2020年06月28日

【本】馬部隆弘「椿井文書」

「椿井文書」 馬部隆弘/中公新書/2020年

 江戸時代後期に作成され、近畿一円に流布した膨大な偽文書、「椿井文書」の全貌を追った本。

 19世紀前半ごろに山城国の椿井政隆という人物が作成した、「椿井文書」という偽の古文書群の実像に迫った一冊である。富農や神社が自分自身の由緒を飾り立てたり、ある村落が近隣の村との訴訟を有利に運んだりするために、証拠書類となる古文書を求めるニーズが当時の社会にもあった。そして、故事に詳しく文書・絵図の作成能力もあった椿井政隆が、このような要望に応えて、偽の古文書を大量に作成し続けた――本書はこうした事実関係を、様々な文献や文書を照らし合わせた上で、詳細に解き明かしている。

 椿井自身は、見る人が見れば偽造と分かる仕込みを文書に含ませている場合があるなど、熱意を持って歴史を書き換えようとしたわけではなさそうな印象もある。しかし、彼が創作した偽史は、約200年後の現代における歴史研究にも取り入れられたり、地方自治体が編纂した自治体史にも反映されたりするなど、その影響力は決して侮れないものとなってしまっている。「東日流外三郡誌」の例にも見られるが、自分自身にとって都合の良い歴史は、たとえそれが偽のものであっても容易に受け入れられ、そして拭い去りがたい影響を及ぼしてしまう場合がある。「椿井文書」は、そうした偽史の厄介さを、我々に生々しく示した事例と言えるだろう。

posted by A at 21:37| 本(新書(その他)) | 更新情報をチェックする

2020年05月06日

密林に呑み込まれた部隊 〜独立工兵第36連隊の消滅〜

 昭和19年3月27日、米軍の来攻が予想される東部ニューギニアのウエワクを出発し、西へ向けて転進を開始した部隊があった。この部隊、独立工兵第36連隊主力の約600名は、目的地だったニューギニア中部のホーランジアに辿り着くことはできず、また出発地点のウエワクに引き返すこともできず、ジャングルの中をさまよい続けて、そのほとんどが戦没するに至った。今回は、この部隊がどのような経緯で全滅するに至ったのか、少ない手掛かりを探しつつ、できる限り追いかけてみたい。

 なお、この独工36連隊主力約600名のうち、米軍の捕虜となって生還した者が確認できる範囲で8名おり、そのうちの1名が映画「ゆきゆきて、神軍」で知られる奥崎謙三上等兵である。この奥崎や、映画にも登場する山田吉太郎軍曹、連隊主力に同行せずウエワクに残留した第2中隊長・古清水政雄大尉など元連隊将兵6名が寄稿して、1968年に「独立工兵第三十六聯隊行動記録」(著作権切れ。以下「聯隊行動記録」)という小冊子が編纂されており、今回のまとめに当たって参考文献の一つとした。以下の地図は、この冊子から引用したものである。

20050601.JPG
(クリックで拡大)

20050602.JPG
(クリックで拡大)


1 部隊の編成と東部ニューギニア進出(昭和18年1〜4月)
 昭和18年1月初め、河南省武渉県を警備していた第35師団の工兵第35連隊に、独立工兵連隊の編成が下令された。すなわち、同連隊の第3中隊を現在地に残して中支呉淞に移動するよう命ぜられ、同地で第34師団から工兵1個中隊を追加、その他にも他部隊からの転入者を加えて、独立工兵第36連隊を編成することとなった(2月25日編成完結)。連隊長は高城義家中佐、将兵の総数は千数百名で、工兵第35連隊時代よりも百名以上多かったという。

 そして、東部ニューギニア・ハンサへの進出を命ぜられた独工36連隊は、3月18日に輸送船たこま丸に乗船して呉淞を出発、高雄・マニラを経て、4月3日にパラオ着。パラオに上陸した将兵は町の風呂に入ったり、アイスクリームを食することもできた。そして輸送船を東邦丸に乗り換え、輸送船6隻と駆逐艦・駆潜艇、合計10隻の船団でニューギニアに向かい、4月12日にハンサに到着した。ハンサでは米軍機の空襲を受け、撃沈された船も出たが、独工36連隊は無事に上陸を果たした。連隊将兵は北支・中支で数々の作戦に従事してきた者たちばかりだったため、大きな混乱は見られなかった。


2 アレキシスでの工事とウエワク集結(昭和18年4月〜19年3月)
 東部ニューギニアに上陸した独工36連隊は、4月12日に上陸地のハンサを出発して東進し、苦難の夜行軍を経て、6月10日にマダン手前のアレキシスに到着した。そして、同地に先着していた独立工兵第8連隊と協力し、飛行場建設工事を行った。「聯隊行動記録」には、独工8連隊と36連隊の連隊長同士の仲が悪く部下が調整に苦労したことや、食料事情が悪化し「ホ」定量(米が水の底にある程度)になったこと、マラリア・熱帯潰瘍・栄養失調等のため連日死者を出し、作業人員も毎日25〜30名程度しか出せなくなったこと、9月頃から度々空襲を受け戦死者を出したことなど、様々な苦労が記されている。

 そして東部ニューギニアの戦況悪化に伴い、12月中旬、独工36連隊はウエワクに後退することになった。この時は海上トラック(徴用漁船)を使用することができ、連隊は12月末にはウエワクに到着。その後数か月、空襲にさらされながら、ウエワクで飛行場の修復や道路工事を行った。なお、第2中隊に所属していた奥崎謙三は、自著「ヤマザキ、天皇を撃て!」(新泉社。以下「奥崎書」)の中で、連隊長が呉淞以来、兵隊たちに対して取っていた冷酷で傲慢な態度を憎んでいたこと、兵隊用の元日の食料を連隊長がピンハネしたと聞き、さらに憎悪を募らせたことなどを綴っている(もっとも、元々奥崎が上司・上官に対して、反抗的な性格の持ち主であったことも考え合わせるべきであろう)。


3 ウエワクからの後退と米軍のアイタペ・ホーランジア上陸(昭和19年3月〜4月)
 昭和19年3月、米軍の進撃がウエワクにも迫りつつあることを踏まえ、独工36連隊は西のホーランジアへ転進することになった。このとき、連隊は以下のグループに分かれている。

・連隊主力(連隊長以下、健兵約600名) 陸路でホーランジアに後退
・ウエワク残留隊(残留隊長の古清水政雄大尉以下、病兵約170〜180名) マラリア等を患い転進に耐えられないため、ウエワクに残留
・このほか、少人数で飛行機・海上トラックによりホーランジアに先行した将兵あり

 ウエワク残留隊、ホーランジア先行隊のその後については後述することとし、しばらく連隊主力の動きを追いかけたい。連隊主力は3月28日にウエワクを出発し、輜重車輌に器材を積んで転進を開始。行路にまともな道はなく、器材を下ろした空の輜重車両をロープで断崖から吊り下ろしたり、吊り上げたり、再び器材を積んだりしながら苦労して進んだが、1日の行程は8km程度にしかならないこともしばしばあったという。そして、ウエワク−ホーランジアの中間にある友軍基地のアイタペにようやく辿り着く直前、部隊は幅100m、水深1m50cmぐらいの大きな川に行く手を阻まれた。この川を見て、連隊長は輜重車輌を牽引してホーランジアへ行軍することの不可能を悟り、車輌と器材器具の放棄を命令。将兵は身軽になり、背嚢と銃だけを担いで4月18日にアイタペ入りした。

 こうした転進の苦労について、奥崎は「ウエワクから輜重車輌を引っぱってこなかったならば、私たちはとっくにホーランジアに到着していたかもしれなかった」と述懐している。ちょうど同じ時期、海軍第八建設部の設営隊員たちが、3月20日にウエワク近くのボイキンを徒歩で出発して、4月8日頃から逐次ホーランジアに到着しており(濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」p363〜364)、奥崎の見立ては正しかったと見てよいだろう。

 そして、悪化する空襲事情を考慮して、連隊主力は4月18日夜にアイタペを出発。数日行軍を続けたが、22日の明け方にアイタペ方面とホーランジア方面で激しい砲爆撃が始まった。事態の切迫を察知した連隊主力は海岸沿いを急行し、犠牲者を出しつつも増水した川をイカダで渡河し、日本軍の拠点だったバニモに到着。海軍が残置していた米や缶詰を補給した。そして他部隊と協議し、現在のパプアニューギニアとインドネシアの国境線に沿って流れるタミ河付近に既に敵が進出していること、タミ河の川幅が広く渡河が困難であることを踏まえ、タミ河沿いに上流へ進み、海軍が農場を拓いているという内陸のアルソーを目指すことになった。


4 アルソーへの転進と部隊の統制喪失(昭和19年4〜6月頃)
 連隊主力は5月1日夜にバニモを出発し、タミ河に沿ってアルソーへ向かったが、山岳地帯に入って10日目頃から、他部隊に餓死者が出始めた。また、連隊本部の山田吉太郎軍曹は、この頃から尖兵中隊である第1中隊の様子がなんとなくおかしいことに気付いていたという。5月20日頃になると、連隊主力もばらばらに別れて歩くようになり、食料が欠乏する中で落伍する将兵も続出。道路脇には、他部隊も含めて死体が目立つようになった。山田軍曹は行き倒れた将兵を追い抜きつつ前進し、6月2日にアルソーに辿り着いた。

 そして連隊主力は、このアルソーで、@第1中隊、A糧秣奪還隊、Bそれ以外の将兵(連隊長含む)、の3グループにさらに分かれて行動することになった。以下、まず@Aのグループのその後の動きについて述べたい。

@第1中隊
 6月1日にアルソーに辿り着いた第1中隊は、アルソーで糧秣(サクサク)を収集し、6日にゲニムに向けて出発した。このことについて奥崎は、「阿部大尉の指揮引率する第1中隊は、連隊長と行動を共にすると苦労が多いので、連隊長を見限って、連隊主力の到着を待たずに、命令なしで何日か前にアルソを出発し、どこへ行ってしまったのか、まったくわかりませんでした」と書き残している(奥崎書p27)。もっとも、「聯隊行動記録」によれば連隊主力のアルソー到着は6月4日であり、この記録が正確ならば、第1中隊と主力は同時期にアルソーに滞在していたことになる。いずれにせよ、山田軍曹も奥崎上等兵も、第1中隊の前進は独断だったと当時受け止めていたようである。

 アルソーを出発した第1中隊は、食料の欠乏により衰弱しながらもジャングルの中を西進し続け、アルソー出発から1か月ほど経った後、遠く前方にホーランジア近くのセンタニ湖を望む地点に辿り着いた。そして、センタニ湖近くの草原に出て、ゲニムに向けて前進したが、ゲニムの入口付近で敵と交戦し、中隊長以下ほとんどが戦死した。生き残った下士官兵13名は、ゲニムを迂回すべく再び山中に入り、行程の険しさと深刻な飢餓に悩まされつつ歩き続け、ゲニムとサルミの中間付近で海岸に出た。ここで海水から塩分を補給し、また、撃沈された糧秣船から流れ着いていた日本軍の航空糧食などを入手し、しばらく休養のため逗留したが、安心感とマラリアのため6名の兵が相次いで病死した。

 そして、残る7名はなおも西進したが、1か月程度歩いた先で辿り着いた原住民集落で突然敵の攻撃を受けた。この戦闘で敵弾を受けた第1中隊の杉本貞夫伍長は、意識不明の状態で米軍に収容され、付近の野戦病院で治療を受けた後、ビアク・ホーランジアを経てメルボルンの捕虜収容所に移送された。第2中隊の奥崎は、ホーランジアとメルボルンで合計6名の第1中隊捕虜と出会ったが、それ以外に同中隊の捕虜と出会うことはなかったと記している。


A糧秣奪還隊
 6月初め頃、ようやくアルソーに到着した奥崎は、ここで初めてホーランジア失陥を知った。このとき周囲の将兵は茫然自失、自暴自棄となり、絶望のあまり発狂する兵も複数出た。また、この頃アルソーには転進してきた日本軍将兵千〜数千名が集まっていたが、もはやアルソーにはほとんど食料は残されておらず、栄養失調やマラリアで死亡する者が続出していた。

 そんな中で、既に米軍に占領されていたホーランジアの東のコタバルという拠点に、日本軍の食料集積所が残っているとの噂が流れていた。この集積所からの食料奪取を考えた連隊主力は、残存する約180名の将兵でアルソーを出発し、東西ニューギニアの国境線沿いに北上して海岸近くのホーティカンという地点に辿り着き、6月15日、柿本准尉を長として、西のコタバルに向けて糧秣奪還隊を派遣した。その人員は、「聯隊行動記録」によれば約100名とされており、奥崎書によればまず斥候隊(柿本准尉以下20余名。奥崎含む)が派遣され、それ以外にもコタバルに向かった少人数の将兵グループがあったとされている。

 柿本准尉の斥候隊は、敵が上陸するまでコタバルに駐屯していた第2揚陸隊の中尉と兵長の案内でコタバルに近づいたものの、敵の警戒が厳重で食料集積所に辿り着くことはできなかった。しかし、敵の銃撃を避けて潜んだ茂みの中で、他部隊がコタバルから盗み出して隠していた大量の米や粉醤油を偶然発見し、これを持ち帰ろうとした。ところが、重い荷物を運ぶのに難渋している間に、食料を盗み出した第209飛行場大隊の曹長一行が戻ってきてしまい、口論の末、奥崎が銃剣の切っ先を曹長に突き付け、無理やりこれらの食料を強奪した。この争奪事件の模様は、奥崎と、彼に銃剣を突き付けられた島田覚夫曹長(「私は魔境に生きた」(光人社NF文庫)の著者)が奇跡的に生還したため、それぞれの著書の中で、両者の視点から詳しく描かれている。

 そして、奥崎が奪った米を分担して運んでいた柿本准尉の一行は、第2揚陸隊の中尉・兵長と共に先行して連隊主力に戻った上等兵が、コタバルから持ち帰った数キロの米を、全て連隊長に取り上げられたことを知った。このまま米を持ち帰っても、連隊長に全部没収されることを予見した准尉一行は、連隊主力には戻らず、独自に西を目指すことを決めた。その転進の途中でマラリアが悪化した奥崎は、一行から落伍し、紆余曲折の末、幸運にも友好的な原住民に保護されて捕虜となることができた。准尉一行で生還したのは奥崎のみであり、一行のその後の動向は不明である。

 なお、第3揚陸隊の捕虜生還者の証言によれば、糧秣奪還隊の派遣に先立つ5月下旬〜6月上旬頃、既にコタバル付近で、独工36連隊の一団が山賊と化し、単独行動の兵を見つけると銃で脅して食料を奪う事件が散発しており、同揚陸隊からも彼らの被害に遭う者が出始めていた。これもまた、既に連隊の統制が失われつつあったことを端的に示す事実であろう。


5 連隊主力の消滅(昭和19年6月頃〜20年春頃)
 糧秣奪還隊を送り出した連隊主力の残部は、その後、米軍の襲撃を受けて多数の戦死者を出し、もはや食料の有無にかかわらずセンタニ湖方面を目指すことになった。食べられる物は何でも口にしながら、湖へ向かうと思われる道を10日ほど歩いたが、結局センタニ湖を見つけることはできなかった。そしてサゴ椰子を求めて再び内陸に入り、7月上旬頃、アルソーの西にあるソーヨーという、家が3軒あるだけの集落に辿り着いた。

 同じ頃、やはりコタバルで敵に押し返された、第41師団のホーランジア先遣隊もソーヨーに到着した。この第41師団の先遣隊は、いずれ予想される師団のホーランジア転進に先立って、受入れ準備のため後方部隊の将兵らをホーランジアに陸路先行させていたものであり、第1梯団(長:榊原大尉)、第2梯団(長:小保方中尉)の2個梯団に別れて行動していた。第2梯団に捕虜となって生還した者がおり、先遣隊の行動経過は、津布久寅治「魔境ニューギニア最前線」(叢文社、以下「津布久書」)に詳しく紹介されている。

 津布久書によれば、この頃、独工36連隊主力の将兵は既に100名を割り込んでいた様子だった。第1梯団長の榊原大尉が同連隊から得た情報によれば、連隊は2週間前に現在地付近を通過し、センタニ湖へ向かったものの、いつしか敵の包囲する中に入ってしまい部隊は潰乱、さらに道を変えてサルミを目指したが、敵はその先々を抑えて二次三次の潰乱状態に陥ってしまい、遂に意図断念の余儀なきに至ったという。

 ソーヨーに到着した独工36連隊は、7月10日頃、第2中隊(立川中隊長以下9名)、第3中隊(豊島中隊長以下25名)などに別れて付近の集落に分宿したが、衰弱した将兵が次々と死亡し、7月23日時点で両中隊長は死亡又は行方不明となり、第2中隊の生存者は3名、第3中隊は10名程度となっていた。第2中隊とともに自活していた山田軍曹ほか1名は、ソーヨーを出てさらに奥地のボキサ集落に移り、この集落付近で自活していた連隊長以下10名に合流し、2〜4名程度ずつに別れて暮らすことになった。なお、当時この集落には、これら独工36連隊長以下12名のほか、第41師団25名、台湾人5名が生き残っていたという。

 その後、もはや前進も不可能な状況となった中で、独工36連隊はボキサで生活を続けたものの、餓死・自決する者が相次ぎ、9月頃には連隊の生存者は5名のみ(連隊長、橋本軍曹、山田軍曹、上等兵2名)となった。連隊長は、このままでは連隊の様子も不明のままとなってしまうため、生きている間に海に出ることを主張し、ボキサに辿り着いていた船舶工兵第5連隊の1名、ソーヨー付近で生き残っていた第36野戦道路隊の11名と合流し、計17名で北を目指すことになった。9月15日頃にボキサを出発し、しばらくは順調に歩き続けたが、約1か月後、デラソーという集落で原住民の襲撃を受け、これを受けて進路を変えたため高い山に迷い込み、さまよっている間に連隊長も橋本軍曹も死亡した(昭和20年1月頃?)。

 そして生き残った山田軍曹は、独工36連隊の上等兵2名と船舶工兵第5連隊の1名の合計4名で行動したが、あるときパンの木の実によく似た毒豆を食べて、山田軍曹以外の3名は死亡、すぐに吐き出した山田軍曹のみが命を取り留めた。その後、山田軍曹は第36野戦道路隊の生き残り4名に持ち物を全て与えて、彼らのグループに加えてもらったが、4名のうち3名はやがて死亡し、残りの1名と山田軍曹でようやくセンタニ湖に辿り着いた。「動く物は何でも食べ、食べられそうな物は何でも食べた」という山田軍曹は、この頃、以下のような状態となっていた。

「骨と皮の体で、そのうち急激に足が上がりにくくなり、足が非常に重く腰がふらつき宙に浮いている様な気持ちになった。せいの切れるのは前々からだが、手の平をいくら広げてもすじが赤くならなかった。ここまで長い間がんばったがもう命の先が見えたと思った。人によっては自決の時期だ、でも足の甲がまだむくんでいないので出来得る限りがんばった」(「聯隊行動記録」p13。現代仮名遣いに修正)

 その後、山田軍曹はさらに西へ向かい、センタニ湖西方約60kmのクリツカオ集落でいよいよ体が極限状態となり、小屋で横になっているところをインドネシア人兵士約10名に捕えられた。そしてホーランジアで治療を受けた後、ブリスベンの病院に送られた(昭和20年3〜4月頃?)。

 以上のとおり、昭和19年3月にウエワクを出発した連隊主力約600名のうち、生き残ったのは第1中隊の6名と、第2中隊の奥崎謙三上等兵、連隊本部の山田吉太郎軍曹の合計8名だけだった。


6 連隊主力以外の将兵について
 ウエワクからホーランジアを目指した連隊主力以外の将兵のその後についても、簡単に触れておきたい。

(1)ウエワク残留隊
 昭和19年3月に連隊主力がウエワクを出発した際、マラリア等の患者約170〜180名と隊の荷物はウエワクに残置され、後日入港する海上トラックでホーランジアに退避する予定となっていた。この残留隊の隊長は、マラリアから回復していない第2中隊長の古清水大尉が務めることになった(連隊主力に加わった第2中隊将兵は立川中尉が指揮)。

 その後、4月上旬に到来した海上トラック(100トン程度の漁船)で、まず森田少尉以下22名がホーランジアに出発した。しかし続きの便がこないまま、4月22日の米軍アイタペ・ホーランジア上陸を迎えた。ウエワクに取り残された残留隊は、その後陣地強化や、ウエワクへの空中輸送に備えた飛行場補修を続け、6月下旬からは山中に入り自活。その間も病死する者が続出した。

 昭和20年春頃、残留隊で生き残っていた74名は、残兵30名足らずとなっていた第20師団の工兵第20連隊(長:小泉義純中佐)に配属されることになった。そして接近する豪軍と戦闘を交えつつ、8月の終戦を迎えた。昭和21年1月24日、生きて久里浜の土を踏んだ残留隊の生還者は、古清水大尉以下39名だった。後方へ転進する連隊主力に取り残された残留隊は、4分の3の将兵を失いつつも、結果的に連隊主力よりもずっと高い生還率を残すこととなった。

(2)ホーランジア先行隊
 昭和19年4月22日に米軍がアイタペ・ホーランジアに上陸した時点で、ホーランジアには独工36連隊の将兵が40名存在した。すなわち、19年1月に先着した岩田見習士官以下8名(飛行機で移動)、3月に先着した粕谷兵長以下10名(同左)、4月に先着した森田少尉以下22名である。これらの将兵は、ホーランジアにいた他の後方部隊と異なり兵器を有していたため、米軍のホーランジア上陸後、大発峠に布陣して敵を迎撃。その後、他部隊の渡河作業に従事しつつ西方に転進し、6月1日頃にサルミ到着、第6飛行師団長心得・稲田正純少将に申告を行った。

 そして、森田少尉以下7名は稲田少将らとともにサルミを脱出し、転進中の渡河を支援しつつマンベラモ河の河口に到着、同地から第36師団が秘匿する大発でムミに到着。ムミで第22飛行場大隊に編入され、マノクワリから転進してきた第2軍司令官・豊嶋房太郎中将とともに南下、8月6日にバボ到着。そのまま同地で1年後の終戦を迎えた。生還者は森田少尉以下3名だった。

 また、岩田見習士官以下26名はサルミに残留し、シハラで現地自活に従事した。戦後生還したのは2名だけだったという。


7 映画「ゆきゆきて、神軍」で言及された不祥事について
 1987年に公開されたドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」には、この独工36連隊の生還将兵が登場する。そのうち、主人公格の奥崎謙三上等兵と、映画最後の場面で奥崎と対峙する山田吉太郎軍曹は、上述のとおり連隊主力からの奇跡的な生還者である。それ以外に登場する元将兵は、すべて6(1)のウエワク残留隊生還者39名に含まれる人々である。

 この映画では、独工36連隊で「問題を起こす戦友の殺害」や「人肉食」事件が発生したということが仄めかされ、また、「終戦後に復帰した離脱将兵の処刑」が映画のメインテーマとなっている。このうち前2者については、昭和19年7月頃、独工36連隊のみならず、同連隊と共にソーヨーで自活を行っていた第41師団先遣隊でも、同様の事件が起きていたことが津布久書で触れられている(p430,435)。また、佐藤清彦「土壇場における人間の研究」(芙蓉書房出版、以下「佐藤書」)には、ニューギニア戦線で発生した人肉食や上官殺害に関して、多数の事案が取り上げられている。

 また、後者の「終戦後に復帰した離脱将兵の処刑」については、独工36連隊のウエワク残留隊だけでなく、東部ニューギニアの各部隊でも、終戦後に以下のような同様の事案が発生していたことが佐藤書に記録されている。

・昭和20年8月初め頃、「ひたすら西へ向かい、ボルネオ・中国大陸を経て内地に帰る」という壮大な計画の下、第41師団の輜重兵連隊から少尉以下11名が逃亡したが、終戦を迎えたため20日過ぎに帰隊し、連隊長命令で全員が銃殺された事案
・アイタペ戦後の海岸地帯の戦闘で姿を消した歩兵第239連隊第3大隊の中尉、准尉、曹長の3名が、終戦後に帰隊し、銃殺された事案
・昭和19年3月にフィニステル山系で遅留した歩兵第79連隊の上等兵が、終戦後に原住民手作りの担架で運ばれてきたが、連隊長命令で銃殺された事案

 もはや戦争が終わり、戦闘のために軍の厳格な規律を維持する必要がなくなった段階で、逃亡兵を処刑することに何らかの意味があったとは到底思われない。その一方で、終戦間際の第18軍は、食料・兵器・弾薬が極度に欠乏する中で、圧倒的に優勢な豪州軍の攻勢にさらされ潰乱状態となりつつあり、歩兵1個連隊が100名以下、1個中隊が10名以下という悲惨な状況に陥っていた。7月25日に出された第18軍命令(猛作命第371号)では、「軍司令部ヲ中心トシ概ネ『ヌンボク』周辺ノ地区ニ於テ玉砕シ…」と、軍全体での玉砕が予定される極限状態となっていた。

 そうした状況の中で、第一線で次々に戦友を失いつつ終戦間際まで激戦を続けていた将兵が、終戦を知って安全な後方地帯から現れた離脱将兵に対して、理不尽な処罰感情を爆発させる場合も、あるいはあり得たのかもしれない。いずれにせよ、平時の感覚で安易に解釈することはできない惨劇と言うほかないのだろう。


8 おわりに
 ホーランジアとアイタペの間で行方不明となった「サンドイッチ部隊」約2,500名のうち、最も兵数が多かったと言われる独立工兵第36連隊について、同連隊と他部隊の僅かな生還将兵の証言を踏まえつつ、文字通り最後の一兵となるまでの経緯をできるだけ辿ってみた。

 この独工36連隊以外の各部隊も、おそらくは同連隊と同様、アルソー到着以降に部隊としての統制を失い、少人数のグループに分かれて自活しつつ、やがて戦没していったのではないかと思われる。地獄と言われるニューギニア戦線の、あまり知られていない悲劇の一つである。


<参考文献>
・「独立工兵第三十六聯隊行動記録」(非売品、1968年)
・「工兵三十五・独工三十六行動記」(非売品、1995年)
・津布久寅治「魔境ニューギニア最前線」(叢文社、1982年)
・奥崎謙三「ヤマザキ、天皇を撃て!」(新泉社、1987年)
・原一男・疾走プロダクション編著「ドキュメント ゆきゆきて、神軍 増補版」(皓星社、2018年)
・伊藤隼男「蜉蝣の兵隊 下」(太陽書房、2013年)
・島田覚夫「私は魔境に生きた」(光人社NF文庫、2002年)
・尾川正二「『死の島』ニューギニア」(光人社NF文庫、2004年)
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」(非売品、1956年)
・佐藤清彦「土壇場における人間の研究」(芙蓉書房出版、2003年)
・戦史叢書「南太平洋陸軍作戦5」(朝雲新聞社、1975年)

posted by A at 12:00| 戦史雑記(日本軍) | 更新情報をチェックする

2020年04月29日

【本】森山伸也「北緯66.6° 北欧ラップランド歩き旅」

「北緯66.6° 北欧ラップランド歩き旅」森山伸也/本の雑誌社/2014年

 スカンジナビア半島北部(ラップランド)に設けられた人跡稀なトレイルコースを、一人で歩いた旅の記録。

 フィンランド・スウェーデン・ノルウェーの国境地帯を走る北極圏トレイルコースを、バックパックを担いで歩き続けた旅行記である。総延長800kmを誇るこのコースは、1977年に初めて整備されたものの、利用者があまりにも少ないため荒廃し、現地でも知名度が低い状態となっている。インターネットでこのルートの存在を知った著者は、フィンランドに飛んで現地の地図を探し求め、テントや寝袋、食料などの装備を背負って極北の地へ向かう。そして、コース全行程の半分に当たる約400km(フィンランドのキルピスヤルビからスウェーデンのリッツェムまで)を、18日間かけて歩き通したのだった。

 本書の中では、ツンドラと灌木と湖沼に覆われた荒涼とした世界を黙々と歩き、気が向いた場所で野宿する一人旅の様子が、臨場感あふれる筆遣いで描かれている。川や丘陵に阻まれてトレイルを見失う苦労や、たびたび雨に降られ夏でも凍える気候、野生のブルーベリーの甘さ、滅多に出会わない他のハイカーとの交流など、北極圏の旅の雰囲気がありありと伝わり、旅への憧憬を強くかき立てる内容となっている。こうした旅の経験を持つ人は、長く平板な人生を送っていく中で、きっとその旅の記憶を、ある種の支えにしていくことができるのではないかと思う。

posted by A at 13:09| 本(登山、旅) | 更新情報をチェックする

2020年03月21日

ヌンホル島の戦いについて

 南太平洋に位置するニューギニア島の西北部に、太平洋戦争の激戦地として広く知られたビアク島という島がある。第36師団の歩兵第222連隊(長:葛目直幸大佐)を基幹とする約1万名の日本軍ビアク島守備隊は、昭和19年5月27日に上陸してきた米軍を迎え撃ち、1か月以上にわたって善戦敢闘を続けた。やがて米軍に圧迫されて軍旗を奉焼し、7月2日に葛目連隊長が自決した後も、生き残った将兵は島内で遊撃戦を展開し、終戦後に86名の残存将兵が救出されている。

 このビアク島と、西部ニューギニアの主要都市・マノクワリとの間に、ヌンホル島という小さな島がある。直径20km程度の円型に近いこの島には、第35師団の歩兵第219連隊第3大隊を中心に、約3,000名の将兵・軍属が送り込まれていた。そして、ビアク島で葛目大佐が自決した7月2日に米軍上陸を迎え、やはり1か月以上にわたって戦闘を続けた後、8月18日に連隊長が軍旗を埋没して自決。残った将兵は少人数のグループに分かれて島内に散らばり、終戦後に11名が救出されており、ビアク島守備隊とよく似た運命を辿っている。

 今回は、ビアク島の戦いの陰に隠れてほとんど知られていない、このヌンホル島の戦いに光を当ててみたい。なお、文中に掲載した地図は、濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」(1956年刊、著作権切れ。以下「濠北書」)から転載したものである。

map01.JPG
(ヌンホル島の位置。クリックで拡大)


1 西部ニューギニア「航空要塞」構想(昭和18年8月〜)
 昭和18年8月、日本軍は中部ソロモン諸島と東部ニューギニアのサラモア方面で制空権を失い、戦局は次第に劣勢に傾き始めていた。こうした状況を受けて大本営は、後方に新戦線を形成して、戦争遂行のために絶対に必要な圏域を確保する方針を固めつつあった。そしてその後方要線は、マリアナ、カロリン諸島、西部ニューギニアを結ぶ線とすることが考えられた(のち、9月30日の御前会議で「絶対国防圏」として決定)。

 そうした中で、日本本土と蘭印の資源地帯を結ぶシーレーンを守るための前線となる西部ニューギニアでは、ヘルビング湾方面を有力な防衛線とすることが構想された。8月中旬、濠北方面の防衛を担当する日本陸軍の第19軍は、軍参謀部附の柳恵治少佐に軍偵機で飛行場適地を偵察させ、さらに地上からの偵察も行った上で、ヘルビング湾に浮かぶ小島、ヌンホル島のカメリーに飛行場を造成することを決定した。軍としては当初、離島に飛行場を設定することは極力避ける考えだったが、ヘルビング湾方面に重層的に飛行場を整備し、この地区を強力な「航空要塞」とするためには、ニューギニア本島内だけでは飛行場が足りず、ヌンホル島やビアク島など飛行場適地に恵まれた湾内の離島を活用するほかないものと判断された。

 そして第19軍は、第5師団から抽出し、西部ニューギニアのベラウ湾南岸のサガで飛行場造成に従事していた鯉第1臨時飛行場設定隊(長:小田二三夫中尉。のち、第117野戦飛行場設定隊に改編)と、鯉第3臨時飛行場設定隊(長:三隅道夫中尉。のち、第119野戦飛行場設定隊に改編)、いずれも約50名の隊をヌンホル島に転用し、9月12日から飛行場の造成を開始した。11月中旬には、本土から派遣された第102野戦飛行場設定隊(長:森甚六少佐)も加わり、12月末には長さ1,200m、幅80mの滑走路が完成。翌19年1月2日に重爆機(第3飛行団長・塚田理喜智少将同乗)の試験着陸が行われた後、同月13日、飛行第5戦隊長高田勝重少佐が複戦5機を率いてカメリー飛行場に進出し、船団援護の基地として使用を開始した。

 さらに、西部ニューギニア全体で合計25個の飛行場を設定するとの方針の下で、ヌンホル島では1月下旬以降、カメリー飛行場の拡充工事を行うとともに、新たにルンボイ(ナンベル)飛行場の造成を開始。2月中旬にはエンブロー飛行場の整備にも着手し、さらにコロナリレンへの飛行場設定も構想された。設営隊員は、1台のブルドーザーもないまま、ジャングルの巨木を手斧で切り開き、リーフを鶴嘴で打ち砕く苦難の作業を続け、輸送量の不足により食事の定量も半減、マラリアも流行し、全員が体力を消耗し尽くしたという。そうした辛苦を経て、4月始めにカメリー飛行場の拡充工事が終了し、6月末にはルンボイ、エンブローの両飛行場も概成。さらに、エンブローからルンボイに至る自動車道路も完成するに至った。

 一方、1月2日に東部ニューギニアのグンビ岬に上陸し、第18軍の第20師団・第51師団を敵中に孤立させた米軍は、いわゆる飛び石作戦を採用し、ニューギニア島北岸を一気に西へ進もうとしていた。


2 米軍のホーランジア・ビアク来攻(昭和19年4〜5月)
 昭和19年4月22日、米軍は東部ニューギニアのマダン、ハンサ、ウエワク、ブーツを飛び越え、ニューギニア中部のホーランジアとアイタペに大挙上陸した。これに先立つ同月18〜20日にかけて、マノクワリとヌンホル島カメリー飛行場にもB24による空襲が行われた。こうした戦況の急変を受けて、第4航空軍司令部は、ハルマヘラ所在の飛行第13戦隊(一式戦)にヌンホル島への進出を命じ、4月23日、町田久雄戦隊長以下26機がカメリー飛行場に到着した。同日、早速B24が11機カメリーに来襲し、第13戦隊は14機で邀撃して2機撃墜を報じた。

 この頃、カメリー飛行場は、日本軍にとって重爆を使える最前線の飛行場となっていた。このためヌンホル島は、米軍のホーランジア上陸により孤立した東部ニューギニア方面への重爆による中継連絡(詳細はこちら参照)や、船団援護、ホーランジア方面への偵察等の基地として大いに活用された。しかし、米軍との交戦が続いて被害も甚大となり、6月上旬時点の第13戦隊の実働機は、わずか2〜3機まで落ち込む状態となった。

 また、大本営は5月2日、情勢の激変を踏まえ、西部ニューギニアにおいて確保すべき要域からサルミ・ビアクを除外し(大陸指第千九百七十三号)、さらに9日、マノクワリをも除外して、確保第一線をソロン、ハルマヘラの線まで後退させた(大陸指第千九百八十八号)。現地軍である第2方面軍、第4航空軍はこの方針にはなはだ不満だったが、17日、米軍がホーランジア西方のサルミに来攻しても、大本営は同地を前進陣地と見なし、既定の方針を変えることはなかった。

 しかし同月27日、米軍がビアク島に上陸すると、元々ヘルビング湾決戦論者だった堀場一雄大佐が高級参謀を務める南方軍は、ミンダナオ島ザンボアンガに待機中の海上機動第2旅団を、海軍艦艇によりビアク島に突入させる案を大本営に意見具申した。大本営陸軍部は、ビアクに兵力を投入しても同島の保持は時間の問題であり、「あ」号作戦にも悪影響を及ぼすおそれがあるとの判断により、この案に乗り気ではなかったが、海軍部は、なるべく長く同島を保持することにより、連合軍機動部隊を奥深く誘致する契機となるとの考えにより、突入案にむしろ積極的だった。こうした海軍の意向を踏まえて、いわゆる「渾作戦」の実施が決定された(のち中止)。また、積極主義をもって知られる第2方面軍司令官の阿南惟幾大将も、マノクワリの第2軍に対してビアク島への兵力増援を命じている。


3 歩兵第219連隊主力のヌンホル島進出(昭和19年6月)
 ところで西部ニューギニア方面には、昭和18年9月に決定された絶対国防圏構想に沿って、北支から第35師団、第36師団の投入が予定されていた。このうち、同年11月に中支呉淞を出港した第36師団は、12月末に無事にサルミ・ビアクに到着できたが、翌19年4月に上海を出発した第35師団主力は、輸送途上で米潜の攻撃を受け、壊滅的な被害をこうむることとなった(いわゆる竹一船団)。

 これに対し、第35師団の歩兵第219連隊(長:清水季貞大佐)は、師団主力に先んじる形で、3月27日に三池丸(11,738総トン)により青島を出港。横浜で東松5号船団に加わり、4月24日、第14師団将兵とともに無事パラオに到着した。その後、第1大隊をセントアンデレウ諸島守備隊として送り出した後、輸送船がないためしばらくパラオにて待機し、5月19日、重巡洋艦青葉、軽巡洋艦大井などに分乗してパラオを出発、翌20日にニューギニア島の西端ソロンに到着した。そして、大発に分乗してニューギニア北岸を夜間に東進し、一部被害を受けつつも、おおむね27日(米軍のビアク島上陸日)までにヌンホル島に到着した。

map02.JPG
(ヌンホル島の地図。クリックで拡大)

 冒頭に記したとおり、ヌンホル島は直径約20kmの円型に近い島で、外周は珊瑚礁に覆われていた。島の中央には標高約200mの高台があり、将兵はこれを「203高地」と呼んでいた。清水連隊長は島内の地形を偵察した上で、第2大隊(長:西原登一大尉)を島北部のカメリー飛行場に、第3大隊(長:西川隆興大尉)を島南西部のルンボイ地区に配置し、陣地構築を命じた。守備隊の本部は、両大隊の間に位置するカンサイに置かれた。

 一方この頃、ヌンホル島に隣接するビアク島では激戦が続いており、元々ヌンホル島に駐屯していた歩兵第222連隊第5中隊(長:引地一男大尉)や、マノクワリに所在していた歩兵第221連隊第2大隊(長:小澤久平大尉)などがビアク島に投入された。カメリー飛行場に布陣したばかりの歩兵第219連隊第2大隊にも、さらなる増援兵力として白羽の矢が立ち、6月14日夜、大発に分乗してビアク島へ送られていった。これによりヌンホル島の守備隊(ヌンホル支隊)は、以下の兵力で米軍の上陸を迎えることになった。

<ヌンホル支隊編成表(昭和19年6月30日)>
・支隊本部(歩兵第219連隊) 清水大佐 30名
・第3大隊本部  西川大尉  20名
   第9中隊   篠中尉 150名
   第10中隊 山後中尉 150名
   第12中隊 大塚中尉 150名
   第3機関銃中隊 児玉中尉 150名
  歩兵砲中隊  遠藤大尉 100名
  通信中隊   伊藤大尉  70名
  独立山砲兵第4連隊第6中隊 吉永中尉 100名
  野戦機関砲第41中隊 中山中尉 100名
  飛行場警備第36中隊  150名
・ビアク島転進予定の部隊(ヌンホル島待機中だったもの)
  第2大隊第6中隊(1小隊欠) 高橋中尉 100名
  西原大隊残員 20名
  小澤大隊残員ほか 10名
  引地隊残員 鎌田少尉 100名
(以上、戦闘部隊1,400名)

・師団通信無線1分隊 5名
・電信第24連隊の有線1小隊・無線1分隊 15名
・独立自動車第227中隊の1小隊 30名
・師団野戦病院 吉村軍医 20名
・建築勤務隊 30名
(以上、後方部隊100名)

・第102、117、119野戦飛行場設定隊
・第9台湾特設勤労団(注:台湾特設勤労団は、通例、内地人7名、台湾人1,000名により編成。第9勤労団は18年11月2日ヌンホル島着、飛行場造成に従事)
(以上、飛行場設定隊1,400名)

・船舶部隊(海軍第18警備隊) 約30名

以上合計 約3,000名
(注:以上は、歩兵第219連隊の部隊史である「目でみる聯隊」からの引用。ただし、戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」p503によれば、第47飛行場大隊の一部、第36飛行場中隊、第8航空情報隊及び第13野戦気象隊の一部もヌンホル島に所在しており、第102、117、119野戦飛行場設定隊と合わせて約600名だったとの記述がある)


 6月下旬に入ると、ヌンホル島に対する米軍の空爆が激化し、築城資材も届かない中で、陣地の構築はなかなか進捗しなかった。第2大隊の抽出により空白となったカメリー飛行場には、元々在島していた第102野戦飛行場設定隊がひとまず配置された。そして、7月2日に米軍が上陸したのは、まさにこの手薄なカメリー飛行場付近だった。


4 ヌンホル支隊の死闘(昭和19年7月)
 米軍は元々、ヌンホル島への上陸を予定していなかったが、昭和19年5月中旬、この方針は米軍の第5空軍の主張により変更された。すなわち、ヘルビング湾地区には十分な飛行部隊を展開させるための飛行場が不足していたが、ヌンホル島にはその適地が豊富にある、というのが第5空軍の見解だった。6月5日、マッカーサー将軍は、歩兵1個連隊で同島を攻略することを決定した。米軍は、日本軍の守備兵力を2,850名、そのうち戦闘員は1,600名と、ほぼ正確に推定していた。

 6月20日以降、米軍はカメリー飛行場に対して総計約810トンの爆弾を投下した。ヌンホル支隊では野戦機関砲第41中隊が連日孤軍奮闘したが、戦況を覆すには至らなかった。そして、サルミ東方40kmのトエムで上陸訓練を積んでいた、エドウィン・D・パトリック准将率いる7,414名の米軍上陸部隊(第158連隊戦闘団基幹)は、6月29日に同地を出発し、7月2日午前6時半にカメリー沖に到着、艦砲射撃ののち上陸を開始した。ヌンホル支隊は、カメリー飛行場に配置されていた第102野戦飛行場設定隊が迎撃したが、水陸両用戦車を伴う優勢な米軍を拒止することはできなかった。

 2日午後、米軍の上陸はカメリー地区のみと判断した清水支隊長は、ルンボイ地区守備の西川大隊(吉永山砲中隊含む)をカメリーに招致するとともに、各地に分散している兵についても、日本人と名の付くものは全てカンサイの支隊本部に集結するよう命令を下した。元々清水支隊長は、敵を上陸させた後、橋頭堡が完成されないその日の夜襲戦で一挙に敵を粉砕する作戦計画を持っていたが、ルンボイからカンサイに至る一本の道路は敵機と艦砲射撃により執拗に攻撃され、西川大隊の将兵が損害を出しつつカンサイに到着したのは、翌日の明け方だった。

 7月3日になると、ようやく清水支隊長の下に続々と兵が集まってきた。一方、初日に得た日本軍捕虜から「ヌンホル島の日本軍は3,500〜5,000名」と聞かされていた米軍は、予備兵力としていた第503空挺連隊の将兵1,424名を、3日と4日に分けてカメリー飛行場に降下させた(捕虜の言葉が意図的な虚言なのか、単純に本人が混乱していたためなのかは不明の模様。なお、米軍は6日にルンボイにも上陸)。飛行場守備に当たっていた第36飛行場中隊は必死に防戦したが、兵力と装備の差は如何ともしがたく、3日午後に各施設やガソリンに火を放ち、炎の中で最後の一兵まで戦い続けて玉砕した。4日午前0時以降、日本軍は3時間に渡り夜襲を繰り返したが、遂に成功に至らず攻撃は中止された。

 7月4日も、米軍の砲爆撃は相変わらず激しく続いた。ヌンホル支隊では、その後も支隊長の下に集まってきていた兵を加え、今夜こそ敵の橋頭堡を覆さんと夜襲の準備を進めていた。ところが19時半頃、敵砲弾の飛来により、第3大隊長西川大尉、第10中隊長山後中尉らの将校が一瞬で戦死する悲劇的な事態が発生した。これを受けて、当時たまたまヌンホル島に来訪していた第2軍司令部情報班の小森正夫少佐が、夜襲部隊を率いることを申し出た。夜襲に出た小森部隊は突撃に突撃を繰り返し、ようやく敵第一線を突破したが、やがて天明を迎え、再び敵の猛砲火を受けて後退せざるを得なくなった。なお、第12中隊は第一線を突破した後、連隊一の鬼隊長と呼ばれた大塚中隊長を先頭に、中隊一丸となって万歳突撃を敢行し、敵の心胆を寒からしめたという。

 7月5日になり、戦闘部隊の大半を失った清水支隊長は、ついに最後の段階が来たことを悟った。この日は支隊の総力を挙げて夜襲を行い、後方部隊も銃を執れる者は第一線要員とし、支隊長自ら指揮して敵陣に突入、玉砕する覚悟を固めた。午後9時、マノクワリの第35師団司令部に最後の訣別電報を発したところ、すぐに以下の返電があった。

「連日ノ奮斗ニ対シ深甚ノ敬意ヲ表ス。ヌンホル支隊ハ決戦ヲ避ケ、ヌンホル島ニ持久健在シ、遊撃戦ニヨリ敵戦力ノ消滅ヲ企図スベシ」

 この命令を受けて清水支隊長は最後の突撃を中止し、残存将兵に対して、島内部の203高地に集結するよう命令した。


5 軍旗埋没・連隊長自決(昭和19年8月)
 7月7日、203高地に集結した支隊残存将兵は、敵の攻撃を受けて島西南の密林地帯に移動を開始した。この頃、清水支隊長が掌握した部下は、後方要員を中心に約500名だったという。その後、支隊は食糧確保のため、農園があると言われた島東南のイナシ方面に移動したが、敵の攻撃を繰り返し受け続けた。極端な栄養失調に苦しみつつ、8月18日にイナシの入江近くの湿地帯に辿り着いた時には、残存将兵は支隊長以下100名足らずに減少していた。

 そしてこの8月18日、清水大佐は、もはや支隊としてのまとまった行動は不可能であることを見定め、軍旗の奉焼を決意した。しかし、支隊には既に一本のマッチすらない状態となっており、やむを得ず将兵は湿地帯に深く穴を掘り、軍旗を埋没処理した。ヌンホル支隊の奇跡的な生還者の一人である藤井清氏(歩兵第219連隊通信隊員)は、濠北書所収の手記の中で、この時の模様を以下のように綴っている(なお、原文を現代仮名遣いに改めた)。

「…やがて軍旗は清水大佐の手により厳に埋葬された。終わって清水大佐は部下全員を身近に集め、静かに諭した。

『もはや時が来た。最後まで軍旗を守り抜いた事がせめてもの慰めである。軍旗をこの地に埋葬し、余は死して鬼神となり、軍旗のお供をする。皆はこの苦しい戦に、良く最後まで奮闘してくれた。何も悔を残すところは無い。自分が自決しても、決して自分の跡を追う事は許さない。必ず生き延びて、もう一度陛下のお役に立つよう心から願うものである』

と諄々とさとす言葉は神の声の如く、慈愛に満ちた父の如く、我々の胸を抉った。語り終わった清水大佐の面差の上には今までの苦悩の色もいつしか消え、部下将兵に会釈を送りつつ、只一人静かに灌木の林の中に消えて行った。やがて朝靄をやぶるピストルの銃声一発、従容として南国の鬼と化した。後に残された者は連隊長の冥福を祈り、いつまでも深くうなだれていた。やがて遠藤大尉(注:大隊長代理)は、

『我々は連隊長の命を守って生きぬくべきである。これからは全員一緒に行動する事は、敵の目にもつき危険であるから、これにて一応部隊の編成を解く。二人でも三人でも気の合った者同志で行動し、各自自重して、決して生命を無駄にする事のないように』

 聞き終っても誰一人として立上る者とてない。二度、三度と促され、やっと二組、三組が立ち上った。『隊長殿お元気で…』『お前にも随分世話になったな、元気で暮してくれよ』手を取り合って泣いた。共に何度も死線を越えた仲である。声はつまり、いつしか烈しい嗚咽となった。誰しもこの時ばかりは共に自決したかった。おそらく連隊長の制止がなければ全員が跡を追って自決して行った事であろう。

 別れ別れになってからは敵に発見されぬようジャングルに潜み、すきを見ては農園に出て食糧をあさった。しかしこれも永続きはせず、敵弾に、あるいは病に、栄養失調にと倒れ、又は敵軍に捕えられる者、毎日のように二人、三人と消えて行った。かくして終戦当時生き残っていた者は僅か11人であった」

 なお、支隊将兵の戦没日は、夜襲の行われた7月4日か、この8月18日で認定されている例が多いようである。


6 支隊解散後(昭和19年8月〜)
 8月18日にヌンホル支隊が解散した後も、ヌンホル島に関わる動きはいくつかあった。簡単な概要のみ、以下に列挙する。

(1)ヌンホル島からの脱出
 7月22日、ヌンホル島の清水支隊長は、戦況をマノクワリの上級司令部に報告するため、挺進連絡班として下士官以下9名に脱出を命じた。彼らのうち3名は、敵の警戒網をくぐり抜けて海岸に到達し、筏を作り島を脱出。その中の1名である加藤兵長のみが、出発後約40日の9月2日に、マノクワリ南方10kmの海岸に奇跡的に漂着した。加藤兵長はマノクワリ司令部に、「軍旗を奉持するヌンホル支隊長以下約500名はカメリー東南方高地附近にありて健闘しあり」と報告したが、この時点で既に、支隊は解散していた。

 また、マノクワリ〜ヌンホル島〜ビアク島間の舟艇輸送に携わり、米軍のヌンホル島上陸時に島に滞在していた第5揚陸隊の将兵の一部が、敵機の厳しい哨戒を突破し、マノクワリへの帰還に成功している(7/12に大発にて13名、7/25に折畳舟にて5名が帰還)。


(2)上級司令部の動き
 7月2日の米軍ヌンホル島上陸を受けて、ヌンホル島から目と鼻の先にあるマノクワリの第2軍司令官は、同月4日に空路で南方ムミへ脱出、次いで舟艇でイドレへ移動した。取り残された第2軍後方部隊は、陸路にてマノクワリからイドレを目指し、いわゆる「イドレ死の行軍」を引き起こした。

 また、マノクワリには、第2方面軍附の深堀游亀少将がマノクワリ支隊長として残留し、歩兵第221連隊主力、独立山砲兵第4連隊主力、独立工兵第15連隊主力などの多様な部隊を統括した。その中から、「南の島に雪が降る」で知られるマノクワリ歌舞伎座が生まれることとなった。


(3)挺進連絡隊の派遣
 米軍上陸5日後にヌンホル島との通信が途絶え、支隊の現況が不明となったため、8月上旬頃、第2軍司令官はマノクワリ支隊長に対して、ヌンホル島への決死挺進連絡隊の派遣を命令した。これを受けてマノクワリ支隊では、ヌンホル島周辺の海路を熟知していた第14師団海上輸送隊の鈴木雄二中尉を隊長とし、第5揚陸隊の大発乗組員4名、歩兵第219連隊所属の歩兵11名、通信兵4名、衛生兵1名、第36師団海上輸送隊兵1名、第14師団海上輸送隊兵2名、合計24名(大発1隻)からなる挺進連絡隊を編成した。

 この挺進連絡隊は、8月29日に夜陰に乗じてマノクワリを出発、付近のミオスヌム島に仮泊し、偵察機や魚雷艇に細心の警戒を行いつつ好機を待った。そして10月11日、出発以来初めての雨天を利用してミオスヌム島を出発(通信隊は残置)、翌日未明にヌンホル島のバウエ湾入口で大発艇長以下7名を帰し、鈴木隊長以下12名は大発に搭載していた折畳舟でイナシ北方に上陸。密林内を進み、203高地やカメリー飛行場南部を捜索した結果、上陸3日目に兵8名と遭遇し、支隊長が軍旗に殉じたことを聴取。19日にヌンホル島を折畳舟で出発、ミオスヌム島で通信兵ら5名を回収し、出発から丸2か月を経た11月2日にマノクワリに帰還、第2軍司令官から賞詞を受けた。敵の制海権・制空権下で、敵が占領する島への潜入に成功し、連絡任務を果たして生還したことは、ほとんど奇跡に近い出来事と言ってよいであろう。なお、同時期にビアク島にも同様の挺進連絡隊が派遣されたが、こちらは未帰還となっている。


(4)日本軍機の攻撃
 7月8日、米軍は早くもカメリー飛行場の使用を開始した。同日夜、飛行第75戦隊はカメリー付近の海岸に停泊中の艦船群を2機で爆撃し、輸送船1隻に命中弾を、別の艦艇1隻に至近弾を与えた。しかし、その後のヌンホル支隊の状況が不明であったため、第7飛行師団はひとまずヌンホル島への攻撃を中止した。

 8月に入り、第7飛行師団は、ヘルビング湾に蝟集する敵軍機を再び攻撃することとした。8月4日夜、飛行第75戦隊は双軽延べ6機をもってビアク・ヌンホルを攻撃し、ヌンホル島カメリー飛行場ではP38を10機以上撃破した旨報じた。また8日、飛行第61戦隊の百式重爆1機がヌンホル島のナンベル飛行場を爆撃し、夜間戦闘機1機の撃墜を報じた。

 さらに9月、第7飛行師団は、重爆9機からなる「雁部隊」の編成を命じた。これは、ヘルビング湾に対する夜間の遠距離攻撃を行い、米軍の比島進攻準備を妨害する目的で臨時編成した部隊であり、飛行機は飛行第12戦隊から九七重爆9機を、要員は第12戦隊から4機分、第62戦隊から5機分を抽出し、部隊長には第62戦隊第2中隊長の伊藤忠吾大尉が選ばれた。部隊要員は10月1日にセレベス島ビンランに進出して第7飛行師団長の指揮下に入り、同月9日、同師団の吉満作戦主任参謀を乗せてカイ諸島ラングールに進出。同日24時にラングールを出発、攻撃目標のヌンホル島近くで編隊を解き、単機ごとに緩降下して飛行場を爆撃。奇襲は成功し、2か所炎上を報じた後、全機カイ諸島経由でティモール島のラウテンに退避し、のちビンランに帰還した。

 そして数日後、今度はビアク島に対して第二回攻撃を行う予定だったが、ニューギニア山系付近の天候が悪く、攻撃隊は反転帰還した。奇襲を旨とするこの攻撃は以後慎重に検討され、結局、雁部隊の攻撃はヌンホル島への1回だけで終わることとなった。


(5)終戦後
 終戦後の昭和20年9月、マノクワリ支隊はヌンホル島とビアク島に捜索隊を派遣し、生存将兵の捜索に努めた。その結果、ヌンホル島では軍曹以下11名の生存将兵を発見した。「目でみる聯隊」と「轍 歩兵第二百十九聯隊外史」、そして濠北書の3冊に、これら11名のうち3名の生存将兵の手記が掲載されており、救出までの飢餓生活などについて綴られている。また、米軍側の記録によれば、ヌンホル島ではこの他に186名の日本軍捕虜と、550名以上の台湾人労務者が収容されたという。


7 おわりに
 隣接するビアク島の戦いが有名なためか、ヌンホル島の戦いは、これまで振り返られる機会がほとんどなかったように思われる。守備兵力も少なく、陣地構築の余裕もない戦いだったため、ヌンホル支隊が米軍に与えた打撃は必ずしも大きくはなかったが、本稿に示したとおり支隊は清水大佐以下よく団結し、優勢な敵を相手に立派に敢闘している。この島で戦没した多数の将兵のためにも、こうした戦いがあったことは、歴史の中に明記されて然るべきであろう。


<参考文献>
・斎藤貞二編「目でみる聯隊」(非売品、1981年)
・「轍」編集委員会編「轍 歩兵第二百十九聯隊外史」(非売品、1987年)
・第五揚陸隊戦史編集委員会編「暁 濠北派遣(西部ニューギニア)第五揚陸隊戦史」(非売品、1984年)
・濠北方面遺骨引揚促進会編「濠北を征く」(非売品、1956年)
・田中宏巳「マッカーサーと戦った日本軍」(ゆまに書房、2009年)
・戦史叢書「西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」(朝雲新聞社、1969年)
・戦史叢書「豪北方面陸軍作戦」(朝雲新聞社、1969年)
・Smith, Robert Ross (1953) "Operations on Noemfoor Island"


posted by A at 22:33| 戦史雑記(日本軍) | 更新情報をチェックする

2020年02月24日

【本】前田耕作「バクトリア王国の興亡」

「バクトリア王国の興亡」 前田耕作/ちくま学芸文庫/2019年

 紀元前3世紀から2世紀にかけて中央アジアに存在したギリシャ人国家、バクトリア王国の通史を描いた本。

 アレクサンドロス大王の東征により誕生したヘレニズム国家の一つ、バクトリア王国の歴史を概説した本である。滅亡から二千年以上経ち、その実態を十分に知られていないこの王国について、さまざまな歴史書に残る断片的な手掛かりを踏まえつつ、歴代の王の事績や周辺国家との抗争の模様などを描き出している。聞き慣れない固有名詞が多く、読み進めながらやや戸惑う面もあるが、西にセレウコス朝シリアやパルティア、南にマウリヤ朝、北に遊牧民族などを抱え、困難な国家経営を強いられたバクトリア史の全体像を把握できる内容になっている。

 こうしたバクトリアの通史のほか、本書の最後の一章では、18世紀以降の考古学者たちが、この王国の姿を明らかにしていった経緯が詳述されている。それによれば、元々バクトリアに関心が寄せられたのは、諸王の名前や肖像が記された古代貨幣が次々に発見されたことがきっかけなのだという。そして、そうした古銭をカタログ化するとともに、王譜の編史が試みられ、それらを参考にしつつ考古学的な発掘が進められていったのだそうだ。ギリシャから遠く離れた中央アジアにギリシャ系の王国が建設され、東西文明の交差点で諸王朝に翻弄されながらも国家を維持し、最後には周辺勢力の侵攻により滅亡していったという歴史に、多くの学者たちがロマンを抱いた気持ちはなんとなく分かるような気がする。


posted by A at 18:35| 本(歴史) | 更新情報をチェックする