2017年11月25日

【本】田中俊男「陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦」

「陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦 台湾高砂義勇兵との戦勝録」 田中俊男/戦誌刊行会/1996年

 陸軍中野学校卒業後、東部ニューギニア戦線に派遣され、遊撃戦(いわゆるゲリラ戦)を展開した元陸軍曹長の戦記。

 著者は、昭和16年4月に現役兵として第18師団に入隊し、その後、連隊長の推薦と厳しい選抜試験を経て、17年4月に陸軍中野学校に入校(下士官候補者を対象とした、第四期戊種学生)。そして18年4月に中野学校を卒業し、同年7月にニューギニア・ウエワクに上陸、そのまま終戦まで東部ニューギニアで戦い続けた人物である。本書には、著者ら中野学校出身の将校・下士官たちが、身体能力に優れた台湾出身の高砂義勇兵を指揮して、縦横無尽に遊撃戦を繰り広げた模様が詳しく描かれている。

 例えば、東部ニューギニアの第18軍がウエワクなどの主要基地を失い、全海岸線を放棄して内陸に追い込まれていた昭和20年5月、著者らの挺身攻撃隊は、ウエワク西方のダグア飛行場への潜入攻撃を成功させている。すなわち、選抜された下士官と高砂義勇兵が、敵性化した原住民を警戒しつつ、慎重に攻撃潜入路を選定し、敵の警備状況を偵察・把握。そして深夜に飛行場に潜入し、敵の戦闘機全機と給油所・発電所を爆砕したうえ、全員が生還している。こうした鮮やかな戦果は、破局に近づいていたこの時期のニューギニア戦線では特筆すべきものであろう。

 その他にも著者らは、敵軍の背後に潜入しての偵察や陣地爆破、敵からの兵器・弾薬・食糧の奪取、原住民への宣撫工作など、見事な戦功を立て続けている。壮絶な飢餓と病魔に苦しめられ、文字通り地獄の惨状を呈したニューギニア関連の戦記は、読んでいて非常に悲惨な印象を受けるものが多いが、その中で本書は、旺盛な敢闘精神を最後まで失わない精鋭部隊の様子を描いた、かなり異色の戦記である。著者らの活躍も、結局戦勢を挽回するものではなかったが、こういった部隊が存在したことは、あらゆる辛酸をなめ尽くした当時の第18軍にとって、一つの光明ではなかったかと思う。


(補記)
 昔、初めて本書を読んだときには気付かなかったが、この本にも「サンドイッチ部隊」に関する記述があった。以下に引用する。

「我々第十八軍の将兵はアイタペ・ホルランジャまで到達すれば新手の部隊と交替して帰国し、休養が取れそうだと真しやかな流言飛語が流れ、皆何よりも楽しみに飢餓と苦難にも耐えてきたのであった。が、この敵のアイタペ・ホルランジャ同時上陸は総てを絶望に陥れた。当時ウエワク周辺に所在の陸軍航空部隊・海軍部隊・その他後方要員数千名(五千とも一万とも言われる)は、その大部分が陸路ホルランジャへ向け数個梯団となって出発していた。当時アイタペには第二十師団各部隊への補充部隊数百名が師団のアイタペ到着を待って待機しているに過ぎなかった。補充要員を引率していた安部龍三大尉はこれ等を指揮し、懸命に抵抗し奮戦したが、所詮手に負える敵では無かった。
 安部大尉は兵力を統合して敵の包囲網からの脱出には成功したものの、約半数はホルランジャに向けて西走し、自ら掌握した半数だけがマルジップに後退して、歩七八の第三大隊小池捜索隊に収容され、爾後、所属部隊の到着を待って合流した。
 因みに、ホルランジャへ向け転進した数千名の消息の大半は現在に至るもなお不明のままである。この中には中野学校出身者も数名含まれていたとかで、戦後ルバング島の小野田少尉の救出もあって、中野校友会として救出資金をカンパ、日本政府を通じ豪軍に依頼して捜索したが、何の手がかりもなく現在に至っている。何故何千何百の将兵が何の痕跡も残さずに消えて、一体何処へ行ったのか不思議という他はない。
(註)食料もない儘、人跡未踏の緑の魔境をさまよいながら次々に倒れて行ったものとしか思われず悲痛の極みである。」

 この行方不明になった転進部隊については、わずかながら生還者が存在する。詳細は、こちらの記事を参照されたい。


posted by A at 16:32| 本(戦記) | 更新情報をチェックする

2017年11月04日

【本】羽根田治ほか「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」

「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか 低体温症と事故の教訓」 羽根田治・飯田肇・金田正樹・山本正嘉/ヤマケイ文庫/2012年
(初版は、2010年に山と渓谷社から刊行)

 2009年7月に発生した、トムラウシ山遭難事故の実態を詳しく検証した本。

 18名のツアー登山パーティ(ガイド3名含む)のうち、実に8名もの死者を出した、トムラウシ山遭難事故の実像に迫った本である。生還した登山客らの証言を基に、パーティの行動経過を詳細に解き明かすとともに、本事故の検証委員会「トムラウシ山遭難事故調査特別委員会」にも参加した医師などの専門家が、気象・医学・運動生理学の観点から充実した解説を行っている。読み応えのある一冊である。

 本書の中では、やはり第1章「大量遭難」が、最も読者の関心を惹く内容であろう。山岳遭難事故に関して多数の著作があるライターの羽根田治氏が、パーティの生還者を直接取材して貴重な証言を引き出しており、こうした裏付けを積み上げながら、個々の参加者たちの彷徨と生死の経緯を明らかにしている。中には、他者との証言の食い違いが少なからず目立つ人物もいて、まるで芥川の「藪の中」のようだな、という印象を受ける部分もあった。

 また、専門家による解説の中では、医師の金田正樹氏が執筆した第4章「低体温症」が特に興味深かった。山岳事故の実例を多数引用しつつ、医学的な見地から低体温症の実情に迫っており、登山を行う人にとっては大変参考になる内容ではないかと思う。こうした事故では、どうしても犯人探しや責任追及が面白おかしく語られがちだが、既に起きてしまった事故の原因を解き明かし、再発防止につなげることが、何よりも重要であることを忘れてはなるまい。第4章の最後で、金田氏は以下のように述べている。

「今回の遭難報道と事実の間には相違点が多々あった。遭難事故が起きると、メディアは誰の責任かと犯人探しの報道が優先され、時にはバッシングと思われるような書き方までされる。それでは遭難の真相は解明されない。大自然の山のなかで、小さな人間の行動は計算どおりにできるはずはない。気象条件に左右され、その判断の誤りが気象遭難に繋がるのであって、町での事件とは違う。もう少し山の状況を知った上で、事実をきちんと書くべきだろう。人間にミスはつきものである。そのミスを解明し、それを生かし、今後の行動に繋がるようにしなければならない」


posted by A at 22:41| 本(登山、鉄道、旅) | 更新情報をチェックする

2017年10月01日

【本】山本茂実「塩の道・米の道」

「塩の道・米の道」 山本茂実/角川文庫/1978年

 著者が昭和30年代後半に国内各地を取材し、雑誌「旅」「地上」「文藝春秋」などに発表したルポルタージュ19本を、一冊の本にまとめたもの。

 著者自ら全国津々浦々を歩き、自分の目で実地に見たこと・感じたことを書き著したレポート集である。「流氷と流刑の道・網走街道」や「匠たちの故郷・飛騨路」のように、各編のタイトルにはそれぞれ「道」の名前が付されているが、道に関する話に限らず、各地の様子を面的に捉えた作品も少なくない。それぞれの地域にまつわる悲哀の歴史や、当時の社会的な問題にも正面から取り組んでおり、硬派なノンフィクション作品集といった趣の一冊である。

 本書の各編を読むと、ソ連の不当な拿捕・抑留と闘いながら漁をつづけるノサップの漁民たちの苦労や、日本初の高速道路である名神高速道路の用地買収に関する紛争劇、あるいは、平家の落人の末裔がひっそりと暮らしてきた九州の山村が、自動車道やダムの建設で大きく変貌していく様子など、昭和30年代の社会の情景が丁寧に描出されている。このような血の通ったルポルタージュは、実際に各地を歩いて回り、人々の証言を丹念に集めた著者だからこそ書けたものだろう。事実関係の正確性をやや欠いた部分もないわけではないが、総じて見れば、著者の精力的な仕事ぶりが光る作品群だった。

 なお、本書に所収された作品の一つ「女工哀史の道・野麦峠」は、著者の代表作である「あゝ野麦峠」の原型となったものである。その内容は、年老いた女工たちから聞き取った悲話や、著者自身が実際に野麦峠を歩いてみた記録を、20ページ弱でごく簡単にまとめた構成となっている。こんなスケッチ風の小作品が、やがては著名なノンフィクションの大作につながっていった事実を見ると、作家の琴線に触れるテーマというものは、どこから掘り起こされるか分からないものなのだな、と思えて興味深かった。


posted by A at 23:43| 本(ノンフィクション) | 更新情報をチェックする

2017年09月02日

【本】海老沢泰久「ヴェテラン」

「ヴェテラン」 海老沢泰久/文藝春秋/1992年
(文庫版は、1996年に文春文庫から刊行)

 1980〜90年代にかけて活躍したプロ野球選手6人の、個性的な野球人生を描いたノンフィクション。

 西本聖、平野謙、石嶺和彦、牛島和彦、古屋英夫、高橋慶彦の、6名の野球選手の生きざまを追った作品である。これらの選手たちは、いずれも個性の強いプレイヤーだったためか、ほとんどがトレードにより最初の球団から放出されている(石嶺だけはFA移籍)。彼らの中には、我を通した結果としての移籍が裏目に出て、選手としての終わり方があまり良くなかった者もいるが、トレードを機に息を吹き返し、移籍先の球団でさらなる活躍を見せた選手もいる。各人の性格や野球哲学の違いが、彼らの選手生活に大きな影響を及ぼしていく過程を、本書は克明に描いている。

 本書の各編の中で、最も読後感が良いのは、平野謙を取り上げた一編だろう。1977年、ドラフト外で中日に入団した平野は、失敗や試行錯誤も繰り返しながら、ようやく1982年にレギュラーの座を掴む。その後、しばらくは安定した活躍を見せるが、次第に練習を手抜きするなど、ベテラン選手としての悪癖も目立つようになってくる。1987年に就任した青年監督の星野仙一は、平野のこうした闘争精神に欠ける姿勢を嫌い、ついに同年オフ、平野は西武ライオンズにトレードされてしまうのだった。

 しかし、平野にとって幸運だったのは、移籍先の西武監督の森祇晶が、トレード選手に対して理解のある監督であったことだった。本書には、以下のような森の言葉が収められている。

「ジャイアンツには、昔からジャイアンツにいるというだけで、尊大でいじわるになる選手がいるんですよ。そういう連中が移籍してきた選手をいじめるんです。ジャイアンツの伝統はこうだとか、こんなことも知らないのかとか。それでなくても移籍選手というのは知らないチームにきて不安で仕方がないんですから、そんなこといわれたら萎縮して何もできなくなってしまいますよ。森永(勝也)なんか、それでどれだけいじめられたか。見ていて腹が立つぐらいでしたよ。だからぼくは、移籍してきた選手には、使い方は様子を見てから決めるなんて不安にさせるようなことはいわないで、ぼくがその選手に何を望んでいるかを最初にはっきりいうことにしているんです」

 こうした監督と、伸び盛りのチームメイトたちにも受け入れられた平野は、西武の厳しい練習にも真面目に取り組み、1988年には不動の二番打者として、自己最高打率の.303を残す。そして、1992年まで5年連続でパリーグ最多犠打、1993年まで6年連続でゴールデングラブ賞を獲得し、西武黄金期を支える名外野手となったのだった。

 平野の野球人生を見ると、遊んで過ごしていた新人時代や、練習に手を抜いていた中日時代末期など、必ずしも模範的なアスリートとは呼べない時期もあったようである。しかし、彼の真骨頂は、自らの置かれた環境が変わったとき、それに合わせて猛烈に努力できる根性と柔軟さがあったことだろう。そうした彼自身の気質と、彼に手を貸そうとする周囲の人々にも恵まれたことが、平野謙というプロ野球選手の成功につながったのではないかと思った。


posted by A at 19:20| 本(ノンフィクション) | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

【本】高崎伝「最悪の戦場に奇蹟はなかった ガダルカナル、インパール戦記」

「最悪の戦場に奇蹟はなかった ガダルカナル、インパール戦記」 高崎伝/光人社NF文庫/2007年
(初版は、1974年に光人社から刊行)

 太平洋戦争の悲惨な戦場である、ガダルカナル島の戦いとインパール作戦の両方を経験した兵士による戦記。

 著者の所属する第18師団(菊兵団)の歩兵第124連隊は、太平洋戦争開戦後、ボルネオ島、セブ島、ミンダナオ島攻略作戦に勝利し、その後ガダルカナル島の戦いに参加して壊滅。戦力再建後、新設の第31師団(烈兵団)に配属替えとなり、ビルマ戦線に投入。インパール作戦やその後の撤退戦を戦い抜き、ビルマ南部で終戦を迎えている。著者は、開戦から終戦までこの連隊に所属し、ガダルカナル戦とインパール作戦の双方を体験した人物である。

 本書は、極めて陰惨な戦場を描写した戦記であるにもかかわらず、意外に読みやすい一書である。それは著者自身の個性と、その文才による部分が大きいのではないかと思う。気性の荒い北九州の部隊で、他部隊からの食糧徴発(一言で言えば、泥棒)をいとわない「ゴロツキ連隊」である124連隊の様子と、誰に対しても遠慮なく物を言う、横紙破りの「万年上等兵」である自分自身の振る舞いを、著者はユーモアを交えた筆づかいで描いていく。こうした著者の旺盛なバイタリティや、権威に盲従しないたくましさ、危機に際して臨機応変に行動できる明敏な頭脳、そして、飢餓や病の中でも最後まで諦めない強靱な精神と身体が、生還という「奇蹟」を著者にもたらしたのではないかと思えた。

 とはいえ、著者が戦った戦場は、やはり悲惨の一語に尽きるものである。昭和19年8月頃、烈兵団の殿部隊としてインパール戦線から退却する中で、著者は以下のような光景に遭遇している。

「私たちは死体をふまぬように、よけて歩きながら、山の中腹から下を見れば、ふもとの方に大きな竹林が見え、その中にきれいな小川が見えてきたので、かっこうの休憩場所とばかり、急いで竹林に近づくと、またもや急に腐乱死臭がプーンと鼻をついてきた。竹林の中へはいってみて、また驚いた。
 ああ、なんという惨状!
 竹林のなかの川渕の砂床には、日本兵の死体が二百? あるいは三百もあろうか? すでに白骨化したもの、あるいは腐乱した死体。まだ生きている傷病兵の全身に、頭髪を白髪と見ちがえるほどウジがいっぱいにわいている者あり、またある者は、大きなウジ虫が、目といわず鼻孔、口、耳穴、傷口から、出たり入ったりしているではないか。
 川に頭を突っ込んで死んでいる兵隊は、下痢で苦しんだのか、下半身はだかで、その肛門からは、大きなウジ虫があふれ出ていた。
 ガダルカナルも悲惨だったが、それ以上に悲惨きわまりなき、地獄絵図だった」

 こうした無惨な結果をもたらしたインパール作戦を、著者は、以下のように総括している。

「愚将のもとに万骨枯れたこの大悲惨事は、世界の戦史にのこした日本陸軍の恥であろう。
 愚将牟田口将軍のもとに、万骨枯れた英霊の無念を思えば、故人となった将軍の死屍にムチ打っても、なおあまりある痛恨かぎりなき地獄の戦場であったといえる」


(補記)
 前回の記事でも少し触れたが、最近、インパール作戦の実態を意図的に無視したり、捏造したり、論点をすり替えたりして、無理やりこの作戦を肯定しようとする、異常な歪曲工作を時々見かけるようになった(例えば、このリンク先で批判されている記事)。
 このような、まともに戦記も読まずに書かれた悪質なフィクションが、近年になって表に出てくるようになったのは、そんなものを読んだら本気で激怒するであろう生還将兵の方々が、多く鬼籍に入ってしまったことが大きな要因だろうか。

 なお、ここここのサイトに、作戦参加将兵の証言が掲載されているので、合わせて紹介しておく。国のために力を尽くされた方々の重い証言であり、傾聴すべきものであろう。


posted by A at 10:15| 本(戦記) | 更新情報をチェックする