行軍」を引き起こした。

 また、マノクワリには、第2方面軍附の深堀游亀少将がマノクワリ支隊長として残留し、歩兵第221連隊主力、独立山砲兵第4連隊主力、独立工兵第15連隊主力などの多様な部隊を統括した。その中から、「南の島に雪が降る」で知られるマノクワリ歌舞伎座が生まれることとなった。


(3)挺進連絡隊の派遣
 米軍上陸5日後にヌンホル島との通信が途絶え、支隊の現況が不明となったため、8月上旬頃、第2軍司令官はマノクワリ支隊長に対して、ヌンホル島への決死挺進連絡隊の派遣を命令した。これを受けてマノクワリ支隊では、ヌンホル島周辺の海路を熟知していた第14師団海上輸送隊の鈴木雄二中尉を隊長とし、第5揚陸隊の大発乗組員4名、歩兵第219連隊所属の歩兵11名、通信兵4名、衛生兵1名、第36師団海上輸送隊兵1名、第14師団海上輸送隊兵2名、合計24名(大発1隻)からなる挺進連絡隊を編成した。

 この挺進連絡隊は、8月29日に夜陰に乗じてマノクワリを出発、付近のミオスヌム島に仮泊し、偵察機や魚雷艇に細心の警戒を行いつつ好機を待った。そして10月11日、出発以来初めての雨天を利用してミオスヌム島を出発(通信隊は残置)、翌日未明にヌンホル島のバウエ湾入口で大発艇長以下7名を帰し、鈴木隊長以下12名は大発に搭載していた折畳舟でイナシ北方に上陸。密林内を進み、203高地やカメリー飛行場南部を捜索した結果、上陸3日目に兵8名と遭遇し、支隊長が軍旗に殉じたことを聴取。19日にヌンホル島を折畳舟で出発、ミオスヌム島で通信兵ら5名を回収し、出発から丸2か月を経た11月2日にマノクワリに帰還、第2軍司令官から賞詞を受けた。敵の制海権・制空権下で、敵が占領する島への潜入に成功し、連絡任務を果たして生還したことは、ほとんど奇跡に近い出来事と言ってよいであろう。なお、同時期にビアク島にも同様の挺進連絡隊が派遣されたが、こちらは未帰還となっている。


(4)日本軍機の攻撃
 7月8日、米軍は早くもカメリー飛行場の使用を開始した。同日夜、飛行第75戦隊はカメリー付近の海岸に停泊中の艦船群を2機で爆撃し、輸送船1隻に命中弾を、別の艦艇1隻に至近弾を与えた。しかし、その後のヌンホル支隊の状況が不明であったため、第7飛行師団はひとまずヌンホル島への攻撃を中止した。

 8月に入り、第7飛行師団は、ヘルビング湾に蝟集する敵軍機を再び攻撃することとした。8月4日夜、飛行第75戦隊は双軽延べ6機をもってビアク・ヌンホルを攻撃し、ヌンホル島カメリー飛行場ではP38を10機以上撃破した旨報じた。また8日、飛行第61戦隊の百式重爆1機がヌンホル島のナンベル飛行場を爆撃し、夜間戦闘機1機の撃墜を報じた。

 さらに9月、第7飛行師団は、重爆9機からなる「雁部隊」の編成を命じた。これは、ヘルビング湾に対する夜間の遠距離攻撃を行い、米軍の比島進攻準備を妨害する目的で臨時編成した部隊であり、飛行機は飛行第12戦隊から九七重爆9機を、要員は第12戦隊から4機分、第62戦隊から5機分を抽出し、部隊長には第62戦隊第2中隊長の伊藤忠吾大尉が選ばれた。部隊要員は10月1日にセレベス島ビンランに進出して第7飛行師団長の指揮下に入り、同月9日、同師団の吉満作戦主任参謀を乗せてカイ諸島ラングールに進出。同日24時にラングールを出発、攻撃目標のヌンホル島近くで編隊を解き、単機ごとに緩降下して飛行場を爆撃。奇襲は成功し、2か所炎上を報じた後、全機カイ諸島経由でティモール島のラウテンに退避し、のちビンランに帰還した。

 そして数日後、今度はビアク島に対して第二回攻撃を行う予定だったが、ニューギニア山系付近の天候が悪く、攻撃隊は反転帰還した。奇襲を旨とするこの攻撃は以後慎重に検討され、結局、雁部隊の攻撃はヌンホル島への1回だけで終わることとなった。


(5)終戦後
 終戦後の昭和20年9月、マノクワリ支隊はヌンホル島とビアク島に捜索隊を派遣し、生存将兵の捜索に努めた。その結果、ヌンホル島では軍曹以下11名の生存将兵を発見した。「目でみる聯隊」と「轍 歩兵第二百十九聯隊外史」、そして濠北書の3冊に、これら11名のうち3名の生存将兵の手記が掲載されており、救出までの飢餓生活などについて綴られている。また、米軍側の記録によれば、ヌンホル島ではこの他に186名の日本軍捕虜と、550名以上の台湾人労務者が収容されたという。


7 おわりに
 隣接するビアク島の戦いが有名なためか、ヌンホル島の戦いは、これまで振り返られる機会がほとんどなかったように思われる。守備兵力も少なく、陣地構築の余裕もない戦いだったため、ヌンホル支隊が米軍に与えた打撃は必ずしも大きくはなかったが、本稿に示したとおり支隊は清水大佐以下よく団結し、優勢な敵を相手に立派に敢闘している。この島で戦没した多数の将兵のためにも、こうした戦いがあったことは、歴史の中に明記されて然るべきであろう。


<参考文献>
・斎藤貞二編「目でみる聯隊」(非売品、1981年)
・「轍」編集委員会編「轍 歩兵第二百十九聯隊外史」(非売品、1987年)
・第五揚陸隊戦史編集委員会編「暁 濠北派遣(西部ニューギニア)第五揚陸隊戦史」(非売品、1984年)
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」(非売品、1956年)
・田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍」(ゆまに書房、2009年)
・戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」(朝雲新聞社、1969年)
・戦史叢書「豪北方面陸軍作戦」(朝雲新聞社、1969年)
・Smith, Robert Ross (1953) "Operations on Noemfoor Island"


posted by A at 22:33| 戦史雑記(日本軍) | 更新情報をチェックする

2020年02月24日

【本】前田耕作「バクトリア王国の興亡」

「バクトリア王国の興亡」 前田耕作/ちくま学芸文庫/2019年

 紀元前3世紀から2世紀にかけて中央アジアに存在したギリシャ人国家、バクトリア王国の通史を描いた本。

 アレクサンドロス大王の東征により誕生したヘレニズム国家の一つ、バクトリア王国の歴史を概説した本である。滅亡から二千年以上経ち、その実態を十分に知られていないこの王国について、さまざまな歴史書に残る断片的な手掛かりを踏まえつつ、歴代の王の事績や周辺国家との抗争の模様などを描き出している。聞き慣れない固有名詞が多く、読み進めながらやや戸惑う面もあるが、西にセレウコス朝シリアやパルティア、南にマウリヤ朝、北に遊牧民族などを抱え、困難な国家経営を強いられたバクトリア史の全体像を把握できる内容になっている。

 また、本書の最後の一章では、18世紀以降の考古学者たちが、この王国の姿を明らかにしていった経緯が詳述されている。それによれば、元々バクトリアに関心が寄せられたのは、諸王の名前や肖像が記された古代貨幣が次々に発見されたことがきっかけなのだという。そして、そうした古銭をカタログ化するとともに、王譜の編史が試みられ、それらを参考にしつつ考古学的な発掘が進められていったのだそうだ。ギリシャから遠く離れた中央アジアにギリシャ系の王国が建設され、東西文明の交差点で諸王朝に翻弄されながらも国家を維持し、最後には周辺勢力の侵攻により滅亡していったという歴史に、多くの学者たちがロマンを抱いた気持ちはなんとなく分かるような気がする。


posted by A at 18:35| 本(歴史) | 更新情報をチェックする

2020年01月26日

【本】池部良「ハルマヘラ・メモリー」

「ハルマヘラ・メモリー」 池部良/中公文庫/2001年
(初版は、1997年に中央公論社から刊行)

 大戦中に陸軍に召集され、中国戦線からハルマヘラ島に転戦した記録を綴った戦記。

 俳優として活動中に召集されて輜重兵となり、のち保定予備士官学校を卒業して、第32師団衛生隊第2中隊(輜重)の第1小隊長を務めた著者による戦記である。昭和の名優かつ名エッセイストとして知られる著者は、軍隊経験を回顧した本を何冊か上梓しており、本書では、中国山東省の第32師団に見習士官として着任した後、輸送船で赤道直下のハルマヘラ島に送られ、終戦を迎えるまでの経緯を描いている。幸いハルマヘラ島には米軍の上陸は無かったため、著者は生きて日本へ還ることができたが、それでも輸送船が撃沈されて海上を漂流したり、ハルマヘラ上陸後に敵機の襲撃を受けたりするなど、九死に一生を得る体験を経ており、本書ではその模様を詳しく述べている。

 この本の中で特に強い印象を受けるのは、全編を通じて生々しく描かれている、軍隊における人間関係の苦労についてであろう。大卒のため短い軍隊経験で将校になってしまった著者に対する、下士官たちの激しいやっかみや陰湿な嫌がらせ、あるいは著者ら予備士官学校卒の将校を露骨に軽侮する、陸軍士官学校出の無能な将校たちなど、著者が体験した辛苦が詳細に綴られている。現代の大組織でも多かれ少なかれ生じる現象ではあるが、本書のこうした記述を通して、当時の軍隊生活の理不尽さをありありと追体験することができる。

 なお、著者はいわゆる竹一船団でハルマヘラ島に進出しているが、本書に記された船団の被害と実際の被害は大きく食い違っている。海上を長時間漂流した割に、著者の小隊の各分隊員が全員無事だったり、現実には大損害を受けた砲兵連隊が無傷だったと述べられていたりするなど、本書には結構脚色が入っている印象も受けた。第32師団の各部隊長も軒並み仮名で表記されており、同師団に関する事実関係が必ずしも正確に書かれていない点については、注意が必要であろう。


posted by A at 18:25| 本(戦記) | 更新情報をチェックする

2019年12月29日

【本】石原俊「硫黄島 国策に翻弄された130年」

「硫黄島 国策に翻弄された130年」 石原俊/中公新書/2019年

 明治期の領有・入植から旧島民の戦後の暮らしまで、硫黄島にまつわる近現代の通史を描いた本。

 太平洋戦争中の激戦で知られる硫黄島について、どのように日本人が移住・プランテーション化したのか、住民たちが島でどんな生活を送っていたのか、それを戦争がどう変えたのかなどを追った一冊である。現代ではほとんど知られていない戦前の硫黄島社会の実態を、さまざまな史料と旧島民の証言を踏まえて明らかにしており、何年にもわたってこのテーマを研究してきた著者の労力の膨大さが窺われる内容となっている。

 本書によれば、昭和初期の硫黄島では、拓殖会社による労働・生活全般への厳しい管理統制が行われながらも、島民たちは比較的豊かな食生活を送っていたという。それは、会社での労働のほかに、農業・畜産・漁業などにより自給用の食糧を十分に確保できていたためなのだそうだ。両親が拓殖会社の小作人だったというある旧島民は、「島では贅沢しましたよ。最高に、贅沢しましたね。肉も不自由したことありません。食料にも不自由したことないです」との証言を残しているが、プランテーションの小作人という境遇からはややかけ離れた印象の発言であり、少々面食らう部分もある。恵まれた硫黄島の自然環境が、それだけ食料の獲得・生産に向いていたということなのだろうし、戦時中に強制疎開させられた島民たちが、戦後も帰還を望み続けた理由の一端を垣間見たようにも思った。


posted by A at 00:10| 本(新書(その他)) | 更新情報をチェックする

2019年11月10日

牧野四郎中将(第16師団長)はカンギポット山へ辿り着いたか

 昭和19年10月の米軍上陸から翌20年8月の終戦まで、フィリピン戦線のレイテ島で、太平洋戦争の天王山と呼ばれた激戦が行われた。この戦いには日本軍将兵84,006名が投入されたものの、敗軍の多くは島から撤退することができず、ほとんど玉砕に近い結末を迎えている。

 このレイテ島の戦いに参加した師団の一つに、京都編成の第16師団がある。昭和19年10月20日に米軍がレイテ島に上陸した際、第16師団は島の東岸のタクロバン付近でこれを迎え撃ったものの、2名の歩兵連隊長が戦死するなど甚大な損害を受けている。その後、師団は島の内陸へ後退し、12月には和号作戦(ブラウエン飛行場への攻撃作戦)に参加。20年1月以降は飢餓に苦しみつつ島中央部の脊梁山脈を転進し、島の西端のカンギポット山を目指したと言われているが、生還者が極端に少ないため、終末期の師団の模様についてはよく分かっていない。

 そして、第16師団を率いた牧野四郎中将についても、その最期の状況は不明のままである。戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」には、牧野中将は昭和20年3月下旬にカンギポット山に到着し、8月10日頃自決したとする記述があり、また、中将の遺族の元には7月15日付の戦死公報が届けられている。しかし、牧野中将のご子息である牧野弘道氏(元・産経新聞編集委員)によれば、前者は「確認された事実に基づく記述ではない」、後者は「命日がどうしても特定できないので、諸情報を総合して7月15日とされたもの」として、いずれも信用に足らない情報と見なしている。捕虜になって生還した第16師団の将兵の中にも、「牧野中将がカンギポット山に辿り着いたとは思えない」と主張する人もおり、もはや正確な事実関係を掴み得ないのが実情である。

 今回は、第16師団の数少ない生還者の証言を踏まえつつ、昭和20年の牧野中将の動向に関する手掛かりを、できる限り追いかけてみたい。


1 中嶋建之助上等兵(歩兵第9連隊通信中隊)の証言
 中嶋氏は、第16師団のカンギポット山への転進途中に落伍し、昭和20年2月23日にイピル南方で捕虜となった人物である。戦後は戦友会関係の活動を積極的に行い、様々な書籍に多くの証言を残している。和号作戦以降の第16師団の行動経過について、中嶋氏は以下のように記録している。

・昭和19年12月11日 和号作戦中止後、第16師団はブラウエン西北方のマフナグ山(1,349m)に後退。第35軍司令部からカンギポット山への集結命令が伝わらなかったため、師団はその後1か月に渡り、マフナグ山付近で露営生活を送る。この頃、師団の総兵力は約600名。飢餓や悪疫のため、衰弱死する者が続出
・12月28日 第35軍参謀の高橋公平少佐の証言によれば、この日、高橋参謀がマフナグ山南方の287高地で牧野中将に会ったとされているが、中嶋上等兵は「牧野師団長が287高地に赴いた事実はない」としてこれを否定
・昭和20年1月 牧野中将は独断でオルモックへの転進を決意
・1月初旬 第1梯団(師団情報参謀の宮田中佐を長とする、歩兵第33連隊第7中隊長出口大尉以下の約30名)がマフナグ山を出発
・1月10日 第2梯団(牧野師団長以下約300名)がマフナグ山を出発
・1月15日 第3梯団(歩兵第9連隊長神谷保孝大佐以下117名。中嶋上等兵含む)がマフナグ山を出発。なお、戦史叢書では、神谷連隊長は「12月8日ブラウエン飛行場で戦死」と認定されているが、この1月時点で神谷連隊長が生存していたことは、複数の生還者の証言から確実と見られる
・1月中旬 第1梯団はオルモックの東のダナオ湖南方に到着
・1月中〜下旬頃? 第2梯団はダナオ湖を迂回して北上。「師団司令部はほとんどばらばらになっていた」「牧野中将は、オルモック高地付近で手製のカゴに乗っていた」という生還者の証言がある模様
・1月下旬 第3梯団はダナオ湖南方に到着。転進路はいわゆる「白骨街道」の様相を呈しており、梯団の残存将兵は約80名に減少。神谷連隊長も衰弱が目立つ。
 この頃中嶋上等兵は、50日も前にオルモックが米軍に占領され、軍司令官以下多くの部隊が島の北部に退却を終えている事実を初めて知り驚愕。今後の転進に耐える自信を失い、部隊から落伍
・2月中旬 各所で米軍の攻撃を受けつつ北上していた第2梯団は、この頃、バレンシアとカナンガの中間でオルモック街道の突破を図った模様
・2月23日 中嶋上等兵は、イピル南方カオントグ付近でゲリラに捕えられる

 中嶋氏は、生還した関係者の話などを総合した結論として、3個梯団はいずれもカンギポット山に辿り着く前に全滅し、牧野師団長はバレンシア付近で、神谷連隊長はダナオ湖東方で戦死したものと推定している。なお、転進中に行き倒れ、米軍に収容されて生還した将兵が、第1梯団に1名、第2梯団に7名、第3梯団に5名いたとのことである。


2 櫟(いちい)賢哲少尉(第16師団司令部参謀部付)の証言
 櫟少尉は滋賀県の寺の僧侶で旧制大阪外国語学校の出身であり、英語ができたため参謀部付になった人物である。米軍のレイテ上陸後、相次ぐ前線指揮官の戦死により牧野中将の歴代副官がその後任に補充されたことから、第16師団がマフナグ山付近に到着した後、櫟少尉が牧野中将の副官に登用されている。

 戦後、櫟少尉が残した記録によれば、転進命令が伝わらないままマフナグ山付近にとどまっていた第16師団は、牧野中将の決断で昭和20年1月15日に転進を開始。2月上旬頃、第2梯団と第3梯団は合流しており、歩兵第9連隊の連隊旗手がこの頃戦死したため、師団司令部から代わりの将校を出したという。その後、体力が尽きて落伍した櫟少尉は、2月17日、意識朦朧となってオルモック街道付近をさまよううちに米軍の捕虜となっている。


3 加瀬弥五郎伍長(第16師団経理部)の証言
 牧野中将の子息である牧野弘道氏は、自著の中で、「私にとって間違いなく父が生きていたというあかしは、父の副官だった櫟少尉が落後してオルモック街道で捕虜になった日を手記に記録した二十年二月十七日までで、それ以降は信頼するに足る情報はほとんどない」と述べている。

 しかし、昭和20年7月頃にカンギポット山付近で牧野中将を目撃したとする証言が、平成7年になって明らかにされている。その証言を残した加瀬弥五郎伍長は、第16師団経理部所属で教育隊の班長を務めていた人物であり、米軍上陸前は、タクロバン市内で各部隊から派遣された幹部候補生十余名と起居を共にしていた。昭和19年10月20日の米軍上陸時には、北川支隊(師団後方参謀の北川少佐を長とする、師団軍医部、経理部、病馬廠など後方勤務の将兵により臨時編成された混成部隊)の分隊長として米軍を迎撃。激戦の結果、支隊将兵は20〜21日の2日間で200名から50名以下に激減している。

 その後、加瀬伍長は米軍とゲリラを相手に悲惨な戦闘を続け、昭和20年7月頃にカンギポット山に到着。牧野師団長ら本部将校と行動を共にしていたという、経理部の同僚の川田伍長を同地で見かけるが、伍長は声をかけても返事ができないほど衰弱していた。そしてその近くでは、牧野師団長が数人の兵隊に支えられていた、との証言を残している。加瀬伍長はそのままカンギポット山で終戦を迎え、生還している。

 余談ながら、第16師団の兵士がカンギポット山付近で終戦を迎えた事例は他にもある。歩兵第33連隊第1大隊の屋敷伍美氏は、昭和20年6月頃にカンギポット山に到着。3〜5名のグループで食糧を探して海岸のビリヤバ方面へ移動するうちに終戦を知り、米軍に投降している。なお、屋敷氏は、第1大隊長の鎌田義信大尉(戦死公報は昭和19年10月21日付、パロ付近)をカンギポット山で目撃しており、鎌田大尉と屋敷氏の班長が交わした会話の内容も記憶している。先の神谷連隊長もそうだが、レイテ戦で早い時期に戦死認定が出されている人物が、実際はその後も生きていた、というケースは少なからずあるようである。


4 東嶋登大尉(第26師団独立歩兵第12連隊副官)の証言
 直接の目撃証言ではないが、第26師団から生還した東嶋登大尉が、昭和20年7月頃に牧野中将がカンギポット山付近に所在していたことを窺わせる証言を残している。

 東嶋大尉によれば、昭和20年7月6日、第26師団の生き残り19名は、師団の最後を報告するため、栗栖猛夫師団長以下3名はレイテの軍司令部(南部カルブゴス山の牧野中将)へ、加藤芳寿参謀長以下7名はセブの軍司令部(第35軍)へ、東嶋大尉以下9名はルソン島の方面軍司令部へ向かうこととした。これを踏まえれば、この時点の第26師団の生存者は、当時牧野中将が南部カルブゴス山に存在していることを認識していたことになる。栗栖師団長が牧野中将の元へ辿り着けたかどうかは不明である。


5 まとめ
 昭和20年の牧野中将、特に2月から6月頃にかけての中将の動向に関する証言はほとんど欠落しており、もはや解明することは困難と考えざるを得ない。しかし、以上の3と4の証言を合わせて考慮すれば、昭和20年7月頃に牧野中将がカンギポット山付近で生存していたことを推測させる証言は複数存在しており、生存の蓋然性は一定程度あると見て良いのではないかと思われる。
 いずれにせよ、第16師団も、レイテ島の戦いに参加した他の部隊と同様、その最後の模様は明らかでない。1個師団の終末すら不明という事実に、この戦場の悲惨さが如実に表れていると言えるだろう。


<参考文献>
・中島建之助「レイテの挽歌」(ビサヤ会)
・牧野弘道「戦跡に祈る」(産経新聞社)
・筒井忠勝「レイテ生き残り記」(同時代社)
・小橋博史「レイテ涙雨」(中日新聞社)
・田中賢一「レイテ作戦の記録」(原書房)
・大岡昇平「レイテ戦記」(中公文庫)
・戦史叢書「捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦」(朝雲新聞社)


(2020.1.19追記)
 「陸軍公主嶺学校と星兵団」(星兵団戦友会編)という本に、
「カンギポット周辺の軍主力(中自活隊)は、三月下旬頃から逐次カルブゴス方向に移動を始め、牧野中将も10名内外の将兵とともに同方面に移動した」
との記述があった。この記述の根拠となった証言が何であるかは不明だが、他の文献等に出てこない情報であるため追記しておく。


posted by A at 12:35| 戦史雑記(日本軍) | 更新情報をチェックする