2018年04月15日

【本】神子清「われレイテに死せず」

「われレイテに死せず 上・下」 神子清/ハヤカワ文庫NF/1988年
(初版は、1965年に出版協同社から刊行)

 レイテ島の戦いに参加した陸軍の下士官が、独断で島を脱出し、奇跡的に生還するまでを描いたノンフィクション。

 将兵の生還率が極端に低いレイテ戦を生き残った、一下士官の壮絶な生存記録である。満州で厳しい訓練を積み、無敵関東軍の自負を持ってレイテ島にやってきた著者は、第1師団の尖兵としてリモン峠の戦いに参加。不意の遭遇戦を生き残り、優勢な米軍に圧迫される中でも勇敢に戦い続けるが、激しい物量攻撃の中で、多くの戦友たちを次々に失っていく。そして、尊敬する中隊長・八尋中尉も戦死するに至り、中隊長が最後に発した転進命令に従って、辛うじて前線を脱出する。

 その後、著者は負傷兵たちとともに南下し、日本軍の後方基地・オルモックを目指すが、途中で高千穂空挺隊の兵士たちに出会う。「空の神兵」とうたわれ、戦局を挽回するためにレイテに降下したはずの精鋭部隊が、ただの無謀な斬り込み作戦に使われていく様子を見て、著者は以下のような感慨を抱く。

「落下傘兵たちに会ってから、私の心裡にある変化が起こった。期待が大きかっただけに失望も大きかったのだ。私は、空挺部隊の降下によって大きな積極的作戦の展開を期待したのだが、それが斬込作戦にすぎないと知ったとき、まったく失望した。いや、大きな憤りさえ感じた。こんな作戦指導の下に死ねるものか、と考えるようになった。
 私は、あの若い伍長と話していたとき、きのう父母の国を発ってきたばかりのこの若い生命が、きょうは春の淡雪のように消えるのかと思うと、いても立ってもいられないような痛ましい気持になった。こんな感情は、私にとって初めての経験だった。それは、あの落下傘兵たちが、まだ少年の域を出ていない年ごろだったこともあったのだろうが、それよりも何よりも、人間の生命を、柴の束を囲炉裏に投げこむように、無造作に、しかも無意味に、燃やしてしまう作戦当局の不条理きわまるやりかたに対してがまんがならなくなったのだ。
 それまでの私は、死ぬことを何とも思っていなかった。いのちが惜しいなどと思ったことはただの一度もなかった。むしろ死ぬことを望んでいた。それは、自分のいのちを捧げることによって祖国日本が救われるのだと信じていたからだ。あの少年兵たちも、おそらくは、祖国を救うために自分は死ぬのだという凝縮された使命感に燃え立っていたのだろう。
 ところが、あの空挺部隊の使い方を見て、私のこの信念は、音をたてて崩れた。人間が人間に死ねと命じ得るのは、それによって祖国を救うという至高にして尊厳な使命があるからである。それなのに、救い得ないとはっきりわかっているのに、なおかつ死ねと命じている。そんな権利がどんな人間にあるというのだろうか。この疑惑が、やがて私に、はっきりとした決意を抱かせるにいたったのである。
『誰が何と言おうと、死んでやるもんか』と。」

 そして著者は、偶然行き会った仲間たちとともに、敵の哨戒網をかいくぐりながら、レイテ島の西海岸に脱出。現地住民の小舟を奪取し、セブ島北部のメデリン島を経て、ネグロス島に上陸する。レイテでの激闘、そしてネグロスでの地獄のような生存闘争の記録を読むと、著者が生き残ったのは、その戦技と判断力に加えて、幾重もの奇跡が偶然に積み重なった結果としか思えない。本書は、一人の将兵の類い稀な冒険譚として、大変興味深い物語であるとともに、勇敢で忠誠心にあふれた古参下士官が、どのような心境の変化を経て戦場離脱者となるに至ったかを克明に描いた、極めて優れたノンフィクションでもある。ハヤカワ文庫では既に絶版になっているようだが、このまま埋もれさせるには非常に惜しい一書である。


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2018年03月24日

【本】松谷健二「カルタゴ興亡史 ある国家の一生」

「カルタゴ興亡史 ある国家の一生」 松谷健二/中公文庫/2002年
(初版は、1991年に白水社から刊行)

 古代地中海世界で通商国家として繁栄した、カルタゴの歴史を描いた本。

 紀元前9世紀ごろに現在のチュニジアに興り、紀元前146年にローマに滅ぼされた、海洋国家カルタゴの通史である。歴史ものの新書や文庫本の中には、マニアックな史料の解釈にこだわり、その界隈の通説を否定することに血道を上げている(=読んでいて全然面白くない)本がしばしば見られるけれど、本書は、700年に及ぼうとするカルタゴ史を平易な口調で解き明かしていて、非常に読みやすい。世界史に興味のある人であれば、面白く読める本ではないかと思う。

 カルタゴの長い歴史の中で、最もドラマチックな場面は、史上名高いハンニバルの遠征と、そして国家としてのカルタゴの最期であろう。ハンニバル敗戦の後、半世紀にわたり屈従の期間を耐えてきたカルタゴは、ローマの奸計に騙され、ついに最後の一戦に立ち上がることになる。その場面を、本書は以下のように描いている。

今度の戦争に勝てると思っていたカルタゴ人はひとりもいなかっただろう。ほどほどの戦果をあげ、講和にもちこもうとの甘い考えもなかった。全員玉砕。念頭にあったのはそれだけ。ときに前149年。
 武器はすべてさしだしてしまったので、急遽生産にかかる。寺院など公共の建物を工場とし、市民たちは夜を日についで、ありあわせの材料から、最後の戦いのための道具をつくった。日産として楯百、剣三百、投げ槍五百。それに投石用のカタパルト。そのロープには女たちが髪の毛を供出した」

 こうして覚悟を固めたカルタゴは、3年にわたる孤立無援の籠城戦を戦い抜き、ついにローマ軍によって滅ぼされる。市民は虐殺され、わずかに生き残った5万人は奴隷として売られ、都市カルタゴは徹底的に破壊される。永遠に人が住めず、作物も育たないように、跡地に塩まで撒かれたというエピソードはよく知られている。交易によって繁栄を築き上げてきた、それまでのカルタゴの歴史と対比すると、とりわけ諸行無常の感が深い最後である。


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2018年03月04日

【本】伊丹恒「復刻版 幌加内 −厳寒の地の生活鉄路・深名線とともに−」

「復刻版 幌加内 −厳寒の地の生活鉄路・深名線とともに−」 伊丹恒/共同文化社/2011年
(初版は、1996年に刊行)

 かつて北海道に存在したローカル線・深名線と、その沿線に生きる人々の姿を収めた写真集。

 1995年に廃線となった深名線と、その周辺地域の様子を撮影した写真集である。この深名線は、北海道中北部の山中と田園地帯を走る、全長約120kmのローカル線だったが、その7割近くは広大な雨竜郡幌加内町に位置していた。幌加内の町について、本書は以下のように解説している。

「幌加内は東京から1,300km、北緯44度の地に位置する北海道空知支庁管内北端の町であり、石狩川の支流である雨竜川に沿った集落を抱えているため東西に24km、南北に63kmと長細い形をしている。面積は766.65㎢で大阪府の4割にも達する広大なものであるが、そこに住む人口は平成8年5月現在、2,400人という道内でも有数の過疎地帯となっている。周囲を雨竜川の源ピッシリ山をはじめとする1,000m級の山々に囲まれた盆地となる各集落の気候は通年の温度差が70度にもなり、夏は高温多湿、冬は酷寒多雪と非常に厳しく、特に昭和53年に母子里(もしり)で記録された−41.2度という気温は「日本最寒の地」として幌加内の名を一躍有名なものにした。」

 このような過疎地域を走る深名線は、ほとんど乗客がいないことから「空気輸送」などと揶揄され、既に昭和55年の時点で、100円の利益を生みだすのに2,852円の経費を要する大赤字路線となっていた。そうした非効率な深名線が、国鉄末期の廃線ラッシュを生き延び、1995年まで存続した理由は、ひとえに沿線の道路事情の悪さによるものだった。71年間続いた鉄路がついに終焉を迎えたのは、1991年に名母トンネルが開通して、深名線の並行道路がようやく整備された、その4年後のことだった。

 本書は、こうした深名線の情景や、厳寒・豪雪の地で列車運行のために努力する鉄道員たち、質朴な生活を営む沿線住民たちの姿を捉えた写真集である。本書に収められた数々の写真からは、在りし日のローカル線の雰囲気とともに、幌加内に暮らす人々の生活ぶりを窺い知ることができる。写真の中に捉えられた、住民たちの強さや朗らかさ、そして温かさを湛えた表情は、厳しい生活環境の中で、地に足を着けて生きる人々ならではのものなのだろう。そして、この地に愛着を感じ、何度も通い続けた伊丹氏だからこそ、こうした人々の姿を引き出すことに成功したのではないかと思えた。


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2018年02月04日

【本】ウォーレン・クロマティほか「さらばサムライ野球」

「さらばサムライ野球」 ウォーレン・クロマティ、ロバート・ホワイティング/講談社文庫/1992年
(初版は、1991年に講談社インターナショナルから刊行)

 1984年から1990年まで読売巨人軍に在籍し、優れた打撃成績を残した、ウォーレン・クロマティ外野手の自伝的な本。

 巨人軍の裏側をあけすけに描き、刊行当時に「暴露本」扱いもされた、クロマティの日本野球体験記である。球団首脳の外国人選手への無理解や、コーチたちの無能ぶり、同僚の人物評などを遠慮なく書き並べているほか、外国人から見た日本文化の特異性を包み隠さず指摘していて、結構刺激の強い内容になっている。グラウンドで見せていた、陽気な助っ人外国人クロマティの姿をイメージして読み始めると、少なからず衝撃(場合によっては、失望)を覚えるのではないかと思う。

 1953年にマイアミで生まれたクロマティは、2歳の時に両親が離婚し、スラムで貧しい少年時代を送る。彼の父親違いの弟は、やがて麻薬密売や強盗に手を染めて刑務所に送られるが、野球の才能に恵まれていたクロマティは、不十分ながらも父親からの指導や援助を受け、短大を経てメジャーリーグへ進む。そして、1981年にモントリオール・エクスポズで地区優勝も経験し、84年、高給に惹かれて来日する。

 しかし、巨人に入団してからのクロマティは、チームの風通しの悪さや、ガイジンを疎外する日本社会の壁に苦しみ続ける。『ニューズウィーク』国際版のインタビューで、クロマティは以下のように述べている。

「『年俸はかなりいい。だからみんな日本へ来るのだ。友だちをつくろうと思って日本へ来ているやつはいない。日本人の選手は、ガイジンが自分たちよりたくさん金をもらっていることに嫉妬している。だからガイジンはあらゆる期待にこたえなければならない。ホームランを打ちまくり、どんな飛球でも捕らないと、たちまち批判される。たまには親しみをこめて背中をポンと叩いてくれるが、そんなことは滅多にないと思ったほうがいい。プライドをぐっと飲み込んで、目の前で起こる異常な事態にじっと耐えなければならない』
――日本に偏見はあると思いますか?
『もちろんある。たとえばガイジンに対して偏見をもっている。日本人は、外国人に先を越されることを嫌う。どうせなら同国人にいい思いをさせてやりたいと思っている。たとえ満塁でも、面子のためなら平気で俺を歩かせる』
――黒人に対する偏見に直面したことは?
『もちろんあるさ。その種の偏見は世界中にある。日本だって同じだ。外野で守っていると、スタンドから侮辱的な言葉を浴びせられることがある。アメリカでプレーしているときと同じだ』」

 こうして苦労を重ねてきたクロマティも、4年、5年と日本生活を続けると、以下のような心境に至っている。

「人生なんて、バラ色のあれこれがそっくり用意されているわけではない。すばらしい人生を手に入れようと思ったら、自分も少しは努力すべきなのだ。人に説教できるような柄ではないことはわかっている。俺だってさんざん日本の悪口を言ってきた。だけど今は少しずつ物事がわかりかけている。(中略)
 最初は日本的なものすべてに反抗したものだ。言葉だってまじめに勉強する気にならなかった。だけど今は、少しでもしゃべれるようになって本当によかったと思っている。もっと早くから勉強していればよかったと後悔しているくらいだ。――俺がこんなことを言うようになるなんて、夢にも思わなかったが。
 日本が大好きだ。いろいろ問題はあるが、神の名のもとに一億九千万ドルの寄付を求めるようなジェリー・フェアウェルは、ここにはいない。この国にはこの国なりの献身のしかたがあるのだ。それがだんだんわかってきた。日本人には日本人の考え方があり、その大半はアメリカ人の考え方に少しも劣らない」

 本書を読んだ感想として、クロマティはかなり自我が強く、クセのある人物だが、同時に頭脳明晰で、我慢強く、また柔軟性のある人柄だという印象を受けた。ホーナーやガリクソンのようなメジャーリーガーたちが、日本に嫌気が差して短期間で帰国した一方で、クロマティが7年の長きにわたって異国の地でプレーし、しかも素晴らしい成績を残し続けたのは、こうしたクロマティ自身の人となりによる部分が大きかったのではないか、と思えた。


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2018年01月13日

【本】阿利莫二「ルソン戦―死の谷」

「ルソン戦―死の谷」 阿利莫二/岩波新書/1987年

 太平洋戦争中、学徒出陣でルソン島に出征した著者が、自らの従軍体験を著した戦記。

 ルソン島の戦いに投入された学徒出陣者の数は、判明しているだけで約1,015名。このうち、日本に生還できたのは約90名だった。本書は、その数少ない生還者の一人である著者が、凄惨なルソン戦の実態を、自らの体験に基づいて書き綴った記録である。本の雰囲気としては、尾川正二「「死の島」ニューギニア」と、どことなく似ているように思えた。

 著者ら前橋陸軍予備士官学校第11期の学徒兵約600名は、まだ修学中だった昭和19年9月、戦況の悪化を受けて、急きょ南方戦線に派遣されることになった。そして、バシー海峡を越えて無事ルソン島に上陸できた約400名は、第14方面軍の教育隊で現地教育を受け、昭和20年1月に見習士官に任官。著者は第19師団(虎兵団)への配属を命じられ、任地に向けて出発する。

 しかし、ルソン島各地で戦線が崩壊する中で、山中を辿る移動は困難を極め、その過程で著者は、傷病兵や在留邦人たちの無惨な死の数々を目の当たりにする。そして、著者自身も飢えとマラリアで幽鬼のようにやせ衰え、さらには米軍機の銃撃を受けて負傷する。傷を負い、意識を失った後の著者の様子を、以下に引用する。

「・・・どのくらい時間が経ったかわからない。夢うつつの世界で誰かが呼んでいる。答えようとしても声が出ない。誰かが見下ろしている。戦場では、その時の自分の力ではどうにもならない運の良し悪しがある。ルソンの戦場から還った者で、何度かこの運に恵まれずしてその生を得た者はあるまい。(中略)
 道はすさまじかった。道路際には車輌の残骸、待避壕には白骨、そこかしこに屍が横たわる。その道をかなりの人が、異様な姿で三々五々右から左に動いている。普通の部隊ではない。顔全体を血で黒く乾いた布きれで巻きつけている者。仲間に肩を貸している者も、足をひきずり、杖をついている。今にも前にのめるように身をかがめて足を運ぶ者。肩から吊った片腕には先がない。明らかに傷病患者である。人の流れは長く、あとからあとからばらばらに続いているようだった。霧のような雨がシトシト降り続く。そのあと、どういうところをどう行ったのか、自分で歩いたのか、誰かの肩を借りたのかも覚えがない。
 野宿が始まる。崖が道際からすこしひっこんで、山間のような平らな空き地である。傷病者がごろごろいた。これが野戦病院だったとするならば、およそ病院の名に値しない傷病者のたまり場でしかない。死ぬ者が後を絶たない。時たま「バーン」という手榴弾の炸裂音がこだました。自決だろう」

 こうした苦境を辛うじて生き延び、その後の深刻な飢餓と続発する重病をも切り抜け、とうとう生還を果たした著者は、とにかく運に恵まれていたとしか言いようがない。このような過酷な戦争体験を振り返って、著者は以下のように述べている。

「今ここで、米軍の非人道的行為をあげたてて、日本軍の犯した残虐行為やあの戦争を正当化するつもりはない。むしろ米軍については、あとでふれるように、身を以て体験した、その人道的行為を知ってもらわねばなるまい。他方、日本軍にもそれなりの戦場美談がある。ここで強調したいのは、戦争そのものが、大なり小なり非人間性、残虐性をどこかで求めるということである。戦場における狂気の沙汰からは、程度の差はあれ、いかなる軍隊も逃れられない。戦争を語るとき、誰が残虐だったかも重要なことだが、戦争そのものが残虐を生みだすということの方が、もっと大切だ。戦場のヒューマニズムが輝きを放つのも、戦場が異常であるが故に稀少な正常さが光をもつからだ。戦場美談の陰には常に戦争の悪がある」

 生きて還った著者は、戦後は学者の道を歩み、1988年から95年まで法政大学総長を務めている。著者とともに出征し、戦没した学徒兵たちも、このような悲運に遭わなければ、国や社会のために有為な人材となったことと思う。


posted by A at 21:43| 本(戦記) | 更新情報をチェックする