2019年03月31日

【本】鈴木伸元「反骨の知将 帝国陸軍少将・小沼治夫」

「反骨の知将 帝国陸軍少将・小沼治夫」 鈴木伸元/平凡社新書/2015年

 日本陸軍で戦史研究に長く従事し、太平洋戦争開戦後はガダルカナル戦やルソン戦で作戦指導を行った軍人、小沼治夫の生涯を追った本。

 参謀本部戦史課員、同戦略戦術課員、第2軍作戦参謀、陸大教官(兼ノモンハン事件研究委員会メンバー)、参謀本部戦史課長、第17軍作戦参謀、陸大教官、第14方面軍参謀副長、第12方面軍参謀副長などを務め、戦史畑や作戦系統の職務に携わり続けた軍人、小沼治夫を取り上げた一書である。理系的な素養を備えた小沼が、戦史研究を進める中で、陸軍の日露戦争観が精神主義に偏重していること、ノモンハン事件ではソ連の物質主義に圧倒されたこと、近代戦への備えが喫緊の課題であることなどを、データを駆使しつつ理性的に主張していく様子が、本書には詳しく描かれている。こうした小沼の仕事ぶりからは、精神力を重視する陸軍の空気に流されない合理性や、自らの職務に対する責任感の強さがうかがわれるが、組織の常識に真っ向から挑戦する彼の研究成果は批判にさらされ、上司からも不興を買う結果となった。

 そして、太平洋戦争が始まり、近代戦に関する小沼の危惧が的中してくると、皮肉にもようやく彼の見識が注目され、最重要方面の作戦担当参謀に抜擢されることになる。しかし彼の登用は、もはや遅きに失した感が否めないものだった。装備の劣弱と補給の欠乏に苦しんだガダルカナル戦やルソン戦で、精神力に頼った作戦指導を行わざるを得なくなった小沼の姿は、一種の悲劇と言うほかない。戦争が劣勢に傾いてくると、ガダルカナルで戦った小沼や、彼の上司を務めた宮崎周一、沖縄作戦を立案した八原博通のような戦史畑の軍人が表舞台に出てくるようになるが、彼らの合理性がもっと早い時期に活かされていれば、戦いの趨勢もまた違ったものになったのかもしれない。

 なお、本書には事実関係の誤記が散見されるほか、ルソン戦での小沼の仕事ぶりに関する記述が十分でない。昭和20年春頃の小沼は、ルソン島バレテ峠・サラクサク峠の防衛線を支えるために、退却してくる雑多な部隊を片っ端から歩兵大隊に再編成し、その臨編大隊の数が26個にも達したという極めて困難な仕事に従事しており(牧野弘道「戦跡を歩く」)、彼がこの難しい職務にどう取り組んだのか、是非とも掘り下げてほしかったところではある。
 その一方で、本書に取り上げられた小沼のエピソードの中には、興味を惹かれるものも少なからずあった。第14方面軍がルソン島の山岳地帯に追い込まれつつあった昭和20年6月に、彼がどうやってルソン島から東京へ転勤できたのか、以前から疑問に思っていたのだが、本書によれば、壊れた機体から組み立てた航空機で夜間にエチアゲを出発し、台湾、上海、米子で給油して宇都宮に至り、宇都宮から陸路で東京へ帰還したのだという。その他にも、小沼の家庭環境に関する逸話などが多く紹介されており、戦史には現れない彼の人となりをうかがい知ることができた。

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2019年03月10日

【本】白水清治「激戦ニューギニア」

「激戦ニューギニア」 白水清治/光人社NF文庫/2018年
(初版は、2010年に元就出版社から刊行)

 昭和18年5月に東部ニューギニアに上陸し、フィンシュハーフェンの戦い、セピック転進、アイタペの戦いなどを後方支援しつつ終戦まで生き延びた、第20師団歩兵第78連隊の主計曹長の戦記。

 陸士出身将校の指揮の拙劣さや臆病さ、軍律違反が不問に付される不公平さなどを厳しく糾弾した、かなり異色の戦記である。幹候・下士官出身の大隊長や中隊長が勇戦敢闘した一方で、陸士出身将校はおよそ役に立たなかったという感情的な批判に終始しており、一般的にはその統率・人格を高く評価されている第18軍司令官・安達二十三中将についても、相当強い調子で非難を行っている。
 しかし、著者によるこれらの人物評価や状況描写は、必ずしも正確でない部分が見られるように思われる。その例として、以下の3点を挙げる。

1 歓喜嶺の戦いについて
 昭和19年1月頃に、第20師団・第51師団のガリ転進を援護する目的で行われた歓喜嶺の戦いで、歩兵第78連隊第6中隊(長:片山真一中尉、陸士出身)は豪軍をよく防ぎ、残兵20名程度を残して壊滅している。
 この戦いにおける片山中隊長の様子について、著者は以下のように記している。

「片山中尉は、一体どこで何をし、どんな戦死をしたのか一切が不明である。屯営時代は肩を怒らせ、辺りを睥睨し、威勢天を突き、兵を塵芥のように接したあの勢いは、弾丸の下で萎え、縮んでしまったのか…?」

 同じく歓喜嶺で戦った大畠正彦大尉(野砲兵第26連隊第3中隊長)が著した「ニューギニア砲兵隊戦記」(光人社NF文庫)によれば、この片山中尉の最期の模様は、第一線の様子を把握するため壕を出て高地に登ろうとしたところを敵に狙い撃ちされ、山の急斜面を真っ逆さまに転落したと記録されている。歓喜嶺の前線にいなかった著者が、こうした状況を把握していなかったことはやむを得ないにしても、実情を詳しく知らないにもかかわらず、まるで片山中尉が臆病風に吹かれたかのような書き方をすることは、戦死した片山中尉にとっても極めて不公平ではないかと思われる。

 また、この歓喜嶺の戦いでは、守備隊長の香川昭二少佐(歩兵第78連隊第2大隊長、少候出身)はマラリアで病臥して役目を果たせず更迭されているが、にもかかわらず著者は香川少佐を高く評価している。また、上述の大畠大尉(陸士52期)率いる野砲兵第26連隊第3中隊は、山砲わずか2門で豪軍の野砲1個連隊(27門)と渡り合い、見事な戦功を立てているが、著者はこのことに全く言及していない。これらも、公正を欠いた記述と言うべきであろう。

2 サテルベルク高地攻防戦について
 昭和18年10月頃、フィンシュハーフェン近郊のサテルベルク高地をめぐる攻防戦について、直接戦闘に参加していない著者は、関係者の手記などを引用しつつ、かなり独自の解釈を加えてこの戦いの様子を書き下している。その中でも、歩兵第79連隊第2大隊長の竹鼻嘉則少佐や、竹鼻少佐戦死後に大隊の指揮を執った福家隆中尉(いずれも陸士出身)が、攻撃命令に従わず前進を遅滞させたとして、「不可解で怯懦」「蛸壺に潜むこと五日間。『武学十年、我れ土遁の術を極めたり』」などと、かなり品のない表現で批判している。

 しかし、福家中尉(のち少佐。戦後、戦誌刊行会代表として各種戦記を精力的に刊行)が著した「痛恨の東部ニューギニア戦」には、実際に戦場でどのように苦労して密林内を転進し、どのように接敵・交戦し、どのように周囲の将兵が戦死・負傷したかが詳細に描かれている。その内容は具体的で真に迫ったものであり、福家中尉が故意に交戦を厭ったとは考えがたい。
 また、10月20日から24日にかけての戦闘で福家中隊が蛸壺に立てこもったことを、著者は「土遁の術」と揶揄しているが、福家手記を見る限り、敵の猛烈な銃火の前に釘付けにされたのが実情であろう。蛸壺から出た者が一斉射撃を食らい、負傷者続出している様子を見ても、著者が要求するような「他大隊との連携攻撃」が容易に行えるような状況ではなかったように思われる。この戦闘に関しては、後方にいた著者による憶測を交えた記述よりも、第一線で砲火にさらされていた福家中尉の記録の方を信用すべきではないかと考えられる。

3 アイタペの戦いについて
 昭和19年6月、第18軍司令官・安達二十三中将がアイタペ攻撃を発起したことについて、著者は、

「安達中将は大命に抗し、兵を勝手に動員(私兵化)し、自己の時局観に酔い、兵を死地に投ずることなどまったく意に介せず、攻撃命令を発した。
 この瞬間、天皇→大本営→南方軍総司令部→第十八軍に連なる統帥系統の命令を、自ら断ち切り、自己の価値観・時局観により、恣意的に戦闘開始命令を発したのである。したがって、それ以後の安達二十三は、日本の陸軍中将に非ず、ただの軍閥『安達軍』の首領となったのである」

と、激越な調子で非難している。

 アイタペ戦の意義・必要性については、確かに批判的な見解が少なくない。また、フィンシュハーフェンの戦い、ガリ転進、セピック転進を生き延びてきた第20師団の精鋭将兵が、アイタペ戦で一気にすり潰されていく様子は、本書を読んでいても極めて悲惨としか言いようがない。
 ただ、著者は、大陸命第1030号(昭和19年6月17日)の「…第十八軍その他の諸部隊をして同方面の要域に於て持久を策し以て全般の作戦遂行を容易ならしむべし」の一文を引用し、

「大命(天皇の命令)は『持久を策し』であって、自由裁量を安達中将に与えられたものではない。隷下部隊を私兵化した安達中将以下各幕僚こそ『まさに軍法会議もの』である」

として、安達中将を「『大命違反』の大反逆罪」と批判するが、この大陸命に関する大本営の真意は、

「結局、第十八軍のアイタペ攻撃に関しては、その実行を中央から命令し、あるいは逆に中止を命令するような指導を行わず、ただ第十八軍司令官が自由に状況を判断し、その所信に従って善処し得るように、包括的な任務を与えることとした」(戦史叢書「南太平洋陸軍作戦<5> アイタペ・プリアカ・ラバウル」p97)

というものであり、著者の主張は曲解と言わざるを得ない。
 また、第18軍の軍需品が残存するのは8〜9月末頃までと予想される状況下で、敵をニューギニアに拘束し、戦局全般に寄与することが作戦の大きな目的であったこと、また作戦発起までに安達中将が深刻に苦悩したことなどは、上掲の戦史叢書のほか各種の戦記にも記されている。このような事実関係を考慮すれば、「兵を勝手に動員(私兵化)し、自己の時局観に酔い、兵を死地に投ずることなどまったく意に介せず…」という著者の安達中将評は、さすがに目に余るものと言うべきであろう。

 以上の1〜3を踏まえれば、本書は、「陸士出身将校は無能・臆病、それ以外の将校は優秀」という著者の個人的な思い込みに記述内容を合わせようとするあまり、事実関係の描写が正確性・公平性を欠いているとの批判は免れないのではないかと思われる。
 ただ、合わせて留意すべきは、著者にこうした強烈な情念を植え付けた、ニューギニア戦線の異常な過酷さであろう。人間の極限とも言うべき状況の中で、下士官兵が陸士出身将校から理不尽な目に遭わされた事例は、実際に相当数あったものと思われる(複数の戦記を見る限りでは、例えば第20師団の各連隊長はかなり評判が悪い印象を受ける)。戦後65年を経て、著者がこのような本を書くに至ったこと自体が、著者が送られた戦場が極めて不条理な世界であったことを端的に示す証左であろう。

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2019年02月24日

【本】藤代三郎「戒厳令下のチンチロリン」

「戒厳令下のチンチロリン」 藤代三郎/角川文庫/1992年
(初版は、1982年に情報センターから刊行)

 昭和40年代後半から50年代前半にかけて、ある出版社の個性的な社員達が精力的にギャンブルに励む日々を描いたエッセイ。

 「本の雑誌」の編集者を務め、椎名誠の「あやしい探検隊」の主要メンバーでもあった目黒考二が書き下ろした、ギャンブルにまつわる軽めの散文集である。著者は、藤代三郎名義で競馬関係の作品を発表しているほか、本名の目黒考二で私小説を、北上次郎名義でミステリ・冒険小説の評論を刊行しており、非常に多才な人物である。ちなみに本書の書名は、昭和54年の東京サミットで厳しい警戒下にあった四谷で、著者たちがこっそり会社のビルに籠もり、チンチロリン(サイコロの出目を賭ける博打)に興じていたエピソードにちなむものである。

 大学を出て以来、10社近くの会社を転々としていた(そのうち9社は3日で辞めた)著者は、新聞の求人広告を見て、今度は実話系週刊誌や漫画週刊誌を作っていた小さな出版社に就職する。この会社の様子が本書に描かれているが、これが以下のような凄まじい会社だった。

「朝一〇時に出社すると、二、三人ずつのグループにわかれ、会社近くの喫茶店に行き、昼まで雑談。午前中に仕事をしている人の姿をとうとう最後まで見たことがない。昼に社に戻ると、『お、めしの時間か』と昼食に出て、今度は食後のコーヒー。たいてい仕事にとりかかるのは二時か三時だ。
 六時になると『軽くつまむか』と雀荘に急ぐのがコースだったが、週の半分は『早く始めりゃ早く帰れるしな』と食後のコーヒーから雀荘に直行。なに早く帰れるわけがない。いつも終電か、三度に一度は徹夜である。
 土曜は朝から夕方までラジオの競馬中継がオフィスに流れ、まず仕事にならない。おいらはその会社に六年間在籍したが、麻雀と競馬をやりに通ったという記憶以外、いったい、いつ仕事をしていたのかとなると、まるで覚えていない」

 いくら高度経済成長期で、「極端に言えば何でもいいから印刷してあれば売れた」と著者が述べるような時代だったとはいえ、さすがにこれは大丈夫なのかと思わざるを得ない。この居心地の良い会社に、著者は結局6年も在籍することになるが、昭和50年代に入って景気が傾いてくると、案の定この会社はあっさり潰れてしまう。そして社員たちは別の職場を探し求め、著者自身は新しい事業(文中では明言されていないが、「本の雑誌」のことか)を興していくことになるのだった。

 そうした気楽で不安定な環境の中で、著者やアクの強い同僚達が競馬・麻雀・チンチロリンなどのギャンブルに励む様子が、本書には詳しく描かれている。徹夜続きの無軌道な暮らしぶりや、荒唐無稽な馬券の買い方、そして彼らの一風変わった人生模様などが、当時の競走馬のレースぶりとともに屈託なく綴られている。私自身はこの頃の競馬を知らないが、著者が勝ち負け度外視で思い入れのある馬の馬券を買う様子などを見て、「そうそう、競馬ってこういう楽しみがあるよな」という雰囲気を改めて思い出した。

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2019年02月17日

【本】坂井孝一「承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱」

「承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱」 坂井孝一/中公新書/2018年

 朝廷と幕府のパワーバランスを大きく変え、武家政権が政治的な実権を掌握するきっかけとなった「承久の乱」について概説した本。

 「後鳥羽上皇が鎌倉幕府に無謀な戦いを挑み、あっけなく返り討ちにあった」というイメージで語られがちな承久の乱について、乱の発生に至る経緯やその影響を詳しく読み解いた一書である。後三条上皇の院政開始以降、「治天の君」たる上皇・法皇がどのように権力を確立し、その過程で武家がどのような役割を果たしたかを分かりやすく整理しつつ、乱を引き起こした後鳥羽上皇の心象風景に迫ろうとしている。著者の語り口が平易で読みやすいうえ、勅撰和歌集の編纂や有職故実の整理など文化的な側面にも幅広く目配りされており、知的好奇心をかき立てられる内容となっている。

 本書によれば、三種の神器の一つである宝剣を壇ノ浦に沈められてしまい、「正統な王」たるには重大な欠格事由を背負ってしまった後鳥羽は、「新古今和歌集」の編纂や宮廷儀礼の復興などの文化事業でそれらをカバーし、朝廷の権威確立に向けて強力なリーダーシップを発揮する。しかし、良好な関係を築いていた鎌倉幕府の源実朝が暗殺されたうえ、幕府内の権力争いから発展した謀反事件に巻き込まれて、大内裏焼失という挫折経験を味わう。そして、大内裏再建に向けた賦課に対して、全国の地頭などから強い抵抗を受けた後鳥羽は、幕府をコントロール下に置くために、その実権を握る北条義時追討の院宣を出すに至ったのだった。こうした著者の解釈が、歴史学の専門家の間でどの程度有力な説とされているかは承知していないが、少なくとも、具体的な史料に立脚した一つの議論の展開として興味深く拝読した。

 また、乱が勃発した後、迅速に東国武士の結束を固めることに成功した鎌倉幕府と、諸事に拙劣な対応をとった朝廷の姿は極めて対照的である。著者は前者を、情勢や戦力を分析する有能な裏方(大江広元・三善康信)、裏方の提言を採用する名監督(北条政子)、的確な指示を選手に伝えるキャプテン(北条義時)、経験豊富な中心選手(北条時房・三浦義村)、若手のホープ(北条泰時)らから成る「チーム鎌倉」と捉え、強固な結束力と優れた総合力を持ったチームとして高く評価する。これに対して後者は、なまじ後鳥羽が多芸多才だったために、彼自身が監督・裏方・キャプテンを務めるワンマンチームとなり、東国武士に対するリアリティを欠いたまま、独断専行でチームを運営することとなったと分析している。そして、ここに乱の勝敗を分けるポイントがあったと評価しており、乱の推移の細部を見るにつけ、こうした著者の認識は的確なものであるように思えた。史料に現れるさまざまな事実から、ある事件の政治的な背景や因果関係を解明していく歴史学の一つの楽しさを、本書のこうした考察から教えられたように思った。

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2019年02月11日

【本】岡田一郎「革新自治体 熱狂と挫折に何を学ぶか」

「革新自治体 熱狂と挫折に何を学ぶか」 岡田一郎/中公新書/2016年

 戦後から1970年代頃にかけて全国各地に誕生した「革新自治体」について、その台頭の背景や功罪、衰退の経緯などを解き明かした本。

 高度経済成長期に各地に出現し、80年代には保革相乗りの流れの中で衰退していった、革新自治体の実態を追った一書である。この革新自治体は、著者自身が述べるように、「福祉に金を使い過ぎたうえに、公務員に甘く人件費がかさみ、財政難を引き起こしたため、有権者の支持を失った」といった総括をされがちである。私自身も全く同じイメージで捉えていたし、さらに言えば、「実務に疎い学者を集票の顔に立てつつ、実権は左派政党関係者の側近が握り、財政規律を顧みない(あるいは、思想的にバイアスのかかった)自治体行政を行っていた」といったような、かなり否定的な印象しか持っていなかった。

 しかし著者は、こうした印象論が実態にそぐわないことを、実例を踏まえつつ丁寧に検証していく。上述の「財政難を引き起こした」という革新自治体のイメージは、主に美濃部都政後半期の失政が植え付けたものであること、京都の蜷川府政や横浜の飛鳥田市政は末期においても財政黒字であったこと、北海道池田町のように財政破綻した自治体を立て直した事例もあることなどを挙げて、必ずしも革新自治体であることが財政の悪化と結び付くものではないことを説く。これらは、サンプルがやや特殊な自治体に偏っているきらいがあり、また池田町に関しては、自治体の革新性というよりも、丸谷金保という名物町長個人の発想力とバイタリティによる部分が大きいようにも思え、こうした著者の主張は直ちに一般化できるものではないのかもしれない。ただ、少なくとも、「革新自治体は財政難をもたらす」という見解に対する一つの反証ではあるのだろう。

 また、著者は、革新自治体が定着・永続しなかった大きな要因として、これらの自治体と中央政党との関わりについて考証している。この辺りの分析は、日本社会党史を専門とする著者の真骨頂であろう。政党と自治体との協力関係は、革新・中道各政党間の対立や言論出版妨害事件への公明党の対処など、さまざまな政治的要素に左右されたことが見て取れるが、何よりも目立つのは、野党第一党である社会党の頼りなさ、先見の明のなさである。革新自治体の台頭の背景を読み切れないばかりか、党派争いに明け暮れて有効な手立てを打てない社会党中央の姿は、正直なところ、その統治能力を疑わせるものと言わざるをえない。高度経済成長の波の中でなおざりにされていた、公害問題や社会福祉などの諸課題を争点化して躍進のきっかけをつかんだ革新自治体が、結果的にその政権を維持できなかったことには、さまざまな理由が挙げられるのだろうが、中央政党からの適切なバックアップを受けられなかったことは致命的な要素であろう。そしてこの点は、地方における野党の連携という観点からすれば、今日にも通底する課題であるのかもしれない。

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